Gomphocarpus physocarpusIV

 道具も材料もたいしたものを揃えられなくて、作った夕食は至ってシンプルで、簡単なものだった。
 シンドバッドの家は、あろう事か本当に包丁すら無かった。つまるところ、まな板もない。コップを洗う為のスポンジは古すぎて黒ずみ、洗剤の蓋は固まった溶液が接着剤になって開かなかった。
 幸いにも黒光りする羽の、あの憎きあんちくしょうは見かけなかったが、いつどこから姿を現すかびくびくさせられた。料理よりも掃除が先、と見える範囲を軽く片付けたのもあって、夕食の時間はかなり遅くまでずれ込んでしまった。
 これなら、白龍の好意に甘えた方が良かったかもしれない。
 遠慮して断ってしまった申し出を今更後悔し、アリババは流し台の前で深くため息をついた。
「いやあ、美味かったよ。ありがとう、アリババ君」
「カレーなんて、誰が作っても同じですよ」
 そんな彼の苦労を知ってか知らずか、カウンターキッチンの向こう側から男が話しかけて来た。にこやかな笑みと共に感想を述べられて、つい突っ慳貪な返答をしてから、アリババはしまったと下唇を浅く噛んだ。
 だが藍色の髪の男は気にする様子もなく、逆にアリババの言葉に怪訝な顔をして首を右に倒した。
「そうかな。俺が作ったら、多分あんな味にはならないと思うけど」
「そりゃあ、五年近く包丁を握った事が無いシンドバッドさんだったら、確実に失敗すると思いますけど」
「ははは。これは一本取られたな」
 食事中に聞いた話では、このマンションを購入してから、彼はまともに料理をしていなかったらしい。
 大学の研究や小説の執筆で忙しく、外食や出前ばかりで済ませていた結果、こうなってしまったのだとか。それで太らずに引き締まった体躯を維持出来ているのだから、メタボリックシンドロームに悩む殿方から呪詛のひとつでも貰っていて可笑しくない。
 気を抜いたらすぐ体重が増えてしまうアリババも、彼のような食生活を送っていたら一気に豚化してしまう。この数日の騒動で一寸は肉が減ったように思える脇腹を撫で、彼は半袖であるにかかわらず袖を捲る仕草をした。
 日頃から竹刀を振り回しているお陰で、見た目よりも筋肉がついている腕を撫でてから、新品のスポンジを手に取る。反対の手に家から持ち込んだ洗剤のボトルを握れば、準備は完了だった。
「さって、と」
「すまないね。片付けくらいは手伝いたかったんだけど」
 目の前には、調理で使った深底の鍋が。そして隣には、使い終えた食器が邪魔にならないよう重ねて置かれていた。
 カレー皿も、サラダボウルも、全部サルージャ邸から持ち込んだものだ。
 ワンボックスカーといえども、一度に運べる量は限られている。明日もまた立ち寄って、必要な荷物をこちらに移動させて来なければいけない。
 シンドバッドとの同居生活は想像していた以上に大変で、まだ二日目が終わってもいないというのに、既に匙を投げたい気分だった。
「いいですよ。割れたコップを片付けるだけでも、時間がかかりますから」
「本当に、すまないね」
 カウンターを挟んだ先に立つシンドバッドが、嫌みたっぷりな台詞に苦笑して肩を竦めた。照れ臭そうに後頭部を掻いて長い髪を尻尾のように揺らし、洗い物を開始したアリババの邪魔にならぬようにと忍び足で去っていく。
 部屋に戻るのかと思っていたが、彼は夜闇が広がる窓辺のソファに座って新聞に手を伸ばした。
「…………」
 その端正な横顔は、距離が広がっても少しも霞みはしなかった。
 シンドバッドとの付き合いは長く、もう十年以上になる。彼は現在入院中のアリババの父、ラシッドの教え子にして弟子に当たる人物であり、昔から頻繁に屋敷に出入りしていた。
 もうじき三十歳になるが未だ独身で、女性の影はマンションの中に限れば全く見つからない。指輪はたまにアクセサリーとして身に着けているが、今現在、左の薬指は空っぽだった。
 シンドリア大学の准教授にして、子供向けの冒険物語の著者。ベストセラーを記録したその作品は一応の完結を見たが、続編を希望する声は数年経っても変わらず強かった。
 雲の上のような人物だ。考古学を専攻し、学会でも若手研究者として注目を浴びている。深夜番組のコメンテーターとしてもたまにテレビに呼ばれており、その甘いルックスに惹かれる女性は多かった。
 印税で買ったというこのマンションは、四人家族で生活するのを想定して設計されたものだった。
 そこにひとりで暮らしているのだから、宝の持ち腐れも良い所だ。本人の弁を信じるなら、研究に使う資料や遺跡の発掘品などを整理するのに広めの書庫が欲しかったから、部屋数が多いものを適当に選んだだけ、らしい。だが結局当初の目的は半分も達せられておらず、彼の書斎には整理仕切れていない書物等が床に山積みに状態だった。
 いずれ倉庫にするつもりだった部屋は空っぽで、誰かが泊まりに来た時などに使う簡易ベッドがひとつ置かれているだけ。アリババは目下、その一室を借り受けていた。
 父が長期入院する事となり、彼はこのシンドバッドのマンションよりも広い屋敷にひとり取り残される事になった。
 だがアリババには、過去に痛烈なトラウマを経験している。とても一人で放ってはおけないというラシッドの判断の下、彼は昔から世話になっている男の家に引き取られた。
 洗剤で泡まみれのスポンジを鍋の内側に擦りつけ、きゅっ、と音を響かせる。削ぎ落とされたカレーの残骸を水で洗い流して、アリババはふと顔を上げた。
 シンドバッドは依然ソファに座り、暢気に鼻歌を歌いながら寛いでいた。
 左脚を右膝の上に横たわらせ、足首をぶらぶらさせていた。スリッパが今にも脱げそうで、なかなか落ちていかない。その絶妙なバランスを楽しんでいる雰囲気が感じられて、アリババは脱力して深いため息をついた。
「絶対、居ないって」
 思い出すのは、昼間、学校の中庭で後輩に言われたひと言だった。
 シンドバッドに、もし恋人が居たら。
 その相手は、彼の家で厄介になっているアリババを快く思わないのではないか、と。
 あり得ない、と突っぱねたかった。そんな筈はないと、彼に恋人など居るわけがないと断言してやりたかった。
