部室に顔を出す順番は大体決まっていて、大抵の場合、一番手に名乗りをあげるのは一年生の日向、もしくは影山のどちらかだった。
 なにかにつけて競い合う彼らはバレーボール以外でもいがみ合い、無駄としか思えないものまで順位を争っている。校門から部室棟までの徒競走はまだ良い方で、肉まんを食べる早さやパック牛乳の一気飲みでまで鍔迫り合いを繰り返す様は、最早馬鹿としか言いようがなかった。
 互いを好敵手と認め合っているのだろう、と上級生は笑うけれど、こちらまで彼らと同じレベルと思われるのはかなり不本意だ。今日もまた喧しいふたりと一緒に部活をせねばならないのかと思うと、それだけで足取りは重くなった。
「まったく……」
 今日も朝早くから騒々しくてならなかった。
 全く関係のないクラスの女子から、「男子バレーボール部って賑やかで元気良いよね」とまで言われるくらい、ふたりの軋轢は有名になっている。排球部にいるから、という理由だけで同列に扱われるのは迷惑極まりなくて、月島は最後の一段を登り終えてからがっくり肩を落とした。
 短い髪をくしゃりと掻き回し、何気なく後方を振り返る。同じクラスで同じ部活に所属している山口の姿は、見える範囲にはなかった。
 担当している音楽室の掃除が、予想外に長引いているのだろう。チャイムが鳴った後も戻ってこない彼を待つ道理はなく、先に教室を出たのだが、後からなにか文句を言われそうだ。
「別にいいけど。山口だし」
 中学からの腐れ縁の彼だから、本気で怒ったりはしない筈だ。それにこんなことは、これが初めてではない。待っていてくれるよう頼まれたわけでもないのだから、この行動は自分勝手と詰られるものではない筈だ。
 それに四六時中後ろを付いて回られるのは、少し鬱陶しかった。
 たまにはひとりで動き回りたい。向こうだって、同じ人間だ、そんな風に思うこともあるだろう。
 肩に担いでいた鞄を揺らし、月島は捻っていた腰を真っ直ぐに戻した。
 さっさと着替えを済ませ、第二体育館を目指そうと決める。日向と影山に任せていたら、準備そっちのけで口論を始めるのは目に見えていた。
 あのふたりを、ふたりきりにしてはおけない。上級生やコーチまで、なにかとセットにしたがる同級生の顔を思い浮かべ、彼は男子排球部に宛がわれた部屋に向かった。
 しかし。
「おっと」
 金属製のノブを捕まえようとした矢先、扉が内側から開かれた。
 危うく角に頭をぶつけるところで、月島は驚き目を見張った。慌てて半歩下がって仰け反れば、中から現れた人物も予想外だったのか、吃驚して息を呑んだのが分かった。
 外に出ようとしたら人影で道が塞がれていたのだから、焦るのも無理はない。もう少しで傷害事件に発展するところで、凍りついた両者はドアを挟んで数秒間見詰め合った。
 先に我に返ったのは、黒髪の青年だった。
「退けよ」
「そっちこそ」
 低い声で威嚇されて、負けるものかと月島もぶっきらぼうに吐き捨てた。
 横暴にして不遜、その傲慢な態度からチームメイトに『王様』と揶揄されていた天才セッターは、返された一言にムッと眉間に皺を寄せた。不機嫌の度合いを強めて口をヘの字に曲げて、道を譲ろうとしない月島を押しのけ強引に出ようとする。
 それを見透かし、月島は素早くドアの縁を握り締めた。
「うわっ」
 影山が押し開こうとした力も利用し、そう分厚くもない扉を手前へと引っ張る。ノブを掴んだままだった彼は案の定バランスを崩し、前のめりに倒れそうになった。
 つんのめった身体をぎりぎりのところで支えた影山の、運動神経の良さは認めるしかない。みっともなく転倒するのを期待していた月島は、半分しか思惑通りに進まなかったと肩を落とした。
