暑気

 ワラビ餅の移動販売の声がする。カーテンを揺らす温い風に顔を上げ、綱吉は小ぶりの鼻を膨らませた。
 そんな事をしたところで匂いが嗅ぎ取れるわけがない。やってから恥じ入った彼は、誰も見ていないというのに頬を赤らめ、椅子の上で身じろいだ。
 パイプがギシギシ言う中、腕を持ち上げて背筋を伸ばす。長く机に向かって猫背になっていた所為で、動かす度に何処かしら骨が軋んでポキポキ音がした。
「んー……っと、わわっ」
 両足も前に出して壁を蹴り飛ばしたら、バランスを崩して落ちそうになった。慌てて前のめりに体勢を替え、机の縁にしがみ付く。その上で、さっきから何をやっているのかと自分に苦笑する。
 居住まいを正してTシャツの上から胸を撫で、彼は机上に散らばる色鉛筆を拾い集めた。赤、青、緑、オレンジと、総数は二十本近い。
 うち何本かが、際立って短かった。使用頻度が高いのだろう、子供達が普段お絵かきしている内容を思い浮かべながら、綱吉は肩を竦めた。
「削らないとダメかな」
 青色の芯が特に減っていて、このままでは書けない。木の部分を削って芯を尖らせる必要があって、彼は記憶を手繰りながら一番上の引き出しを引いた。
 学校の授業も、家で宿題をする時も、大抵シャープペンシルを愛用している。刃物で削る必要が無いので楽だが、その分替え芯が切れてしまっていた時の悲惨さは計り知れない。
 鉛筆の使用頻度は、昨今はゼロに等しい。だから鉛筆削りとも縁が切れて久しく、あるのは万が一の為に買っておいた携帯用の、小型の削り器だけだ。
 色々なものが詰め込まれている引き出しを探り、苦労の末に目当ての品を見つけてホッと胸を撫で下ろす。カッター部分がやや黒ずんだそれを左手に構えた彼は、ゴミ箱を探して視線を浮かせた。
 机の上でやると、削り滓が散らばってしまうからだ。今更そんな細かいところを気にする必要も無いくらいに、部屋はゴミ屋敷さながらなのだけれど。
 心の中のツッコミに肩を竦め、存外に遠い場所にあった屑入れにがっくりして、彼は渋々立ちあがった。
「むぅ……」
 他に芯が心許なかった赤色と、黒も持つ。合計三本と小型鉛筆削りを手に、踵を返してベッドサイドに歩み寄る。
 何故あんな場所にあるのか。記憶を手繰った彼は、ベッドと反対側にあるテーブルに目を向け、小さく溜息をついた。
 机で作業に入る前に、あそこで菓子を食べていたのだった。食べ滓が指に張り付いて邪魔で、払い落とすのにゴミ箱の位置を変えたのを思い出し、綱吉は三時間ほど前の自分に肩を落とした。
「何で戻しておかないのかな、俺」
 自業自得だったと呟き、十センチ未満の色鉛筆を掌に転がす。膝を折って屈み、身構えたところで部屋の中に夏の風が吹き込んだ。
 ザッ、とカーテンが大きく揺らぎ、レールの上を滑る。少し暗かった室内に陽射しが紛れ込んで、置きっ放しの空のコップが反射で輝いた。
「うっ」
 鋭く尖った光が眼に飛び込んできて、咄嗟に身構えて顔を背ける。硬く目を閉じて低く呻き、彼は持っているものを強く握り締めた。
 鉛筆削りの角が掌に食い込み、少し痛い。二秒後に我に返って肩で息をして、綱吉は強張っていた頬を緩め、首を振った。
 下を見れば机から滑り落ちたらしい紙が一枚、足元に落ちていた。長方形で、短い辺は長さ十センチほど。厚みのある紙を拾い上げて顔の前に持って行き、彼は小さく舌を出した。
 手書きの下手な絵を裏返せば、同じく汚らしい文字で並盛町の住所が現れた。慣れ親しんだ地名の隣には、少し大きめの字でハルの名前が、フルネームで記されていた。
