鶸色

「あ」
 午前最後の授業終了、並びに昼休み開始の両方を告げる鐘の音が鳴った。教師は教科書を両手で音立てて閉ざし、それを合図にクラス委員が起立の号令を掛けた。
 全員が一斉に立ち上がり、礼を済ませて開放感に頬を緩める。その後は両腕を掲げて伸びをする者、財布を手に我先に廊下へ飛び出して行く者、着席して安堵の息を吐く者と様々で、教室内の空気は雑多に賑やかだった。
 菅原も浮かせたばかりの腰をどっかり椅子に戻し、鞄に手を伸ばそうとしたところで不意に高い声を発した。
「どうした?」
 一緒に昼飯を食べるつもりでいた澤村が、耳聡く音を拾って小首を傾げる。両手で大ぶりの弁当箱を抱えたクラスメイトであり、同じ部活に所属するチームメイトの問いかけに、彼は一瞬返答を躊躇して首を振った。
「いや……大地って、甘い物食べたっけ?」
 机の横に引っかけていた鞄を持ち上げ、膝の上へと移動させて肩を竦める。主が食堂へ旅立ち、無人になっている椅子を引き寄せた男子排球部の部長は、妙に歯切れの悪い副部長に眉を顰めた。
 甘い物、と言われても範囲は広い。
「モノによるけど。なんでだ?」
 菓子ひとつを取っても洋風、和風、色々だ。胸焼けするくらいに大量の砂糖を使用しているものもあれば、ほんのり香る程度の甘さだって世の中には存在する。
 だから一概に好きとも嫌いとも言えなくて答えをはぐらかせば、菅原は緩慢に頷いて困った風にため息をついた。
「いや、さ。昨日、母さんがパート先の人に貰ったらしいんだけど」
 差し入れという形で、勤め先の社員が買って来てくれたらしい。だが自宅では誰も食べる人がおらず、捨てるのも勿体ないと今朝方押しつけられてしまった。
 そう言って彼が弁当の次に鞄から取り出したのは、紙で作られた淡いピンク色の容器だった。
 縦横十センチ、高さも殆ど同じくらいの立方体だ。上部の蓋は賞味期限や店名が印刷されたシールで固定されていたが、粘着力が弱いのか端は少しめくれていた。
 誰かが一旦開封し、中身を確認してからまた元通りに閉じたのだろう。なお、白い用紙にプリントされている日付は、昨日のものだった。
「ケーキか」
「そう。食う?」
 店の名前には、澤村も聞き覚えがあった。烏野商店街に昔からある洋菓子店で、味は別段悪くない。決して良いとも言えないが、格別不味いモノは出さないので近所ではそこそこ人気があった。
 大昔、誕生日のケーキをそこで買った覚えがある。ただ高校生になってからは、足を運ぶ機会もすっかりなくなっていた。
 懐かしい名前を見せられて、澤村はふっ、と頬を緩めた。
「大丈夫なのか?」
「昨日はずっと冷蔵庫だったし、保冷剤も一応。ほら」
「ロールケーキか」
 生菓子なので、賞味期限は短い。とっくに過ぎてしまっているのを気にして訊ねた彼に、菅原は今にも剥がれそうだったシールをぺり、と捲った。
 蓋を持ち上げ、底を傾けて角度をつける。中を覗き込んだ澤村は、透明なシートに包まれた円筒状の物体に目尻を下げた。
 箱の両端、ロールケーキを挟む形で保冷剤が置かれていた。クリームがこびりつかないように、切れ目にもシートが添えられている。これらを固定するテープには、剥がした形跡は見られなかった。
 中身を確かめて、誰も手をつけずに一晩放っておかれたらしい。自分の家だったらきっとその日のうちに食べられていただろう、と甘い物好きの母を思い浮かべ、澤村は肩を竦めた。
「スガん家は、みんな辛党だもんな」
「そう。これが激辛麻婆だったら、喜んで食べるんだけど」
「それを差し入れにする人は、流石に居ないと思うぞ」
「えー? そうかなあ……」
 一旦箱を横に置き、菅原は弁当箱を包んでいたハンカチの結び目を解いた。斜めになっていた箸箱を広げて中身を取り出し、両手を合わせて瞑目してから細い先端をちろりと舐める。
