起居

 冷たくも無く、かといって熱くも無い、適度に暖かくて心地よい風が右から左へと吹き抜けていった。
 跳ね放題の髪の毛が、さながら草原の如くそよそよと揺れ動く。左右に波を打った前髪から瞬きひとつで視点の先を入れ替えた綱吉は、轟音と共にすぐ横を通り抜けて行ったバイクの起こした風にまた煽られて、左に数歩、よろめいた。
「危ないな」
 規定速度を軽く三十キロはオーバーしているだろう黒いバイクに文句を言い、肩からずり落ちた鞄を担ぎ直す。場に残った排気ガスはあっという間に消えてなくなり、大型二輪車のエンジン音もじきに聞こえなくなった。
 車道と歩道の区別もない、細い道だ。歩行者は他にもいるのに、なんて危ない運転をするのだろう。
「まったく」
 同じくバイクを乗り回す人間として、あれはいただけない。
 免許取得から三ヶ月足らず、未だ初心者マークが欠かせないペーペーであるものの、危険運転を腹立たしく思うのは新米も、ベテランも、関係ない。冬休み中の猛特訓の甲斐あって一発合格した大型二輪免許は、彼の財布の中でひと際輝いていた。
 春風にすっかり乱されてしまった髪の毛を軽く掻き回し、彼は澄み渡る青空に目を向けた。
「おっと」
 そのまま足を前に繰り出そうとして、歩道にはみ出る形で置かれていたボードを蹴り飛ばしてしまった。
 ゴンッ、と硬い音をひとつ響かせたそれは、綱吉のキック程度ではビクともしない。僅かに揺れはしたが崩れることはなく、どっしりとした安定感でアスファルトに仁王立ちし続けた。
 厚みのある大判の板の足元には、転倒防止用にコンクリートブロックが使われていた。
「不動産屋」
 此処にも、歩行者の通行を邪魔するものがあった。
 蹴ってしまった瞬間はむっとしたが、自分の前方不注意もあるのであまり強く怒れない。やりきれない思いを顔に出して頬を膨らませた彼は、窄めた口から息を吐き、立て看板の所有者たる建物に目を向けた。
 この、路上にはみ出ている立て看板以外にも、店舗のドア、窓、そして壁に至るまでびっしりと、大量の広告が張り出されていた。
 掲載内容はアパートから一軒家まで、多種多様な見取り図で、並盛駅のほかに、数駅先の地名まであった。通勤に便利、家族向けで広い、リフォーム済みで綺麗、等など。様々な謳い文句で彩られた無数の情報に、眩暈が起きそうだった。
 額の真ん中に指を置き、こんなところに用は無いと、綱吉は早々に立ち去るべく足に命令を下した。しかし先ほど蹴った衝撃で痺れているのか、何故だか指示通りに動いてくれなかった。
「マンション、ワンルーム。……高いな」
 視線は斜め下、道路の一角を占領している立て看板に貼られたチラシに向かう。大きく書き出された月々の家賃に、唇はヘの字に歪んだ。
 バス、トイレ付きで毎月約八万円は厳しい。その分、他よりも若干広いようだが、だからといってその多少の差でこうも値段が違うのかと、ずっと実家暮らしだった綱吉はある意味ショックを受けた。
 今年の三月で高校を卒業し、四月からは大学生。ひとり暮らしには憧れるが、アルバイトも許されない立場上、この金額を自分で支払うのはかなり難しい。
 親の脛は齧りたくない。ましてや、ボンゴレには。
 いや、部屋を借りる以前にもっと重要で、かつクリアへの道程が険しい問題が残っている。
「防犯面、か」
 女子大生のひとり暮らしではあるまいし、男の綱吉ならそこまで気にせずとも良い、と本人は楽観的に考えていた。しかし彼のひとり暮らし計画を何処からとも無く聞きつけた頭のお堅い連中は、皆が皆、口を揃えてこれに反対してくれた。
 奈々や家光が言うならまだしも、イタリアにいる九代目に、ディーノに、いつだって綱吉の味方だった獄寺や了平まで。
 全員が、綱吉がひとりで生活していけるわけがない、と断言してくれた。
「なんで誰も応援してくれないんだろう」