 色鉛筆は、飛んでしまった葉書を机に戻してから削ることにする。描き上げた当初は巧く出来たと思ったのに、時間を経てから見ると矢張り下手糞なイラストに笑みを零し、膝を伸ばす。
「なにが可笑しいの?」
「ふわっ」
 振り返ろうと、身体を捻る。直後に聞こえて来た声に目を見開いて、彼は素っ頓狂な声を上げた。
 零れ落ちんばかりに目を見開いて、白いカーテンが踊る窓を前に凍りつく。
 さっきまで、ほんの一分前まで、そこには誰も居なかった。窓の向こうはベランダで、空調の室外機がひとつ置かれているだけだ。地上から登る梯子が掛けられているわけでも、足場に出来るような出っ張りも何もない。
 毎回どうやって、と呆れずにいられない。例の如く神出鬼没な青年に瞬きを連発して、綱吉は直後、渋い顔をした。
「……玄関使ってくださいよ」
「面倒臭いじゃない」
 呼び鈴を鳴らしてくれればそれで済むのに、どうして彼はいつも人の部屋の窓に、直接やって来るのだろう。壁を登り、此処に至る方がよっぽど面倒だと思うのだが。
 世間一般の常識と、雲雀の持つ常識の間にはとても深い溝がある。両者が相容れる事は永遠に無さそうだと心の中で呟いて、綱吉は用件を問うて目を細めた。
 普段なら問答無用で入ってこようとする彼だけれど、今は窓枠に凭れかかるだけで、胸から下はベランダに出たままだ。それもまた珍しくて、小首を傾げて不思議そうにしていたら、雲雀は喉を鳴らして笑い、ご期待に添えようとばかりに腕を起こした。
 窓枠を握って身体を斜めにし、右足をまず持ち上げる。土足で室内に入り込もうとする彼にハッとして、綱吉は両手を振り回した。
「靴、靴!」
「入ったら脱ぐよ」
「それ、意味無いです」
 大慌てで窓辺に駆け寄って声を張り上げるが、彼はしれっとした顔で言ってのけ、綱吉を落胆させた。
 どんな育てられ方をしたのか、非常に気になった。傲岸不遜を絵に描いたような性格をしている彼を前に天を仰ぎ、綱吉は疲れた顔をして額を覆った。
 高い位置に持っていかれた葉書が揺れて、気になった雲雀がローファーを脱ごうとした手を止め、そちらに向き変えた。端を軽く抓んで引っ張り、引き抜く。
 さほど力を入れた訳でもないのに簡単に達成できて、若干拍子抜けに感じながら、雲雀はそれを裏返した。
「あっ」
 遅れて気付いた綱吉が、空っぽの掌を広げて上下に振った。
「なに、これ」
「返してください」
 描かれている下手な絵に真っ先に目が行って、雲雀が呟く。綱吉は声を荒げ、奪い返そうと距離を詰めた。が、上背のある彼にひょいっと避けられ、背伸びをしても届かない高さに掲げられてしまった。
 それでも諦めずに食い下がるが、雲雀もまた爪先立ちになって上を向いた。陽射しを浴びる白い葉書を食い入るように見詰め、裏表共に確かめた末に怪訝な表情を作り出す。
 そんな顔をされる謂われはなくて、綱吉は口を窄めて身を引いた。
「なに、これ」
 同じ質問を繰り返されて、彼は頬を膨らませた。
「なにって、見れば分かるでしょう」
 裏面に堂々と、でかでかと、色を三つも使って書いているのだ。分からない方が可笑しい。
 外の炎天下にやられて、頭が変になってしまったのか。日本語が読めないでいる雲雀を哀れみの目で見詰め、綱吉はもう一度腕を伸ばし、何度目かの正直で葉書を奪い返した。
 指の跡が少し残ってしまった。凹んでいる箇所を撫でて労わり、色鉛筆共々机に戻す。
