Camomile

 夢を見ていた。
 石を拾う夢だ。掌よりも小さく、けれど握ればずっしり重い石をひとつずつ、それも数を数えながら懐に集める夢だった。
 左腕を横に寝かせて大量の石を抱え込み、その上に右手で拾った石を次々に重ねていく。一から始めて十、二十と数を増やしていくのだけれど、足元に積み上げられた石はそれこそ無数に存在し、到底ひとりで運べる量ではなかった。
 けれど夢の中の自分は何故かそれが己に課せられた責務だと認識し、滑稽だと人が見れば笑いそうな愚行を黙々と繰り返していた。
 額には汗が玉を成し、長い髪が湿った皮膚にべったり張り付いて不快でならない。だのに振り払いもせず一心に石に手を伸ばし、肩がもげそうになりながらも必死になって石を数え続ける。
 何のために。
 理由は分からない。ただそうしなければならないのだと、後ろから追いかけてくるなにかに急き立てられて身体は勝手に動く。しかし腕は抱えた石の重みに耐え切れなくなり、やがて折角拾ったものをその辺にばら撒いて前のめりに倒れこんでしまった。
 衝撃が走り、掴もうとしていた石が指に弾かれて遠くへ転がっていった。どこまで数えていたのかも一瞬で忘れてしまい、傷ついたぼろぼろの体躯をどうにか支えて顔を上げれば、遥か彼方の地平線のその先まで、大地が石に埋め尽くされているのが見えた。
 他にはなにもなかった。
 茫漠とした砂漠を眺めるよりも、より強い絶望感が胸を締め上げる。きりきりと痛むのは心臓か、それとも有るのかどうかすら分からない魂か。
 天を仰げば一面の闇が頭上を覆い、陽の光どころか星のひと瞬きさえ見出すことが出来ない。だのに手元だけは光源無しに明るくて、奇妙だと首を捻って目を凝らせば、どうやら地表に散りばめられた無数の石が微かながら発光しているようだった。
 そのひとつに手を伸ばそうとして、疲労を訴える腕が反旗を翻した。
 日頃はなんでもない些細な仕草ひとつでさえ、関節がぎしぎし軋んで四肢に激痛が走る。されど懸命に堪えてなんとか掴み取れば、まるで獣に噛み付かれたかのように指先がズキンと痛んだ。
 さすがに我慢も限界で、反射的に掌を開いてしまった。石は指の間を転げ落ち、地面に立てた膝先に沈んだ。
 咄嗟に左手で右腕を庇い、胸に引き寄せて顔を顰める。眉間に深く皺を寄せて歯を食いしばっていたら、どこからともなく奇妙な笑い声が聞こえてきた。
 これまで風の囁きひとつさえなかった空間が、瞬く間に不可思議で不気味な嘲笑に覆い隠された。
 但し前後左右、どこを見ても人の姿はない。石に埋め尽くされた大地に佇むのは、英雄と歌に謳われた男ひとりだけだった。
 彼はよろめき、立ち上がった。相変わらず節々が酷く痛むけれど、遠くまで見渡すにはそれ以外方法がなかった。
 無理を言わせて、ふらつきながら二本足で大地を踏みしめる。途端に指先に生じたのに似た痛みが素足に襲い掛かり、男はみっともなく悲鳴を上げるとその場から飛び退いた。
 しかし着地した場所でも似たような痛みを覚え、たまらず彼は尻餅をついた。大の大人が情けない醜態を晒せば、響いていた笑い声は一段と大きくなった。
 不愉快極まりない声に心は波立ち、苛立ちが徐々に膨らんでいった。しかし当り散らす相手もなくて、持て余した感情の捨て先を求めた男は悔し紛れにそこにあった石を殴りつけた。
 その時だった。
 ぐえ、と誰かが辛そうな呻き声をあげた。
 自分が発したものではない。そんな当たり前のことを認識すると同時にハッとして、男は俯き、右の拳を横にずらした。
 石があった。先ほどまで命を削りながら拾い、数え上げていた石だ。
 だが、よくよく見ればそれは石などではなかった。
 彼は呆然とし、ぽかんと口を開けたまま停止した。瞬きも忘れて瞠目し、石の表面に刻まれた文様を食い入るように見つめ続けた。
 そこにあったのは、顔だ。
 苦痛に歪んだ人の顔だった。
 ぞっとした。血の気が引いた。悪寒に襲われ、全身の産毛が逆立った。
 瞬間、辺りがこれまでと比べ物にならないくらいに嘲笑の渦に飲み込まれた。
 目を見張る。息を呑む。騒然とする。鳥肌が立つ。ぞわぞわと、得体の知れないものが腹の内側から這い上がってくる感覚に見舞われる。
 両手をつっかえ棒代わりにして胸を反らした状態で座り込み、呆気に取られたまま無数の笑い声を聞く。これは石の声だ。無様に地に伏す男を嘲り、罵り、見下す数多の魂の声だ。
 志半ばで斃れ、屍と化した者たちの声だ。弔いの花も奉げられずに踏みつけられ、恨みを吐きながら朽ちていった同胞の声だ。
 拾おうとしても拾いきれず、数えようとしても数え切れない。
 それはかつて、彼が見捨てた人々の顔。救えなかった者達の顔。巻き込まれ、逃げ惑う中で命を散らすしかなかった罪なき民草の顔に他ならなかった。
 ルフの流れに戻るのも叶わず、こうして自ら歩く事すら叶わぬ石となるしかなかった哀れな人間の魂だ。今もこうして怨嗟のことばを吐き、救おうとして果たせずにいる男を嘲り笑っている。
 否、或いは。
 呼び込もうとしている。
 聞きたくなかった。
 目に見えぬ闇が押し寄せてくる。天が狭まる。空が落ちてくるようだった。
 耳を塞ぎ、固く瞼を閉ざして唇を噛み締めても尚、声は止まない。六感を封じたところで、拭いきれぬ憎悪は皮膚をじわりじわりと蝕み、内側に潜り込もうと蠢いていた。
 このままでは食い尽くされる。それが分かるのに動けない。腕があり、足があり、胴でひとつに繋がっているというのに、さながら達磨にでもなってしまったかのように指一本ぴくりとも反応しなかった。
 石を、拾っていたはずだ。
 ひとつでも明るい場所に連れていってやりたくて、懸命に掻き集めていた。
 だが抱え切れなかった。二本の腕ではとても足りなかった。分かっていたはずなのに、現実を突きつけられると絶望したくなった。
 漆黒に濡れた声がこだまする。立ち竦む彼の傍らに、ごんっ、と何かが落ちてきた。
 直撃すれば頭蓋が陥没していたかもしれない。それくらいの勢いだった。
 眼を上向かせる。またひとつ、丸く平たいものが降って来た。
 それもまた、石だった。
 たったひとつも拾いきれぬうちから、次々に新しい石が運ばれてくる。既にこの場は飽和している。だのに後から、後から追加されて、上に、上にと積み上げられていく。
 ここは墓場だ。光に見捨てられた者達が行き着く、最果ての闇の底だ。
 救いたいと思った気持ちに偽りはない。助けられたらとの願いに嘘はない。
 さりとて、結果はどうか。
