迂愚

「あっ」
「ん?」
 遠くを、暮れ行く西の空を眺めながら歩いていた時だ。不意に前方から甲高い声が飛んできて、雲雀は反射的にそちらに顔を向けた。
 数回瞬きをして、オレンジ一色に染まっていた視界に別の色を招き入れる。一瞬どこを見てよいか分からなくて迷った視線が標的を捉えた刹那、鋭い眼光を浴びせられた少年はビクッと大袈裟に肩を跳ね上げた。
 弾みで担いでいた鞄がずり落ち、肘に引っかかって止まった。急な加重に驚いた彼はまたも盛大に身を竦ませて、慌てて腕を伸ばして荷物を両手に握り直した。
 使い込まれている感じのある通学鞄は、実によく見慣れたものだった。
 並盛中学校の指定鞄なので、大半の生徒はこれに文房具や教科書を入れて校門を潜り抜ける。外見上は模範生に数えられる目の前の少年も、同じだった。
 ベージュのブレザーを羽織り、首には寒さ対策でマフラーを巻いている。結び目は首の後ろ側で、余った分がさながら蝶々の羽の如く左右に広がっていた。
 両手も手袋に覆われており、白い肌が露出しているのは顎から上だけだ。吐く息は白く濁り、空中で霧散して消えた。
「ど、……どうも」
 距離にして、約八メートル。決して近くはなく、かといって遠いとも言い切れない微妙なところからぺこりと頭を下げられて、雲雀はワンテンポ遅れて嗚呼、と頷いた。
「今頃帰り?」
 授業はとっくに終わっている。手首に巻いた時計を見れば、午後四時半を軽く回っていた。
 この季節は暗くなるのが早い。太陽は既に地平線に到達しており、東の空からは夕焼けを侵食すべく藍色の闇が迫りつつあった。
 あと三十分もすれば辺りは真っ暗になるだろう。気の早い街灯は既にランプに火を点しており、地面に落ちる影は薄く、長かった。
 含みを持つ問いかけに、少年は落ちかけていた視線を慌てて戻した。鞄を握る手に、無意識だろうが力が篭る。緊張しているのが窺えて、雲雀は肩を竦めた。
「えっと、まあ、……その」
「寄り道は校則違反だよ」
「うっ」
 真っ直ぐ見つめてくる眼差しから逃げるように、少年が言葉を濁した。そこへ追い討ちをかけて淡々と告げれば、彼は予想通りの反応を示して息を喉に詰まらせた。
 上唇を噛んで頬を引き攣らせた表情が面白くて、雲雀はつい相好を崩した。くく、と喉の奥で笑いを押し殺し、右足を一歩、大きく前へと踏み出す。
 休めていた歩みを再開させた彼を見て、少年は重い鞄を抱きしめると右往左往して踵を浮かせた。
 だが後退するより早く、雲雀が距離を詰めた。ざり、と大地に横たわる砂利を踏む音がして、焦って顔を上げた頃にはもう、雲雀は残り二メートルのところまで来ていた。
 西日を受け、二人の影が東へと伸びる。右半身だけが明るく、左半身は影を帯びている青年を仰いで、少年は困った顔をして身を捩った。
「あの、なんていうか」
「僕の前で風紀を乱すなんて、良い度胸だね」
「ちがっ」
 尚も言い訳を続けようとする彼を制し、雲雀が口角を歪める。瞬間、少年は語気を荒らげ、声を高くして叫んだ。
 身を乗り出し、これまでの萎縮した姿からは想像も付かない勢いで怒鳴る。だが覇気に富んでいられたのはそこまでで、一秒後には我に返り、前以上に萎びれて小さくなってしまった。
 背中を丸めて縮こまる中学生を見下ろし、雲雀は眉間に皺を寄せた。
「違う?」
 なにが、と言いたげな問いかけに少年はちらりと前を窺って、一度は開こうとした口をすぐに閉ざした。言おうか言うまいかで迷い、空気を咀嚼しては唾と一緒に飲み下す。
