雪花

 外は見事な吹雪で、カーテンを捲った瞬間見えた景色に雲雀はぶるりと身を震わせた。
 豪雪地帯というだけあって、二重に設えられた窓は頑丈に出来ている。日本のそれとは違って非常に小さく、子供がやっと潜り抜けられそうなサイズしかない窓枠の向こう側は白く濁り、自然豊かな世界を飲み込もうとしていた。
 辛うじて目に映る灰色は、葉が全て落ちた後の楓の木だろうか。ここに来る前、意識せぬまま眺めた庭の様子を思い浮かべながら、彼は左手に摘んでいた布を開放した。
 茶とベージュのチェック柄がすぐさま視界を塞ぎ、雪に埋もれつつある庭先を隠した。外気に冷やされた空気も遮られて、強張っていた頬が室温に溶かされて行くのがありありと感じられた。
「凄いね」
「そうですねえ」
 日本の、並盛町ではまずお目にかかれない光景だ。以前、もう十年近く前になるか、珍しく雪が積もった日があったけれども、その時でもここまで酷い吹雪にはならなかった。
 中学校の校庭で雪合戦をしていた子供たちを思い浮かべ、感嘆の言葉を呟く。それに同調し、部屋の中ほどにいた青年が鷹揚に頷いた。
 こげ茶色のロッキングチェアに腰掛けて、投げ出した足は宙に浮いている。優しい肌触りの背凭れに全身を委ねており、その横顔は実に幸せそうだった。
 目を閉ざし、口元を綻ばせて微笑んでいる。嬉しい、楽しいという感情が滲み出ており、雲雀への返事に対する表情としては不適応としか言いようがなかった。
 胸の上に両手を重ねている青年の寝姿に、十年前の記憶が一部重なり合う。輪郭が微妙にずれているのは、過ぎ去った歳月の中でお互い成長したからに他ならない。
 あの日無邪気に雪と戯れていた子供が、今や世界を震撼させる巨大マフィアのボスだ。世の中は本当に、なにがどうなるか分かったものではなくて、到底受け入れ難い事実を前にして雲雀は肩を竦めた。
「寝るなら、ベッドに行きなよ。綱吉」
「んー……」
 嘆息交じりに紡がれた言葉に、揺り椅子の青年が鼻から息を吐いて返事の代わりにした。瞼は依然降ろされたままで、特徴的な琥珀色の瞳は未だ暗闇の中だった。
 小ぶりの鼻が時折ひくひく動き、重ねられた両手が一定のリズムで上下する。キィ、と椅子が揺れて軋んだ音を響かせて、そこに薪の爆ぜる音がぶつかった。
 パチッ、と比較的大きく響いた音色に右の眉を持ち上げて、雲雀は意識をそちらに向けた。
 部屋の一角には、年季の入った赤茶色の暖炉が据え付けられていた。
 煤で黒ずんだ鉄製の柵が前方に設置されて、その奥で赤々と炎が踊っている。傍らには火力が弱まった時にくべる為の薪が用意され、灰を掻き回す為の細長い棒が添えられていた。
 暖炉の上には掌サイズのクリスマスツリーが飾られ、右側には白髭のサンタクロースが、反対側には赤鼻のトナカイの人形が置かれていた。更には燃え盛る炎にも似た色のポインセチアが彩を添えて、間もなく訪れる聖夜への期待を否応なしに膨らませてくれた。
「聞いてないね」
「聞いてますよぅ」
「どうだか」
 呼びかけにもたいした反応を示さない綱吉に嘆息すれば、紅色の頬がぷっくり膨らんだ。口を尖らせ反論した彼だけれど、夜明けの太陽を思わせる双眸の輝きは未だ光を宿さず、雲雀の前に現れようとしなかった。
 代わりに右足を蹴り上げたものだから、バランスを崩されたロッキングチェアが急にぎしぎし動き始めた。
 前後に荒々しく波打ち、ひっくり返る寸前まで前のめりになっては反動で背凭れが床につくまで仰け反りもする。空中ブランコに乗せられた気分に陥って、振り落とされそうになった彼は慌てて肘掛を掴んで背中を起こした。
「ひゃっ」
 チェアは暖炉のほぼ正面に設置されていたので、下手をすれば赤々とした炎の中に放り出されていた。もしくは熱を帯びている黒い鉄柵に激突し、消えない痣を顔面に作り上げていたか。
 想像するだけで頬が引き攣る恐怖に背筋を粟立て、そのどちらも無事回避してほっと息を吐く。跳ね上がった心拍数を気にしながら胸を撫で下ろして汗を拭っていたら、すぐ右側で深く長いため息が聞こえた。