 其処には同じようなイラスト入りの葉書が、他にも何枚か並べられていた。それらを一緒くたに眺め、雲雀は人差し指で顎を撫でて眉間の皺を深めた。
「どうして暑中見舞い?」
 訝しげに問いかけて、今度こそ靴を脱ぐ。右から順に脱いだそれを左手にまとめて持ち、窓から身を乗り出してベランダに置いた彼を見て、綱吉は深々と溜息をついた。
 どうせ外に置くのなら、先に脱いでおけばいいものを。その方が手間も掛からなくて済むだろうに、彼は綱吉のツッコミにまるで聞く耳を持とうとしなかった。
 いい加減学習して欲しい。願ったところで無駄だと分かっているが、思わずにいられなかった。
 彼がやり取りに飽きつつも、毎回きちんと反応してくれるのが楽しい雲雀は、懲りもせずに今日も同じ事を繰り返し、自由になった両手を叩き合わせた。
 乾いた音を間近で聞いて、綱吉は渋々彼に注意を向け直した。転がり落ちそうだった色鉛筆を弾き、ストッパーになる位置に鉛筆削りを置き変える。混雑する机に改めて目をやって、雲雀は左手を腰に添えた。
「なんでって」
「暑中見舞いの時期はもう終わったよ」
「へ?」
 今度は自分が憐れみの目で見下ろされて、面白くない綱吉は口をヘの字に曲げた。そこへいきなり言われて、青天の霹靂だった彼は吃驚仰天し、琥珀の目を限界まで見開いた。
 間抜けな声をひとつ発して、ぽかんと口を開いて停止する。瞬きすら忘れている彼にほとほと呆れ、雲雀は大仰に肩を竦めた。
「馬鹿?」
「なっ。ば、馬鹿って言う方が馬鹿なんですよ」
 喉を鳴らしながら言われてしまい、激高した綱吉が拳を作って上下に振り回した。実に子供じみた反論を叫び、雲雀の失笑を買って恥ずかしそうに顔を赤くする。
 茹蛸になった彼に呵々と喉を鳴らし、雲雀は顔を綻ばせて手を伸ばした。
 ぽんぽん、と頭を撫でられた。夏場でも元気一杯に跳ねている髪の毛は、硬そうに見えて実は意外に柔らかい。空気を含んでふんわりとした感触を楽しんで、雲雀は満足げに頷いた。
 適当に誤魔化されてしまった。馬鹿にされたとも言えるが、雲雀が思いの外楽しげに笑うものだから、つい許してしまいたくなって、綱吉は膝をもぞもぞさせた。
 クスクス声を漏らしている彼の脛を蹴ると、痛がりもせずに受け流された。雲雀は机の上の葉書に手を伸ばして全て裏返し、ちょっとずつ色柄が異なるイラストに目を細めた。
「暑中見舞い、ね」
「過ぎてるって、どういう事ですか」
「うん? だって、もう立秋を過ぎたよ」
「りっ、……しゅん?」
 聞き覚えのない単語が出てきて、綱吉は頭にクエスチョンマークを三つばかり生やした。目を真ん丸にして、本当に知らない顔をしている彼に嘆息し、雲雀はどう説明するか迷って視線を泳がせた。
 壁に吊るされたカレンダーは、八月だ。まだまだ暑い日が続いており、夏真っ盛り。テレビでも連日の炎天下と熱帯夜ぶりを伝えて、五月蝿いくらいだ。
 それなのに暦上ではもう秋だと言って、果たして綱吉は納得するだろうか。
「無理だろうな」
 傍らの少年を一瞥して呟き、雲雀はしっとり汗に濡れた黒髪を掻き上げた。
「ヒバリさん?」
「暑中見舞いはね、  小暑から大暑を過ぎて、立秋までの期間に、梅雨明けしてから出すものなんだよ」
 真ん丸い目で見詰められて、試しに呟く。壁を向いた彼が滔々と告げる内容を右の耳から左の耳に流して、綱吉は頭上のクエスチョンマークを増やした。
 全く分かっていない様子に閉口して、雲雀はやや乱暴に、綱吉の頭を掻き回した。
