Smilax

 部屋の入り口付近が一瞬ざわついた空気に包まれ、ジャーファルは顔を上げた。緑色のクーフィーヤを固定するイカールの飾り石を揺らして首を傾げ、目を眇めて遠くを見据える。
 そして彼は、嗚呼、と緩慢に頷いた。
 波が引くように左右に割れた人ごみを避け、若い女性が息を切らして走ってくるのが見えた。顔色は酷く悪く、額は汗びっしょりだった。
「ジャ、ジャーファル、様」
 最近良く顔をあわせるようになった女官の表情だけで、何が起こったのか、大体の想像がつく。椅子を引いて立ち上がった彼を仰ぎ見て、最近王城に召し上げられたばかりの女官は限界だったのか、その場でがっくり膝をついて倒れこんでしまった。
 細い肩を激しく上下させて息を整える女性に、見かねた文官のひとりが手を差し出した。中には自分のために持ち込んでいた水差しを取り、木製の杯に注ぐ男もいた。
 にわかに活気を取り戻した室内を雑に見回して、ジャーファルは執務机を回りこんで疲弊しきっている女官の前に身を屈めた。
 長い裾を踏まぬよう注意しつつ目線を低くし、突然のことに驚いてもたついている文官には手で合図を送る。このまま仕事を続けるようにとの指示に、彼らは三秒ほど置いてから慌てて頷いた。
 城詰めの女官は、文官たちとは違う服装をしていた。
 上下に分かれた着衣は布面積が狭く、生肌を大胆なまでに露出していた。殊、まだ歳若い男たちにとってはかなり目に毒だろう。目のやり場に困っている数人を窺って、ジャーファルはまだまともに喋れそうにない女官に肩を竦めた。
「いなくなったんですか?」
「はっ、……は、い」
 静かに問えば、彼女はさっと血の気の引いた顔で渋々首肯した。
 藍色の瞳が左に流れ、ジャーファルを見ようとしない。失態を詰問されて職を解かれてしまう可能性に今更思いつき、悔やんでいるのだろう。
 非常に分かり易い反応に苦笑を浮かべ、彼は袖の中に引っ込めた手を緩く握り締めた。
「そうですか」
 動揺は出来る限り顔に出さぬよう努め、ため息と同時にそっと言葉を吐く。落胆を込めた呟きに、女官は色の悪い唇を震わせた。
 けれど待ったところで、彼女は何の弁解もしなかった。
 この国の政務を一手に引き受ける八人将を前にして、見苦しい言い訳は通用しないと諦めたのか。その潔さは良しとして、彼は詳しい事情を聞くべく彼女に起立を求めた。
「皆はこのまま、職務に励むよう」
 そう言い残し、先に立って歩き出す。まるで死刑執行を待つかのような顔をして女官が続き、政務官の執務室は一瞬微妙な空気に包まれた。
 またか、という誰かの囁き声が聞こえてきて、ジャーファルは靴底で思い切り床を蹴り飛ばした。
 仰々しい物音にびくりとした文官が、慌てた様子で書簡を抱えて走り出した。その丸々とした背中をちらりと盗み見て、国王不在の下、ひとりで国政を取り仕切っている若者は深いため息をついた。
 ここは南洋に浮かぶ島国、シンドリア。僅か一代で浮世に名を馳せる強国を築き上げた賢王は、現在本国を留守にして海上の人となっていた。
 彼はバルバッドでの騒動の最中に煌帝国の皇女と取り交わした約束を果たすべく、彼の強国に初めて足を踏み入れようとしていた。数人の信頼出来る部下を伴い、敵地に自ら出向こうとしていた。
 それを考えるだけでも気が重いというのに、留守を預かるジャーファルにはもうひとつ、頭が痛い難題が存在していた。
 詳しい経緯を聞き、女官と別れる。無罪放免とまではいかないまでも、すぐに失職とはならなかったことに安堵の息を吐き、彼女は深くお辞儀をしてなかなか顔を上げようとしなかった。
 大袈裟だと苦笑して仕事に戻るように言いつけ、彼自身は職務を放棄して白羊塔を後にする。目指すのはその隣に聳え立つ緑射塔だ。
 やらなければならない仕事はまだまだ山積みなのだが、今戻ったところでどうせ手につかないのは分かりきっている。それに書類仕事など、寝る時間を削ればいくらでも、どうとでもなった。