 甘そうなロールケーキに一切興味を持とうとしない友人に苦笑して、澤村も持ってきた弁当の蓋を開けた。
 食堂を利用する生徒や、学校近くにある坂ノ下商店に買いに行った生徒なども多く、教室に残っていたのは全体の半分弱だった。その中には騒々しく談笑する女子のグループもあったが、ふたりの会話は聞こえていなかったようで、話しかけてくる気配もなかった。
 いかにも甘いお菓子が好きそうな少女らをちらりと見た菅原に気づき、澤村は食事の手を休めて可愛い色使いの箱を小突いた。
「切れてるからなあ」
「だよなー。俺の所為でお腹壊されても困るし」
「部の誰かにやれば良いんじゃないか。あいつらなら、頑丈だし」
「ひっどいキャプテン」
 めくれ上がって丸くなっているシールを爪で削った彼の言葉に、菅原も緩慢に頷いて頬杖をついた。口の中にあった物を唾と一緒に飲み込んで、向かいから聞こえた台詞にぶっ、と吹き出す。
 口元を手で覆い隠しながら笑う菅原に、教室にいた数人が何事かと振り返った。
 集まった注目に愛想笑いで応え、澤村は半分にまで減った弁当に箸を伸ばした。焼き色も鮮やかな卵焼きを半分に切って頬張り、食い意地が張っている後輩らの顔を順に思い浮かべて目尻を下げる。
 スポーツをやっている男子高校生など、食い気の塊のようなものだ。菅原のような味覚の持ち主の方が稀で、食べるかと出されたら誰だって喜んで飛び跳ねるだろう。
 癖のある部員の中でも突出して元気の良い後輩を思い出して相好を崩し、澤村はまだ背中を丸めている菅原が持ち込んだ箱を撫でた。
「日向辺りなら、一日くらい過ぎてても大丈夫だろ」
「そういえば月島も、ケーキ好きだって、山口が」
「あいつが? なんか似合わないな」
「俺も聞いた時は驚いた。そうだな、可愛い後輩達に恵んでやることにするか」
 明言されたわけではがいが、澤村もロールケーキにさほど魅力を感じなかったようだ。手の掛かる一年生に譲るという方向で話がまとまった頃には、ふたりとも大判の弁当箱は殆ど空になっていた。
 本当は少し食べ足りないのだが、満腹になって午後の授業が眠くなるのも困る。一応受験生だから真面目な顔をしておかないと、今後の評価にも響きかねない。
 腹八分に留め、菅原は荷物を素早く片付けて椅子を引いた。
「気をつけてな」
「大丈夫、手まで食われる事はない」
「それもそうだ」
 思い立ったが吉日、行動は早い方が良い。早速行動に移った彼を見上げた澤村に、菅原は大事な商売道具でもある右手をひらひら揺らした。
 正セッターの地位を一年生に譲った後も、彼は腐ることなく練習に打ち込んでいた。後輩の面倒も、三年生三人の中で誰よりも見ている。特に小さな巨人に憧れて入部してきた自称未来のエースこと日向は、眼に入れても痛くない程のかわいがりようだった。
 日向も日向で、心優しく温厚な菅原に一際懐いていた。
 普段コンビ扱いされている影山が粗暴なので、彼の傍にいると安心するのだろう。それを見た影山が益々機嫌を損ねて日向を虐め、収拾がつかなくなったところに割って入るのも菅原の仕事だった。
 手の掛かる弟が出来たようで、毎日が楽しい。去年よりも遙かに賑やかさが増した部の光景を思い浮かべ、彼は目を細めて微笑んだ。
 大事にケーキの入った箱を持ち、急ぎ足で教室を出る。廊下を行き交う人を避けて階段を上ろうとして、彼は一瞬迷ってから方向転換した。
「部室かな」
 一年生の教室は、四階だ。だが自他共に認めるバレーボール馬鹿の日向が、昼休みをずっと教室で過ごすとは思えなかった。
 彼とは四月の頭に少しだけ、一緒に昼休憩を過ごした事がある。当時、日向たちは澤村によって体育館への出入りを禁じられていた。
