薄緑

 春は、お気に入りの季節のひとつだった。
 風は温くなり、布団を出るのが格段に楽になった。水道の蛇口を捻って出る水も、突き刺さりそうな冷たさとは無縁になった。
 なにより、分厚くて動くのに邪魔なコートを着なくて済む。動植物も冬の寒さを忘れて元気を取り戻し、山の斜面は日増しに緑が濃くなっていった。
 空の色も、冬場とほんの一寸だけ変わったように思う。五月蝿い自動車のエンジン音をかわして急峻な斜面を駆け上がり、日向翔陽は目映い太陽に顔を綻ばせた。
 親がくれた名前の通り、太陽に向かって真っ直ぐ飛翔する。自転車のハンドルを巧みに操作してふわりと浮いた車体を路面に着地させ、彼は驚いているドライバーにニッと白い歯を見せた。
 何の変哲もないシティサイクル、俗に言うママチャリをマウンテンバイクさながらに操り、傾斜角も険しい坂道をどんどん登っていく。最初の頃は汗だくになった道程も、ここ最近は慣れたお陰かかなり楽になっていた。
 この調子なら、現在の目安になっている三十分という通学時間を突破する日も近い。たとえ一分であろうとも短縮出来るのは嬉しくて、日向は満面の笑みを浮かべてペダルを踏みしめた。
「よい……っとぉ!」
 威勢良く声を響かせ、走る自動車と競争しながらカーブを曲がる。残念ながら勝負は日向の一方的な敗北に終わったが、エンジンを吹かせながら走る車に懸命に追い縋る姿は、ある種の感動さえ呼び起こした。
 最後の坂道を登りきろうと歯を食いしばり、顔を真っ赤にして鼻から荒い息を吐く。肩を怒らせて進むその表情は、仁王か明王を連想させた。
 こめかみにまで血管を浮き上がらせて、早朝の道を自転車で走り抜ける。最後の難所を通過するその瞬間、意識は半分彼方へと旅立っていた。
「ふん、ぬぅ……うがー!」
 獣に似せた雄叫びを上げ、サドルから腰を浮かせて爪先に全体重を押し込む。まだ交換して間がないというのに、既に溝が浅くなってつるつるしているタイヤがアスファルトを削った。渾身の力を込めた彼の目には、澄み渡る空しか映っていなかった。
 こうまでして一分、一秒をも惜しむのは、負けたくない相手がいるからだった。
 きっとあの男が同じ高校に進学していなければ、日向はここまで我武者羅にペダルを漕ぐこともなかっただろう。毎朝目覚まし時計よりも早く飛び起きて、身支度を済ませて朝食を胃袋に掻きこむことだってなかったはずだ。
 影山飛雄。県内有数の強豪中学校から烏野高校にやってきた、烏の羽と同じ色の髪を持つ男。
 それが、日向にとって絶対に負けられない相手だった。
 中学三年生の夏前に参加した大会で、日向は彼が所属するチームに惨敗した。王様と呼ばれていた影山は当時から技術的にも優れたプレイヤーで、反面精神的には未熟としか言いようがない存在だった。
 試合の度にチームメイトといさかいを起こし、積み重なった軋轢によって最後は仲間から背を向けられた孤独な天才セッター。とはいうものの、日向は彼の中学時代にはさして興味がない。重要なのは今、この瞬間、彼が自分にトスをあげるかどうか、だけだった。
 昔は敵同士だったが、高校進学後の彼は同じチームに所属する大事な仲間だ。かといって、すぐに仲良くしましょうと握手出来るわけがない。なにより日向は、彼に勝ちたくて烏野に来たのだ。その信念は、そう簡単には曲げられなかった。
 恐らくは影山も、同じように感じている。だからふたりは何かにつけて反目し、あれこれとスピードを競い合っていた。
 学校への到着時間も、昼飯を食べ終わる速度も。部活前に制服からジャージに着替える素早さも、練習後に食べる肉まんの個数だって。
 周囲からは馬鹿だなんだと言われているが、なにかひとつでも彼に勝るものが欲しかった。身長も、バレーボールの技量でも日向は影山に敵わない。だからそれ以外で優位に立てるなにかを、是が非でも確立させておきたかった。
 その候補のひとつが、毎朝始業前に行われている早朝練習への到着時間だった。
