Gomphocarpus physocarpusIII

 暗闇が広がっていた。
 光は一筋も届かない。どれだけ目を凝らそうとも、己の掌さえ見えない一面の闇だった。
 音も聞こえない。試しに大声で叫んでみるけれど、こだまひとつ返ってこない。なにかにぶつかって反響することもなく、声は闇に吸い込まれて消えた。
 寒かった。凍えてしまいそうなくらいに、空気は冷たく尖っていた。
 萎縮する心は、魂さえも圧迫する。押し潰されそうな恐怖に自然と涙が浮かび、鼻水が垂れそうになった。必死に啜り上げて堪えるけれど、どれだけ待ってもハンカチが差し出されることはなかった。
 上を向いても、下を見ても、そこにはなにもなかった。試しに数歩歩いてみても壁にぶつかる事は無く、石に躓く事すらなかった。
 やがて、どれくらいの時間が過ぎた頃だろう。
 不意にぱっと、闇の一部が裂けた。
 スポットライトが当たったかのように、そこだけが急に明るくなったのだ。
 驚き、目を見張る。涙は瞬時に止まった。あまりの唐突さに、暫く息さえ出来なかった。
 口をぱくぱくさせ、懸命に酸素を掻き集める。脈動を強める心臓に耳鳴りがして、温い汗が全身から噴き出した。
 そうしている間にも、ぱっ、ぱっ、と次々に光の柱が現れた。
 どこから注がれているのかは分からない。だがそんなこと、どうでも良かった。
 何度も瞬きをして明るさに目を慣らしていくうちに、直径一メートルほどの光の中に何かが立っているのに気が付いた。黒っぽい、なにか。それは頭部を持ち、手足があり、胴体で繋がっている人の形をしていた。
『!』
 理解した瞬間、顎が外れそうになった。鼓動は一層強まり、興奮に全身の産毛が逆立った。
 ぎゅっと拳を作る。次の瞬間には駆け出していた。さながら太陽に焦がれる虫の如く、最も近い光の柱を一直線に目指す。
『ねえ!』
 飛び込んだ光の中で張り上げた声は、けれど矢張り、どこにも届かなかった。
 抱きついた人の形をしたものもまた、とても冷たかった。
 触れた瞬間熱を奪われ、飲み込まれそうになって慌てて離れる。両手、そして頬がひりひりと火傷したように痛んだ。
 尻餅をついた衝撃も忘れて瞠目して、瞳に映る光景にがたがたと震え上がる。
 それは人に限りなく近い、精巧な人形だった。服を着ているし、表情もあるけれど動かない。なにより熱がない。凍りついた笑顔が殊更恐怖を呼び込んで、幼い心を縛り付けた。
『や、やだっ』
 慌てて四つん這いで逃げ、別の光を目指す。だが助けを求めた相手もよく出来た作り物で、どれだけ話しかけようとも言葉を返してはくれなかった。
 優しそうな顔をしているのに、とても恐ろしい。細められた眼は虚空を見つめており、どうやっても視線は重ならなかった。
 三体目を確かめたところで、心が折れた。
 冷たいマネキンの柱は果てしなく続き、終わりが見えなかった。
 凍りついた笑顔など見たくなくて、膝を抱いて背中を丸めて小さくなる。これなら真っ暗闇に閉じ込められていた方がまだマシだったと、再び溢れ出た涙に頬を濡らしてしゃくりあげる。
 此処から出たいのに、出口が分からない。誰も教えてくれない。答えてくれなかった。
 そのうち自分もこのマネキンたちと同じように、冷たくなって動かなくなるのだろうか。そうなれば、もう寂しくなくなるのだろうか。
『……おかあさん』
 新しい涙がつ、と頬を伝った。最後に抱きしめられたのがいつだったかも、すぐには思い出せなかった。
 冷たいのも、寒いのも嫌だった。呼びかけて返事がないのも、ひとりぼっちになるのも、真っ暗な中で待つのも大嫌いだった。
 立てた膝に額を突っ伏し、えぐえぐとみっともなく愚図って鼻を鳴らす。そうしたところで何も解決しないと知っているのに、自分から立ち上がろうという気力はどうしても湧いて来なかった。
 無為に時間が過ぎていく。孤独に耐えるくらいなら、いっそ人形になりたいと本気で思い始めた頃。
 トン、と肩を叩かれた。
 くしゃりと頭を撫でられた。
 太くて逞しい腕に、後ろから抱きしめられた。
『あ……』
 温かい。真っ先にそう思った。
 止まったばかりの涙が頬を伝い、凍えきっていた肌に熱が戻る。優しいぬくもりに包まれる、ただそれだけの事なのに深い安堵を覚え、息さえ出来なかった。
 嗚咽を上げ、腕に縋りつく。その確かな鼓動に、空っぽだった心が満たされていく。
 そして。
「……ん、ぅ――」
 ゆっくりと浮上した意識は閉ざされていた瞼を押し上げ、アリババを現実世界へと連れ戻した。
 ふかふかの布団の上で軽く身じろぎ、彼は開けたばかりの目を閉じた。数回鼻を啜ってから折り畳んでいた腕を伸ばし、ざらっとした感触が残る目尻を爪で削って肩の力を抜く。
 身を委ねるクッションは柔らかで、心地良かった。
「久しぶりに見たな……」
 夢を見ていた。
 あれは、幼少期に頻繁に見た夢と同じだ。母を喪い、父に引き取られたばかりの頃、毎夜のように繰り返された悪夢と内容は殆ど一緒だった。
 懐かしい、とは格別思わない。あまり楽しいものでもないから、普段は記憶の海に沈めて引き上げないようにしていたというのに。
「結構、ショックでかかったんだな」
 自覚していた以上に、父が倒れたのが衝撃だったらしい。でなければ、人生で一番弱っていた時分の夢など蘇ったりしない筈だ。
 強がっていたつもりで無理をしていた。思っていた程強くなかった自分自身に苦笑を禁じえず、アリババは自嘲気味に口元を綻ばせた。
 涙を拭った手でもう一度頬を擦り、かぶりを振って背筋を伸ばす。衣擦れの音が鼓膜を掠め、普段とは違う匂いが鼻腔を擽った。
「ン……?」
 そういえば寝床の感触がいつもと違う。それに枕も、柔らかい敷布団とは違って随分と硬かった。
 仄かに香る煙草の匂い、そして独特の雄の体臭。それらに全く覚えがないわけではなくて、意識した途端アリババはかあっ、と顔を赤くした。
「うわ、わっ」
 一瞬で舞い戻ってきた記憶に、眠気は綺麗さっぱりどこかへと吹き飛んだ。
 慌てて飛び起き、肩まで被っていた上掛け布団を押し退けて身を起こす。頭の中では昨夜、寝入る直前の出来事が音声付きのフルカラーで再生されていた。
 アリババの父が倒れて、その翌日。
 当面ひとりきりで生活することになる息子を案じ、ラシッドは昔馴染みで教え子である男に彼を預ける事に決めた。勿論今年で十七歳になるアリババは異論を唱えたが、主張が認められることはなかった。
 結局のところ、父の判断が正しかったのだ。曲がりなりにも親だというのを思い知らされて、彼は寝癖がついた前髪を掻きあげて肩を竦めた。
「はっずかしーなあ、俺」
 この年になって、まだ独り寝が怖いなど。とてもではないが、昨晩の出来事は友人に話せそうにない。
 照れ臭そうに頬を緩め、呟いて両腕を真上へと伸ばす。背を反らして骨を鳴らし、時計を探して視線を泳がせた時だ。
「……ん」
 鼻から抜ける吐息が真横から聞こえて、同時にアリババの下肢を覆っていた布団がずれた。それはダブルベッドの上でごろんと寝返りを打った男の下半身に絡みつき、引き締まった体躯を包み込んだ。
「え」
 健やかな目覚めの心地良さを弾き飛ばす光景に、アリババが絶句する。
 呆然となる彼の前で、ラシッドの愛弟子にしてシンドリア大学準教授の地位にある男――シンドバッドが、ぼりぼりとむき出しの太腿を引っ掻いた。
 未だ夢の世界を冒険しているのか、瞼は閉ざされたまま。どうやら身体に掛かっている布が鬱陶しいらしく、眉間には皺が寄り、大きな手はやがて幅広の布をぞんざいに払い除けた。
 ばさっ、と押し退けられた布団が宙に舞い上がり、アリババの視界を塞ぎ、そして。
 次の瞬間。
