木賊

 楽しくも辛く厳しい練習が終わるのは、大抵の場合、午後七時を回った辺りだった。
 これが試合直前だったり、練習試合が組み込まれていたりしたらもっと遅くなる。部活動中は水分補給こそすれど、固形物はほとんど口にしない。たまに塩分などを補充するために軽く抓みはするけれど、腹いっぱいになるまで食べる、ということはあり得なかった。
 レシーブ練の順番を待っている最中でも声を張り上げ、常にどこかしら身体を動かしている。それが三時間以上ぶっ通しで続くのだから、片付けと掃除が終わる頃には大半の部員がくたくたで、へろへろだった。
 小学生の頃だったら、夕食の席に着いていた時間帯でもある。空腹は絶頂を迎え、歩く度にきゅるるるる、と情けない音が周囲に響いた。
「くぁー、つっかれたー」
「腹減ったな~」
 学生服が詰め込まれた鞄を背負い、田中が脇腹を撫でながら呟く。その横で腹筋を撫でた西谷が力なく言って、がっくり肩を落として背中を丸めた。
 コーチとして前監督の孫である烏養が顔を出すようになってから、烏野高校男子排球部の練習は苛烈を極めるようになっていた。
 終了時間は一気に遅くなり、内容も密度が増して気の休まるところがない。少しでも集中力を切らそうものなら即座に怒号が飛び、険しい視線が向けられた。新入部員が入ったお陰でレギュラー争いも熾烈さを増しており、練習中であっても体育館内には緊張感が満ち満ちていた。
 その余波か、部室を出た後の彼らは一気に気が緩み、誰もが力の抜けた顔をしていた。
「どっか寄ってく?」
「坂ノ下、まだやってんかな」
「肉まん! 肉まん食いてぇ!」
「ノヤっさん、そればっかだな。たまにはもちっと栄養あるモン食えよ」
「龍、テメー。誰が小さいだって?」
「言ってねえよ!」
 群れだって歩く黒い集団は、日が暮れた後の道でも十分目立つ。ただでさえ一般人よりも上背のあるメンバーが揃っているのだから、その異様さは並ではなかった。
 中には平均より小さい男子も含まれていたが、声の大きさが足りない背丈を十分過ぎるほど補っていた。集団の先頭で喧嘩を始めた騒々しい二年生に肩を竦め、部の纏め役を担っている澤村は目を細めた。
「お前ら、あんまり騒ぐなよ」
 正門から続く坂道の左右には、門構えも立派な家々が建ち並んでいる。部員らに言わせれば帰宅時間であるけれど、近隣の住民にとって今は家族団らんの大切なひと時だった。
 あまり騒ぎすぎると、近所迷惑だと学校に苦情が行く。黒ジャージで背高の集団となれば、バレーボール部かバスケットボール部のどちらかしかなくて、即ち言い逃れは難しい。
 教頭からこれ以上睨まれたくはない。にこやかな笑顔の裏に仁王の仮面を隠した部長の忠告に、薄ら寒いものを覚えた部員は瞬時に口を噤んだ。
 冷や汗流しつつ首を縦に振った後輩に苦笑して、菅原は見え始めた看板を指差した。
「お前ら、肉まんでいいんだな?」
 緩い傾斜を下り、カーブを抜けた先には小さな商店があった。家族経営のその店舗は、現在彼らを指導しているコーチの実家でもあった。
 少し前までエプロン姿で怒鳴って来た男が、今は体育館で自分たちを鍛えている。その不可思議な縁に思いを巡らせながら、彼は黙々と歩く後輩たちに問いかけた。
「!」
 その声に、黒ずくめの集団が一斉に振り返った。
 特に動きが派手だったのは、先頭を行く二名だった。
 瞬時に跳び上がった彼らの瞳は眩いばかりにきらきらと輝き、その口からは滝のような涎が零れ落ちる。哀れみを誘う欠食児童を前にして、さすがの菅原の頬もヒクリと引き攣った。
 まだ何も言っていないのに、田中たちは奢られる気満々でいる。その図々しい眼差しにため息を零し、彼は必要個数を確かめるべく希望者に挙手を求めた。
「はい! はいはい!」
「はいはいはいはい!」
「返事は一回でいい。影山も食べるな。大地は?」