「ひあっ」
 いきなり上から押し潰されて、彼は首を引っ込めて可愛らしい悲鳴を上げた。嫌がって抵抗するが雲雀は一切無視し、一頻り撫で回して満足したのか、程無くして腕を引いた。
 怒らせていた肩を落とし、鼻息ひとつ吐いて唇を舐める。そんな彼を下からねめつけて、綱吉はすっかり乱れた髪の毛を手櫛で整えた。
 とはいえ、元々酷い跳ね方をしていたので、目ぼしい変化は生まれない。せいぜい右を向いていた毛先が左に傾く程度で、雲雀は堪えきれずに噴き出し、綱吉の不興を買った。
「二十四節気とか、知らないよね」
「なんですか、それ」
「日本は季節を四等分している、幾らなんでもこれは分かるよね。それを更に細かく、二十四等分したものだよ」
 春夏秋冬をもっと細やかにしたもの、と言われて、綱吉は分かっていないながらも頷いた。それは雲雀にも充分伝わっていて、彼は呆れ混じりの溜息を零し、続けて良いか問うた。
 首肯を待ち、先ほどの葉書に手を伸ばす。抓んで裏面を綱吉の前に示した彼は、そこに記されている大きな文字を指差した。
「暑中見舞いの暑中の意味、分かる?」
「夏の暑い中、でしょう?」
「はずれ」
「えっ」
 梅雨が明けて本格的な夏が来て、毎日暑くて大変ですが、お元気ですか。てっきりそういう意味合いを略したものだと思っていた綱吉は、きっぱり言い切った雲雀に目を点にし、裏返った声を上げた。
 案の定驚いている彼に目尻を下げ、雲雀は葉書を置いた。次々に表に返し、書かれた宛先を確かめていく。
 裏書がまだで、宛名だけ先に書かれているものもあった。イラストは多くが大空を背景に虹を描き、手前に向日葵と思しき花が置かれていた。机を見れば、端の方に小ぶりの百科事典が置かれていた。広げられたページは、向日葵そのものだった。
 花の大小、虹の角度はそれぞれ違う。手書き故の暖かさに包まれており、綱吉が下手ながら一所懸命描いたのが伝わって来た。
「……あんまり、見ないでください」
「綺麗に描けてる」
「お世辞はいいです」
 最後の一枚は裏表共に白紙だった。全部をひっくり返した雲雀を軽く叩き、続きを促した綱吉は、彼の手が引っ込むと同時に机の前に移動して、葉書を掻き集めて避難させた。 
 届かないところに持っていかれてしまい、雲雀は赤くなった手の甲を撫でて窓辺に後退した。
「暑中っていうのは、だから、さっきも言ったけれど」
 二十四等分された一年のうち、立秋の前の約十八日間を、暑中と言う。そこを過ぎれば、暦の上ではもう秋。しかし外の天候が現すように、まだまだ暑い日が続く。
 だから立秋後の挨拶は、残暑になる。
「残暑見舞い」
「そう」
 暑中見舞いとほぼセットで語られる、もうひとつの語句を口ずさんだ綱吉に、雲雀は鷹揚に頷いた。
 小暑を過ぎ、梅雨明けしてから、立秋に至るまでの期間に出すのが暑中見舞い。それを過ぎてから出すのが、残暑見舞い。今日はもう八月の真ん中なので、暑中見舞いは時期外れだ。
 雲雀が部屋に入って来た時、どうしてあんなにも怪訝な顔をしていたのか、やっと理由が分かった。なるほど、と腕組みをして納得しかけた綱吉は、頷こうとしたところではたと我に返り、低い葉書の山に顔を青褪めさせた。
「沢田?」
「ってことは、これ全部書き直し?」
 折角二時間以上もかけて描いたのに、苦労が水の泡だ。まだ裏を描いていない分は良いが、表裏共に完成したものに関しては、最初からやり直さなければならない。