 けれど、出来なかった。否定の言葉を紡げなかった。冗談はやめろと、笑い飛ばせなかった。
 考えた事が無かった。
 だから夕方、シンドバッドが車で迎えに来た時は心底驚いた。つい挙動不審になってしまい、変な受け答えをしてしまった。
 病室の父と喋っていても、気もそぞろで集中出来なかった。様子がおかしいのはすぐに見破られて、具合でも悪いのかと要らぬ心配をさせてしまった。
 安心させてやらなければならない相手に、無用の気遣いをさせてしまった。反省すべきところは多い。料理で多少気が紛れたのだけが救いだった。
 新聞が捲られる音が微かに空気を震わせた。それを耳聡く拾い上げ、アリババは一瞬だけ視線を浮かせた。
 人がこうして働いているのに、シンドバッドはまるで手伝おうとしない。確かに洗い物の協力は拒んだが、やるべき事は探せば沢山あるはずだった。
 たとえば、風呂掃除とか。
「なんで平気なのかなあ」
 日頃からシャワーしか使わないとしても、床や壁に発生したカビは嫌でも目に付く筈だ。排水口付近に集まった抜け毛も、相当年季が入っていた。
 シンドバッドは髪が長いから、こまめに取り除いてやらなければ詰まってしまう。だのに長く放置して、水が流れなくなってから慌てて掃除する繰り返しだったのだろう。
 台所の掃除と片付けだけで手一杯で、とてもではないが浴槽の洗浄にまで時間が割けない。今晩もまたあの薄汚れた風呂場で身体を洗わねばならないのかと思うと、ため息しか出なかった。
「お風呂だけで良いから、家に帰りたい……」
 力なく呟き、アリババは濯ぎ終えた皿の置き場所を求めて瞳を泳がせた。
 だがどこを探しても、水切りラックが見当たらない。つい癖で左手を彷徨わせてから、彼ははっと息を呑んだ。
「やっべ。忘れてた」
 食器や調味料、そして調理道具にばかり気が向いていて、片付けに関する道具まで頭が回っていなかった。
 良く考えれば、水気を拭き取る為の布巾も足りていない。完璧に失念していたと天を仰ぎ、アリババは洗い立ての皿を頭上に掲げて蹲った。
 料理は、使った食器や道具をきちんと収納してようやく完結を見る。そんな風に自分を躾てきた彼にとって、これはかなり手痛いミスだった。
「あっちゃー……参った。どうすっかなあ。コップは逆さまに置くとして、皿も、乾かさずに拭くしかないか」
 幸か不幸か、キッチンペーパーならある。今回はそれで我慢する事にして、アリババは指先に張り付いていた水滴を払い落とした。
 皮膚に残った湿り気はズボンに擦りつけ、くるりと半回転して後ろの棚に向き直る。カレーの残りを詰めたタッパーの横に、ティッシュボックスに似た四角い箱がある。その、残り僅かとなった、こちらも自宅から持ち込んだキッチンペーパーを一枚引き抜いてもう半回転すれば、リビングで寛いでいた男の姿が忽然と消えていた。
「あれ?」
 シンドバッドが居ない。いったいどこへ行ったのか気になり目を凝らすが、広いリビングダイニングのどこにも、あの広い背中は見出せなかった。
 代わりに、ベランダに通じる窓がほんの僅かだけ開かれていた。
 カーテンが隙間風を受けて揺れていた。アリババも頬を擽られ、陽が落ちた後の屋外に何の用があるのかと首を傾げたが。
 直後香ってきた微かな香りに理由を知り、彼は緩慢に頷いた。
「そういう所だけ、気を利かせるんだからなあ」
 ほんのり焦げ臭い、特徴的な匂い。鼻腔をむずむずさせる芳香は、シンドバッドが好んで吸っている煙草の煙だった。
 一応、副流煙を気にしているのだろう。昨晩のやりとりを簡単に振り返り、アリババはいかにもあの男らしい気遣いに苦笑した。
 どうせなら、風呂掃除をしてくれた方が嬉しい。だが今回だけは許してやることにして、彼は洗い物を終わらせるべく手にしたキッチンペーパーを皿の表面に押し当てた。
 丁寧に水分を拭き取り、空洞ばかりの食器棚に並べていく。カレーを煮込むのに使った大鍋には蓋をして、一段落ついたとほっと胸を撫で下ろしたところで、ちょうど一本吸い終えたシンドバッドが室内に戻ってきた。
 からからと窓を閉め、待ち構えていたアリババに気付いて相好を崩す。嫌なところを見られたと思っているのか、表情はどこか照れ臭そうだった。
「別に俺、気にしませんよ」
「そういうワケにもいかないだろう。先生にも禁煙するよう、言われたしね」
「でも、煙草の匂いがしないシンドバッドさんは、なんだかシンドバッドさんじゃない感じ」
 未成年者が家にいるのだから、配慮するのが大人の嗜み。そう胸を張って言うけれど、それはつまり、禁煙する気は毛頭無いという事だ。本数を減らす努力はしても、完全に断ち切るつもりは無いと宣言したに等しい。
 だが紫煙をくゆらせていないシンドバッドは、なかなか想像が付かなかった。
 出会った当時から、彼は既に愛煙家だった。本当はダメな年齢だったのに、傍に行くと必ずといって良いほど煙草の臭いに嗅覚を刺激された。
 最初は煙たくて嫌いだったのに、いつの間にか慣れた。アリババにとってシンドバッドは、微かに苦い匂いを帯びた男だった。
「なら、香水でも試してみようか」
「やめてください。匂いが混じって、鼻が可笑しくなっちゃいます」
 以前、満員電車で強烈な臭いを放っている人と乗り合わせた事があった。その時の苦しみを思い出して、彼は呵々と喉を鳴らして笑った。
 本人は良い香りだと思っているのかもしれないが、周囲に居た乗客はあからさまに嫌そうな顔をして、中には鼻をつまんでいる人までいた。アリババ自身、鼻がもげそうだった。持っていたハンカチで口元を覆ってみても防ぎ切れず、目的の駅に着くまでひたすら苦行に耐えるしかなかった。
 もしシンドバッドがあんな風になったら、昨日のように同じベッドで眠るなど絶対に無理だ。そう心底イヤそうに言われては、実験を強行するわけにもいかない。何本か持っている、殆ど使った事のない香水は今度こっそり捨てようと決めて、彼は藍色の髪を掻き上げた。
 流れるような仕草で壁を見上げた彼につられ、アリババも同じ方角に顔を向けた。
 時計の針は午後九時半を少し回った辺りを示していた。いつもなら夕飯どころか風呂も終えて、その日出された課題や予習復習に余念無い時間帯だった。