 縁下たちとは帰り道が逆で、校門を出たところですぐに別れた。月島と山口のコンビも、いつの間にか姿を消していた。現在菅原と一緒に居るのは三年生の二名と、二年生のやかましい二人組。そして同じポジションで競い合う一年生の合計五人だった。
 質問にコクリと頷いた黒髪の後輩から視線をずらし、残るふたりにも問いかける。澤村は世話好きなチームメイトに肩を竦め、丸々と太った鞄を叩いた。
「俺は自分で買う。旭もそれでいいな?」
「ああ、うん」
 彼にばかり負担を強いるわけにはいかない。懐にはまだ余裕があると目で告げた部長の言葉に、のんびり歩いていた髭の三年生も頷いた。
 外見だけなら既に成人していそうな東峰に微笑み、菅原は大柄な友人の脇から後方を覗き込んだ。そして。
「日向も食うよなー?」
 口元に手を添えて叫んだ彼に、予想していなかった東峰がびくっと身体を強張らせた。
 見た目に反して気弱で臆病な同級生にほくそ笑み、菅原は自転車を押しながら駆けてくる後輩に手を振った。早く合流するよう促し、息せき切らしてやってきた一年生に向かって先ほどと同じ質問を投げかける。
 しかし日向はきょとんとして、不思議そうに彼を見つめ返すばかりだった。
 日向は部員で唯一、自転車登校だった。自宅も学校から一番遠くて、山道を越えての通学は誰よりも体力を必要とした。
  それでいて部の中で一番良く動き回る彼だから、本格的な山登りの前に体力を回復しておく必要があった。空っぽの胃袋に固形物を入れておかないと、真っ暗な 帰り道の途中で力尽きてしまいかねない。それを心配しての菅原だったのだが、主語の欠けた質問は、日向には通用しなかった。
「えっと……?」
 怪訝に見上げられて、菅原も一瞬考え込んでしまった。なにか変なことを言ったかと悩み、すぐに言葉が足りていないと気づいて嗚呼、と手を叩く。
 坂ノ下商店はもう間近に迫り、空腹を訴える二年生は今にも倒れそうな雰囲気だった。
「スガさーん」
「日向も食べるだろ、肉まん」
 田中がひもじさを訴えて、両手で腹を抱えて丸くなる。店先で蹲った後輩にちらりと視線を流し、菅原は自転車を押している日向に改めて尋ねた。
 愛機を駐輪場から引っ張り出してくるのに手間取り、彼は集団から一歩遅れていた。
 会話の端緒を聞いていなかったのだから、いきなり「食べるか」と言われても何のことだか分からないに決まっている。自分の失態だったと素直に認め、菅原はぽかんとしている後輩の頭を撫でた。
 バレーボール選手としては小さい方に分類される彼にとって、更に背が低い後輩は貴重だった。
 常に首を上向けなければならない部活仲間に囲まれていると、見下ろせる、というだけで途端に彼が可愛く思えてくる。薄茶色の髪の毛をくしゃくしゃに掻き回して、菅原は少々不満そうにしている一年生に目を細めた。
「えーっと、んじゃ田中と、西谷と、影山と日向、と……全部で五つだな」
 すっと音もなく腕を引き、指折り数えて再確認する。店の前で今か、今かと待ち構えている西谷に苦笑して、彼は店内に入るべく一歩を踏み出した。
 まだ返事を貰っていないが、日向も田中たち同様食い意地が張っている。前に奢ってやった時は真っ先に袋に飛びかかり、一番大きなものを選んで美味しそうに頬張っていた。
 その時の顔がまるでリスのようで、面白くて可愛かった。またあの頬袋が見られるのかと思うと可笑しくてならず、堪えきれずに噴き出していたら。
 羽織っているジャージの裾がくいっ、と引っ張られた。
「ん?」
「あ、……」
 引き止められて、菅原は出そうとしていた足を戻した。靴底でアスファルトを擦り、振り返って小首を傾げる。
 ロゴ入りのジャージを摘んでいたのは、ついさっきまで喋っていた一年生だった。
 会話は一応終了したはずだ。話し足りない部分があるとも思えなくて怪訝にしていたら、実行に移してから自分の行動に気づいたのか、日向が瞳を泳がせて下を向いた。
 俯かれて、真ん丸いつむじが見えた。その渦巻く中心部を見つめ、菅原は反対側に首を倒した。