「ひ――ぎゃあぁあぁぁ!」
 彼はマンション全体に轟く悲鳴をあげ、全裸の男の腹を思い切り殴りつけた。
 

 道程は、思っていた以上に複雑だった。
「やばい。遅刻する。遅刻する!」
 前夜のうちに調べておいた地図は十分役に立ったが、それでも朝の急がねばならないタイミングでは不親切極まりない代物だった。
 慣れない道を進むのは想像以上に大変で、曲がり角に出くわすたびに携帯電話を広げるのだから効率が悪い事この上ない。どこかに同じ制服の生徒が居ないかと必死に探すものの、道案内をしてくれそうな人物にはついぞ出会えなかった。
 シンドバッドの家には何度か訪ねた事があったが、いつも車で連れて行ってもらっていたので道順など当然覚えていない。駅までの経路も、無論知るわけがなかった。
 降りる駅は同じだから、そこから先は特に問題がない。トラブルが発生したのは、シンドバッドのマンションを出て最寄り駅に向かう道中だ。
 何度も信号にぶつかり、足踏みを強いられた。余裕を持って出るつもりでいたが、そもそも目覚めたのが起床予定の三十分後だったのも災いした。
 アラームをセットしていた携帯電話を持たず、彼の寝室を訪ねたのが一番の間違いだった。そしてうっかり充電するのを忘れていたのが、昨日二番目の過ちだ。
 嫌な夢を見たが、不快感が残らなかったのだけが幸いだった。
 何故か素っ裸で眠っていたシンドバッドを殴り起こし、急ぎパジャマから制服に着替えて顔を洗って歯も磨いた。朝食は学校で、道中のコンビニエンスストアでなにか買って食べようと思っていたが、そんな余裕、マンションを飛び出した段階で欠片も残っていなかった。
 後ろでシンドバッドが何か叫んでいた気がするが、はっきり聞こえなかったので分からない。帰りにどうとか言っていたと思うのだが、戻って確かめる暇もなかった。
 彼の家の冷蔵庫は、見事に空っぽだった。
 入っていたのは酒と、少量のチーズと、賞味期限が切れた牛乳だけ。調味料の類も殆どなく、立派なダイニングキッチンも無用の長物と化していた。
 男の独り暮らし、挙句仕事に忙しいとなれば、料理をしている時間などないのだろう。作ってもせいぜいカップ麺くらいで、ゴミ箱には出来合いの弁当や宅配の容器ばかりが詰め込まれていた。
 洗濯機も、最近回された形跡がなかった。汚れ物は籠いっぱいになっており、一部からは腐ったキュウリのような臭いがした。
「知ってたけど、改めて……酷いよな」
 あれでは嫁のなり手が現れないのも致し方がない。もうじき三十歳になる筈の男を思い浮かべ、アリババは苦笑した。
 今日は学校が終わったら真っ先に病院へ行き、その後自宅に戻って必要なものを取ってこよう。その後買い物に行って、夕飯が出来上がる頃にはシンドバッドも帰って来るだろう。
 洗濯機は回したかった。掃除もだ。特に風呂場の水垢が酷くて、昨晩シャワーを借りた時かなり気になった。
 布団も干したいが、時間的に難しいので週末まで待つしかあるまい。せめてシーツくらいは綺麗にしたいが、替えがあるかどうかをまず確かめる必要がある。果たしてあの家にアイロンはあるのだろうか。それ以前に、包丁とまな板があるかどうかさえ怪しい。
「ダメだ。考えてたら腹減ってきた」
 夕飯のメニューも悩みの種で、考えれば考えるほど頭が痛くなってくる。財布の心配もしなければならず、残高はかなり心許なかった。
 やはり今日も、学校を休めばよかった。ラシッドやシンドバッドが口を酸っぱくして行けと言うので従ったが、授業に出たところでどうせ集中できまい。
「どうするかなあ」
 昨日はシンドバッドが取ってくれた出前のピザ一食だけだったし、今日も朝から水しか口にしていない。成長期の身体に空腹は毒でしかなく、気にして腹を撫でていたらぐぅぅ、と嫌になる音色が響き渡った。
 予鈴のベルが鳴るまで、あと五分を切った。紆余曲折はあったが、学校の校舎は遠く見え始めている。全力疾走すれば、なんとか本鈴までに教室へ滑り込める距離だった。
 死に物狂いで急ぐか、登校を諦めて病院へ行って叱られるか。
 ここまで来ておいて戻るのも惜しいが、空きっ腹で授業を受けたくない気持ちも大きい。学校の購買はまだオープンしていないので、正門を潜り抜けたら暫く何も食べられそうにない。
 寄り道の時間を削るべきでなかった。遅刻しても良いと、覚悟を決めておくべきだった。
「うああ~」
 中途半端な決意で行動するから、こんなことになるのだ。誰にでも良い顔をしようとして、結局自分の首を絞める結果に終わってばかり。もっと自主性を持てと己を叱責し、アリババは悔し紛れに強く地面を蹴った。
 引き返す勇気も持てず、仕方なく角を曲がって学校へ向かう。いつもより少しだけ軽い鞄を振り回し、見えた校門を一気に潜り抜けようとして。
 目に入った人影に、彼は思わず足を止めた。
「アリババ殿!」
 あちらも、アリババに気付いて手を振った。大声で名前を呼ばれて、急ぎ足の生徒が数人、何事かと振り返った。
 遅刻回避を狙う生徒でごった返す正面玄関手前に、黒髪の少年が立っていた。顔には火傷だろうか、大きな傷跡があるけれど、表情は明るく声も良く響いた。
 アリババと同じ白いシャツを着て、ネクタイは一年生を示す青色だ。学校指定のスラックスを履き、革靴は磨かれてぴかぴかで、清潔感は抜群だった。
「白龍?」
 門を潜った先で待っている友人に、アリババは小首を傾げた。
 走った所為で息が切れ、胸が苦しい。どくどく言う心臓を宥めて唾を飲み、彼はまだ手を振っている後輩に苦笑して早足で境界線を飛び越えた。
 門を潜ればすぐ校舎で、地上からは五段しかない階段で区切られていた。その真ん中に立っていた白龍は、近づいてくるアリババにほっとした表情を浮かべて段差を一気に飛び降りた。
 軽やかに着地を決めて、鞄を胸に走り寄る。誰もが教室へ向かう中、ひとり逆方向に進んだ彼に相好を崩し、アリババは肩に担いだ通学鞄を抱え直した。
「おはよう、白龍」
「おはようございます、アリババ殿。良かった。今日は登校されるんですね」
「え、あ……ああ、うん」
 出来るだけ平静を装い、朝の挨拶を繰り出す。しかし切り返された言葉に思わずどきりとしてしまい、相槌はどうにも歯切れが悪いものになってしまった。
 一瞬翳ったアリババの表情を見逃さず、白龍は目を眇めた。心持ち顔色が優れないのを光の下で確かめて、眉目を顰めて不満げに口を尖らせる。
「昨日、急に休まれたので。心配しました」
 一昨日は元気だった。具合が悪そうにも見えなかったと言われ、アリババは返す言葉に迷って目を泳がせた。
 こうしている間にも時間は過ぎていく。正門を閉めようと警備員がスタンバイしているのを横目に見て、彼は今し方白龍が降りてきた階段に足を踏み出した。
「ちょっとな。家がごたごたしてて」
 曖昧に言葉を濁し、逃げようと昇降口を目指す。だが白龍も目的地は同じなので、当然ながら追いかけてきた。
 建物の中に入ると、途端に賑やかさが増した。音が壁や天井にぶつかり、反響していつまでも場に残る。あちこちで交わされる挨拶の間を抜けて上履きに履き替えようとした彼に、学年が違うというのについて来た白龍が苛立った顔で手を伸ばした。
「っ」
「アリババ殿」
 手首を掴まれ、後ろに引っ張られた彼はつんのめった。
 片足立ちを強いられて、ふらつきながら後ろを向く。温厚で穏やかな性格の少年が、珍しく感情も露わに目を吊り上げていた。
「はくりゅ……」
「これ、食べてください。その様子では、昨日だってろくに食べてらっしゃらないんでしょう」
 何故そんな顔をするのか。事情がさっぱり分からないアリババが戸惑う前で、彼は素早く鞄を広げ、中から小さな包みを取り出した。
