Platina

 ホームルーム終了を告げる鐘が鳴る。まだ話し足りない顔をしている担任を余所に席を立てば、引きずられる形であちこちから椅子を引く音が鳴り響いた。
「……ったく。解散」
「ありがとうございました!」
 それを見た教師が、いかにも仕方なくといった顔をして両手を叩く。聞き分けの良いフリをして生徒からの信頼を勝ち得た教諭に向かって全員が一斉に頭を下げて、教室内はにわかに活気を取り戻した。
 話し始めると長いから、適当なところで見切りをつけるに限る。その第一歩を率先して踏み出した背高の生徒に、クラスメイトの大半は心の中で拍手喝采を送った。
 自ら嫌われ役を買って出た生徒は、しかし級友らから賞賛の目で見られようなどとは一切考えていなかった。
 一刻も早く部室に行き、練習着に着替えて第二体育館へ駆け込む。それ以外頭にない横顔に誰もが苦笑して、やれやれと肩を竦めた。
 影山飛雄という男がどういう人間であるか、一年三組の生徒はこの一年間で嫌というほど思い知らされていた。
 身長は百八十センチをゆうに越え、クラスでは一番背が高い。がっしりとした体格をしており、声も低くかなり迫力がある。目つきが悪く、口調もぶっきらぼうで愛想がない。別に機嫌を損ねているわけではなくても常に不機嫌そうに見えて、休み時間は机に突っ伏して寝ているか、教室に居ないかのどちらかだ。
 クラスに親しい友人はおらず、もっぱら一組に在籍している同じ部活に所属する生徒と一緒に行動している。弁当を食べるのがとにかく早く、授業中も惰眠を貪ってばかりで成績は底辺を彷徨っている。
 入学当初は外見に騙された女子が数人アプローチを仕掛けていたが、補習中に白目を剥いて寝ている姿を激写されて以降、声を掛けてくる数は極端に減っていた。
 寝ても覚めてもバレーボールの事ばかり。彼のお陰で男子排球部が強くなった、と一部では囁かれているものの、本当かどうか疑う人間もかなり多かった。
 そんな影山は愛用のスポーツバッグを肩に担ぐと、早足で廊下に出て角を曲がった。
 他のクラスは既にホームルームも終わっており、階段は帰路に着く生徒でごった返していた。
 だがいつもより、若干であるが皆の足取りが鈍い。なにやら周囲を気にしてそわそわして、落ち着かない空気が漂っていた。
 特に黒の学生服に身を包んだ男子が、やたらと辺りを警戒していた。横を通り過ぎていく女子を注意深く観察しては、何事もなく去って行かれてがっくり肩を落としている。
「……なんかあったか?」
 そういえば今日は、今朝からずっとこんな雰囲気だった。
 部の先輩方も妙にそわそわして、早朝練習中もやたらと体育館の出入り口を振り返っていた。集中していないと怒鳴り散らしていたコーチも、普段は放課後しか顔を出さないくせに、今日に限って朝から姿を見せていた。
 お陰で有意義な時間を過ごせたわけだが、どうにも釈然としない。相方として活躍中の小さなミドルブロッカーも、思い返せばいつにも増して落ち着きがなかった。
 暦は二月の真ん中、冬の盛りも良いところ。天気予報は晴れマークが踊っており、降雪の心配はないと言っていた。
 家を出る直前にテレビで見た映像を振り返り、影山は眉を顰めた。
 足取りの重い他クラスの男子を追い抜いて階段を駆け下り、下駄箱の置かれている昇降口に回り込んで先を急ぐ。その間もあちこちからひそひそ話が聞こえて来て、耳に引っかかった単語に彼は眉間の皺を深めた。
「あー……」
 言われてみれば、ニュースキャスターがなにかのタイミングでそんなことを口にしていた。
 今日は、バレンタインデーだ。既に一日の三分の二も終わろうとしている段階で思い出して、影山は緩慢に頷いた。
 汚れが目立つスノコに足を運び、カタカタ言わせながら自分の下駄箱を目指す。蓋を開いてみても入っていたのは自分の下足だけで、漫画などで目にするような可愛らしいラッピングはどこにも見当たらなかった。
「別に、どうでもいいけど」
 プレゼントは、影も形もなかった。
 どうせなら靴を履き替えてから思い出したかった。そんな愚痴をひとつ零し、彼は思った以上に落胆している心を隠して強気に呟いた。
 上履きを脱ぎ、スニーカーに履き替えてスノコから降りる。その傍らを、細身ながら上背のある男子が通り過ぎていった。
