繁多

 ドアを開けて真っ先に目に飛び込んできたのは、まるで茂みに生える草のような髪の毛だった。
 頭髪の一部分だけを逆立てた特長的な髪型は、一度見たら二度と忘れることはない。ジグザグの分け目もあって、非常に個性が出ている頭部にどうしても視線は傾く。うっかりそこばかり眺めていたら、気付かれて機嫌を損ねられてしまった。
「何処を見ているのです、何処を」
「あっと、悪りぃ」
 不愉快だと言わんばかりの低い声に頬を緩め、ディーノは瞬時に謝罪を口にした。
 無駄に高い気位は持ち合わせていないため、悪いと思ったら素直に謝る。その実直な性格に一瞬ぽかんとし、ソファで寛ぎ中の青年は皮肉めいた笑みを浮かべて顔を背けた。
 三人は楽に座れる空間を独り占めし、両腕は偉そうに広げて背凭れに引っ掛けている。座りは浅く、長い足を自慢げに組んで前に放り出していた。
 いつ滑り落ちるかも知れないポーズを決めてふんぞり返っている青年に相好を崩し、ディーノは思いがけない訪問者に目を細めた。
「まさか、お前から訪ねてくるとはなー」
「偶々近くに用がありましたからね」
 感慨深げに呟いた彼を笑い、恐らくはこの世にふたりしか居ない髪型の主は呆れ混じりに言い返した。
 手袋を嵌めた掌を上に向けて肩を竦め、直ぐに姿勢を戻して脚の左右を入れ替える。左右で色の異なる瞳を眇めた若者に、ディーノは成る程、と緩慢に頷いた。
 なにか思い当たる節でもあるのか、にこやかだった表情は少しだけ翳りを帯びて暗くなった。半眼して顎を撫でたディーノにそうと悟られぬようほくそ笑み、青年は次に告げられる台詞を想像して切り返す準備に入った。
 鋭く尖った眼光が差し向けられる様を思い浮かべ、ぞくりと背筋を粟立てる。程よい緊張と興奮が胸の中で鬩ぎ合い、こみ上げてくる笑いを堪えるのが大変だった。
 天下に名を轟かすマフィア、ボンゴレ・ファミリーの同盟組織として知られているキャバッローネ・ファミリーは、多数の構成員と小規模ファミリーを抱え込む巨大組織だった。
 そのボスであるディーノは若くしてトップに君臨し、絶対的な地位を確立していた。
 彼に負けずとも劣らない実力を備える構成員も多数いるというのに、この十年近く、彼をボスの座から引き摺り下ろそうと考える輩は現れていない。それだけの信頼を部下から得ている男はたっぷり一分近く渋面を作った後、ゆっくりと顎にやっていた手を下ろした。
 背の低いテーブルを挟んで向き合う青年の眼をじっと見詰め、
「そうか。あれは、お前だったのか」
 いつになく低い声で囁き、膝の上で両手を結び合わせた。
 長くしなやかな指を絡ませ、二度、三度と上下に揺らしてからかぶりを振る。艶やかな金の髪が風を受けて膨らみ、長く伸びた毛先が糊の利いた襟の上を踊った。
「まさかとは思ったが、お前なら十分有り得る。そういうことだったのか」
「ええ。驚きましたか?」
「いや、言われてみれば確かに、他に考えられない。そうか……あの孤児院への贈り物は、お前だったのか」
「――はい?」
「すげえな。見直したぞ、骸。俺も直々に見に行ったけど、子供たち、すっげー喜んでた。あの嬉しそうな顔ったら、他にないぞ」
「あ、いや。……えええ?」
 身を乗り出して捲し立てられて、六道骸は驚き目を見張って素っ頓狂な声を上げた。
 それまで頭の中にあった言葉の数々は、見事なまでに綺麗に吹き飛んだ。想定していたどの展開にも当てはまらなかった状況に呆然となり、色違いの瞳をぱちぱちさせてひとり興奮している男に絶句する。
 お互いに思い浮かべていたものが違うと気付くのに、二分近くかかってしまった。
「違うでしょう、跳ね馬。もっと他にあるでしょう、もっと他に!」
「あるか?」
「ありますよ。馬鹿ですか、貴方は」
 ソファに預けていた背中を起こし、骸は両手を振り回して叫んだ。
 全国紙のトップを飾りもした出来事が最近、この辺りで起きた。地方銀行に巣食っていた利権屋の死骸が川面に浮かんでいたという話で、その男に騙された小規模業者の数は三百をくだらないと言われていた。
 根っからの極悪人で、殺されたのを哀れむ声はあまり聞かれなかった。むしろ清々した、自業自得だという声の方が圧倒的多数に及んでいた。
 男は用心深く、警備も厳重だった。常に複数のボディガードを付き従えており、屋敷の防犯システムも完璧だった。
 だのに、男は自宅から忽然と姿を消した。
 誰も彼が外に出て行くのを見ていないし、悲鳴も聞いていない。殺害現場は特定に至らず、何故邸宅から遠く離れた場所で発見されたのかも不明なままだ。