 みんなとのやり取りをまとめて思い出し、深く、深く溜息を零す。項垂れた彼は八つ当たりに、足許の看板を蹴り飛ばした。
 実につまらない方法で怒りを発散させて、不動産屋の透明なドア越しに店員の視線を感じて慌てて鞄を抱え直す。さも物件を探している振りをして、彼は乾いた唇を舐めた。
 料理だって、高校三年間で少しは上達した。全自動洗濯機も、使い方さえ覚えれば問題なかろう。寝坊癖がネックだが、目覚まし時計が五個もあれば、流石に定刻通りに起きられる筈。
 しかし周囲が気にしているのは、そういうところではない。
 いや、生活面も勿論不安に感じているようだが、それ以上に綱吉の、身の安全を気にしていた。
 ひとり暮らしでは、どうしても防犯面に不安が残る。今までは家ではリボーンが近くに居て、学校では獄寺に山本が同学年として、中学、高校と一緒に居てくれた。
 大学は、別々に進む。各々の得意とする分野が違うのだから、これは致し方なかった。
 今までは守護者二名が両脇を固めていたので、本部もあまり強く言って来なかった。だが大学では、綱吉はひとりだ。彼の進学先には頼れる知人も、友人もいない。
 お陰でイタリアのボンゴレ本部は、ボディーガードをつけろと最近五月蝿くて仕方が無い。それに加えて、秘密裏に進めていたひとり暮らし計画がどこからともなく露見したものだから、一時はかなり騒然となった。
 大学ならばイタリアで、とまで言われて、折角苦しい受験勉強を勝ち抜いて手にした入学の権利を捨てたくなかった彼は、渋々実家暮らしを続けるのを承諾した。
 たとえ見かけは平凡で、どこにでも居そうな男子学生であっても、沢田綱吉はれっきとしたマフィアの後継者なのだ。
 彼がいつ、どこで、誰に狙われるか、正直分かったものではない。彼個人の戦闘スキルは高いとしても、町中で、周囲に無関係の人間が大勢いるところを狙われたら、対処仕切れない可能性は高い。
 だからこそ護衛を、と本部が言う気持ちも分かる。しかし常時誰かが同伴し、見張られて生活する息苦しさだけは、御免被りたい。
「参ったなあ」
 知れず溜息が出て、彼は力なく首を振った。
 本当はバイクの免許を取るのだって反対された。万が一事故に遭って大怪我を、最悪命を落とすことになったらどうなるのか、と。
 だが綱吉は、自分のやりたい事を全部諦めてまで、マフィアのボスになりたいとは思わない。凡庸な生活を送るのは無理と諦めているけれど、かといって人生のすべてをボンゴレに捧げるつもりはなかった。
 但しあそこで無理を利かせたからこそ、今回の件で反対意見が多く出て、しかも強固になっているような気がした。
「ここ、大学に近くていいな」
 偶々目に入った駅名につられて、看板の左端に手を伸ばす。しかし駅前というのもあって、お値段もそれなりに高かった。
「……いいなあ」
 悠々自適に、自分だけの時間を過ごせたら、どんなにか楽しいだろう。大勢と一緒に賑やかに過ごすのも、勿論楽しくて大好きだけれど。
 自宅にはいつだって、誰かがいる。それはとても安心出来るし、良い事なのだとも分かっている。だけれど子供達がいると、ひとりになりたくてもうまくいかない。だから、どうにも招きづらい。
 中学の時までは良かった。
 基本が賑やかな環境で、静かな時間を演出するのがいかに難しいかを、これまでの日々で散々思い知らされた。
 ひとり暮らしをしたい本当の理由を皆が知ったら、どんな反応をするだろう。唯一勘付いていると思しき人物の、意味深な表情を思い出し、綱吉は前髪をクシャリと掻き回した。
「いいなあ」
 ぼそり呟いて、家族向けの物件を見詰める。部屋数が多いので当然値段もワンルームの倍近くあって、綱吉の個人資産では到底手が届かない。
 こんな部屋で、ふたりだけで過ごせたら。四年間夢に見て、結局叶わなかった願いに肩を落とし、彼は何度目か知れない溜息を零した。
