Pumpkin

 闇が押し迫ってくるようだった。
 放課後、四時過ぎ。練習開始から三十分ほどが経過し、熱気が満ち始めた体育館を出た瞬間に見た西の空は、見事なまでの朱色に染まっていた。
 一方東に視線を転じれば、藍色が群れを成して天頂を目指し突き進んでいるのが見えた。そして白い雲が両者に跨る形で幅を利かせ、下側はオレンジ色、上側は灰色というどっちつかずの有様で事の行く末を見守っていた。
 日暮れまで、あと少しもない。地面に落ちた影は長く、迂闊にも背が伸びた錯覚を抱かされた。
「いっちち」
 すらりと伸びた長い脚に一瞬うっとりした日向を、膝の痛みが現実に連れ戻す。見れば右足の半月版一帯が赤黒く染まり、皮膚は一部擦り切れて血が滲んでいた。
 つい五分ほど前、盛大にすっ転んだ時に出来た傷だ。しかもそれ以外にも、彼の身体の各所には打撲の痕が多数見受けられた。
 この八ヶ月ほどですっかり草臥れてしまっていたシューズの造反により、靴底が剥がれ落ちた結果がこれだ。毎日休みなく酷使されて磨り減ったゴム部分が本体から外れ落ちてしまい、土踏まずの辺りでべろんと垂れ下がるという有様だった。
 前々からどうにも怪しいとは思っていたが、新しいものを買いに行く手間と金を惜しんだのが災いした。予備など当然持っていない。当面は、学校の授業で使う体育館シューズで代用するしかなさそうだ。
 これが試合中でなくてよかった、と言ったのは影山だ。こんなになるまで放置している方が悪いと嘲ったのは、同学年の月島だ。田中と西谷は腹を抱えて笑い転げ、あまりの出来事に呆然としていた日向を慰めてくれたのは、縁下ひとりだけだった。
 ともあれ、こんな状態の靴を履いての練習続行は不可能だ。教室に置いてある体育館シューズを取りに行くついでに保健室へ行くよう助言を受けて、彼は傷を追った右足を庇うように体育館を出た。
「ひー、さむっ」
 校舎に繋がる渡り廊下は、距離にして十メートルもない。しかし校舎脇には溶け損ねた雪が残り、見るからに寒そうだった。
 身体を動かしている間は、外の気温はさほど気にならなかった。館内は人いきれに溢れ、むっとして汗ばむくらいだった。
 だからこそ余計に冷気が身に沁みる。突き刺さる寒風に身を竦ませ、ワンテンポ遅れて己を抱きしめた日向は、さっさと保健室で用事を済ませてしまおうとトタン屋根の下を駆け抜けようとした。
 だが出した足に体重を乗せた途端、ズキッと来る痛みに顔が歪んだ。
「うおっ」
 しかも彼の右足は、底の外れたシューズを装着したままだった。
 歩く度に靴底がぺたぺた言う上に、穴が開いたところから冷風が吹き込んで足の裏から体温を奪っていく。踏み込むタイミングを誤れば、靴下が直接コンクリート製の地面に触れた。
 非常に歩き難い。しかも片足が不自由とあっては、一歩進むのさえ常の倍近く時間がかかった。
 なんとも心許ない、覚束ない足取りに不安を覚えずにいられない。そのうちまた転ぶのではないかと日向自身危惧して冷や汗を流していたら、閉めた筈の体育館の扉が開く音がした。
「なにやってんだ、ボケ」
「ひゃわっ」
 肘まで捲り上げていた長袖のシャツを伸ばすか、一刻も早く校舎まで突き進んでしまうか。上着を取りに戻る選択肢もあると頭の中でぐるぐる考えていた矢先、不意打ちのように飛んできた怒号に日向は竦みあがった。
 油断していたところを攻撃されて、突き刺さった罵倒に背筋がピーンと伸びた。反射的に繰り出した足は強く地面を踏みしめて、膝頭に生じた激痛にヒクッと頬が引き攣った。
 爪先から駆け上ってきた痛みに全身を毛羽立てて震わせて、彼は近づいてくる足音にカタカタ奥歯を鳴らした。気温の低さが原因ではない悪寒に心臓が萎縮して、末端から冷えていく感覚に意識が遠くなりそうだった。