「日向?」
 彼の指は一旦外れて、再び空を掻いてから菅原のジャージを掴み直した。布を手繰り寄せてしっかり握られて、簡単には振り解けそうになかった。
 行かせまいとする彼に眉を顰めるが、返事は待っても得られない。そのうちに店の前で田中たちが騒ぎ出し、まだかと声高に訴えた。
 彼らの位置からでは、日向の手がどうなっているのか見えないのだ。横にいた東峰は困った顔をして頬を掻き、少し離れた場所にいた影山は何が気に入らないのか、むすっと口を尖らせた。
「どうした? 食うだろ?」
「あ、あの。おれ、今日は」
「ん?」
 このままでは、坂ノ下商店に入れない。店の中にいかなければ目的の品は購入できず、空っぽの胃袋だって満たせない。
 その辺が分からない日向ではないのに、頑なに手を離そうとしない。重ねて問いかければようやく顔を上げた彼だけれど、言葉は途中で途切れて後が続かなかった。
 瞳を左に流した彼の頬は紅潮し、甘そうな色に染まっていた。
 街灯の明かりが照らす道端に立ち、日向は右腕一本で自転車を支えてかぶりを振った。
 逡巡しているのが見て取れるが、何を悩んでいるのか菅原には分からない。一方で早くとせっつく田中に澤村が拳骨をお見舞いし、一時的に場は騒然となった。
「おい」
 皆を困らせている自覚が足りないと、同じ一年生の影山が日向を叱りにかかる。低い声で凄んで近づいた彼にはっとして、小さなミドルブロッカーは弾かれたように背筋を伸ばした。
 より強くジャージを握られて、腰から上を捻っていた菅原はびくっとなった。
「お、おれ……今日、い、いいです!」
 その震えを上書きする大声に、居合わせていた全員がぎょっと目を見開いた。
 誰もが耳を疑い、信じ難いと言わんばかりに呆然となった。
 そのコンパクトなサイズに見合わず大飯食らいで、休憩ともなれば我先に水分補給に駆けつける少年が、菅原の申し出を辞退した。奢ってやるとの言葉を遮り、不要だと宣言した。
 しかも。
「え、……え?」
「そんで、そんで、あの。菅原さん、おれ、今日は菅原さんの分、おれがおごります!」
 戸惑う三年生に更に畳み掛けて、日向は鼻の孔を広げて息巻いた。
 小さくガッツポーズを決めて叫んだ彼に、澤村は呆気に取られて瞬きを繰り返した。田中に至っては顎が外れそうなくらいに驚いている。中途半端な体勢で硬直していた影山も、惚けた顔で指先を痙攣させた。
 日向を除く全員が、坂ノ下商店前で凍りついた。
 何を言っているのか、彼はちゃんと理解出来ているのだろうか。真っ先に我に返った西谷がすくっと背筋を伸ばすが、日向は発言の撤回はせずに口をもごもごさせた。
「いいんだぞ、日向。無理しなくて」
 続いて菅原も言葉を紡ぎ、無謀としか思えない後輩の肩を叩いた。
 お菓子が大好きで、いつも腹を空かせているのが日向だ。部活前も、後でも、月島がげっそりするくらいに沢山食べている。
 そんな大食漢の彼だから、小遣いはすぐに消えてしまう。金欠を嘆く声は頻繁に聞かれて、菅原も承知していた。
 だというのに、その彼が人に奢るなど。
「天変地異の前触れか」
「明日、雪でも降るんじゃねー?」
「こら、お前ら。そういうことを言うんじゃない」
 おおよそ有り得ない出来事に遭遇し、二年生が顔を見合わせて呟く。聞いていた澤村がすかさず叱ったが、内心彼も似たような気持ちだった。
 突き刺さる多数の視線に臆し、日向はそわそわと落ち着きなく身を捩った。
「いえ、あの。おれ、いっつも菅原さんに、なんてか、おごってもらってばっかりだし」
 熱々の肉まんは、部活で腹ペコになった子供たちにとって何よりのご褒美だった。
 味の種類は少ないが、その分坂ノ下商店は価格を下げて学生の購買意欲を誘った。レジ横に置かれた蒸し器は店内のどこに居ても目に付いて、低めの値段に財布の紐もつい緩んだ。
 しかしいくら安いとはいえ、数が揃えば相当な出費になる。