 いい加減帰ろうと自分に言い聞かせ、立て看板から半歩下がる。抱え込んでいた鞄を下ろして右手で握ると、後ろに流れたそれが何かにぶつかった。
 そこに看板は無い。通行人に当ててしまったかと、綱吉は慌てて振り返った。
「ごめんなさい」
 謝罪を口にして、視線を持ち上げる。蜂蜜色の前髪の隙間に、サラサラと流れる黒髪が飛び込んできた。
「え? あれ?」
「なにしてるの、こんなところで」
 見覚えがあり過ぎる顔に驚いて、呆気に取られて口をポカンと開いていると、斜めになっている姿勢を正すよう肩を押された。
 片足に寄っていた体重を均等にして、二本足で地面に立つ。その上でもう一度顔を上げ、綱吉は瞬きを繰り返した。
 夢ではない。試しに太腿を抓ってみたところ、ちゃんと痛かった。
「ヒバリ、さん?」
「引っ越すの?」
 並盛中学を卒業後、ふらっとどこかに消えたかと思うと、ごく稀に帰って来ては、中学校の応接室を不法占拠し続けた人物。ただ綱吉たちが高校に進学した後は、そういった行動は一切無くなったと聞いている。
 会うのは久しぶりだった。いったい今、何処で何をしているのか。高校の制服を身にまとっている綱吉に対し、彼はスーツだった。
 相変わらず黒が良く似合う。葬式のような陰気さがないのは、下に着込んでいるシャツが桔梗色だからだろう。ネクタイはしていなかった。
 聞かれてハッとして、綱吉は自分の現在地を思い出した。寸前まで眺めていた看板は、雲雀の視界にもしっかり入っている。そう思われるのも当然だろう。
 彼は若干挙動不審に周囲を見回し、最後に吹き飛びそうな勢いで首を振った。違う、と態度で表明して、力なく笑って肩を落とす。
「いいえ」
「そう」
 相槌を打ち、雲雀は緩慢な笑顔を浮かべた綱吉から視線を外し、首を左に向けた。
 引っ越す予定もないのに、不動産屋の前で長時間立ち止まる理由はひとつだ。行動には移せないけれど、その希望はある、と。
 嫌なところを見られてしまった。どうしてこうも絶妙なタイミングで現れるのだろうかと、神出鬼没な元風紀委員長をちらりと見やり、綱吉は鞄を持つ手に力を込めた。
 不動産屋に大量に張り出された物件情報を眺める彼は、背筋を伸ばし、凛として立っている。以前より存在を遠くに感じるのは、雲雀の背が伸びたからだと、そう思いたかった。
「大学、決まったんだって?」
「あ、はい。でもちょっと遠いから、出来れば実家出たいかなあ、って」
 どうせ変に誤魔化したところで、見透かされてしまうのがオチだ。ならば、と肝心な部分は裏に隠し、綱吉は今までに何十回と口にした建前をそっくりそのまま、彼に告げた。
 すらすらと舌の上を滑り落ちていった説明に雲雀は鷹揚に頷き、綱吉が少し前まで食い入るように見ていた物件にも目を向けた。
「でも、引っ越す予定は無いんだよね」
「みんなが、駄目だって言うんで」
「だろうね」
 しなやかな白い手が、ゆっくり前に伸ばされる。跳ねた髪の毛の一筋を掬い取られ、綱吉は目に馴染んだ彼の指先に見入った。
 知っていた傷が消えて、知らない傷が増えている。袖口から覗いた打撲の痕の原因も、綱吉は知らない。
 離れていた時間の長さを思い知らされて、彼は唇を噛んだ。
「そんなに俺、頼りないかな」
「うん」
「……即答しないでくださいよ」
 あっさり認めた雲雀を恨めしげに見やり、首を振って彼の手を追い払う。本当の事とは言え、こうも迷い無く頷かれると、悔しくて仕方が無い。
 膨れ面で訴えて、綱吉はまた伸びてきた彼の手を避けて左に逃げた。
「だって、ね」
「なんですか」
「ひとりじゃ起きられないし」
「ぐ」
 中学時代、彼には散々校門前でお世話になった。綱吉は寝坊、遅刻の常習犯で、その回数は歴代最高を記録している。恐らくこの先十年、更新する人間は現れないだろう。