「だからもう少し離れて座れって、僕は言ったよね」
 見れば胸の前で腕を組んだ雲雀が、呆れ顔で佇んでいた。
 つい十分ほど前のやり取りを穿り返されて、まさしく彼の予言通りになった綱吉はぐうの音も出ない。瞬く間に冷えていく汗に体温を奪われて寒さを覚え、かちりと奥歯を鳴らせば聞こえた雲雀がゆるゆる首を振った。
 掻き上げられるほどの長さもないくせに前髪を梳き流す仕草をして、指に触れた短い黒髪に気付いてハッとする。一瞬だけしまったと言わんばかりに顔を顰めた彼が面白くて、綱吉は説教されている立場ながらつい笑ってしまった。
「ぷぷ」
「ちょっとは反省しなよ」
「あイテっ」
 堪えきれずに噴き出した彼の脳天に一撃を食らわせ、雲雀は空中で握り拳を解いた。打たれて首を竦めた綱吉は両手で患部を庇って小さくなり、不安定な椅子をゆらゆらと揺らめかせた。
 緊張感の足りない彼らのやり取りを笑うように薪がまた爆ぜて、飛び散った火の粉が灰の海に沈んでいった。煌々と燃え盛る炎は一時期に比べればかなり勢いを失っており、見かねた雲雀は綱吉をその場に残して踵を返した。
「ヒバリさん」
「寝るならベッド、座るならもっと下がる」
 確かに暖炉に近ければ近いほど温かいが、それに比例して火傷をする危険性が高まる。しかも沸騰したヤカンの湯を浴びての高温火傷よりも、長時間コタツに入っているなどしての低温火傷の方が重症になり易い。
 綱吉は靴を履いていなかった。分厚い冬仕様の靴下を着用し、その爪先を炉の方に向けていた。
 成人し、ボンゴレを継いで責任ある立場に身を置いているというのに、いまいち危機感が足りない。万が一彼が足を失うようなことになれば、どうなるのか。一度くらいじっくり想像を巡らせてみればいいのだ。
「ちぇ」
 年寄りじみた説教を滔々と紡いでいく雲雀に口を尖らせた綱吉だが、舌打ちした瞬間じろりと睨まれて渋々ロッキングチェアから足を下ろした。床に転がしていた靴を履いて立ち上がり、先ほどの騒動でまた一段と暖炉に接近してしまった揺れ椅子を五十センチほど後ろにずらす。
 一方の雲雀はといえば、ピラミッド型に積み上げられていた薪を一本取って炎の中に先端を押し込んでいた。
 放り投げるような真似はせず、膝を折って灰の上を滑らせるように置く。その上で使い込まれている火掻き棒を使い、燃え尽きて灰になっている木材の名残を脇へ押しのけた。
「うわっ」
 途端に白っぽい煙が暖炉に立ち込めて、直撃を食らいはしなかったものの、驚いた綱吉が悲鳴を上げた。
 両手を顔の前で交差させて仰け反った彼を振り返り、雲雀が鼻を鳴らした。人を小馬鹿にする笑みを浮かべ、平然としながら鉄の棒を元の場所に戻す。
 灰は、思ったほど飛び散らなかった。ちゃんと加減して、部屋中に舞い上がらないよう調整しながらやったのだと後から気付き、からかわれたと知って綱吉は盛大に頬を膨らませた。
「かわいくないよ」
「可愛くなくて結構です」
 ハリセンボンを真似て口を尖らせた彼を笑い、雲雀が口元を綻ばせて囁く。小突こうとしてか伸ばされた手を瞬時に叩き落して、綱吉は生意気に言い返してそっぽを向いた。
 すっかり機嫌を損ねてしまった彼に苦笑して、雲雀は打たれた場所を紺色のセーターに擦り付けた。
 仕事ではスーツ、オフでは和服を中心にコーディネートしている彼だが、今日に限ってはその縛りから解き放たれて、非常にラフな出で立ちをしていた。
 ざっくり編んだセーターの下には藍と白のストライプ柄のシャツを着て、その下はベージュのチノパンだ。厚手の黒の靴下を履き、山歩き用の底が厚い靴を履いている。
 一方の綱吉も彼と同じ柄の、色違いのセーターを着込み、ポケットが沢山ついているカーキ色のカーゴパンツを着用していた。
 セーターは奈々が編んでくれたものなのだが、遠く海を隔てた場所で暮らしている弊害か、どちらも雲雀の寸法で作成されていた。お陰で息子である綱吉が着るとだぼだぼで、袖と裾が余って酷く不恰好だった。