 父の入院により、生活のリズムもすっかり狂わされてしまった。ここから少しずつ修正していくしかないが、元々のタイムスケジュールに戻すにはかなり骨が折れそうだった。
「そろそろかな」
「え?」
「ああ、いや。そうだ、アリババ君。風呂は、先に入るかい?」
 視線を戻し、シンドバッドは首を振った。独白に眉を顰めたアリババに愛想笑いを浮かべ、人差し指でキッチン脇の扉を指し示す。
 リビングダイニングは玄関から最も遠い場所にあり、この位置からでは隣の部屋の入り口も見えなかった。
 なにか隠し事をされているようで、気分が良くない。反射的にむっとして、アリババは頬を膨らませてふいっとそっぽを向いた。
「お先にどうぞ。ついでに、洗剤とタワシも置いといたんで、床の水垢、洗い流しておいてください。それから、排水孔の髪の毛。すっごい溜まってましたよ。変な臭いもしたし。もうちょっとこまめに掃除しないと、彼女が出来てもすぐに逃げられちゃいますよ」
「え? え、あ……ハイ」
 だが瞬時に首を戻し、カレーを作っている時から積み重なっていた不満をここぞとばかりに爆発させる。これまでにないくらいの勢いで捲し立てて来た彼に驚き、シンドバッドは一瞬ぽかんとして間抜けに口を開いた。
 まさか十歳以上も年若い少年に説教される日が来ようとは、夢にも思わなかった。唖然としている彼を余所にアリババは肩で息を整え、今し方声に出した台詞を奥歯で噛み潰した。
「分かったら、行く!」
「ただいま!」
 勢い任せに怒鳴り、びしっ、と通路の奥を指差して指示を下す。その気迫に圧倒され、シンドバッドも抗うこと無く駆けだした。
 どたどたとスリッパで床を打ち鳴らし、背の高い男はダイニングを出て行った。だが一旦は遠ざかった足音は瞬く間に戻って来て、扉の向こうからにゅっと顔を出した。
「言い忘れるところだったよ、アリババ君」
「はい?」
 この頃にはアリババの怒りも幾分収まっており、受け答えは冷静だった。
 お茶目な大人を気取っている男に呆れて肩を竦め、風呂掃除を渋っているわけでもないシンドバッドに首を捻る。両手を腰に当てた少年に目を細め、彼は右手を口元に当てた。
「この後、俺の知り合いがこっちに来るけど、お茶なんか出さなくていいからね。鍵を持ってくるように頼んであるだけだし、受け取っておいてくれるかな」
「え?」
「じゃあ、よろしく頼んだよ」
 一方的に叫び、最後にひらりと振って去っていく。さりげなく爆弾発言を落とされて、アリババは咄嗟に返事が出来なかった。
 何を言われたのか理解するのに、十秒以上必要だった。
「……え?」
 今、シンドバッドは何と言った。
 鍵と、言わなかったか。
 ひとくちに鍵と言っても、色々な種類がある。だがその単語を告げられて、真っ先に思い浮かぶのは他ならぬ家の鍵だった。
 シンドバッドのマンションの鍵を、シンドバッドの知り合いが届けに来る。それが何を意味しているのか、アリババにはさっぱり分からなかった。
 辛うじて分かるのは、シンドバッドには部屋の鍵を預けるような信頼する相手が他にいた、という事くらい。
 しかも彼は、知り合いとしか表現しなかった。友人ではない。つまり、その人物が同性であるとは限らない。
 鍵の管理を委ねる存在が、シンドバッドと親しくないわけがない。想像を働かせて、最後に行き着いたのは昼間に白龍から告げられた言葉だった。
「……え」
 絶句し、瞬きも忘れて開けっ放しの扉に見入る。今すぐ駆け出したい気持ちと、何もかも否定して窓から飛び降りたい気持ちが交互に押し寄せて来て、身動きが取れなくなったアリババはくたりとその場に座り込んだ。
 崩れるように膝を折り、呆然と虚空を見詰める。冷たいフローリングに尻を沈め、彼は爆発しそうなくらいに五月蠅い心臓に爪を立てた。
 恋人の影など、全く見えない男だった。
 研究者で、小説家で、伊達男。昔から女性にモテて、それこそ選り取り見取りだった。
 何度か彼女らしき人と歩いているところを見た事がある。きちんと紹介された事も、一度だけだがあった。だがいずれの場合も、あまり長続きしなかったと記憶している。
 そのうちに研究の方が忙しくなったとかで、とんと話を聞かなくなった。特にこのマンションに引っ越して来てからは、女性の気配など微塵も感じさせなかったのに。
「居たんだ」
 ゴミ屋敷一歩手前の惨状も、籠からはみ出している洗濯物も、全部カモフラージュだったのか。
 それとも、こういう環境も意に介さない程に、相手はシンドバッドに心酔しているのか。
 分からない。
 知り得ないから、探りようもなかった。
 ただ愕然とし、呆然と佇むしか出来ない。瞬きを忘れた瞳は痛みを訴え、やがて潤いを補おうと本能が勝手に涙を呼び出した。
 はらりと頬を伝った雫に、アリババははっ、と息を吐いた。
 その冷たさと、肌を流れゆく感触に背筋を粟立てる。全身に鳥肌を立て、彼はガラスの向こうに広がる闇を凝視した。
 なにかが見えたようで、何も見えなかった。見目麗しい女性の姿は幻で、しっかり目に焼き付けようとした瞬間に霞となって消え失せた。
 涙は次々に溢れ、止まらなくなっていた。
「いた、……だ」
 そういえば父が倒れたと電話をするまで、シンドバッドとは長く連絡を取り合っていなかった。約半年近く、顔をあわすこともなければ声を聞く機会も無かった。
 もっとも互いに忙しい身だったので、そう気にも留めなかった。アリババは勉強に、部活に、充実した日々を過ごしており、一回り以上年上の彼を誘って遊びに行こうとは基本的に考えもしなかった。
 シンドバッドもシンドバッドで、この頃はラシッドを訪ねて来る回数も減っていた。
 知らなかった、ではない。
 知ろうとしなかった、だ。
 興味がなかった。関心を抱かなかった。それ故にシンドバッドの近況を確かめず、勝手な先入観で全てを決めつけた。
 己の愚かしさを思い知り、愕然と虚空を仰ぐ。腰に力が入らず、立ち上がる事さえ容易ではなかった。
 はらはらと舞い落ちる涙に頬を濡らし、アリババは声もなく嗚咽を漏らして泣き続けた。
 やがて、どれくらいの時間が過ぎた頃だろう。
 睫がようやく乾きだした頃、不意に床板を踏む軋んだ音が彼の耳朶を打った。