 体育館が使えるようになるのは、基本的に朝の七時からだ。鍵は部員が持ち回りで管理し、当番が集合時間前に扉を開けるのが決まりになっている。
 その、当番に次いで二番目に体育館に入る順序を競うのが、日向と影山の習慣だった。
 戦績は、ほぼ五分と五分。但し今に至るまで、日向がリードを取ったことは一度もなかった。
 追いつけそうで、追い越せない。片手でも余る差でしかないが、悔しいことこの上なかった。
「今日こそ、は、勝っ……」
 昨日、一昨日と連敗を喫しているだけに、これ以上負けを重ねるわけにはいかない。このまま引き離されるのだけは絶対に御免だと小鼻を膨らませ、日向は頭の天辺から湯気を噴いてハンドルを握り締めた。
 ようやく到達した坂の終着点に安堵の息を吐き、額を伝った汗にかぶりを振る。上を見れば青空が一面に広がり、白い綿雲がぷかぷかと気持ち良さそうに泳いでいた。
 鳥のさえずりがどこからともなく聞こえてきた。春を待って活動を活発化させた動物たちの気配に頬を緩め、日向は後少しだと右手に広がる緑の草地に顔を綻ばせた。
 遅咲きの桜ももう散って、青々とした葉を枝いっぱいに茂らせていた。野良猫の姿は見えないが、目一杯背伸びをしている雑草の間からは可憐な白い花が顔を出していた。
 妹が喜びそうだが、摘んだとしても家に帰る頃には萎れてしまっているだろう。夜、月明かりだけを頼りに探し回るのも、あまり賢い選択肢とは言えない。
 彼女には諦めてもらうより他になかろう。日増しに我が儘になってきている日向家の姫君を思い浮かべて目を細め、その兄たる少年は登りとは打って変わって楽しい下り坂に相好を崩した。
「いっけーぃ!」
 掛け声一番、日向は体重を前に傾けブレーキを手放した。
 瞬間、二輪車は凄まじい速度で急斜面を滑り始めた。銀色のホイールが目にも留まらぬ速さで回転し、唸る風が日向の額や頬を容赦なく叩いた。
「うぃえーいぃぃぃ」
 後ろから迫る車がないのを確かめて車道の中央に出て叫べば、声はあっという間に後ろに飛ばされていった。
 疲労困憊だった両足はペダルを漕ぐ必要がなくなって、これ幸いと前方へ投げ出された。靴底を進行方向に向けて背を仰け反らせれば、自然と上を向いた視線が再び春の空を捉えた。
 そこへクラクションが響いて、はたと我に返った日向は急ぎ姿勢を正して車体を路肩に寄せた。道を譲られた車は瞬時に彼を追い越し、エンジン音の余韻を残して消えていった。
「あっぶな」
 ちょっと調子に乗りすぎた。危うく轢かれるところだったと反省し、出すぎたスピードを調整しようとブレーキに指を引っ掛ける。
 そこへ。
 ふわり、と。
「ふへ?」
 なにかが彼の視界に紛れ込んだ。
 刹那。
「――ぎゃ!」
 日向は顔の右半分に覚えた衝撃に悲鳴をあげた。
 宙を舞う何かとぶつかった。弾みでうっかりブレーキを強く握りすぎてしまい、急激に速度を落とした車体がバランスを欠いて右に、左に大きくふらつく。あと少しで反対車線に飛び出すところで、慌ててハンドルを左に切って自転車を戻せば、今し方彼に体当たりしたと思われるものが辛うじて見えた。
 蝶だ。
 黄色と黒が入り混じった、比較的大きいサイズの蝶。それが、高度を上げようとしてか、路面に近い場所で懸命に羽ばたいていた。
「いっつ、ぁ……」
 奥歯を噛み、日向は低く呻いて首を振った。
 正面からぶつかり合った痛みは、実はさほど感じなかった。だがどうしてだか、直ぐに右目が開けられない。中に何か入ったらしく、眼底がずきずきして涙が止まらなかった。
 一緒に鼻水まで垂れてきて、息と一緒に吸い込むが痛み自体は消えてくれない。目を閉じた状態で瞼の上から擦ってみるが、疼きが酷くなっただけだった。
 無事な左目だけでは距離感が上手く掴めない。溢れ出た涙で眼球の表面は洗い流されているのに、足りないのか、指で奥を抉られるような感覚が絶え間なく続いた。
「げええ、なんだよこれぇ」