 今回も、菅原は五個購入予定だった。沢山買ったとしても割引はないので、単純計算で彼への負担も五倍になる。
 一日一個だとして、五日分。そんな貴重な資金を他人のために使わせるのは忍びなかった。
「何を言い出すかと思えば」
 あれこれと思い悩んで顔を真っ赤にしている後輩に肩を竦め、菅原はふっ、と微笑んだ。
「う……」
「いいんだぞ、日向。そういう心配しなくて」
「でもっ」
「俺は好きでやってんだし。それに俺らも、昔は先輩たちに奢ってもらってたわけだしな。な?」
「うんうん」
 反論を試みた日向を遮って、東峰に同意を求める。彼も懐かしそうに目を細め、強面に似合わぬ笑顔で頷いた。
 澤村も過ぎ去った時間に思いを馳せ、目を細めた。西谷と田中は顔を見合わせ、ちょっと気まずそうに首を引っ込めた。
「あと、俺、みんなよりちょっと小遣いが多いしな。弁当代の余った分も貯め込んでるし」
 日向のように貰った分を全部使い切るのではなく、ちょっとずつ積み立てていけば一月経つ頃には結構な額になる。そういう努力も惜しまない彼は、三年生の中で一番の金持ちだった。
 だから後輩を奢るのも、格別負担とは思わない。まだ新入部員だった頃に当時の三年生から奢ってもらった経験もあるので、その時の感謝を今の後輩に伝えるのも大事な仕事だと考えていた。
 しかし日向は納得がいかない様子で、頬を膨らませていた。
「……でも、やっぱ悪いです」
「ひなた」
 菅原の言うことは理解できるが、受け入れ難い。そんな態度を崩さず、彼はぶすっとしたまま言って上級生を困らせた。
 上から下へ続いていく伝統も大事だが、本人に感謝の気持ちを伝えるのも同じくらいに重要だ。奢られて当たり前、と思い込むのは良くないと言い張る彼に、耳が痛かったのか聞いていた田中が頭を抱え込んだ。
「翔陽、お前カッコイイな」
 一方で西谷は上級生の気遣いに甘え慣れていた己を反省し、背筋を伸ばして立ち上がった。
 菅原に肉まんで良いかと訊かれた際に、礼のひと言も口にしていなかったのを思い出す。勢い勇んで手を挙げただけの自分自身を平手打ちして、彼は白い歯を見せて胸を張った。
「おら、龍。すんませーん、肉まんいっこくださーい!」
 隣で渋い顔をしているチームメイトを蹴り飛ばし、西谷は言うが速いか店の戸を横に押し開けた。威勢良く叫んで店番の女性に注文し、田中の襟首を掴んで引きずって駆け出す。
 一瞬の出来事に澤村は目を点にし、直後に嘆息して肩を竦めた。
「旭」
「おう」
 顎をしゃくり、エースを呼んだ彼に東峰も頷いた。促されて歩き出し、二歩進んだところで立ち尽くしている一年生を手招く。
 完全に出足を挫かれていた影山は、決まりが悪い顔をして両手をポケットに押し込んだ。
「ゥス」
 日向の弁は、彼も前々から感じていたことだ。まさか先を越されるとは思っていなくて、今度は自分が菅原か澤村の分を払おうと決め、影山も暖簾を潜って店に入った。
 賑やかな場が店の前から中に移動して、暗がりに残されたふたりは戸惑いがちに顔を見合わせた。
「えっと」
 妙な展開になった。
 奢るつもりでいた面々に置いていかれ、菅原は目を瞬いた。ぽかんと開いていた口を閉ざして傍らを窺えば、固い決意を秘めた日向が号令を待って唇を引き結んでいた。
 まるで飼い主の合図を待つ犬のようだ。そんな甚だ失礼なことを考えてしまい、彼は二秒してからはっと我に返って首を振った。
「菅原さん」
「あー、じゃあ……今日は、お願いしようかな」
「はい!」
 ここまで外堀を埋められては、日向の意見を尊重しないわけにはいかない。我を張るには諦めて白旗を振れば、彼は嬉しそうに声を高くした。
 破顔一笑した日向に目を細め、菅原は全力で懐いてくる後輩の頭をくしゃりと撫でた。
「買ってきます」
「自転車預かるよ」
「お願いします!」
 先ほどまでの大人しさはどこへやら、本来の元気の良さを取り戻した彼は叫ぶと同時にぴょん、と飛び跳ねた。