「シンドバッドさん」
 慌てて目尻を袖で拭い、鼻を啜って顔を上げる。風呂を終えた彼に不審に思われるわけにはいかず、慌てて取り繕った笑みを浮かべて振り返った矢先。
 見えた光景に、彼は絶句した。
「え……?」
 そこに立っていたのは、藍色の髪を持つ男ではなかった。
「え?」
 あちらも、まさかリビングにへたり込む少年がいるとは、予想だにしていなかったに違いない。唖然と目を見開き、年若い男はそばかすが残る頬をひくりと痙攣させた。
 アリババよりは上で、シンドバッドよりは下。大雑把に年齢を推し量り、彼は急ぎ目元をごしごし擦った。
「だ、れ?」
 知らない顔だった。
 初めて見る顔だった。
 それ以前に、そもそもこの男は、どうやって家の中に入ったのか。このマンションはセキュリティが厳重な事でも知られており、マンションのエレベーターホールに辿り着くだけでも、住人だと証明する鍵が必要な仕組みだった。
 泥棒だとしても随分堂々としており、それに仕事道具らしき荷物も持ち合わせていない。両手は空で、背中もがら空きで、手荷物は一切見受けられなかった。
 グレーのコットンシャツに紺のネクタイを形良く絞め、細身のパンツを履いている。足首までの靴下は、親指の先端が少し薄くなっていた。
 スーツではないが、それに準ずる出で立ちといったところだ。上品にまとめており、一見した限りでは窃盗に走るようなタイプとは思えない。
 だが人間、見た目で判断するのは危険だ。過去の教訓を生かして警戒し、引っ込んだ涙の名残を指で拭い取る。
 警戒も露わに唇を引き結んだアリババを見て、しかし侵入者は何故か両手で顔を覆った。酔っているのか千鳥足でふらついて、カウンターの角に腰をぶつけて停止する。
「な、……なんという事でしょう」
 その状態で震える声で呻かれて、床の上にいたアリババはきょとんと目を丸くした。
 白に近い銀の髪を持つ男は、涙を引っ込めた彼の代わりに何故かむせび泣いていた。
「え。あれ?」
「なんたる……ああ、なんという事でしょう。ここ数日姿を見せないと思っていたら、まさかこんな幼気な子供を軟禁していただなんて。いつか、絶対何かやらかすと思っていましたけれど、本当にこんな真似をしでかすなど」
「え、っと。あの……?」
「だがもう心配はありません。君が涙を流す必要はなくなりました。このジャーファルが、君を、今すぐ。シンドバッドの魔の手から救い出して差し上げましょう!」
「は、はい?」
 唖然とするアリババを余所に、男はひとり早口に捲し立てた。妙に芝居がかったポーズを決めて天を仰ぎ、その後は不意に振り返って膝を折って跪く。下から掬い上げる形で手を取られ、ぎゅっと握り締められた少年はあまりにも唐突過ぎる展開に目を丸くした。
 完全に裏返った声で叫び、真剣な眼差しの男を呆然と見詰める。頬の筋肉がひくりと痙攣し、右の口角だけが不自然に持ち上がった。
 なんともぎこちない笑みを浮かべたアリババに、ジャーファルと名乗った男は目を細めて微笑んだ。
「え、えっと……」
「こんなところに閉じ込められて、さぞや辛かった事でしょう、苦しかったことでしょう。ですが、これからはなにも案ずる必要はありません。もう大丈夫ですからね?」
「いや、あの。貴方、いったい」
 いったい彼は、何を言っているのか。さっぱり分からないでいるアリババの戸惑いを余所に、男はやや高めの穏やかな口調で囁いた。
 人の手を左右から挟む形で握り締め、年頃の少女であればうっとり見入ってしまいそうな笑顔を浮かべる。だが残念ながら、こちらは年頃ではあるけれども、男子だ。綺麗な人だと思いはしても、見知らぬ相手への用心は消せない。安堵するどころか却って心を固く閉ざし、アリババは手を奪い返そうと肩を引いた。
 しどろもどろな小声での問いかけに、男は三度ばかり瞬きを繰り返してから嗚呼、と肩を竦めた。
「突然過ぎて信用して貰えないのも、無理ない事です。とても怖い思いをしたんですね」
 動揺を隠せずにいる理由を誤解し、声色をもっと柔らかくする。手を解かれ、代わりに左頬を撫でられて、アリババは肌に触れた熱にびくりと身を強張らせた。
 馴染みのない冷たさに背筋が粟立ち、爪先へと痺れが走った。床に添えていた膝が跳ねて、フローリングを叩く音がふたりの間を駆け抜けた。
 この男は、いったい誰なのか。
 告げられた名前に、聞き覚えはなかった。シンドバッドと知り合いのようだが、どういった関係なのかはさっぱり読み解けない。そもそも閉ざされたマンションの一室に、どうやって入り込んだのかがまだ不明だ。鍵は掛かっていた筈で、インターホンが鳴った記憶もなかった。
 瞬きも忘れて瞠目し、ふるりと身を震わせてからアリババははっと息を呑んだ。
 そういえばシンドバッドは、風呂に入る前に言っていなかったか。
 鍵を持って知り合いが訪ねて来る、と。
「もしかして」
 まさかこの男が、その知り合いだというのか。
「さあ、掴まって。立てますか?」
 停止しかけていた脳細胞に電流を流し、過去と現在が入り乱れる映像に奥歯をカチリと鳴らす。やがて導き出されたひとつの結論に騒然とする傍らで、男はアリババの肘を掴み、起き上がるよう促した。
 上に引っ張られたが、下半身に力が入らない。床を踏みしめようとして上手くいかず、靴下がフローリングを滑った。
「あっ」
「おっと」
 短い悲鳴は男の胸元に吸い込まれ、響くこと無く消え失せた。
 すっと伸ばされた腕に庇われて、呆気なく抱きしめられた。同じくらい細身なのに信じられない程の安定感を発揮されて、咄嗟に彼のシャツを掴んだアリババはかぁっ、と顔を赤らめた。
 シンドバッドのような煙草臭さは全く感じなかった。香水も付けていない。鼻につく匂いは一切せず、汗臭さといったものとも無縁だった。
 だのに背に回された腕は逞しく、心強い。子供をあやすようにトン、トン、と一定のリズムで叩いてくる手は優しくて、うっかり目を閉じればそのまま寝入ってしまいそうだった。
「大丈夫ですか?」
 アリババの方が年下というのは、外見から瞬時に判断出来た筈だ。だのに男は丁寧な言葉遣いを心がけ、口調を崩さない。
「……っ」