 今初めて気付いたが、彼の荷物はやけに大きかった。
「ちょっと待った。お前、なんでそれ」
 薄緑色のハンカチに包まれたケースを手渡され、反射的に受け取ってしまったアリババは声を上擦らせた。
 焦って頭が働かず、状況が上手く掴めない。どうして彼が、昨日のアリババの食事内容を知っているのか。だが仔細を聞く間もなく、一方的に喋った白龍は深々と頭を下げた。
「詳しい話は昼にでも。あ、ちなみにご心配なさらずとも、昼の分もちゃんと用意してありますので」
「白龍」
「では、また後で。失礼します」
 本鈴までの時間が僅かなのを知った上で、昼食の約束を取り付けて去っていく。まるで小さな嵐に襲われた気分で、アリババはぽかんとしながら残された包みに目を瞬いた。
 練白龍は、アリババのひとつ下の後輩だった。
 彼は一年生でありながら、五月の後半にこのシンドリア高校に転入して来た。その前は煌学園高等部に在籍しており、交換留学生という形でこちらに通うことになった、と本人は言っていた。
 だがそれがどこまで本当で、どこからが嘘なのかは分からない。第一入学して一ヵ月半しか経っていない生徒を、学校の代表として他校に送り出す事からして、奇妙な話だ。
 もっともアリババは、それについて突っ込んで聞いたりはしていない。嘘だったとしても、真実だったとしても、特に問題があるとは思わないからだ。
 白龍は今、アリババと同じ学校に通って、同じ部活動に参加している。なんら不足はないし、取り立てて不満に思う所もない。それで彼も一緒に居て楽しいと感じてくれているのなら、万々歳ではないか。
 わざわざ墓穴を掘りに行き、関係を悪化させるくらいなら、古傷には触れないに限る。だから顔の傷跡についても興味はあるが、彼が自ら話してくれるまで聞くつもりはなかった。
 彼について知っていることと言えば、他には姉と二人暮らしである、ということくらい。そしてその姉が聡明で美人であるに関わらず、家事が根本的にダメという程度だ。
 だからか、白龍は男だてらに料理が上手かった。裁縫も得意だ。手先が器用で、生まれる性別を間違えたのではないかと思う日も偶にあった。
「なんで知ってんだろう」
 教室に入り、担任が来る前に彼が押し付けていった包みを解く。中身はロールサンドイッチだった。
 全部で四本。食べやすいように一本ずつラップに包まれており、中の具も全て異なる手の凝りようだった。
 ハムとチーズ、炒り卵、レタスとポテトサラダに、最後はデザートのつもりか甘く煮付けた林檎のスライスが入っていた。
 ラップを剥いていけば手が汚れず、片付けも簡単だ。そういう細かいところまで気を配っている白龍に心の中で感謝を述べて、アリババは教師が入ってくると同時に弁当箱の蓋を閉めた。
 口の中に残っていたパンの欠片を飲み込んで、唇についたマヨネーズをぺろりと舐める。満腹には程遠かったが腹具合も幾分落ち着いて、冷静な思考回路もようやく戻ってきた。
 とはいっても、予想通り授業にはちっとも集中できなかった。
 真っ先に考えたのは、矢張り父のことだった。
 病院への搬送が早かったのと、シンドバッドの指示によるアリババの処置が的確だったこともあり、幸いにも症状は軽く、麻痺などの後遺症も全くないという。しかし年齢的な問題もあり、これを機会にあちこち検査をするという話だった。
 アリババの父であるラシッド・サルージャは仕事が趣味のような人で、名誉教授の席に退いた今も週に一度は学生への講義を行っている。授業は人気で、学外からわざわざ聴講生が来るほどの反響ぶりというから驚きだ。
 ラシッドの専門は経済学だが、多趣味が高じて色々な分野に手を出していた。その幅広さは息子のアリババから見ても異様なくらいで、恐らく本人すら全容を把握出来ていないのではと思われた。
 机に齧りついての重箱の角を突付くような研究は嫌いで、どちらかといえば外に出て、自分の足で情報を集めてくる活動的な学者としても知られている。それこそ若かりし頃は、十年ほど前のシンドバッド同様に世界中を駆け回っていたそうだ。
 ただ研究に没頭するあまり、家庭を大事にしてこなかった。
 見合い結婚だったそうだが、夫婦生活は当初からあまり良好とは言えなかったらしい。ラシッド本人は妻や子供を精一杯愛したつもりでいたが、想いは通じ合うことなく、空回りし続けた。
 後悔を抱いた頃には夫婦仲は完全に冷え切っており、離縁も時間の問題だった。ラシッドは懸命にやり直そうと訴えたが受け入れられず、彼の孤独感は次第に強まっていった。
 そして、運命の女性に出会った。
 彼女は若く、聡明で、美しかった。いつも笑顔を絶やさず、誰からも好かれていた。
 寂しさに押し潰されそうになっていたラシッドを影ながら支え、彼の為に心を尽くしたその人物こそが、アリババの母であるアニスだった。
 ラシッドは身辺の整理をつけた後、彼女と再婚しても良いと考えていた。だが肝心のアニスがある日、住み慣れた町から忽然と姿を消した。親しい人間にも何も言わず、行方をくらませてしまった。
 以後、ラシッドは前にも増して研究に没頭した。まるで失ったものを勉学で補おうかとしているかのように、それこそ我武者羅に働いた。同時に有能な弟子を多数育てあげて、彼の名声は高まる一方だった。
 それでも彼に訪れた、二度目の孤独が薄れることはなかった。ラシッドが本当の笑顔を取り戻すには、アリババがサルージャ家に引き取られるまで待たなければならなかった。
 そんな不器用で、一途な男だ。若い頃には信じられない無茶も多数引き起こしている。病気など無縁と思っていても、寄る年波に勝てる者はこの世に存在しない。
 多忙さにかまけて健康診断も碌に受けていなかったから、丁度良い機会なのであちこち調べてもらうつもりだそうだ。期間にして、凡そ三週間。その間、彼はずっと病院のベッドの上だ。
 サルージャ家の住人は、現在二名。そのうちのひとりが当面入院生活となり、アリババはあの広い家でひとりきりになった。
 十七歳の健全な男子が独り暮らしと聞けば、食事の面を心配する声が真っ先に聞こえてこよう。だがアリババは、下手なりに料理は出来た。
 待っていても誰も用意してくれないから、自分で作らなければならない環境下に長期間身を置いていたのだ。洗濯や掃除も、同年代の若者に比べれば格段にスキルは上という自負があった。
 生活費についても、一ヶ月程度ならば心配ない。水道や光熱費は口座からの引き落としで、残高も余裕があったと記憶している。
 防犯面でも特に心配は不要だろう。サルージャ邸のある一帯は治安が良いし、街灯も整備されていて夜でも道は明るい。第一、これまでにも、長期出張でラシッドが不在の日は何度となくあった。一週間ほど帰って来ない事だって、年に一度や二度は必ずあった。
 だというのに、今回に限って彼は息子であるアリババを、知り合いの男に託した。
 理由の説明はなかったが、想像はついている。
「オヤジは……やっぱ、俺の親父か」
 あの人なりに心配してくれていたのだろう。自分だって大変だろうに、息子の心を真っ先に案じる辺り、過保護としか言いようがなかった。
 その気遣いを、別れた妻にも発揮できていたならば、運命は大きく変わっていたはずだ。自分が生まれてこない世界を想像して、アリババは沙金色の髪を掻き上げた。
 独白は真っ白なノートに吸い込まれ、辺りには響かない。教卓では物理の教師が計算式の説明を熱心に行っていたが、声は右から左に流れて頭に残らなかった。
 頬杖を付き、彼は芯の出ていないシャープペンシルで罫線を引っ掻いた。
 細い筒が紙に引っかかり、その度に指先に細かな振動が伝わった。そうやって薄い筋が数本並んだところで、授業終了を告げる鐘が高らかと鳴り響いた。