 偽善だったのではないのか。正義ぶって格好つけただけであり、見栄を張って虚勢を振りかざしてきただけではないか。
 真に守りたかったものはなんなのか、それすらも思い出せない。血まみれの手を握り締めて、天に挑んだところで剣を振りかざす先もない。
 望んで王の力を手に入れて、求められるままに覇道の道を進んだ。先導者がいたわけではない。自らがそうなるべくして歩んできたつもりだった。
 だが、思い知らされた。突きつけられた。
 何故あの時、あの場にマギは現れてくれなかったのか。
 七体のジンを率いようとも、所詮王はただの人。尽きていく命の炎をただ見守るしかなく、悔恨と悲嘆に暮れるより他に術がなかった夜の叫びは、どうして創世の魔法使いに届かなかったのだろう。
 黒々とした炎が辺りを包み込む。石の嘆きはまだ止まない。持ちえぬ腕を伸ばし、彼らは世界に対して恨み、妬み、謗りを吐き続ける。
 絡め取られる。男は動かぬまま、晴れる日の来ない空をただ無為に見つめていた。
 その頬につ、となにかが零れた。
 違う。届いていたのだ、声は。求めるものとは違う形で音もなく忍びより、後ろからそっと差し出されていた。
 そして己は、縋るものを欲していた弱い心は、呆気ないほど簡単に、迷うことなくその手を握り返してしまった。
 足元が崩れていく気がした。石の重みに耐えられなくなった世界が罅割れて、更に奥深い場所に沈み行こうとしていた。
 早く逃げなければ巻き込まれる。足に、腕に、腰に、首にまとわりつく闇を払い除けなければ、諸共に奈落へと堕ちる未来しか待っていない。
 だが動けなかった。動きたくなかった。
 がくりと膝が折れた。
 羨んでしまった、その幸運を。あの場にソロモンの知者が在ったならと、ありもしない幻想を抱いてしまった。
 耳元で声がする。憎かろう、悔しかろうと囁きかける声がする。
 心がざわついた。波立った。嵐が来る。暴風雨が吹き荒れて、全てを木っ端微塵に打ち砕き、押し流して去っていく。
 正しかったのだろうか、これまで歩んできた道のりは。
 この選択で間違いなかったのだろうか。国を造り見えざる敵に挑む覚悟を決めたことは、誤りではなかったか。
 己のエゴを押し付けて、望まぬ御輿を皆に担がせているだけではないだろうか。
 地面が崩れていく。がらがらと音を立てて、拾ってやれなかった石とともに自らも落ちていく。
 天地が逆になった。だがもうどちらが上で、どこが下なのかも分からない。浮き草の如く流されるまま彷徨って、どこかの波打ち際に投げ捨てられるのを待つばかり。
 されど、知らぬうちに手を伸ばしていた。
 掴むものを欲していた。
 握り締めても砕けないなにかを捜し求めた。
 指が空を掻く。もがき、足掻く。窒息しそうな濃い闇の中で、押し潰されそうな深い澱の底で、一筋の光を捕まえようと腕を伸ばす。
「シンドバッドさん」
 刹那。
 ハッと、彼は顔を上げた。
 瞼を開けば紫外線が網膜を焼き、温い風が汗ばんだ肌を撫でて駆け抜けていく。反射的に顎を引いて背を丸めた彼を前に、利き手を囚われた少年は困った顔をして小首を傾げた。
 動きに合わせて金紗の髪が揺れ、首に巻きつけた赤い紐が鎖骨の上を流れた。
 袖のない紺色のチュニックに白い上着を羽織り、腰には緋色の帯を二枚重ねて結んでいる。片足にだけ膝まで黒い布を被せており、たくし上げられた上着の袖が肩の位置でもこもこ膨らんでいた。
 絹にも負けない白い肌には切り傷が目立ち、合間に赤黒い打撲の痕が散りばめられていた。見るからに痛々しい限りだが本人は至って平気な顔をしており、むしろ捕らえられたままの手首を気にして頻りに身を捩っていた。
 角のように跳ねた毛先はひっきりなしに左右に踊り、まるで生きているかのようだ。実に生き生きとした輝きに目を奪われて見入っていたら、視線が合わないのを気にした少年が僅かに身を乗り出した。
「大丈夫、ですか?」
 遠慮がちに問われて瞬きを繰り返し、シンドバッドは心配そうに覗き込んでくる琥珀色の瞳に眉根を寄せた。
 なにが、と言いそうになってようやく右手の中に何かがあるのに気付く。ずっと力いっぱい握り締めていた拳を解けば、ほんのり朱色に染まった細い手首が姿を現した。
「あ、……すっ、すまない」
 指の形がくっきり痣になって残っている皮膚に驚き、シンドバッドは声を高くした。背中を預けていた太い幹から前に出て、立ち上がろうとしてはたと我に返る。
 中腰のまま周囲を見回せば、緑に覆われた心地よい空間が広がっていた。
 裾の長い上着が芝を擦り、さらりと流れた布が肘から先を覆い隠す。身に付けた金属器が鈍い輝きを放ち、主の遅い目覚めを叱った。
 一瞬此処が何処なのか分からなくて戸惑い、左手を頭にやってシンドバッドは首を振った。まだ身体の各所に残っている睡魔や疲労感を駆逐して深呼吸すれば、ようやく自分が現実に舞い戻ってきたと実感できた。
 悪い夢の続きを見ている錯覚を振り払い、右手首を撫でている少年を改めて見る。彼は目が合ったのを嬉しがり、屈託のない笑顔で口元を綻ばせた。
「お昼寝ですか?」
「そんなところかな。まさか君に見つかるとは、思ってなかったけれど」
「俺も、シンドバッドさんがこんなところにいるなんて、吃驚しちゃいました」
 無邪気に問われ、シンドバッドは鷹揚に頷いた。踏みそうな場所にある胴衣の裾を払い除けて、地面から突き出ている根を避けて身を起こす。途中一度ふらついたが、咄嗟に木の幹に手をついたので無事だった。
 事無きを得てほっとして、前に向き直れば金髪の少年が変な顔をしていた。肩幅に広げた両手で空気を握り潰した彼に小首を傾げていたら、彼は頬を朱に染めてサッと腕を背中に隠した。
「アリババくん?」
「いえ、気にしないで下さい」
 奇妙な動きに怪訝にしていたら、追求を拒む台詞を早口で捲くし立てられた。首もぶんぶん振りながら告げられて、その焦り具合にシンドバッドは眉間の皺を深くした。
 まるで、落ちて来る何かを受け止めんとしているようだった。指を揃えて真っ直ぐ伸ばし、僅かに内側に向かって傾斜させたポーズを思い出して顎を撫で、彼は拗ねているようにも見える少年の横顔に肩を竦めた。
 当人の求め通り深く考えないことにして、シンドバッドは腕を頭上に伸ばした。
 尻に張り付いていた緑の葉がひらりと地面に落ちて、鍛え抜いた屈強な上腕までもが陽の光に晒される。背筋を伸ばせばその背丈はアリババの遥か上を行き、ひと回りも年下の少年は首を後ろに倒して見上げなければならなくなった。
「また抜け出してきたんですか?」
「また、とは酷いなあ。……その通りなんだけどね」
