Gomphocarpus physocarpus

 白い壁に囲われた廊下はひっそりと静まり返り、やけに足音が響いて心臓を穿った。
 指定された病室との距離が狭まるにつれて鼓動は速度を増し、嫌な汗が額に浮いて頬をなぞって落ちていく。微かに香るのは消毒薬の臭いだ。窓は全て閉ざされており、密閉空間の気温は外に比べると格段に低かった。
 それでも緊張からか体温は上昇し、内臓が掻き回されるような不快感を覚える。それが嫌で舌打ちすると、彼は右脇に抱えていた書類ケースを握り直した。
 革製のそれは汗ばんだ肌には滑り易く、何度か指を蠢かせなければ水平にならなかった。底辺の中心部を強く持って深呼吸すれば、上向かせた視線の先に教えられた部屋番号が見えた。
 これまで通り過ぎて来た扉とは違い、ノブが縦に細長い。銀色のパイプの上に衝突時の衝撃を和らげるクッションが巻き付けられており、触れば指が内側に食い込みそうだ。
 視線の高さよりいくらか低い位置にあるプレートは、まだ空っぽだった。最初の報せを受けてからまだ半日しか過ぎておらず、病院内も急患の対応に追われて手が回っていないのだろう。だが念のためと、彼はズボンのポケットをまさぐって千切ったメモを取り出した。
 四つに折り畳まれている皺まみれの紙を広げると、真ん中に汚い字が現れた。
 紛れもなく自分で書いたものだが、電話を受けながらだったので筆跡は若干どころかかなり乱れている。ただ読み取り辛いが完全に読めない程でもなくて、彼は折り目の交差する場所に親指を置いて左へと滑らせた。
「ここ、だな」
 入院患者の名前が記されたプレートは無かったが、メモにある部屋番号はここで間違いない。そう自分に言い聞かせて覚悟を決めて、彼は大学名が下に印刷された用紙をくしゃくしゃにしてポケットへ戻した。
 空になった左手は、ドアノブではなく先に襟元を飾るネクタイへと向けられた。
 外の暑さに負けて緩めていた結び目を引き締め直し、額の汗も思い出して軽く拭う。湿った手の甲を揺らしているうちに捲り上げた袖を思い出したが、今更伸ばしたところで皺はごまかしきれないと諦めた。
「さて」
 意を決し、乾いた唇を舐める。夜半に聞いた悲痛な叫びを思い出してかぶりを振り、彼は緩く握った拳でドアを叩いた。
 一度だけだと何かがぶつかっただけと勘違いされる可能性もあるので、二度続けて音を響かせしばらく待つ。けれど返事は無かった。
 もしや検査かなにかで留守にしているのだろうか。中が無人である確率がどれほどあるのかつい計算しようとした矢先、カタ、と何かが動く音がした。
「お?」
 それが思いの外近い場所から聞こえた為、彼はぎょっとして目を丸くした。瞬きを数回連続させて顎を引き、仰け反るように分厚い扉から離れる。右足を引いて爪先で床を擦ってバランスを取っていたら、それまで沈黙を保っていた扉がおもむろに開かれた。
 自動ドアではない。そんな機能があったなら、前に立った段階で勝手に道は開かれていた筈だ。
 だから中から誰かが開けようとしているのは明白だった。
 理解した途端、緩んでいた頬が引き締まった。遠ざかりかけていた緊張が戻り、きゅっと心臓が縮こまる。
 どくん、どくんと耳元で喧しく鼓動が轟く。汗が背中を伝い、目眩を起こしそうな気まずい沈黙に耐えながら前方を凝視していたら、二十センチほど開かれた隙間から眩い金色が飛び出して来た。
「……シンドバッド、さん?」
「アリババ君」
 ひょこっと顔を覗かせたのは、よく知った顔だった。
 ただ肌は青白くくすんでおり、琥珀色の眼も充血して痛々しい。疲労感たっぷりの表情からは普段の明るさがまるで感じられず、不用意に触れば今すぐ朽ち果ててしまいそうな雰囲気だった。
 頭頂部で跳ねている角のようなひと房も、今日ばかりは元気がない。声は掠れ、非常に聞き取りづらかった。
 それでも彼の顔が見られたのに安堵して、シンドバッドはほっと胸を撫で下ろした。
「やあ」
「あ、……えっと。どうぞ」
 努めて明るく振る舞い、左手を胸の位置で横に振る。だがアリババはすぐに目を逸らし、俯いてしまった。