 練習場所を求め、部としての早朝練習が始まる前に集合してみたり、昼間の長い休み時間を利用して外でボール相手に格闘したり。労を惜しまず、決して諦めない姿には、菅原も少なからず感じ入るところがあった。
 もし自分が同じ状況に置かれていたら、どうしていたか。最初こそ負けん気を働かせて頑張っただろうが、どこかで心が折れて、腐って、投げ出してしまっていたように思う。
 前だけを見据えてひたむきに努力する日向を目の当たりにしていたからこそ、影山のチーム加入も受け入れられた。レギュラーを後輩に譲り渡した後も、皆に背を向けずに立っていられた。
 口で伝えた事はないけれど、感謝している。彼が動いてくれたから、部に居辛くなっていた東峰も気力を取り戻してくれたのだ。
 空中分解の危機に陥っていた男子排球部を救ったのは、間違いなく日向だ。
「食べる……よな?」
 喜んでくれるだろうか。人から貰ったものであり、あまつさえ賞味期限が丸一日過ぎてしまってはいるけれど、日向は食べてくれるだろうか。
 ふと不安になり、階段の最後の一段を危うく踏み外すところだった。空振りした踵に慌てて片足で飛び跳ねて、菅原は傾いた箱にも冷や汗を流してほっと息を吐いた。
 吃驚した心臓が口から飛び出しそうになって、どきどきが止まらない。体温が一気に上昇した気がして、暑くてならなかった。
 手で顔を扇ぐがあまり涼しくはなく、風力も弱いので熱を追い払うのは難しい。仕方なく窄めた口から一気に息を吐き出して、彼はひとり苦笑して玄関へ向かった。
 知り合いに見られなくて良かった。ほっと胸を撫で下ろし、下駄箱を開けて上履きと下足を入れ替える。履き慣れた靴に爪先を押し込み、菅原は通い慣れた道を急いだ。
 教室で見た時、保冷剤はもうかなり柔らかくなっていた。放課後まではとても保ちそうになくて、なんとしてでも昼休みの間に消費させてしまう必要があった。
「そういえば」
 部室には、日向以外にも誰かがいるかもしれない。
 もしくは日向自体、居ない可能性だってあった。
 やはり先に教室を確認しておくべきだったか。ふと後悔が胸を過ぎるが、菅原は首を振って余計な心配事を頭から追い出した。
 その時は、その時に考えればいい。難しくあれこれ思い悩んでいるから、心だけでなく身体まで重くなってしまうのだ。
 もっとシンプルに、もっと単純に。
 バレーボールが好きで、皆と騒ぐのが好き。時々鬱陶しく思う事もあるけれど、後輩達が慕ってくれるのは嬉しいし、幸せだ。
 影山が居たら、ふたりで分けさせればいい。甘味とは無縁そうな顔をしている天才セッターだが、嫌いな物はないと聞いているので大丈夫だろう。
 これからの烏野高校男子排球部を背負っていくふたりだから、大事にするに越したことはない。なにかと喧嘩の多く、当人らは聞かれた瞬間否定するけれど、彼らの仲がよいのは周知の事実だった。
「……あれ?」
 笑いあう、影山と日向。その光景を脳内に繰り広げた菅原は、和むべき景色だというのに妙にもやっとしたものを感じて眉を顰めた。
 部室棟の手前で速度を落とし、二階を見上げる。ドアは閉まっていた。あちこちから騒々しい笑い声が聞こえて来るので、部室に人がいるかどうかは分からなかった。
 腹の奥の方に、妙なしこりが出来ていた。身体を左右に揺すった程度では落ちてくれず、逆にもっと深い場所に潜り込んで姿を隠してしまう。
 手を伸ばしても届かない場所に逃げられて、彼は身に生じた違和感に奥歯を噛んだ。
「いいや。居るかな」
 そのしこりの正体がなんであるか、まるで見当がつかない。無理に取り除こうとしたら周囲が傷つき血が流れそうで、一瞬に逡巡の結果、彼は忘れることにした。