 子供達から色鉛筆を借りて、ひとりこつこつ仕上げたというのに、なんたる事だろう。
 雲雀など来なければ良かったのに。が、知らずに出して恥をかいていたかもしれないと思うと、声高に彼を非難するのも憚られた。
 先に調べてから書き始めればよかった。三時間前の自分の迂闊さを悔やみながら上唇を噛み、綱吉は虹の横に大きく書いた「暑中お見舞い申し上げます」の文字を爪で引っ掻いた。
 裏には、獄寺の名前があった。
 彼の事だから笑って許してくれると思うのだが、返事を出すのが遅いのもあって、多少の顰蹙は覚悟せねばなるまい。
 ダラダラしているうちに時間ばかりが過ぎてしまって、盆前になってやっと重い腰を上げたというのに。
 葉書を前に深々と溜息をついた彼を眺め、雲雀は心持ち憤然とした表情を作った。
「ねえ」
「折角描いたのにー……はい?」
 苦虫を噛み潰したような顔をして唸っていた綱吉が、話し掛けられていると気付いて目を瞬く。琥珀色の真ん丸い瞳に映った青年は、怒り心頭とまではいかないものの、苛立ちを堪え、不機嫌にしていた。
 何をそんなに怒っているのか、綱吉にはさっぱり見当がつかない。確かに暑中見舞いと残暑見舞いの期間を間違えるという、馬鹿なことはしたけれど、それは雲雀には直接関係が無いはずだ。
「なん、ですか」
 若干臆しながら問うと、雲雀はこれ見よがしに大きな溜息をつき、両手を腰に当てた。
 外向きに広がった肘に、風に揺れるカーテンが絡みつく。白い布がまるで何処の誰かも分からない女の手に見えて、変な錯覚に陥った綱吉は慌てて首を振り、妄想を打ち消した。
 挙動不審な彼に右の眉を持ち上げ、雲雀は息を吐くと同時に肩を落とした。
「ないんだけど」
「はい?」
 いきなり言われ、綱吉は面食らった。
 元から大きい目をもっと大きくし、不遜な態度を崩さない雲雀を凝視する。だが彼はそこから先の言葉を口にせず、むっつり押し黙ってしまった。
 不愉快だと言わんばかりに睨まれて、鋭い眼差しに綱吉は弱りきった表情を浮かべた。
 いったい何が無いのか、さっぱり分からない。教えて欲しいのに雲雀はムスッとしたままで、自分で考えろとヒントすら与えてくれない。脇を締めた綱吉は幽霊のように胸の前で両手を垂らし、彼と、そして十枚にも満たない暑中見舞いの葉書とを見比べた。
「えぇぇ……」
「なんで無いの?」
「えっと、なに、が?」
 慌しく首を動かす綱吉に半歩距離を詰め、痺れを切らした雲雀が早口に捲くし立てた。だがまだ理解が追いつかない綱吉は、主語を欲して辿々しく問うた。
 その瞬間、雲雀は牙を剥き、発作的に拳を振り上げた。
「っ!」
 殴られる。咄嗟に両手で頭を庇い、綱吉は膝を折ってその場にしゃがみ込んだ。
 しかし待てど暮らせど、衝撃はやって来ない。想像した痛みに奥歯を噛み締めていた彼は、十五秒待ってから瞼を持ち上げ、目の前に聳え立つ長い脚を恐々仰ぎ見た。
 握り拳を震わせた雲雀が、懸命に感情を押し殺し、唇を噛み締めていた。
 短気を働かせないよう己を戒めるのに成功した彼が、深く肩を落として息を吐く。熱を帯びた長い溜息を浴びせられ、綱吉はバミューダパンツから覗く膝小僧に手を置き、立ちあがった。
「……なんですか」
 憤懣やるかたなしの視線を向けられ、頬を膨らませる。さっきの余波で、顔は強張ったままだ。
 顎を引いて距離を取ろうとする綱吉を睥睨した雲雀は、やがてある瞬間に目つきを百八十度入れ替え、悲しげな彩を浮かべた。
「これ」