 耳元で問いかけられて、耳朶を掠めた微風にアリババはコクコクと忙しく首を振った。
 男の顔が、いやに近くにあった。
 スキンシップ過多なシンドバッドも良くこれくらいの近さから覗き込んで来たりするが、彼との付き合いは長い。互いに距離感は把握済みだし、なにより昔から一緒だったという慣れがあった。白龍も稀に額が擦れ合う所から目を合わせて来るが、彼とて全く知らない相手ではない。
 だがこの、ジャーファルとかいう男は。
「あの。もうひとりで大丈夫、です」
「そう、それは残念。ところで、可愛い君を泣かせたあの男は今、どこに」
「いや、俺別に、泣いてたわけじゃ……」
 話が通じているようで、通じていない。さらりと嬉しくない表現をされたが敢えて触れないようにして、アリババは驚いているうちにすっかり乾いてしまった目尻を擦った。
 涙を流しているところを見られて、恥ずかしさが先に立った。反射的に否定して、もごもごと言葉を濁す。赤らんだ頬を隠して俯いた少年に目を眇め、男は人の気配を探って視線を浮かせた。
 慎重にリビングを見回し、鼓膜を震わす微かな物音にキッ、と目尻を吊り上げる。
「そこかぁ!」
 開口一番怒鳴り、彼はアリババから離れて襟元に指を向けた。
 ガチャリとドアが開く音がした。それはアリババにも聞こえて、同時に駆けだした男に目を白黒させる。
「あー……良い湯だった。掃除の後の風呂は、やっぱり気持ちがいいなあ」
 リビングでなにが起きて居たなど知るよしもない男の暢気な声が廊下に響き、直後凄まじい轟音がマンション全体を貫いた。
「こンの……クズ野郎めが!」
「おぉ、ジャーファル、来てたんだな……って、ぐはあ」
 キッチン前に取り残されたアリババからは見えない場所で、男ふたりの声が交錯した。足下を揺らす騒音にも驚いて目を見張り、思わず頭を抱えて背中を丸めてから、そろり、恐る恐る廊下へ向かって足を踏み出す。
 暗い通路を覗き込めば、風呂場の照明が廊下の一部を煌々と照らしていた。
「うわっ」
 そこから視線を下に転じて行けば、テレビドラマにありそうな殺害シーンが今まさに繰り広げられようとしていた。
 首に巻いていたネクタイを凶器に変えた男が、素っ裸のシンドバッドに跨がって首を絞めていたのだ。
 なお、風呂上がりのシンドバッドは一応腰にタオルを巻いていたようだが、倒れた弾みで結び目が解けたらしい。白い布は彼の足下に沈み、途方に暮れた顔で天を仰いでいた。
 仰向けでなく俯せで倒れてくれてよかったと、一瞬でも思ってしまった。だが今はそんな事を考えてほっとしている場合でないとすぐに思い出し、アリババは首を振って生唾を飲み込んだ。
 広い背中に馬乗りになっている男の貌は、光の加減の所為もあろうが非常に禍々しく、恐ろしく映った。少し前まで優しく宥めてくれていた人物とはとても同じに見えず、彼は大量の冷や汗を流して廊下を駆け出した。
「ちょ、ちょっと! なにやってるんですか!」
 両手を振り回し、ふたりを引き離そうと間に割って入る。足音響かせながら飛び込んできた少年に驚き、男はシンドバッドの首に巻き付けていたネクタイをぱっと手放した。
 二重に巻き付けられていた布が緩み、気道を圧迫されていたシンドバッドが自由を取り戻すと同時に激しく噎せて咳き込んだ。抵抗して頸部を掻いていた手を口元へと移動させ、飛び散る唾を集めてぎゅっと握り締める。
 男ともみ合う形で玄関先へ倒れ込んだアリババは、なんとか生きている彼に安堵の息を吐いて強張っていた頬を緩めた。
「君、何故止めるんですか」
「ていうか、貴方こそなんなんですか!」
 そこへ下から怒号が聞こえて、はっと我に返って振り返る。一転して組み敷かれる格好になった男の台詞に怒鳴り返し、アリババは長い髪を床に広げているシンドバッドの傍へ駆け戻った。
 苦しげに呻いている男の背を撫でて、大丈夫かと繰り返す。突然の出来事に目を回していた彼は絞められた首を気にしながら頷き、アリババを安心させようとしてか無理のある笑みを浮かべた。
 絡まっていたネクタイを外してやり、少年は玄関先で呆然としている男を渾身の思いで睨み付けた。
 優しい人だと思ったが、騙された。矢張り物取りかなにかかと最初の警戒心を思い出して牙を剥けば、銀糸の髪を揺らめかせ、男は唖然としながら首を横に振った。
「どうしてそんな男を庇うのです。その男は、君を拐かしてこの部屋に閉じ込めていたような男ですよ?」
「……ちょっと待て、ジャーファル。なんだその設定は」
「犯罪者は黙っていてください」
「今まさに俺をくびり殺そうとしたお前がそれを言うか?」
 喉の調子を確かめていたシンドバッドが、聞き捨てならない発言に声をひっくり返した。十年来の付き合いで初めて聞く彼の素っ頓狂な叫び声にアリババは目を丸くして、おおよそ共通点がなさそうなふたりを交互に見詰めた。
 つい今し方ここで起きた出来事は、殺人未遂だ。傷害事件だ。しかし男は全く悪びれる様子がなく、憤然とした面持ちで家主を睨んでいた。
 恐らく彼が、シンドバッドの言っていた、この家の鍵を持つという知り合いなのだろう。
 ただその知り合いに襲われ、命を奪われそうになった理由が分からない。奇妙な誤解をしているのは理解したが、果たしてそれだけで人の命を簡単に刈り取れるものだろうか。
「あの、俺、別に……シンドバッドさんに拐かされたわけじゃないんですけど……」
「言わされているだけではありませんか? 無理をしなくていいのですよ」
「いや待て、ジャーファル。その言いぐさはあんまりだろう。どこまで信用がないんだ、俺は」
「貴方の言葉など、ひとつとして信用に足るわけがないでしょう。大体、この数日、いったいどこをほっつき歩いてたんですか。学校の講義には出て来ない、会議も無断で欠席する、書類の提出期限もすっぽかして、みんなカンカンですよ。そもそも、部外者である筈の私のところに、貴方への問い合わせが全部回ってくるのはどうかと思うんですけれど。少しは私の迷惑も考えたらどうなんですか」
「えっ。シンドバッドさん、大学行ってなかったんですか?」
「ぎく」
 誤解を解こうとしたアリババのひと言に端を発し、我慢の限界が来たのかジャーファルが大声で捲し立てる。息継ぎを挟まない早口を耳にして、アリババも知らなかった事実に声を上擦らせた。