 だが女官が息せき切らして伝えて来た内容は、放っておけば事態が悪化するばかり。苦楽を共にしてきたシンドリア国王シンドバッドから直々に任せられていることもあり、捨て置くわけにはいかなかった。
 開放的な回廊を抜け、階段を登って建物の中に入る。人気は少なく、壁に覆われた空間は閑散としていた。
 文官が政務に勤しむ白羊塔とは違い、ここは食客や賓客のための宿泊施設だ。利用者がいなければ静かなのは当たり前なのだが、到着した階からも物音ひとつ響いてこなくて、彼は露骨に眉を顰めた。
 この先にある部屋には、現在三人の子供が逗留していた。
 だが、誰もいないのか話し声のひとつも聞こえない。慎重に歩を進めて扉をノックしても、反応は一向に得られなかった。
「戻ってないか」
 部屋から忽然と消えたという報せを受けているのだから、早々にこの場に帰ってくるとは考えづらい。それでも自分で確認せずにはいられなくて、ジャーファルは矢張り空振りだったと自分自身に苦笑した。
 扉自体に鍵は掛かっていない。軽く押しただけで、ドアは軋んだ末に内側に開かれた。
 正面には複数の窓が並び、涼しい風が吹き込んでいた。クーフィーヤが裾をはためかせ、巻き込まれた襟足が突風に擽られる。イカールごともっていかれそうになり、彼は左足を引いて身体を斜めに傾けた。
 左手を頭上にやって布を押さえ込み、薄目を開けて室内を眺めるが人の姿はどこにも無かった。
 誰かが寝起きしたと分かる大きな寝台が真っ先に目に入った。部屋のほぼ中央には、すっかり冷めてしまった朝食がテーブルいっぱいに、ところ狭しと並べられている。乳で甘く煮た粥は胃腸の弱った子供にはうってつけなのだが、手を付けられた形跡は見られなかった。
 使われることのなかった水差しが汗を掻き、ジャーファルを見上げていた。小鉢に彩りよく盛られたサラダは萎びており、程よく焼き上げられた魚も固くなっていた。
 所々食い散らかされた跡があるが、いずれの傍には鳥のものらしき羽が落ちていた。丁寧に磨かれた匙は全く汚れておらず、動かされた様子も見出せなかった。
 色々な匂いが混じった空間にひとり佇み、彼は力なく首を振った。
「今日も、駄目ですか」
 疲れが滲み出た声で呟き、風に乱されたクーフィーヤを引っかく。今日何度目か知れない嘆息と同時に肩を落として、ジャーファルは手付かずの乳粥に匙を押し当てた。
 表面には薄い膜が出来ていた。それを破いて乱暴に掻き回し、一気に濃くなった乳の臭いに臍を噛む。こんなことをして何になるのかと苛立ちを吐き捨てて、彼は足元に汚れた匙を放り投げた。
 ガンッ、と耳に痛い音が響いた。唇を噛み締めて歯を食いしばっていた彼の鼓膜を、自分のものではない呼気が掠めた。
「っ!」
 他人が息を飲む気配にはっとして、急ぎ振り返る。大袈裟な動きに驚いた少女は、開けっ放しの扉に寄りかかることで崩れそうになる身体を支えていた。
 他に類を見ない、燃えるような赤い髪が肩の上で軽やかに踊っていた。地上最強の呼び声も高い戦闘民族ファナリスである彼女は、その屈強な足腰を裏切って力なく蹲ると、今にも泣きそうな顔をして首を振った。
 ジャーファルの顔を見て、緊張の糸が切れてしまったのだろう。涙を流しはしないけれど困り果てた表情をして、平らな床に爪を立てて固い拳を作り出す。
「モルジアナ」
 顔なじみの少女の名を呼んで、ジャーファルは投げた匙もそのままに急ぎ戸口へ舞い戻った。
 ファナリスは強靭な肉体に加え、嗅覚や聴覚も人のそれを遥かに上回っていた。彼女であれば部屋から姿を消した少年を探すのも容易であり、これで手がかりが手に入ると喜んだ矢先。
 助け起こそうとする手を拒み、モルジアナは項垂れて背中を丸めた。
「すみません」
 掠れる小声で囁いた少女に、ジャーファルは眉を顰めた。
「モルジアナ。アリババ君と、アラジンは」