 背中も丸めて小さくなった彼は、そのまま逃げるように扉の前から身を引いた。両手で握り締めていたドアノブも解放して、反転して踵を返す。
 出会った当時を思い出させる態度にいささか傷つき、シンドバッドは一瞬言葉を詰まらせた。しかしゆっくりと閉まろうとしている扉に気づいて慌てて腕を伸ばし、隙間を押し広げて敷居を跨いだ。
「失礼します」
 一応奥に向かって呼びかけて、後ろ手にドアを閉めて深呼吸。上昇したり、下降したりと忙しい心臓をシャツの上からなぞり、彼はぱたぱたとスリッパで走り去っていく背中を目で追いかけた。
 部屋は広く、十畳近くあるのではと思われた。
 入ってすぐの場所に洗面台があった。その横にはドアがあり、どうやらその中はトイレらしかった。
 正面には横長の窓が設置されているが、いずれも真っ白いカーテンに覆われて景色を望むのは叶わなかった。固定のベッドはひとつだけで、こちらも天井から下がるカーテンで隠されており、シンドバッドの位置からそこに横たわる人の姿は見えなかった。
 大きな機械が枕元に置かれ、心電図らしき装置が定期的に電子音を発している。反対側の壁際には鞄がひとつ放り出されており、開いた口からタオルやらなにやらがはみ出ていた。
 家族が寝泊まりする時に用いる簡易ベッドは使われた形跡が無く、掛け布団が綺麗に畳まれて鎮座していた。
 あまりこういう部屋に入った経験が無い為、戸惑う。ついつい物珍しげに見回してしまって、シンドバッドははっとして意味もなくネクタイを揺らした。
 折角締め直したものをまた緩め、重い一歩を踏み出す。革靴の底が冷たい床を叩き、音は想像以上に大きくなった。
「誰かな?」
「先生!」
 その音に自分でも大仰にびくついた瞬間、カーテンの向こうから問いかけが静かに響いた。
 誰何の声に反射的に背筋を伸ばし、シンドバッドは叫ぶように声をあげた。二の足を踏んでいた歩みを早め、機械が立ち並ぶ扉側ではなく、アリババが消えた窓側からベッドへと回り込む。そちらは布が半分開かれており、細い管に繋がれた老齢の男の姿がはっきりと見てとれた。
 決して寝心地が良いとは思えない寝台に横たわる存在もまた、シンドバッドが良く知る相手だった。
 アリババ以上に疲弊した顔立ちで、記憶にあるよりもかなり皺が増えていた。
 胸元まで掛け布団に覆われており、枕に頭を沈める様は直視に耐えない。やせ細った腕には複数の管が通され、針の周辺は赤黒く鬱血していた。
 アリババはそんな男の枕元に椅子を置き、座っていた。
 沈痛な面持ちでシンドバッドを見上げた後、拗ねた子供と化して口を尖らせる。なかなか目を合わせてくれない理由を考えるが思い当たらず、眉根を寄せて黙っていたら横で衣擦れの音がした。
 酷くゆっくりでもどかしい動きにはっとして、ふたり揃って顔を上げた先。シンドバッドの声に遅い反応を示し、すっかり窶れた男が瞼を持ち上げた。
 少々濁ってはいるものの、瞳の色はアリババと同じ黄金色だ。枕に散る細く長い髪もまた、若かりし頃は女性も羨む見事な金紗だった。
 天を向いて数回瞬きを繰り返した後、時間をかけて首を左に倒す。
「親父」
 それを受けて、アリババが椅子を蹴飛ばし立ち上がった。
 今や寝返りひとつ満足に出来ないでいる父を支え、枕の位置を調整して安定させてやる。四方に散る髪も集めて脇に流し、彼は息を潜めて次の指示を待った。
 引き結ばれた唇は微かに震えており、彼の心には緊張だけでなく恐怖が宿っているのを教えていた。言葉に出来ない感情を読み取って、シンドバッドは戸惑いながら寝台の男を見つめた。
「起こしてくれるかな」
「けど」
「なあに、心配はいらない。それから、彼になにか飲み物を。お前の分も」
「……分かった」
 その物言いたげな視線を気取ったか、男がアリババの袖を引いた。息子は最初渋ったが、微笑みながら催促されては抗えない。ちらりと脇に立つシンドバッドを窺ってから、不満げながらも頷いた。