 そんな彼の質問に、シンドバッドは苦笑した。ターバンの上から頭を掻いて呟き、声を潜めて舌を出す。茶目っ気に溢れた表情に、アリババは微笑みながらため息をついた。
「知りませんよ。ジャーファルさんの雷が落ちても」
「なあに、案ずるには及ばないよ。既に落ちるのは確定しているからね」
「それ、余計にダメじゃないですか」
 今頃城では、仕事の鬼である政務官殿が血眼になってシンドバッドを探していることだろう。運良く抜け出して来られたと胸を張った男の言葉に、長年彼の著作物を愛読してきた少年は益々肩を落とした。
 がっくりしているアリババを呵々と笑い飛ばし、七海の覇王として知られる若きシンドリア国王は胸の前で悠然と腕を組んだ。手首や指先を飾る金属器が光を集めて目映い輝きを放ち、従えるジンの数で到底及ばない少年は眩しそうに額を覆った。
 掌を外向きにして目を庇った彼ににこりと微笑み、奇妙な場所で会ったものだとシンドバッドは改めて上空に視線を走らせた。
 南洋の海に浮かぶ真珠の島、それがこのシンドリア王国だ。
 島の外郭は絶壁に覆われ、中に入るには南側に唯一設けられた岩の門を潜り抜けるしか他にない。その門も岩礁に囲まれており、定められたルートを通らなければ簡単に座礁するという非常に厄介な場所にこの国はあった。
 元々耕作に適した土地は少なく、自給出来るものといえば暑さに強い果樹くらい。雨が多く、頻繁にハリケーンにも襲われる。食料は輸入に頼らざるを得ず、故に交易がこの国の最大の収入源だった。
 ここに国が建ってから、まだ十年と経っていない。最初は誰もが半信半疑だったはずだ。ところが赤子がようやくひとりで立てるようになる年数で、若き王は南海の小国を世界に比類なき豊かな国に変えてしまった。
 その敏腕ぶりには恐れ入るより他にない。今や世界に存在する全ての国が、シンドリアとその王シンドバッドを無視出来ずにいた。
 それもこれも、とある日を境にして世界中に出現した奇怪な塔のお陰だった。
 迷宮。その不可思議な建造物に立ち入った者は、これを攻略しない限り二度と外には出られない。中で待ち受けるは様々な敵、罠、そして財宝。
 ジンの金属器というものがある。それは迷宮攻略を成し遂げた者にしか与えられない、王の証だった。
 通常、王となる人物を迷宮にいざなうのはマギと呼ばれる魔法使いの役目とされていた。ここに居るアリババも、そのひとりであるアラジンに導かれてアモンの力を手に入れた。
 世界には他にも多数の迷宮攻略者が存在している。彼らは概ね煌帝国かレーム帝国のどちらかに属し、そこで囲われているマギの導きを受けていた。
 例外があるとするなら、それこそがシンドバッド。彼はマギを必要としないまま迷宮を旅し、幾多の困難を乗り越えて栄誉を手に入れた。
「それで、アリババくん。君はどうしてここに?」
 シンドリア王国は狭い。その狭い国土は、王城を北に据えていくつかのブロックに分かれていた。
 玄関口に当たる港湾部、居間に相当する商業区、台所とも言うべき果樹園に、寝室代わりの居住区。そして最奥にあるのが、王やその臣下が暮らす白亜の宮殿だ。
 彼らはそんな王宮近くにある、未開発の原生林の中にいた。
 耳を澄ませば鳥の囀りが聞こえ、風が木々を揺らす音色が心地よく響く。獣が餌を求めて枝から枝へ飛び移り、船旅の安全を祈願する法螺の音が風に乗って空へ舞い上がった。
 あと少しすれば、今度は終業の鐘が厳かに鳴り渡るだろう。シンドバッドはそれまでここで時間を潰すつもりなのか、樹齢三百年はくだらない木の根元から動く様子がなかった。
 アリババは右の爪先で地面を蹴り、背中で結んだ両手で腰を叩いた。
「俺は、まあ、色々です」
 言い難そうに目を逸らし、言葉を濁して口篭る。その態度に「おや?」と首を捻り、シンドバッドは興味深そうに目を細めた。
 明朗快活に形を与えたような活発さが薄れ、困ったような、戸惑っている雰囲気が感じられた。妙に歯切れの悪いアリババに眉目を顰め、この国の最高権力者は剃り残しが気になる顎を撫でた。
 彼の出身地であるバルバッドは、シンドリアとも縁深い国だった。
 生まれたての雛に等しい小国と対等に接しようとする国など、そう多くはない。大多数は下に見て、無謀な真似をと心の中で嘲り笑っていたに違いない。
 だが彼の国の王だけは違っていた。バルバッドの先王たる人物は夢を語るシンドバッドに熱心に耳を傾け、その情熱に根負けしたか様々な知恵を与えてくれた。
 そんなシンドバッドの師が、アリババの父親だった。
 金の髪も、瞳も、正当な王家の血筋にある証だ。だが彼は事情によりスラムで生まれ育ち、一時期は城で生活していたもののある騒動を境に出奔し、各地を点々と彷徨い歩いて生きてきた。
 苦労の多い人生は、シンドバッドと同じだ。苦楽を共にする仲間に恵まれた点や、迷宮を攻略してジンの金属器使いになったところまでそっくりだ。
 たが違う。
 ふたりの道程には、決定的に異なる部分が存在している。
 言い渋っている横顔を見ているうちに、彼以上に無邪気でありながら、時に落ち着いた老齢の賢者を思わせる表情をも見せる存在が思い浮かんだ。にこにこと屈託なく笑いながらも、心の片隅では冷めた目で世界を眺めている、創世の魔法使い。
 アラジンは何を想い、何を求めてアリババを王に選んだのか。何を成す為、何をさせるために、彼を――
「……師匠が、ですね」
「シャルルカンが、どうかしたのかい?」
「俺、お酒は苦手です」
 考えても栓ないのに、思い巡らせずにはいられない。暗い声が心の中で渦を巻き始めた矢先、ぼそりと呟いたアリババにシンドバッドは目を瞬いた。
 前と後の台詞には、一見すると繋がりがないように思われた。しかしシンドバッドは名前が出た男を良く知っている。剣術のみに限ればこの国でも随一の腕を持つ、軟派で不真面目に育ってしまった人物だ。
 いったい誰を手本にしたのか、毎日のように執務室に押しかけては飲みに誘ってきたシャルルカンを思い出し、シンドバッドは肩を落とした。大きな手で顔の下半分を覆い隠し、吐息で掌を湿らせてふるふる首を振る。
 そういえば近頃はあまり部屋に顔を出さなくなった。どうやら彼は、多忙極める国王から愛弟子へと誘う相手を変更したらしい。
「後でよく言い聞かせておこう」
 シンドバッドの傍にはお目付け役のジャーファルが控え、不謹慎な事を言おうものなら実力行使で反省を強いてくる。とばっちりを受けた過去を振り返って、彼は苦笑した。
「いえ、別に師匠と食事をするのは嫌じゃないんです。ただ、なんていうか」