 二方向から鋭い視線を向けられて、一番の被害者であるべき男は挙動不審に目を泳がせた。
 シンドバッドは何も言わなかった。だが引き攣った頬や開閉を繰り返す唇、そして額やこめかみを流れる大量の汗が、ジャーファルの弁が真実だと証明していた。
 アリババの父であるラシッドが倒れて、丸二日。入院初日こそ夜を徹して付き添った彼だったが、今日は学校に行くよう、大人達から繰り返し言い聞かされて渋々了承した。
 しかしその、子供を説得した大人の方が仕事に出かけていなかった。父が心配で授業どころでなかったアリババの苦しみを、シンドバッドとて知らないわけではないというのに。
「あの、いや、あの……あのね?」
「こちらからの電話には出ない、メールをしても返事はない。学校に居たと話を聞いて駆けつけても、とっくにどこかに雲隠れした後。やっと電話が繋がったと思ったら、鍵を持って来いとそのひと言だけ。いったい、貴方の所為で、私の貴重な時間がどれだけ潰れたと思ってるんですか。分かってるんですか。私、貴方の助手でもなんでもないんですけど?」
 自分の胸を乱暴に叩き、ジャーファルが並々ならぬ剣幕で怒鳴り散らす。弁解の余地がないのか、アリババにも冷たい目を向けられた男は途端にしおしおと萎びて小さくなり、タオル一枚すら身に着けぬまま膝を抱えて丸くなった。
 まだ湿っている髪の毛で素肌を部分的に隠し、頭を抱え込んで鼻を愚図らせる。俯いてしょぼくれている姿は、三十手前の大人には到底見えなかった。
「シンドバッドさん」
 一方的に糾弾されて、言い訳ひとつさせて貰えなかった。もっとも弁明するだけの材料があったかどうかは不明だが、こうも落ち込まれると可哀相に思えて来るから不思議だ。
 ラシッドに自説を論破され、廊下で項垂れていた若かりし彼を思い出し、アリババは肩を竦めて嘆息した。
 だが。
「だってさー、仕方ないじゃん。アリババ君がまた眠れなくなってるみたいだからさー。新しい寝物語とか考えた方が良いのかなー、って思ったからさー」
「ぎゃああ!」
 下向いたままの彼がぼそぼそ言い始めたのを受けて、湧き起こった羞恥に負けたアリババは咄嗟にシンドバッドの後頭部に手刀を叩き込んだ。
 顔面どころか耳の先まで真っ赤に染めた少年の足下で、ドゴンッ! と今までにない爆音を奏でた男の髪が扇のように広がった。その中心部からはうっすら白い煙が立ち上り、額をフローリングに埋め込んだシンドバッドは呻き声すら上げずに力尽きて倒れ伏した。
「あ……」
 やってから自分の行動に気付いたアリババが、骨に残るじんじんする痛みに顔を青くして右往左往する。ぴくぴくと痙攣を起こして悶絶している男の肩を揺り動かし、大丈夫かと呼びかけるが返事は得られなかった。
 ひとり焦って顔色を悪くしている少年に見入り、ジャーファルは緩慢に頷いて肩を落とした。
「では君は、本当に、その男に無理矢理連れて来られたわけではないのですね」
「当たり前です!」
 至極冷静に問われて、それどころではなかったアリババは声を張り上げて頷いた。
 白目を剥いているシンドバッドをこのまま放置するわけにもいかず、着せる物はないかと探しに立ち上がる。だが具体的にどこを漁れば良いのか分からなくて困惑していたら、盛大にため息をついたジャーファルが腰を浮かせた。
 膝に手を置いて身を起こし、皺まみれになっている自身のネクタイを拾い上げて胸ポケットへと押し込む。その足で廊下に横たわる男を跨ぎ、彼はすたすたと歩き出した。
 行き先は、昨晩アリババも世話になったシンドバッドの私室だった。
「あの」
「放っておいても、シンはしぶといですから、あれしきでは風邪も引きませんよ。しかし、裸のまま捨て置くのは些か見苦しいですからね。致し方ありません」
 追い抜かれ、アリババが遠慮がちに呼びかける。彼は振り向かずに言い放ち、慣れた動きでドアを開けた。
 部屋の主に断りもせず足を踏み入れ、床に積み上げられている本やら発掘品やらを巧みに避けて奥へと突き進む。戸口から中を覗き込んだアリババは、クロゼットから引き抜かれた厚手のバスローブに目を見張った。
 迷うことなく引き出しを開けたジャーファルに、驚きを隠せない。シンドバッドがどこに何を収納しているのか、彼は当然のように知っているのだ。
「上に被せておけば、気付いた時に自分で着るでしょう。どうぞ」
「……あ、りがとう、ございます」
「それで。シンがナンパして連れて来たのでないとしたら、君はいったい、あの男とどういう関係なのですか?」
「人を尻軽みたいに言うんじゃない、ジャーファル」
「おや、もう起きたのですか。意外に早かったですね」
 戻って来た彼に手渡されたその時、廊下から物音がした。振り返って確かめるまでもなくて、ジャーファルはアリババに託したばかりのバスローブを取り上げて横へ放り投げた。
 空中で花開いたそれを受け取り、シンドバッドは素早く袖を通して前を隠した。
 そのふたりの、遠慮というものが感じられないやりとりを目の当たりにして、アリババはぽかんと開いていた口を閉じた。
 もやっとしたものが舞い戻ってきて、胸全体を覆い隠してしまう。細く尖った棘が心臓を引っ掻いて、突き刺さる痛みはなかなか消えてくれなかった。
「……仲良いんだ」
 自宅の鍵を預けるような相手だから、親しいのは当たり前だ。その相手が女性でなかったと知ってほっとしたのも束の間、前にも増して悶々としている自分に気付き、アリババは上手く説明出来ないこの状況に眉を顰めた。
「アリババ君」
 だが周囲は、彼を待ってくれない。心の整理がつかないまま名前を呼ばれて、アリババはバスローブ姿のシンドバッドを追ってリビングに向かった。
 ジャーファルも一緒だ。窓辺に近いソファに腰を下ろしたふたりを眺めて、彼は一瞬躊躇し、キッチンを振り返った。
「ああ、いいよ。アリババ君。気にしないで」
「でも、お茶くらい……」
「なぁに。用が済んだらすぐ帰らせるから。紹介するよ、ジャーファルだ」
「それはもう、私の方で済ませてますが」
「あれ、そう? いつの間に?」
