Rose

 街中で会ったのは偶然だった。
「いやいや、荷物持ちご苦労」
 偉そうにふんぞり返りながらそう言ったのはピスティで、言われた方の少年はどこか困った顔をして照れ臭そうに笑った。傍で聞いていた女性も彼と似たような表情をして、少年が抱えていた荷物を引き取るべく両手を伸ばした。
「重いから、いいですよ」
「そう? じゃあ、そこの机にお願い」
 だが彼は天性の優しさから彼女の細腕に首を振り、最後まで運ぶと主張して示されたテーブルに頷いた。
 広い部屋の真ん中まで爪先立ちで進み、なんとか無事に配達を済ませてほっと息を吐く。ようやく肩の荷が下りたと冷や汗を拭った彼は、油断した瞬間に足元の器具を踏みそうになって慌てて飛びのいた。
「おっと」
「あら、ごめんなさい。待ってね、片付けるから」
 しかし避けた先にも読みかけらしき書物が積まれていて、身の置場が無い。仕方なくテーブルに縋る形で立っていたら、部屋の主である女性が焦った顔をして床に散乱しているなんだか分からないものを拾い始めた。
「いえいえ、すぐお暇するんでどうぞお気遣いなく」
 豊かな胸を揺らしながら身を屈めた女性から慌てて目を逸らし、少年は両手を左右に振って苦笑した。早口に捲くし立て、どうにも慣れない空間を見回してからそっとため息をつきもする。
 そこはこの国を支えている、権威ある魔法使いの私室だった。
 壁の棚には大量の書物が詰め込まれ、窓際の机には実験に使うのであろう器具が所狭しと並べられていた。そして置き場所が無くなった分から床に追い遣られていって、今や足の踏み場にも困る有様だった。
 これがまだまだ歳若い女性の部屋だというのから、驚きである。初対面時のにこやかな笑顔からは想像も付かない状況に頬を引き攣らせ、アリババ・サルージャは少々疲れている腕を軽く揉み解した。
「そんなこと言わずにさー、お茶の一杯でも飲んでけば?」
 その仕草を見逃さず、八人将のひとりに数えられるもうひとりの女性がにやりと笑いながら言った。
 光り輝く金の髪を持ち、大きな羽飾りをあちこちに身に付けている少女が含みのある表情でアリババの行く手を遮る。小柄なピスティに通せんぼされて、無理に押し退けることも出来なくなった彼は戸惑いに瞳を揺らした。
 その横で両手いっぱいに、ガラクタにしか見えない実験道具を抱え込んだヤムライハも妙案だと手を叩き合わせた。
「ああっ」
 お陰で途端に折角拾ったものが音立てて床に落ちて、部屋中に埃が舞い上がった。咄嗟に口を覆って咳き込んだアリババは、なんとかこの場から逃げられないかと必死に頭を働かせた。
 宙を泳ぐ琥珀色の視線を敏感に察知して、ピスティはひとりあわあわしているヤムライハの前を行き過ぎた。
 他人の部屋だというのに、随分と勝手知ったる様子だ。それだけ仲が良いのが窺えて、出足を挫かれたアリババは仕方なく部屋の中央に向き直った。
「いやー、しかし、あそこで君に会えてよかったよ。私たちだけじゃ運びきれなかっただろうしね」
「随分沢山買ってたみたいですけど、いったい何なんですか、それ」
 再びガラクタを拾い始めたヤムライハを手伝うべく膝を折り、その最中に問いかける。ピスティはアリババが運んでやった大きな袋を広げ、猫の額ほどしかないテーブルの空きスペースに購入品を並べていった。
 背伸びをしている小柄な彼女が動く度に、細く白い足や、臀部を包む裾の膨らんだ丈の短いズボンがひらひらと揺れた。
 無意識なのか、男を誘惑する艶かしい動きを直視できない。多感な時期であり、一応それなりに興味もある少年は頬をかあっと赤くして、隠そうとしてか俯き手元に集中した。
 そんな彼を知ってか知らずか、ピスティは暢気に相槌を打って袋をがさごそ言わせ続けた。