 あまりにも情けなすぎる栄光に地団太を踏み、綱吉は乱暴に雲雀の胸倉を叩いた。
「ちょっとは成長したんですよ、これでも」
「どの辺が?」
 公道のど真ん中であるのも忘れて大声を張り上げれば、笑った雲雀が揶揄して綱吉の頭の上で掌を前後に動かした。暗に身長の事を言われ、そうではない、と拳を振り上げる。
 だが呆気なく躱されて、右手は空を切った。
「どこ狙ってるの」
 虚しく空振りした腕を引っ込め、素早く距離を取った黒髪の青年を忌々しげに睨みつける。彼はトントン、と軽快なリズムでステップを刻み、両手をポケットに押し込んだ。
「僕も反対だよ」
「……」
 眇められた黒い双眸に見詰められ、綱吉は俯いた。
 彼だけは賛成してくれるかも、との淡い期待も見事打ち砕かれて、これで綱吉の味方はひとりも居なくなった。
 不満そうにしている彼に肩を竦め、スーツの青年が晴れ渡る青空に目を向けた。
 白い綿雲がぽっかり浮かび、西から東へと呑気に流れて行った。
「誰の為だと」
 やがて綱吉が、搾り出すような声で呟く。辛うじて聞き取った雲雀は眉根を寄せ、そうだとは分かり難い笑みを口元に浮かべた。
「君の家から大学までなんて、バイクなら三十分も掛からないだろう」
「バイク通学も駄目って言われたんです」
 夜遅く帰る場合、道が暗いと事故の危険性が高くなる。だから駄目だと、心配性の守護者が泣いて縋ってきた日の事を思い出し、綱吉はこめかみの鈍痛に顔を顰めた。
 こうも信用されないと、哀しくなってくる。重い溜息をついた綱吉は、考えれば考えるほど憂鬱になると首を振り、軽く己の頬を叩いた。
 気持ちを切り替えようとしていると悟り、雲雀もそれ以上は何も言わなかった。道を行く車を避けて道路の端に寄り、排水路を越えて不動産屋の敷地に入る。
 壁一面の物件情報は、立て看板とは違ってファミリー向けの物が主体だった。
「ヒバリさんって、今、どうしてるんですか?」
「また急だね」
「だって」
 四年前、雲雀は突然並盛町から居なくなった。
 誰にも、何も言わずに姿を消して数ヶ月後、ふらっと帰って来て、またある日忽然と行方をくらましてしまう。その繰り返しで、年経る毎に町に居ない時間が増えていった。
 綱吉は一度として、行き先を聞けた例が無い。何処に行くのか、いつ帰って来るかを訊ねても、はっきりとした返答がなされたことは無かった。
 だから今日、こんなところで会うなんて、予想外もいいところだった。
 手を伸ばし、彼の上着を掴む。指先が滑って布の表面を削り、ポケットの縁に引っかかって止まった。
「全然、連絡くれないから」
 携帯電話は繋がらなくなった。メールは一方通行で、送るだけ虚しかった。高校二年の夏までは毎日の出来事を、それこそ日記の如く書いて送っていたけれど、それも今はしていない。
 独り相撲を演じ続けるのに疲れた。それでも、どうしても、彼を嫌いにはなれなかった。
 大学進学を機に、綱吉がひとり暮らしを望んだ本当の理由。それは、もしあの喧しい家を離れれば、雲雀が自分のところに帰って来てくれるかもしれない、そう思ったからだ。
 隣に並び、人差し指一本を彼のポケットの中に残す。雲雀は嫌がりもせず、好きにさせてくれた。
「連絡はしていたよ」
「俺には来てません」
「そうだったかな」
 リボーン相手には、頻繁に電話が掛かって来ていた。だがいくら頼んでも、拝み倒しても、話の内容は一切教えてもらえなかった。
 何処にいる、何をしている、誰と居る。気になるのに知る術がなくて、一時期は本気で発狂しそうだった。
 雲雀はリボーンから、綱吉の状況をつぶさに聞いているのに、その逆は許されない。不公平だ、差別だと、口を開けばいくらでも苦情が飛び出す。だが汚い言葉は使いたくなくて、綱吉は唇を噛み締めた。