 どうにか瞼は開くが、涙が残っている所為か視界はぼやけてうっすら靄がかかったようだった。何度か瞬きをしているうちに少しはマシになったものの、依然として細い針で目玉を突かれている錯覚は消えず、日向を苦しめた。
 まさか蝶と顔面衝突するなど、夢にも思わなかった。
 バレーボールならば何度か食らったことがあるが、あれは目に入る大きさではない。だが今回は、昆虫だ。細い足が突き刺さり、引っかかれたのだとしたら、網膜に傷が入っていても可笑しくなかった。
「うぐぅ」
 本当は自転車を停車させたかったが、時間も差し迫っている。影山に負けたくないという気持ちと、痛みから逃れたい気持ちが心の中で鬩ぎ合い、激しい鍔迫り合いを繰り広げていた。
 拮抗しあう願いに鼻を愚図らせ、日向は涙を堪えてペダルを漕いだ。
 道はいつの間にか平坦になり、学校までの距離は残すところあと僅かだった。
 この際、影山に勝ってから存分に目を擦ってやる。体育館脇には水飲み場もあるので、そこで顔を洗うのも可能だ。思いを巡らし、方向性を定めて、彼はずび、と鼻を鳴らして上唇を噛み閉めた。
 とはいっても、痛みの所為もあって集中力は長く続かなかった。
 早めに家を出たのと、不慮の事故に遭遇するまで順調だったお陰もあり、計画した通りの時間に学校には到着できた。
 これで蝶との衝突が避けられていたなら、最速記録が達成されていただろうに。惜しくてならず、日向は毎日世話になっている駐輪場に自転車を置きに行こうとして速度を緩めた。
 最後の上り坂を終えて、呼吸は乱れて息は絶え絶えだった。
「っくそ、くそー!」
 どうしてあのタイミングで、蝶があの場所を飛んでいたのか。神様の気まぐれとしか思えない出来事にひたすら悪態をつき、日向は自転車を飛び降りて顔を伏した。
 これまでの人生で、蝶が顔にぶつかったのはこれが初めてだった。
 飛んで来た砂が目に入ったり、体長二ミリとない羽虫が鼻の穴に入ったりしたことなら、数え切れないほど経験している。だが今回は、規模が違う。一瞬しか見えなかったが、右目に激突した蝶は十センチ近い大きさだった。
 もう少し早く気付けていたら、避けられただろうか。人並み外れた運動神経の持ち主という自負がある手前、躱せなかったのもまた悔しくて仕方がなかった。
「いって……」
 思い出したらまた痛みがぶり返してきて、日向は濡れた頬を拭うついでに手の甲で目尻を押し上げた。
 自転車に鍵をかけ、前籠から荷物を引っ張り出す。その間も涙はなかなか止まらず、眼底に響く疼きも消えなかった。
 気にした方が負けとも考えるが、なにせ右目だ、気にならない訳がない。しかも悪いことに、地面に降り立った瞬間ほっとしたためか、それまで少しも頭になかった嫌な想像が次々押し寄せてきて彼の不安を煽った。
 もしこのまま痛みが引かず、逆に酷くなっていったらどうしよう。万が一失明などということになったら、バレーボールを続けるなどどうやっても不可能だ。
「え、あ。やだ」
 最低最悪な結末を予想して、背筋が凍える。悪寒が駆け抜け、鳥肌が立った腕を庇って日向は無自覚に呻いた。
 一オクターブ高い声で呟き、相変わらず綺麗に晴れた空に目を見張る。遅れて震えがやって来て、彼は内股に膝をぶつけ合わせた。
 こうしている間も、右の瞼を開けたままでいられなかった。
 折角最強の囮としての地位を確立したというのに、こんなところで自分のバレーボール人生が終わってしまうとは。誰も予想だにしなかった結末に喘ぎ、彼は奥歯をカチカチ噛み鳴らした。
 滅多にない出来事に頭は混乱し、思考回路はぐちゃぐちゃだった。
「日向?」
 自転車置場にひとり惚けた顔で佇み、声もなく涙を流す彼の後ろ姿は、正門へ続く坂道の只中からも当然のように見えた。
 名前を呼ばれ、日向はハッと振り返った。
「か……っ」
「なにやってんだ?」
 息を呑み、声を喉に詰まらせる。鼻声には気付かず、駐輪場の入り口に立った青年は怪訝そうに首を傾げた。