「えーっとねえ、まずはお化粧品でしょ。それから新しいアクセサリーとか、香水とか、それに珍しいお菓子とか!」
「はあ」
 七海の覇王との異名を持ち、七つの迷宮を攻略した英雄シンドバッドが南洋の島に打ち建てた王国、シンドリア。数多の移民を受け入れ、今や世界で最も勢いがある国のひとつとなった小さな島国は、知名度抜群の国王と、その部下である八人将によって支えられていた。
 その八人将はといえば、独特の雰囲気を持つ王と相俟ってか全員が個性派揃いで非常に癖が強かった。シンドバッドが若かりし頃に記した冒険書を暗記するまで読み込んできた少年にとっては、抱いていた幻想と現実との乖離具合にショックを受け、暫く何も信じられなくなるくらいだった。
 とはいえ、彼、彼女らへの尊敬の眼差しが消えたわけではない。凄い人たちと親しくして貰えているのは純粋にありがたく、たとえ荷物持ちであっても手伝えるのは嬉しかった。
 但し女性のこととなると、アリババは無知も甚だしい。王城に引き取られて以降は特定の異性と仲良くなった例もなくて、ピスティがうきうきしながら言い連ねていった内容についてもピンと来なかった。
 気の抜けた相槌ひとつで片付けた彼が気に入らなかったのか、ピスティの目つきが少しだけ鋭くなった。不満げに歪められた口元を見て失言だったと悟り、聡い少年は慌てて言い訳を探して床の上で右往左往した。
「あ、あの。ヤムライハさん。これはどこに置けば」
「そうねえ、うーん」
 一緒に屈んでいる相手に取ってつけたように質問を投げて、素早く話題を切り替える。どうにか人が歩いて通れるだけのスペースが出来たものの、元々そこにあった物を置く場所もなくて困っていたら、家主であるヤムライハも妙案がないのか眉間に皺を寄せた。
 下唇を突き出して考え込んでいる彼女に笑みを引き攣らせ、アリババは腕の中の物をひとつ掴んで顔の前に持っていった。
 ヤムライハの指導を受けているアラジンも、一緒に海を渡ってきたモルジアナも、個人で所持している品は僅かだ。着の身着のままバルバッドを脱出してきたのだからそれも止む無しだが、中でもアラジンは群を抜いて荷物が少なかった。
 頭に巻いているターバンとウーゴ君が宿っていた笛、そして老婆から引き継いだ杖以外は、普段身に付けている衣服くらいしか持ち合わせていない。そんな彼も魔法を極めるに従って、いつかこんな風に部屋を物だらけにするのだろうか。
 想像したら嫌な汗しか出て来なくて、アリババは急ぎ首を振って打ち消した。彼に限って有り得ないと自分を勇気付け、ひとまず傍にあった木箱の中に壊れないよう詰め込んでいく。
 せっせと働く少年に誘発されたのか、ヤムライハも片づけを簡単に済ませると、お茶の準備をすると言って部屋を出ていった。
「じゃあ、俺もこれで」
「待てい、少年」
 それに続いてこっそり退席しようとしたのだが、アリババの目論見はまんまとピスティに見つかれてしまった。
 伸びてきた手に後ろ襟を掴まれ、逃げられない。振り解くのは簡単だが、女性相手に荒事を起こすわけにもいかなくて、彼はがっくり肩を落として項垂れた。
 部屋の隅で棚代わりにされていた椅子を発掘し、ピスティがうきうきしながらバザールで購入した菓子を広げていく。その隣では色鮮やかなガラスの小瓶や、陶器の壷が幅を利かせていた。
 あんなものが複数個も入っていたのだから、袋が重くなるのも当然だ。きっと彼女たちのことだから、気に入って見境なく買い集めていったのだろう。
 アリババが散歩中にたまたま近くを通りがかったから良いものの、知り合いに会えなかったらいったいどうするつもりだったのか。
「そん時は、ま、近くの男を私の魅力で誘惑して~」
「へえー」
「ちょっと、なによその顔は」
「いいえ、なんでも」