「テメぇ、なにしやがるっ」
「王様がさっさと退かないのが悪いんでショ。あー、やだやだ」
 喧嘩腰で突っかかって来たのを茶化してやり過ごし、彼はいきり立つチームメイトを肩で押し退けた。邪魔だと一蹴して敷居を跨ぎ、広い部室を見回して人の少なさに二度瞬きする。
 上級生はひとりも居なかった。そんなに急いだつもりはなかったのだが、早かったようだ。
「チッ」
 負け犬の遠吠えか、影山が後ろで舌打ちした。苛立ちをその場に吐き捨てて、荒々しい足取りで階段を駆け下りていく。
 喧しい足音が遠ざかるのを待たず、月島は扉を閉めて靴を脱いだ。
 部室に居たのは、同じ一年生ひとりだけだった。
「っぐ、ぬー……ぐうぅぅ」
 その同級生はといえば、一心不乱に棚に向かって背伸びをしていた。
 部屋の壁の一角には、柱と天板しかない簡素な棚が並べられていた。
 備品を詰め込んだ黄色いプラスチックケースが一部を陣取り、残りのスペースは部員らの荷物置場として利用されていた。どこを使うかは各自の自由だが、大雑把ながら学年ごとに位置は定められていた。
 一年生に与えられたスペースは、入り口から最も遠い区画。その棚の前で、おおよそバレーボール部員とは思えない低身長の少年が懸命に腕を伸ばしていた。
 足の指だけで身体を支え、ぷるぷる震えていた。左手は棚を支える柱を握り、右手で高い位置にある何かを取ろうとしている。そのなんとも奇妙な光景に、月島は言わずにはいられなかった。
「なにしてんの」
「うげえ、月島ぁ!」
 また馬鹿なことをしている。考えていることが丸分かりの表情で訊ねれば、出入り口での騒動にも気付いていなかったのか、日向がぐるりと振り返って甲高い悲鳴を上げた。
 なんとも失礼な驚き方をされて、彼は深いため息をついた。ずれた眼鏡を押し上げてかぶりを振り、担いでいた鞄を下ろして眉を顰める。
 嫌なところを見られたと思っているのだろう、踵を下ろした日向はほんのり頬を赤らめて目を逸らした。
「……ちぇ」
「なに。取りたいの?」
 影山同様舌打ちされたが、日向の分はあまり神経に障らなかった。それよりも彼が何をしていたのかが気になって、好奇心を膨らませた月島は視線を持ち上げ目を細めた。
 日向が立っている棚の最上段、天井に最も近い場所になにかが乗っているのが見えた。
「うぎ」
 騒ぐ声も耳に入らないくらい集中していたところからして、あれを取りたいのだというのは楽に想像できた。
 質問に対する日向の反応ぶりからも、推測は正しいとみてほぼ間違いない。奥歯を噛み締めて肩を震わせた彼に相好を崩し、月島は色の抜けた畳の上を摺り足で移動した。
 傍に寄れば、ふたりの身長差はよりはっきりと現れた。
 四月の段階で百八十八センチあった月島に対し、日向は百六十二センチ。それはお互い見上げるのも、見下ろすのにも疲れを覚える違いだった。
「あれ?」
 運んできた鞄を空きスペースに押し込み、月島は首を上向けた。眼鏡の奥の瞳を眇め、棚の端から一寸だけはみ出ているシューズケースに眉を顰める。
 色と形には覚えがあった。あれは、他ならぬ日向の持ち物だ。
 高校進学時に新調したばかりなのだと、随分前に自慢していたのを思い出す。姿勢を正して顎を引けば、物言いたげな顔の日向がぶっすーと頬を膨らませていた。
 少し前まで、ここには影山が居た。そして彼は出て行き、日向だけが残された。
「王様も、やることが幼稚だねえ」