「お先~」
 特徴ある体格に眉目を顰め、顔を上げた彼の前でひらりと手が振られた。色素の薄い髪に黒縁の眼鏡を掛けた青年が、気に障る嫌みな笑顔を浮かべて一足先に玄関を出て行った。
「待ってよ、ツッキー」
 それを追いかけ、影山より若干背が低い男子が下駄箱の間を走っていった。
 山口は自分の鞄を肩に担ぐ他に、大判の紙袋をひとつぶら下げていた。表面はでこぼこしており、中に入っているものがかなり角張っているのがそれだけで分かる。早朝練習後に教室へ向かう時には、あんなもの、彼は持っていなかった筈だ。
 この数時間のうちに、いったい何が起きたのか。怪訝にしていた影山の耳に、甲高い山口の叫び声が聞くつもりもないのに紛れ込んだ。
「ツッキー、どうするの、これ。要らないのー?」
 大声で捲し立てる彼の姿が楽に想像できて、影山は頬を引き攣らせた。
 ため息を零して眉間の皺を解し、自分も部室へ向かおうと歩き出す。
 今日は二月十四日。世間はバレンタイン一色だった。
 もっとも朝から晩までバレーボール漬けの影山には、とんと縁のないイベントだ。女子からの人気は成績同様最低ラインを彷徨い、義理で恵んでくれる女子の知り合いもいない。家に帰れば母が用意してくれているだろうが、それを数に入れて良いかは甚だ疑問だ。
 どうりで終日、学校中が浮き足だっていたわけだ。田中や西谷が周りを気にしていたのも道理だと、ようやく理解出来た彼はほっと胸を撫で下ろした。
 明日になれば、彼らも平常運転に戻ろう。落ち着いてプレイ出来るのを切に願いながら、影山は校舎を出て右に進路を取った。
 放課後の練習開始まで、まだ時間的に余裕はあった。だが寄り道をする気は起こらず、坂ノ下商店に食料の買い出しに出る気分にもなれなかった。
 行けば嫌でもチョコレートに目が行ってしまう。ひとつも貰えなかったからと、自分で買うのはあまりにも惨めだ。
「……べつに、な。ああ。関係ねーし」
 そうだ、気になどしていない。思い出さなければ良かったなど、これっぽっちも思っていない。
 月島が紙袋いっぱいになるまで貰っていただとか、どうでもいい。去年だってバレーボール部はほぼ全滅で、葬式状態だったではないか。
 あの男が特別なだけで、他のメンバーだってきっと誰からも貰っていないに違いない。獲得数ゼロは他にも大勢いるに決まっている。
 だから、気に病む必要はない。女子からの人気が高かろうと、低かろうと、バレーボールの技術に差異は生まれないのだ。
 そこまで考えたところで、ふっと思い浮かんだ嘗ての先輩の顔に、影山は思いきり地面を蹴り飛ばした。
 思い返してみれば、あの人は何故か高校に進学した後も、二月十四日だけは欠かさず北側第一中学校に顔を出していた。そして恵まれない後輩達に愛の手を、だのなんだのと言って、自分が貰ったとおぼしきチョコレートを配って歩いていた。
 体の良い残飯処理係に任命された憎しみは、未だ消えていない。
「くそったれ」
 次会った時、顔面に蹴りを入れてしまいそうだ。目出度く大学進学を決めたという話を風の噂に聞いた及川の思い出を彼方へと投げ捨てて、影山は唾と一緒に苛立った感情を吐き捨てた。
 嫌な事を思い出してしまった。
 ささくれだった心を慰めるには、楽しかった事を振り返るに限る。しかしいざ記憶を漁ろうとしたら、なかなか該当する出来事を掘り返せないのは世の常だ。
 先ほどの嫌みったらしい月島の横顔も思い出してしまって、彼は苛々と短い爪を噛んだ。
「かげやまー?」
 セッターにとって指先の感覚はなによりも大事なのに、乱暴に扱う姿がにわかには信じ難い。姿が見えたのでつい声をかけてから、日向はおや、と首を傾げた。
 高く掲げた左腕を下ろし、肩から提げた鞄を揺らして距離を詰める。二度目の呼びかけでやっと反応されて、彼はほっと息を吐いた。
 白く煙る呼気を払い除け、歯を見せてにっと笑う。振り返った影山は一瞬惚けた顔をして、相手が日向だと認識してすぐに頬を緩めた。
「遅かったんだな」
「んー、ちょっと」
 いつもなら、誰よりも早く部室に駆け込んでいる彼だ。それが珍しく後ろから現れて、追い付かれた影山は不思議な事もあるものだと緩慢に頷いた。