「お待たせ~。……どうしたの?」
 ふと沸いた疑問をぶつければ、ピスティが小さな胸を強調しながら椅子の上でしなを作った。だが得意満面に言われると逆に信用出来なくて冷たい反応を取っていたら、案の定怒られてしまった。
 そこへヤムライハがお茶の盆を手に戻って来て、一触即発な雰囲気に水を差す。アリババに殴りかかろうとしていたピスティは大慌てで椅子に戻り、取り繕うようにコホン、と咳払いした。
「ぶっ」
 それが妙におかしくて、堪えきれずにアリババは噴き出した。向かいの席からピスティに睨まれてもお構いなしで腹を抱えていたら、状況がつかめないヤムライハに益々不思議そうにされた。
 気にしないでくれと手を振って断りを入れて、淹れてもらった温かいお茶に舌鼓を打つ。どういう茶葉を使っているのか、香りは甘いフルーツを思わせるものだった。
「美味しい」
「よかった」
 正直に感想を告げれば、空いていた椅子に座ったヤムライハが嬉しそうに微笑んだ。
「ヤムも、アリババくんも、食べちゃえ、食べちゃえ」
「ふふ、ありがと」
「え、あ……俺は、その」
 喉の渇きを潤していたら、ピスティも負けじと甘いシロップたっぷりのお菓子を差し出してきて、女性ふたりに挟まれた少年は照れくさそうに頭を掻いた。
 彼は数ヶ月前までは見境なく美味しいものを食べ漁り、みっともないくらいぶくぶくに太っていた。今でこそ痩せたが、油断するとすぐ体重が増えてしまう。だから師匠であるシャルルカンやシンドバッドからは、甘いものは禁止と言われていた。
 だが目の前に並べられた菓子はどれも美味しそうで、折角の申し出を断るのも忍びない。取るかどうかで迷っていたら、横で見ていたピスティがけらけらと笑った。
「だいじょーぶだって。シャルには黙っといたげるから。ね、ヤム」
「そうそう。心配しなくていいからね」
 彼が何を危惧しているのか、緊張気味の表情から読み取ったのだろう。あっけらかんと言われてしまい、図星だった少年は首を竦めた。
 そこまで言われたら、本当に食べないわけにはいかない。覚悟を決め、アリババは一番カロリーが低そうな一枚を手に取った。
「いただきます」
 丁寧に頭を下げて、丸い焼き菓子の先端をほんの一寸だけ齧る。バルバッドでもチーシャンでも見た事のなかった菓子は、ほんのり甘い香りを残してすっと舌の上に溶けていった。
「どう?」
「すごい。美味しいです」
「でっしょー? あそこの焼き菓子はホントに絶品だよねえ」
 初めて口にした衝撃に、アリババの目がまん丸に見開かれる。感嘆の息と共に吐き出された言葉に満面の笑みを浮かべて、ピスティはテーブルに身を乗り出して声を高くした。
 興奮しているふたりをクスクス笑って、ヤムライハも上品に焼き菓子を頬張った。
「これって、ヤムのだったよね」
「どれ?」
 そんな彼女に向かい、ピスティが赤色の小瓶を差し出した。首が細長く、表面には細かい模様が刻み込まれており、見るからに高そうだ。光を浴びるときらきら輝いて、なんとも言えない美しさがあった。
 中には液体が入っているようで、揺らせばちゃぷちゃぷ音がした。そんなガラスの容器を受け取って、ヤムライハはしばし考え込む素振りを見せた。
「私のは青色じゃなかったかしら」
 記憶が不確かなのか、自信なさげに呟く。返答を受け、ピスティは似たような外見の、青色の小瓶を選んで彼女の前に置いた。
「んじゃこっちだね」
「覚えてないんですか?」
 そんなやり取りを眺め、アリババは信じられないと声を高くした。
 吃驚してつい割り込んでしまって、言ってから焦って冷や汗を流す。混ざってくるとは思って居なかったふたりに同時に見つめられて、己の場違いさを思い出した彼は大仰に椅子の上で畏まった。