 距離があるので、日向が今どんな表情をしているのかまでは分からないのだろう。だが様子が可笑しいとは感じ取ったようで、彼は一瞬躊躇してから進路を変更した。
 正門へ向かおうとしていた足を引き戻し、近づいてくる。日向はその場から動くことなく彼を待ち、ひっく、としゃくりあげた。
 彼の性格がもっと悪ければ、三連勝を目論んでさっさと校内に入ってしまっただろう。だのに影山は立ち尽くす日向の異常を知り、様子を確かめるべく距離を詰めてきた。
 そういう心配性でお節介な面があるから、彼を嫌いになりきれない。頼れる仲間と認識し、いがみ合って喧嘩する度に後悔に苛まれてしまう。
「かげ、やむぁ」
「げっ。なに泣いてんだ、オマエ」
 自転車を漕いでいる間はひとりきりだから、誰にも相談出来なかった。話を聞いてくれる相手が現れただけでも心の箍が緩み、涙腺は一気に崩壊した。
 無事な方の目からもだばっ、と涙を溢れさせた日向に、残り二メートルのところまで迫っていた影山はぎょっとして顔を引き攣らせた。
 顔を向き合わせた途端に泣き出されて、驚かない方が可笑しい。なにか変な事をしたかと、真っ先に自分の素行を振り返った彼は、そんなわけがないと二秒後に我に返って眉を顰めた。
「腹でも痛ぇのか」
「ちが、目……目ぇ……」
「羊?」
「ちっがーう!」
「うっせーな。ンな怒鳴んな。冗談に決まってんだろ」
 近づくに連れて日向の異様さがありありと感じられて、愚図りながらかぶりを振った彼に影山は耳を塞いだ。
 ちょっとしたジョークだと言われても、身に迫る危機に臆している日向は笑えない。頭の天辺から煙を吐いて、彼は地団太を踏んで丸めた手を顔に当てた。
 頬骨の上の湿り気を先に拭い、下から押し上げる形で目を擦る。
 途端、影山の表情が俄かに険しくなった。
「おい、擦んな」
「だっ、いたい」
「中になんか入ってんのか」
 瞼の上から圧迫される眼球を見て、彼は声を荒らげた。
 急ぎ手を伸ばし、日向の細い手首を掴む。引き剥がされて抵抗するが、屈強な体躯の持ち主相手ではやる前から勝敗は決まっていた。
 肩を突っ張らせるが無意味で、力の差を見せ付けられた日向は不満そうに頬を膨らませた。しかし影山は気付かず、背中を丸めて目線の高さを僅かに下げた。
「睫か?」
 目に入りやすいものの代表格を呟いた彼に、日向は真っ赤になっている右目を向けた。輪郭がぼやけているので、余計に距離感が計りづらい。見えなくて何度も瞬きをしていたら、一点の混じりもない黒がぐっ、と迫ってきた。
 覗きこまれ、日向は自動的に首を後ろに倒した。
「ちがう」
 奥歯を噛み鳴らしながら呻き、ゆるゆる首を振る。否定されて、影山は眉間の皺を深めた。
「じゃあ、なんだ」
「蝶……」
「ちょう!?」
 右手を掴んだまま質問を重ね、得られた回答に素っ頓狂な声を上げる。予想の斜め上を行く返事に驚き目を丸くして、彼は背筋を伸ばして仰け反った。
 黒が遠くなった。不自由な視界で追いかけて、日向は恥ずかしそうに頬を赤らめた。
「蝶って、あの蝶か」
「あのひらひら飛んでる蝶だよ」
「なんでまた、そんなモンが……あ、いや。入るわけねーから」
「チャリ漕いでたら、ぶつかった」
「……器用だな」
「ほっとけ」
 念のためと確認してきた彼に頷き、呆れられて足を繰り出す。蹴られた影山は即座に片足を引っ込め、膨れ面のチームメイトに肩を竦めた。
 自転車を操縦中に飛んでいる蝶と衝突したという話など、未だかつて聞いたことがない。ただ高速で坂道を駆け下りている最中だったと言われたら、そういう不運もあるかもしれない、と素直に思えた。
 ゆっくり歩いている時ならば、おおよそ有り得ないことだ。たまたま運が悪かっただけと慰めにならない言葉で慰めて、彼は日向の赤い目に苦笑した。
「鱗粉でも入ったんだろうな」
「なんか、ずきずきする」
「だから、擦るなっつってんだろ」