「やっとか」
 ほっと安堵の息を吐き、アリババは大勢のクラスメイトに倣って天を仰いだ。
 ようやく午前の授業が全て終わった。いつもならそう辛いとは感じないのに、今日ばかりは時間の流れが遅く思えてならなかった。
 腕を伸ばして背筋を反らし、凝り固まった骨をぽきぽき鳴らす。ついでに首を回して肩を捻っているうちに、両隣に座っていた生徒は食堂目指してさっさと教室を出て行った。
 シンドリア大学附属高校は、その名の通りシンドリア大学の系列校だ。共学で、幼等部からの持ち上がりの生徒も多い。アリババも初等部からここに通っている。
 校風は割と緩く、自由でおおらか。勿論風紀を大幅に乱す行為は許されず、アルバイトも校則で禁止されている。もっとも在校生の大半がそれなりに資産のある家の出なので、自ら働く必要のない生徒が殆どだった。
 文武両道を謳い、部活動も盛んだ。アリババは中等部から剣道部に所属しており、現在初段の腕前だった。
「ん~……」
 椅子に座ったまま伸びをして、頭上高く掲げた腕を下ろす。視線ももれなく下がり、机にぶら下げた鞄が目に入った。
 いつもなら、その中に手製の弁当が詰め込まれていた。だが今日に限り、正門で白龍に渡されたタッパーが押し込められていた。
 アリババが朝食を抜いていると見抜いた彼は、昼食も用意していると言っていた。昨日から碌に食べていないと、どうして白龍は知っていたのだろう。
 ラシッドが倒れたのは、一昨日の夕方。その翌日、つまり昨日、アリババは学校を休んだ。
 担任に電話で連絡した際、簡単にだが事情は説明した。ただそれを、教師が生徒に吹聴するだろうか。
 言ってもせいぜい家庭の事情程度で、詳細は言葉を濁すはずだ。だのに白龍は、アリババが憔悴している趣旨の発言をしている。いったいどこで聞きつけたのか、どうやって調べたのかが気になった。
「あいつ、時々すんげー訳分かんねーからなあ」
 彼と最初に出会ったのは、学校の中庭だった。
 非常に目立つ傷跡が原因かは分からないが、彼は転入当初からかなり浮いた存在だった。
 入学式から既に一ヵ月半が経過しており、学級内では既にいくつかのグループが形成されていた。大雑把な分類としては、中学からの持ち上がり組と、他所からの編入組。その二種類に大別される集団のどちらからも爪弾きにされる形で、白龍は誰とも馴染めずに孤立していた。
 決して社交的とは言い難い性格なのも、彼を周囲から遠ざける原因になっていた。何事にも熱心に取り組もうとするのは分かるのだが、少々思い込みが激しくて突っ走りがちなところもあり、そういう点が同級生から敬遠されているものと思われた。
 親しく接してみれば、愛嬌のある良い奴だというのが分かる。ただ矢張り、顔に残された大きな傷にどうしても目が行ってしまい、大多数の生徒は話しかけるのさえ躊躇した。
 そういうわけで昼休みを共に過ごす相手もなく、独り中庭で弁当を広げていたところに声を掛けたのが、他ならぬアリババだった。
 丁度その日は弁当を作る余裕がなく、財布の残高も五百円を切っていた。パン一個と牛乳を買うだけで所持金が尽きてしまい、空腹をどう紛らせようか悩んでいたところ、ひとりで食べるには多すぎる量を前にしていた白龍と出会った。
 美味そうだな、と何気なく話しかけた。その時白龍は俯いていたから、顔に傷があると気付いたのは喋りかけた後だった。
 そういう一年生がいるという噂は聞いていたので、特に驚きはしなかった。嗚呼、コイツがそうなのかと内心同情を抱いてから、戸惑っている彼に弁当のお裾分けを強請った。
 それがきっかけとなり、今やアリババは、異様なまでに彼に懐かれていた。
「アリババ殿」
 話を聞くうちに意気投合して、仲良くなったのは別に構わない。アリババ自身、友人は多い方なので、五月蝿いのがひとり増えたところでなんら問題なかった。
 ただ若干、執着されている気がする。気が付けば彼も剣道部に入部して、当たり前のように先輩であるアリババの隣に陣取るようになっていた。
 呼び声が聞こえ、ため息の末に教室後方に目を向ける。居残っていた女子の忍び笑いが聞こえて、彼は犬の如く尻尾、もとい手を振っている後輩に肩を竦めた。
「アリババ君。お迎え、来てるよー」
「知ってるってば」
「愛されてるねー」
「そうそう。俺らもう、ラブラブで熱々だから」
 周囲からからかう声が飛んで、アリババは慣れた様子で言葉を返した。感情の篭らない返答ながら、内容が内容だったからか、少女らは甲高い声で悲鳴をあげた。
 なにがそんなに楽しいのか分からないが、今の切り返しは彼女らのお気に召したようだ。そんな事をぼんやり考えながら席を立ち、アリババは鞄を担ぐと廊下で待っている後輩に歩み寄った。
 通常、上級生の教室に出向くのには多少なりとも勇気が必要なはずだ。少なくともアリババはそうだった。だが白龍は全く気にしていないようで、青ネクタイをじろじろ見る目も悉く跳ね返していた。
 通路を行く生徒の大多数が赤色のネクタイを締める中で、その色はよく目立った。アリババもまた校章が入ったネクタイを揺らし、戸口で待っている一年生に苦笑した。
「わざわざ呼びに来なくていーんだけど」
「一秒でも早く、アリババ殿の顔が見たくて」
「あー……そりゃ、どうも」
 返事に困る事をさらりと言われて、アリババは首を竦めた。
 慕ってくれるのは嬉しいが、彼の行動は時々突飛でついていけない。同学年の連中とも仲良くするよう常々言い聞かせているのだが、色よい返事は今のところ得られていなかった。
 彼と親しくなってから、アリババは余程でない限り白龍と一緒に、中庭の指定席で昼食を取るようにしていた。
 本人には言っていないが、教師から頼まれたというのもある。彼が学内でアリババ以外に友人が居ないのは、教員にとっても頭痛の種らしい。
 詳細は聞いていないが、白龍が前に在籍していた学校の関係もあるのだろう。煌学園はシンドリア高校に勝るとも劣らない規模を持つマンモス校で、彼はその学園の理事長と血縁関係にある、という話も小耳に挟んでいる。
 それも噂で囁かれているのを聞いただけで、アリババは白龍に真実を問うていない。面倒臭いのは嫌いだから、好奇心から墓穴を掘って関係を煩わしいものに変える真似はしたくなかった。
「行くか」
「はい」
 目尻を下げ、囁く。白龍は満面の笑みで頷いて、先に立って歩き始めた。
 到着した中庭は先客の姿もなく、ひっそりと静まり返っていた。
 中央には大きな楠が枝を広げ、校舎が作り出す陰の中にはベンチが置かれていた。木の周囲には背の低い柵が設けられて、生徒の立ち入りを禁じる札が掛けられていた。
 アリババはその囲いの前を素通りして、定位置であるベンチの右側に腰を下ろした。
「朝は悪かったな。これ、美味かった」
「いいえ、気にしないでください。アリババ殿のお役に立てたのなら、朝早く起きた甲斐がありました」
 左側に白龍が座り、持っていた鞄を膝に置く。空のタッパーを受け取ってはにかむ姿は、そこいらの高校生となんら変わりなかった。
 間違っても、悪い奴ではない。姉想いの心優しい少年で、ただちょっと性格的に不器用で言葉遣いが独特なだけ。この「殿」呼ばわりも止めるよう言っているのだが、一向に聞き入れられる気配はなかった。
「昼は、粽にしてみました。中に鶉の卵を入れてあります」
「つかさ。お前って、朝何時に起きてるわけ?」
 早速鞄を広げて、彼は入れ替わりに昼食を取り出した。
 告げられたメニューのあまりの凝りようには、呆れるしかない。そうそう簡単には作れない品を出して来られて、律儀に笹の葉で包んである代物にアリババは絶句した。