 次に帰省する際には、巻尺の用意をしておこう。袖を通した瞬間そんなことを強く誓った青年は、隠れている指先を救い出して袖を肘まで捲り上げた。
 ロッキングチェアが暖炉を向くように角度の微調整を済ませ、再びどっしり腰を下ろす。勢いづいた炎を眼下に眺めていた青年は含み笑いを零して目を細め、椅子に戻って心地よさげにしている恋人にやれやれと首を振った。
「お気に入りだね」
 ベッドに入る気は毛頭ないらしい彼にため息とともに呟き、自分はくるりと反転して再び窓辺へと戻る。壁際に置かれたテーブルには厚みのある大きめのマグカップが置かれていたが、中を覗けばこげ茶色に汚れた底が見えた。
 温かな飲み物を補充したくても、キッチンは寒かろう。暖炉の火で十分なくらい暖まっているリビングから離れるのを考えると、どうしても二の足を踏まざるを得なかった。
 眉間に皺を寄せて逡巡する彼を知らず、優雅に椅子を軋ませた綱吉は楽しそうに頬を緩めた。
「へへへー。実はちょっと、憧れだったんです」
 からころと喉を鳴らして笑いながら告げて、首を傾けて雲雀を見る。空のマグカップをテーブルに戻し、黒髪の青年はしまりのない顔をしている綱吉に目尻を下げた。
 ここはイタリア、但しボンゴレが拠点を置く地中海の島からは遠く離れた北の地だった。
 地図の上ではスイスに近く、文化や言語もそちらに過分な影響を受けている。標高が高く冬場は一面の銀世界が広がり、スキーを楽しむ観光客で賑わう一帯だった。
 ここも、そんな一時滞在の旅行客向けに作られたロッジのひとつだ。
 キッチンがあり、寝室があり、このような暖炉つきのリビングがあり、サウナがある。ホテルで宿泊するよりもずっと自由度が高く、気ままな時間が過ごせるとして人気だった。
 ただこういう場所の不便なところは、食事も掃除も自分たちでしなければならないこと。勿論金さえ払えば幾らでもサービスを呼べるが、それではゆったりした時間を過ごせなくなってしまうし、ホテルに泊まるのとなんら違わなくなってしまう。
 だから、と遠慮がちに誘ってきた綱吉を思い返し、雲雀は考え直してマグカップを左右の手にひとつずつ握り締めた。
「憧れって、ロッキングチェアが?」
 合いの手を返しつつ歩き出した彼を横目で追い掛けて、綱吉はゆっくり背筋を伸ばした。だらしなく身を委ねていた背凭れから起き上がり、椅子をキィキィ言わせながら嗚呼、と緩慢に頷く。
 雲雀がどこへ行こうとしているのかを察して、追い掛けようか迷う爪先が空気を掻き回した。
「すみません。……っていうか、こういう暖炉のある家が、かな」
 しかし結局居心地のよい椅子の誘惑に抗いきれず、浮かせた尻も戻して言葉だけを投げる。背中で申し訳なさそうな声を聞き、雲雀は声もなく笑ってカウンターを回りこんだ。
 カップを置いて手を空にしてから消していた照明のスイッチを押し、そう広くもないキッチンに明るく照らし出す。流し台には昼食を作るのに使った大鍋と、ミートソースで汚れた皿が二枚重ねて残されていた。
 夕食の支度に入る前に片付けておかないと、後から大騒ぎになりそうだ。あと二時間後に迫った未来を想像して相好を崩し、雲雀はぴったり身体にフィットするセーターの袖を肘まで押し上げた。
 途端に暖炉の恩恵を受けない冷気が肌を擽り、ひやっとした感触が彼の腕に張り付いた。
「外はもっと寒いのかな」
 だが耐えられないほどではなく、ぼそっと呟いて気を紛らせて薬缶に水を足す。底でコーヒー滓が干からびているマグカップも軽く濯いで水気を振り落とし、持ち込んだドリップコーヒーの封を切ったところでリビングの方から大きな物音が響いた。
 驚いて手の中のものを落としそうになり、寸前で掴み直した雲雀が目を丸くする。何事かとカウンター越しに目を凝らせば、綱吉がロッキングチェアから飛び降りたところだった。
