Gomphocarpus physocarpus II

 父が倒れた時の事は、あまりよく覚えていない。
 朝、いつものように高校に行った。授業を受けて、剣道部の部活に出て、家の用事があるからと他の部員よりも少しだけ早く切り上げさせて貰った。
 朝刊と一緒に入っていた広告で、近所のスーパーで豚肉が安いと出ていたから、夕飯のメインはそれにすると決めていた。制服に着替えて自転車に乗り込み、通い慣れた道を行く。牛乳や、付け合わせのサラダ用に野菜を買えば、荷物は一気に重くなった。
 帰り道、長く伸びた影を追いかけながらペダルを漕いだ。スピードに乗せて走り、滅多に使われる事のない父の車の脇に自転車を滑り込ませ、無駄に広いガレージを出た。
 庭から玄関に回り込み、ポストに何も入っていないのを確かめて、玄関の鍵を開けた。奥に向かってただいま、と大きな声で叫んだけれど、返事はなかった。
 静まり返った家の中、けれど下を見れば父の靴はきちんと揃えて置かれていた。
 こんな事は、前にも何度かあった。だのにこの日に限って、胸騒ぎがした。
 嫌な予感に冷や汗が出て、唾を飲む音が妙に大きく聞こえた。スーパーの袋を握り締めて、左手は無意識のうちに背負った鞄の肩紐を掴んでいた。
 一階は玄関入ってすぐ左に進めば台所があり、反対側に進んでいけば父の書斎に行き着く間取りになっていた。他にトイレ、風呂場、そして客間などがある。
 普段なら、なにも考えずにキッチンの冷蔵庫に向かっていた。けれどその日だけは、荷物を片付けもせずに右に進路を取った。
 もしかしたら、帰宅の声が聞こえなかったのかもしれない。父は高齢というのもあり、最近少し耳が遠くなっていた。それとも電話で大事な打ち合わせをしており、息子の帰還に気づいていても声を返せなかっただけなのか。
 様々な可能性を頭に並べ立て、どれかひとつで良いので正解が混じっている事を祈る。だが木製のドアをノックしても応答はなく、試しにノブを掴んで回したところで、全ての思考は停止した。
 床に倒れ伏す男の姿を見た瞬間、全身から血の気が引いた。頭の中は真っ白になり、持っていた物を後ろに投げ捨てて部屋に駆け込んだところは辛うじて記憶に残っている。
 必死に呼びかけて、揺さぶろうと肩に触れたところでパニックになった。下手に動かしたら余計に悪化させてしまうかもしれない。ではどうすれば良いのか考えるが、分かる訳が無かった。
 救急車を呼ぶ、という基本中の基本が、この時はどうしても思い出せなかった。後から携帯電話の履歴を見ても、出動を要請した形跡は残されていなかった。
 では誰が救急車を家に寄越してくれたのかといえば、電話を掛けて助けを求めた相手だった。
 何故彼に頼ったのか、それもよく分からない。発信履歴も、着信履歴にも、彼の名前は無かったのだ。だからわざわざ電話帳の画面から、その名前を探し出した事になる。どうしてそんな事をしたのか、明確な回答はついに出せなかった。
 だがその判断は正しくて、結果的に父は救われた。電話の先にいた男は泣き喚き叫ぶ子供を宥めながら、取れる最善の手を尽くしてくれた。
 彼にはなんと礼を言っていいのか分からない。だのに顔を合わせた時、つい素っ気ない態度を取ってしまった。
 感謝しているのに、気持ちを上手く伝えられない。ありがとう、のひと言が妙に気恥ずかしくて、面と向かって口に出来なかった。
 そういう態度が良くなかったから、だろうか。
 翌日、当面入院生活が続く事になると分かった父は、彼に碌でもない提案をした。
「さ、入って」
「すみません、本当に」
「いいよ、気にしないで。ちょっと汚いけど、自分の家だと思って寛いでくれるといい」
 促され、中に入る。来客用と分かるスリッパを提示されてそこに爪先を押し込めば、靴下のまま廊下に立った男が安心したかのように頬を緩めた。
 ぽん、と肩を叩かれた。弾みで少しだけ前に出た身体を真っ直ぐに戻し、顔を上げる。歩き出した背中は大きく、広く、大人の雰囲気が十二分に滲み出ていた。