 ため息混じりのひと言に、アリババは師が叱られると思ったらしい。慌てた様子で首と手を同時に左右へ振り、言葉を濁して頬を掻いた。
 大勢での食事は楽しい。酒が入れば嫌な事も忘れ、心が軽くなる。
 だが一時的な酩酊による快楽の先には、大抵手痛いしっぺ返しが待っている。翌日は激しい頭痛に見舞われるし、高揚感から箍が外れて常識的に有り得ない行動を取ったりもする。しかもその際の記憶は綺麗さっぱり失われており、後日周囲から話を聞かされて羞恥心に身悶える羽目に陥るのだ。
 アリババは少量飲んだだけでも直ぐに酔う上に、なにかと人に絡みに行く傾向があった。愚痴を零し、言わなくてもいいことまで言った挙句、大泣きしてそのまま眠ってしまうこともあった。
 一方のシャルルカンはといえば、こちらは弟子と対照的に酒に強い。幾らでも飲む。そしてへべれけに酔っ払った挙句、矢張りそのまま寝入ってしまう傾向があった。
 酒は飲まないと固辞し続けた結果、酔い潰れた師匠を担いで城まで帰るという経験が既に五回を越えているアリババにとって、シャルルカンとの夕食は楽しいが後が辛いものと化していた。
 とはいえ、誘われたら行かないわけにはいかない。毎回のように断って、彼に避けられるようになったら修行に支障が出かねないからだ。
 けれど許されるものなら、同席したくない。だから誘われないように、その時間が迫れば顔を合わせないよう逃げ回ることにした。
 無論終業の鐘まで一緒に居る時は止むを得ないけれど、そうでない時はこれでどうにか乗り切れた。シャルルカンも早く酒場に出向きたいから、見当たらない弟子をしつこく探し回る真似はしない。翌日何処に居たのかと聞かれたら、アラジン達と一緒だったと言えば大抵許された。
 そんな事情で、今日もアリババは隠れる場所を探して城の外に足を運んだ。モルジアナがマスルールと修練している森に程近い空間は、城下町と違って人の気配に乏しく、驚くほど静謐で濃密な空気に満ちていた。
 よもやそこにシンドバッドが居ようとは、夢にも思わなかったが。
「師匠を怒らないでくださいね」
「君がそこまで言うのなら、うん……。シャルルカンとは、上手くやっているようだね」
 首を竦めて恐縮している少年を見下ろし、シンドバッドが歯切れ悪く呟いた。
 尻窄みに小さくなる声が本人も気に入らなくて、途中に咳払いを挟んで話題を変える。たまに銀蠍塔で熱心に修行に励む姿を見かけると言えば、アリババは驚いたように目を丸くし、照れ隠しに首の後ろを引っ掻いた。
「師匠の剣って、本当に凄いです」
「それだけが取り得だからな」
「そんなことないですって」
「ほう? 例えば?」
「え、えーっと……」
 意地悪な質問に、彼は目を泳がせた。組んだ腕を上下に揺らしたシンドバッドは必死に言葉を探しているアリババに苦笑して、おもむろに利き手を伸ばした。
 空を裂いた指先が、ひと房だけ重力に反発している毛先を撫でた。根元を擽るように梳き、形良く丸みを帯びた後頭部を辿って襟足をなぞって去っていく。
 急に触れられて目を丸くした少年は、喉元まで出掛かっていた言葉を見失って唇を浅く噛んだ。
 まるで言おうとしていた台詞を感じ取り、先手を打って封じ込められたような気分だった。
 シャルルカンの背中は、頼もしい。彼の言葉は力強い。
 その太刀筋は凛として、しなやかで且つ強靭だ。迷いがなく、揺るがない。
 誰かと同じだ。
 酒を飲みに行った先でシャルルカンの言葉を聞き、納得した。彼が目指したのはシンドバッド。王を手本とし、王に負けない唯一を得るべく剣技に磨きをかけてここまで来たと。
 だから彼は王を誇りに思うと共に、王に奉げる自らの剣術にも絶対の自信を持っている。シャルルカンもまた、憧れを力に変えたひとりだ。
 アリババの目の前にいる人物は、世界中から羨望の目を向けられる存在だった。
 七つの迷宮を踏破し、国を打ち建てた。その経緯は、本人の筆による冒険単に詳しい。アリババは幼少期、この物語を読むことで世界の広さを知り、迷宮攻略者となる夢を思い描いた。
 いつか必ず叶えてみせると、幼心に胸に誓った。シンドバッドなる人物の勇猛果敢さに魅せられ、彼のようになりたいと苦手だった剣術の授業も真面目に受けるようになった。
 だが実際目の当たりにした七海の覇王は、確かに冒険書の中にいた英傑に他ならなかったけれど、同時に脆く儚いひとりの人間だった。
「ともあれ、うまくやっているようで良かったよ。もっとも、あんまり心配はしていなかったけどね」
「シンドバッドさん?」
「君は誰とでも、すぐに打ち解けてしまえるから」
 明るい調子でシンドバッドが告げる。にこやかな笑顔が、けれど少し無理をしているように感じられた。
 朗らかな表情で目を細められても、アリババはすぐに頷けなかった。そんなことはありません、と言いかけた唇は痙攣を起こし、結局何の音も刻まぬまま閉ざされた。
 俯いてしまった少年に二度瞬きして、寝ている間に着崩れた上着を直していた男は眉を顰めた。
「アリババくん」
「いえ、すみません。なんでもありません」
 名前を呼べば彼はふるふる首を振った。耳に掛かる髪を掻きあげて呟くが、台詞に相反して表情は暗かった。
 奥歯に物が挟まったような口ぶりに、シンドバッドの眉間に皺が寄った。
 怪訝に歪められた眼を盗み見て、アリババが決まり悪そうに唇を舐めた。しつこく金の髪を掻き回して一本引き千切り、頭皮に走った痛みで踏ん切りがついたのか深くため息を零す。
 顔の前に移動した彼の右手首には、依然うっすらとだが痣が残されていた。
 輪郭はかなり朧げになっているものの、周辺の白さと比べるとかなり目立つ。なかなか消えない赤みに少年は肩を竦め、原因となった男は息を呑んだ。
 誰とでも打ち解けられるわけがない。現にここに、深い闇を抱え込んでいながらその片鱗すら見せてくれぬ男がいる。
「……痛むのかい」
「いいえ、全然。平気です」
 控えめに問うたシンドバッドにまたもや首を振り、アリババは左手で手首を覆い隠した。指を一周させて緩く握る姿は、シンドバッドが作り出した傷を上書きして消そうとしているように映った。
「……――」
 その憂いを帯びた表情を下に見て、シンドバッドは開こうとした口を閉ざした。
 何が言いたかったのか、自分でも分からない。ただ侘びを重ねるつもりでなかったのは確かで、そこだけはアリババも気取ったのだろう、小さくはにかんだ。
 眠っている彼に近づいたのは、純粋な好奇心からだった。
 十年も前から憧れ続けた相手に少しでも近づきたいと思う気持ちは、押し殺し切れなかった。失礼を承知で近くから観察したいという誘惑に負けて、足を忍ばせ息も潜めた。