 気づかなかったフリをして、目を逸らす。見ない。忘れ去り、思い出さない。
 なかった物として蓋をして、鍵を掛ける。わざわざダメージを負いに行く必要はないと、興味本位で穴蔵を覗かないよう自制を働かせる。
 そうして心をすっきりさせたところで、菅原は部室棟の外階段を上り始めた。
 カンカン、と固い音を響かせて駆け上がり、ドアへ手を伸ばす。誰かが思いきり引っ張った所為でネジが緩み気味のノブを掴んで右に捻れば、他の部室よりも少し広い部屋が目の前に現れた。
「ちーっす」
「あ、菅原さん」
 ドアを全開にして中に向かって叫べば、即座に応答の声があがった。
 畳敷きの室内には、小学生かと見まがう小柄な少年がひとり居た。
 黒の学生服の中にベージュ色のパーカーを着込み、邪魔なフードは首の後ろから背中に垂らしている。茶色い頭は寝癖が残ってぼさぼさで、好奇心旺盛そうな眼はまん丸で大きかった。
「おつかれさまでーす」
 嬉しそうな声で名前を呼ばれ、菅原は一礼した後輩に目を瞬いた。他に誰もいないのかと二度も確認してからドアを閉め、パタンと響いた音にさえビクついて背筋を泡立てる。
 挙動不審に伸び上がった彼に、日向は可愛らしく小首を傾げた。
「菅原さん?」
「あ、ああ。いや。日向、……ひとり?」
 まん丸い目できょとんとしながら見上げられて、自分でも自分がよく分からなかった菅原は左手を横に振って右手は背中に隠した。必要もないのにピンク色の箱を日向から遠ざけ、余所を向きながら若干ぎこちなく問いかける。
 どうにも歯切れの悪い先輩に怪訝にしつつも、彼は頷き、腰を浮かせて座り直した。
 傍にはいつも背負っている鞄と、既に空らしい弁当箱があった。他には先日発売されたばかりのバレーボール専門の雑誌が置かれていたので、ここでひとり、食べながら読みふけっていたのだろう。
「さっきまで田中さんがいましたけど」
「へ、へええ。田中、田中ね……田中」
「どうかしました?」
「いや、なんでも。影山、一緒じゃないんだ」
 普段と少し雰囲気が違う菅原に、日向は眉間に浅く皺を寄せて口を尖らせた。上級生から借りた雑誌を引き寄せて膝に抱き、耳に入った名前にぴくりと肩を揺らす。
 急に不機嫌さを増した後輩に、菅原は「おや?」と首を傾げた。
 怪訝に見詰められる前で、日向の頬がリスのように膨らんだ。面白くないと右手で空を叩き、牙を剥いて奥歯を噛み鳴らす。
「別に、おれ、影山とそんなに仲良くないですから」
「そう、なんだ?」
「そうですってば!」
 入部直後からワンセットとして扱われ、なにかにつけてペアを組まされるのが正直気に入らない。柔軟体操も、道具の運び出しや片付け、挙げ句部室の掃除当番までも。
 影山の横暴さに常に振り回されるのは我慢ならないのに、周りは良いコンビだと決めつけて話を聞いてくれない。それが気に入らないのだと声高に主張して、日向は色の抜けた古い畳を力任せに殴った。
 埃が舞い上がり、吸い込んだ彼が咳き込んだ。菅原ははっとして慌てて靴を脱ぎ、閉まっていた窓を開けた。
 涼しい風が額を撫でた。太陽を覆い隠していた雲は東の空へ流れ、明るい日差しが彼の頭上に降り注がれた。
 心地よい感覚にすっと目を細め、菅原は深呼吸の末に憤っている日向の後ろに回り、柔らかい髪をぽんぽん、と撫でてやった。
「そっか。ごめんな」
「……別に、いいですけど」
 軽い調子で謝罪を口にすれば、謝られると思っていなかった彼は途端に口籠もった。そんなつもりではなかったと口の中でもごもご言って、最後は膨らませた頬を一気に窄めて息を吐く。
 見ていてちっとも飽きが来ない表情の変化を笑って、菅原は持っていた箱をすっと前に差し出した。
「んじゃ、お詫び。はい」
「ほえ?」