 そんな日向の頭を後ろから軽く叩いて、チームの司令塔たる天才セッターが深々とため息をついた。
「ンなとこでチンタラしてたら、日が暮れっぞ」
 言葉が吐き捨てられると同時に、華奢な肩にふわりとなにかが圧し掛かった。一瞬ずっしり来て、しかし直ぐに薄れた重みは慣れ親しんだものに違いなく、背中一面と上腕を覆った温もりに彼は目を瞬かせた。
 咄嗟に掴んで胸元に引き寄せれば、腕全体もすっぽり布に覆われた。馴染みのある感触と目に入った黒色に呆然となり、左側でそっぽを向いている男を呆然と見やる。
「……あ、っと。サンキュ」
「その靴じゃ歩き辛れーだろ。肩貸してやっから、さっさと行くぞ」
「お、おう」
 体育館に置きっ放しだったジャージを、わざわざ持ってきてくれたのだ。まさか彼にそんな気遣いが出来るとは思わなくて吃驚していたら、ちらりと横目で窺ってきた影山がおもむろに手を差し出した。
 背中をすり抜けていった腕が右肩を掴む。引き寄せられて、バランスが崩れそうになった日向は慌てて影山の腰に抱きついた。
 ジャージの上からでもはっきり分かる逞しさに、思わず指が滑りそうになった。腹筋が分厚い。どうしても握りが甘くなって、一抹の悔しさを堪えて日向は黒いジャージを引っ掴んだ。
 爪先がポケットを掠めた。折角だからとそこに指を突っ込んで捻れば、巻き込まれた布が手首までを包み込む。折り返し部分の縫い目をなぞり、彼は左半身に触れた体温に相好を崩した。
「あんがとな」
「テメーが戻ってこねーと、速攻の練習が出来ねーんだよ」
 改めて礼を告げれば、影山は一瞬息を詰まらせてからふいっと顔を背けた。吐き捨てられた台詞は、字面だけを見れば不満げであったが、声は僅かに音程が狂っており、いつもの彼とは若干違っていた。
 上を見れば黒髪から覗く耳が少し赤い。それもきっと、寒さから来る変化ではない。
 こみ上げてくる笑みを奥歯で噛み潰し、日向は堪えようと腹に力を込めた。
「おおぅ」
「ばっか。ちゃんと足元見とけ」
 その矢先、またも転びそうになって片足で飛び跳ねる。校舎に通じる段差に躓きかけた彼を叱り、影山はずるりと身を低くしたチームメイトを抱え直した。
 ふたりの身長差は、二十センチに近い。凡そにして、拳ふたつ分だ。
 これだけ差があれば、肩を抱くのも大変だ。ただでさえ歩き辛いというのに日向は背伸びを強いられて、影山は腰や膝を軽く曲げなければならない。真っ直ぐ背筋を伸ばせない不便さに小さく舌打ちし、彼は眉間の皺を深くした。
「いっそ負ぶるか?」
「冗談じゃねーっての」
 もしくは赤ん坊にするように、両腕で胸に抱き上げるか。
 その方が圧倒的に楽だし早い、と小声でぼそぼそ呟いた影山に、聞こえていた日向は瞬時に反発して声を荒らげた。
 そんな恥ずかしい真似、認められるわけがない。もし誰かに見られでもしたら大笑いされるのは確実だし、明日にはその光景が学校中に知れ渡っているだろう。
 バレーボール部の変人凸凹コンビは、今や烏野高校でも知らぬ者はないというくらいに有名だった。
 喧嘩ばかりしているくせに何かにつけて一緒に行動している上、一度同じコートに立てば絶妙なコンビネーションを発揮する。仲が良いのかと聞かれれば即答で否定するくせに、そのタイミングは息が合っているとしか言いようがないものだった。
 周囲の評価は本人らにとっては不本意でしかなく、これ以上変な噂を立てられるのは迷惑でしかない。だから影山に負ぶられるなど、二度とご免だった。
「ンなこまけーこと、どうだっていいだろ」
「うっせえ。指差して笑われる身にもなれ!」
 以前時間を惜しんだ影山に、俗に言う姫抱っこで保健室へ運ばれたことがあった。その光景を偶然居合わせた部に全く関係ない人間に撮影されて、学校中にメールで広まるのに半日と掛からなかった過去例が実際に存在していた。