 この事件が近年まれに見るミステリーと囁かれているのは、これだけが原因ではない。数多の被害者の口座に、男が奪い取ったのに相当するだけの金額が振り込まれていたのだ。
 なお、各地に存在する孤児院、乳児院等に正体不明の寄付者が現れたのも、丁度その頃だ。
 愚鈍としか言いようがない。どうして世間を賑わせている事件を先に連想できないのかと腹を立てていたら、落ち着けと諭したディーノが口を尖らせた。
 頬杖を付き、腰を浮かせている骸に座るよう促して手を揺らす。
 その上で、
「だってよー。あの事件の首謀者はお前だって、ンなのとっくに分かってたし」
「――はい?」
「ツナたちとも話してたんだぜ? ああいう手の込んだ事を派手にやりたがる奴は、お前くらいだろう、ってさ」
「…………」
 至極つまらなさそうに告げられて、骸は返す言葉を見失って両手で顔を覆った。
 脚は肩幅に広げ、俯いて藍色の髪を押し潰す。背中も丸めて小さくなって、目に見えて項垂れている彼を呵々と笑い飛ばし、ディーノは目尻を下げた。
 そのついでとばかりに手を伸ばし、部下が置いていったテーブルのカップを小突く。長く放置されていた影響で、湯気の量は当初と比べると半分以下に減っていた。
 芳しい香りを放つコーヒーを持ち上げた彼に、骸は瞳だけを上向けた。
 指の隙間から様子を窺い、あまりの見えにくさに辟易して背筋を伸ばす。気持ちを切り替えた彼に微笑み、ディーノは色濃い液体に息を吹きかけた。
「ぶっ」
 だが表面を冷まそうとした吐息は、本人が想定していたよりもずっと勢いがあった。
 表面を抉られたコーヒーが波を打ち、一部が跳ね返って彼の顔面に踊りかかった。さほど熱くはなかったが驚かされて、ディーノは慌ててカップを顔から引き離した。
「うひゃ」
「ああ、まったく。何をやっているんですか、貴方は」
 だがそれが却って良くなくて、反動で大きくなった波は縁を越えて彼の手に降りかかった。
 品の良いポロシャツの袖が見る間に黒く染まり、布が吸いきれなかった分が肌を伝って滴り落ちる。ガラス板を加工したテーブルに垂れた分はまだ良いが、床に敷き詰められた絨毯にも多数の雫が舞い散った。
 いかにも高そうなこげ茶色の絨毯が、コーヒーの染みで斑模様に染め替えられる。なんとも情けない出来事に骸は声を荒らげたが、当のディーノは返事をするどころではなかった。
「うえぇ、鼻に入った……」
 気管に紛れ込んだ水分に噎せ、その痛み顔を歪める。今にも泣き出しそうな雰囲気は、とても三十路を過ぎているとは思えないものだった。
 コーヒーカップをテーブルに置きもせずに身を捩るので、ちゃぷちゃぷ言う液体は今も彼の手や足や、カーペットを濡らし続けていた。そのうち全部零すのではないかと懸念して、骸は苛立たしげに床を蹴った。
「なんなんです、みっともない」
 若干裏返り気味の声で叫び、ソファを離れてテーブルを回りこむ。近づく気配に、咳き込んでいたディーノは涙が滲む目を細く開いて顔を上げた。
 あ、と思う暇もなく、手から中身を大幅に減らしたカップが引き抜かれた。
「タオルはないんですか」
「この部屋には、ないかなあ」
 空になった手を握っては広げ、斜め前に立った骸を仰ぎ見て苦笑する。小さく舌を出した男に深々とため息をつき、彼は奪い取ったカップをテーブルに戻した。
 陶器が擦れ合う音を小さく響かせ、痛むこめかみに指を添えて疲れた様子で肩を落とす。
「おっかしいなあ。カップの調子が悪いのか?」
 一方のディーのはといえば、自分の失態に頻りに首を傾げていた。
 部下が居なければ何をやってもダメダメな性質は、十年経っても変わっていない。むしろ酷くなる一方で、そのうちひとりでは真っ直ぐ歩くのさえ困難になるのでは、と思えてくるほどだった。
 しかも本人は、その事実に未だ気付く気配がない。濡れた袖を撫でて乾かすどころか染みを広げては、肌に広がる湿った感触を嫌がって不満そうに口を尖らせる。
「これでキャバッローネのボスというのですから、世の中どうなっているのやら……」
 現在ボンゴレを統べている男も同類だとため息を零し、骸はコーヒーまみれになっているディーノに手を伸ばした。
 薄水色のポロシャツの袖は変色し、コットンパンツにも黒い点々が飛び散っていた。濡れた手で触った場所もうっすら染まっており、傍目にはどぶ川に飛び込んだ後のように見える有様だった。
 はっきり言って、みすぼらしい。ラフな格好を好むディーノではあるが、これでは到底人前には出られそうになかった。