 辛そうにしている横顔から目を逸らし、雲雀はそこにあった物件の広告を見るとも無しに見た。
 庭付きの、中古の一軒家。構図がどことなく綱吉の自宅に似ていた。
「今、ヒバリさん」
「うん」
「何処にいるんですか」
 振り向けば、綱吉の白い項が見えた。俯いた彼の、ぽつり、ぽつりと紡がれる言葉に一瞬顔を顰め、二秒経ってから雲雀は理解して頷いた。
 彼自身は現在進行形で、此処にいる。だが綱吉が知りたいと思っているのは、そういった意味合いではない。
 目下の雲雀の生活拠点が何処なのか、それが知りたいのだ。
 並盛を出て以後の彼の足取りは、まったくと言って良いほど掴めない。守護者失格だという声もしばしば聞かれたが、雲属性そのものが孤高、かつ束縛出来ぬ存在を象徴している。雲雀はこれを体現しているだけだと、綱吉は反論を総じて封じ込めてきた。
 けれどその綱吉こそが、誰よりも彼の所在を知りたがった。
「今は、基本的にホテル暮らし」
「……」
 拠点と呼べる場所はまだ無い、と言って彼は灰色の壁を下から上に仰ぎ見た。綱吉は彼のポケットに残した指に力を込め、上物のスーツに皺を刻んだ。
「ガッカリした?」
「凄く」
 俯いて口を尖らせている綱吉が、何を期待していたのか。手に取るように理解できて、雲雀は喉を鳴らした。
 もしどこかに部屋を借りているようならば、そこに転がり込む所存だったのだろう。雲雀と一緒に居られるのなら、苦労して入学試験をパスした大学を放り出すくらい、彼はきっと、なんとも思わずやってのける。
 そもそもあの自宅を出る言い訳の為に、彼は大学進学を選んだのだから。
 不毛極まりない動機だが、それくらいに綱吉は必死だった。
 雲雀が並盛を離れたのは、綱吉の周囲が騒がしいからであって、だったら静かな環境に身を置けば、彼は帰って来てくれるのではないか  と。
 どういう思考回路を繋げば、そんな極端な結論に至れるのか。昔から不可思議極まりなかった綱吉だけれど、人の予想を大きく上回る発想に雲雀は楽しげに笑った。
 四年も放置されたくせに、心変わりのひとつもせずに待っていてくれた彼という存在に、胸がくすぐったく、温かくなった。
「ヒバリさん」
 彼が笑う気配に綱吉は顔を上げ、不服そうに頬を膨らませた。
 棘のある声で名前を呼ばれて、それが余計に可笑しくて、雲雀は右手の人差し指を軽く曲げ、唇に添えた。
「でもそろそろ、一箇所に落ち着こうかと思ってね」
「え」
「やっと資金も貯まったし」
 眇めた目で傍らを見下ろし、ぽかんと開いている唇を、その指で擽ってやる。
「え?」
 数秒待ってやっと発せられた綱吉の声は、見事にひっくり返っていた。
 間抜けすぎる表情に堪えきれず噴き出し、雲雀は身を揺らした。
「え、あの。はい?」
「君は、住むとしたらどんな家が良い?」
「は? え、あー……広い、とか?」
 いきなり地平線の彼方まで吹っ飛んだ話についていけず、頭の天辺から声を出し、綱吉は伸び上がった。聞かれたことに疑問系で返し、頷かれて目を瞬かせる。
 口元を笑みで飾る雲雀を見ているうちに、じわじわと興奮が膨らんでいった。
「あの、ヒバリさん。それって」
「広さは問題ないかな。他には?」
 彼の袖を取り、引っ張る。しかし彼は綱吉の動揺を無視し、視線を浮かせて雲を見ながら呟いた。
 ちゃんと相手をして貰いたくて、綱吉は頬を膨らませ、赤く染めた。
「ヒバリさん!」
「あとは、そうだね。壁は厚くて、防音設備は万全だよ」
 声を荒げ、身を乗り出す。ぶつかる寸前まで迫った綱吉に相好を崩し、彼は「嬉しいだろう?」と訳の分からないことを囁いた。
 意味が理解出来ず、綱吉の丸い目が平らに歪んだ。鼻息荒くしている彼の頭を撫でて向こうへ追い遣り、意味深に笑った雲雀がそっと目配せする。
「声、漏れたら恥ずかしいんだろう?」
「っ!」