 ベッドは電気で角度が調整出来るタイプだったが、アリババはその使い方をまだ知らないようだった。苦労して父親の背中を抱きかかえると、ふたつあった枕を縦に重ねて即席の背もたれを作り出す。しかしそれでも足りないと知ると、昨晩使わずにいた簡易ベッドの枕まで追加して形を整えた。
「なにかあったら、すぐナースコールだからな」
「ああ、分かっている」
 そうして父の背中を愛おしげに二度撫でて、早口に捲し立てて部屋を出て行く。その間、彼は殆どシンドバッドを見なかった。
 こうも露骨に無視され、居ないものとして扱われると、いっそ逆に清々しい。弱っている所を見られたくないという年頃の反応に苦笑して、シンドバッドは閉じられた扉を見送った。
 騒々しい足音も、ドアが閉まると同時に途絶えた。遮音効果が抜群の設備に舌を巻き、彼は長らく脇に抱えていた鞄を胸の前に持ち替えた。
「思ったよりも元気そうで、安心しました」
「まったくだ。私も吃驚したよ」
 会話の糸口を探し、大幅に世辞の入った挨拶を切り出す。男――ラシッド・サルージャは複雑な教え子の胸中を汲み取り、呵々と笑って咳き込んだ。
「先生」
「いや、すまん。大丈夫だ」
 げほごほと不安を煽る噎せ方に、アリババ以上にシンドバッドは青くなった。急いで傍へ寄って丸められた背中を撫でれば、痩せ衰えた体躯の感触が否応なしに指を伝った。
 初めて顔を合わせた頃に比べれば随分と老いたと思っていたが、ここまでとは想像していなかった。まざまざと教えられた現実に言葉を失い立ち尽くしていたら、ラシッドは濡れた口元を拭って頬を緩めた。
「なに、まだ死にはせんよ。少なくとも、あの子が成人するまではな」
「ならば、あまり無茶はなさいませんように」
「ははは。よもや、お前に言われようとはなあ」
「…………」
 嗄れた声で笑い飛ばされ、思い当たる節がありすぎる男は目を逸らして黙った。
 若かりし頃は無謀を勇気とはき違え、随分と沢山トラブルを起こしたものだ。ただそれも、最近は落ち着いている。当時を知る相手が今の彼の職業を聞けば、十中八九腰を抜かすか頭を抱えるかのどちらかだ。
 当然、此処にいるラシッドも昔のシンドバッドを知っている。あまり追求されたくない内容も多々握られており、敵に回したくない相手の筆頭株だった。
「……一応、大学にはしばらく休養という事で、届け出は出しておきました。診断書が必要になりますので、その辺はまた後日に。入院の手続きなどは、アリババ君が?」
「いや、あの子がサブマドに連絡を入れたらしくてな。午前中顔を出してくれたよ」
「そうですか。なら、良かったです」
 気まずい空気を打破したくて、本題にずばり切り込んでシンドバッドは鞄を開いた。中からクリアファイルに挟んだ書類を取り出し、アリババが座っていた椅子に置いて蓋を閉める。
 差し出された中身に軽く目を通し、ラシッドは肩の力を抜いて即席の背もたれに身を沈めた。
 安定感が悪いので、すぐに崩れそうになる。本当は横になったままの方が良い筈だが、シンドバッドは敢えて何も言わなかった。
 せっせと世話をする末の息子に向けられた眼差しは、他の誰に向けるものよりも慈愛に満ち、愛おしさに溢れていた。かわいくて仕方がないと言わんばかりの姿に、部外者が余計な茶々を入れる余地は無い。
「アリババ君。今日は学校、休んだんですね」
「午後からでも顔を出すように言ったんだが、聞かなくてな」
「俺がもっと早く来られたら良かったんですけれど」
「そこまで世話になるわけにはいかんだろう。だが、君がいてくれてよかった」
「俺はなにもしていませんよ」
 購買が混んでいるのか、アリババはまだ戻ってこない。音のしない扉を窺ったシンドバッドに、ラシッドは深いため息をついた。
 今日は平日だ。夏休みが始まるまで、まだ一ヶ月近くある。
 だがやむにやまれぬ事情により、彼は独断で学校をサボった。事情を知れば教員は許してくれるだろうが、おそらく連絡は入れていないのだろう。
「だが君が居なければ、私は今頃こうしてはいなかっただろう」