 無人の椅子が前後に激しく揺れて、その手前で甘い蜂蜜色の髪が踊っていた。ぶかぶかのセーターの裾を引っ張って尻まで隠して、何かを探しているのかきょろきょろと首を左右に振り回している。
「綱吉?」
「はーい?」
 なにをしているのか気になって呼びかければ、向こうは何故名前を呼ばれたか分かっていない顔をして振り返った。
 語尾が上り調子の返事は子供のように無邪気で、好奇心旺盛な眼は爛々と輝いていた。来年には二十五歳になるというのに、町を歩けば学生と間違えられるベビーフェイスも相変わらずだった。
「……ミルクは多めだったよね」
「お砂糖もよろしくお願いします」
 そんな無邪気な視線を向けられると、聞くに聞けなくなってしまう。仕方なく雲雀は次に続けるつもりだった質問を奥に引っ込め、代わりに準備中のコーヒーにまつわる注文に切り替えた。
 僅か一秒にも満たない逡巡を知るはずもなく、綱吉は疑いもせずに言葉を返した。茶目っ気たっぷりに舌を出し、苦いブラックは飲めないと暗に主張して暖炉の前を離れる。部屋を出て行くというわけではなく、どうやら部屋で見つけたなにかを取りに行っただけらしかった。
 ロッジの貸主は食材の用意もしてくれないので、嗜好品も全て自前で準備しなければならない。だが荷物は極力減らしたかったので、厳選に厳選を重ねた結果、飲料は酒類以外ではこのコーヒーしか持ち込めなかった。
 そして綱吉は、コーヒーが未だに苦手だった。
 エスプレッソ文化が花開いているこの地においても、彼は紅茶党を貫いている。中学時代から変わっていないと密かに呆れて、雲雀はリクエスト通りたっぷりの砂糖をマグカップの片方にだけ放り込んだ。
 しゅわしゅわ言い出していた薬缶を救出して縁ぎりぎりのところまで注ぎいれ、水分を吸って膨れ上がったコーヒー粉が萎びていく光景を眺めながら暫く待つ。
「どっち、だったかな」
「え?」
 だがふと気になって、雲雀ははてと首を傾げた。
 たまたま聞こえた綱吉が甲高い声と共に振り返るが、俯いたままの雲雀は気付かない。カウンターの向こうで難しい顔をしている恋人に眉根を寄せて、彼は不満げに口を尖らせた。
 両手に抱えたクッションを真ん中で押し潰し、瓢箪型に凹ませてふいっとそっぽを向く。それでも雲雀は視線を上げず、腕組みをして数秒黙り込んだ後、不要となったドリップの容器を引き抜き、滴る雫を落とさぬよう流し台脇のゴミ箱へと放り投げた。そうして手前にあるマグカップに一回使い切りタイプのミルクをふたつ、封を切って流し込んだ。
 真っ黒だった液体に白い渦が表れる。それをスプーンで掻き混ぜて消して、雲雀は耳たぶのような形の持ち手に人差し指をねじ込んだ。
「……たぶん、こっち」
 もう一度、自信なさげに囁いてマグカップを持ち上げて歩き出した彼に、暖炉前でクッションを並べた綱吉は不思議そうに首を傾げた。
「ヒバリさん?」
「なに、そっちに行くの?」
 お互い首を捻りながら向き合ったふたりだが、先に言葉を連ねたのは雲雀だった。
 食事をするダイニングチェアにあったクッションがふたつ、いつの間にか暖炉前に移動していた。誰が動かしたのかは聞くまでもなくて、小さな悪戯を指摘された青年は恥ずかしそうに首を竦めた。
 昔から変わらない癖毛を引っ掻き回し、ピンク色のクッションに先に座って隣を叩く。水色のクッションから舞い上がった埃を避けて、雲雀は湯気を放つマグカップを高く掲げた。
「ヒバリさんは、ここ」
「……これも、憧れてたの?」
「まあ、そんなところです」
 今年のクリスマスの予定は空いているかと聞かれたのが、今から大体二ヶ月前のこと。ここに行きませんか、と地図と一緒に招待状が届いたのが一ヶ月近く前になる。
 プランは全て綱吉主導だった。雲雀は彼が決めた後、これで良いかと伺いを立てられた時に黙って首を縦に振っただけだ。
 雪深い小さな村のロッジで、ふたりだけで過ごすクリスマス。生憎の吹雪に見舞われて外に出るのは叶わないが、逆を言えば外から訪ねてくる無粋者はこれで居なくなった。
「暖炉なんて、ボンゴレの城にだってあるだろ」