 彼の名前は、シンドバッド。アリババの父の元教え子にして、現在はシンドリア大学で教鞭をふるう、世間でも人気の若手研究者だ。
 専門は考古学で、民俗学や経済学も少しだけ囓っていると聞いている。最近はあまり時間が取れないので控えているそうだが、昔は世界各地を放浪しては遺跡を訪ね歩き、新たな仮説を立てては因習に囚われていた学会に新風を巻き起こしていた人物でもある。
 学術を極める傍らで、児童向けの冒険物語なども執筆し、その書籍は数年前にベストセラーを記録した。物語は一応の完結を見たけれど、今でも続編を期待する声は大きい。
 そんな実に多才で有能な人物をぼんやりと眺めて、アリババ・サルージャは昨日からのめまぐるしい出来事を順に振り返った。
 実父が自室で倒れているのを発見し、混乱に陥っていた彼に手をさしのべてくれたのが、他ならぬシンドバッドだった。
 彼との付き合いは、かれこれ十年以上に渡る。最初は苦手だったし、怖かったけれど、今ではすっかり兄代わりとして、アリババにとって無くてはならない存在となっていた。
 そもそも彼が著したシンドバッドの冒険譚は、彼が幼きアリババに語り聞かせた物語を原型にしていた。己が実際に見聞きした様々な異文化と、独自の歴史解釈を交えたおとぎ話は、親の愛情に飢えた子供を楽しませるのに十分な要素を過分に含んでいた。
 アリババは、私生児だった。
 父は居ないものと教わっていた。母とふたりで住んでいた古いアパートは、伝え聞いた話、もう取り壊されて残っていないらしい。
「アリババ君は、こっちの部屋を使ってくれ。一応客間、という形にしてあるんだ。ああ、布団が要るね。持ってこよう」
「いえ、あの。俺、別にリビングのソファでも」
 シンドバッドが暮らしているマンションは広く、暗くて狭かったおんぼろアパートとは雲泥の差だった。
 元々は四人家族向けのファミリータイプをひとりで使っているだけあって、普段から使っていない部屋まであった。扉の中は見事にすっからかんで、端の方に折り畳み式の簡易ベッドが申し訳程度に置かれていた。
 大学で教えているから、学生や同僚がたまに押しかけて泊まりに来るのだろう。その時くらいしか使っていないのだと、うっすら埃が積もっている床を見てアリババは思った。
 掃除をしている暇もなかったようだ。慌てて出て行こうとするシンドバッドを振り返り引き留めるが、彼は長い髪を横に揺らし、首を振った。
「それじゃあ、俺が熟睡出来ないよ」
 からからと笑い飛ばし、返答に唖然となっているアリババの頭を軽く撫でる。大きな手が跳ねた毛先を弾き飛ばし、静かに遠ざかっていった。
「少し待っていてくれ。荷物、先に広げてくれても構わないから」
「はい」
 早口に言われ、それ以上なにも言えなかった。遠慮がちに頷き、そのまま俯いて自分の爪先だけを見詰める。急に背負ったリュックサックが重く感じられて、アリババは手にぶら下げていた紙袋を先に床に下ろした。
 今日は結局、学校は休んだ。
 病院で夜を明かし、連絡を受けて駆けつけた兄に事情を説明し、当面必要な費用などを立て替えて貰った。あの人も忙しい身だからゆっくり話をする暇はなくて、どたばたしている間に時間はどんどん過ぎて行った。
 シンドバッドが訪ねて来た時は、少しほっとして気が抜けていたタイミングだった。
 この後どうするのか、どうすればいいのかを考える余裕がちょっとだけ出来ていた。一度家に帰り、着替えなどを用意してまた病院に戻って、夕食は院内にある食堂で食べようだとか、そんな事をあれこれひとりで考えていた。
 面と向かって礼を言えなかったのは、そこに父が居た所為もある。病室は静かだから、話し声は隠せない。あの場で頭を下げていたら、動揺して頭がぐちゃぐちゃになっていたあの時の自分を、否応なしに思い出してしまっただろう。
 母が死んだ時の事が思い浮かばなかったと言えば、嘘になる。
