飴色の床板を踏めば、コツ、と乾いた音色が響く。それはこの地から遠く離れた島国にある、築百年近い実家を連想させる心地良さだった。
右を向けばゴシック調の厳めしい彫刻が飾られていた。窓はなく、廊下は薄暗い。斜め上に視線を転じれば年代物の燭台が壁に並び、溶けた蝋の残骸がこの城の歴史を雄弁に語っていた。
科学が大幅に発達した現代で、非効率的な照明を用い続ける道理はない。今現在彼の足元、そして行く先を照らしているのは、内装に合わせて違和感無いように作られた人工の光だった。
先ほどの燭台には、明らかに蝋ではない蝋燭が突き立てられていた。擬似的に生み出された炎は煙を出さず、風を受けて揺れもしない。
「やっぱり、風情がないな」
よく出来ているが、ずっと眺めていようとは思わない。その点が気に入らないと目を細め、彼は足取りを速めた。
真っ直ぐ伸びる廊下は果てがないようで、そうでもなかった。いくつかの角を曲がり、道中に見かけたものよりも遥かに荘厳で物々しい扉の前に立つ。ノックをすれば、二秒経ってから返事があった。
「開いてますよーう」
もう一度ドアを叩こうとしていた矢先で、彼は一寸ばかり面食らって目を丸くした。間延びした応答の声は勝手に入れと告げており、自分からノブを回す気はないとの意思表示でもあった。
ならば遠慮なく、立ち入らせてもらおう。驚く顔を想像して微笑み、彼はくすんだ金色のドアノブに手を伸ばした。
握り、右に回して、押す。鍵は掛かっていなかった。ただ開く直前、ピピッ、と微かな電子音がどこからともなく聞こえてきた。
それが最先端技術による、静脈を用いての本人確認なのを教えてもらったのはいつだったか。指紋では偽装が簡単だから、ということで導入されたシステムであり、登録済みの人間でなければドアが開かない仕組みなのだという。
当然、この身体のデータも組み込まれている。アナログに見せかけて存外にハイテクな古城に肩を竦め、彼は薄暗かった廊下から明るい室内へ居場所を移し変えた。
「失礼するよ」
「あ、はい。いらっしゃい、ヒバリさん」
「なに、その反応。もうちょっと驚きなよ」
目礼と共に断りを入れ、中に入る。天井には立派なシャンデリアがぶら下がり、前方には大きな窓が見えた。但しカーテンの所為で折角の景観も全く見えない。南洋の大きな太陽も、遮光布には敵わなかった。
その窓の少し手前に、横に長い机が置かれていた。奥行きもそれなりにあって、作業スペースはかなり広い。細工が見事な照明器具ひとつでは足りないのか、自在に位置を変えられる卓上スタンドがその一角を照らし出していた。
肘掛を持つ豪奢な椅子に座った青年が、現れた雲雀を笑顔で出迎えた。その飄々とした態度が若干面白くなくてムッとした彼に、城の主は呵々と笑って肩を揺らした。
「だって」
仕方がないではないか、と続く言葉を飲み込んで、手元を指差す。広い机の真ん中に置かれていたのは、携帯型のパソコンだった。
たった十年にも満たない間に、こちらも大きく進化した。発明された当初のモニターはブラウン管で分厚く、非常に重かったが、今となっては紙並みに薄い。キーボードもタッチパネル式が多く出回り、モニターと同化しているタイプが最近の流行だった。
ただそこに置かれていたのは、昔ながらのノート型だった。
「ここに、全部出ちゃうんです」
「なら、消しておけばいいじゃない」
「それだと、警備システムの意味がないでしょう」
「壊して入ればよかった」
「止めてください。あれ、幾ら掛かったと思ってるんですか」
折りたたみ式の薄型パソコンを小突いて言った青年に、雲雀は眉間の皺を深めた。自分の行動が筒抜けだったのが余程不満なようで、物騒な事を平然と言い放たれた方は慌てて止めに入った。
彼の場合、冗談が冗談では済まない。許せば絶対実行に移すに決まっていて、椅子から腰を浮かせた青年は冷や汗を拭ってため息を零した。
蜂蜜色の髪をくしゃりと掻き回して首を振り、入り口に立ったままの雲雀に掌を向ける。
「座っててください」
「君は?」
「俺はまだ、ちょっと、やることが残ってるんで。すぐ終わります」
示されたのは、部屋の中央に陣取っていた応接セットだった。