「暑中見舞い、……あ、と。残暑見舞い?」
「僕宛てのが、無いんだけど」
「は?」
 指差されたものに目を向けて、綱吉は言い直した。
 もう面倒臭いし、仕方が無いので、「暑中」の部分を二本線で消し、隣に「残暑」とでも書き足してしまおう。そんな事を考えていた矢先に訊かれて、綱吉はきょとんとなった。
 宛て先の住所が最後まで記されているのは、全部で五枚。獄寺、山本、京子と了平の連名に、ハル、そしてクローム。
 名前だけ書き、住所が後回しにされているのが二枚。ディーノと、九代目だ。
 彼らはイタリア在住なので、エアメールにしなければならない。やり方がまだ分からないので、後でリボーンに確認するつもりだった。クロームの住所が黒曜ヘルシーランドで、果たして無事届くかは疑問だけれど、いざとなれば直接持っていくことも出来る。
 そして指摘の通り、雲雀の名前は、葉書のどこを探しても出てこなかった。
「えー……と」
「僕には?」
「え、ええ?」
 ようやく判明した「無い」が指していたもの。そんな気はしていたが、まさかと鼻で笑い飛ばすつもりでいた綱吉は、存外に真剣な顔をしている雲雀に絶句し、素っ頓狂な声を上げた。
 確かに雲雀への暑中、もとい残暑見舞いは、無い。出す予定すら、無い。
 瞬時に真っ青になった綱吉を力いっぱい睨み付け、雲雀は口を尖らせて、どうして、と繰り返した。
 机の縁を殴った彼に肩を強張らせ、綱吉は及び腰で目の前の青年に視線を投げた。
「だって」
「だって?」
「これ、俺に来た分の返事ですもん」
「…………」
 言い訳がましくボソボソ言えば、雲雀は黙った。
 彼の手がズルッと机から滑り落ちた。力なく垂れ下がった左手が、当て所なくぶらぶらと揺れた。茫然自失とした表情を浮かべた雲雀の目は、虚空を彷徨っていた。
 随分とショックを受けている彼に、幾らか申し訳なさを抱きつつ、綱吉は胸の前で指を弄り回した。
 夏休みに入り、梅雨明け宣言が出て暫くした頃から、ぽつぽつと届き始めた暑中見舞い。早く返事を出すよう奈々に言われていたが、面倒臭さが先に立って、こんな時期まで放り出していた。
 真っ先に獄寺から届いた。次の日に、ハルから。暫く置いて九代目とディーノから。更に少し経って笹川兄妹から届き、最後に山本から。
 クロームからの分は切手が貼られていなかった。消印が無いのではっきりしないが、郵便受けに入っていたのは、京子からの分が届いたのとほぼ同時期だった。
 綱吉は、年賀状だって殆ど作らない。理由は、出した相手から届かなかったら寂しいから、だ。
 だから来た分にだけ返す。自分が先に動くのではなく、どこまでも受身だ。来なかった人には出さない。出す必要も無い。
 今や文明の利器が発達し、メールなら指一本であっという間に送れてしまうのに、彼らはわざわざ筆を手にとってくれた。その返礼という意味合いも大きくて、誰かしらに自分から挨拶状を出そう、という考えは無いに等しかった。
 黙りこくってしまった雲雀を上目遣いに伺い、綱吉は結んだ手を下ろした。
「ヒバリさん?」
 恐る恐る呼びかけ、背筋を伸ばす。彼はハッとして、三度立て続けに瞬きを繰り返した。
「……ぁ」
 薄く開いた唇から小さな音が漏れて、聞き取れなかった綱吉が前に出ようとする。刹那、彼は右足を退いて下がり、窓枠に背中からぶつかっていった。
「ヒバリさん?」
「ふぅん、そう」
 長らくぼうっとしていたのが恥ずかしいのか、彼の頬はほんのりと紅色だった。顔を背けて目を合わせようとせず、口元に持っていった手で顔の下半分を覆い隠してしまう。