 部下からの信厚い男ではあるが、ひとりきりになると途端に使い物にならなくなる。その落差に辟易した様子でかぶりを振り、骸は見ていられないと艶やかな金の髪に触れた。
 絨毯にばら撒かれたコーヒーも、流石にそこまではかかっていない。少し癖のある毛先を軽く撫でるように梳き、怪訝そうに顔を上げたディーノの前でぱちん、と指を鳴らす。
「うおっ」
 瞬間、彼の着衣が一変した。
 ぽんっ、と軽い炸裂音の後に白い煙が湧き起こる。それが全部晴れた後、現れたのはモノトーンカラーに彩られたディーノだった。
 ぱりっと糊の利いた白いシャツに、襟がやや広めのシングルのスーツ。細身のネクタイには馬を象った銀色のピンが飾られて、袖口から覗くカフスは深い藍色だった。
 折り目正しくアイロンが当てられたスラックスに、靴は磨き抜かれて光を反射していた。どこかのパーティーにでも参加するのかと言いたくなる服装に、驚いたディーノは腰を捻ったり、脚を持ち上げたりと忙しなかった。
 落ち着きのない子供になっている彼に肩を竦め、骸はオマケだともう一度指を鳴らした。
「おっ」
 またしてもぽんっ、と風船が割れるよりも愛らしい音がして、今度は何が変わったのかとディーノが目を瞬く。見れば胸のポケットに赤い花が一輪追加されており、刺さりそうな鋭い花弁が彼を見上げていた。
 本当に、このまま舞踏会に参加出来そうだ。布の触感まで再現されており、コーヒーまみれのポロシャツこそが幻だったのではと、と勘違いしそうだった。
「相変わらず、すげーな」
 本物よりもよっぽど本物らしい幻覚に感嘆し、呟く。ソファに戻った骸は当然だと胸を張り、すっかり温くなっているコーヒーを持ち上げた。
 ディーノのようにはならないと意気込み、左手はソーサーを掲げ持つ。
 ひと口飲もうとして、
「僕の前であんなみっともない格好で居られるのは、我慢なりませんからね」
「ははは。……へえ、お前ってこういうのが趣味だったんだ」
「ぶっ」
 カップに唇をつけた瞬間、興味深そうに紡がれた言葉に吸い込むべき息が外へ飛び出した。
 傾いた器から液体が逆流し、渦を巻いた末に戻ってきた一部が骸の喉を直撃する。それはそのまま開放された気道に入り込もうとして、本能がこれを拒んで大量の二酸化炭素を吐き散らかした。
「げほっ、ぇほっ、かは……!」
「……大丈夫か?」
「大丈夫に見えるのなら貴方の目は節穴です!」
 この細身の体のどこに、これだけの空気が溜め込まれていたのか。自分でも吃驚するくらいに激しく噎せて喘ぎ、骸は口元を黒く濡らして捲し立てた。
 振動で激しく上下したカップの中身は三分の一以下となり、底が見える有様だった。ソーサーではとても全部を受け止め切れず、大半は彼のズボンとソファ、そして足元に沈んだ。
 咳と一緒に飛散したらしい水滴がテーブルに散見しており、数分前の再現だと骸は苦虫を噛み潰したような顔をした。
 いきなり変な事を言われて、動揺した。ポーカーフェイスを保てなかった自分自身に渋い顔をして唇を噛んでいたら、真向かいに座る男がにこやかに微笑んだ。
 腹を抱えて笑うでもなく、のほほんと目を細めている。温かく見守られている空気が感じられて、なんとも居心地が悪かった。
 これならば笑い飛ばされた方がマシだ。なんとも扱い辛いと濡れた手袋を外し、骸は悔し紛れにそれをディーノに放り投げた。
 さほど難しいコースでもなかったのに顔面でキャッチして、彼は不思議そうに小首を傾げた。
「骸?」
「ああ、もう。どうぞ好きに解釈してください」
 怪訝に名前を呼ばれ、その響きに心は益々ささくれ立っていく。投げやりに言い返して髪を掻き上げ、彼は指を鳴らしてコーヒーまみれのスーツを新品に入れ替えた。
 こちらは、前と全く変わらないデザインだった。上着も、シャツも、ネクタイの長さまでも一切変更がなかった。
 だから彼は、あの格好が気に入っているのだろう。そう解釈して頷いて、ディーノは顔を綻ばせた。
「そういやお前、何しに来たんだっけ?」
「……貴方という人は」
「俺の思ってる通りだと嬉しいんだけどな」
「それもまた、ご自由にどうぞ」
 そうしてふと初心に立ち返り、目を丸くして問いかける。
 スターラインまで戻ってしまった彼とのやり取りに疲れ、骸は呆れを通り越して疲れたと項垂れた。反論する気も起きないと手を横に振り、満面の笑みのディーノをこっそり盗み見る。
 やる気のない返事にも朗らかに微笑んで、男はわざわざ会いに来てくれた相手を前に、幸せそうに目を細めた。

2013/03/24 脱稿