 謝罪の理由が分からなくて当惑しつつ、今一番必要な情報を求めて問いかける。だが彼女は黙って首を振るばかりで、質問に答えようとしなかった。
 生真面目で義理堅い彼女は、仕事熱心な反面融通が利かない。恐らくはアリババに口止めされているのだろう。モルジアナとの付き合いの長さや関係の深さを比べれば、ジャーファルは到底彼に及ばなかった。
 ジャーファルの最大の懸念は、つい先日解体されたばかりのバルバッド王家の血を引く、ひとりの若者だった。
 ラシッド元国王の妾の子にして、先王の弟。金の髪に金の瞳を持つ少年は、ラシッド王の三人の息子の中で最もサルージャ家の血を濃く引き継いでいた。
 母親の身分が低いという理由でスラムに生まれ育ち、その後王城に引き取られたものの訳あって出奔。その後たったひとりで苦難の道を生きて来た彼は、どういう因果か迷宮を攻略し、ジンの力を得て故国へと返り咲いた。
 そして圧政に苦しむ国民を救うために血筋による特権を否定し、王政を廃して共和制への移行を決定した。
 口で言うのは簡単だが、実行するのはそう簡単ではない。いわば国民ひとりひとりに国を動かす責任が圧し掛かる訳であり、字も書けぬ、読めぬ者が大勢いる中で、いきなり政治を執れというのは些かどころかかなり無謀な試みだった。
 しかし彼は出来ると信じていた。ひとりひとりが信念を持って臨めば、どんな苦難も乗り越えられると断言した。
 それでも事は、彼の願う通りには進まなかった。
 希望を掲げて始まったバルバッド共和国は、その翌日から――辛うじて独立という体裁は保たれたものの――煌帝国の支配を受けるようになった。
 また彼は、この一連の騒乱の最中に唯一無二とも言える友人を失った。
 世に暗躍する組織によって操られた若者は、何ひとつままならぬ世界に絶望し、運命を呪った。
 恨み、憎んだところで事態が好転するわけではない。だがそう知りながらも他に術が無かった青年は、最後、幼き魔法使いの導きにより長年のわだかまりを解き、アリババと和解してこの世を去っていった。
 さりとて、残された少年がひとつも傷つかなかったわけではない。
 幼馴染だった。寄る辺でもあった。幼くとも自立したひとりの人間として、地に足をつけて立つ彼の心を築き上げた大きすぎる存在だったのだ。
 対立が決定的になった後も、アリババはカシムに訴え続けた。斃すより他に道が無い状況に陥っても尚、彼は刃を向けずに済む方法を懸命に模索していた。
 或いは喧嘩別れしたままだったなら、アリババが負う心の傷も幾ばくか浅かったかもしれない。
「探さないで欲しいと、言われています」
 苦しげに声を搾り出し、モルジアナが拳を震わせた。
 握り締めすぎた手が色を悪くし、指は筋張って痛そうだ。皮膚に爪が食い込んでおり、いつ表皮が裂けて血が滲むか分かったものではなかった。
 苦悶の末にそれだけを告げた少女に小さくため息をつき、ジャーファルは手付かずで放置された食事を振り返った。
「アラジンも一緒ですか?」
「……いいえ。アラジンなら、広場の噴水の傍にいます」
「そうですか。ありがとう、君も休みなさい。それと、ちゃんと食事は摂るように」
 あそこに並べられているのは、子供たち三人分だ。朝方、女中が運んでそのまま放置されて、今に至っている。
 ちくりと釘を刺すのも忘れず、ジャーファルは項垂れる少女の肩を叩いた。この程度で慰めになるとは思わないが、触れた体温にホッとしたのか、彼女は頭を垂れて頷いた。
 海上からバルバッドを封鎖した煌帝国の船団を前に、アリババはひとりきりでも戦う意志を示した。だがその決断はあまりにも軽率であり、折角存えた命を散らすことになりかねなかった。
 故にジャーファルはシンドバッドと結託し、密かに彼をシンドリアへと連れ出した。
 その選択自体は間違いでなかったと、ジャーファルは今も思っている。疑っていない。けれどアリババにとって、大人が勝手に下した裁断は、未だ苦難の只中にある故国を見捨てる事と同義だった。