 楽しい夢を見ているわけではないようだった。
 苦悶に耐える表情だった。額に汗を浮かべ、目尻には涙が乾いた痕があった。引き結ばれた唇は痛々しく、握り締められた拳は力みすぎて筋張っていた。
 声もなく、必死になにかを堪えていた。嗚咽さえ漏らさず、外に吐き出す真似もせず、ただひたすらにひとりで怺えていた。
 何故、と思った。今すぐ揺り動かしてやるべきかと考えた。
 けれど出来なかった。この顔を知っていると感じた。覚えがあると胸を衝かれた。
 同じだ。バルバッドでカシムを喪い、煌帝国の艦隊から逃げるようにシンドリアへ渡った直後の自分と、そこで眠るシンドバッドの表情は、殆ど同じと言っても過言ではなかった。
 暗記するまで読み込んだ冒険譚は、胸をときめかせ心を奮い立たせるに十分な内容だった。子供でも楽しめるように平易な文章で記されており、悪人が登場しても最後は正義に打ち負かされる筋立てが大半だった。
 難敵が多数出現しても、シンドバッド側の勝利は最初からほぼ確定していた。しかしよくよく注意しながら読んでいけば、あるシーンまで一緒にいた冒険者が、気付かないうちに表舞台から姿を消し、以後触れられずに終わる話もいくつかあった。
 七つの海の冒険を語り終え、数年の空白の後に出版されたシンドリア王国建国譚。だがそこに描かれていたのは、実体験に基づいた臨場感溢れる活劇ではなく、子供たちが望むままに加工された夢物語だった。
 それはそれで面白かったし、国の内情を大っぴらに公表できない裏事情も分かる。ただ紙面に記されていない空白期間になにがあったのかについては一切触れられておらず、あまりに飛躍しすぎた内容に引っ掛かりを覚えたのは間違いない。
 一介の冒険者が国を興すのに、いったいどれだけの知恵と忍耐が必要であったか。それは想像するより他になく、そしてアリババには思いつかない。
 だから知りたい。教えて欲しい。
 だが聞いてよいものかどうかが分からない。知って、自分がなにをしたいのかも分からなかった。
 冒険書には哀しいシーンが少なかった。辛い別れは曖昧にぼかされて、話の主題から外されていた。
 けれど皆無だったはずがない。アモンの迷宮が崩れ落ちる中、そこに残る選択肢を選び取った男を思い出す。シンドバッドはあんな場所を、七つも駆け抜けたのだ。似たような、或いはもっと辛い経験をしていたとしても不思議ではない。
 それなのに彼はおくびにも出さない。ひとりじっと耐え、愚痴として吐き出すこともなく、胸に押し留めて積み上げている。
 壁があるのだ、ここに。
 透明で、とてつもなく分厚く頑丈な壁が、アリババとシンドバッドの間には存在していた。
 そんな状況で、どうやって彼と打ち解ければいい。表面上の馴れ合いだけで片付けるには、シンドバッドの存在は大きすぎた。
 古傷に歪む彼を放って去ることも出来ず、かといって無理に起こすことも出来ず。ただ見ているしかないもどかしさに泣きそうになっていた時、宙を彷徨い右手が伸ばされた。
 掴むものを欲して痙攣する指先に、反射的に手を伸ばそうとした。握り返してやりたくて、大丈夫だと大声で叫んでやりたかった。
 けれど、それも出来なかった。
 その手が誰に向けて伸ばされているのかも、アリババには分からない。彼が求める相手が自分でない可能性は非常に高く、余計に絶望させてしまうのではないかと怖くなった。
 シンドバッドを深く知っているようでまるで知らなかった自分が、軽々しく掴んで良いはずがない。その資格がないのに、偉そうにしゃしゃり出ていくのは憚られた。
 躊躇する間、全く動けなかった。結果、シンドバッドの方から強く手首を握られた。
 折れそうなほどに強く、強く。
 正直な話、かなり痛かった。嫌だと振り払いそうになった。寸前で思いとどまり歯を食いしばっているうちに、眉間の皺が綻んで瞼が開かれた。
 瑪瑙色の瞳が虚空をなぞり、数回の瞬きの末にアリババを見た。頬を伝った一滴の涙には、気付かなかったフリをした。
「俺は、……なにか、言っていたのかな」
 アリババが指の形の痣を撫でる。遅い動きを目で追って、シンドバッドは遠慮がちに問うた。
 思い当たる節はあった。夢の内容は仔細に覚えていないけれど、酷く気分が悪くなる嫌な感触だけは今も色濃く残っていた。
 無意識に腹をまさぐったシンドバッドに、アリババは首を振った。
「いいえ。なにも」
 その言葉に嘘はない。彼は本当に、うめき声のひとつも発さずに耐え忍んでいた。
 心の強さを称えると同時に、哀れに感じずにはいられない。彼を慕う人は大勢いるのに、どうしてシンドバッドはその辛さや苦しさを誰にも吐き出せずにいるのだろう。
「そうか」
「疲れてるんじゃないですか。顔色だって、あんまり良くないですよ」
 簡単なため息ひとつで片付けられるのが嫌で、アリババが言葉を重ねる。喋りながら伸ばした手は、やや青白くくすんだ肌に触れる前に胸元へ戻された。
 物言いたげな指先を視界の中心に据え、男は肩を竦めて嘆息した。
「そうかな」
「仕事が忙しいのは、仕方がないかもしれませんけれど。無理をして倒れるくらいだったら、一日くらい、ジャーファルさんに言って休みを貰った方が」
 相槌を打って頷いた彼になおも言い募り、早口になりかけたアリババはふと我に返ってハッとした。
 自覚のないまま握り締めた拳を解き、本当に言いたい内容からどんどんずれていっている現状に首を振る。もどかしさが膨らんで、今にも破裂してしまいそうだった。
 中途半端なところで切れた言葉に、シンドバッドが眉を寄せた。見つめられた少年は何度か口を開閉させた末に俯き、上手く伝えられない苛立ちに唇を噛み締めた。
 どうすればシンドバッドが心から安らかに眠れるのだろう。彼は毎夜あんな風に眉間に皺を寄せ、辛そうな顔をしてひとり寝床で耐えているのだろうか。
 自分に出来ることがあれば手伝いたかった。だがそう思うことすらおこがましく感じられて、思いは声に出す前に萎んでしまった。
 だが一旦吐き出すのを諦めた途端、行き場を失った想いは再び熱を持ち、奥深い場所に溜まっていった。無数に降り積もり、もう底が見えない。
「アリババくん」
 胸を掻き毟った少年に、シンドバッドは困った顔をした。なにに葛藤しているのかは想像の範囲から出ないが、余計な心配をかけてしまったらしいと解釈して肩を竦める。
 もうじき鐘が鳴る。太陽は西の水平線に迫り、あと幾ばくかすれば完全に沈んでしまうはずだ。