 床で胸を押さえて倒れている父を見て、横になったまま目を覚まさなかった彼女の姿が重なって足が竦んだ。ひとりぼっちに戻る恐怖に涙は止まらず、自分まで心臓が止まってしまいそうだった。
 遠ざかる足音に首を振り、アリババは扉を入ってすぐ左の空きスペースに荷物を下ろした。自由を取り戻した手を使い、疲れを訴える肩を軽く揉みほぐす。しかし指先に力が入らず、表面を撫でるだけに終わってしまった。
「……なんでだよ」
 自覚していないだけで、身体は疲弊してがたがただった。ついため息が零れて、彼は小さな声で愚痴をこぼした。
 病院で意識を取り戻したラシッドは、共に暮らすアリババに、しばらくシンドバッドの世話になるよう言った。
 屋敷は広い。そんな場所にひとりで置いていくわけにはいかないから、と。
 アリババは反対した。自分はもう十六歳であり、身の回りのことだってこれまでも自分でやってきた。それに仕事で忙しい父が不在の夜は何度もあったのだから、今回も少々期間は長いが平気だと、声を大にして主張した。
 しかし聞き入れられなかった。大学で長年教鞭を執り、学長さえも務めた経験の持ち主は相応に頑固であり、人を言いくるめる話術に長けていた。
 結局押し切られる形で、アリババは父の弟子である男の家に厄介になる事になった。
 一旦家に帰り、干したままの洗濯物を片付けた。床の上に丸一日転がしていた豚肉は、流石にもう食べられない。勿体ないが牛乳と一緒に廃棄処分にして、冷蔵庫に残っていた賞味期限の短いものもまとめてゴミ袋に詰め込んだ。
 父の入院生活に必要な道具を掻き集め、ひとつにまとめているうちに時間は過ぎた。クラクションが聞こえて顔を出せば、シンドバッドが約束通り、車で迎えに来てくれていた。
 夕方、彼の運転で再び病院に行った。荷物を渡し、明日は学校に行くと約束をして、後ろ髪を引かれる思いで引き上げて来た。
 鉛のように重い肩を落としたまま、アリババは窓辺に向かった。畳んで立てかけられていた簡易ベッドを広げ、脚を固定する。開けっ放しにしていたドアからシンドバッドが顔を出して、準備を済ませていた彼を見つけて苦笑した。
「夕飯、どうしようか」
「俺、作りましょうか」
「いや、君も疲れているだろう。出前を頼もう。なにが食べたい?」
「……なにも」
 アリババが用意した寝台に、シンドバッドが運んで来た布の塊を置く。分厚い敷き布団がぼふっ、と空気を押しつぶし、吐き出された埃がふたりの間に舞い上がった。
 吸い込んでしまって軽く噎せ、アリババは顔の前で手を振った。質問に浮かせた視線をすぐに伏し、消え入りそうな声で呟いて頭を垂れる。
 元気のない彼を見下ろし、シンドバッドは華奢な肩を叩いた。
「食欲が湧かないのは分かるが、何も食べないのは感心しないな。君まで倒れられたら、先生だってゆっくり療養出来ないだろう」
「すみません」
「謝らなくていいんだよ。君は十分やっている。だからもう少し甘えてくれると、俺としては嬉しいんだけどね」
「……すみません」
「こら」
 言っている傍からまた頭を下げた彼を叱り、シンドバッドが拳を揺らす。痛くない程度に殴られて、彼は亀のように首を竦めた。
 恐縮して小さくなっている姿は、まるで初めて引き合わされた時のようだった。
 アリババの母アニスは、ラシッドの教え子だった。ふたりが知り合ったのが大学で、当時の彼は離婚協議中だった。
 孤独に苛まれていた男と、心優しく聡明で美しい女性。親子ほども年齢が離れていたとしても、一度燃え上がった恋の炎を消すのは容易くはなかった。
 しかし彼女は、ラシッドの離婚が成立するのを待たずに姿を消した。大学を中退し、親しい友人にも何も告げず、ある日突然ラシッドの前からいなくなった。
 その後の消息が知れたのは、それから約六年後。
 既に葬儀も終わり、彼女は骨となって小さな箱の中にいた。