 自転車のスタンドを立てぬまま、ハンドルを手放し鞄を抱きしめる。倒れそうになった二輪車を引き受けて支え、菅原は慌しく駆けていく背中を見送った。
 そうして路上にひとり残されて、急に襲ってきた静けさに背筋を粟立てた。
 唐突の寒気に身震いし、発作的に叫びたくなった気持ちを懸命に押しとどめる。店の扉は閉められていて、中の様子は窺い知れなかった。
 レジの前で騒いでいる仲間たちが脳裏をよぎる。記憶の片隅に埋没していた映像には、菅原の姿もあった。
 だが今現在、そこに自分はいない。今後今日の出来事を振り返った時、もしかしたら皆は菅原のことを思い出さないかもしれなかった。
「……っ」
 その事実に思い至った瞬間、彼は全身の毛が逆立つ悪寒に見舞われた。
 無意識にハンドルを握り締め、吹き出た汗の温さにはっと息を吐く。カラカラと戸が開く音がして前を向けば、西谷が先頭を切って店を出て来た。
 その表情はいやに緩み、締まりが無かった。
 にやにや、という表現が最も適している。何故そんな風に笑っているのか気になって怪訝にしていたら、続けて出て来た田中までもが似たり寄ったりな顔をしていた。
 いや、それだけではなかった。
「うん?」
 なんと澤村や東峰までもが笑いを堪えて頬をヒクヒクさせていた。影山だけが呆れ半分に眉を顰めていて、中でなにかあったのを如実に語っていた。
 場に居合わせていない菅原には、当然何が起きたのか分からない。ひとりだけ仲間外れにされて愕然としていたら、開けっ放しの扉を潜って最後の一名が顔を出した。
「ひなた?」
 店内に入るまでは元気いっぱいだった少年は、敷居を跨いだ後も一向に顔を上げようとしなかった。
 酷く落ち込んで、項垂れている様子が見ているだけでも伝わってくる。だのに彼を取り囲むチームメイトは皆必死に笑いを堪えていて、その落差に菅原は愕然とした。
「お前ら……っ」
 後輩をいじめて、なにが楽しいのか。状況はよく分からないものの落胆している日向を放ってはおけず、彼は感情の赴くままに顔を赤くして叫んだ。
 自転車のブレーキを握ったまま、車体を引きずるように前に出る。車輪とアスファルトとの摩擦は殊の外大きく、菅原の身体は思ったほど進まなかった。
 ただ気持ちだけは十分伝わったようで、緩む頬を叩いた澤村が落ち着けと手を揺らした。
「ほら、日向」
「うぅ……」
 その一方で、田中が日向の脇腹を小突いた。早く行け、と顎をしゃくって小声で促す。低いうめき声が聞こえて、菅原は眉間に皺を寄せて首を捻った。
 全員が見守る中で、彼は覚悟を決めたのか恐る恐る一歩を踏み出した。
 小さな両手は胸の前で結ばれていた。ただ何かを握っているのか、指同士は絡んでいない。その形と大きさから掌中の物を把握して、菅原はゆっくり近づいてくる後輩に生唾を飲んだ。
 大粒の瞳を左右に彷徨わせ、日向は自転車を構え持つ青年の前で足を止めた。
「……どうぞ」
「ぶはっ」
 直後、耐え切れなくなった西谷が先に噴き出した。
「あっはは、はは、ひゃは、っはー。駄目だ。俺もう、無理。我慢出来ねえ」
「ぎゃははははは! やっべ、ヤベーよ。翔陽の奴、マジでサイコーすぎ」
「お前ら、あんまり笑ってやるなよ」
「ひなたー、利子はトイチにしといてやるな」
「え? え、えー……と、なに?」
 続けて田中までもが腹を抱えて笑い出して、ついていけない菅原は戸惑い気味に声を上げた。
 仲間たちを左から右へ眺めて疑問をぶつけるが、彼らは曖昧に言葉を濁して教えてくれない。ひとり蚊帳の外に置かれた菅原は、仕方なく最も近くにいる少年に目で問いかけた。
 日向は林檎よりも赤い頬をぷっくり膨らませ、恥ずかしそうに口を尖らせた。
「どうぞ」
 しかし彼は答えず、同じ台詞を繰り返すに留めた。