 叱られるのを待つ子供のようなポーズを決められて、ピスティとヤムライハは互いに顔を見合わせてからぷっ、と噴き出した。
「まーねー。いっぱい買いすぎちゃったから、いちいち覚えてらんなくてさー」
「そうそう。それに、別に間違っても困るものじゃないしね」
 からころと鈴を転がすような笑い声を響かせ、手を振りながらふたりして声を揃える。恐縮していた少年は、そういうものかと朗らかな空気にほっと安堵の息を吐いた。
 スラムで暮らしていた頃や、チーシャンで生活していた時は、とにかく金が無かったので買い物ひとつとっても一大事だった。
 本当に必要なものかどうかを数日かけて見極めて、悩みに悩んだ末に買うか、買わないかを決断した。つり銭を誤魔化されない為に必死だったし、ましてや自分が苦労して買ったものを他人に掠め取られようものなら、悔しくて夜も眠れないくらいだった。
 ふたりには、そういう経験が無いのだろう。だからあっけらかんと言えるのだ。
 住む世界が違う、という現実を目の当たりにしたようなもので、少し寂しい。八人将のふたりと自分との間には、絶対的に越えられない境界線が引かれているのだと痛感して、心がしくしくと痛んだ。
「ほら、手が止まってるー。どんどん行っちゃって~」
 シンドリアに渡ってから久しく忘れていた感覚に俯いていたら、ピスティがずい、と菓子を突きつけてきた。危うく顔面に衝突するところで、咄嗟に仰け反ったアリババを、彼女は暢気に笑い飛ばした。
 眩いばかりの笑顔に、強張っていた頬も自然と緩んだ。落ち込んでいたところで始まらないと自分に言い聞かせ、彼は礼を言って焼き菓子を受け取った。
「ところでさ~、最近どうなの?」
「どう……、って?」
 歯応えも良い菓子を半分ほど噛み千切り、奥歯で細かく砕いて飲み込む。口の中を一旦空にしてから問いかけに小首を傾げれば、頬杖ついたピスティがにやにやと、いやらしい目つきで口角を歪めた。
 服の真ん中に切れ目という大胆な格好なので、前のめりになるとその分だけ隙間が出来る。白い柔肌が露わになっている様にどきりとして、アリババは慌てて顔を背けた。
 誤魔化しに手の中の残りを頬張れば、察しの悪い彼に呆れた少女が大仰に肩を竦めた。
「そりゃ、決まってるじゃない。こういう時の話題といったら、勿論コイバナでしょ!」
「ぶっ」
「ちょっと、ピスティ」
 その上でびしっ、と人差し指を突き出して叫んだ彼女に、アリババは盛大に噴き出し、向かいのヤムライハは声を荒立てて椅子を蹴倒した。
 一気に部屋の中が騒がしくなって、噎せたアリババはカップに残っていた茶を一息で飲み干した。ぜいはあ言いながら口元を拭い、勝手に赤くなる顔の下半分を隠して前歯をカチカチ噛み鳴らす。
 気恥ずかしげにしている少年を前に、城内の兵士やら文官やらを手玉に取ってきた少女は楽しげに笑った。
「やーだ、ヤムになんにも無いのは分かってるわよ~」
「し、失礼ね。私だって、もうちょっと出会いの機会があれば」
「あー、はいはい。その話は後で聞いてあげるから。で、実際どうなの。あの赤い髪の子とは」
 右手をひらひら揺らしながらあっけらかんと言い放ち、捲くし立てるヤムライハを制してアリババに向き直る。槍玉に挙げられた少年はビクッとして、話題に上った人物を思い浮かべてはてと首を傾げた。
 赤い髪といえば、戦闘民族ファナリスの最たる特徴だ。強靭な肉体と人間離れした嗅覚を持ち、それ故に奴隷として狙われた過去を持つ者たちのことだ。
 現在シンドリアには、絶滅寸前とも言われているファナリスがふたりいた。八人将のひとりであるマスルールと、アリババと共に海を渡ってきたモルジアナだ。
「はい?」
 だからそのどちらを指しての事か咄嗟に理解出来なくて、彼は不思議そうに首を傾げた。
「あれ?」