 親友の命を奪ってまで守り抜いた国に背を向けて、どうして安寧と生き永らえられようか。深い悔恨に襲われ、涙して無為に日々を過ごす彼を見ているしか出来ない辛さは、彼への思い入れが深い者ほど厳しいものがあった。
 少しでも気晴らしになればとあれこれ手を変え、品を変えて試してみたが、アリババの食欲は日を追うごとに減退していた。今では一日一食あれば良いほうで、どれだけ豪勢な料理を用意しても、無駄に終わる事の方が圧倒的に多かった。
「何が不満なんだか」
 アリババたちをシンドリアに保護してすぐ、子供たちの庇護者であるべき男は船の上の人となった。紅玉姫との約束を実現すべく、遠く離れた帝国へ出向かねばならない道理は分かる。だが見方を変えれば、シンドバッドの行動はあらゆる責任から尻尾を巻いて逃げ出したとも言えた。
 押し付けられたジャーファルは、お陰でこのところずっと頭が痛い。
 暖かな寝床も、食べきれないほどの食事も用意してやった。あの年頃の少年ならば誰だって興味を持つだろうからと、若く美しい女性まで宛がったというのに。
 彼はジャーファルの善意をことごとく無視し、拒絶し、無言の抵抗を続けていた。
 薬を使って眠らせ、闇に乗じて船に乗せたことをまだ恨んでいるのか。生まれ育った国と心中させてもらえなかったと、独断専行を働いた大人を憎んでいるのか。
「……死なせられるわけがないでしょう」
 彼は迷宮攻略者であり、ジンの使い手だ。無闇に命を散らされるのも、煌帝国に奪われるのも、シンドリアにとって歓迎せざる未来だ。
 だからこんなところで餓死されるのは困る。折角手に入れた貴重な戦力をここで喪うようなことがあれば、シンドバッドに何を言われるか分かったものではない。
 だが現実問題として、どうすれば彼が心を開いてくれるのかが分からない。
 アリババは着実に衰弱している。その先に待つのは、骨と皮だけになって朽ち果てる哀れな未来だ。
「――っ!」
 瞬間、ぞわりと来る悪寒と共に薄暗い光景がジャーファルの脳裏に流れた。
 饐えた臭いが立ち込めて、黒い羽の鳥が暗い目を光らせる。伏して動かぬ屍が積み重なり、握り締める刃からは鮮血が滴り落ちる。
 断末魔の声が鼓膜を震わせる。ぬるい体液が肌を伝う。拉げた眼球が虚空を仰ぐ。砕けた頭蓋から、脳漿が止め処なく流れていく。
 しゃれこうべが嗤った。びゅうびゅうと風が吹いた。獣が物陰で息を潜める。餌になるのが嫌ならば、餌を絶えず提供するしかなかった。
 長く埋もれていた記憶が不意に蘇って、背筋を駆け抜けた寒気に彼は息を呑んだ。
 等間隔に並ぶ柱に寄りかかる形で足を止め、腕を覆った鳥肌が治まるまで暫く立ち尽くす。緑射塔から白羊塔に続く回廊の一角に佇んで、ジャーファルは呆然と見開いた目で虚空を見据え続けた。
 気がつけば利き腕が震えて止まらない。一生消えることのない痣が蛇のように巻きつく右腕を左手で握り締めて、彼は奥歯を噛んであふれ出そうになる声を堪えた。
 獣のように雄叫びを上げたくなり、それを理性だけで押し留める。脂汗が首筋に滲み、不快感に吐き気がした。
 未だ止まぬ震えもそのままに口を覆って、彼は荒い息を吐いて苦い唾を飲み込んだ。
 ぼろきれのような服を着て、腐敗臭漂う場所で生きてきた。そこには人というものは存在せず、あるのは人殺しとしての道具だけだった。
 光溢れる世界など知らなかった。失敗すれば即命を失う環境が当たり前だった。代わりはいくらでもいた。自分というものは、屍から這い出てくる蛆虫と大差ないと思っていた。
 違うと教えてくれたのは誰だったか。
 生きる意味を、意義を。
 目的を。
 希望を、教えてくれたのは誰だったか。
 シンドバッドはどうやって、暗闇の中で息を潜めていた子供を光溢れる外へ引きずり出したのだろう。
「……ああ」