 お陰で日向は別の学年の、全く知らない人にまで男子排球部のお姫様と呼ばれる羽目に陥り、一時期かなり心荒む日々を送らされた。
 ここで影山も王様ならぬ王子様と揶揄されれば幾らか胸がすっとするのだが、何故か抱きかかえていた方はあまり話題に上らなかった。
 横抱きにされる日向にピントを合わせていた所為で、影山の首から上が写真に写っていなかったのも原因のひとつだろうが、この落差は到底納得できるものでなかった。
 あの暗黒の日々を思い出すだけで、胃の辺りがむかむかする。すっかり気分を害してしまった彼を横目で見て、影山はひっそり嘆息した。
「いいから、行くぞ」
 日向が肩から滑り落ちたジャージに袖を通し終わるのを待って、ぶっきらぼうに告げる。表情の変化に乏しい男を見上げて、日向もぶすっと頬を膨らませた。
 今一度彼の肩を借りて、幾ばくか痛みの引いた足を庇いながら薄暗い廊下を進む。外は徐々に昼の明るさを忘れ、夕焼けも闇に侵食されつつあった。
 日没まで、あと少しだった。
「替えのシューズくらい用意しとけっての」
「しょーがねーだろ。最近、日ぃ暮れんのすんげー早いから、寄り道してる暇なんかあるかっての」 
 気温は下がり、雪だって降る。山越えも厳しくなって、以前のように三十分で道を駆けるのが難しくなっていた。
 路面が凍結しているところを自転車で全力疾走など、自殺行為も良いところだ。だから身の安全のためにも、ゆっくり進まなければいけない。お陰で前より早く家を出なければならず、帰るのも遅くなった。
 口を尖らせ言った日向に緩慢に頷いて、それもそうかと影山は白く濁る息を吐いた。
「じゃー、明日の土曜。練習終わった後だな」
「えっ」
「当たり前だろ。試合、どうすんだよ。その靴で出る気か」
「あー……だよなあ」
 前を見据えたまま、当たり前のように呟く。一緒に買い物に行く気でいる彼に驚いて声を上擦らせれば、振り向いた影山に逆に不思議そうに見つめられた。
 右膝を揺らせば、剥がれた靴底が一緒になって左右に踊る。支えを失った爪先が覗いて、灰色に染まった靴下が寒そうに首を竦ませた。
 こんな状態で飛んだり跳ねたり出来るわけがない。手痛い出費だと天を仰いで嘆き、日向はがっくり項垂れた。
 正月明けならば多少財布も潤っていようが、年の瀬を目前にしたこの季節は非常に心細い。母に前借りを頼むしかない状況に打ちひしがれて肩を落とし、彼はゆるゆる首を振った。
 その横顔を盗み見て、影山が何かを言おうと口を開いた。しかし声を発する寸前で思い直したか、緊張で色を悪くした唇は黙って閉じられた。
「あー、そういや明日って」
「っ」
 その直後、日向が頭にカレンダーを思い描きながら声を高くした。
 びくっと跳ね上がった肩にどきりとして、振り落とされそうになって目を丸くする。反射的に左手に力が篭り、影山のジャージを思い切り引っ張ってしまう。布を縫い合わせた糸に余計な負荷がかかって、どこかで切れたか嫌な感触がした。
 だが実際にはジャージは裂けておらず、穴が開いた様子もない。背中のロゴにも異常がないのにほっとして、日向は気まずげにしているチームメイトに小首を傾げた。
「影山?」
「ンでもねーよ」
 歩みを止めた彼を怪訝に呼べば、つっけんどんに言い返された。
 飛んできた唾を避けて眉目を顰め、日向が口を尖らせる。だが影山はそれ以上何も言わず、黙って日向の肩に腕を戻した。
 保健室まで、あと半分ほどだろうか。窓の外を見れば、グラウンドで白球を追いかける野球部の姿があった。
 吹奏楽部の合奏が聞こえる。陸上部のものらしき笛の音が、その合間を縫って響き渡っていた。