 暗くなる前に森を出なければ、道に迷って帰れなくなってしまう。幸い城には探査能力に優れたファナリスがふたりもいるが、シンドバッドに付き合ってアリババまで叱られるのは可愛そうだ。
「そろそろ戻ろうか。大人しくジャーファルの説教を受けてくるとするよ」
 物語に記された政務官の正体は、角を生やして火を吐く化け物だった。
 本物のジャーファルにそんな変身能力はないが、似たような形相で怒ることならある。普段温厚な好青年を気取っている彼だが、その本性は冒険書にある怪物に近い。
 待ち受ける雷を想像するだけで背筋が震え、鳥肌が立った。上着の上から腕を撫でて己を鼓舞し、シンドバッドは覚悟を決めて城のある方角へ歩き出そうとした。
 右足が乾いた草を踏みしめる。さくっ、と小気味の良い音を聞き、ずっと下を向いていたアリババが毅然と顔を上げた。
「あのっ」
「うん?」
 ようやく決心が付いたのか、真剣な眼差しがシンドバッドに注がれた。
 無駄に力んで鼻息は荒く、肩は強張り何故か爪先立ちだ。前のめりの姿勢で大声を張り上げた彼に、偉大なる王はゆっくり振り返った。
 長い髪がさらさらと流れた。振る舞いひとつとっても優雅な男に、息巻いていた少年はぐっと息を呑んだ。
「あの、お、俺……おれ、に」
 シンドバッドを見ていると、劣等感が擽られた。
 ひとりではなにも出来ず、逃げてばかりいた自分。やる、やってみせると口で言いつつも、踏ん切りがつかなくて後回しにしてきた自分。差し伸べられた手を拒んで、袋小路に迷い込んで抜け出せなくなっていた自分。
 困難を前にして、足が竦んだ。重責に押し潰されそうになって、一生背負う覚悟もなくて背中を向けた。
 なにからなにまで、彼とは違う。それでも、憧れを理想だけで終わらせたくなかった。
 彼のために自分が出来ることが、ひとつくらいあってもいいはずだ。ただ自力ではまるで見当が付かなくて、だったら直接聞いてみるより他に術がない。
 今更恥ずかしがっていてどうする。踏み込まねば、なんだって道は切り開けない。
「おれ、に……あの、えっと」
 それでも躊躇が付きまとう。踏みつけ、蹴飛ばして、アリババは拳に力を込めた。
「俺に言いたいこと、ないですか!」
「――え?」
「あっ!」
 そうして渾身の思いを込めて叫んだ瞬間、シンドバッドは驚愕に目を剥き、アリババは一秒遅れて甲高い悲鳴を上げた。
 間違えた。
 素っ頓狂な声と共に伸び上がった少年の顔が、紛れもなくそう告げていた。両手を重ねて口を覆っても、一度外に飛び出した言葉は取り戻せない。琥珀色の眼を右往左往させ、彼は大量の脂汗を流して頬を引き攣らせた。
 不自然で不恰好な笑顔に、シンドバッドはけれど何も言わなかった。
 言えなかった。
 真ん丸に見開かれた瑪瑙の瞳が地に沈み、愁いを帯びた表情に切り替わるまでそう時間はかからなかった。焦って取り繕うとしていた少年はその変化に瞬きを繰り返し、凪いだ海のような静かさに首を傾げた。
「シンドバッドさん?」
「君は自分が正しい道を歩いてきたと、胸を張って言えるかい?」
「えっ?」
 言い間違いを笑われるとばかり思っていただけに、想定の範囲外の反応に戸惑わされる。訂正しようとしていたのも忘れて呆然として、アリババは身体ごと向き直った彼を不思議そうに見つめた。
 真面目な顔で訊かれたお陰で、質問の内容にまで頭が及ばない。ぽかんと口を開いたまま動かない彼を見下ろし、シンドバッドは聞こえなかったのかと同じ台詞を繰り返した。
「君は、自分の辿ってきた道が正しかったと。信じられるかい?」
「それは、どういう――」
「救えなかったものがあるだろう。見捨てたもの、置き去りにしたものだってあるはずだ。踏みつけ、蔑ろにしたものも、多いんじゃないのかい。それでも君は、困難を切り拓いてたどり着いたこの場所が真に正しいと、自信を持って言えるのかい」
「待ってください。俺は、そんな話をしていたわけじゃ」
 急に語気を荒らげて胸を叩いた彼に面食らい、アリババは負けじと叫んだ。両手を広げて前に突き出し、落ち着くよう諭そうとして途中で言葉に詰まる。
 はっとしたのは、直前の言い間違いを思い出したからだ。
 我ながら随分間抜けな失敗をしたものだ。どうしてそこで「して欲しい事」と「言いたいこと」を取り違えられるのか、馬鹿としか言いようがなかった。
 けれどそれが、奇しくもシンドバッドの琴線に触れた。あまり良い方向にではなかったが、日頃から感情を昂ぶらせることなく淡々としている彼を揺さぶることは出来た。
 真剣な――というよりはむしろ切羽詰った様子さえ感じさせる口調と気迫に圧倒され、焦って不用意な返事をしなかったのは幸いだった。生温い唾を飲んで息を整え、アリババは眠っている時に通じる表情の男を真っ直ぐ見つめた。
 スラムに生まれ、母と死に別れ、王の息子として城に引き取られ、親友とは喧嘩別れした。孤独に耐えながら懸命に生き、親友の暴挙と己の無知蒙昧さに打ちひしがれ、重責に背を向けて逃げた。心苦しさを常に抱えたまま各地を放浪し、行き着いた砂漠のオアシスで幼き日に夢見た迷宮を目の当たりにした。
 忘れていた憧れが蘇り、そこに根を下ろすと決めた。
 いつか、きっと。光り輝く入り口を前にそう誓った。だがそのいつかは、いつまで経ってもやって来なかった――アラジンに出会うまでは。
 背中を押してくれる手が欲しかった。引っ張ってくれる手が欲しかった。ひとりでやっていけると息巻いても、結局誰かと一緒でないと動けない自分を痛感した。
 正しいか、間違っているかの判断は人それぞれに違う。一方的に決め付けてはいけないし、決められるものでないのはバルバッドで思い知った。
 上から押し付けるだけでも、下から突き上げるだけでも、歪みは生まれる。一度拉げてしまったものを真っ直ぐに戻すのは難しい。それもまた、朽ち果てる寸前の故郷を見て痛感させられた。
 共和国を立ち上げると宣言しながらも、その行く末を見守ることなく自分は此処に居る。言うだけ言って放り出した奴だと罵られていても、その通りだから反論の余地はなかった。
 あの選択が正しかったかどうか、アリババには決められない。そもそもまだ始まってすらいないのに結果を求められるのは、無茶な注文と言うより他になかった。
 ただひとつ、言えることがあるとすれば。
「……分かりません」
 逡巡の末、重い口を開く。自信なさげな呟きに、黙して待っていた男の眉が僅かに持ち上がった。
 不機嫌のオーラを感じ取り、アリババの肩がビクッと跳ねた。緊張で頬が強張り、次に続けるつもりでいた言葉が口の中で足踏みした。
「それは」
「でも間違いじゃなかった!」