 背を屈めて視点の高さを揃えた彼の囁きに、綱吉はボッ、と顔面から火を噴いた。
 耳の先まで真っ赤に染め上げ、瞳にはぐるぐると渦巻きを描いて左右にふらつく。一瞬にして安定感を失った彼の腕を掴んで支えてやり、雲雀は一頻り笑って、不意に真顔になった。
「綱吉」
 真剣な表情にドキリとさせられて、綱吉がたたらを踏む。後ろに傾いだ身体は、雲雀が引っ張りあげてくれた。
「ヒバリ、さん」
 なにかを言わなければと思い、何を言おうかで迷い、なにも言えなくて口を噤む。次第に泣き出しそうなところまで歪んでいく琥珀の瞳を見据え、口を開きかけた雲雀は、右のポケットが震え始めたのに気付いて手を伸ばした。
 中身を引き抜き、表示されている名前と点滅するランプに苦笑する。
「もしもし?」
 それを見た瞬間、綱吉は瞠目し、咄嗟に吐き出しそうになった言葉を飲み込んだ。唇を噛んで嫌そうに顔を歪め、背ける。
 携帯電話を広げて耳に押し当てた雲雀は、耳慣れた声に軽い調子で返事をし、流れてくる言葉を脳内に刻み込んだ。
 適当に相槌を返し、徐々に表情を引き締めていく。目つきが鋭くなり、仕事モードに突入した彼の姿を盗み見て、綱吉は居心地の悪さに身をよじった。
 今此処に大切な恋人がいるというのに、つまらない仕事の電話になんか出ないで欲しい。綱吉からの電話には一切応じないくせに、メールにだって返事を寄越さないのに。
 互いの温度差を思うと涙が出そうで、彼は鼻を啜り、鞄に爪を立てた。
「そう、やっと通ったの」
 不貞腐れた顔をしている恋人をちらりと見て、雲雀は彼に背を向けた。不動産屋の壁に向かって足を繰り出し、低い位置を蹴りつけて、靴の裏を擦りつける。
 空っぽの手はスラックスのポケットに押し込まれて、肘が少しだけ外側に向いた。彼の注意を取り戻したくて、綱吉の右手が宙を泳いだ。
「ほんと、呆れるくらいに遅いね、君の組織」
 そんな綱吉の動きに気付かず、雲雀が電話の相手に向かって笑って言う。文句を返されたのだろう、彼は肩を揺らし、可笑しそうにポケットから抜いた手で鼻の頭を掻いた。
 触れる寸前で逃げていった彼の腕が、綱吉の指先を弾いた。痛くなかったが衝撃に驚き、それで我に返った綱吉は目を見開き、前触れも無く振り返った青年の姿に心臓を跳ね上げた。
 悔しいが、認めたくないが、彼が好きだ。姿が見えたらドキドキするし、顔を合わせたら巧く言葉が出てこないし、見詰められたらもう逸らせない。
 高鳴る鼓動に歯軋りして、強く地面を蹴り飛ばす。含み笑いを零した雲雀が、言葉もなく立ち尽くしている綱吉に向かって、黒光りする携帯電話を差し出した。
 液晶画面が光っている。通話は切れていない。
「はい」
「……?」
「君に替われってさ」
 パネル部分を右にして上下に揺らした雲雀が、早く受け取るように促す。彼があんな風に楽しそうに話をする、綱吉とも既知の間柄の人間など、そう多くない。
 相手が誰か楽に想像がついて、綱吉は盛大に頬を膨らませ、仕方なく右手を伸ばした。
 奪い取り、案の定ディスプレイに表示されている見知った名前に臍を噛む。
「もしもし? なに、リボーン」
『ツナか。喜んでいーぞ』
「はい?」
 不機嫌に用件を問えば、開口一番そんな事を言われて、綱吉は面食らった。素っ頓狂な声をあげ、さっぱり読めない事情に首を傾げる。探る目で雲雀を見るが、彼は意味ありげに笑うだけだ。
 教えて貰えそうにない雰囲気に舌打ちして、仕方なく電話に意識を集中させる。リボーンはどうやら家にいるらしい、後ろで騒ぐランボの声が微かに聞こえた。
「なにを、喜べって言うのさ」
『オメーのひとり暮らし、条件付だが、九代目から許可が出たぞ』
「は?」
 四月になれば、沢田綱吉は晴れて大学生。新しい環境でのスタートを願ったが、それは多数の反対意見に押し潰されて、叶わなかった。