 その反応に、ピスティも当てが外れたのか変な声を出した。
「違うの……?」
「なにがですか?」
「あ、あー……あのね。君って、好きな子とか、いない?」
「えっ」
 僅かに震えながら問い直されて、益々分からなくなったアリババがなおも聞き返す。どうにも噛み合っていない会話を聞き、ヤムライハがそうっとため息をついた。
 アラジンの魔法の師を務めているだけあって、バルバッドからの客人と接する機会は彼女の方が圧倒的に多かった。だからアリババが、紅一点であるモルジアナに対して恋愛感情を一切抱いていないのも、それとなく感じ取っていた。
 ピスティの質問は的外れも良いところだ。しゃべれば喋るほどドツボに嵌っていっているふたりのやり取りを眺め、彼女はバザールで買ってきた化粧品の山を何気なく小突いた。
「あら?」
 そうして積み上げられた品々の中に、覚えの無いものが混じっているのに気が付いた。
 アリババとの会話に些か疲れてきていたピスティが、甲高い声に素早く反応して視線を投げた。目で問いかけられた女性はその品を手に取り、ふたりに見せるように顔の前で揺らした。
「これ、ピスティの?」
「えー? しらなーい」
 白くしなやかな手に握られていたのは、二枚貝を加工して作られた小さな入れ物だった。
 掌サイズで、表面は金箔で覆われていた。その上に色彩鮮やかに絵が描かれており、小ぶりながらも相当高価なものだと予想出来た。
 だというのに、この場に居る女性ふたりは覚えていないと言う。
「おふたりが買ったんじゃないんですか?」
 勿論荷物を運んだだけのアリババが、気付かれないようこっそり紛れ込ませるような真似をするわけがない。そもそもその貝の中に何が入っているのかも、彼は知らないのだ。
 当然の疑問を口にした少年に、ヤムライハとピスティは顔を見合わせた。記憶を掘り起こそうとこめかみに指を置いてはみるが、眉間の皺が深くなっただけで答えは一向に出てこなかった。
「適当にあれもこれも、って選んじゃったから、その時かな?」
 店の人が間違えて入れた、という可能性もある。紛らわしい場所に置かれていたなら、指差された品を店員が勘違いする事だってあるだろう。
 それを店先で確認しなかったのも悪い。思わぬ出費をしていた事実に苦笑して、ヤムライハは掌で貝を転がした。
「でも、綺麗ですね」
「そうねー。ただ私、この色は使わないのよね。ピスティは?」
「私も~。どしよっか」
 表面には見たことの無い花が描かれ、その下で遊ぶ貴婦人の姿があった。
 細かい筆で丁寧に描かれている。気の遠くなりそうな精緻な作業には恐れ入るばかりだが、アリババの感嘆とは裏腹に、女性たちの反応は非常にドライだった。
 中を確かめたヤムライハの言葉に、ピスティも頭の後ろに手をやって首を振った。入れ物の美しさにはさほど興味が無いらしく、珍しい舶来品に興味津々なのはアリババひとりだけだった。
「お店に返しに行く、とか」
「そのお店がどこか分かんないんだよねー、これが」
 適当にぶらぶらしている時に偶然見つけた店に入っただけで、ここで買おう、と決めて出かけたわけではない。再び歩き回れば途中で思い出すかもしれないが、今から買い間違いひとつの為に市街地に戻るのも、正直言えば面倒臭かった。
 飄々と言い放ったピスティに気難しい顔をして、アリババは言いかけた言葉を飲み込んだ。なんなら自分が、とこの場から脱する言い訳ついでに提案しようと思っていたのに、上手く躱されてしまった。
 ヤムライハのお陰で話題が逸れたが、ピスティはきっとまた訊いてくるだろう。恋愛話などアリババには皆無で、そもそも女性との経験だってまだなのに、いったい何を話せば良いというのか。