その昔、並盛中学校の応接室にあったものと少しだけデザインが似ている。もっとも使われている材質も、座り心地も、当時のものと比べれば雲泥の差だった。
革張りのソファの間には丸テーブルが置かれ、ガラス製のシンプルな灰皿がひとつ置かれていた。部屋の主は煙草を吸わないが、偶にやってくる愛煙家の為の配慮だろう。
素早く手を引っ込めた彼を一瞥して、雲雀は緩慢に頷いた。
ふたりはこの後、昼食の席を共にする約束をしていた。もっとも、時間まであと一時間弱はある。それに食事といっても店に出向くわけではなく、中庭で薔薇を眺めながら、という話なので、移動時間を気にする必要もなかった。
折角だから準備が整うまで庭園でも散歩して過ごそう。そう思って早めに誘いに来たのに、出鼻を挫かれてしまった。
「急いでね」
「はいはい」
「返事は一回」
「はーい」
顔を向けぬまま急かし、クッションも十分なソファにどっかり腰を置く。跳ね返された身体を背凭れに沈めて、雲雀は長い足を自慢げに組んだ。
頬杖をつき、愛想だけは百点満点の返事に肩を竦めてため息をひとつ。ちらりと盗み見た彼は既に意識を手元に戻し、パソコンの画面を凝視していた。
軽量化、小型化が進む中で時代に逆行したデザインを愛用し、その両脇にはこれまたアナログの典型である紙の資料を山積みにしていた。
真ん丸い目を平らにしてモニターを覗き込みつつ、時々手を揺らして打ち出した書類を掴み、広げる。目当てのものを探してがさがさ言わせ、ようやく見つけたデータと画面の数値とを見比べて都度修正し、また別の資料を漁っての繰り返し。効率は、お世辞にも良いとは言えなかった。
「似合わないことするから」
せめてどちらか片方だけを用いれば良いのに、両方使おうとするから手に余るのだ。さほど器用な性格ではないのだから、もっとシンプルに考えて行動すれば良いのに。
愚鈍、という表現がぴったり来る彼の中学時代を振り返り、雲雀は暇を持て余して組んだばかりの脚を下ろした。
靴底で柔らかい絨毯を踏みしめ、窄めた口からは息を吐いて背筋を伸ばす。そうして腰の位置を前にずらし、座りを浅くする。
足の裏全体で身体を支えて身を乗り出し、掴んだのは透明な灰皿だった。
底は浅く、直径は十センチほど。持てばずっしり重く、底部にはとあるブランドのロゴが刻まれていた。
その刻印があるだけで、この灰皿は見た目の百倍以上の値段になる。価格均一の量販店で売られていそうな代物の癖に、随分とお高く留まったものだと雲雀は苦笑した。
出番だってそう多くなく、価格に見合う活躍をしていない。だが歴史あるマフィア、ボンゴレの十代目の部屋ともなればこれくらいの物を置いておかなければ、という固定観念の為に、彼はこの灰皿を用意せざるを得なかった。
本人は嫌がって抵抗したが、押し切られた。状況を想像して苦笑して、雲雀は無骨なクリスタルガラスをテーブルに戻した。
「ふむ……」
鼻から息を吐き、嘆息すると同時に再び左を上にして脚を組む。時計を見れば、部屋を訪ねてからまだ五分と経っていなかった。
最先端の技術を取り入れながらも、ボンゴレ十代目の執務室はレトロな雰囲気に包まれていた。
調度品も深みのある色合いを中心に揃えられており、成金趣味の派手なものは少ない。まだまだ現役の柱時計の振り子が揺れて、文字盤の下では機械仕掛けの鳥が出番を待って羽を休めていた。
棚に並ぶ本はジャンルもばらばらで、整理されている様子はあまりない。ばさっ、と紙が落ちる音がして、何事かと振り向けば書類の束が床に散っていた。
「あちゃあ……」
失敗した、と言いたげな舌打ちが聞こえて、雲雀は肩を竦めた。相変わらずだと呆れて姿勢を崩し、爪先で丸テーブルの脚を蹴ってカタカタ音を響かせる。
だが彼は雲雀の立てる物音にも一切お構いなしで、足元に散乱する紙を拾い集めると直ぐにパソコンに向き直ってしまった。
「そういえば、あれはどこ、どこ……っと、これだ。ていうか、計画段階でこの金額なのに、どうしてここで倍額に膨れ上がってるのかな。実際経費の一覧は、えー……あった、あった」
一度画面を覗き込んだ後、気になる点を調べようと紙を捲り始める。独り言をぶつぶつ呟きながら頻りに紙と画面を見比べて、時折首を捻っては天を仰いで目を瞑ったりもする。