「そういうんじゃなくて、ですね」
 埃が収まってからゆっくり腰を下ろし、雲雀は絨毯の上に置かれたクッションを凹ませた。そして零れないよう水平を保っていたマグカップのうち、色の薄い方を綱吉に差し出す。彼は小さく頭を下げて礼に替え、両手で陶器のカップを受け取った。
 ふたりとも、正直なところ料理の腕はからきしだ。だから夕飯自体は期待できない。美しい雪景色も外の荒れようからは望むべくもなかった。
 だが不満はない。温かい部屋で、愛しい人と共に時を過ごせる。誰にも邪魔されず、咎められることもなく、したいようにしていられるのは幸せと言う以外他になかった。
「ロッキングチェアだって、君が言えば幾らでも買ってくるだろ」
「ですから、……ほんと、ヒバリさんってそういうところが分かんないんだから」
「それは悪かったね」
 だというのにこの男はムードのないことばかり口にして、綱吉を怒らせた。伝わらないもどかしさに焦れて語気を荒くして、彼は窄めた口から思い切り息を吐いた。
 まだ熱いコーヒーを冷まそうと躍起になっている横顔を盗み見て、叱られた青年は平然としながら立てた右膝に肘を預けた。
 目の前では暖炉の炎が揺れて、左を見れば綱吉が頬を膨らませている。風が窓を叩く以外大きな音もなく、まだ午後の早い時間だというのに深夜を思わせるくらいに静かだった。
「こんなんじゃ、サンタクロースも来そうにないね」
「えっ」
「なに」
「……ああ、いえ。なんでも」
 だから音の一つも欲しくなり、思いつきで囁けば、真横で聞いていた綱吉が大袈裟なくらいに肩を跳ね上げた。
 見れば彼は大粒の瞳をまん丸に見開いて、吃驚仰天と顔に書いていた。目が合った瞬間気まずそうに逸らして首を振り、幾分弱まった湯気を更に減らそうとマグカップに向き直ってしまう。
 熱心に息吹きかけている姿に嘆息して、雲雀はそんなに似合わないかと口をヘの字に曲げた。
 暖炉に飾られた人形をちらりと見て面白くなさそうに足を崩し、頬杖着いてブラックコーヒーを啜ろうとカップを傾ける。しかし口をつける直前、肩がぶつかる近さに座っている青年が笑うのが聞こえて、彼は瞬時に動きを止めた。
「いいんですよ。サンタクロースは、もう来てますから」
 くすくすと忍び笑いを零しながら呟かれたひと言は、明らかに雲雀に向けて放たれたものではなかった。
 聞かれるのを前提としていない独り言を、たまたま耳が拾い上げてしまった。この場合反応すべきなのかどうなのか分からなくてひとり戸惑い、雲雀は唇の一センチ手前まで来ていたマグカップをゆっくり膝に降ろした。
 波を打ったコーヒーが縁を飛び越えようとして、寸前で食い止められて呆気なく砕け散った。ちゃぷん、と響いた微かな音色に肩を竦め、雲雀はいくつもの波紋が踊る水面に目を細めた。
「まあ、いいか」
 言いたいことや言わねばならないこと、言おうとして忘れていたことが一気に胸の中に溢れ返ったが、それらは一旦脇に置くことにする。ひとまずこの静かで穏やかな環境を楽しむことにして、彼はぽつりと零してマグカップの縁をなぞった。
 軽く濯いだ程度では落としきれなかった唇型の汚れを撫で、同じ場所に重ねる形でブラックコーヒーを喉に流し込む。
「んっ」
 隣の綱吉もほぼ同じタイミングでカップを傾け、砂糖とミルクで味付けされているドリップコーヒーを咥内に招き入れた。
 そして。
「…………」
「……――――」
 ひとくち飲んだところで、二人揃って沈黙した。
 未だたっぷり中身が入ったカップを遠ざけて床に置き、雲雀が口を覆って俯いた。綱吉は疲れた顔をして、左手で額を押さえてふるふる首を振った。
 お互いに酷く沈痛な面持ちを作り、発すべき言葉を捜して瞳を泳がせる。虚空を彷徨い遠くを見つめる雲雀に深々とため息を零して、権威あるマフィア、ボンゴレの十代目は苦味を訴える舌をべー、と伸ばした。
「にぎゃ……い、んですけど」
「こっちは甘い」