 夕焼けと同じ色をした唇を舐めた彼を見据え、雲雀は返答を待って右手を腰に当てた。
 ブレザーの中に紺色のベストを着込み、その下にも何枚か重ね着しているのだろう、少年の上半身は雪だるまのようにもこもこしており、見るからに柔らかそうだった。
 細身の体型に合わせて上着を選んでいるので、着膨れして袖もパンパンだ。これではさぞかし動き難かろうと、相反して薄着な雲雀はひっそり肩を竦めた。
 秋場は肩に羽織るだけだった黒の学生服。さすがに年の瀬も迫るこの時期は袖を通しているが、前ボタンは全て外しており、中に着込む白の開襟シャツは丸見えだった。
 その下に何か着ているかどうかは、傍目からは分からない。ともあれ誰が見ても身震いを覚えるような格好をしている雲雀は、この一帯では名前を知らぬ者はないと言われるような無頼漢だった。
 並盛中学校の実質的な支配者にして、風紀委員長。最近では学校のみならず、並盛地区全域にまで支配領域を広げているという噂だ。
 そのうち日本全体を影で牛耳るようになるのでは、と言ったのは山本だが、彼ならば或いは本当にやってのけるかもしれない。そんな底知れぬ男を前にして奥歯を噛み、ちっぽけな存在である筈の沢田綱吉は指に食い込む鞄の持ち手を爪で引っ掻いた。
 よもやこんな場所で遭遇しようとは、夢にも思わなかった。完全に油断していたと、あてにならない超直感に辟易しながらため息を零し、ゆるゆる首を振って前髪を揺らす。
 咄嗟に否定してしまったが、寄り道をしたのは確かだ。どう言い訳をしようとも、真実を塗り替えるのは難しい。
 何故よりにもよって雲雀だったのか。ここで遭遇する相手が別の誰かだったなら、まだ幾らか救いがあっただろうに。
「小動物」
「……ヒバリさんのそれ、どうにかなんないですか?」
「なにが」
「俺には、沢田綱吉って立派……かどうかは、分かんないけど。名前が、ちゃんとあります」
 早く言えと急かされて、その中で囁かれた呼びかけに綱吉が顔を顰める。察しの悪い男を咎めて言葉を重ねれば、雲雀は益々意味が分からないと言いたげに眉間の皺を深くした。
 怪訝な視線を受け、話題を逸らすのに成功した綱吉は内心ほくそえむと同時に口を尖らせた。
 小動物とはつまり、ハリネズミや子猫といった生き物のことだ。少なくとも人間はその括りに入らない。だのに雲雀は、どういう理屈か綱吉を指してそう呼んだ。
 掌に乗るくらいの小さな生き物と同類に見られ、人間扱いされていない感じがして大いに不満だった。だがどれだけ抗議しても、雲雀は一向に聞き入れない。己のポリシーは絶対に曲げないし、譲らない人だから難しいのは承知しているが、綱吉にだって男としての意地があった。
 それになにより嫌なのが、最近ランボまでもがその呼び方を真似するようになってきていることだ。
 意味が分かって言っているのか知らないが、綱吉に向かって「しょーどーぶつ!」と叫んで笑うのが非常に癪に障る。雲雀本人に言われるだけでも腹立たしく、またむず痒くもあるのに、あの六歳児にまでからかわれたら年上としての面子が丸潰れだ。
 だから今後は自重して欲しい。そう訴えた綱吉を見つめ、雲雀は腕を降ろして小首を傾げた。
「名前で呼んで欲しいの?」
「え?」
 ほんの少しだけトーンを高くした質問に、その切り返しは予定していなかった綱吉は目を丸くした。
 顔を上げれば、夕闇が溶け込んだ黒い瞳が見えた。
 どこかでも深く静かな漆黒に、綱吉の顔が映っている。大粒の眼は琥珀色で、きっと雲雀の視界にはそこに宿る己の姿が見えているはずだ。