 気まずい沈黙に、先にシンドバッドが喋り始めようとした。それを押し切り、アリババは早口に捲くし立てた。
 結果的にバルバッドは煌帝国に占領された。シンドリアを代表とする連合の影響力により併合は免れたものの、実質的には帝国の支配下に置かれたようなものだ。
 共和国になったからといって、すぐに国民の生活がよくなるわけではない。火種はまだ完全に消えていない。憎悪は依然燻ぶり、どこで発火するか分からない状況だ。
 困難は多い。荒波は絶えず押し寄せ、弱った心を簡単になぎ倒すだろう。
 だが国民とて黙っていない。負けてなどいない。アリババが信じるとすれば己が歩んだ道ではない。これから共に歩んでいく人々の強き心だ。
「正解じゃないかもしれない。でも、間違いでもないんです。だってそうじゃなきゃ、俺が傷つけて、守れなかった人たちが、何のために死んでいったのか分からないじゃないですか」
 ルフの流れに還っていった数多の命。彼らは笑っていた。元気でね、と手を振ってくれた。
 悲しみに涙を流したからといって、憎しみが完全に消えたわけではない。少し薄らいだ程度でしかなく、喪失感を埋める代用品は存在しない。
 ただ憎しみに心を突き動かされ、衝動的に破壊を求めたところで救いがないのも確かだ。世の中の理不尽さに怒りを滾らせるばかりでいては、折角の美しい景色も歪んでしまう。
 別れが寂しいのは誰しも同じ。幸せだった時間を忘れ、憎悪に飲み込まれて他に何も見えなくなってしまうのは、哀しい。
「俺は馬鹿で、失敗してばっかりだけど、友達は信じられる。親を、仲間を信じられる。みんなが支えてくれたから、俺は今、こうしてここに居る。そのことに俺はまず、感謝したい」
 母はいつだって笑っていた。国王たる父と一緒になれなかったのを恨む姿は、一度だって見た事がない。
 父は後悔を滲ませていた。ふたりは離れていても想いあっていた。それが分かっただけで、自分は父と母からちゃんと愛されていたと分かっただけで十分だ。
 カシムは怒りに狂い光を見失ったけれど、彼が暴走するきっかけは結局のところ、未来を憂い、現状を少しでも変えたかったからだ。やり方こそ間違えてしまったけれど、その願いや想いは一途であり、嘘はなかった。
 求めるものは同じはずなのに、別々の方法を選び取った為にアリババは彼と対峙した。彼を打ち負かした者として、アリババはカシムの思いを引き継ぐ責任を負わされた。
 己の歩んだ道を疑うということは、彼の願いを踏みにじることに繋がりかねない。正しいかどうかの判断はつかないけれど、間違ってはいないと信じることでしか、アリババは彼の死を悼めない。
 自分で決め、自分で選び、自分で掴み取った今を信じることが、死んで行ったものたちへのせめてもの弔いだ。でなければ、誰が己を信じてくれるだろう。根元が不安定にぐらついたままでは、アリババの言葉はどこにも届かない。
「今でも、本当は、これでよかったのかと迷う時があります。でもだからといって、カシムのやり方が正しかったとはどうしても思えない」
 両手を広げ、そこに伸びる無数の皺を見つめながらアリババが呟く。その細い肩は微かに震えており、当時の葛藤を胸に呼び起こしているようだった。
 己こそが正義だと我を振り翳すつもりはない。ただ自分でも間違っていると思うことを人に要求したところで、同意して頷いてくれる相手はどこにもありはしないのだ。
 カシムの行いを信じた人、アリババの言葉を信じた人。両者がぶつかり合ったのは、互いに譲れない信念を持ち合わせていたからだろう。
 なればこそ、そのへし折ってしまったカシム側に居た人々の心の為にも、バルバッドに芽吹いたアリババの理想を疑うわけにはいかない。
 自分で自分を疑ってはいけない。
 人に信じてもらおうとするのなら、何より第一に、自分で自分を信じるべきだ。
「だから俺は、俺を信じます。そして俺の友達も、信じます。もし俺が間違ったことをしようとしていたら、みんなが俺を止めてくれる筈だから」
 アラジンがマギであり、王の導き手だから信じるのではない。出会った時はまだ、アリババは彼がそんな大層な存在だと知らなかった。
 彼の手がぎゅっと握られた。力強い拳を目の当たりにして、シンドバッドは開きかけていた唇を噛み締めた。
 隙間から細い息を吐き、虚ろな瞳を瞼の裏に隠す。視界を闇に濡らせば、怨嗟の炎に満ちた地底の石積み場が見えた。
 暗い絶望が夜の帳となってひたひたと忍び寄り、シンドリアの空を覆い隠そうとしていた。鐘の音が鳴る。だがふたりとも、顔を上げなかった。
「では、君は」
 やがてシンドバッドが重い口を開き、途中まで囁いて言葉を切った。
 その先になんと続けるつもりだったのか、本人でさえ分からない。一瞬で見失ってしまった想いに、彼は数回瞬きを繰り返してから額を右手で覆った。
 金属器の冷たい感触が肌に刺さり、少し痛い。それでも夕闇に溶けることなく輝き続ける琥珀の眩しさよりはずっとマシで、瞳を伏して黙り込んでいるうちに、顔を隠している指の背になにかが触れた。
 石を拾う――拾おうとするその行為に意味がないことくらい、とっくに承知していた。あそこに散りばめられているのは、後悔だ。己が歩んだ道の後に残された、背負うのも放棄した遺恨の成れの果てだ。
 担ぎ上げたところで利するところは何もない。ただこの身が、心が、重くなるだけだ。
 故に捨てた。置き去りにした。自分を守る為に。押し潰されてしまう前に、拉げて粉々に砕けてしまう前に。
 割り切ったつもりでいた。しかし心が悔いている。これで良かったのかと、惑っている。
 きっと彼はあんな夢を見ない。そしてこの先も見る事はないのだろう。
 羨ましいとさえ思う。なにが原因で異なる結果になったのかが気になる。同じ迷宮攻略者でありながら、どうして運命に絶望することなく真っ直ぐ地に足つけて立っていられるのか。
 虚構で飾らず、虚栄心を張らず、自然体のままのびのびと生きている。笑っている。その心に裏はない。仮面を使い分けたりしない。彼は、アリババ=サルージャは、何故シンドリア国王シンドバッドとこうまで違っているのか。
 生きた年数か。駆け抜けた戦場の差か。切り伏せた敵の数か。全身に浴びた返り血の量か。
 迷いを抱きつつも進むしかなかった境遇か。
 過ちを正してくれる友の存在か。
 いずれ彼も壁にぶち当たるだろう。どう足掻いても乗り越えられない巨大で、分厚い、絶対的過ぎる壁に。
 そこに行き当たった時、この目映い少年はいかなる選択をするのか。友を信じるなどと生温いことを言っていられない局面に晒されて、どのような選択肢を掴み取るのか。