 大切な靴を棚の上に放り投げるような真似を、日向がするとは思えない。となれば犯人はひとりしかおらず、あまりにも子供じみた喧嘩を想像した月島は肩を竦めた。
 何がどうしてこうなったかまでは分からないが、影山の悪戯なのは確実だ。今時、小学生でもこんな真似はしない。高校生にもなって低レベルな喧嘩を繰り広げる彼らには、ため息しか出なかった。
 月島の独白に、日向は益々顔を赤くした。シューズケースが棚の最上段に放り込まれた一連のやり取りを思い出しているのか、目つきは鋭く、端々から憤りが滲み出ていた。
「取ってあげようか?」
 そのうち限界が来て、爆発して暴れ出しそうだ。雰囲気から今後を予測して、先手を打って月島は囁いた。
 気を使い、親切心を働かせたわけではない。今ここで日向が騒ぎ出した場合、被害を受けるのは月島だからだ。
 他人の喧嘩に巻き込まれるのは遠慮願いたくて、回避行動に出たに過ぎない。それでも人が聞けば、優しくされたと勝手に勘違いするだろう。
 ただ日向は、その気遣いを断った。
「余計なお世話だ」
 素っ気無く吐き捨てて、彼は差し出された手を叩き落した。
 予想外の返答に、月島は呆気に取られて目を丸くした。棚に向き直った日向の横顔を信じ難い目で見詰め、どうやったって自力では届かない場所に手を伸ばす姿に眉を顰める。
「無理だって、君の背じゃ」
「うっせえ」
 本人もそれは痛いくらい分かっているだろうに、頑として認めようとしない。誰が持ち込んだか分からない古びた椅子や机だってあるのに、それを使おうともしなかった。
 是が非でも、独力で取り戻してみせる。そんな決意が感じられて、月島は馬鹿らしいと首を振った。
 出来ない事を出来ないと認めるのも、時として必要だ。ないもの強請りをしたところで虚しいだけで、努力したところで所詮時間が無駄になるだけだ。
 だというのに日向は諦めようとせず、しゃにむに突っ走って壁を飛び越えようとしていた。
「っと、と、と……く、ぐぬっ、ふんぬぅー!」
 シューズを取り戻そうと足掻く彼は、道具に走るどころか、お得意のジャンプもしなかった。柱を握る左手と左足だけを頼りに、右足まで浮かせて半身を懸命に上へと伸ばしている。
 恐らくは影山に、背の低さで何か言われたのだろう。だから地に足をつけた状態でも届くのだと証明したくて頑張っている。
 冷静に状況を観察して判断し、月島は矢張り馬鹿は馬鹿だと嘆息した。
 鼻息を荒くし、目を充血させる日向の顔はかなり気味が悪い。さっきから空を掻き続けている右手がいつこちらに倒れてくるか分かったものではなくて、月島は落ち着かないと着替えを中断させた。
 脱いだ学生服を半分に畳んで鞄に重ね、横でひたすら息んでいる少年に向かってこれ見よがしにため息をつく。
「いい加減にしてよ」
 鬱陶しいから止めるよう言うが、日向は血走った目で人を睨んだだけだった。
「んだよ。別に月島に迷惑かけてねーだろ」
「かかってるよ。凄く邪魔」
 息巻いた彼に淡々と返し、月島は左手を腰に当てた。猫背気味の背筋を伸ばせば百九十センチ近い巨人の完成で、高い位置から見下ろされた日向は面白くなさそうに口を尖らせた。
 不満たらたらな表情を見せられても感じ入る物は何もなく、彼はもう一度大袈裟にため息を零して利き腕を伸ばした。
 身長に見合った大きな手が、日向がどれだけ挑戦しても届かなかった場所に楽々到達した。細長いケースをむんずと掴み、周囲の埃も巻き込んで一気に引き摺り下ろす。
 空気を切り裂いて落ちてきた品に目を剥き、日向は久方ぶりに戻ってきたシューズに息を呑んだ。
「はい」
「お、お前なあ!」
「なに。取ってあげたんだから、御礼くらい言いなよ」