 口を開いたまま喋った所為で、若干呂律が回らない。たどたどしい発音に同意して頷いて、雲雀は短い黒髪を掻き回した。
 危惧していた通りになってしまった。コーヒーを淹れる際、どちらに砂糖が入っているか確認しないままミルクを注いだのが失敗だった。
 それもこれも、ロッジに備え付けられていたマグカップがどれも同じデザインだったのが原因だ。ここが自宅か、ボンゴレの居城であれば、こんな初歩的なミスは絶対に起こらなかっただろうに。
 珍しい失態に、雲雀がばつが悪い顔をして舌打ちを繰り返す。甘いものが苦手な彼は、コーヒーもブラック一択だった。
 綱吉はミルクと砂糖があれば飲めるので、ここにスティックシュガーを一本放り込めばどうにかなる。だが雲雀はそうはいかない。一度溶けてしまったものを分離させるなど、ボンゴレ十代目とはいえ不可能だ。
 天才科学者を名乗るヴェルデ、或いはスパナや正一といったメンバーならばそういった機能を持つマシンを作り出せるかもしれない。が、神聖な夜にこんなくだらない理由で呼び出されたら、誰だって機嫌を損ねよう。
 喧しく怒鳴り散らす白衣に眼鏡の小学生を思い浮かべ、綱吉は渋い表情の青年を盗み見た。
「ヒバリさんでも、間違えることってあるんですね」
「ほっといて」
 可笑しくて笑いながら聞けば、素っ気無い返事しかもらえなかった。覗き込めば逃げられて、背中を向けられた綱吉は堪えきれず噴き出した。
 折角の聖夜なのに、格好悪い所を見せてしまったとでも思っているのだろう。
 なにをやらせても完璧で、隙がない男がたまにこうやってミスをして恥じ入るところが可愛くて、人間らしくて好きなのだが、言ったところでどうせ彼は聞く耳を持つまい。だがずっと落ち込んだままで居られるのも困るので、綱吉はまだ苦味を残す咥内を舌で嘗め回すと、砂糖だけが入っているマグカップに微笑んだ。
「ヒバリさん」
 手元には、ミルクだけが入っているコーヒー。このふたつが交われば、綱吉はなんとか飲むことが出来る。
 名を呼んで、彼はサイズぴったりのセーターを摘んだ。袖を取り、他所向いたままの男の意識を引き寄せる。
 下に着込んでいるシャツごと引っ張られては、振り向かざるを得ない。不機嫌を隠しもせず、渋々左に向き直ろうとして、雲雀は眼前に迫り来る影に気付いて目を見開いた。
「ン」
 蜂蜜色の塊が頭突きを仕掛けてきた、わけではなかった。
 ちゅ、という可愛らしい音色が鼻から零れ落ちた甘い吐息とセットになって場に満ちて、ぱちぱちと炎が跳ねる音がそれに覆い被さる。呆然と目を見開く前で綱吉はゆっくり身を引いて、思うほど反応が得られなかった事実に不満げな表情を見せた。
 一瞬だけ触れた唇は、濃いめに淹れられたコーヒーの匂いがした。
「……え?」
「もういいですっ」
 鼻腔を擽った心地よい香りにも呆然とさせられて、雲雀は咄嗟に何も言えなかった。
 今し方自分の身に起きた出来事さえも理解が追いつかず、惚けた顔をして目を瞬かせる。ぽかんとしたまま口元に手を持っていった彼に目尻を釣り上げて、綱吉は癇癪を爆発させて怒鳴った。
 今日の彼はいつにも増して鈍感で、洞察力が足りていなかった。
 それはきっと、仕事から切り離された非日常に身を置いて、心からリラックスしているからに違いない。だがあまりにも気を緩めすぎではないかと憤っていたら、ほんのり湿った唇を撫でた雲雀が手の影で口元を緩めた。
「甘い」
「っ」
「……そう。なに、飲ませて欲しいの?」
 ぽつりと呟かれた言葉に息を呑み、拳を振り上げた体勢で綱吉は凍りついた。すっと音もなく細められた黒い眼に魅入られて、否定も肯定も出来なくてただ頬をヒクつかせる。
 引き攣り笑いを浮かべた恋人に目を眇め、雲雀は砂糖に加えてミルクも足された唇をもう一度舐めた。
 一瞬だけ現れて消えた緋色に、自然と視線が吸い寄せられる。だがそれを知られるのが嫌で無理に顔を背けていたら、雲雀がクッ、と喉を鳴らして笑った。
「べ、別に、そんなつもりじゃ」
「ふぅん?」