 マリアム以外の女の子と手を握ったことさえなく、モルジアナに至っては抱きかかえるのではなく、抱えられた。そんな事を正直に言えば、笑い飛ばされるのがオチだ。
 言いたくない、だから逃げたい。落ち着きなくそわそわと椅子の上で身を揺らす彼を横目で窺って、ヤムライハは二枚貝の容器を机に置いた。
「ヤムも私も使わないんじゃ、誰かにあげるとかしかないよねえ」
「そうねえ。でも貰ってくれる子なんて、いるかしら?」
「ん?」
 ピスティもさりげなくアリババを窺い、語尾を伸ばし気味に呟く。妙な雰囲気を感じ取り、ずっと俯いていたアリババはきょとんと目を丸くした。
 意味ありげな眼差しを左右から投げられて、彼はヒヤッと来る冷気に背筋を粟立てた。
「あ、あのぉ……?」
「これ、君にあげる」
「うお、わっ」
 嫌な予感しかしない。頬を引き攣らせていたら、案の定貝を掴んだピスティがそれを空中に放り投げた。
 孤を描き、天井近くまで舞い上がったそれがアリババの方へ落ちてくる。このままでは床に激突で、彼は慌てて両手を差し出した。
 脇を締めて肘を引き、なんとか無事に受け止める。乱暴に扱われても蝶番は緩まず、貝はしっかり口を閉ざしていた。
「待ってください、これ」
「いーの、いーの。荷物運びのお駄賃だと思って貰ってよ。そんで、ちょっと気になる子にでもあげたらいいよ」
 こんな高価なもの、おいそれと受け取れない。ピスティに暢気に言われて反発するが、助けを求めたヤムライハも同意見らしく、彼に味方する存在は皆無だった。
 重ねた手を広げて中を覗けば、光を受けて淡く輝く二枚貝が見えた。美しい花が艶やかに咲き乱れ、行ったことのない遠い国の文化を垣間見た気分になった。
「あの」
「なによー。心配要らないって、あとからお代請求したりしないから」
 そこまでケチではないと笑って、ピスティが頭の羽飾りを揺らした。甘い菓子をひとつ摘み取り、すっかり冷めてしまっている茶で口を漱いで喉を潤す。
 どうやら彼女の中では、この品はアリババにくれてやったものとして完全に片付けられてしまったようだ。
 実は少し、欲しいと思っていた。こんなに綺麗な入れ物は今まで見たことが無くて、宝物が手に入った気がして嬉しかった。
 部屋に戻ったらアラジン達に自慢しようと思う。考えただけでわくわくして、胸が躍った。
「あ、……ありがとう、ございます」
 椅子に座ったまま深々と頭を下げ、礼を言う。行儀の良い彼に目尻を下げ、ヤムライハが相好を崩した。
「ふふ。じゃあ、どんな子にあげたか、後で教えてね」
「え。俺が持ってちゃだめなんですか?」
 弟子のアラジンも素直で、愛嬌がある。ふたりの仲が良いのも分かる気がして微笑みながら告げれば、顔を上げたアリババがきょとんとしながら首を右に倒した。
 気になる女の子に贈る前提で譲り渡したのに、予想外の返答が成された。苦労の多い人生を送っていながら意外に世間知らずな少年に呆気に取られ、ヤムライハもピスティもぽかんと間抜けに口を開いた。
「え、えー……と。それでも構わない、けど。アリババくんは、使わないでしょう?」
「そういえば、これ、なんなんですか? 俺、こういうの詳しくなくて」
 少なくとも男が持っていたがる物ではない。返答から本気で中身が何なのか知らない様子だと悟り、ふたりはぽかんと口を開いた。
 先に噴き出したのは、ピスティだった。
「別にいーじゃん、使わないんだったら知らなくても」
「けど」
「だったらさー、気になる子に訊いてみたらいいよ。これ、使ってみてくれないか、って。ねえ?」
「そうね、それが良いと思うわ」
 年頃の少女なら、きっと誰もが知っているものだ。そうふたりに揶揄されて、アリババは頷くしかなかった。
 知りたいが、この様子では教えて貰えそうにない。それに彼女の言う通り、もともと入れ物の美しさに惹かれたのであって、中身が欲しかったわけはないのだ。