「だから、余計な事すんなって言っただろ!」
 手渡せば、日向は反射的に受け取った。胸に抱き、目尻を吊り上げる。怒鳴られる謂れなどなかった月島はムッとして、飛んで来た唾に眉間の皺を深めた。
 感謝されこそすれ、怒られるようなことをした覚えはない。不条理だと顔を顰めていたら、表面の汚れを払い落とした日向が、何を思ったか取り戻したばかりのケースを天高く放り投げた。
「あっ」
 月島が唖然と見守る中、それは楕円の軌道を描き、棚の上に着地した。
 しかも影山が置いた時よりもずっと奥の方に落ちた。
「やっべ」
 一気に悪化した事態に、日向もやり過ぎたと自覚して顔を青くした。勢い良く投げすぎたと後悔するが既に遅く、口をパクパクさせた彼は落ち着き鳴く足踏みを繰り返した。
 初めて後方を振り返り、窓辺に置かれている古い机と椅子のセットを見やる。しかし即座に首を振り、彼は奥歯を噛み締めて鼻の穴を膨らませた。
 影山に、自力で取り戻してみせるとでも豪語したのだろう。だから今更道具に縋るのは、プライドが許さない。非常に分かり易い思考を読み取って、月島は一向に進まない着替えに肩を竦めた。
「要するに、地面に足が着いた状態で、君の手が届けば良いんでしょ」
「え、あっ、おい」
「よいしょ、……っと」
「おわあ!」
 次の瞬間、日向の身体は宙を泳いでいた。
 両腕を前に差し伸べた月島が、華奢な体躯を両側から支え持ったのだ。
 そのまま上に掲げられて、仰天した日向が反射的に肘を後ろに衝き立てた。空中で束縛から逃れようと暴れた彼に、担ぎ上げていた月島は咄嗟に首を倒して左に避けた。
「ちょっと! 暴れないでよ」
「なな、なに。なに、これ!」
 あと少しで顔面を強打するところで、肘鉄に機嫌を損ねた彼は声を荒らげた。だが日向はそれどころではないようで、声を上擦らせると一気に三十センチ近く高くなった視線に目を瞬かせた。
 興奮しているのか、掴んだところから流れてくる鼓動は些か速い。真後ろから持ち上げているので表情は見えないけれど、足をじたばたさせているところからして、頬は紅潮して真っ赤だろう。
 前に影山が軽々とやっていたので出来ると踏んだが、いざ実行に移してみたら存外に腕に負担が掛かる。あまり長い間は支えていられそうになくて、歯を食いしばった月島は暴れる日向にかぶりを振った。
「ちょっと、早く取りなよ」
「ってか、降ろせって。なにす……うひゃあ」
「うぐっ」
 腹に力を込めて怒鳴れば、声はいつにも増して低くなった。しかし日向は人の気などまるで知らず、声高に叫んで身を捩った。
 瞬間、彼の体がガクン、と十センチ近く低くなった。
 頭の天辺から飛び出したのではと思える高さの悲鳴に、月島も喉の奥で声を唸らせた。反射的に両手の指にも力が篭って、爪先に食い込む日向の腋の肉が妙に艶めかしく感じられた。
 彼が着ていたのは、綿百パーセントのTシャツだった。肌に優しく、柔らかい。着心地の良さを優先させた代物は、つまるところ非常に滑りやすかった。
 捲れ上がったシャツが襞を作り、それが邪魔になって余計に抱え辛さが増した。彼の願い通り降ろしてやろうかとも考えて、強く握り締めた矢先、弱い場所だったのか腕の中の日向が一層身じろぎ、暴れだした。
「ちょやっ、ひぁ、やん!」
 足は地に付かず、身体は不安定。そんな中で脇腹を擽られて、耐えられるわけがなかった。
 くすぐったい。背中がぞわっとくる悪寒にも襲われて、彼は右足を高く蹴り上げた。
 鼻から抜ける息を吐き、咄嗟に月島の手を掴んで握り締める。
「おい、馬鹿!」