 日向は言葉を濁して曖昧に返事し、影山に並んで速度を落とした。
 大きめの鞄が背中でトントン揺れている。テンポよくリズムを刻むバッグは、影山が愛用しているものとは違ってファスナーがなかった。
 上から布を蓋代わりに被せているだけなので、隙間から中身が少しだけだが見えた。
 大きめの弁当箱、練習着、タオル、そして教科書類に文房具。内容は今朝方見かけた時と大差ない筈なのに、影山が覚えている時よりも鞄は若干膨らんでいた。
 上機嫌に歩く横顔を見下ろし、影山はひっそり、冷や汗を流した。
「お前さ」
「ん?」
 よくよく考えてみれば、日向は影山とは違い、クラスメイトからの人気は非常に高かった。
 男女ともに友人が多く、休憩時間に会いに行くと大抵誰かと喋っていた。昼休みの暇潰しで遊びに誘われる機会も多く、大勢に囲まれながらサッカーボールを追いかける姿をたまに見かけた。
 菓子を与えれば美味しそうに食べる。弁当のおかずを分け与えてやれば、大粒の目をきらきらさせて満面の笑みを浮かべる。
 端から見ていてもちっとも飽きない表情の変化に、心引かれる生徒は多い。実際影山も、そのうちのひとりだ。
 そんな彼だから、本命はなくとも義理でチョコレートを貰っている可能性は、非常に高かった。
「……あ、いや。なんでもない」
 鞄からちらりと見えたのは、可愛らしいラッピング袋だった。ピンク色のリボンで飾り付けられて、いかにも女子が好きそうな形状だった。
 いくらバレーボール部で一、二を争う低身長な彼でも、中身はちゃんとした男だ。あんな包装の箱を好んで買いたがるとは、とても思えない。
 となれば、やはり誰かから貰ったとしか考えられない。しかも義理にしては、少々外見が立派だ。
「そう?」
 質問しようとして、途中で言葉を切った彼に日向は小首を傾げた。変なの、と呟いてから影山に遅れないよう大股に一歩を踏み出し、大袈裟に身体を揺らす。
 ただでさえ物で溢れている鞄が一緒に揺さぶられて、上に覆い被さっていたカバーが左に大きくずれた。
「あっ」
 弾みで一番上に置かれていたものが傾き、空中に放り出された。
 ほんの少しだけ軽くなった荷物に目を丸くし、日向が甲高い声をあげた。それに反応した影山が空中に視線を投げ、緩いカーブを描いて落ちていく小箱に咄嗟に手を伸ばした。
 烏野の守護神こと西谷にも負けない反射神経を披露した彼に、日向は唖然と開いた口を慌てて閉じた。
「ほら」
「あ、えっと。サンキュ」
 慌ただしく上と下を見比べて、差し出された箱を両手で受け止める。巻かれていたリボンが少々歪んでしまったが、それくらいだった。
 明らかに贈り物と分かる包装紙だというのに、影山は何も言わなかった。
「…………」
 不自然な沈黙が、痛い。
 ここでバレンタインデーの話題が自然と出て来ないところからして、彼はどうやら、ひとつも貰えなかったのだろう。だからこそ自分から切り出すのが嫌なのだと頬を引き攣らせ、日向は肩を落として深々とため息をついた。
「行くぞ」
「あ、待って」
 そのため息をどう解釈したのか、不機嫌に輪を掛けた影山がぶっきらぼうに言った。と同時に地面を削り、早足で歩き出す。
 落とすところだったチョコレートを鞄に押し込んで、日向は慌てて叫んだ。
 三歩ばかり先を行っていた影山が、胡乱げな顔で振り返った。
「なんだ」
「いや、……うん。今日って」
「ンな浮かれてる暇があったら、サーブの精度、上がるようになんとかしろ」
「そっか。やっぱゼロなんだ」
「うっせえな!」
 席の近い女子が昼休みにくれたチョコレートは、義理だというには些か力が入っていた。ただ彼女は日向以外にも数人の男子に同じ物を配っていたので、深読みは厳禁だろう。
 他にも何人か、チョコレート菓子を恵んでくれた。この季節限定だという物の一部は、既に胃袋の中に消えていた。
 だが目の前にいるチームメイトには、そういった出来事は起こらなかったようだ。ぼそりと呟いた日向に過剰に反応して怒鳴り、影山は肩を怒らせて荒く息を吐いた。
 血走った目が怖い。本気で機嫌を損ねている彼に苦笑して、日向は胸を撫で下ろした。
 良かった、とは決して口には出さない。その代わり鞄の中に手を入れて、奥に隠していた小ぶりの箱を掴んで引っ張り出す。
