蒲公英

 時間ぎりぎりに駆け込んできた彼に、先に準備を始めていた部員らは一様に苦笑を浮かべた。
「お、おぐ、でっ……まぢ、……っだ」
 短い階段を駆け上がった後、扉にしがみつく形で寄りかかる姿に同情を禁じえない。絶対に諦めないその根性は認めるしかなく、皆、口には出さないものの、心の中では拍手喝さいを送っていた。
 息咳切らして大粒の汗を浮かべ、今にも膝から崩れ落ちそうな雰囲気だった。肩を激しく上下させ、溢れ出て止まらない唾を何回にも分けて飲み下している。強張った頬が痛々しくてならず、見るからに辛そうな表情に、遅刻寸前での登校を責める声はついに聞かれなかった。
「大丈夫か、日向」
「は、はひっ」
 用具室からボールの入った籠を引っ張り出していた菅原が、代表して入り口に立つ彼に声を掛けた。小走りに駆け寄って背中を撫でてやり、肩に担いでいる荷物を降ろす手伝いをしてやる。その間も日向は数回咳き込み、背中を丸めて眉間に皺を寄せた。
 返事ひとつまともに出来ない様子に、部長の澤村が困った顔で頭を掻いた。
 残るメンバーに準備を進めるよう指示を出し、鞄から取り出したスポーツドリンクを飲んでいる日向へとつま先を向ける。同時に顔を上げて、目をやったのは壁に設置された丸時計だ。
 早朝練習の開始と定めた時刻まで、まだニ分ばかり残っていた。しかし部員は既に全員揃っており、影山に至っては三十分以上前に到着していた。
 いつもなら日向も彼と同じくらいに登校し、元気一杯に飛び回っていたはずだ。
 だが、今日はそうはならなかった。
「また目覚まし故障した?」
「はっ、ぃえ、今日は、ちょっと……。犬、に」
「犬?」
 二週間ほど前にも、似たようなことが起きた。その時は愛用の目覚まし時計が故障して、時間が来てもベルが鳴らなかったのだそうだ。
 家族が不思議に思って起こしに来なければ、練習が終わる頃までぐっすりだったかもしれない。前日にちょっと夜更かししたのもあって、日向は母に揺り動かされるまで一度も目を覚まさなかったそうだ。
 時計の針が七時を指すその直前に体育館に滑り込んできた彼の姿は、未だ記憶に新しい。三十分掛かる道程をその半分で駆け抜けてきたのだから、心臓は破裂寸前、息も絶え絶えだった。
 必死にペダルを漕ぎ時間に間に合わせたものの、結局彼は座りこんだまま、十五分以上まともに動けなかった。これでは遅刻を免れた意味がなく、練習をサボったに等しい。
 以後気をつけるように。どうしても遅れるようなら、先に連絡を。
 そうきつく言い含めておいたのに、また繰り返された。聞き分けのない子供を甘やかし続ける道理はなく、他の部員への示しもつかない。ここは一発、きつく叱っておくべきと腹に力を込めた澤村だったのだが。
 菅原に背中をさすられながら呟いた日向に、彼は握った拳をぴくりとさせた。
 告げられた単語に、男子排球部の副部長も怪訝に眉を顰めた。
 日向の遅刻ぎりぎりの登校と、犬と。どうやれば話が繋がるのかさっぱり見当がつかず、首を傾げた上級生を上目遣いに見やり、彼は手にした水筒を親指で撫でた。
 乱れきった呼吸を整え、甘酸っぱさが残る唇を舐めて俯き、かぶりを振る。その、どうにも言いたくなさそうな雰囲気を察し、菅原は寝癖が爆発している茶色の髪を擽った。
「日向?」
 言わないと、先に進めない。準備を買って出ているほかの部員たちにも申し訳が立たないと諭されて、彼は覚悟を決めたかきゅっと唇を引き結んだ。
 膝を寄せて益々小さくなり、怯えた子犬の顔で優しい上級生を盗み見る。握った水筒の蓋で額を打って、そして。