 交錯する眼差しに一瞬意識を奪われて、ハッとした綱吉は急激に上昇を開始した心拍数にぼっと顔を赤らめた。ただでさえ爆発している髪の毛を更に逆立てて、熱を増していく身体を持て余して苦々しい顔をする。
 百面相を開始した彼に眉目を顰め、雲雀は摺り足で身体を前に運んだ。
 距離が一メートルにまで狭まった。手を伸ばせば楽々相手に触れられる近さで、下手をすれば荒立つ鼓動も彼に聞こえてしまいそうだった。
「あ、の。それと、これとは……話が別」
「そう? 同じじゃない」
 顔を伏し、消え入りそうな声で囁く。尻すぼみの言葉に口をヘの字に曲げて、雲雀は綱吉の精一杯の返答を一蹴した。
 彼とはもう一年以上の付き合いになる。親しくなったのは、この半年ほどだ。
 最初は怖いだけの人だったが、次第に印象は変わって行った。
 決して優しくはないけれど、ただ冷たいだけの人ではなかった。我が儘で横暴だと思っていたけれど、裏を返せば一本芯が通った強い心の持ち主だった。
 すぐ暴力に訴えてくるところは改めて欲しいものの、見習うべきところは多い。特に周囲に流されがちな綱吉にとって、彼のようにこうと決めたら最後まで貫き通す姿勢は憧れだった。
 そんな雲雀に、綱吉はあまり名前で呼ばれたことがなかった。彼はいつだって小動物、もしくは草食動物と言う。たまにちゃんと名前を呼んだかと思えば、何故か「沢田綱吉」とフルネーム。
 ここ一年半で一気に増えた友人らのように、愛称で呼べとまでは言わない。だが獣と同等に扱われるのも嫌だった。
 上手くまとまらない頭に苛々して、乱暴に奥歯を噛み締める。顎に力を込めた綱吉に嘆息し、雲雀は若干位置を低くした太陽に視線を移した。
「それより、寄り道。風紀を乱した罪は重いよ」
「うぐ」
 上手く誤魔化せたと思っていたものが、出来ていなかった。
 忘れたわけではなかった雲雀に言われ、綱吉はヒクッと頬を引き攣らせた。声を詰まらせ身震いし、抱きかかえていた鞄を落としそうになって慌てる。
 掴み直そうとしたら手袋で滑り、結局荷物で満杯の通学鞄は地面に落ちた。コンクリートやアスファルトで覆われていないむき出しの地面は灰色で、小指大の小石が沢山散らばっていた。
 自転車の轍がうっすら残り、人が歩いて踏み固めたお陰で雑草も生えていない。遊歩道を整備した河川敷から二メートル程下がったところには、夕焼けを反射してきらきら輝く川面が広がっていた。
 雲雀の後方に架かる橋を渡ろうとして、トラックが道を曲がった。犬を連れて散歩する人がいる。自転車の高校生が棒立ち状態のふたりを迷惑がり、ベルをちりりと鳴らした。
 喧しい高音に右の眉を吊り上げた雲雀に、綱吉がはっと息を吐いた。トンファーを取り出しそうな気配を察知して反射的に彼の腕を取り、押し退ける形で道の脇に寄る。
 案の定武器を手にしようとしていた男は邪魔されて不機嫌そうに顔を顰め、速度超過で通り過ぎていった自転車に舌打ちした。
「君」
「そりゃ、あっちも悪いですけど」
 今のは向こうだけに非があるとは言えなくて、綱吉は物言いたげな彼に捲くし立てた。唾を散らし、道を占領していた自分たちもいけないのだと懸命に諭す。
 気が付けば距離は三十センチ未満まで狭まっていて、ほぼ真下から響いた声に気付いた雲雀が目を瞬いた。
 もっと文句を言い返されると覚悟していたのに、なにも聞こえてこない。予想が外れた状況に怪訝な顔をした綱吉も、彼に遅れて三秒後、自分がとった行動を思い出してかぁっと頬を赤くした。
「あっ、ああ、あっ。ごめんなさい!」