すぐに終わると本人は言ったが、どう考えても五分、十分で片付きそうにない雰囲気だった。
見ていて苛々する効率の悪さに肩を落とし、雲雀は黒髪を軽く掻き回してため息をついた。
「僕も、持ってくれば良かったかな」
急ぎではないが、近日中に終わらせなければならない仕事ならば何件か残っている。暇を持て余すなら持ち込めばよかったと後悔するが、それもどうなのかと考えて彼はゆるゆる首を振った。
ここまで来て、業務に励みたくはなかった。かといってやり方が悪い、と口を挟んだところですぐに改まるものでもなくて、雲雀は退屈そうに欠伸を零してソファに深く身を沈めた。
ぼふん、とクッションが凹み、スプリングが音を立てた。それを三度、四度と繰り返しては、分厚い肘掛を掴んで唐突に前のめりになる。
実に落ち着きのない、まるで五歳児のような行動に奇異な物を見る目を向けて、青年は琥珀色の瞳を怪訝に細めた。
「ヒバリさん?」
「お茶も出ないの」
「えっ。あ、あー、すみません。今持って来させます」
おおよそ雲雀らしくない行動に呼びかければ、低い声で言い返された。彼はハッと背筋を伸ばし、慌てて机上の電話に手を伸ばした。
この部屋にはポットも茶葉もないから、キッチンで煮出してもらわないといけない。うっかりしていたと焦る彼を横目で睨み、雲雀は口を尖らせ首を振った。
「いいよ。いらない」
「えー」
早速受話器を手にダイヤルしようとしていた青年は、予想に反した返答に思わず抗議の声を上げた。
自分から言い出しておいて不要だとは、いったいどういうつもりなのか。振り回される方の身にもなれと心の中で文句を並べ、彼は用無しとなった電話を置いた。
一瞬だけ時計を見て、経過時間がまだ僅かなのを確かめる。あと少しは頑張れそうだという甘い見込みを読み取って、雲雀はつまらなそうに肩を落とした。
ため息を零し、肩幅以上に脚を広げてソファに座す。昼食が美味しくなるよう小腹を空かせてきたのだが、この判断も今思えばあまり宜しくなかった。
いつからこんなに我慢強くなったのだろう。考えて、雲雀は背凭れに頭を押し付けた。
両腕もクッションに預け、仰け反って目を閉じる。十年分の記憶をものの十秒で振り返って、取り戻したのは鋭い眼光だった。
次に瞼を開いた時、漆黒の瞳は獲物を求める獰猛な獣のそれと化していた。
「……そうか、これかあ。てことは――うん?」
ふらり、立ち上がる。前方で動いた影に、過剰な支出の原因を把握した青年は目を瞬いた。
チリッと頬に火花が走った気がした。産毛が焦げて、皮膚が引き攣るような痛みを訴えた。
ぞわりと悪寒が走った。全身の毛が逆立つ。内臓がひっくり返ったような不快感に脂汗を流し、彼は咄嗟に広げていたパソコンに手を伸ばした。
次の瞬間。
ガッ! と硬いもの同士がぶつかる衝撃音が部屋を貫いた。
目にも留まらぬ速さでトンファーを引き抜き、振り翳した雲雀が笑う。一足飛びに距離を詰めて執務机に飛び乗った男の嬉々とした表情を影から眺め、突然の相対に戸惑う青年は苦々しげに唇を噛み締めた。
腹に力を込めて耐えるが、椅子の駒が滑る所為で押され気味だ。靴底をぴったり床に張り付かせて踏ん張るものの限界があって、一瞬足元に目をやって舌打ちした彼を嘲笑い、雲雀は先制攻撃を繰り出した右腕をスッと引いた。
「うおっ」
「がら空きだよ」
拮抗していたパワーバランスが崩れ、青年がつんのめった。資料だらけの机に胸から倒れそうになり、前方への警戒が僅かに緩んだ。
隙を逃さず、風紀財団を率いる男は銀光を放つ凶器を高く掲げた。
「ぐぅ!」
「チッ」
しかし今度の攻撃も防がれて、思わぬ展開に黒い瞳が怪訝に眇められた。
鉄板を殴るよりも硬い衝撃が肘を伝い、雲雀は痺れた指を気にして眉を顰めた。
前方ではボンゴレ十代目を継承した青年が、ちょっとばかり傷が走ったパソコンを手に安堵の息を吐いた。
「あー……、びっくりした」
「なんなの、それ」
「へへ。驚きました?」
ほっと胸を撫で下ろし、保存前だったデータが無事なのも確かめて茶目っ気たっぷりに舌を出す。無邪気な笑顔に毒気を抜かれ、雲雀は取り出したばかりのトンファーを素早く片付けた。
渾身の力を込めたはずなのに防がれたのは、かなり意外だった。死ぬ気の炎を込めていなかったとはいえ、瓦三十枚は楽に破壊できる一撃をお見舞いしたはずなのに、凹んですらいない。