 指の隙間から零れた声はくぐもっており、いつもの飄々とした彼らしくなかった。
 口調も、台詞もぶっきらぼうなのに、声の調子だけが上擦り気味で、動揺が窺えた。気まずげにしている雲雀の、失敗した、とでも言いたげな表情に首を捻り、綱吉は胸の中にもやもやしたものを感じて唇を噛んだ。
「それに、第一、俺、ヒバリさんの家の住所、知らないし」
 知り合ってからそれなりに経つのに、未だ嘗て雲雀の家に呼んで貰ったことが無い。町内でも古い地区の、とても大きなお屋敷が自宅だと聞いてはいるけれど、それだって教えてくれたのは雲雀本人ではなく、山本だ。
 彼は寿司の出前で何度か訪ねたことがあると言っていた。しかし説明されても、その地区に疎い綱吉にはピンと来なかった。
 膝をぶつけ合わせた綱吉の主張に、雲雀は肩を竦めた。持ち前の不遜さを取り戻した彼は、呆れた様子で首を振り、綱吉をムッとさせた。
「別に家の住所じゃなくても、中学校に送れば、僕はいつだっているよ」
「そうかもしれないですけど」
 並盛中学校の風紀委員長にして、応接室を不法占領している彼は、夏休み期間中も毎日のように学校に通っていた。
 いったいいつ帰っているのか、と思うくらいに、彼は四六時中学校に居た。たまに町内をふらついて、ごく稀に今日のように沢田家に顔を出しもするけれど、行動範囲はあくまでも学校中心だ。
 だから並盛中学校の住所を書いて、雲雀の名前を記しておけば、問題なく彼の手元に届くというのは、綱吉にも想像できた。
 とはいえ、雲雀に暑中見舞いを出さなければならない、という決まりは無い。向こうから届いていないものに返事をする義理も、当然無かった。
 納得が行かない顔をして、綱吉は頬を膨らませた。
「なんだって俺が……」
 そっぽを向いて小声で愚痴を零す。聞こえていた雲雀は眉をピクリと動かしたが、特に何も言わなかった。
 剣呑な顔をするが、目が合いそうになると即座にパッと逸らし、ふたりの視線は絡まない。お互いに何か言いたげにしながら口を利かず、時間だけが過ぎていった。
 疲れる沈黙を一分ほど続けた後、綱吉は俯き、床を蹴った。
「欲しいなら、そう言えば良いのに」
「っ!」
 辿り着いた結論を、深く考えもせずに呟く。
 不貞腐れた声を出した綱吉を前に、雲雀はカッと頬に朱を走らせた。
 ガタッ、と物音がして、綱吉が目を丸くして前を凝視する。今度は右手で、顔のほぼ中央を隠した雲雀が、窓枠に凭れかかっていた。
 もう少しで後ろに落ちるところだった彼の額に、珠のような汗が浮いていた。噛み締められた唇と、一箇所に定まらない視点が、内心の動揺を如実に現していた。
「……はい?」
 初めて見る彼の狼狽具合に、綱吉の目が点になった。
「見回りがあるから帰る」
「え?」
 呆気に取られる綱吉にそう言い訳を口走り、雲雀は身体を反転させた。来た時以上に慌しく、靴を履いて出て行く。
 ドタドタドタ、とおおよそ彼らしくない足音が屋外に轟いて、惚けていた綱吉はハッとして窓から身を乗り出した。いつもならもうとっくに、雲雀の姿は見えなくなっているはずなのに、今日に限って彼は塀を乗り越えるのに失敗したのか、まだ庭をうろうろしていた。
「何やってるんだよ、もう」
 門扉を開けて出て行けばいいのに、そうしない。変なところに拘りを持っている彼が可笑しくて、綱吉は呆れ混じりに呟き、苦笑した。