 今年のカレンダーが終わるまで、あと十日となった。間もなくクリスマスがやって来て、それが終われば正月まで一瞬だ。
 冬休みも烏野高校男子排球部は忙しい。終日休みなのは元日だけで、それ以外は大晦日でも練習に集まる。大掃除をしている暇がない、と嘆く暇すら惜しかった。
「影山、ちょっと速い」
「ああ、悪い。お前、足短いんだったな」
「むっきー!」
 半ば影山に引きずられる格好で、タイミングが取り辛い。文句を言えば背の低さをからかわれて、日向は真っ赤になって煙を吐いた。
 空いている右の拳を振り回すが、効果はない。影山は愉快そうに呵々と笑い、その揺れが日向にも伝わった。
 機嫌良さげにしている横顔にほっとして、日向は指を解いて空気を掻き回した。
「明日って、えっと……あれだよな。一年で、一番、昼間が長い日」
「……冬至、な」
「そう、それ」
 自宅の居間に吊るされている大きなカレンダー。そこに記されていた単語を言い当てられて、日向は嬉しそうに声を高くした。
 正解だと指差された影山は心持ち複雑そうな顔をして、口は真一文字に引き結んだ。眉間に残ったままの皺を数えて相好を崩し、日向は少々汗ばんでいる掌をハーフパンツにこすりつけた。
 膝から下は外気に晒され続けていたが、気のせいか妙に暑い。一歩を踏み出すのも億劫だったが、肩を貸している影山が歩みを休めないので、半ば引きずられる形で日向も足を前に運んだ。
「おれんち、ゆず湯すんだ。湯船、いーぱっいにして」
「あのでけー風呂場でかよ。馬鹿じゃね?」
「いーんだよ、それが。……来るか?」
 冬至といえば、ゆずを浮かべた風呂で身体を温めるのが古くからの慣わしだった。
 日向家でも、大量の柑橘を浴槽に浮かべるのが毎年の恒例行事だった。しかも昔はごく少量だったものが、年を重ねる毎に量が増えて行き、今や水面が見えなくなる一歩手前まで来ていた。
 右手を広げて空中に円を描けば、想像した影山が馬鹿にしたように呟く。その態度に不満を露わにしつつ、日向は遠慮がちにチームメイトに問うた。
 声を潜めた彼に虚を衝かれた顔をして、影山の目が丸く見開かれた。頬を紅潮させつつ視線を合わせようとしない日向に息を飲み、即座に顔を逸らして明後日の方向を見る。
 白かった耳たぶが夕焼け色に染まっていく様を窺って、日向は返事を急かして彼の腰に腰をぶつけた。
「……悪いだろ」
「いーって、いーって。気にすんなって」
 衝撃に身を揺らし、影山がぼそぼそと切り返す。それを明るく否定して、日向は最後に小声で付け足した。
「雪下ろし手伝ってくれたら、だけど」
「やっぱそっちが目的じゃねーか!」
 聞こえた瞬間声を大にし、けが人だというのも忘れて日向を突き飛ばす。乱暴を働いた影山の前でぴょんぴょん飛び跳ねて、彼は膝に戻ってきた痛みにも顔を歪めた。
 口をヘの字に曲げて頬を膨らませ、ケチだなんだと声高に捲くし立てる。元気が有り余っている彼にこれ以上肩を貸してやる道理もなくて、影山は深々とため息をつくと鬱陶しい前髪を掻き上げた。
 先週のことだ。同じように彼に誘われて週末泊まりに行ったら、玄関先でにこやかにスコップを手渡された。訳が分からなくて戸惑っていたら屋根の上に連れて行かれて、問答無用で雪下ろしを手伝わされた。
 しかも日向の家一軒だけでなく、近所で男手が足りない家の分も、だった。
 烏野高校がある一帯はさほど降雪量は酷くないが、日向の住む雪ヶ丘町は、その名前が示す通り結構な量が降る。先週の真ん中頃も急激に冷え込み、一晩でかなりの積雪が記録された。
「なんだよ、いーじゃん。ボランティア、ボランティア!」
 屋根に積もった雪を放っておいたら、重みで家が潰れてしまう。だが人手は足りていない。腰の曲がった年寄りだけで暮らしている家などは、冬場の雪は死活問題だ。