 図星を指摘されて、慌てて誤魔化そうとするが雲雀がそれで信じてくれるわけがなかった。
 綱吉の狙いはまさしく彼の返事通りなのだが、後から考えてみれば、随分と恥ずかしい発想だったと言わざるを得ない。年頃の中学生か、とあの頃からまったく成長していない自分を意識して顔を赤らめていたら、なにかを企んでいる顔をした雲雀が鷹揚に頷いた。
 嫌な予感を覚えて冷や汗を流し、綱吉は持っていたコップを両手で抱き直した。
 衝撃で表面が波立ち、かなり温くなっているコーヒーが零れそうになって余計に慌てふためく。ピンク色のクッションの上であわあわしている青年に苦笑して、雲雀は長くしなやかな指を彼に差し伸べた。
「あ」
 利き手を広げてマグカップを上から掴み、水平に持ち上げる。引っ張られた綱吉は急いで指の力を抜き、ミルク入りのコーヒーを彼に委ねた。
 掴んでいたものがなくなっても、細かい傷を多々残す手は宙に浮いたままだ。なにかを包み込む形のまま停止している腕越しに彼を見つめ、雲雀はおもむろに奪い取ったコーヒーを少量、口に含んだ。
 立派な喉仏は動かない。スプーン一杯分程度の量を咥内に留め置き、役目を終えたカップを床に下ろした彼は続けてもう片方のカップを持ち上げた。
 そちらも同じだけの量を口中に注ぎ足した雲雀の横顔は、正直言って少し辛そうだった。
「……ああ、ホントにもう」
 馬鹿なことを考えた人間もいれば、その馬鹿なことを実践する人間もいる。自分たちはつくづく、奇妙なところでバランスが取れている。
 二人揃ってどうしようもないと心の中で失笑して、綱吉は眉間に皺を寄せている愛しい人に目尻を下げた。
「ん」
 カップを置いた雲雀の指が、くいっ、と鉤状に曲げられた。近くに来いとの合図を受けて、綱吉はクッションから尻を浮かせ、膝立ちになった。
 気難しい顔をしている男にゆっくり近づけば、我慢し切れなかったのか雲雀がいきなり肩を掴んできた。
 上腕を握られ、ぐいっと引っ張られる。正面衝突の恐怖に負けて目を瞑ったところで、向こうも勢い付けすぎたと気付いたのだろう、ふわりと空気が軽くなった。
 咥内がコーヒーでいっぱいの為もあり、雲雀はなにも言わなかった。仕方なく、そろりと右目だけを持ち上げた綱吉がタイミングを読んでおずおず唇を開く。ちろりと覗かせた舌を素早く戻したところで、辛抱出来なくなった雲雀が急くままに顔を近づけて来た。
 最初はちゅ、と触れるだけ。いきなりがっつくような真似はしなかった彼に驚き、綱吉が瞼を見開く。それを狙っていたのだろう、至近距離で目が合った雲雀が不敵に笑った。
「ヒバ――んむっ」
 騙された。反射的に叫ぼうとして、綱吉は直後唇を覆った熱に目を白黒させた。
 行き場を失った呼気が鼻から抜けていき、開きっ放しの唇にぬるっとしたものが触れて背筋が粟立つ。それが彼の舌だと理解した頃には生温い液体が細い橋を渡って流れ込んできて、咥内に溢れ返る苦味に息も出来なかった。
 なにかを飲み込む構えも出来ておらず、反射的に咳き込んで吐き出しそうになった。だががっぷり食いつかれている所為で唇を振り解くのは叶わず、舌を押し返そうにも苦味への拒否反応が強すぎて上手く立ち回れない。嫌々と首を振るが許してもらえなくて、綱吉は自然と浮いた涙で目尻を濡らして鼻を愚図らせた。
「う……んぐ、っふ」
 どうにか無理を利かせて喉の先へと流し込めば、何故か関係ないはずの鼻の奥がツーンと来た。プールで塩素混じりの水を吸い込んでしまった時のような感覚に苦々しい顔をすれば、舌を伸ばしたまま離れていった雲雀が勝ち誇った笑みを浮かべて口端を舐めた。
 まだ残っていたコーヒーを、誰のものかも分からない唾液と一緒に飲みこんで軽く噎せる。けほっ、と咳き込んだ綱吉の左の頬を擽って、雲雀は満足そうに深く息を吐いた。
「美味しい?」
「……残念ながら」
 ミルク入りと砂糖入り、混ぜて飲めば美味しくなるかと思ったのだが。