 カウンターの前で足踏みしている彼を手招き、シンドバッドがにこやかに告げる。差し向けられた掌を叩き落としたジャーファルが低い声で告げて、初耳だった男は目をパチパチさせた。
 彼が風呂に入っていた所為で、妙な誤解が生まれたのだ。蹲って泣いていた所を見られたのも思い出して、アリババは勝手に赤くなる頬を拳で擦った。
「さっきは、その、どうも」
「こちらこそ、とんだ失礼を。先ほども申し上げましたが、私はジャーファル。シンドリア大学の博士課程に籍を置いています」
 その事には言及せぬまま頭を下げる。ジャーファルも弁えているのか言葉少なに誤魔化し、簡単な自己紹介を済ませて掌を胸に押し当てた。
 ぎこちなく感じられた空気も、瞬く間に和やかな雰囲気に切り替わった。良く知っている学校名にアリババは緊張を緩め、嗚呼、と緩慢に頷いた。
 それはシンドバッドが勤務する大学に他ならなかった。
「じゃあ、シンドバッドさんの」
「いいえ? 私は経済学専攻ですので、この男の講義など一度も聞いた事がありません。ええ」
「は、あ……」
 ならば彼も考古学を嗜んでいるのかと思って身を乗り出せば、即座にきっぱり否定されてしまった。
 会話の糸口をジャーファルの方から断ち切られてしまった。呆気にとられて唖然としていたら、彼の向かいに座っていたシンドバッドが苦笑して右手首をひらひら振った。
「コイツはな、まあ……色々あってな。学内で開催された学会の手伝いに駆り出されていた時に、あんまりにも手際が良かったもんだから、つい」
「関係無いのに色々と用事を押しつけられて、こっちは大迷惑ですよ。私だって、これから自分の研究発表が控えているというのに」
 そういえばジャーファルは、シンドバッドの助手ではないと自分で宣言していた。言葉を濁したシンドバッドの説明に、他学部なのに哀れにも彼に気に入られてしまった若き研究者は憤慨して胸の前で腕を組んだ。
 ソファの上で身体を上下に揺らした彼の怒りは、分からないでもない。シンドバッドはとにかく人を巻き込む。良くも悪くも、彼はひとりでは生きていけない人間だった。
「なんだか、すみません……」
 そして今回、シンドバッドが不登校になった原因は、間違いなくアリババにあった。
 知らなかったとはいえ、責任を感じずにはいられない。開き直っているシンドバッドに代わって謝罪を口にした彼に、まさか謝られると思っていなかった大人ふたりは揃って目を丸くした。
「どうして君が頭を下げるのです。悪いのは、全部、このダメ男ですよ」
「でもシンドバッドさんに迷惑かけたの、俺の方だし。それでジャーファルさんに皺寄せがいったんだったら、やっぱり俺が一番悪いです」
「いやいや、アリババ君。何を言っているんだい、君は」
「そうです。非難されるべきはこの男、ひとりです」
 ジャーファルがびしっとシンドバッドを指差し、必死の形相で捲し立てる。これまで積み重ねて来た分も含め、ここぞとばかりに攻撃を繰り広げてくる彼に渋い顔をして、アリババの保護者を一時的に買って出ている男は苦い唾を飲んで頭を掻いた。
 全責任はシンドバッドにある。そう声高に主張される度に、却ってアリババの表情は暗く沈み、翳っていった。
 俯いてシャツを握り締める彼に戸惑い、ジャーファルが言葉を切る。利き手を中途半端なところで泳がせた友人に首を振り、シンドバッドはソファから立ち上がった。
「いいかい、アリババ君。先生が倒れたのは、間違っても君の所為じゃない。あと、君を預かる事について、俺は少しも迷惑だとは思っていないから。むしろね、こんな事を言ったら先生に怒られるかもしれないけれど、俺は嬉しいんだよ。君はどんどん大きくなっていったからね。最近はちっとも甘えてくれなかったから、少し寂しく感じていたんだ」
「シンドバッドさん……」
「だからそんな風に、悲しそうな顔をしないでくれ」
 言って、彼は手を伸ばした。アリババの顎を軽く抓み、くいっと上向かせてその瞳を覗き込む。艶を帯びた琥珀色の眼をじっと見詰められて、アリババは背筋を戦慄かせた。
 優しく微笑む男から目を逸らせない。言葉を発しようとした唇は痙攣し、音もなく引き結ばれた。
 どくん、と心臓が強く嘶く。長く奥底で蟠っていたものが熱いマグマに押し上げられ、木っ端微塵に砕けた末に地球圏外から放逐された。
 すっと心が軽くなった気がして、アリババはコクリと頷こうとした。
 それを。
「あー、はいはい。なんです、なんです? つまりこの子は、シン、貴方にとって家族も同然だと?」
 横から割り込んできた声が問答無用で遮った。
 聞いているだけで恥ずかしくなる台詞を、事も無げに言い放たれて背筋が凍えそうだ。夏も目前だというのに寒いと鳥肌立った腕を撫でさすり、ジャーファルは比較的早口で問いかけた。
 さりげなくシンドバッドとアリババを引き剥がした彼に、アリババは一瞬だけ目を見開いて硬直した。
「まあ、そうだな」
 顔を上げれば、シンドバッドの横顔が見えた。彼は困った風に頭を掻き、一呼吸挟んでから言葉少なに首肯した。
 ズキン、と胸の奥がひび割れたように痛む。見えないところに衝撃が走り、アリババは咄嗟に腕を交差させて自分自身を抱きしめた。
「年の離れた弟、みたいな感じかな。な、アリババ君」
「え? え、あ、はい。そうですね。俺も、シンドバッドさんの事、ずっとお兄ちゃんみたいだって」
 だがシンドバッドは、彼の変化に気づきもしなかった。幾分トーンが高い声で話を振られて、アリババもまた些か上擦った声で言い返した。
 動揺が見え隠れする表情で頷き、握り締めていたシャツを手放す。告げてから後悔に襲われて項垂れる彼を盗み見て、ジャーファルは何とも言えない顔をして唇を引き結んだ。
「しかし、シンにこんな可愛らしい弟分がいるとは知りませんでした。というか、彼と、貴方から預かっていたこの鍵と、どういう関係が?」
「ああ、そうだった。忘れるところだった」
 このままだと二人とも黙り込んでしまう。沈鬱な空気に巻き込まれるのは願い下げだと嘆息し、彼はポケットを探ってキーホルダーも何も無い鍵を取り出した。
 中央に太い溝が一本走り、その左右に非対称な凹凸が刻まれている。マンションのオープンスペースに入るにもこれが必要で、スペアキーを作ろうと思えばそれなりの時間と資金が必要だった。