「大袈裟な。確かに、アリババ君が電話をかけてきた時は驚きましたが」
 それは昨日、午後六時を少し回った頃のこと。
 大学で論文の執筆に取り組んでいたシンドバッドの携帯電話が鳴った。画面に表示されたのは、恩師の息子の名前。てっきり夏休みにどこか遊びに連れて行けという催促だと思って応答した瞬間、聞こえて来たのは悲痛な叫び声だった。
 その取り乱しようといえばなくて、正直何を言っているのか半分も聞き取れなかった。だが合間に「死んでしまう」、「親父が」という言葉が混ざっていたので、シンドバッドは瞬時に彼の父であるラシッドの身に何か起きたのだと理解した。
 その時間帯といえばアリババが部活動を終え、買い物を済ませて家に帰り着く頃だ。ラシッドは週に二度ほど講義の為に大学に顔を出しているが、それ以外はあまり外出せず自宅に籠もる事が多い。だからシンドバッドは携帯電話でアリババを宥めると平行し、研究室の電話で救急車の出動を要請した。
 自分が駆けつけてやれれば一番良かったのだが、それでは手遅れになってしまう。一晩明けて窮地を脱したという連絡が来るまで、シンドバッドは生きた心地がしなかった。
「面倒をかけた」
「いいえ。俺が先生にかけた迷惑に比べれば、これくらい」
 病院に出向いたところで出来る事は限られているから、他にやれることを率先してこなした。特にラシッドと共に暮らすアリババは未成年であり、分からない事の方が多い。入院に必要な荷物の準備も、シンドバッドの仕事だった。
 一通り終えてから一旦帰宅し、泥のように眠った。自分の仕事も全部投げ出して動き回っていたので、この後また大学に戻らなければいけない。
 時間を気にして腕時計を盗み見、シンドバッドは肩を竦めた。
 ラシッドと知り合ったのは、もう十年以上前の事だ。彼のお陰でシンドバッドは迷う中で道を見出し、考古学者として、またシンドリア大学准教授としての地位を得る事が出来た。
 そこにもうひとつ、冒険小説家としての肩書きが加わるのだが、こちらは先のふたつを手に入れる過程で生じた副産物に過ぎない。
 元々あれば、人見知りで臆病な子供の気を引き、外へ駆り立てる為に作り出したものだ。それがまさか世に広まり、空前のヒット作になろうとは思いもしなかった。
 記念すべき読者第一号の少年が、非常事態に際して真っ先に自分に頼ってくれたのは嬉しい。但しそんな思いを抱く事自体不謹慎だと怒られそうなので、絶対に言葉に出したりはしないが。
「入院期間はどれくらいになりそうですか」
 昨日の今日で、こうやってラシッドと話が出来るとは思っていなかった。率直に安堵を伝え、職員も心配していたと教えてやる。そして最後に追加された問いかけに、バルバッド大学名誉教授なる人物は半眼して黙り込んだ。
 救急車の到着が早かったのと、シンドバッドの助言によりアリババが不慣れながらも心臓マッサージを施したのが功を奏し、ラシッド一命を取り留めた。
 今は一見すれば少々窶れた程度にしか見えない状況だが、予断は許されない。数日は絶対安静であり、再び教鞭をふるえるようになるにはしばらく時間が必要だった。
「私も歳を取ったからな。これを機会に、あちこち検査して貰おうと思っておる」
「それは、良いことだと思います」
「そこでなんだが、シンドバッド」
「はい?」
 現在高校二年生のアリババが成人するまで、あと三年以上ある。その間健康に過ごす為にも、今此処で小休止し、病気の芽を摘んでしまうのが得策だろう。
 シンドバッドは妙案だと頷き、続けられた言葉に首を傾げた。
 時間が迫っている為、そろそろ席を辞そうと考えていた。それを呼び止められてしまい、まだ用があるのかと眉目を顰める。
 怪訝な表情に苦笑して、ラシッドは無人の椅子に目を向けた。
「アリババの事だが」
「はあ」
 未だ戻らないアリババは、ラシッドの三人目の息子だった。とはいえ、上のふたりとは母親が違う。いわゆる、不義の子だ。
 アリババの母親はアニスといい、シンドバッド同様に彼の教え子だった。