 あそこでケーキを隠したのは、きっとこの為だったのだ。そんな風に解釈して、彼は不思議そうにしている日向に微笑んだ。
 受け取るよう促し、中身が崩れない程度に箱を揺らす。細かく振動する紙箱から視線を上に流し、日向は恐る恐るといった風情で両手を伸ばした。
 受け取った瞬間、ふわりと甘い香りが鼻腔を擽った。どこかで嗅いだ覚えのある匂いに一瞬息を呑み、彼は慌てた様子で菅原を振り返った。
「菅原さん」
「うん。ちょっとね、過ぎちゃってんだけど。日向はそういうの、気にしない?」
 興奮で見る間に頬が紅潮していく。荒くなった鼻息と語気に相好を崩し、菅原は膝を折ってしゃがみ込んだ。
 何度も貼っては剥がし、を繰り返されたシールはすっかり粘着力を失い、くるりと髭のように丸まっていた。それを押して広げ、掠れ気味の印刷を彼に示す。だが日向は賞味期限よりも箱の中に興味津々で、目はきらきらと輝いていた。
 開けっ放しの口からいつ涎が垂れても可笑しくない雰囲気に、菅原は彼を選んで良かったと心の底から思った。
「食べていいよ」
「やったー!」
 もらい物だというのは、言わなくても良いだろう。無邪気に喜んでいるところに水を差す必要もなくて、無粋な真似はするまいと彼は曲げた膝に頬杖をついた。
 日向は嬉々として箱を床に置き、慎重に蓋を外して中を覗き込んだ。
「ロールケーキ」
「好きか?」
「ホントに良いんですか、おれが貰っちゃって」
「いいよ。俺、甘い物ダメだから」
「あー…………」
 菅原が辛党なのは、バレーボール部内外でも有名な話だった。
 とてもそうは見えないのに激辛系が大好きで、なんにでも唐辛子をかけたり、入れたがるものだから、調理実習で同じ班になった人たちは揃って涙を流すらしい。温厚そうに思えて時々誰よりも辛辣な事を口にしたりするので、油断し難いキャラとしてクラスメイトからも警戒されていた。
 日向も何度か、彼の唐辛子攻撃を受けた事がある。その時の事を思い出し、彼は妙に長い相槌を打って頬を引き攣らせた。
 ロールケーキは、本来の長さの半分サイズだった。
 女性が一人で食べきるには少々量が多いが、万年欠食児童の日向には関係無い。箱を開けた途端に強まったクリームの甘い匂いに喉を鳴らし、そわそわと落ち着きなく膝を揺り動かす。
「いいよ。みんなには内緒な」
「ありがとうございます!」
 澤村には言ったが、他の部員には知らせていない。縁下や影山辺りは何も言わないだろうが、田中や西谷がこの話を聞けば、日向だけ狡いと拗ねそうだ。
 ケーキ好きの月島も、表面上は普段通りだが内心穏やかではないだろう。だから秘密だと人差し指を口に添えれば、日向は満面の笑みで頷き、大声で礼を言った。
 早速ケーキを包んでいた透明なフィルムを外し、両サイドから挟む形で置かれていた保冷剤も退かせる。すっかり柔らかくなっているそれを気まぐれに小突き、菅原はうきうきしている日向に苦笑した。
 そう珍しいものでもないだろうに、彼は右手に掲げたロールケーキを回して色々な角度から眺めていた。
 黄色いスポンジに包まれているのは白いホイップクリームと、小さく切られた蜜柑の果肉。日向の髪色にも負けない鮮やかなオレンジを引き立てて、中央にはカスタードクリームが詰め込まれていた。
 見るからに甘そうで、食べなくて良かったと菅原はひっそり思った。
「唐辛子クリームの、ハバネロ味のケーキとか出ないかな……」
 甘党の月島が聞いたら卒倒しそうな事をぼそりと呟き、頬杖の腕を左右入れ替える。足を崩した彼をもう一度振り返って、日向は頷かれて目を細めた。
「いただきます」
「はい、どうぞ。零すなよ」
「あむっ」
 本当にひとりで食べて良いか念押しで確認し、吃驚するくらいに大きな口を開けてケーキにかぶりつく。反対側から中身が少し押し出されたが、時間が経っているからか、固めのクリームは垂れていかなかった。