 蝶の羽に付着している細かい粉が、衝突した弾みで眼球に付着したのだろう。手を離された瞬間顔を触ろうとした彼を叱り、影山は再びTシャツから覗く細い腕を捕まえた。
 無理矢理引き剥がして下向けて、入れ替わりに自分が前に出る。微熱を含んだ吐息を浴びせられて、日向は目を見張った。
 真ん丸に見開かれた瞳をこれ幸いと覗き込み、影山は充血している白目部分に口を尖らせた。
「変なモンは見えねーし、水で洗っとけば問題ねーだろ」
「失明、しない?」
「アゲハだろ。ないない」
 黄色と黒の羽となれば、アゲハチョウしか考えられない。毒を持つ蛾だったなら危なかったが、そうでなければ処置を誤りさえしなければ大丈夫のはずだ。
 碌でもない心配をしていた彼を笑い飛ばし、影山は身を引いて笑った。
 人を小馬鹿にした笑みだったが、不安に胸を締め付けられていた日向にとっては救いだった。重く沈んでいた心は途端に軽くなり、晴れ晴れとして心地良かった。
「そっか。よかった」
「練習前にちゃんと洗えよ」
「分かってる。あ、田中さーん。おはようございまーす」
 同時に靄がかかって濁っていた視界までクリアになって、目尻に残っていた涙を拭われた日向は嬉しそうに頷いた。そして遠く、駐輪場の入り口脇に立っていた男を見つけて大声で叫ぶ。
 手を振られた坊主頭の青年は、何故かその声にビクッと肩を震わせた。
「はよっす」
 影山も振り返り、ぺこりと頭を下げた。すると田中は益々挙動不審に辺りを窺い、不自然極まりない笑顔を浮かべた。
 頬を引き攣らせている上級生の様子に首を傾げ、二人は互いに顔を見合わせた。時計を見れば、午前六時五十五分といったところだ。第二体育館までは三分もあれば辿り着けるので、集合時間には十分間に合う。
 しかし急ぐに越したことはなく、ふたりは並んで歩き出した。
「どうしたんですか?」
 駐輪場を出て、田中と合流する。彼は何故か下級生と目を合わせようとせず、顔も茹蛸のように真っ赤だった。
「いや、あ……俺は別に、ヘンケンは持たないけど、な? あんまりああいうのは、あんな場所ですんのは、止めた方がいいぞ?」
「はい?」
 そんな状態で早口に捲し立てられ、意味が分からなかった影山が不思議そうに目を細める。日向もきょとんとして頼れる先輩を見詰め、片方だけ赤い目を瞬いた。
 呆気に取られている後輩を横目で見やり、田中は一層顔を赤くした。自転車の前で顔を重ね合わせていたふたりを思い出し、温い汗を背中に流して頭から湯気を噴く。
 そして。
「俺は、可愛い後輩たちを祝福するぞー!」
 突然雄叫びを上げ、涙を流して駆け出した。
 瞬く間に視界から消えた二年生に唖然とし、日向は影山を見た。影山もぽかんとしたまま日向を振り返り、その背後に広がる景色に五秒ほど停止した。
 それは田中が一分前まで見ていたものと同じだった。
 日向の自転車が見えた。つい先ほどまで、その傍には人が立っていた。
「え……」
 あの場所で自分はなにをしていたか。
 その上で、この位置からだとどんな風に見えるのかを重ね合わせて考えて、彼は絶句し、瞬時に顔を赤くして首をぐりん、と回した。
「違います、田中さん。そんなんじゃありません!」
 もう居ない相手に向かって声を張り上げた影山に、状況がさっぱり理解できない日向は目を点にした。
「え、なに?」
「待ってください。誤解です、田中さん!」
 吃驚している間に、影山は更に叫んで走り出した。いつ転んでも可笑しくない足の運びで残る坂道を駆け上り、這うように正門を潜り抜ける。
 置いていかれ、惚けていた日向もハッと我に返って担いだ鞄を抱きしめた。
「やっべ、遅刻する」
 時間がないのを思い出し、目の痛みも忘れて後を追う。
 体育館前に着いた途端、顔面真っ赤な影山に水をぶっかけられたのも。
 田中から話を聞いた西谷に散々からかわれ、恥ずかしい思いをしたのも。
 これを契機に意識し出した男と付き合い始めた後では、全部、笑い話だ。
 

2013/03/24 脱稿