 当時のラシッドは妻と別居中であり、離婚は時間の問題とも言われていた。息子ふたりは母親側に引き取られて、彼は孤独を抱えていた。
 しかし彼の寂しさを癒したアニスもまた、しばらくして姿を消してしまった。大学にも顔を出さなくなり、その後の消息が知れたのは彼女が死亡してからだった。
 彼女には、父親が誰かも知れない息子がいた。まだ幼く、このままでは施設に引き取られるしかない状況だった。
 アニスの同級生から連絡を受けて駆けつけたラシッドを待っていたのは、自分と同じ髪と瞳の色を持つアリババだった。
 出自を調べるまでもなかった。彼は即座にアリババを引き取り、家に連れて帰った。
 その頃にはもう、ラシッドは独り身に戻っていた。こうして広い屋敷に幼い息子とふたりの生活が始まったわけだが、最初からなにもかも順風満帆ではなかった。
 彼が引き取られた直後のことは、シンドバッドも鮮明に覚えている。母を喪い、父だという男に突然見知らぬ場所に連れて来られたのだから、幼子が警戒するのも無理なかった。
 ラシッドも日中は仕事で忙しくしており、なかなか子供の相手をする余裕がない。上の息子ふたりは既に大きく、当時から子育てに協力的でなかったのが災いして、持て余している雰囲気さえあった。
 だからシンドバッドに白羽の矢が立てられた。その頃からサルージャ邸に出入りしていた彼は、まだ息子と歳が近いから分かり合えるだろうと言われ、突然アリババの世話を押しつけられたのだった。
 奇しくもベストセラーになったシンドバッドの冒険譚が生まれた経緯を振り返り、彼は生返事の末にラシッドを見つめた。病床にあっても依然鋭い輝きを宿す琥珀の瞳がすっと細められ、力なく伏せられた。
「君に電話をかけた時のあの子は、どんな様子だった」
「どんなって、……かなり、取り乱していましたが」
 今まで聞いた事が無いくらいの大声で、喚き散らしていた。こちらの呼びかけにはなかなか反応せず、一方的に喋っては泣きじゃくり、鼻を啜る音がひっきりなしに聞こえた。
 最初は彼に、自分で救急車を呼ぶよう促したのだ。けれどとても出来そうになかったので、シンドバッドがサルージャ邸の住所を伝えて出動を要請した。
 もし少しでも決断を下すのが遅れていたら、と思うとぞっとする。背筋に悪寒が走って己を抱きしめたシンドバッドを見上げ、ラシッドは長い時間をかけて息を吐き出した。
 その表情から感じ取れたのは、死への恐怖といった類ではなかった。
「先生?」
「あの子の母親が死んだ時の話は、したかな」
「……いえ」
 疲れ、不安、そして懸念。なにかを思い悩む横顔に眉目を顰めていた矢先、急に話を変えられてシンドバッドは面食らった。
 こんな状況でいきなり何を、と反論しようとして、出掛かった言葉を喉の奥に引っ込める。息と一緒に飲み込んだ彼は、沈痛な面持ちを崩さない恩師に口を尖らせた。
「あの子を引き取った時の話は、したね」
「それは、はい」
「アニスが同僚に発見されたのは、彼女が息絶えてから二日後の事だったらしい」
「……――え?」
 既に両親と死別していたアニスは、他に兄弟もなく、頼る大人がひとりもいない状況だった。女手ひとつで幼子を抱えながら生活していくのは難しく、出来る仕事もそう多くない。水商売でしか日銭を得る方法が無かった彼女は、体調が芳しくなくても息子の為と必死に頑張っていた。
 当時の事は、ラシッドも伝聞でしか把握していない。ふたりの生活はかなり苦しく、病院に行くのもままならなかったようだ。
 出勤してこない彼女を心配し、仕事仲間が安アパートを訪ねた時にはもう、彼女は布団の中で冷たくなっていた。アリババはそんなアニスの横にちょこんと座り、目覚めない母をずっと待ち続けていたらしい。
「それって……」
「だからだろう。あの子が倒れた私を見て、平静でいられなかったのは」
 真っ暗な部屋が思い浮かんだ。膝を抱えて小さくなっている男の子がいた。
 俯いていた。顔を上げた。目が合った。驚きに見開かれたシンドバッドの眼に、儚げな表情のアリババが映し出された。