「犬が、隠しちゃったんです。靴」
「え?」
「え?」
 蚊の鳴くような声で告げられた内容に、耳を欹てていたふたりは同時に目を丸くした。
 呆気に取られ、口をぽかんと開く。殆ど同じ表情をした三年生に頭を下げ、日向は穴があったら入りたい気分で丸くなった。
「えっと、……ああ、犬。いるんだ?」
 黙り込んでしまった日向にハッと我に返り、助け舟を出すつもりで菅原が尋ねる。すると彼はコクンと首を縦に振り、膝を抱えて座り直した。
「雑種ですけど、一匹。小さい頃から飼ってて、でも最近は忙しくて遊んでやってなかったから、拗ねちゃったみたいで」
「それで、靴を?」
「たぶん……」
 恐る恐る顔をあげ、ぼそぼそと小声で、自信なさげに答える。その頬は、急いで走ってきたという理由だけでは説明がつかない赤さだった。
 またもや下を向いてしまった日向に、澤村と菅原は顔を見合わせた。
 高校に進学し、排球部に身を置いた日向は、朝から晩までバレーボール浸けの毎日を送っていた。朝早く出かけ、帰宅は夜もとっぷり暮れた頃。週末も休みは殆どなく、連休だって合宿で消えた。
 日中、ほぼ家に居ないといっていい。飯を食べ、風呂に入り、寝る為だけに帰っているようなものだ。
 宿題をしている暇すらない生活だから、当然犬の散歩など無理だ。じゃれ付いてくるペットへの対応も、疲れていればぞんざいになる。
「犬、ねえ」
「おれの靴だけ、全部。どこ行ったか全然分かんなくて」
 澤村が緩慢に相槌を打ち、日向は顔を伏したまま首を振った。汗で湿る髪を両手で掻き回し、頭を抱えて深く長いため息をつく。
 まさかこのような形で飼い犬に復讐されようとは、飼い主である日向とて想像していなかっただろう。
 朝起きて準備を済ませ、家を出ようとしたその時だ。玄関に並べられていた靴のうち、彼の分だけが忽然と姿を消しているのに気がついた。
 あんなボロ靴を盗もうだなどという人間はおらず、犯人は犬以外考えられない。だがそもそも靴を隠した原因が、夜明け前から家を留守にする日向を繋ぎとめようとしてのことだから、怒るに怒れなかった。
 あちこち探し回る日向を追いかけ、尻尾を振ってついて来る犬の姿を想像し、菅原は頬を掻いた。
「じゃあ、靴、どうしたの? 見つかった?」
 だが現に、日向は此処に居る。遅刻すれすれであったが、一応休むことなく練習に顔を出した。
 まさか裸足で自転車を漕いできたわけではあるまいと戸口に目を向けた菅原に、彼は既に黒ずみ汚れている靴下を撫でた。
「中学ン時の奴、あったから……」
「あー」
 目当てのものはなかなか見つからず、時間だけが過ぎていく。このままでは間に合わない、と金切り声で悲鳴を上げた彼に助け舟を出したのは、他ならぬ母親だった。
 飼い犬の悪戯を聞きつけて、一緒に探してくれていた。だが二人掛かりでも発見できなくて、彼女は代わりに履けるものがないかと靴箱を漁っていたのだ。
 履き潰してぼろぼろになった、しかも今と比べるとワンサイズ小さいものだったが、奇跡的にも廃棄処分を免れていた。奥の方に押し込められて忘れ去られていた一品は、この瞬間にわかに輝きを取り戻し、日向の窮地を救ってくれた。
 目を凝らせば、確かにそれっぽいものが体育館の入り口に転がっていた。二十六センチや二十七センチ、或いはそれ以上のサイズが並ぶ中で、天地を逆にしている二十四センチの靴は非常に目立った。
「入ったんだ」
「なんとか……」
 母に呼ばれて玄関に向かって、これはどうかと論議している最中も、犬は日向の匂いが染み付いた靴を奪おうと必死だった。後ろ足で立ち、主人に覆いかぶさる。長い舌で顔を舐め、彼を引きとめようと躍起になった。