 幼い頃に両親とも死に別れた彼女には、頼れる身内がなかった。学生時代の友人らとも一定の距離を取り、連絡は控えていたのだが、残されていた数少ない年賀状から、当時の同僚が報せを寄越してくれたのだという。
 話を伝え聞いたラシッドは愕然とした。かつて愛した女性が既に鬼籍に入っていたという事実もさることながら、彼女には金の髪に金の瞳を持つ息子がいたというのだ。
 何故ひと言も告げずに居なくなってしまったか、ラシッドは一時期彼女を恨みさえした。しかし愛くるしい幼子を目の当たりにして、アニスが相談なしに行方をくらました理由を、彼はようやく理解した。
 社会的に責任ある立場の男に、これ以上迷惑を掛けてはいけない。不用意な噂で周囲を賑わす原因になるくらいなら、潔く別れようと、そう決めたのだろう。
 身寄りがなく、このままでは施設に行くしかないという男の子を、ラシッドは二つ返事で引き取った。しかしアリババは彼に懐かなかった。ラシッドもまた、老いてからの不慣れな子育てに苦しめられた。
 ちょうどその頃、サルージャ邸に出入りしていたのが他ならぬシンドバッドだった。
 歳が自分より近いから、という理由だけで世話係を押しつけられた彼も、最初は苦難の連続だった。
 警戒されて近づいても逃げられるし、ようやく傍に行けたと思っても返事すらしてもらえない。敵扱いで睨まれて、手を出せば容赦なく引っかかれ、噛みつかれた。
 だというのに彼は、シンドバッドが立ち去ろうとすると拗ねて、余計に怒った。殴られて、蹴られて、そんな事を何度も繰り返していくうちに、少しだけアリババの事が分かるようになった。
 彼は寂しいのだ。
 唯一の肉親と思っていた母が突然居なくなり、今度は父親だという男が現れた。幼なじみの兄妹とも引き離され、見知らぬ場所に連れて来られて、これまでと全く異なる環境に置かれた。狭いアパートの一室で母と身を寄せ合って眠っていたというのに、急に広いベッドにひとりで寝るように言いつけられて、戸惑わないわけがなかった。
 だからシンドバッドは作戦を変えた。まず、ラシッドに了解を取って訪ねる時間を昼間から夕方にずらした。一緒に夕食を取るようにし、風呂に入れてやり、彼が寝付くまで枕元で物語を聞かせてやるようにした。
 少し前までは母と暮らすアパートの周辺、その次は父と暮らす古い一軒家の敷地内だけ、という閉ざされた世界しか知らなかった幼子は、シンドバッドが語る冒険譚に心時めかせ、目を輝かせて続きをねだった。
 そうしているうちに父と子のわだかまりも徐々に消えて、アリババはすっかりサルージャ家の一員になった。
 その矢先の出来事だった。
「しばらくは、様子を見た方がいいかな……」
 呟き、シンドバッドは椅子を軋ませた。革張りのクッションも十分な背もたれに身を沈めて天を仰ぎ、咥えていた煙草を指で抓む。既に山盛り状態の灰皿へ無理矢理ねじ込んで息を吐けば、白く濁った煙が左右に踊りながら消えていった。
 机の上には作成途中の論文が出番を待っていたが、どうにも続きを書く気になれない。煙草を手放した途端にもやもやしたものに襲われて、彼は苛立たしげに髪を掻き回して肩を落とした。
 時計を見ればもうじき日付が変わる時間帯だった。客間に押し込んだ少年は、もういい加減寝息を立てていることだろう。
 忙しい一日だった。結局当初の予定は全て覆されて、明日以降にしわ寄せが来る計算だった。
 だが世話になった人の頼みを断れるわけがなく、また弟のように可愛がって来た子を放り出すのも難しかった。
「高校が終わる頃に迎えに行った方が良いかな」
 新しい煙草を箱から引き抜き、ライターを探して手を泳がせる。眼鏡の奥に宿す瞳を翳らせ、シンドバッドは眉間に皺を寄せた。
 ラシッドに息子だと言って紹介された当時のアリババは、眠っている最中、魘される事が何度かあった。
 どんな夢を見ていたかは分からないが、今日の話を聞いていくつか合点がいった。あの子は母が息絶えてからの二日間を、ひとりで過ごしていた。目覚めない母を待ち、夜は冷たい骸に寄り添って布団に入ったという。