 騒然となり、足がもつれて立っていられなくなった。ふらついた身体を支えて右手で額を覆った彼に、ラシッドは疲れたのか全身の力を抜いた。
 横になりたがっていると知り、シンドバッドはアリババが積み上げた枕を外してやった。背中に手を差し入れて抱えあげて、ゆっくりシーツに寝かせてやる。些か無理をしたと、ラシッドは汗を滲ませながら笑った。
 しかし瞳だけは笑っておらず、慎重にシンドバッドを探っていた。
「あの子は、君によく懐いておる」
「……どうでしょう」
「頼みたいことがある」
 嫌な予感がした。話題を避けて通ろうとしたのを見透かされ、直球で攻められて何も言えなくなった。
 口を噤んだ教え子に肩を揺らし、ラシッドは聞こえた物音に微笑んだ。
「あの子を、あの家にひとりで置いておくのは忍びない」
 現にアリババは、昨晩は一睡もしていない。表に出さないようにしているが、内心不安で、心細くて、びくびくしているに違いなかった。
 ラシッドが死ねば、彼は再びひとりになってしまう。けれど口にすれば現実になりそうで、怖くて言い出せずにいる。人前では強気に振る舞っているものの、家に帰れば孤独に負けて押し潰されてしまいかねない。
 サブマドは長兄のアブマドに比べて異母弟のアリババに友好的だが、彼も仕事を持っており、頼れない。だからラシッドは、遠くの親類より近くの他人に援助を求める事にした。
 昔から知略に富み、頭の良い人だというのは知っていた。
 だからこそ彼に師事してここまで来たのだが、逆手に取られてシンドバッドは頬をひくりと痙攣させた。
「ただいまー」
 そこへアリババが、タイミングよく帰って来た。右手でドアを開け、左手には缶コーヒーとジュースが握られていた。
「シンドバッドさん、コーヒーはブラックで良かったですよね」
「あ、ああ。ありがとう」
 もしかしたら、彼は外で泣いていたのだろうか。ほんのり赤みを強めた瞳を向けられて、シンドバッドはビクッとしてからぎこちなく礼を述べた。
 妙な雰囲気に小首を傾げ、アリババがドアを閉めてベッドへ近づく。横になっている父親を見つけた彼は一瞬目尻を吊り上げ、即座に諦念の息を吐いて運んで来た缶飲料をシンドバッドに差し出した。
 缶は彼の体温を吸い、ほんのり温くなっていた。シンドバッドはそれを軽く振ると、ここで飲んで良いものか迷って視線を外に向けた。
「ちょうど良かった。アリババ、お前も聞きなさい」
「なに」
「今、話していたところなんだが。お前のことだ」
「俺?」
 シンドバッドが無関係を装う中、ラシッドが息子を手招く。プルタブに爪を掛けていた少年は不思議そうに父を見詰め、続けてそっぽを向いている男を横目で窺った。
 ラシッドは点滴の管を避けて両手を胸で結び合わせ、まるで無邪気な子供のようににっこり目を細めた。
「そうだ。アリババ、お前はしばらく彼に――シンドバッド君の家で世話になりなさい」
「は、あぁぁぁ!?」
 鷹揚に頷き、告げる。
 と同時にアリババはここが病室なのも忘れて素っ頓狂な声を上げ、話の内容をおおよそで予想していたシンドバッドは案の定の展開に頭を垂れた。
 ラシッドはしばらく家に帰れない。孤独に慣れていないアリババを一人にしてはおけない。かといってふたりの息子や別れた妻にも任せられない。
 ならばアリババを幼い頃から知っており、懇意にしている男に押しつけるより他にないではないか。
「ちょっと、ちょっ、待ってよ、親父。なんで、急に。俺って、もう十六なんだけど」
「知っておるよ。だがあの家は、お前ひとりでは広すぎるだろう」
 にこやかに告げて、ラシッドはシンドバッドに視線を向けた。目で促された男は最早逃れられそうにないと判断し、項垂れついでに首肯した。
「まあ、そういうわけだ」
 あんな話を聞かされて、嫌だとどうして言えるだろう。
 未だ戸惑い、慌てふためいている少年を宥める形でその肩を叩く。振り返ったアリババの瞳は動揺の所為か涙で少々潤んでおり、その鮮やかな艶に見惚れてしまったというのも、どうやら一生の秘密になりそうだった。

2013/01/14 脱稿