 なめらかな生地に歯形を刻み、日向は幸せそうに笑った。口の端についたクリームを指で掬って舐めて、落ちそうだった蜜柑を舌で穿りだしては咥内に招き入れる。
 横から見ていた菅原が、その何気ない仕草にはっと息を呑んだ。
 人が食べている姿は、どこか淫靡さがつきまとう。食べる事も、生殖活動も、種を存続させる点では共通する本能だという話をふと思い出し、彼は咄嗟に顔を覆った。
 変な想像をした自分になにより驚き、ひとりあたふたして赤い顔を隠す。一方で日向はロールケーキに舌鼓を打ち、残り僅かとなった欠片を名残惜しそうに頬張った。
 五分としないうちに完食して、ちょっとばかり膨らんだ腹を制服の上から叩いて目尻を下げる。
「ごちそうさまでした、菅原さん」
「ああ、……うん」
 昼ご飯を食べたばかりだというのに、この小さな身体によくぞ入ったものだ。瞬く間に消えてなくなったケーキの空箱を見詰めて頷いて、菅原は煩悩に支配されている自分の頭を軽く叩いた。
 よく動く赤い舌に、卑猥な想像を働かせてしまった。クリームのついた指を舐める唇に、らしからぬ幻を見てしまった。
 相手は日向だ。後輩の、男の子だ。
 だというのに、性別の垣根を一瞬忘れそうになった。常から可愛い子だとは思っていたが、そういう風に見た事は無かったのに。
「菅原さん?」
「え?」
 艶めかしい指使いと、うっとり細められた双眸。ただ美味しい物を食べているだけだというのに、正反対も良いところのなにかを咥えているところを連想してしまった。
 細切れになっていないロールケーキなど、渡すべきでなかった。そんな後悔に襲われて打ち拉がれていた菅原に、様子がおかしいと危惧した日向が不安そうな顔をした。
 俯いていたところを斜め下から覗き込まれて、前髪が擦れ合う程の近さに目眩がした。
「ひな……っ」
「やっぱ、おれひとりで食べちゃわない方が良かったですか?」
「いや、違う。そうじゃなくて」
 降りかかる吐息までもが甘く、頭がくらりと来た。思わず紅色の唇に目が行って、菅原は大慌てで仰け反って彼から距離を作った。
 早口に言い訳を告げるが、先が続かなかった。
 家族が誰も食べたがらないケーキを処分してくれて助かったのは確かで、彼が負い目を感じる必要はどこにもない。ぼんやりしていたのはもっと別の理由があるのだが、それを本人に伝えるなど、口が裂けても言えるわけがなかった。
 首と一緒に両手も横に振った上級生の慌てぶりに、訳が分からない日向は顔を顰めた。
「なら、いいんですけど」
「あ、日向」
 部室に入ってきた時から、そういえば彼は少し変だった。
 体調不良でなければ良いのだが、彼の事だから聞いてもきっと本当の事は教えてくれまい。後輩に要らぬ心配を掛けさせまいとする副部長に眉目を顰めていたら、不意に甲高い声で名前を呼ばれた。
「はい?」
「クリーム、ついてる」
「えっ、どこですか?」
 返事をし、顔を上げる。菅原は先ほどまでとはまるで違う落ち着いた様子で、自分の口元を指差し言った。
 切り替えが早過ぎて、時々ちょっとついていけない。五秒前のことをもう忘れている彼に目を見張り、日向は急いで顎を拭った。
 右の甲で横に擦るが、特になにも感じなかった。広げた手を見ても濡れておらず、クリームの形跡は発見出来なかった。
「違う、そこじゃなくて」
「え。ええ?」
 可笑しいと首を傾げていたら、菅原の声が荒くなった。責めるような口調に焦りを強め、日向は口の周りをべたべた撫でてみたが、彼の言うクリームはどうしても見つけられなかった。
 異物が顔に張り付いている感じだってしない。だから本当についているのかと、騙されているのではないかという気持ちになった。