「いや、……別に」
 咄嗟のこととはいえ、胸倉を掴んでしまった。年上相手になんたる失礼を働いたのかと、それ以外の意味でも慌てふためき手を放せば、乱れた襟元を気にいながら雲雀もぼそぼそ呟いた。
 お互い相手の顔がまともに見られなくて、火照った頬を隠して背中を向け合う。勢いよく拾い上げた鞄の、綱吉の膝を打つ音ばかりが場に渦巻いて、なんともいえない居心地の悪さに二人揃って身悶えた。
 羞恥に染まる肌に掌を押し当て、雲雀が疲れた様子でため息をつく。長く深い吐息を聞いて、綱吉も奥歯を噛み鳴らしながら顔を上げた。
「うわっ」
 その瞬間、遊歩道脇に生えていた緑の草が揺れて彼の踝を擽った。
 踵に触れるかどうかという長さのスラックスごと足首を撫でられて、吃驚して声が上擦った。反射的に片足立ちで飛び退いて、突然の動作に雲雀も目を丸くする。
 ぽーんと跳ね上がった鞄の軌道を追いかけて視線を下に向ければ、綱吉が居た場所に茶色の塊が見えた。
 ふにゃあ、となんとも可愛らしい声がそこから生れ落ちる。もぞもぞ身じろいでから長い尻尾を揺らしたのは、正しい意味での小動物だった。
 猫だ。
「あー……」
 首輪はしていない。だが人に慣れているのか怖がる様子も、警戒する素振りも見せず、逆に綱吉の足に擦り寄ってごろごろと喉を鳴らす。甘えて目を細め、挙句ごろんと横になって腹を見せる辺り、かなり心を許している様子が窺えた。
 生まれたてではないものの、成猫ともいえない。ピンク色の肉球を見せられ、雲雀の表情が心持ち緩んだ。
「ついてきちゃったかあ」
「君の?」
「いえ。いつもは、炎真が面倒見てるんですけど――て、あぁっ」
 雲雀に捕まってちんたらしていたから、見つかってしまった。後ろ髪を引かれる思いで岐路に着いたのに台無しになったと天を仰いで、綱吉はぽろっと零した言葉に悲鳴を追加した。
 雲雀がぎょっとする中、両手で口を塞いで、しまった、という顔をする。野良猫の世話をしていると知られたら、それこそ風紀違反だと怒られる可能性を今更思い出したのだ。
 みるみる青ざめていく顔に何度も瞬きを繰り返し、雲雀は構って欲しそうにしている子猫と綱吉を交互に見た。彼が後退すれば、遅れまいと猫もついていく。足を上げて逃げれば、遊んでもらっていると勘違いした猫が伸び上がった。
 元気一杯にじゃれまわる姿は、サンバイザーをした天空仔ライオンを連想させた。毛並みの色合いも、どこか似通っている。二匹を並べれば、兄弟かと勘違いしそうだ。
 そんな子猫に絡まれて、綱吉は弱りきった様子でがっくり肩を落とした。
 彼が先ほど言いかけた台詞には、覚えのある名前が混じっていた。古里炎真。現在並盛中学校二年A組に在籍中の、至門中学校出身の生徒だ。
 同時期に学校にやってきた鈴木アーデルハイドと雲雀には、浅からぬ因縁があった。綱吉自身、一時期炎真と険悪になり、命のやり取りさえする羽目にまで陥った事もあった。
 だが数世代に渡る誤解は解け、両者を縛り付けていた因果の鎖は断ち切られた。血で血を洗う哀しい歴史は幕を下ろし、ボンゴレとシモンは初代の時代同様に、互いに手を取り合って協力しあいながら進んでいくだろう。
 そのシモンの次期ボスである炎真は、大の猫好きだった。
 だが彼らは並盛に、仮住まいでやってきている身。同年代七人が肩寄せあいながら暮らしている下宿では、猫など到底飼えるわけがなかった。