 じわじわとこみ上げてくる笑いを堪え、窓から離れてカーテンを引く。白い布が陽射しを遮り、室内がほんの少し暗くなった。
 雲雀も、あんな顔をするのだ。思い出すだけで腹がねじれそうで、ぷっ、と噴き出した彼は芯が短くなった色鉛筆を指で弾き、机の引き出しを引いた。
 先ほどとは違い、まだ比較的整理整頓が出来ている空間から、一枚のカードを取り出す。机上に置かれた葉書と全く同じサイズのそれを裏返した彼は、真ん中に大きく書き記した名前を心の中で読み上げた。
 裏を返しても、そこに絵は無い。その代わりに細かい文字で、近況を問うぎこちない文章がつらつらと並べられていた。
 その厚みのある葉書を口元に持って行き、視線を浮かせて呟く。
「出したら、返してくれたのかな……」
 中途半端なところで途切れてしまっている、少し色褪せた水性ペンの文字を爪でなぞり、彼は肩を落とした。

 夕方、美味しそうな匂いに誘われて、綱吉は台所の敷居を跨いだ。
 エプロン姿の奈々がまな板を前にして、包丁を忙しく動かしている。トントン、と小気味の良いリズムに心を躍らせ、彼は今夜のメニューを確かめるべくコンロの方へ忍び寄った。
「ダメよ、つまみ食いは」
「あうっち」
 しかし振り返りもせずに奈々に言われ、彼は右足を浮かせた状態で渋い顔をした。
 後ろに目でもついているのではなかろうか。こういう時だけはやたらと勘が良い母に頬を膨らませ、綱吉は味噌汁の味見を諦めて踵を返した。
 ただ、このまま大人しく撤退するのも悔しくて、途中で思い直して冷蔵庫へ向かう。牛乳の一杯でも飲んでしばし胃袋を満たそうと決めた彼は、部屋の真ん中に置かれたテーブルを回りこもうとして、上に載せられていたものを何気なく見た。
 折り畳まれた新聞は薄い。夕刊だ。その隣には、新聞と一緒に回収されたのであろう郵便物が、無造作に置かれていた。
 何かの請求書、ダイレクトメール、そして。
「俺に?」
 カチッとした字体で綱吉の名が記された葉書が一枚、他と区別するためか、少し離れた場所にあった。
「ああ、それ?」
 声に気付いた奈々が手を止めて振り返り、包丁を顔の高さまで持ち上げて左右に揺らした。
 光を反射する刃物におっかなびっくりしながら、綱吉は手を振って彼女に前を向くよう言った。命令されて肩を竦め、奈々は直ぐにトントントン、と楽しげなリズムを再開させた。
「ちゃんと返事するのよー」
「……」
 言われて、綱吉は葉書に手を伸ばした。端を抓み、「沢田綱吉」とだけ書かれた厚紙を引き寄せる。
 尊称すら略され、挙句住所も未記入。左上の印刷された切手には、消印さえなかった。
 いったいいつ、誰が投函したのか。
「しょうがないなー」
 どうして彼は、こうも素直でないのだろう。苦笑交じりに呟いて肩を竦め、綱吉は葉書を裏返した。
 大急ぎで仕上げたと思しき筆書きの文字が、右寄りに大きく踊っている。その左隅に、申し訳程度に小さく添えられた文言を読み取って、綱吉は顔を綻ばせた。
「ほんと、しょうがないな」
 重ねて呟き、彼は自然と緩む頬をぺちり、と叩いた。
「ツナ?」
「母さん、俺、ちょっと出かけてくるね」
「もうじきお夕飯よ」
「それまでには帰る」
 部屋に戻って、大急ぎであの葉書を完成させよう。書こうとして、恥ずかしくて書けなかった続きを足して、ポストに投函して来よう。
 急げば明日の昼には届くだろうか。
「ふふ」
 楽しみがひとつ出来たと、彼は差出人未記入の残暑見舞いを抱き締めた。

2010/7/25 脱稿