 基本優しくて親切な副部長だが、たまに影山以上に意地悪だったりする。今回も茶化して遊んでいるだけかもしれないと勘ぐっていたら、痺れを切らした菅原が色の薄い髪を雑に掻き上げた。
 長めの前髪を後ろに追い払い、普段隠れている額を晒す。泣きぼくろの優しい顔立ちがいきなり年上の男の貌になり、色気を帯びた眼差しに日向はどきりと胸を弾ませた。
「そこじゃなくって」
「っ」
 若干苛立った声で呟き、菅原が利き腕を伸ばした。口元に添えられたままの細い手を捕まえて、手首に指を一周させて握り締める。
 ぐいっと引っ張られ、日向は畳から数センチ尻を浮かせた。
 彼の手が、緩く握られていた日向の指を弾いた。人差し指を選んで関節の内側に潜り込ませ、無理矢理隙間を押し広げて真っ直ぐ伸ばすよう差し向ける。
 突然の事に戸惑い、抵抗も忘れて日向は瞠目した。斜めに寄った前髪や、強引な仕草も、いつもの菅原からは考えられないものだった。
 別人を見ている気分になるが、此処にいるのは紛れもなく烏野高校男子排球部副部長、菅原孝支だ。これまで知っているつもりで知らなかった彼の一面を目の当たりにして、日向は迫り上がってくる震えを止められなかった。
 人差し指の動きを奪った菅原の手が、ほんの少しだけ上にずれた。引きずられる形で日向の手もそちらに流れ、乾いた皮膚が紅色に染まった頬を擦った。
「ここ、だろ」
 菅原の手が、日向の指を使ってクリームをすくい取る。乾いた皮膚に触れた油の感触に、彼は騒然として目を見開いた。
 人を道具のように扱っておきながら、菅原は悪びれる様子は全く無い。ようやく得られた結果に満足そうに微笑む姿に、日向は唖然となった。
 背筋がぞわっと来て、足の先から頭のてっぺん目掛けて何かが駆け抜けていった。
 全身の産毛が逆立ち、真下からハンマーで叩かれたように身体が浮いた気がした。咄嗟に太腿に力を入れて脚を閉じるが、制服のズボンが畳と摩擦を起こし、身体は思うように動いてくれなかった。
「ほら、とれた」
 甘く囁かれた声が耳元でこだまする。脳を麻痺させる低温に奥歯を噛み鳴らし、日向ははっと我に返ると此処に来て初めて抵抗らしい抵抗を見せた。
 脇を締めて肘を引き、囚われた手を取り戻そうと足掻く。だが菅原の力は思った以上に強くて、願いは叶わなかった。
 一寸だけ引っ張られて、日向が抗っているのに気づいた男の目が、すっ、と音もなく細められた。
 一瞬翳った暗い瞳を瞼の裏に隠し、
「ン」
「っ!」
 そのまま菅原は首を前に倒し、おもむろに口を開いた。少し前まで日向の鼻の横にこびりつき、今し方掬い取られたばかりの白いクリームに向かってゆっくり舌を伸ばす。
 そうっと、甘い香りを放つ指先に絡ませる。
 ねっとりと濡れた感触を肌に浴び、日向が声にならない悲鳴を上げた。
 大仰にビクッと肩を跳ね上げるが、手首から先はびくともしない。四肢を強張らせて身を竦ませた後輩に気づいているのか否か、菅原はたっぷりの唾液を塗してクリームを丁寧にこそぎ落としていった。
 くちゅ、という濡れた音がふたりの間にこだまして、いつまでも耳に張り付いてその場に留まり続けた。
「あまい」
 一頻り指を舐り終えて、やがて菅原は身を引いた。透明な糸を千切って彼の爪で唇を拭い、手首を開放してしっとり微笑む。
 甘い物は苦手だった。辛い物が好きだった。
 だけれど、これだけは。
「す、すが……さっ」
「たまには悪くないな、こういうのも」
 気が動転したまま、日向が湿った手を引っ込めて胸元に抱え込んだ。熟したリンゴよりも赤い顔をして、呂律が回らぬまま声を張り上げる。
 動揺激しい彼を見据え、菅原は快い甘さに屈託なく笑った。

2013/02/02 脱稿