 喧々囂々、騒々しかった一連のやり取りが走馬灯のように過ぎっていく。見事なくらいに全員が全員、絶対に駄目だと言って聞かなかったというのに、急にまた、何故。
 唯一賛成も、反対もしていなかった家庭教師からの報告に、彼の目は点になった。
 隣で雲雀が声を殺して笑っている。無数に散らばる情報をひとつに繋げようとするが、絶対的にピースが足りない。彼は挙動不審に視線を泳がせて、薄い鞄で脇腹を何度も叩いた。
「え、ちょっ、リボーン?」
 どういう意味かと上擦った声で問うが、巧く発音できなくて音がばらついてしまう。聞き逃すまいと携帯電話を耳に押し当て、何処を見てよいか分からない瞳を傍らの人物に定めた。
 口元を手で隠した雲雀が、愉しそうに目を細めた。
『頑丈な番犬を一匹飼う事。それが、ボンゴレ十代目がひとり暮らしをする条件だ』
 今までの反対意見の山からは考えられない、実に緩い制約。己の耳を疑った綱吉は、一瞬きょとんとして、あっという間に切れた電話に呆然とした。
 ツー、ツー、と単音を繰り返すだけとなった端末を握り締め、雲雀を振り返る。
「赤ん坊、なんだって?」
「許可がおりた、って」
 ずっと反対されて、自分でも諦めていたものが、急に目の前に降って来た。今日は予想外の出来事だらけだと、どこか他人事のように考えながら、綱吉は黒い携帯電話を閉じて雲雀に差し出した。
 未だ実感が沸かなくて、地に足がつかない。頭がふわふわして、同時に痛くなった。
「へえ?」
「でも、番犬、って」
 相槌を打った雲雀を他所に、リボーンから聞かされた条件を反芻する。番犬を飼う、というのは分かるが、そこに被せられていた形容詞の、頑丈な、とはどういう意味なのか。
 犬に頑丈もなにもあったものではないと思う。額面通りの意味に受け止めた綱吉は、視線を感じて顔を上げた。
 手の中で小さな端末を遊ばせた雲雀が、不遜な態度で笑っていた。
「あの、……ヒバリさん?」
 彼が久方ぶりに並盛町に帰ってきたその日に、永遠に叶わないと思っていたひとり暮らしが許された。
 彼は言った。方々を転々とする生活にピリオドを打ち、一カ所に居を定めるのだ、と。
「なに?」
「質問が、あるんです、けど」
 恐る恐る右手を挙げて、雲雀に向き直って問い掛ける。深呼吸を二度挟み、心を落ち着かせ、綱吉は生唾を飲んで唇を開いた。
「ヒバリさんのその家って、広いんですよね」
「うん」
 新しく作るという、雲雀の拠点。いったいどんな物になるのかは想像すらつかないが、彼のことだ、きっと生半可な物では終わらない。
 即座に首肯した彼に安堵して、次の言葉を捜して半眼する。乾いた唇を舐め、綱吉は思い切って顔を上げた。
「じゃあ、えと。もし、その……部屋とか、余って」
「部屋は余ってない」
「ぐ」
 矢張り甘かったか。瞬時に霧散した即席の計画に唸り声をあげ、綱吉はがっくりと肩を落とした。
 喜んだり、哀しんだり、嬉しがったり、落ち込んだり。一喜一憂、忙しい彼を笑って、雲雀は「でも」と付け足した。
 琥珀の瞳を丸くして、綱吉が小首を傾げる。彼は切れ長の目を一層細め、したり顔を作った。
「でも敷地の隣は余ってるから、そこは貸してあげてもいいよ」
「……それって?」
「どうする?」
 切望していた夢のひとり暮らし。出された条件は、ただひとつ。
 頑丈な番犬を一匹、飼うこと。
 あんなにも強情だったボンゴレが、このタイミングで綱吉を許し、認めた。雲雀が中学校を卒業して以後の四年間、留守にしていたこの町に帰ってきた、他ならぬ今日という日に。
「ヒバリさんって、……リボーンに何を依頼してたんですか?」
 先程の電話で聞きかじった話を掘り返し、訊ねる。
 彼は答えず、内緒だと言わんばかりにウィンクして、人差し指を唇に――綱吉の唇に押し当てた。

2010/2/26 脱稿