 いつになく執念深く我が儘な飼い犬の話は、部外者が聞けば微笑ましいと思うかもしれない。だが現実問題、遅刻か否かの境目に立たされた日向には笑っている余裕などなかった。
 靴下のまま玄関を飛び出し、母が押さえつけてくれている間に外で履いて自転車に飛び乗った。サイズ違いの靴は当然窮屈で、いつもと感覚が違うのもあってペダルも漕ぎ難かった。
 かといって踵を踏んで乗るのは危険だ。スリッパ状になった靴がすっぽ抜け、有り得ない方向に飛んで行ってしまう可能性だってあった。ただでさえ時間がないというのに安全運転を強いられて、こんなに遅くなってしまった。
 靴擦れを起こしているかもしれない。右足の踵を気にして靴下を捲った彼に、菅原は太めの眉を下げた。
 手を伸ばして触れた髪はふわりと柔らかく、カールした毛先が乾燥した指に絡み付いて離れなかった。
「犬かあ。犬はなあ、不可抗力だよなあ」
 その犬のような後輩を宥めながら呟き、後ろでため息をついているチームメイトを振り返る。視線を向けられた澤村は組んでいた手を解き、短い黒髪をがしがし掻き回した。
 確かに菅原の言う通り、犬の悪戯を予測出来なくても仕方がない。
「ただなあ、日向。前にも言ったけど、ちゃんと連絡さえ寄越してくれてたら、少しくらい遅れて来ても怒らないから、な?」
 無茶な暴走をして、事故に遭われる方がもっと部に迷惑がかかる。携帯電話を所持していない彼だから、道中で連絡する手段がないのは致し方ないことだが、家を出る段階で間に合うかどうかの瀬戸際なのは分かっていたはずだ。
 自宅の電話から上級生の携帯電話に一報を入れておけば、澤村とて鬼ではない、仕方がないなと受け入れたはずだ。
 いつもの時間に現れず、連絡もない方がよっぽど心臓に悪い。これも幾度となく注意してきたことなのに、日向はなかなか改善しようとしなかった。
「気をつけます」
 毎回焦って、うっかり忘れて家を飛び出してしまう。反省しているのに次回に生かせていない後輩に肩を竦め、澤村は各自好き勝手動いている部員たちの取りまとめに戻っていった。
 菅原も落ち着きつつある後輩の頭をくしゃくしゃにし、膝に手を置いて立ち上がった。
「もうちょっと休憩してていいけど、早くな。あと、影山にも礼言っとけよ」
「え、なんで」
「日向のこと、すっごく心配してたぞ」
 現に今も、ちらちらとこちらを窺っている。
 本人は隠し通せているつもりでも、周囲から見ればバレバレの行動を笑い、菅原は絶句している日向に人差し指を立てた。内緒、と唇に押し当てた副部長に唖然として、慌てて名前が出た人物を探すが目は合わなかった。
 黒髪に、黒い瞳。広い背中、長い腕。生意気そうな唇に、鋭い眼光。口を開けば罵詈雑言しか出てこないが、バレーボールへの意識は誰よりも高く、真っ直ぐ。
 妥協を許さず、それを周囲にまで強いる傲慢さが災いして、中学時代はチームメイトから理解を得られなかった男。信念は絶対に曲げず、だからこそ孤立しながらも一心に技量を磨き続けた強い心の持ち主。
 王様のあだ名は、少し前までは蔑称だった。
 だが今は、違う。高校に進学して新たなチームに加わった青年は、新たな出会いを経てその俗称に恥じないプレイヤーに生まれ変わった。
 今や烏野高校男子排球部の中核を担っていると言っても過言ではない。一年生でありながら正セッターの地位をもぎ取った影山は、その豪快ながらも精密なトスで何度もチームを勝利に導いていた。