 そういえばあの男も、最初は豪勢な食事で人を釣ろうとしていた。
 不意に思い出し、ジャーファルは苦虫を噛み潰したような顔で笑った。
 額の汗を拭って、傷の残る腕を官服の上から撫でてやる。あれほど激しかった震えは、いつの間にか止まっていた。
 胸いっぱいに吸い込んだ空気を一気に吐き出し、彼は威勢良く右足を前に繰り出した。周囲に轟くほどの足音を響かせて早足で廊を行き、遠くからも目立つ赤髪の巨体を探し当てて声高に叫ぶ。
 この国で最も嗅覚の優れた若者は、昨日までと打って変わって妙にやる気に溢れた政務官に首を傾げつつ、嗅ぎ取った匂いの主の居場所を大雑把に口にした。
「ありがとう、マスルール」
「どうも」
 軽やかに礼を告げられて、マスルールは怪訝にしつつ頷いた。
 久方ぶりに見る笑顔から、長く抱え込んでいた難題が解決したのだろうと勝手に納得する。長年の戦友がそんなことを考えているとは露知らず、自分が笑っている自覚もないまま、ジャーファルは教えられた場所へと急いだ。
 邪魔になる官服の裾を摘んで持ち上げて、次第に濃くなっていく緑の匂いに胸を満たす。ふと視線を上向ければ、木漏れ日が眩しく輝いていた。
 あの頃は、この光を美しいと感じることすらなかった。
 食事の量を減らしているのはアラジンも同じだが、彼は自ら選んだ王が気落ちしているのに、それを慰められない自分自身に落ち込んでいるだけだ。アリババが活力を取り戻せば、マギたる少年も食欲を復活させるだろう。
 息を切らして走り、耳朶を掠めた水の音にはっと息を呑む。意識の片隅を黒い破片が駆け抜けて、止めた足の先を見れば黒い虫が一列に並んで行進していた。
 蟻だ。小さいながらも強靭な顎を持ち、群れを成して巨大なコロニーを築き上げる昆虫の集団が、ジャーファルの目指す先に徒党を組んで押し寄せていた。
 その色の所為か、まるで葬送の列を見ている気分になった。嫌な予感を覚えて背筋を粟立て、彼は咄嗟に行列を蹴散らした。
「アリババ君!」
 発作的に名前を叫び、鬱蒼と茂る森の奥に目を凝らす。
 返事は無かった。だが物陰で何かが反応し、ぴくりと動いたのをジャーファルは見逃さなかった。
 駆け出したい気持ちを堪え、彼は袖の中で拳を作った。ここで逃げられたら元も子もないと己に言い聞かせ、慎重に足を進めて柔らかな地面を踏みしめる。
 シンドリアが建国されるずっと以前からここに根を下ろしていただろう巨樹を回り込めば、太く立派な根元に蹲る小さな少年が目に入った。
 色を悪くした金紗の髪はしな垂れて、普段は跳ね気味の毛先も萎れていた。後ろからでも骨ばっていると分かる体躯は酷く脆弱で、押せば簡単に折れてしまいそうだった。
「アリババ君」
 ジャーファルは声を潜め、改めて彼の名前を呼んだ。
 巨人の邪魔を受けてもなお、蟻は列を形成していた。この先によほど魅力的な食べ物があるのだろう、それらは彼の木靴を避けて一心不乱に地面を這い回った。
 その終着点手前に座り込む子供は、呼ばれているというのに返事もせず、振り返りもしなかった。
 眠っているのか、それとも。
 心臓を抉られる恐怖を覚えて総毛立った彼の胸の内を知ってか知らずか、アリババは折り畳んだ膝を両手で抱きかかえると、背中を一層丸めて小さくなった。
「ジャーファルさん」
「はい」
 淡々と名を告げられて、ジャーファルは間髪入れずに頷いた。
 心を落ち着かせようと深呼吸を繰り返し、そっと立ち位置を変えてアリババの足元を窺う。葬送の列はそこで折り返し、歓喜の列へと変貌を遂げた。
 そこにあったのは、屍だった。
 腐りかけの肉の臭いがした。鳥だろうか、周囲には無数に羽が散っていた。そのどれもが土に汚れ、命が失われてからの時間を教えてくれた。
 沈黙が続いた。アリババは下を見たまま動かない。既に原型を留めていない死骸をじっと見つめる背中は、一切の干渉を拒んでジャーファルを受け付けていなかった。