 けれど捨てられた子猫を放っておくことも出来なくて、河川敷の橋の下でこっそり世話をしていた。綱吉も話を聞いて、たまに小魚などを差し入れていた。今日はその炎真が用事でこられないので、綱吉ひとりで此処まで足を伸ばしたというわけだ。
 そうして運悪く、町内を見回っていた雲雀に見つかった。
 炎真が野良猫の世話をしているのは、少年ふたりだけの秘密だった。家庭教師であるリボーンにすら教えていない。もっともあの敏腕ヒットマンのことだから、気付いているけれども黙っている、という可能性は否定できないが。
 こんなに媚を売っているのになかなか相手をしてもらえないのに焦れて、子猫が実力行使に出た。軽く爪を立ててスラックスを引っかかれ、綱吉は布越しの感触に苦虫を噛み潰したような顔をした。
「ふぅん」
「あ、の。保健所とか、そういうとこには連絡しないでください。去勢とか、予防接種とか、炎真とお金集めて、絶対約束するんで」
 役所にこの件を報告されたら、この子猫たちはまず助からない。かといって野良のままでは、糞尿の処理のこともあって近所から迷惑がられるのは必至だ。
 これ以上不幸な猫を作らない為にもやれることはやると主張し、綱吉は両手を大きく広げた。一緒に鞄が揺れて、殴られそうになった子猫が慌てて後ろに飛びずさった。
 綱吉の家で飼えれば一番良いのだが、彼の家にはもう余裕がない。ただでさえ子供が多い上に、レオンやナッツもいる。特にナッツは主人に似て臆病者で、苛められるとすぐに物陰に逃げ込んでぶるぶる震える性格だった。
 子猫と引き合わせたら、喧嘩にすらならない。負けは目に見えている。それはあまりにも可哀想だ。
 炎真もその辺りは分かっているのだろう。引き取ってくれ、とは一度も言ってこない。ただこのままじゃいけないね、と困った顔で呟くのみだ。
「本当に?」
「勿論です。飼ってくれる人も、探してるんです。でも……」
 知り合いに当たってみたが、獄寺には瓜が居る。こちらはナッツと違って気性が荒いので、他の猫との共同生活などどう考えても無理だ。
 山本は自宅が寿司屋で食べ物を扱っているので、こちらも論外。了平や京子の家も、母親が猫アレルギーだとかで難しいという。ハルは、父親が許さなかったそうだ。ディーノはホテル暮らしなので、聞くだけ無駄だ。
 クラスメイトにも相談したが、今のところ立候補者は出ていない。このまま年を越し、雪が降るようになったら、屋外で寝起きしている子猫たちの身体が心配だ。
 だから早くなんとかしたいのに、中学生男子の――しかも学年でも最下位を争う頭脳では、打開策は見つからない。言葉を濁して俯いた綱吉の態度から、引き取り手がなかなか現れない現状を推察し、雲雀は緩慢に頷いた。
 両手を腰に当てて下を見れば、丁度子猫が爪を使って綱吉によじ登ろうとしていた。しかし引っかかりが悪かったのだろう、呆気なく滑り落ちてころんと地面に寝転がる。
 愛くるしい仕草に相好を崩し、彼はやおら膝を折ると砂埃で汚れた身体をつまみあげた。
 襟首を引っ張られ、空中に運ばれても子猫はまるで動じなかった。むしろ傍で見ている綱吉の方が肝を冷やして、心臓を竦ませ悲痛な顔をした。
「ひ、ヒバリさん!」
「ちゃんと世話するって言ってる割に、蚤が住み着いてるよ。あと、目脂も出てる。虫下しの薬はあげた?」
「……え? え?」
「知識もないのに半端に世話しても、この子の寿命を短くするだけだってこと」
 声を上擦らせて両手を伸ばすが、雲雀はサッと避けて返さない。ぶらんとぶら下がる子猫は興味津々に左右を見回し、初体験の高さを楽しんでいた。