 彼のトスがあったからこそ、日向は活躍の場を得た。最初は地味で嫌だった囮役も、遣り甲斐のある面白いポジションだと気付かせてくれたのは彼だ。
 ただ高く跳ぶことしか出来なかった小さな日向に、彼は飛び方を教えてくれた。翼を広げ、自在にコートを飛び回る術を示してくれた。
 ただ出会った時の印象が最悪だったのが尾を引き、未だに顔をあわせたら喧嘩ばかりだ。面と向かって感謝の気持ちを伝えたことはなく、それに今更過ぎて言う気も起こらなかった。
 早朝練習に誰よりも早く駆けつけるのだって、彼に負けたくないから。そして一秒でも長く、一緒に練習をしたいから。但しそれを言うのは気恥ずかしく、馬鹿にされるのがオチと分かっているので口にしたことはない。
 心配していた、気にしていたと言われても俄かには信じ難い。影山は日向の気持ちなど知りもせず、いつだって下手だの、ボケだの罵倒してはストレスを発散している。
 頑張って努力して、少しは上達できたと思っても彼だけは褒めてくれない。もっと上手く出来るはずだ、やれるだろう、と上から目線で物を言っては、冷たく日向を突き放す。
 早く追いつきたいのに、追いかければ追いかけるほど広い背中は遠くなった。天性の素質に加えて貪欲なまでの向上心を持ち合わせている彼と並ぶのは、そもそものスタートラインからして違う日向には至難の業だった。
 かといって、諦めるには早過ぎる。必ず実力を認めさせて、ぎゃふんと言わせてみると息巻き、彼はドリンクを鞄に押し込んで代わりにシューズバッグを取り出した。
「はー、落ち着くぅ」
 サイズが小さい靴から開放されて、安堵からつい声が出た。紐をしっかり結んで上から撫でて、ほっとする履き心地にたまらず頬が緩んだ。
 移動中はあの靴を使うしかないが、烏野高校は昇降口で上履きに履きかえる決まりがあった。授業中や休憩時間も、当面は窮屈な思いをしなくて済みそうだ。
 残る問題は、放課後の練習を終えて家に帰るまで。
 往路と同じ苦労をまたせねばならぬと考えると、それだけで憂鬱な気分になった。
「たまにはジョギングに付き合ってもらうかなー」
 早朝練習がない日、もしくは週末で練習開始が少しだけ遅い日に、暇を見つけて一緒に川原でも走ろうか。元気一杯に尻尾を振ってくる愛犬を思い浮かべ、日向はシューズに隠れたつま先をなぞった。
 隠された靴の探索は、母に任せてきた。もし帰宅しても玄関が空っぽだったらどうしよう、と嫌な予感に背筋を粟立てていたら、ふと突き刺さるような視線を感じた。
「……ん?」
 顔を上げ、ついでに腰を浮かせる。立ち上がった日向の遥か前方で、柔軟を終えた影山がボールを小脇に抱えて歩き出そうとしていた。
 その行く先を目で追っていたら、ぼんやりするなという叱責が反対方向から飛んで来た。
「こら、日向。お前、なにしに来たんだ!」
「すみませンっ」
 必死になって自転車を漕いで走って来ても、その後動けなければ時間に間に合わせた意味がない。気合いを入れろ、との怒号に慌てて謝罪して、彼は爪先で床を叩いた。
 靴の感触を確かめ、身体を解すところから開始する。その間もちらちらと視線を感じたのだが、それが誰のものなのかは判然としなかった。
 どうしても真っ先に影山に目が行って、けれど彼はいつだって日向に背を向けている。視線が絡む機会は他の部員に比べ、格段に少なかった。
 避けられている感じがするが、傍によって話しかければちゃんと目を合わせてくれる。嫌われてはいないはずだ。相変わらず愛想がなくて態度も大きいが、質問を投げかければきちんと答えてくれた。