 早く受け取れと薄い紙に包まれた饅頭を突きつけられて、無意識のうちに利き手が宙を泳いだ。反射的に掴み取ろうとして寸前で思いとどまり、菅原は半泣き状態の後輩と、笑い過ぎて腹痛を訴えている後輩とを見比べた。
 先ほど、田中は「トイチ」と言っていた。
 それは借りた金に対して、十日で一割の利子がつくという意味の略語だ。そんな単語がこの場で出て来るということは、日向が彼に金を借りたというなによりの証拠だった。
 つまり、この肉まんは。
「日向、もしかして財布にお金、入ってなかった?」
「うぐっ」
 少ない情報から憶測し、はじき出された結論を呟く。途端彼は首を竦め、大粒の瞳をぐらぐら揺らめかせた。
「しょ、しょんにゃこちょは、にゃ、にゃいでひゅから」
 呂律が回っていない返答に苦笑を禁じえず、菅原は頬をヒクリと痙攣させた。向こうの方では田中が地面をダンダン叩いており、幾分平静を取り戻した澤村に頭を殴られていた。
 西谷などは地面に蹲ってぷるぷる震えていた。彼にズボンを掴まれた東峰は、ジャージがずり落ちていかないようゴムの部分を押さえて顔を顰めていた。
 そんな面々に囲まれて、影山だけが困った顔をしている。どう反応すればいいか分からずにいる天才セッターにも同情して、菅原は怯えた顔で肉まんを抱いている後輩に手を伸ばした。
「気持ちは嬉しいけど」
 柔らかな髪を軽く掻き回した彼に、日向は一瞬間を置いて目を丸くした。
 借金をしてまで奢られたいとは思わない。それに彼が購入できたのは、見る限りこの一個だけだ。それを菅原が受け取ったら、日向が食べる分がなくなってしまう。
 彼が懸命に考えて、喜ばせようとしてくれたその気持ちだけで十分だ。だからと遠慮を願い出た菅原に、遠くから声がかかった。
「スガ」
 いつまでも騒がしいと叱りに出て来た店主に頭を下げ、澤村が腕を大きく振り回す。いくぞ、というそのポーズに、膝を折って痛みに耐えていた田中が起き上がって、残りの面々もまたぞろ歩き始めた。
 菅原も仕方ないと嘆息して、左腕一本で支えていた自転車を日向の方へと押し出した。
 そして。
「あっ」
 利き手で肉まんを袋ごと摘み取った彼に、日向は甲高い声を上げた。
 発作的に後を追いかけようとして、空を握り潰してからはっと我に返って気まずそうな顔をする。ころころとよく変わる表情に破顔一笑して、菅原は好意の塊に目尻を下げた。
 持っていたものを交換して、自由になった左手はジャージにこすり付ける。これで綺麗になったとは思えないが何もしないよりマシと割り切り、彼はまだ充分温かい肉まんに指を押し当てた。
 自転車を押す日向が見守る中、ふっくらした生地に爪を立て――
「はい。日向の分」
「えっ」
 全体の十分の一にも満たない量を毟り取り、菅原は残りを日向へと差し出した。
 彼の掌中に残され大部分は、真っ白い外側の生地だった。中の具はほんのちょっと、肉の欠片が数個張り付いているだけ。
 表面を抉られ、内側に篭っていた熱が出口を見つけて慌しく逃げていく。立ち上る湯気越しに上級生を見つめ、最強の囮たる少年はぽかんと間抜けに口を開いた。
 呆気に取られた表情の日向に目を細め、菅原はほら、と動かない彼に焦れて腕を伸ばした。
 気がつけば西谷と東峰がいなくなっていた。別れ道に至り、影山がぺこりと頭を下げて去っていく。その背中を飄々と見送って、副部長の青年はもう一度日向に促した。
「ン」
 早くしないと、中身が零れて駄目になってしまう。わざと穴が開いた方を下に向けた彼に慌て、未来のエースはおずおずと左手を広げた。
 天を向いた掌に残り十分の九になった肉まんを置いて、菅原は手元に残したひと欠片を頬張った。
「うん、うまい」
「菅原さん、おれ」
「だってそれ、俺が貰ったモンだし。だったら俺がどうしたって、俺の自由だろ?」
「っ!」
 胃袋を満たすには到底足りない量を飲み込み、呵々と笑う。指に残った薄皮を舐め取った彼にびくっとして、日向は零れ落ちそうなくらいに目を見開いた。