 どこまで本格的なのかと唖然とするが、既に朝食で貰ったパンを消化済みの胃袋は欲望に正直だった。
 ぐぅ、と鳴った腹の虫に、白龍は目を細めて笑った。
「どうぞ」
「サンキュ」
 差し出され、躊躇もなく受け取って結ばれていた紐を解く。カサカサ言う葉を剥いて取り出した中身は、かやく飯を握ったものに見えた。
「お口に合えば良いのですが」
 生唾を飲んだアリババをじっと見つめ、彼は心配そうに呟いた。
 白龍が作ったもので、不味かったものは今までひとつもない。今回だってきっと大丈夫と相好を崩し、アリババは大きく口を開けて粽にかぶりついた。
「あむっ」
 もっちりした歯ごたえの後に、薄く切った筍のシャキシャキした触感が気持ち良い。彼の言葉通り食べ進めていくうちに小さな玉子が現れて、味の変化が面白かった。
 たちまち一個を平らげて、アリババは指についた米粒を舐め取った。
「うん、美味いよ」
「良かった」
 ちゃんと味見はしてあるだろうに、それでも不安だったらしい。笑顔で告げられたのを喜び、白龍も粽に手を伸ばした。
 そして早速二個目に取り掛かろうとしていたアリババを盗み見て、声を潜めた。
「お父上は大丈夫でしたか?」
「ぐほっ」
 周囲に響かないようボリュームを落とした問いかけに、米の塊を喉に詰まらせたアリババがにわかに青くなった。
 気道を塞がれ、呼吸が出来ない。みるみる顔色を悪くする彼に焦り、白龍は取ったばかりの粽を置いて水筒の蓋を外した。
 まだ熱い茶をコップに注ぎ、大慌てで差し出す。荒い波を立てるそれを奪い取り、アリババはひと息のうちに飲み干した。
「うげっ、ぇほ!」
 詰まっていたものを液体で押し流すが、一部が気管に入った。激しく噎せて咳き込み、身体を丸めた彼に白龍までも蒼白になって、必死になってしなやかな背中を撫でた。
「だ、大丈夫ですか。アリババ殿」
「うう~~……なんか、鼻に入った……」
 逆流した水が鼻腔に紛れ込み、奥の方がつんと来て痛い。目尻に涙を浮かべて唸った彼に目を見張り、白龍はアリババを抱えるように回していた腕を慌てて引っ込めた。
 膝から転げ落ちていた食べかけの粽を拾うが、これはもう捨てるしかなさそうだ。勿体無いが仕方ないと諦め、彼は入れる袋がないかと鞄の底を漁った。
 隣でごそごそ動く後輩を横目で見やり、ようやく人心地付いたアリババは額を打って奥歯を噛み締めた。
「……んく、っと。ホント、待てって。なんで知ってんだよ、お前」
 まだ若干息苦しいものの、喉に引っかかっていたものはなくなった。ひりひりするが撫でようのない鼻を気にしつつ質問を投げれば、顔に傷を持つ少年は申し訳なさそうに首を竦めた。
 発掘したビニール袋に砂まみれの粽を入れ、口をきつく縛って脇に置く。その上で両手を膝に揃えられて、畏まった白龍にアリババは眉を顰めた。
「白龍?」
「昨日、アリババ殿がお休みされたと聞いて。具合でも悪いのかと心配になって、俺、アリババ殿のお宅に行ったんです」
「嘘。お前、来てたの?」
 斜めに座り直した彼の言葉に、驚きを隠せない。思ってもみなかった返答に素っ頓狂な声をあげ、アリババはぽかんと口を開いた。
 携帯電話は、病院の中ではずっと切っていた。その後シンドバッドに連れられて一旦家に帰ったのだが、あれは学生の帰宅時間には少々早い時間帯だった。
 現在はバッテリー切れを起こしている携帯電話は、きっと未読メールや着信履歴で大変なことになっているに違いない。連絡の取れない先輩の身を案じ、即座に行動を起こしたのはいかにも白龍らしかった。
 ただ訪ねたところで、サルージャ邸には誰もいない。呼び鈴をいくら鳴らしたところで、応答は一切なかった。
 無人の家を前に呆然と立ち尽くす彼に手を差し伸べたのは、アリババの隣人だった。
「あー、そういやモルジアナ……居たなあ」
 一昨日、駆けつけた救急車に驚いた近所の住民が、何事かと様子を見に外に出ていた。その中に顔馴染みの少女がいたのを、うっすらとだが覚えている。
 彼女は目が良いから、搬送されるラシッドの姿も見ていた筈だ。その後なかなか帰ってこないアリババを案じ、なにかと気に掛けていたとしても不思議ではない。
「洗濯物が取り込まれているから、一旦帰ってきたんじゃないか、と。そうも言ってました」
「そっか。そういうトコで分かるもんなんだな」
 ラシッドが重篤であれば、そんな余裕もなかろうという推測だ。けれど直ぐにまた出て行っているところからして、予断を許さない状況にあるかもしれない、とそこまで推理話を聞いて、アリババは降参だと白旗を振った。
 たったそれだけの情報から、ここまで把握されるとは驚きだ。近所の目も案外油断ならないと肩を竦め、彼は艶やかな金の髪を掻き回した。
 天を仰ぎ、降り注がれる木漏れ日に目を細める。
「まあ、隠しててどうにかなるって話でもないしな。親父は元気だよ。当分入院しなきゃだけど、意外にぴんぴんしてる」
「それは良かったです」
 深く長いため息の末に呟いた彼に、白龍も心底ほっとした様子で言った。
 その表情は本物で、嘘や誤魔化しといったものは一切感じられなかった。
 余計な感情を挟まず、アリババに寄り添うように立って囁かれた言葉だった。だからアリババも、彼の声を聞いて改めて父が無事でよかったと、心の底から強く思えた。
「……ありがとな」
「え?」
「心配してくれて。嬉しいよ」
 こんな風に親身になってくれる存在は、一握りしかいない。シンドバッド以外にも頼れる相手が出来たのが嬉しくてはにかめば、白龍は一瞬ぽかんとしてから急に火がついたように真っ赤になった。
 ぼんっ、と煙を吐いた彼に小首を傾げ、アリババは心が軽くなると同時に戻ってきた空腹に舌を出した。
「食べていいか?」
「あっ、はい。どうぞ」
「てかさー、お前さ。俺が今日ガッコ来たから良いけど、来なかったらどうするつもりだったんだ?」
 トータルで三つ目、実際は二つ目の粽を摘み、アリババは右足を持ち上げて左膝に寝かせた。宙を彷徨う足首をぶらぶらさせて問えば、ようやく一つ目を頬張った白龍が目を白黒させた。
 三角形の粽を口に入れたまま瞳を泳がせ、明後日の方向を向いて黙り込む。態度からして、考えていなかったのは一目瞭然だった。
「ぶはっ。馬鹿だろ、お前」
「い、良いじゃないですか。現にこうして、アリババ殿に食べていただけているのですから」
 堪えられず噴き出したアリババに、彼は開き直って声を荒らげた。そうは言ってもまだ恥ずかしそうで、拗ねているのか白い頬は真ん丸だった。
 そこに付着している米粒を取ってやり、ついでに柔らかい肌を擽る。不満そうな顔で睨まれたが気にせずにいたら、ひと通り食事を終えたところで白龍が背筋を伸ばした。
「それで、アリババ殿。今日はどうされるのですか?」
「今日?」
「はい」
 空になった弁当箱に、砂混じりの粽ひとつを放り込んで蓋を閉める。手早く片付けに入った彼の言葉に、アリババは顔を顰めた。
 約束はなにもしていない。ラシッドの入院がなければ、放課後は剣道部で汗を流し、買い物をして帰る予定だった。
 だが状況が変わった今、部活には当分参加出来そうになかった。
「どう、って……」
「授業が終わったら、お父上の病院に行かれるのでしょう。となれば、夕飯の支度をする時間もないのではないですか。それなら俺がお作りして、お届けにあがろうかと」
「え? いや、ちょっとタンマ」
 戸惑っていた矢先、まるで堰を切ったかのように白龍が捲し立てた。
 胸に手を当てて身を乗り出した彼の剣幕に驚き、頭がついていかなかったアリババは慌てて声を高くした。両手と首も一緒に振って後退し、ベンチを掴もうとした指が空振りしてハッと息を呑む。
 振り返ればもう座面はそこになくて、端へ追い詰められた彼は真剣な面持ちの後輩に目を瞬いた。