 その回答が、時に意味不明な場合もあったが、会話がかみ合わないのは今に始まったことではなかった。
 元々日向は負けん気が強く、気に障ることを言われたら脊髄反射で怒鳴り返す場合が多い。影山も怒りっぽい性格をしているので、正面から意見がぶつかり合い、口論になる事もしょっちゅうだった。
 喧嘩をしたいわけではないが、気が付けばそうなっていた。そして互いに謝る機会を逸したまま時間を過ごし、気が付けば当たり前のように隣りあっていた。
 空気のような存在だった。普段は格別意識しないけれど、失われた途端に呼吸が出来なくて死んでしまう。いつの間にか、日向にとって彼はそんな風になっていた。
 やがて短いけれども内容の濃い練習が終わり、片付けが始まった。クールダウンついでにコートの支柱を取り払い、ネットは絡まないよう慎重に巻いて用具入れへと詰め込んでいく。作業は部員全員で行い、三年生も率先して撤収に励んだ。
 これがもっと部員数も多いチームなら、一年生だけに押し付けられたりもするのだろうか。残念ながら三学年あわせて十五人にも満たない烏野高校男子排球部では、そんな弾圧めいた低学年イジメは行われていなかった。
 手際の悪い後輩に押し付けるよりも、全員でやった方が早く終わる。それに段取りが分かっている上級生に教わりながらの方が、一年生だってやる気が長続きする筈だ。
 怒ると怖いが頼もしい部長の指示の下、朝方の騒動も忘れて駆け回る。だが第二体育館を空にして部室に向かおうとしたところで、待ち構えていたボロ靴を見つけた途端、日向はうっ、と顔を引き攣らせた。
 すっかり忘れていた。動いている間は記憶から排除されていた事実がストンと落ちてきて、頭を打たれた彼は首を不安定に揺らしてがっくり肩を落とした。
「急げよー」
 先に体育館を出た澤村が、入り口でもたもたしている後輩を振り返って声を張り上げた。予鈴が鳴るまであと十分を切っており、急ぐ必要があるのは日向も重々承知していた。
 授業が始まるまでに、この汗だくのシャツを脱いで制服に着替えなければいけない。体操服で出席しても基本的に減点対象にはならないが、中には気まぐれな教師も存在していた。
 更衣に手間取り、チャイムに間に合わないのも困る。口煩い教頭は学校内を常に巡回しており、生徒の粗探しに目を光らせていた。
 あれに捕まると、後々面倒なことになる。だからともう一度催促した部長に頷いて、日向は仕方なく黒ずんだ靴に爪先を押し込んだ。
 上履きに履きかえるまでの我慢だと自分に言い聞かせ、踵は踏んで平らに潰す。そのまま滑るように前に出ようとしたら、後ろからトンと押されてバランスが崩れた。
「ふおぅ、わわ!」
 普段ならなんともなかっただろうが、今日に限って履物が悪い。固定されていなかった踵があっさり床に別れを告げて、狭い場所で爪先立ちを強いられた。
 しかも悪いことは重なって、よりにもよって日向が立っていたのは体育館を出てすぐの、一メートルほど地面から高くなっている場所だった。
 短いながらも階段が伸びており、その段差のひとつずつが鋭利な凶器と化して彼に迫る。大きく目を見開いて顔色を悪くし、日向は掴むものを求めて咄嗟に手を伸ばした。
「うお」
 瞬間、ぐっと握り締めたものが変な音を発した。
 いや、違う。それは人の腕だった。
「はいはい、オチビちゃん。邪魔だよ」
 退いて、と後ろから別の声もして、すんでのところで持ちこたえた日向は冷や汗を拭って肩で息を整えた。
 本意ではなかったが道を譲る形になり、出来た隙間を背の高い男子が通り抜けていく。すれ違い様に嫌味を言われ、眼鏡の奥に宿る瞳がいやらしく細められた。