 それに驚き、彼は反射的に手を振り払おうとした。
 ぎりぎりのところで抱えていた重みが、支えを弱められた影響でまた更にずるっ、と下がった。しかもそこに、振り上げていた日向の右足が戻ってくる。
 先に畳に下りた左足と、タイミングが合わなかった。爪先立ちを強いられた身体は当然バランスを崩し、上半身は大きく後ろへ傾いた。
「ふぎゃ」
「く……っそ!」
 日向の背後には、月島がいた。普段なら彼くらい簡単に受け止められるのだが、無茶をして五十キロ以上の人間を持ち上げたばかりの腕は疲労たっぷりで、まともに動いてはくれなかった。
 倒れこんできた日向を跳ね除けるのは簡単だった。しかしそれでは、彼が怪我をしてしまう。小さなミドルブロッカーは今やチームに欠かせぬ存在であり、そうそう簡単に突き飛ばせるわけがなかった。
 たった一秒。その短時間に実に目まぐるしくあれこれと考えて、出た結論は結局、自分も一緒になって転ぶ展開だった。
「っだ!」
 とはいっても、仰向けに倒れこんだりはしない。所詮尻餅をつく程度と甘く考えていたら、上から追加で降ってくる存在をすっかり忘れていた。
「ぎゃ!」
 突っ込んできた日向の後頭部が、油断していた月島の顎に襲い掛かる。直撃を受け、彼は頭を抱え込んだ日向を眼鏡の向こう側へ吹き飛ばした。
 もっとも実際のところ、吹っ飛んだのは黒縁の眼鏡の方だったのだが。
「いっつ~~~!」
 硬い骨同士が衝突し、脳みそが激しく揺れた。目から星を散らした日向は大声で喚き、涙を浮かべて柔らかいクッションの上で仰け反った。
 そのかなり歪な形をした寝台で暫く身悶え、鼻をぐじゅぐじゅ言わせて奥歯を噛み締める。吸い込んだ息が喉に引っかかり、なかなか呼吸が出来なかった。
 何故にこんな羽目に陥ったのか。走馬灯の如く駆け抜けていった記憶に歯軋りして、彼はまだじんじんしている頭をそっと撫でた。
 その指の背に、なにかが引っかかった。
 硬い。おおよそ畳とは無縁の感触に眉を顰めていたら、制服のボタンごと胸を押さえつけられた月島が唸った。
「ちょっと、重いんだけど」
「え……ぎゃ!」
 いつまで人の上に陣取っているつもりなのか。さっさと退けと語気を荒らげた彼の顔には、いつもの眼鏡がなかった。
 弾かれたように飛び起きた日向は目を丸くし、身体を裏返して四つん這い状態で瞬きを繰り返した。
 彼は渋い顔をして、唇を浅く噛んでいた。
 肘をつっかえ棒にして上半身を起こそうとするが、上に圧し掛かった日向が邪魔で果たせない。その日向はといえば、滅多に見る機会のない素顔の月島を呆然と見詰めていた。
 眼鏡ひとつでこうも印象が変わるのかと、刺々しさが若干薄れた顔立ちに感嘆の息を漏らす。こっちの方が好きだな、という感想は唾と一緒に飲み込んで、彼はムッとしている同級生に相好を崩した。
「見えない?」
「見えてるよ」
 彼は顔を洗う時と眠る時以外、ずっと眼鏡を装着していた。合宿中でさえも、外しているところを殆ど見る機会がなかった。
 だから新鮮で、面白い。試しに問えば、気に障ったのか彼は右腕を伸ばして日向を掴もうとした。
 だが指は空を掻き、目標物まで届かなかった。
 ぼんやりぼやけて見えるだけで、距離感までは把握出来なかったのだろう。目の前で引っ込んでいった長い指に頬を緩め、日向は浮かせていた腰を下ろした。
「ぐ」
 瞬間、踏まれた月島が呻いた。
 下腹部を圧迫されて、押し出された内臓が逃げ場を探して暴れ回る。息苦しさも増して、彼は跳ね除けようと膝を起こした。
 けれど蹴りを予兆していた日向は身を乗り出して避け、明後日の方角に利き手を差し向けた。