「アリババ殿」
 返事を迫る白龍に温い汗を流して、アリババは浅く唇を噛んだ。
「いや、えっと……気持ちは、嬉しいけど。流石にお前にそこまで頼むのは」
「ご心配には及びません。アリババ殿まで倒れられる事があってはいけませんから」
 目を逸らし、声のトーンを落として囁く。だが断ろうとしても白龍はにっこり微笑み、遠慮する必要はないと言葉を重ねた。
 アリババは現在、父の教え子であるシンドバッドの家に身を寄せていた。幼い頃、病死した母と数日共に過ごした過去がある彼を心配した大人が、なるべくひとりで夜を過ごさぬように、との配慮したからだ。
 もう十年以上前のことだから平気だと思っていたが、床に倒れ伏す父の姿を目にした時、彼はショックで凍りついた。眠ったまま目覚めなかった母の顔が蘇り、軽いパニックを起こして泣きながらシンドバッドに助けを求めていた。
 そんなアリババは今朝も嫌な夢を見たが、最後は昔のものとは違っていた。ラシッドに引き取られた直後はずっと暗くて冷たい中に閉じ込められて終わりだったけれど、今日は温かい腕に支えられ、無事に檻から抜け出せた。
 シンドバッドが寝ている間に脱ぐ癖は、十年以上前から変わっていない。気が動転して殴ってしまったのを、帰ったらもう一度詫びねばなるまい。
 彼が居なければ、夢は悪夢のまま幕引きを迎えていただろう。
「お父上の為に、まずアリババ殿が元気にならなければ。栄養のあるものをバランスよく、しっかり食べるのが大事ですからね。ああ、そうだ。俺がアリババ殿のお宅に泊まれば、そのまま朝食もご用意出来ますね」
「あ、あのさ。白龍」
 しかしそんな事情など一切関知しない一年下の後輩は、俄然やる気を出して拳を作り、つらつらと、まるで最初からそのつもりでいたかのように夕方からの計画を並べ立てていった。その淀みない口上には呆気に取られるばかりで、相槌を打つタイミングはなかなか見出せなかった。
 このままでは本気で家に押しかけて来そうだ。いくら善意からの申し出とはいえ、単なる友人でしかない彼にそこまでさせるわけにはいかなかった。
「気持ちはさ、ほんとに。すんげー有り難いんだけど。やっぱ良いよ、そういうの」
「どうしてですか?」
「どうして、って……」
「俺のことは気にしていただかなくても大丈夫です。姉に関しても、有能な部下がついていますから、俺がいなくとも何とかなると思います」
「だからさ、えっと。そういうんじゃなくて」
 矢張り全部言わなければ、わかってもらえないのだろうか。理解力がない訳ではないのだが、押しが強くて人の気持ちを汲めない後輩にかぶりを振り、アリババは言葉に迷って目を泳がせた。
 口の中で小さく舌打ちし、眉を寄せてため息をつく。
「アリババ殿……」
 不安そうに名前を呼ばれて、何も悪い事はしていない筈なのに、何故だか弱いものイジメをしている気分になった。
 上目遣いの眼差しと、急に気弱そうな態度を取られて心がちくちく痛む。細い針で刺されているような感覚に唇を噛んで、彼は振り払おうと右手を揺らした。
「えーっと、あー、もう。つかさ。俺、今、家に居ないんだわ」
「学校ですからね」
「いやさ、そういう意味じゃなくてだな」
 予想外の冷静なツッコミに、アリババは危うくベンチから転げ落ちるところだった。
 身体を斜めに傾がせて頬を引き攣らせた彼に、大真面目に答えた白龍はきょとんと小首を傾げた。
 格別面白い冗談を言ったつもりはない彼に苦笑して、アリババは居住まいを正した。どこから説明するかで一瞬躊躇し、視線を泳がせてから照れ臭そうに頬を掻く。
「ちょっと、まあ、うん。今さ、俺、昔世話になってた人のところに厄介になってる」
「……と、言いますと」
「そう。親父が退院するまで、暫くその人ん家から通うことになるんだ」
「そんな!」
「白龍?」
 シンドバッドの顔を思い浮かべ、朗らかに告げる。気恥ずかしさよりもまた彼に甘えられる嬉しさが勝った表情に、しかし白龍は大袈裟に声を荒立てた。
 勢い良く立ち上がった彼に驚き、アリババは目を見張った。
 日の当たり具合で見え辛いが、彼の顔色は若干どころかかなり悪かった。蒼白と言っても良い。先ほどまでは血色良くしていたのが嘘のような豹変ぶりに、アリババはぽかんと口を開いて凍りついた。
 右腕を横薙ぎに払った白龍はついでとばかりに強く地面を蹴り、拳を作って大きくかぶりを振った。
「どうして……どうして、そのようなことになっているのです。そのお世話になっているというのは、いったいどのような方ですか。きちんとした身分の方なのですか。アリババ殿とはどのような関係なのですか!」
「は、はくりゅう……?」
 一瞬泣きそうに顔を歪めたかと思えば、舞台俳優のように派手な身振りで胸を叩く。中庭に響き渡る大声での詰問に、詰め寄られたアリババは頬を引き攣らせた。
 ポーズで悲壮感漂わせながらも目は血走っており、鼻息は荒い。額がぶつかりそうな距離まで迫られて、熱風に前髪が舞い上がった。
 母にまつわる話は、あまり人にしたくなかった。
 両親が結婚していない事情も、許されるなら公にしたくない。アニスはラシッドの立場を考えて、敢えて黙って身を引いたのだ。彼女のそんな気遣いを、息子たるアリババも守り通したかった。
 となれば、悪夢に魘されるという話は省く必要があった。
「えっと、……親父が、さ。未成年を一ヶ月近くもひとりで放っておくわけにはいかない、って」
 だからラシッドが使った建前を借りることにした。胸の前で指を小突き合わせて目を泳がせた彼に、白龍は胡乱げな表情を向けて口を尖らせた。
 それはアリババが嘘をつく時に出る癖のひとつだった。
 いつもなら人の目を見て喋る彼が、相手の顔もみようとしない。後ろ暗いものがあるのだというのは、楽に予想出来た。
「ですが、未成年とはいえ、アリババ殿はもう十七歳ではないですか。それに、ひとりで心配というのでしたら、それこそ俺が、アリババ殿の家でお世話すれば済む話ではありませんか」
「いやいや、お前だって未成年だろー」
 もう一度胸を叩いて力説する白龍に、アリババは乾いた笑みを浮かべて言い返した。
 そもそも彼は何故こうまでして人の家に泊まりたがるのか。面倒事が増えるだけだろうに、ムキになる理由がさっぱり理解出来なかった。
 もっとも過ぎる反論を受け、白龍は悔しそうに唇を噛んだ。怒らせていた肩を落として深いため息を零し、力なくベンチに戻って脚を遠くへ投げ出す。
 見るからにしょぼくれている姿に、アリババは苦笑するしかなかった。
「気持ちはさ、嬉しいんだけど。お前に面倒かけるわけにはいかないだろ」
「俺は、アリババ殿のお役には立てませんか?」
「そうは言ってない。けどさ、俺の所為でお前を大変な目には合わせたくないんだ」
 ちょっと涙ぐみながら問いかけられて、今にも消え入りそうな小声に肩を竦める。手を伸ばせば、艶やかな黒髪が指の間をするりと逃げていった。
 アリババは彼の髪を綺麗だと思うのだが、白龍は光に透ける金髪の方が美しいと言う。堂々巡りに陥ったいつぞやの会話を思い出して笑っていたら、頬を緩めたのを怪訝がった白龍が首を傾げた。
「俺は、アリババ殿の為なら」
「いいよ。それにもう、白龍は凄く色々してくれてる。これ以上お前から貰ったら、俺は返せなくなっちまう」
 どちらかがどちらかに依存している関係ではなく、白龍とは常に対等な立場でいたかった。お互いに無理ない程度に相手を思いやり、心を配りあう。そういう関係を築いていきたかった。
 それではダメかとの問いかけに、彼はぐっと息を詰まらせて唇を噛んだ。
「……分かりました」