 本人がいかに大丈夫と言い張ろうと、ラシッドが心配するのは無理なかった。
「あの人を過保護だと言えないな、俺も」
 愛した女性の忘れ形見だから大切にしたい、というだけでは、ラシッドの気遣いは説明がつかない。高校二年生にもなった息子を気に掛けすぎだと人が聞けば笑うかも知れないが、アリババはとにかく色々と放っておけない子だった。
 生まれ育ちが特殊な子だったから、ではない。そもそもシンドバッドは面倒臭がりで、責任を押しつけられるのが嫌いだった。だのにこんなにもアリババに肩入れし、世話を焼いている。恩師の息子だからという理由だけでは、この数日の献身ぶりに納得がいかなかった。
 アリババは父との約束通り、明日は学校に行くだろう。だが放課後の部活動は休む筈だ。授業が終わる頃合いに車を出してやれば、病院に通う彼の負担も多少は軽くなろう。
 その為にはまず自分の仕事を終わらせる必要があるのだが、その点は考えない。すっかりアリババ中心の生活スタイルが組み上がっていると苦笑して、シンドバッドはやっと見つけ出したライターに相好を崩した。
 咥えた煙草の先に炎を近づけ、ふっ、と息を吸う。
 物音が聞こえた気がして振り返って、二秒後。
「うわ、わっ、と、とぅ!」
 彼は火を点けたばかりの煙草を落としそうになり、椅子の上でわたわたと奇妙な踊りを披露した。
 階下の住民から苦情が来そうな騒音をまき散らし、両手で挟んだ吸い殻に悲鳴を上げる。咄嗟に手を広げて事なきを得たが、火傷寸前の掌は赤黒く染まっていた。
「シンドバッドさん?」
「いや、あ、あはは。大丈夫。大丈夫だよ」
 屋外ではないので足で踏んでもみ消すわけにもいかず、くすぶっている煙草を拾って灰皿の上に落とす。冷や汗を隠して苦笑したシンドバッドに、寝間着姿のアリババは怪訝に首を傾げた。
 ピザのデリバリーを頼み、無理矢理胃袋に押し込んだのが四時間ほど前の事。その後風呂を沸かし、宿題があるという彼にリビングのテーブルを提供して、三十分ほど前に寝床へ案内した。
 ホットミルクを出してやった時、彼は眠そうな顔をしていた。てっきりもう夢の世界へと旅だったものと思っていただけに、遠慮がちに扉の前に立つ姿は意外だった。
 青色のパジャマは、彼が自宅から持ち込んだものだ。六月とはいえ、夜間は冷える。肩に薄手のカーディガンを羽織った少年にはっとして、シンドバッドは今にも崩れそうな大量の吸い殻を机の奥へ押し込んだ。
「もしかして、煙。臭った、かな?」
 部屋に引きこもってから既に四本近くを消費していた。ここ最近は量を減らす努力をしていたというのに、つい口寂しくて手が伸びて、結果五度目の禁煙はまたもや失敗に終わってしまった。
 継続は力なり、というけれど、貴方には辛抱が足りなさすぎる。そう鼻息荒く言われたのを思い出して、彼は笑顔を凍り付かせた。
 部屋のドアは閉めていたけれど、隙間から空気は漏れる。一人住まいの時は全く気にならなかったが、非喫煙者には厳しかろう。
 嫌煙者からすれば、脂臭い場所にいるだけで拷問に等しいとも聞く。そこまで気が回らなかったと反省して項垂れていたら、アリババは慌てた様子で首を振った。
 素足にスリッパで敷居を跨ぎ、本棚に収まりきらない本でいっぱいの部屋へ足を踏み出す。
「いえ、そうじゃ、なくて」
「今度からはベランダで吸う事にするよ。悪かった」
「あの。違います」
 一方的に勘違いして謝罪する男に首を捻り、アリババが重ねて否定する。聞こえていないのかと声を少し大きくすれば、近づいて来る気配にシンドバッドが顔を上げた。
 椅子を背に立つ男に歩み寄り、彼は今にも肩から滑り落ちそうなカーディガンを握り締めた。
 不思議そうに見下ろしてくる視線を避け、顔を背ける。言おうと決めて此処に来たのに、土壇場で怖じけついてしまった自分が嫌で、アリババは唇を浅く噛んだ。
「アリババ君?」
「……今日は、いえ、昨日も。ありがとう、ございました」