 己が絶望の縁に立ち、嘆きの声をあげて黒き翼を広げたように。
 彼が纏う真紅の炎が暗く濁り翳るのを、心の隅で期待していしまっている。
 穢れればいい。堕ちてくればいい。
 悔恨の闇に囚われて、いかように懺悔しても到底浮き上がれない、暗く深い水底より見えぬ光を望めばいい。
 それが、この道が正しいと信じぬいた男の行き着いた末路だ。表面上は華々しく飾り立てながらも、毎夜のように黒く塗り潰された夢を見る。振り返ればそこは血の海で、伸ばされる腕は底なし沼へ引きずり込もうと蠢いていた。
 自分はまだ光注ぐ明るい地にあるのか、否か。それすらも迷う時がある。気が付けば共に悩み道を選んでくれる存在は消え、王の後ろに黙ってつき従う者ばかりになってしまった。
 だが、それが王だ。
 それこそが王だ。
「君は、……『王』ではないのか」
「シンドバッドさん?」
 なにより己を信じ、己が判断を正しいと信じ続けた結果がこれだ。どこかで間違えたと感じていても、そうではないと言い聞かせて見ないようにしてきた結末が今だ。
 所詮自分と同じ存在は居ない。たとえ臣下に相談を持ちかけたとしても、話をした時点で王の言葉は絶対だ。諫言を呈してくれる者はおらず、積み重なる孤独に耐えて仰ぐ天は果てしなく遠い。
 ジャーファルを筆頭にする八人将は、シンドバッドの忠臣だ。同じ釜の飯を食らい、冒険に明け暮れたあの頃のようにはもう戻れない。
 彼らはシンドバッドの言葉を信じてくれている。その判断は唯一無二の正しいものと、胸の裡はどうであれ、言動で示してくれている。それが分かるのに、彼らほどに自分で自分を信じられない。
 落胆と、羨望。両者が複雑に絡み合い、交じり合った低い声はアリババの耳には届かなかった。吐息となって掻き消えた囁きに眉根を寄せ、少年はふらりと身体を右に揺らした男へ一歩進み出た。
 一度は躊躇して引っ込めてしまった手を伸ばし、大柄の男へと差し出す。握り返されるのは最初から期待していない。傷を多く残す細腕は、絹の上着を滑ってシンドバッドの後ろへと回された。
 身体を寄せ合うと、体格の違いがはっきりと出た。抱きしめる、というよりは抱きつく形になってしまったのを少々不満に思いつつ、アリババは左右から回り込ませた両手を固く握り締めた。
「俺は頭もあんまり良くないんで、シンドバッドさんがなにに悩んでるのかとか、全然分かりません。俺が聞いて良い事じゃないかもしれないし、シンドバッドさんが掴みたがってる手が俺の手じゃないのも、分かってるつもりです」
 赤裸々に綴られた冒険譚、しかしひっそりと表舞台から姿を消した同行者は数知れない。
 七つ目の迷宮を踏破して後、シンドリア建国の後日譚が語られるまでの空白期間。そこにいかなる葛藤があり、どのような苦汁の日々があったかは想像すら及ばない。
 聞かされたところで理解出来ないだろう。軽々しく同情を寄せたところで、彼はきっと喜ばない。
 それでも彼の物語は、孤独に打ち震えて冷たい夜を過ごしていたアリババの救いだった。唯一の楽しみだったと言ってもいい。シンドバッドの言葉に勇気を貰い、その決断に生きる希望を見出したのは本当だ。
 知らぬ者がなにを言うのかと、突っぱねられるのも承知の上だ。それどころかこれから告げようとしている言葉は、アリババ=サルージャが抱く憧れを正当化するものであり、夢にまで見た英雄像を汚したくないという一方的な要望でしかない。
 シンドバッドの真の姿がどうであれ、アリババが思い描いてきた覇王は己に絶対の自信を持つ、強い男だ。
 世の羨望を一身に集め、揺るがず、折れず、ただひたすら真っ直ぐ前を向いて突き進む、勇気ある人だ。
 彼のようになりたいと思った。彼を理想とし、目指した。
 だから悪夢に魘され、心を揺らす弱いシンドバッドなど見たくなかった。
 狡い考えなのは分かっている。それでも言わずにはいられなかった。
「俺は、小さい頃からずっと、貴方を信じてきた。貴方の言葉を信じてきた。間違ってるかどうかなんか関係ない。俺は、シンドバッドさんが好きです。だから俺は、シンドバッドさんを信じてる俺を、信じる」
 正否の判断など最早関係ない。自分が信じるに足る存在だと思うからこそ、その言葉を受け入れるだけだ。
 盲目的と批判されても致し方ない。それくらいに彼の人間性に惚れ込んでいるのだと言い返したら、誰かひとりくらいは笑ってくれるだろう。
 この人は故国を救おうとしてくれた。守ってくれた。そこにどんな不満があるというのか。感謝してもしきれない。力のない子供の戯れ言にも真摯に耳を傾けてくれる、こんなにも器が大きい人を信じない方がよほどの馬鹿だ。
 早口に捲くし立てる、支離滅裂一歩手前の少年に曖昧に笑って、シンドバッドはだらりと垂れ下げた腕を痙攣させた。持ち上げようとして肘を折ったところで指が痺れ、そのまま凍り付いて動かなくなってしまう。やがて支えるのも億劫になって肩の力を抜けば、一緒になって魂までもが地の底へ堕ちていくようだった。
 またひとつ大きな音を立て、美しい玉石が闇の中に沈んでいった。
 そうだ。こうなる結末を思い描いていたのではないか。こちら側へ引きずり込み、操る為に連れてきたのではなかったか。
 愛情に飢えた子供の篭絡は容易い。金属器使いの数がその国の軍事力に直結するだけに、アモンを従える少年は是が非でも手元に置いておきたかった。
 これでいい。想定していたシナリオ通りでなかったものの、得られた結果は十分満足できるものだった。
 だのに顔を上げられない。煌く輝きを直視できない。
 一心に慕ってくれるこの少年を、抱きしめ返すことが出来ない。
「言ってください、シンドバッドさん。俺に、出来る事を。俺が貴方にしてあげられることを」
 無垢な瞳が心を穿つ。音を立てて石の雨が降る。
 もうこれ以上抱えきれないのに、拾い切れない石が積もる。それらはやがて世界を埋め尽くし、全てを押し潰すだろう。
 それを黒い貌の男が笑うのだ。石を投げ放ったその手を揺らし、己の半身が朽ちて行くのを嘲りながら見下すのだ。
「……シンドバッドさん?」
 顔を伏し、瞼を閉ざし、弱々しく首を振る。アリババが呼びかける。返事がないのをいぶかしみ、不安がる少年にもかぶりを振って、彼は漏れ出そうになった嗚咽を飲んだ。
 苦い唇を舐め、鼻を啜る。前髪を掻き上げようとした手は額で止まってしまった。
「もう少し、このままで」
 背に回された手は暖かい。そこに微かな救いを求め、罪深き男は頭を垂れた。

2013/01/13 脱稿