 前方、五メートルほど離れたところにいた澤村が笑った。声は聞こえなかったものの、勢い良く前につんのめったから間違いない。並んで歩いていた田中も暗がりの中で振り返って、白い歯を見せて目尻を下げた。
 あそこで受け取りを固辞していたら、こんな風ににこやかな空気は堪能出来なかっただろう。
 日向の折角の好意を無碍にしなくて良かった。安堵の息を吐き、菅原は依然戸惑い中の後輩の頬を指の背で擽った。
「いいんですか?」
「減ってんだろ、腹」
「あ……あざーっす!」
 小さな悪戯から身を捩って逃げ、日向は自信なさげに問うた。それをウィンクで黙らせれば、彼は今日一番の大声で元気良く頭を下げた。
 自転車までもが揺さぶられ、車体が大きく波打った。引きずられて倒れそうになったのを堪え、彼は久しぶりの笑顔を浮かべて肉まんを口に運んだ。
 菅原が摘んだところを中心に、一気に半分近くを噛み千切って頬張る。満面の笑みを浮かべて咀嚼する姿は、眺める者までも幸せな気持ちにさせた。
「んじゃ、俺こっちだし。また明日」
「日向、気ぃ付けて帰れよー」
 ひと段落ついた様子のふたりに苦笑して、澤村がY字路で足を止めた。田中もにこやかに手を振り、世話の焼ける後輩を見送った。
 県道への合流地点まであと少しで、道幅も僅かだが広くなった。赤信号のランプが点り、横断歩道が白く輝く。通る車の少ない路上に立ち、菅原はほかほかの肉まんに舌鼓を打つ少年に何気なく目を向けた。
 両手でハンドルを握り、残り僅かとなった饅頭は唇で挟んでいるだけ。あとひと口分もない白い塊がまるで嘴のようで、それでいてどうしようもなく美味しそうだった。
「……減ったな」
 ぽつり、呟く。
 どたばたの所為で忘れかけていたが、菅原だって空腹だった。先ほどのひと欠片もとっくに胃液がどろどろに溶かし、跡形も残っていなかった。
 部活中から耐えていたところに少量の餌を与えられて、正直な胃袋は追加を求めて騒ぎ立てる。最早抑えは利かず、コクリと喉を鳴らして唾を飲み、彼は青信号を待つ後輩に手を伸ばした。
 ぱっと、電球の色が変わった。じりじりしながら待っていた日向が、嬉しそうに顔を綻ばせた。
 その襟首を捕まえて。
「ひなた」
 後ろに引っ張られて驚く彼の瞳を覗き込み、口を開く。
「――っ!?」
 引き寄せた日向から奪った皮はふっくらとして柔らかく、ほのかな温かさを残してほんのり甘い匂いがした。
 癖になる味だ。何度口にしても飽きが来ず、逆にもっと欲しくなって仕方が無い。
「すが、さ……」
「ん。うまい」
 物足りなくてぺろりと舐めれば、ニンニクだろうか、特有の匂いが鼻腔に広がった。奪い取った肉まんを噛み締めればそれは一層強まって、菅原は無自覚に呟いて唇に舌を這わせた。
 掴んでいた襟足を擽ってから開放し、点滅を開始した歩行者用の信号にも視線を向ける。最後に呆然と立ち尽くしている後輩に目を眇め、彼は不遜に微笑んだ。
「ごちそうさま。明日、寝坊すんなよ」
「は、ぁ……はい!」
 もともとは菅原のものだった肉まんを飲み込んで、ひらりと手を振る。その淡々とした動きに引きずられ、日向は体育会系の性か背筋を伸ばして返事をした。
 信号は再び赤になり、反対側が入れ替わりに青く光り出す。両手をズボンのポケットに押し込んで、菅原はそちらへ一歩を踏み出した。
 白い線を跨ぐ度に、本能に導かれた自分の行動がありありと蘇った。
 冷や汗が湧き出て、微熱が全身を覆い尽くす。心臓がバクバク言い始め、足取りは次第に速度を増した。
 背を向けて赤い顔を隠し、歩道を渡りきったところで額を覆う。脇を盗み見れば自転車に跨った少年が信号無視して突っ走り、猛スピードで坂を上っていくところだった。
「俺、今、なに……した……」
 今になって羞恥が沸き起こり、もう一歩も動けない。
 想定外の行動に脂汗を流し、彼は天を仰いで重いため息をついた。
 今夜はとても眠れそうになかった。

2013/04/19 脱稿