 物言いたげにしながら口を開かない彼に眉を顰め、シンドバッドが名前を呼ぶ。それを遮り、彼は消え入りそうな声で言葉を紡いだ。
 同時に深々と頭を下げて、胸に閊えていた重荷をひとつ吐き出す。すっと心が軽くなった気がして、背筋を伸ばした後はちゃんとシンドバッドを見上げられた。
 幾分すっきりした顔になったアリババに、彼はぽかんとしてからすぐに微笑んだ。
「お礼を言うのは俺の方だよ」
「え?」
「君が報せてくれたお陰で、俺も恩師を助けられた。ありがとう、アリババ君」
「そんな。俺は、なんにも。わたわたしてただけで」
 シンドバッドがいなければ、ラシッドは助からなかったかもしれない。助かったとしても、後遺症が残って今までのように動けなくなっていたかもしれない。
 電話がすぐに繋がって良かった。あの時、無意識の判断で彼を選んで良かった。
 アリババが大切な人を喪わずに済んだように、シンドバッドも恩義ある人を救えた。どちらかが欠けていたら、この結果は得られなかった。
 だから礼は言わなくて良い。そう優しく告げたシンドバッドに一瞬ぽかんとして、アリババは照れくさそうに頬を緩めた。
 シャンプーだろう、花の香りがする髪を掻き回した後、ふにゃりと気の抜けた笑みを浮かべ、嬉しそうに笑う。
「えへへ」
「……っ」
 だらしなく口を開き、うっかり漏れたと分かる声を響かせて目を細める。その緊張感ゼロの安心しきっている姿に、シンドバッドは騒然となった。
 数年前、まだ小学生だった頃の彼が宿題で家族の絵を描いた。
 そこには父と、天国にいる母と一緒に、シンドバッドの姿も描かれていた。
 大きな画用紙を広げて見せてくれた時の彼も、ちょうどこんな風に笑っていた。不意に忘れていた光景が思い出されて、彼は息を呑んで瞠目した。
 ざわっ、と穏やかだった心に突風が吹いた。真っ直ぐ伸びていた草木が一斉に波打ち、根こそぎ取り払われて世界の景色が一変する。瞬き一回分の時間で豹変した光景に唖然としていたら、紅色の唇を開閉させたアリババが無言で下を向いた。
 俯いた彼の髪は一様に下を向き、項垂れていた。
「あ、アリババ君?」
 そのままぽすん、と胸に寄りかかられて、ただでさえ気が動転していたシンドバッドは声を高くして両手を振り回した。
 咄嗟に押し返そうとするが、細い肩を掴む寸前で指が凍り付いた。意味もなく空気を握り締めては掻き回すばかりで、なかなか先に進んでくれない。そうこうしているうちにアリババはスン、と鼻を鳴らしてより体重を預けて来た。
 空を彷徨った彼の左手が、シンドバッドの脇腹に落ちた。シャツの皺を抓んで握り締め、一層肌を密着させてしがみつく。
 煙草臭くないのかと気になったが、思えばシンドバッドが喫煙者になったのは昨日、今日の話ではない。そしてこれまで、一度たりとも彼に文句を言われた経験はなかった。
 心配は杞憂に終わった。となれば次の疑問がわき起こる。
 こんな時間に、寝間着で部屋を訪ねて来るなど。理由を考えて、一瞬不埒な想像が脳裏を過ぎったシンドバッドは慌てて首を横に振った。
「親父、って」
 だが邪な妄想はなかなか離れていかず、消え去ってくれない。しつこい邪念に歯ぎしりしていたら、揺れを感じ取ったアリババが俯いたままぼそりと呟いた。
 聞き取りづらい声に我に返り、シンドバッドは慌てて下を向いた。
 彼の右手もまた、シャツを握り締めていた。
「親父、……ホントに、大丈夫……ですか」
 指先は微かに震えていた。今にも消え入りそうな細い声にはっとして、シンドバッドは病室でラシッドから聞いた話を思い出した。
 アニスを看取ったのは、アリババだ。彼は母が死んだとも知らず、仕事に行かない彼女と一緒に居られるのを無邪気に喜んだ。
 早く目を覚まして欲しいと願い、また笑いかけて抱きしめてくれるものと信じていた。だがその夢は、永遠に叶わなかった。