 だからといってこの場から去るわけにもいかず、彼は辛抱強く次の言葉を待った。
 やがて、どれくらいの時間が過ぎた頃だろう。
 アリババがぽつりと呟いた。
「ジャーファルさん、は」
「はい」
「……屍肉を食べたこと、ありますか」
 抑揚に欠けた問いかけに、彼はすぐに返事が出来なかった。
 イエスかノーかだけなら、当然前者だ。日々の食卓に並ぶ料理は、野菜や果物ばかりではない。鳥や牛や豚の肉も当然皿に盛られ、胃袋へと収められる。
 それらは屠られた後の肉だ。よほどの例外でない限り、魚であっても生きたまま供されることはない。
 だがアリババが聞きたいのは、そういう話ではないはずだ。
 数秒の逡巡、そして深く長いため息を経て、ジャーファルは頭を覆うクーフィーヤを抓んだ。イカールが転がり落ちていかないよう注意を払いつつ、真下に引っ張って布を取る。
 汗ばんだ髪が大気に晒され、篭っていた熱が一気に解き放たれた。
「君は?」
 狡いかと思いつつ、質問で返す。だがアリババは咎めようとはせず、数秒間黙った末に肩を揺らした。
 動きにあわせて金の髪が揺れた。表情は見えない。推し量るしか出来ないジャーファルは選択を誤ったかと心を震わせ、下唇を浅く噛んだ。
「俺は、……あります」
 だが後悔に苛まれていた耳に低い声が届けられて、ジャーファルははっとして顔を上げた。
 色白の手が地面に横たわる死骸を撫でた。群がっていた蟻を追い払い、肉が削げて露出している骨を臆することなくなぞって死せるものに哀悼を捧げる。
 けれど一度押しのけられた程度で蟻は諦めず、邪魔する指を避けて別のルートを辿り出した。
「アリババ君」
「俺は、食べたことあります。道の外れで、変な臭いがしたけど。俺は世間知らずで、城から持って出た荷物も金も簡単に騙し取られて。このままのたれ死ぬんだって思ってた時に、それが目に入って」
 たどたどしく紡がれる声は、風が吹けば消えてしまうか細い灯明だった。
 時折激しく揺れ動き、焦げ付く悪臭を放ったかと思えば不意に荒々しく燃え盛る。周囲の影響を過分に受けながらも自らの力で炎を存えようと足掻く様は、今のアリババの姿に等しかった。
 スラムの子供から突然王の息子となり、幼馴染の裏切りに遭って間接的に父を死に追いやった。まだ幼かった少年は己の愚行と罪の重さに耐え切れず、夜のうちに城を出て行方をくらました。
 その後の彼の消息は、本人しか知りえない。
 簡単ではなかったはずだ。たかだか十歳そこらの子供が大人と対等に渡り歩こうなど、無謀以外のなにものでもない。
 彼を守ってくれる存在はない。逆に痛めつけ、傷つけ、容赦なく突き放す者が大半だ。
 一部の特権階級を除き、どこの国の民も生活は苦しい。自分の身ひとつ守るだけでも精一杯の者たちが、どうやって赤の他人にまで慈悲深く接せられるだろう。
 金を稼ぐ術もなく、王城で学んだ知識もさほど役に立たず、彼は途方に暮れたはずだ。それこそ路上に転がる死骸にまで手を伸ばさねばならぬのも無理ないほどに。
 想像し、背筋がぞっとした。同時に思い出した。肉を抉る刃の感触を。傷口から噴出する鮮血の生暖かさを。
 また腕が震え出す。反射的に左手で肘を押さえ込み、ジャーファルは首筋に温い汗を流した。
 突然、アリババは笑った。
「死に掛けてたのに、もっと死に掛けましたよ。味なんてしなかった。食べられたら、なんだって良かった。でもすぐに腹が痛くなって、身体はだるくなった。下痢は止まらないし、吐き気も酷いしで」
 高熱が出て、意識は朦朧として立ち上がることも出来なかった。泥水を啜れば飲み込む前に全部吐き出して、体中の水分があらゆる場所から外に排出されて止まらなかった。
 全ての関節が軋み、激痛に息をすることさえままならない。三日三晩のた打ち回り、幾度と無く死を覚悟した。偶然道を通りかかった親切な人に拾われていなければ、アリババは今頃、道端に埋もれる白骨と化していただろう。