「あっぶねーだろ、月島」
「てか、日向。いてぇから放せ」
「え、あっ」
 肩を押したのは間違いなく彼だ。あと少しで階段をまっ逆さまに落ちるところだった日向は声を荒らげたが、同時に真横から怒号が飛んできて慌てて首をぐるん、と振り回した。
 反対側を見れば、顰め面の影山がいた。
 自分が何を掴み、支えにしていたか。今になってようやく気付いた日向は一瞬で青くなり、万歳と両腕を持ち上げた。
「王様も、急ぎなよ~」
 コントのような二人を笑い、月島が山口を引き連れて階段を下りていく。置いていかれ、日向は頭上にやった両手を無意味に握ったり、広げたりと繰り返した。
 大嫌いな俗称に眉目を顰めていた影山は、挙動不審極まりないチームメイトを一瞥すると、荒っぽく体育館の戸を閉めた。
 凄まじい音がして、思わず首が竦んだ。身を強張らせた日向を怪訝に見て、影山は出しかけた一歩を戻した。
「なんだ、その靴」
「えぁ、あ……ああ」
 明らかにサイズがあっていない古ぼけた靴を先に見て、影山は眉を顰めた。いつもなら一足飛びで階段を駆け下りていくくせに、となかなか動かない日向を不思議そうに見守って、先に段差を下っていく。
 一段分低くなった彼の後頭部から目を逸らし、日向は滑らないよう慎重に足を繰り出した。
「今朝、犬がさ」
「ああ、あれか」
 覚束ない足取りで身体も左右に揺すり、どうにか地面に降り立ったところでほっと胸を撫で下ろす。安堵の息を吐いた彼を振り返り、影山はおおよその事情を知って緩慢に頷いた。
 日向家の犬が引き起こした騒動は、本人と菅原、そして澤村の口を経て、瞬く間にバレーボール部全体に知れ渡った。
 馬鹿で可愛いと人は言うけれど、事態に直面した本人には笑い事ではない。明日以降も繰り返されるようなら、対処を考えなければならなくなる。
 面倒臭いことになったものだと嘆息していたら、影山がふっ、と笑った。
「飼い主が馬鹿なら、ペットも馬鹿なんだな」
「ンだと!」
 朝から酷い目に遭ったが、赤の他人に家族でもあるr飼い犬を貶されるのは良い気分がしない。反射的に目尻を吊り上げた彼に、怒鳴られると思っていなかった青年は目を丸くした。
 だが惚けた表情も二秒しないうちに掻き消えて、すぐにいつもの影山に戻ってしまった。
 一寸、惜しいことをした。もっとしっかり目に焼き付けておけばよかったと後悔に襲われて、日向は握り拳を解いて肩に提げた鞄を抱きしめた。
 歩く度に踵が浮いて、靴底がぺたぺたと音を立てた。まるで赤ん坊が履いているような、音の出るサンダルのようだと顔を赤くしていたら、空を仰いでいた影山が前を向いたまま口を開いた。
 彼の足取りは鈍かった。普段なら軍隊のようにザッ、ザッと地面を踏み鳴らして進むくせに、今日に限って奇妙なくらいにスローテンポだった。
「お前さ、チャリ通、やっぱきついんじゃね?」
「そう?」
 烏野高校と、日向が暮らす雪ヶ丘町はかなり離れている。ひと山越えて通っていると言ったら、大抵の人は驚いて絶句した。
 もっとも昔から野山を駆け回っていた日向にとって、片道三十分の距離はそれほど厳しいものではない。勿論山越えは辛いが、脚力アップのトレーニングを兼ねていると思えば苦にはならなかった。
 ただ雨、そしてこの先雪が降るようになったら、状況は一変するのだが。
 まだ本格的な夏を迎えていない今は良くても、この先どうなるかは未知数だ。路面の照り返しもある。道中脱水症状を起こしても、山道では簡単に助けを呼べない。
「そんなポカしないって」