 彼が半狂乱になって泣き叫ぶ声は、今でも耳に張り付いている。たとえ医者が大丈夫だと言っても、そう簡単には信じられない。信じたいのに疑ってしまう気持ちが、彼の中にはあるのだ。
 病状については簡単に説明されただけで、真実を教えてもらえたのかどうか不安なのだ。検査もあるから当面様子を見る為に入院、と言われても、実は状態が悪いので帰してもらえないだけではないかと疑念を抱いている。
 子供だから、教えてもらえない。心配させたくないからと本当の事を知らされず、蚊帳の外に置かれている気分になる。
 胸に渦巻くのは、恐怖だ。あの日と同じ事が起こらないか、そればかりを考えて眠れない。
 父には聞けない。医者は信用できない。母違いの兄にも頼れない。
 他に縋る先を持たない彼の不安定さを思い知り、シンドバッドは息を呑んだ。
「っ!」
 次の瞬間、彼はアリババを抱きしめていた。
 思い切り強く、遠慮なく締め付けられた。両腕ごと囲われて、背骨が折れそうな衝撃にアリババは目を見開いた。
「大丈夫」
 彼が怖がるような事は起こらない。ラシッドの病態は落ち着いている。近々行われる検査如何では手術の必要性が生じるかもしれないが、今日、明日で症状が急変する見込みはほぼゼロに等しかった。
 勿論油断は出来ないが、何かが起きても病院内ならすぐに対処してもらえる。そうなった時も、シンドバッドがいれば車ですぐに駆けつけるのが可能だ。
 幼い心を不安に曇らせる必要など、どこにもありはしない。安心して眠って良い。朝が来て、アリババが元気に学校に行くことが、ラシッドにとっても一番の薬になるはずだ。
「大丈夫だ、アリババ君。君がひとりになることは、もうないいんだ」
 暗く寒い部屋で、孤独に怯えながら泣いている子供はもう居ない。優しく囁き、艶を帯びた金の髪をそっと撫でる。俯いていた毛先を弾いてやれば、心細げに揺れていた琥珀色の眼がにわかに輝きを取り戻した。
「……ほんとう、に、ですか?」
「ああ、本当だとも。約束しようか?」
 たどたどしい口調で問いかけられて、シンドバッドは首を僅かに右に倒した。目尻を下げて微笑み、左の小指を残して他を折りたたむ。
 昔は良く交わした指切りを促せば、アリババは目をぱちくりさせてから照れくさそうにはにかんだ。
 ようやく年相応の彼らしい可愛らしい笑顔が戻って、絡みつけられた指先に、シンドバッドも相好を崩した。
「へへ。えへへ」
「おっと」
 しっかりと指をつなぎ合わせ、そして勢いつけて外す。少し痛かったシンドバッドに舌を出し、アリババは嬉しそうに頬を緩めて両手を広げた。
 ぼすっ、とシンドバッドの分厚い胸板に顔を埋め、自分からもぎゅっとしがみついて目を閉じる。
「シンドバッドさんの匂い、すごく……安心、……する…………」
 胸一杯に煙草臭いだろう空気を吸い込んで呟いた彼の声は、尻窄みに小さくなっていった。
 最初は苦しいくらいの締め付けだったのに、その力も徐々に弱くなっていく。頭の位置も少しずつ下にずれていって、崩れ落ちそうになったところでシンドバッドは慌てて彼を抱え直した。
 見れば少年の瞼は閉ざされ、薄く開いた唇からは穏やかな寝息が漏れていた。
「……これは、まったく」
 元から寝付きの良い子だったが、今日は一段と凄まじい。器用な芸当を披露したアリババに苦笑して、彼は一瞬躊躇し、壁際に設置した自分のベッドへと華奢で軽い身体を運び込んだ。
 そして数秒考え込んで、自分も寝台へと上がり込む。
 並んで横になれば、限界まで伸びていたシャツもすっかり元通りになった。
「おやすみ、アリババ君」
 握り締められたままの手をそっと撫で、肩まで布団をかぶせてやる。リモコンを操作して照明を消せば、辺りは一気に闇に包まれた。
 明日、陽が昇った後も彼が目覚めるまでここで待とう。そして眠そうな目を擦っているところに、おはようと囁くのだ。
 きっと驚き、そして笑ってくれるだろう。
 それが何より幸せだと、シンドバッドは夢見るように目を閉じた。

2013/02/03 脱稿