 そう、自らが食らった屍肉と同じように。
「その後も何度か死にそうな目には遭ったけど、あれが一番、きつかったかなあ」
 誰も助けてくれない。誰も気にかけてくれない。
 ここにいるのに、まだ生きているのに、空気のような存在として誰からも見向きされない。
 あの場で死んだ獣は、いったい何のために生まれてきたのだろう。草むらの中で朽ち果てて、腐ろうとしていた命は、食らった者を生死の縁に追いやる以外でこの世に何かを残せたのだろうか。
 死を目前にした出来事を笑い話にして懐かしむ子供に、ジャーファルは合いの手ひとつ挟めなかった。
 灯明が尽きようとしている命を沢山見てきた。その殆どは、この手で屠ってきた命だ。懸命に輝こうとする炎を、彼は残酷に、無慈悲に、吹き消してきた。
 あれらの命がもし今も続いていたら、世界は違う形になっていただろうか。絶望や憎悪が渦巻く暗澹とした大地に、色鮮やかな花が咲いただろうか。
 命があるのは、何のため。
 屍を踏み越えて、食らってまで生き延びるのは何のため。
 ただ命じられたというだけで、数多の屍を築いてきた。それが当たり前だった。それ以外に存在する意味など無かった。
 違うと教えてくれたのは。
 そうじゃないと最初に言ってくれたのは。
「君はその時、何を考えていたの」
 ジャーファルは握り締めていた袖を解放した。ゆとりのある布が大きく波を打つ。同時に緑の布を手放せば、風を受けて膨らんだクーフィーヤがゆらり、ゆらりと踊りながら地表へと舞い降りた。
 蟻が群がる死骸を隠し、優しい色がアリババの視界を満たした。
 真後ろに立った男を振り返りもせず、彼ははっと息を呑んだ末、嗚咽を堪えて震える上唇を噛み締めた。
「いやだな、って……」
 見上げる空は青かった。途方も無く広かった。
 自分の小ささを感じた。醜さを痛感した。
 それでも尚、生きていたいと願った。
「おなじになるのは、いやだ。なにもしてないのに、できてないのに。腐って終わるなんて」
 打ち捨てられた獣の死骸と同じにはなりたくなかった。食べた者を腹痛に追いやる以外に何かを残したかった。自分は鳥に啄ばまれ、蟻に群がられ、蛆が沸き、分解されて最後は植物の養分となる為だけに産まれてきたのではない。
 そんな終わり方を迎えるために、父と母に愛されたのではない。
「……それは、君だけ?」
 言葉を選び、ジャーファルは膝を折った。官服を踏まぬよう身を屈め、一向に顔を上げない少年の背に背を重ねて地面に腰を据える。
 視線が低くなったからこそ見える景色もあって、彼は遠くから聞こえる船の警笛に耳を澄ませた。
 左膝を立て、右足は前方に投げ出して伸ばす。こんな姿勢で座ったのも久しぶりで、椅子に腰掛けるよりずっと楽だとジャーファルは相好を崩した。
 凭れ掛かられて、返事を保留していたアリババは緩やかに隆起している緑の布に手を伸ばした。
「いいえ」
「君は“彼”も、道端の屍肉と同じにしたい?」
「……いいえ」
 狩りの時間が終わりに近づいているとみたか、蟻の動きが早まった。アリババは矢張り生きるのに必死な虫たちに頭を垂れ、真新しいクーフィーヤごと死した鳥を抱き上げた。
 布に包まれた小さな塊に顔を伏し、ジャーファルは虚ろな眼差しの少年に手を伸ばした。
 後ろから目元を覆い、強引に顔を上げさせる。
「今のは少し意地悪だったね。ごめん」
 抗わなかった彼の耳元で囁いて、ジャーファルは指の位置をゆっくりずらしていった。木漏れ日が落ちて、彼の白い肌を照らし出す。そのまま頭を抱いて髪を撫でてやっていたら、さすがに眩しかったのか、アリババがかぶりを振った。
 頬に透明な涙をひと雫零し、唇を噛んで今度は彼からジャーファルに寄りかかる。
 預けられる体重と体温の心地よさに慰められているのは自分だと、生きるのを止めないと決めた子供を抱きしめて、ジャーファルは目を閉じた。

2013/05/22 脱稿