「犬に靴隠されるくせにか?」
「そ、それはおれの所為じゃないし」
 例を挙げた影山に、日向は頬を膨らませた。
 今朝の騒動も、元はといえば飼い犬に構ってやらなかった日向の落ち度だ。咄嗟に反論したが強くは言えず、胡乱げな眼差しにじっと耐えるしかなかった。
 声を上擦らせて口を尖らせた彼に深々とため息をつき、影山は担いだ鞄を揺らした。
「ンなこと何回もやられっと、こっちの心臓が持たねーんだよ」
「ん? なんか言った?」
「いや、なんでも」
 背中を丸めて猫背になり、ぼそりと零す。聞き取れなかった日向がもう一度言ってくれるよう頼んできたが無視し、彼はざり、と落ちていた小石を踏みつけた。
 靴底で転がし、後ろへと弾く。飛んで来た礫に驚き、日向は爪先で受け止めたそれに目を瞬いた。
 小首を傾げるが、影山は振り返らなかった。
「いっそコーチん家に下宿でもしたらどうだ」
「えー、なにそれ。なんで」
「したら遅刻なんかしねーで済むだろ」
 前を見据えたまま、言葉を紡ぐ。途端に日向は抗議の声を上げたが、ぐりんと振り向かれて続きを言えなかった。
 自分の人生を、勝手に決めないで欲しい。けれど偉そうな口ぶりの裏側には、少なからず日向への気遣いが含まれていた。
「……やだよ」
「じゃあ、原付の免許でも取れよ。チャリより早く済むだろ」
「そんな金、ねーし」
 それが分かっていても、彼の提案は呑めない。なにより、両親が許さないだろう。
 自宅を離れるのも、バイクで通学するのもお断りだ。そもそも学校自体が、バイク登校を禁じている。たとえ許されていたとしても、日向は免許を取得しようとは思わなかった。
 今の環境で満足しているし、格別不満はない。確かに今日は遅刻すれすれの登場となってしまったが、毎日がそうだとは限らない。
 第一、自転車通学はトレーニングも兼ねているのだ。エンジンを搭載したバイクでは、身体を鍛えるどころか逆に鈍ってしまう。
 それに、と反対意見をざっと並べていったところで、日向ははたと息を呑んで顔を背けた。
 ひとつも賛同してもらえなかった影山が、不満そうに目を細めた。眉間の皺が深くなって、引き結ばれた唇が不機嫌さを如実に表していた。
「それに?」
 途中で切れた言葉の先を促す声は低い。肩を揺らしながら訊ねられて、日向は喉まで出掛かっていた台詞を唾と一緒に飲み込んだ。
 温い汗を背中に流し、鼻息を荒くして大股で一歩を踏み出す。
「い、いいだろ、なんだって。ほら、行くぞ。時間ねーんだから!」
 これで授業にまで遅刻すれすれだったら、部長に怒鳴られる。澤村に笑顔で責められるのだけは回避したくて、彼は大声で吐き捨てると歩き難さを堪えて影山を追い越した。
 放課後の練習を終えた後、坂ノ下商店で買い食いをするのが排球部の習慣だった。肉まんやアイスを買い、別れ道まで自転車を押してみんなと歩く時間が、日向は大好きだった。
 下宿などしたら、その大切な時間がなくなってしまう。バイクがあるのに押して歩くなど、誰が見ても変だと思うに決まっている。
 そんなのは嫌だった。
 今の、この日常を守りたかった。
 だから変えない。そして自分がそんな風に思っているとも、影山には言わない。
 慣れない靴で悪戦苦闘しながら行く彼の右手は、右足と同時に前に出ていた。なにをそんなに意固地になる必要があるのか、肩は強張り表情は固い。
 あれではいつまた靴がすっぽ抜け、転ぶか分かったものではない。だというのにずんずん進んでいく背中に嘆息し、影山は彼が倒れた時に支えてやれる距離へ急いだ。

2013/02/26 脱稿