どんな素材を用いているのかと怪訝にしていたら、今や旧式となったノートパソコンを机に戻した青年が、表面に掘られた貝を模る紋章をいとおしげに撫でた。
「これはですねー、ふふふ、実はですね。なにを隠そう、ボンゴレ特性、弾丸さえ弾く超強化合金製なのです。しかも軽くて薄い。今ならお安くしておきますよ!」
「…………」
大昔のテレビ番組か、と言いたくなる口上を並べられ、雲雀は疲れた顔で首を振った。
額に手をやってため息までつかれて、冗談めかせて言った方は苦笑を禁じえない。頬をほんのり赤く染めて照れて、失敗したと恥ずかしそうに頭を抱え込む。
パソコンモニターの影に隠れるように小さくなった彼に、雲雀はもうひとつ追加で嘆息した。
「沢田綱吉」
呆れ混じりに呼ばれ、彼は顔を上げて頬を引き攣らせた。
「えへへ、えへ」
防弾チョッキ代わりにもなるパソコンを欲しがる人間が、この地上にいったいどれくらい存在するだろう。技術の無駄遣いだと指摘されて反論できず、綱吉は笑って誤魔化すしかなかった。
実は耐雲雀用だと言ったら、きっと怒られるだけでは済むまい。本当の事は胸の裡にそっとしまいこみ、作業途中のデータを保存すべくキーボードに手を伸ばす。
「いでえ!」
それを遮り、大きくな手がモニターを上から押し潰した。
逃げ遅れた指が数本、間に挟まれた。外見が頑丈ならば、中も当然、それなりの強度を持っている。第一関節から先を噛まれた綱吉は、咄嗟に引き抜こうとして出来ない状況に聞き苦しい悲鳴を上げた。
犯人が誰かは、考えるまでもない。ずず、と鼻を愚図らせた彼を笑い、雲雀はようやく聞けた悲鳴に満足げな笑みを浮かべた。
なんと底意地の悪い男だろう。パソコンに指を食われたまま涙目で睨みつければ、雲雀は肩を揺らして真下に突き立てていた手を退かした。
そうして慌てふためきながら引き抜かれた綱吉の左手を掻っ攫い、乱暴に自分の方へと引っ張った。
「うわっ」
目まぐるしく変わる状況に全くついていけていない。隙だらけの彼を手玉に取るなど至極簡単で、雲雀はこみ上げる笑いを堪えて大きく口を開けた。
再びつんのめった彼へと首を伸ばし、がぶりと。
噛み付く。
「いだあ!」
鼻筋を抉られた青年の悲鳴が、部屋中にこだまする。その一瞬で赤くなった皮膚をべろっと舐めて、ついでだとキスを落とした雲雀は突き飛ばされてたたらを踏んだ。
駆け上った机から飛び降り、顔の中心部を両手で庇っている恋人を見つめる。彼は赤い顔を赤い手で隠し、琥珀色の瞳を涙に潤ませていた。
「鼻、なくなったらどうしてくれるんですか」
「安心しなよ。救急車なら呼んであげる」
「せめて笹川のお兄さんにしてくれますか……」
獣のような男に齧られました、と病院で説明できるわけがない。自分たちの関係を知っている男の名を出せば、旧知の間柄の雲雀は益々楽しそうに笑った。
少しだけ機嫌が良くなった気がして、綱吉はほっとしながら濡れた鼻を撫でた。それからはたと我に返り、閉じられたパソコンと散乱する書類に目を瞬く。
十年ほど前、そういえば雲雀は机に座る側で、綱吉はソファで待つ側だった。
「あー……」
だがあの頃、待たされる時間を煩わしいとは思わなかった。退屈と感じることも少なかった。
雲雀は仕事をしながらも、常にこちらを気にしていた。時々生返事なこともあったが、綱吉のくだらない話をちゃんと聞き、稀に話を振ってきたりもした。
「ダメダメだなあ、俺」
あの時は応接室に行くのが楽しくて仕方がなかった。では、今はどうだろう。
想像し、苦笑する。
「小動物?」
「ヒバリさん、どうしてくれるんですか。ここも、こっちも、まだ痛いんですけど」
小刻みに肩を震わせていたら、雲雀が小首を傾げた。怪訝そうに懐かしい呼び方をされて、綱吉は頬を緩め、赤黒く変色した指で、赤く染まった鼻を指差した。
悪戯っぽく目を細めて言われて、黒い瞳は数秒後に大きく見開かれた。直後深々とため息を零し、雲雀は艶やかな黒髪を雑に掻き回した。
「なら、もっとちゃんと見せてごらん」
「はーい」
告げ、手を伸ばす。綱吉は調子よく返事をして、机から身を乗り出した。
2013/03/03 脱稿