 だから元気の有り余っている高校生を無償で雇えるのなら万々歳だという思惑が、今思えば日向家の歓迎ぶりからは滲み出ていた。
 慣れない事をした所為か、暫く筋肉痛で動けなかったのを思い出した影山の顔が引き攣る。真っ赤になって怒鳴る日向に益々複雑な表情を浮かべて、彼は疲れた様子で首を振った。
 一寸でも期待した自分が馬鹿だったと心の中で罵り、力なく肩を落とす。項垂れていたら、ゆず湯だけでは足りないと解釈したか、日向は長い袖に両手を隠して胸の前で小さめの円をなぞった。
「カボチャもあるぞ。小豆入ったの」
「いらねーよ、ボケ」
 今の動きは、南瓜の形を模したものらしい。一瞬なにか分からなかった影山は理解すると同時に唾を吐き、日向は料理自慢の母を貶されたと目尻を吊り上げた。
「なんだよ。かーちゃんの作る奴、すんげー甘くて美味いんだぞ」
「だから、そういう問題じゃねえつってんの!」
 微妙にかみ合わない会話に苛立ちが募り、元々我慢強くない影山が癇癪を爆発させた。廊下中に響く大声で怒鳴り、振り上げた拳で空を殴って廊下を蹴り飛ばす。
 目の前で唸り声を上げた腕に瞠目し、日向はぽかんと開いていた口をゆっくり閉ざした。
 苦々しい思いを隠して奥歯を噛み、押し殺した低い声で囁く。
「んじゃ、どういう問題?」
「それは……――」
 臍を曲げる一歩手前の声色にハッとして、影山は即答できなくて目を泳がせた。
 黒髪をひっきりなしに掻き毟っては靴の裏で床を叩き、苛立たしげに舌打ちをしてかぶりを振る。試合中の冷静さからは程遠い有様を見せ付けられて、日向はどうしようもなく鈍感で、察しの悪い男に肩を落とした。
「……影山の、アホ」
「あぁ? なにかいったか?」
「いーよ、もう。カボチャのケーキ、おれひとりで食べるから!」
 悪口にだけは耳聡く反応する男に腹が立ち、怒りのままに叫ぶ。肩を突っ張らせて罵声をあげた彼の勢いに圧倒されて、影山は呆気に取られて目を瞬いた。
 ゆず湯。昼が一番短い日に入る風呂。
 南瓜と小豆。それもまた、夜が最も長くなる日に食べるもの。
 冬至。それは明日。
 十二月二十二日。誰かの、誕生日。
 今し方聞こえた台詞を、日向の声で再生させる。二度、三度と頭の中で繰り返されることばを細切れにして飲み込んで、彼はやっと思い至った可能性ににぶるりと震え上がった。
 一方の日向は荒い息を数回吐くと、遅れてやってきた恥ずかしさに顔を真っ赤に染め上げた。
「お前、……え。もしかして」
「うっさい。うるさい、うるさい、うっさーい!」
 頬を紅潮させた影山が、声を震わせ日向を指差す。その後に続けられるだろう台詞を想像して、耐えられなくなった日向は両手で耳を塞いだ。
 お前こそ五月蝿い、と怒られそうな声で喚き、自分の状況も忘れて駆け出そうと反転する。
「影山なんか、雪に滑って埋もれちま――ぷぎゃっ」
「ばっ、ンな靴で走る奴があるか!」
 そうして一歩を踏み出した矢先に壊れた靴に裏切られ、受身を取る暇もなく顔面から廊下に突っ込んでいった。
 あまりの出来事に騒然となり、影山が思わず怒鳴り散らす。騒ぎは遠くにまで伝わって、何事かと数人の生徒や教員が廊下に顔を出した。
 集まり始めた視線も無視して腕を伸ばし、影山は日向の襟首を掴んだ。真上に引っ張り上げてみれば顔の中心は真っ赤に腫れて、痛みに耐えられなかったのか目尻には涙が浮かんでいた。
 もっと状況を考えろと説教したいところだが、直前に聞いた大声が耳について離れない。片手で日向を支えつつ、もう片手で顔を覆い、影山はなんとも言えない感情に上唇を噛み締めた。
「雪かきでもなんでもしてやるよ」
 押し殺した声で告げた先。
 そっぽを向く日向の襟足は林檎よりも赤かった。

2012/12/20 脱稿