 実にくだらない実験は失敗に終わり、人肌に温くて苦いだけの液体を飲まされた綱吉は飛び出そうになった唾を留めて唇を舐めた。もう一度咳をして口元を拭い、機嫌よさそうな傍らの男をねめつける。
 しかし童顔で女顔の怒り顔では迫力など無いに等しく、効果は全く期待出来なかった。
 キスの名残ともいうべき甘い雰囲気も掻き消えてしまい、リビングには暖炉で燃え盛る炎の音ばかりが響き渡る。ゆらゆらと揺れる赤い影をちらりと盗み見て、雲雀はまだ喉を気にしている青年に再度手を伸ばした。
「ヒバリさん」
「口直ししようか」
 目立たない喉仏を撫でていた左手を取り、男が囁く。耳たぶを掠めた吐息にぞっとして、綱吉は身体を支えている膝でクッションを蹴り飛ばした。
 ピンク色が絨毯の上を滑り、縁を越えてレンガで造られた暖炉へと迫る。黒光りする鉄製の柵手前で足を止めたそれにほっとする暇もなく、右手の自由も奪った雲雀が綱吉に向かって背筋を伸ばした。
「ちょ、待――」
「ダメ」
 まだ心構えが出来ていないと訴えるが、聞き入れられない。逃げようと足掻く彼を易々と束縛して、雲雀は告げると同時に目を閉じた。
 重なり合った唇は、相変わらずコーヒーの甘くて苦い香りに染まっていた。
「んぅ……っ」
 柔い熱を押し付けられて、背筋が凍える。ビリッと走った静電気に四肢を強張らせ、綱吉は下唇を包むように動く獣の息吹に固く目を閉ざした。
 軽く前歯を立てて表皮を削られ、宥めるように濡れた舌が重ねられた。舐られて唾液を塗され、余った分を吸い取ろうと食いつかれる。
 骨の髄まで吸い尽くされる錯覚に身悶えて、綱吉は支えるものを求めて虚空を掻き回した。
 いつの間にか雲雀の手は背中と腰に回されて、華奢な体躯を強く抱きしめていた。双丘の膨らみをズボンの上から撫で回し、足の付け根を擽ってから前に回りこもうと動き始める。
 その間もキスの雨は止まず、触れては離れ、離れては触れる繰り返しだった。
 粘ついた唾液が舌の上を飛び跳ねて、伸びた糸が千切れる冷たさに身を震わせる。雲雀の肩に縋って荒い息を吐き、綱吉は頬を舐る舌に首を振って瞼を伏した。
 たっぷりの唾液を吸って唇は潤い、赤く色付いた様はアダムを誘惑した蛇の林檎を思わせた。
「あの、ヒバリさん」
「ん?」
 時計の針はまだ午後の早い時間を指している。もっとも外は雪で、外出もままならない。テレビを点けたところで異国語の番組は笑いどころが日本と違っており、長編ドラマの一話だけを見ても筋立てすら理解出来ないだろう。
 他にする事がないのかと呆れるが、心躍っているのも確かだ。笑うしかないと肩を竦め、綱吉は獣の眼差しを宿す男の胸を軽く衝いた。
 暖炉では炎が揺れていた。
 雪国で、丁度こんな洋風の館の一室で、踊る炎を見ながらロッキングチェアに座るのが夢だった。最愛の人とふたりで、誰にも邪魔されずに聖夜を過ごしたいと願っていた。
 また来年の為に夢を編み直さないといけない。計画を立てるのも一苦労だと心の中で舌を出して、綱吉は怪訝にしている男に微笑んだ。
「ヒバリさんがさっき俺に言った台詞、覚えてますか?」
 彼が自分と一緒に居て、仕事を忘れてのんびりと過ごせているのだとしたら、これほど幸せなことはない。だが少しくらいは聡さも残しておいて欲しいと我が儘を言えば、一瞬だけ視線を浮かせた男がすぐに口角を歪めて笑った。
 背を抱く腕に力が篭り、締め付けられた綱吉は緊張に息を呑んだ。
「そりゃ、勿論」
 チリチリと肌を焼く熱に、心臓がきゅうっと縮こまる。甘く囁く低音に首を竦め、恐る恐る前を窺った綱吉は不敵な笑みを目の当たりにして気恥ずかしげに俯いた。
 手編みのセーターに指を引っ掛けて握り締めれば、触れた場所から雲雀の心音が聞こえてくるようだった。
 とくん、とくんと言っているリズムがいつにも増して速く感じられて、ただそれだけのことなのに嬉しくなった。
「で、どっちにするの?」
 ベッドに行くか、暖炉から離れるか。
 沈黙するロッキングチェアを仰いだ雲雀の問いかけに、綱吉は悪戯っぽく笑った。

2012/12/23 脱稿