「気持ちはさ、本当に嬉しいんだ。俺も、お前が困ってる時に助けてやれるよう頑張るよ」
「はい」
 こうやって美味しい弁当を用意してくれるだけでも、十分心は満たされた。はにかんで告げたアリババに頷き、白龍も照れ臭そうに目を細めた。
 ベンチで向き合って笑いあい、ふと気になって時計を見る。文字盤を覗き込めば、昼休みが終わるまであと十五分といったところだった。
 チャイムが鳴れば、二人は別々の教室へ戻る。それを口惜しく思いながら、白龍は話題を少し戻して呟いた。
「それにしても、アリババ殿のお父上がアリババ殿を託されるとは。そのご夫婦とは、余程交流が深くてらっしゃるのですね」
「は?」
 大事な息子を預けられる相手など、そう多くはなかろう。古くからの知り合いなのだと聞いて独自に解釈した彼に、アリババはきょとんと目を丸くした。
 不思議そうな顔で見つめられて、予想外の反応に白龍も唖然となった。
「え?」
「なに言ってんだ、お前。シンドバッドさんは独身だぞ」
「はい?」
 ぽかんとして見つめ返せば、アリババが素っ頓狂な声で捲し立てる。早口に頭が付いていかず、彼は五度ばかり瞬きを連続させた。
 白龍はこれまでに何度かアリババの家を訪ねた事があった。当然、家長であるラシッドとも面識があった。
 年齢通りの威厳ある姿に圧倒された。立派な髭を蓄え、眼光は鋭く隙がまるでなかった。
 歴史あるバルバッド大学の学長まで務めたというだけあって知識は豊富で、話は分かりやすくて面白かった。そんな人物の信頼を勝ち得た相手だから、きっとラシッドと同年代に違いない。となれば夫婦で、と勝手な思い込みで突っ走ろうとしていた彼は、アリババの言葉に急ブレーキを踏んで目を点にした。
「シン、ド、バッド……?」
「そうそう。あれ、言ったことなかったっけ。何年か前にベストセラーになったろ」
 聞き覚えのある名前に愕然とし、白龍は追加された説明に温い汗を流した。
 シンドバッドの冒険譚。それはアリババの言う通り、五年ほど前に児童書としては異例の大ヒットを遂げた冒険活劇だった。
 荒れ狂う海原に出た若者が、幾多の危機を乗り越えて最後は財宝を手に入れる。内容は勧善懲悪のオーソドックスなものだったが、迫力ある描写や練りこまれた舞台設定のお陰で、子供のみならず大人まで虜になった作品だ。
 その後シリーズ化され、二年ほど前に完結した。だが続編を求める声は未だ高い。作者が現役の考古学者だというのも、一大センセーショナルを巻き起こした原因のひとつと言われていた。
 冒険譚の主人公と同じ名前を持つ作者こそ、シンドバッド。シンドリア大学の準教授にして、年若い女性さえも魅了した美貌の持ち主だった。
 写真なら、見たことがあった。偶にテレビに出て、コメンテーターとして活躍しているとも聞いている。
「そ、そのような方が何故、アリババ殿と……」
「あれ、ホントに言ってない? あの人、親父の教え子なんだよ。そんで、昔からよくうちに出入りしてて」
 今となっては、兄のような存在だ。父が倒れた時も、真っ先に頼ったのは彼だった。
 シンドバッドが居てくれてよかった。改めて実感し、その心強さに頬を緩める。自然と笑顔になったアリババに、白龍は呆然と目を丸くした。
 間抜けに開いていた口を閉じ、彼はざわつく胸を押し留めて奥歯を噛んだ。
「という、ことは。今、アリババ殿はその方と」
「ああ。でもシンドバッドさんのマンションってファミリータイプだし、ふたりでも全然平気っぽかった。てか、ダブルベッドてマジででっかいんだな」
「!」
 寝る時に脱ぐ癖はどうにかして欲しいが、彼の体温のお陰で悪夢を見ずに済んだ。遠い昔、寝付くまで枕元で物語を語り聞かせてくれたのも一緒に思い出して微笑めば、何故か白龍はショックを受けて凍りついた。
 メデューサにでも睨まれたのか、石と化した彼にアリババは小首を傾げた。
「白龍?」
「だ、だだ、だぶる、べっど……?」
 無邪気に名前を呼んで顔を寄せれば、狼狽えた白龍がカタカタ震えながら首を振った。
 頭の中に様々な光景が浮かび、矢継ぎ早に消えていく。その過激なシーンにうっかり鼻血が出そうになって、顔を赤くした彼は大慌てで鼻を塞いだ。
 両手で顔面を覆った彼に、アリババは眉を顰めて口を尖らせた。
「はーくりゅー?」
 青くなったり、赤くなったり、さっきから妙に忙しい。挙動不審としか言いようのない後輩に眉根を寄せて、彼はベンチの上で身じろいだ。
 少しだけ距離を詰め、顔を更に近づけてくる。怪訝に見つめる眼差しから急ぎ逃げて、白龍は見えない場所で大量の汗を流した。
「もしや、アリババ殿は、その。……その方と、同衾、して……?」
「どうきん、て? なに?」
 しどろもどろの質問に、アリババはたどたどしく問い返した。
 これまで耳にしたことのない単語に不思議そうにされて、白龍は熱を持った額を押さえて天を仰いだ。
 出来るものなら口にしたくないから、敢えてその単語を使ったというのに。想いを汲み取るどころか傷口に塩を塗って返されて、彼は心の中で咽び泣いてがっくり肩を落とした。
 ベンチに両手を衝き立てて俯いた白龍に、アリババは訳が分からないと大量のクエスチョンマークを並べた。
「お前、さっきからどうしたんだ?」
「同衾、とは……つまり、寝床を、共にするという、そういう」
「へえ、そうなんだ。知らなかった」
 元気になったり落ち込んだり、泣きそうになったり、怒ったり。こんなにも喜怒哀楽が激しい奴だったかと感心していたアリババは、掠れるほどの小声で告げられた内容に目を瞬き、成る程と頷いた。
 そして最後に照れ臭そうに笑い、短い爪で頬を掻いた。
「あんまり人には言うなよ。この歳で、ひとりで眠れないって恥ずかしいだろ」
 父が倒れ、心細さを覚えた。
 ひとり取り残される恐怖に足が竦み、夜を越えるのが怖くなった。
 大丈夫だと信じている。けれど確証が持てなくて、寄る辺となる温もりを知らず求めていた。
 シンドバッドは全部知っているから、すんなり受け入れてくれた。悪いと思いつつも、彼の優しさに甘えた。
 懐かしい匂いに包まれて、安心出来た。ほっとした。緊張が解けて、強張っていた心は一気に和らいだ。
 だからお礼の代わりに、今夜はシンドバッドが好きなものを作ろうと思う。ワインに合うメニューといったら何があるか気になって、料理上手な人物がそこにいるのを思い出したアリババは妙案だと両手を叩き合わせた。
「そうだ。なあ、白龍。……白龍?」
 彼に聞けば、良いアイデアを出してくれるに違いない。暢気に構えて話しかけようとした矢先、目の前の人物が燃え尽きて真っ白になっているのに気が付いた。
 呼んでも返事がなくて、試しに右手を左右に振ってみる。しかし目ぼしい反応は得られず、白龍はぴくりとも動かなかった。
 瞬きさえ忘れて停止している彼に一頻り首を捻り、アリババは口をヘの字に曲げて目を真ん中に寄せた。
「おーい」
「はっ!」
 熱でもあるのかと手を伸ばし、広くも狭くもないおでこに触れてみる。その状態で瞳を覗き込んだ彼に、白龍はようやく我に返って真ん丸い目を忙しく開閉させた。
 吐息が交錯する近さでアリババが笑った。やっと目が合ったと喜ぶ彼に頬を染め、白龍は苦虫を噛み潰したような顔をした。
「……アリババ殿は、その。シンドバッド殿を、信頼……してらっしゃるのですね」
「俺がガキの頃から知ってるしな。ちょっと歳の離れた兄貴みたいな感じだよ」
「兄、ですか」
「そうそう」
 感情を押し殺した質問を額面通りの意味で受け取り、アリババは無邪気に頷いた。白い歯を見せて笑い、懐かしい記憶の数々を脳裏に浮かべて目を細める。
 なにやら含みを持たせた相槌にも気付かず、彼はシンドバッドの話が出来るのを単純に嬉しがり、相好を崩した。