 だからアリババは、シンドバッドと一緒でなければこの家に入れなかった。
 これまで不便を感じた事は無かったが、今後共に生活していく上で、鍵は必要不可欠だった。大体において、アリババの方が帰宅時間は早い。シンドバッドが大学から帰ってくるのを外で待ち続けるのは、あまりにも非効率的だった。
「アリババ君を、暫く、うちで預かる事になってな」
「へえ、そうなんですか――って、えええっ!?」
「ん?」
 既に決定事項となっている内容を事も無げに告げて、シンドバッドが胸を張る。その勢いにつられてうっかり相槌を打ってから、ジャーファルは素っ頓狂な声をあげて呆然と目を見張った。
 だがなにを驚くことがあるのか、シンドバッドには分からない。きょとんと小首を傾げた、一応は上司に当たるかも知れない人物に唖然とし、彼は詳しい説明を求めてアリババを振り返った。
 目が合って、肩を抱こうとする太い腕をはねのけた少年は、昼間に後輩と交わした会話を思い出してため息をついた。
「ええと、その。俺の父が、この前倒れちゃって、暫く入院が必要になったんですけれど」
 あと何回、この話をすれば良いのだろう。正直かなり面倒臭く感じており、アリババは事の仔細は省いて要点だけを並べていった。
 父とシンドバッドが旧知の間柄だという事。アリババ自身、彼と十年来の付き合いがあること。そして自分には、他に頼れる身内が居ないこと。
 未成年を一ヶ月以上ひとりで放置するわけにはいかない。だから預かる事にした。途中からはシンドバッドも説明に加わり、一通り納得がいく回答を得られたジャーファルは黙って首を縦に振った。
 ふたりの話に違和感はなく、口裏を合わせているとも思えない。嘘ではないと判断し、彼は長く握っていた所為で体温が移ってしまった金属片をアリババへと差し出した。
「どうぞ」
「あっ、ありがとうございます」
 受け取って、アリババは元気よく頭を下げた。この鍵一本の為に随分と遠回りをした気がするが、どうにか目的が達成出来てほっとする。
 シンドバッドも同じ気持ちでいたらしく、両手を腰に当てて目を細めた。
「こんな時間に、すまなかったな」
「ええ、本当ですよ」
「わざわざすみませんでした」
「アリババ君は気にしないでください。さて、では、シン」
 空になった手を握り、ジャーファルが爪先で床を蹴る。歩き出そうとしていると知り、シンドバッドは道を譲るべく左に退いた。
 これで用は済んだと笑顔を浮かべ、送り出すべくひらりと手を振る。
 だが。
「気をつけて帰れよ」
「……何を言っているんです?」
 別れの文句を口に出した彼に、踵から着地したジャーファルが怪訝そうに眉を顰めた。
 下からねめつけられて、予想していなかった返答にシンドバッドが目を丸くする。アリババも驚きを隠せず、きょとんとジャーファルの白いうなじを見詰めた。
「なにか、あったっけか?」
「まさかとは思いますけれど。今日が提出期限の書類のこと、忘れてなんかいませんよね?」
 突き刺さる眼差しから逃れようと足掻き、シンドバッドが後退を図った。だがそれを許さず、一歩を踏み出したジャーファルが棘のある口調で凄んで彼の足を思い切り踏みつけた。
 ドスン、という痛い音がアリババの耳にも響く。親指の付け根を直撃した重圧に、シンドバッドは声にならない悲鳴を上げて身を震わせた。
 ジャーファルの容赦ない攻撃に、何もされていないアリババの背筋までもが寒くなった。苦悶の表情で懸命に空を引っ掻き回している家主に苦笑を禁じ得ず、少し楽しそうに見えるジャーファルの横顔にも頬を引き攣らせる。
「言っておきますが、私は作りませんからね。大人しく観念して、さっさと提出なさい」
「じゃ、ジャーファルくん。あれはそんな、一時間や二時間で作れるものじゃ」
「何を言っているのです。眠らない限り、永遠に明日なんてものは来やしませんよ」
「ジャーファルくんのオニー! アクマー!」
 耐えられなくなって膝を折ったシンドバッドに追い打ちを掛け、一切妥協しない。アリババへはあれほど優しく接して来たのに、その豹変ぶりには感嘆するしかなかった。
 いったいどちらが、彼の本性なのか。分からなくて当惑していたら、どこからともなくぐぅぅ、と間抜けな音が響き渡った。
「ん?」
 馴染みのある音色に目をぱちくりさせ、アリババは小首を傾げた。前方ではようやくシンドバッドから踵を外した青年が、少々恥ずかしそうに耳の端を赤くしていた。
 両手で腹を押さえて背中を丸める姿に、腹痛を起こしたのかと勘繰りかけて。
「ああ」
 すぐに違うと悟り、彼は両手を叩き合わせた。
「カレー、余ってるのありますよ。食べますか?」
 夕飯に作ったカレーは、一度で食べきるには量が多かった。だから明日の弁当にでもしようとタッパーに移し替え、冷ましておいたのだ。
 思い出し、声を高くして問う。すると大人二人は同時に顔を上げ、
「アリババ君、そんなの良いから」
「それは是非、いただきます」
 同じタイミングで叫んだ。
 重なり合った声に苦笑して、アリババは頷いた。踵を返し、カウンターへと向かう。
「さあ、シン。貴方はさっさと資料集めに向かいなさい。書類が完成しない限り、寝るのは許しませんからね」
「ひどい! アリババ君、助けて!」
「そう言われても……お仕事サボったシンドバッドさんが、一番悪いんだし」
「アリババ君、君は本当に良い子ですね。今度一緒に映画なんてどうですか?」
「あ、良いですね。何の映画ですか?」
「あの、ちょっと」
 足蹴にされ、シンドバッドが助けを求めて手を伸ばす。だが無邪気な少年はさらりと正論を口にして、縋る男を払い除けた。
 目の前で取り交わされる約束に、割って入る事さえ許されない。完全に蚊帳の外に捨て置かれて、シンドバッドは頬をひくりと震わせた。
 確かに期日を守らなかった責任は、自分にある。
 しかし、この扱いはあんまりではないか。
 和気藹々と和むふたりに見放され、裸体にバスローブ姿の男は床の上で背中を丸めた。噎び泣くが、慰めの言葉は待てど暮らせど降って来ない。
 その日、シンドバッドの部屋の電気は、一晩中消える事が無かったという。

2013/4/7 脱稿