「そういう影山には、じゃーん」
「……あ?」
「しょーがねーから、一個、分けてやるよ」
 彼が取り出したのは、百円均一ショップで売っているような平凡な箱だった。
 掌サイズで、蓋を開ければ真ん中に仕切りがあった。銀色の、弁当で総菜を詰める際に使うようなカップが置かれ、そこに黒々とした不細工な塊がひとつずつ詰め込まれている。
 一瞬、真っ黒に焦げた得体の知れない物体が思い浮かんで、影山は目を瞬いた。
「なんだ、これ」
「…………」
「いって。なにすんだ、ボケ」
 本気でなにか分からなくて訊ねれば、無言で足を蹴られた。弁慶の泣き所を直撃した一発に悲鳴を上げて、彼は膨れ面で拗ねているチームメイトに顔を顰めた。
 眉間に皺を寄せ、改めて注意深く箱を観察する。顔を近づければほのかに甘い香りが漂い、鼻腔を擽った。
「あぁ」
 それで黒い物体の正体を知り、影山は緩慢に頷いた。
 背筋を伸ばし、一寸だけ機嫌を取り戻した日向に首を捻る。これはいったいどういう意味かと目で問えば、意味が理解出来なかった彼はきょとんとした後、不意にぼんっ、と顔を真っ赤に爆発させた。
「あ、や、その。えっと……そう。貰ったの。貰ったんだ、けど。おれひとりじゃ食いきれねーし」
「嘘だろ」
「………………」
「いってえ。だから、バカスカ蹴ってんじゃねーって」
 日向が体格に見合わず大食漢で、食い意地が張っているのは部員全員が知っている。今更そんな白々しい嘘をつかれても到底信じられないが、彼は無言で足を繰り出して無理矢理納得させた。
 暴力に訴えたチームメイトに苦虫を噛み潰したような顔をして、影山はやれやれと首を振って黒髪を掻き上げた。
「そこまで言うなら、貰ってやんねーこともねーけど」
「おう」
 ここは大人しく、受け取っておくべきだろう。
 これ以上蹴られるのは嬉しくなくて、妥協の末に呟いた彼に日向は頬を緩めた。鷹揚に首を縦に振って顔をほころばせ、早く受け取れと甘く香る箱を差し出す。
 影山は二秒ばかり逡巡し、手前のチョコレートの塊をつまみ上げた。
 日向がどきどきしながら見守る前で、どうやらトリュフらしい球体に唾を飲み、覚悟を決めて口を開く。
 ぱくりと頬張って、彼は二度、三度と顎を上下させた。
「……影山」
「ああ」
 最初は威勢が良かった口の動きが、回数を重ねる度にゆっくりになっていった。
 振り幅も徐々に小さくなり、六度目に至ったところで完全に停止する。そうして長い躊躇を経て、彼はごくりと喉仏を上下させた。
 苦労して飲み込み、無表情のまま唇を指でなぞる。
「しょっぱい」
 直後囁かれたひと言に、緊張で強張っていた日向の顔からさーっと血の気が引いていった。
 見る間に青白くなった彼を前に指を舐め、影山は咥内を濯ぐべく分泌された大量の唾液を飲み干した。それでもまだ残る甘さと、それを上回る塩辛さに苦笑をして、今にも崩れ落ちそうな日向の額をちょん、と小突く。
「お前、味見したか?」
「そんな時間、あるわけな……――あ」
 あきれ顔で問えば、墓穴を掘った彼が真っ青になって上唇を噛み締めた。
 大粒の瞳が慌ただしく左右を泳ぎ回り、内股で膝をぶつけあわせて後退を図る。逃げようと画策する彼に苦笑して、影山はいつ落ちても可笑しくない角度で支えられている箱の中身に手を伸ばした。
「ああっ」
 そうして日向が口を開く前に、砂糖と塩が間違えられたチョコレートを口の中へと放り込んだ。
 今度も最初だけ元気よく咀嚼して、吐き気が呼び起こされる前に胃の奥へと押し流す。食道さえ通り抜けてしまえば塩辛かろうとも、甘かろうとも同じと笑い飛ばし、咥内の不快感は考えない事にする。
 目の前では空の箱を手に、日向が泣きそうに鼻を愚図らせていた。
「行くぞ」
 その彼の頭を撫でて、影山は何事もなかったように呟いた。少し無理をして笑いかけ、落ち込んで小さくなっている可愛らしい恋人の鼻をちょん、と弾く。
「来年は、頑張る」
「期待しないで待っててやるよ」
 貰えるとも思っていなかったし、そもそもバレンタインの存在自体忘れていた。
 愛されていると確認出来ただけでも儲け物だと言い聞かせ、影山はこみ上げる嘔吐感を堪えて腹を撫でた。

2013/02/14 脱稿