 屈託なく笑う彼をじっと見つめていた白龍は、やがて心に折り合いをつけたのか深く長い息を吐いて肩を竦めた。
「でも、宜しいのですか?」
「うん?」
「俺も多少なりとも、あの方を存じ上げておりますが。そろそろ良いお歳なのでは」
「なんの?」
 回りくどい言い回しに、アリババは眉間に皺を寄せた。勿体ぶった言い方に機嫌を損ねて頬を膨らませ、苛々を隠しもせず声を荒立てる。
 遠まわしでは理解出来なかった彼に苦笑し、白龍は堪えきれずに噴き出した。
「ですから、結婚の、ですよ。良い方がいらっしゃるなら、たとえアリババ殿が弟のような存在だとしても、相手の女性があまり良い顔をなさらないのではと」
 笑みを押し殺し、あくまで一般論だと付け足した上で囁く。右手を揺らしてつらつらと述べた彼に、アリババはきょとんと目を丸くした。
 一瞬、彼が何を言っているのか分からなかった。
 シンドバッドは独身だ。今のところ、結婚するという話は一切聞いていない。
 けれど彼に恋心を抱く女性が多いのは事実だった。
 若手研究者の中でも特にハンサムで、立ち振る舞いも優雅な彼は学会でも人気の的だ。また、コメンテーターとしてテレビ番組に呼ばれる事もあり、俳優かなにかと勘違いする視聴者も多いという。
 シンドリア大学準教授という社会的地位に加え、続編を嘱望される作家としての顔もある。アリババから言わせれば酒にだらしなく、生活力の乏しい男でしかないが、そういった面を知っている人間の方が少数派だろう。
 恋人がいるという雰囲気はなかった。
 洗濯物は籠一杯に溜め込まれ、台所は湯を沸かすくらいにしか使われていない。部屋の掃除も行き届かず、床には埃が積もっていた。
 もしそういった存在があるのなら、片付けに顔を出していても可笑しくない。だから有り得ないと笑い飛ばそうと思うのに、出来なかった。
 笑顔が凍りついたアリババを見つめ、白龍はスッと手を伸ばした。
「もし、アリババ殿が居辛いと感じるようなことがあれば、いつでも言ってください。添い寝ならば、俺がいくらでもしてさしあげます」
「またそんなこと……」
 頬を擽られ、真顔で告げられた内容に苦笑する。だが先ほどまでのように、その必要はないとはどうしても言えなかった。

 ホームルームが終わり、教室は俄かに騒がしくなった。
 ようやく開放されると喜んだ生徒が嬉しそうに顔を綻ばせ、我先にと鞄を手に廊下へ出て行く。部活に参加する生徒も多く、正面玄関までの道程はどの時間よりも混雑していた。
 その人ごみをすり抜け、アリババも急ぎ足で上履きを脱いだ。
 下駄箱に投げ込み、入れ替わりに少々汚れている革靴を引き抜く。爪先を叩いて踵まできっちり履いて、彼は賑わう正門へ一歩を踏み出した。
 短い階段を下り、駅へ向かおうと揺れる鞄を担ぎ直す。そして公道に出たところで、どこからともなくクラクションが鳴り響いた。
 迷惑な騒音に、大勢の生徒が揃って振り返った。
 誰かが車道に出たのかと思ったが、違う。急ブレーキの音も聞こえなかったし、煽るような五月蝿いエンジン音もない。いったいどこから、何のためにと皆が首を傾げていた矢先、再びプップー、と高い音色が鼓膜を震わせた。
「アリババくん」
 と同時に耳に心地良い声が響き渡って、気にせず先に進もうとしていたアリババは慌てて足を止めた。
 後ろから来ていた生徒とぶつかりそうになり、軽く頭を下げて詫びてから視線を巡らせる。そうして注意深く周囲を探るうちに、対向車線に停車中のスポーツカーがあるのに気が付いた。
 運転席の窓は全開になり、人が身を乗り出していた。気障なサングラスをかけて顔を隠してはいるが、一目見ただけでそれが誰なのかは分かった。
 長い黒髪を背に流し、上物のスーツで身を固めている。背が高く、肩幅も広い。なんとも男らしい出で立ちに、下校途中の女生徒は誰だろうかと興味津々だった。
 呼ばれ、アリババは困った顔で頭を掻いた。
 急ぎ左右を確認し、接近する車がないのを確かめて車道を駆け抜ける。横断歩道はまだ先で、遠回りする時間が惜しかった。
「なにしてるんですか、こんなところまで」
「あれ? 言わなかったっけ、迎えに行くって」
「聞いてません」
 慌てて反対側の歩道に上がり、助手席のドアを開く。鍵はかかっていなかった。シンドバッドも車内に戻り、ボタンひとつで窓を閉めた。
 そういえば彼は今朝、マンションを飛び出したアリババになにかを大声で叫んでいた。もしやその時かと考えるが、聞いていないのは事実だからと開き直る。
 憤然としながら座席に腰を落ち着かせた彼に目を細め、シンドバッドはキーを回してエンジンを起動させた。
 心地良い振動が尻から登ってきて、アリババは荷物を足元に置いてシートベルトに手を伸ばした。
「……ん?」
 黒いベルトを引っ張り出し、金具を固定させる。慣れた手つきで準備を整える中、ふと視線を感じて彼は背筋を伸ばした。
「病院へ直行で良いかな」
「あ、はい。その後、ちょっと寄りたいところがありますけど」
「分かった」
 だが窓の外を確認する前に横から聞かれ、意識は即座にシンドバッドに傾いた。買い物をしたいし、銀行にも寄りたいと言えば、彼は二つ返事で頷いてエンジンブレーキを解除した。
 ウィンカーを出してギアを入れ替え、アクセルを踏み込む。走り出した瞬間にまたも突き刺さる視線を覚えたが、景色はあっという間に入れ替わって、結局誰が見ていたのかは分からなかった。
「どうかしたかい?」
「あ、いえ。なんでもないです」
 平凡な町並みが続く外を気にしている彼に、シンドバッドが不思議そうに問いかけた。器用にハンドルを操作する兄代わりの男に目を向けて、アリババは首を振った。
 遠慮がちに微笑み、勉強道具を詰め込んだ鞄を膝に引き上げて抱きしめる。背中を丸めて小さくなった彼の横顔に、シンドバッドは優しく微笑んだ。
 落ち着かない様子なのは、病院の父の具合が気になるからだろう。学校で日常を楽しんでいたのに、急に現実に引き戻されたから不安で仕方がないのだ。
 そんな風に解釈し、ならば急いで病院へ行こうと速度を上げる。調子よく運転する彼を盗み見て、アリババはマンションとは打って変わって清潔で手入れが行き届いている車内に首を竦めた。
 昼間の白龍の言葉が頭を過ぎり、居心地が悪くてならなかった。
「いる……の、かな」
 そんな話は聞いていない。彼女が居るなど、彼はひと言も言っていない。
 だが実際に、彼は結婚適齢期だ。地位もあり、資産もある。おまけに高身長で、顔立ちも整っている。こんなに良い男が今でも独り身であること自体が、そもそも可笑しいのだ。
 左の薬指に指輪はなかった。かといって、イコール恋人が居ないという図式は成り立たない。アクセサリーが嫌いな人間はいるし、妙な噂を立てられないよう外している可能性だって否定し切れなかった。
 疑問に思ってもやもやするくらいなら、いっそ本人に聞けば良い。それが一番早いのはわかっていても、何故だかアリババは声に出せなかった。
「もうじき着くよ」
「はい」
 青信号の交差点を抜け、シンドバッドが笑う。つられて若干不恰好な笑みを浮かべ、アリババは首を振った。
 こんな辛気臭い顔で会いに行ったら、ラシッドはまた心配するに決まっている。それにシンドバッドは、アリババを弟のように可愛がってくれている。たとえ恋人がいたとして、その人が良い顔をしなくとも、直ぐに追い出したりはしないだろう。
 心配ない。問題ない。
 なにも不安に思うことはない。
 だのに心に圧し掛かった闇は晴れることなく、逆にどんどん濃さを増していく。
 上手に笑えない自分に臍を噛み、アリババは勢い良く両手で頬を叩いた。

2013/03/07 脱稿