 淡々と紡がれる雲雀の言葉は、生憎と半分も意味が解せない。叱られたようであり、呆れられているようでもあり、無責任だとなじられた気がした。
 子猫の保護について、少なくとも綱吉は本気だった。炎真も同じだ。無知なのは認めるが、これまで何も知らず、またしてこなかった雲雀に、子猫の命を軽んじていると言われる道理はない筈だ。
 遅れて押し寄せてきた怒りに目尻を釣り上げた綱吉を鼻で笑い、彼は愛らしく鳴いた子猫に小さく頷いた。
「おいで」
「あ、ちょっと」
 綱吉にか、それとも子猫にか。
 どちらに告げたのかも分からない言葉を残し、雲雀は唐突に踵を返した。方向転換し、通ったばかりの道を戻り始める。
 置いていかれ、綱吉は慌てた。引きとめようと手を伸ばすが空振りして、仕方なく鞄を担ぎ直して大きい背中を追いかけて駆け出す。
「待ってください、ヒバリさん。どこに」
 斜面に設けられた石造りの階段を登り、アスファルトで舗装された道路へ戻る。鉄筋製の古い橋を半ばも過ぎたところでようやく捕まえた手は、反射的に撥ね退けられた。
 乾いた音がひとつ響き、色を濃くした夕焼けに溶けて消えた。
「あ……」
「どこって、決まってるだろ。病院」
「――はい?」
「保健室のヤブ医者じゃないよ。ちゃんと信頼できる動物医を知ってる。飼い主を探すにしても、病気持ちを押しつけるのは善意を寄せてくれた相手に失礼だ。先に検査して、健康体なのを確かめてからじゃないと、後で揉めるよ」
「そう……なんですか?」
 抑揚に乏しい声で告げられても、綱吉にはピンとこない。目を丸くしている少年を横に見て、雲雀は間違って彼を打ってしまった左手をスラックスに押し当てた。
 子猫は胸に抱き、落ちないように利き腕で支えている。動物に対してだけは優しい性格を見抜いているのか、身の危険を憂いで暴れる様子はなかった。
 聞き返されて、雲雀は軽く噴き出した。声を潜めて笑い、教えなければならないことが沢山ありそうだと肩を震わせる。
「ヒバリさん!」
 なにがそんなに面白いのかは分からないが、彼が笑っている原因は間違いなく自分。そこだけははっきりしている綱吉は羞恥で顔を赤く染め、拳を作って上下に振り回した。
 実に忙しない彼に肩を竦め、雲雀はぶんぶん空気を唸らせている彼の手をやや乱暴に、攫うように横から掠め取った。
「っ!」
 握られ、動きを押さえこまれた。最初は手首だったのが、綱吉がピクリと痙攣した直後に下にずれて、気が付けば掌が重なっていた。
 目をあわさぬままぎゅっと握り締められて、それだけで心までも制圧されてしまった。触れ合った場所から流れ込む熱が熱くて、指先から溶けてしまいそうだった。
 頬がヒクリと震えて、出そうになった言葉は口を開いた途端霧散した。全身に悪寒が走り、追い抜く形で電流が駆け抜けた。
「あの、でも、……お金」
 炎真に相談しないで決めてしまって良いのだろうか。だがふたりで額をつき合わせていても、子猫を幸福にしてやれないのは事実だ。
 医者に連れていけなかったのは、単純に資金面に不安があるから。中学生の小遣いは少ない。ましてや炎真には、親がいないのだ。
 この期に及んで決心が付かないでいる綱吉に、雲雀は深々とため息をついた。無理矢理握り締めた手に力を込めて、案ずるなと態度で訴える。
 骨に響く圧力に目を見張った綱吉を盗み見て、彼は紅色の頬にふっ、と微笑んだ。
「出世払いにしてあげるよ」
 夕闇が迫り、街灯に次々と灯が点る。
 地面に落ちた長い影は、やがてひとつに重なり静かに消えた。

2012/12/28 脱稿