「よ、っと」
 月島に抱えられた時の余波でシャツは捲れ上がり、背中は丸出しだった。その状態でぐーっと身体を伸ばし、畳にひっくり返っていたものを拾って持ち上げる。
 日頃縁のないものを手に、彼はにんまり笑った。
「うわ。目がちかちかする」
「何してるの。返しなよ」
 度が強いのか、試しにかけた眼鏡越しの景色は歪んで見えた。
 視力には自信がある日向にとって、それは無用の長物だ。捻じ曲げられた視覚情報に頭は混乱し、脳に直結する眼底がずきずき痛んだ。
 率直な感想を述べた彼に苛立ち、月島が奪い返そうと身じろいだ。台詞から眼鏡の在り処を知り、斜め上に手を伸ばすが跳ね除けられて叶わない。
 乾いた音に臍を噛んでいたら、かぶりを振った日向が眼鏡を顔から引きぬいた。
 レンズには触れないよう注意し、向きを逆にする。両サイドの蝶番を支えるように持って、彼はゆっくりと月島の方へ身体を傾けた。
 緊張気味に頬を強張らせ、途中で一度鼻を啜る。聴覚を頼りに状況を推測して、月島もまた温い唾を飲んだ。
 こめかみの下に、眼鏡のブリッジが当たった。遠く、円いレンズが見えた。
「日向」
「あ、でもやっぱ、こっちの方が安心する」
 彼の顔はまだ見えない。声だけが聞こえて、意味が分からなかった彼は首を捻り、肘の角度を強めた。
 同時に左膝も起こして彼の尻を叩き、首を前に出す。月島を傷つけぬよう、日向も慎重に眼鏡を押し込んでいった。
 そこへ。
「……でさ、旭の奴ってば」
「へえ、それはぜひとも見たかったな」
 ガチャリと。
「あ」
「あっ」
 部室のドアが外側から開かれて、入ってきた三年生が揃って凍りついた。
 中途半端なところにある月島の眼鏡と、それを持つ日向。排球部随一の長身に跨がり座る未来のエーススパイカーのシャツは着乱れて、臍は丸出しだった。
「菅原さん、部長、おつかれさまでーす」
「ちょっと、日向。さっさと眼鏡返して」
「え……と。なに、してたの?」
「俺は、あんまりそういうのは気にしないけど、部室でやるのだけは遠慮してくえるかな?」
「やめてください。そんなんじゃありません、変な想像しないでくれませんか。日向、眼鏡!」
「おい、ボケ日向。テメー、いつまでかかってん……っ!!!!?!」
「ああ、影山。どーしてくれんだよ。お前の所為で大変だったんだぞ」
「お、おまっ、おま……月島とな、なな、んな、なにっ」
「…………」
 現れた上級生に気を取られ、日向がスッと腕を引いた。もれなく彼が得持っていた眼鏡も遠ざかり、取り返そうとしたがまたも月島の手は空振りした。
 しかも尚悪いことに、なかなかこない日向に焦れたのだろう。彼にご執心の王様までもが戻ってきて、聞くに堪えない大声を張り上げた。
 絶句している上級生と、気が動転している同級生と。そして誤解されていると少しも思っていないチームメイトの声が頭上を行き交い、月島はこめかみを押さえて畳に身を沈めた。見えない場所で飛び交う声にも耳を塞ぎ、勝手にしろと投げやりに目を閉じる。
「日向と月島って、そういう関係?」
「そんなわけないでしょう。あるわけないでしょう!」
「なんで影山が答えるのかな……」
「なーなー。そういう関係、ってなにが?」
 眼鏡は当分戻って来そうにない。観念して白旗を振り、彼はまだそこに居る日向の腰を下から突き上げた。
 その重いようで軽い体躯の感触に、意外に柔らかかった脇腹もが思い出された。
「余計なこと、しなきゃよかった」
 ぼそりと呟くがなにもかも手遅れで、彼は深く長い溜め息をついた。

2013/03/24 脱稿