 もし知っていそうな相手がいれば、その人に聞けばいいだけのこと。そう思い直し、彼は愛おしげに貝の表面を撫でた。
 歳相応の好奇心を顔に出している少年に目を細め、ヤムライハは空になっていたカップに茶を注ぎ足してやった。甘い菓子も次々に勧めては、自分もぱくぱく食べていく。
 ペースは早く、山のようだった菓子もあっという間になくなった。これで太らないのが不思議でならないが、アラジンが炎魔法を披露してダイエットに成功したように、彼女も魔法の行使によってエネルギーを消費しているのかもしれなかった。
 幸いにも話題は色恋沙汰には戻らず、主に他の八人将や国王シンドバッドについて、アリババがシンドリアに来る以前の出来事に終始した。
 中でも一番逸話が多かったのが、やはりシンドバッドだった。酒の席での失敗談や、こっそり仕事をサボろうとしてジャーファルに半殺しにされたことだとか、寄った勢いでドラコーンの妻に言い寄ってしまって暫く王城に気まずい空気が流れた、だとか。
 女性を見れば見境なしに誘いをかける男なのに、自分は一度として寝所に呼んでもらったことが無い、だとか。
「そりゃあ、シンドバッドさんにだって選ぶ権利はあると思うけどなあ」
「それってどういう意味よぉ!」
「言葉通りの意味じゃないの?」
 アルコールが入ってもいないのにくだを巻くピスティに茶々を入れれば、激昂した彼女にヤムライハがしれっと油を注ぐ。最初こそ緊張し、早く帰りたいと思っていたアリババだったが、話し込んでいるうちに段々楽しくなってつい口も軽くなった。
 腹を抱えて笑い転げ、膨れ面をしたピスティには両手を合わせて頭を下げる。ひーひー言いながら目尻の涙を拭って息を整えて、彼は指についていた甘いシロップを舐めた。
 意地汚いと思いつつも、根っからの貧乏性で勿体無さが先に立った。行儀悪くしている彼に頬を緩め、ヤムライハは手を拭くものを、とテーブルの片隅にあった布を取って差し出した。
「ああ、寝所といったら、アリババくん、最近王様の部屋に呼ばれてるんだっけ?」
「え、そうなの?」
 ありがたく受け取り、アリババは少々黴臭い布で指先の湿り気を取り除いた。その最中にふと思い出したらしい彼女に聞かれ、初耳だったピスティもガタンと机を押して腰を浮かせた。
 真ん丸い目に見つめられて、彼は一瞬息を詰まらせてから恥ずかしそうに頬を掻いた。
「呼ばれてるっていうか、俺がお邪魔してるっていうか……」
「え、え。どーゆーこと?」
「いやあ。俺、シンドバッドさんの冒険譚が凄い好きで、昔からファンだったんですけど」
 角のように跳ねた髪を弄り、少年がほんのり頬を赤らめる。声を高くして追求するピスティに、彼は頬を赤らめ身を捩った。
 アリババにとって、シンドバッドは長く憧れの存在だった。
 王城での息苦しい日々に風穴を開けてくれたのは、他ならぬ彼の物語だった。狭苦しい檻のような空間に閉じ込められていても、彼の冒険譚を読めば心は遠く果てない空の下に飛んでいけた。いつか自分もこんな風に世界を旅し、迷宮を攻略してみせるのだとひとり意気込んだ。
 お陰で嫌いだった武術の授業も頑張れた。動機は不純だったが努力は認められて、次第に王宮の人々も親しくしてくれるようになった。
 今のアリババがあるのも、シンドバッドの冒険書があったから。だから大袈裟でもなんでもなく、彼は命の恩人だった。
 但しそんな話、当人には恥ずかしくて言えるわけが無い。だのにいつの間にか、本人の耳に届いていた。
 きっとシャルルカンが喋ったのだろう。絶対に秘密だと釘を刺したのに、あの男の口の軽さには呆れてものもいえない。
 剣術においては尊敬するが、それ以外は考え物だ。断っているのに無理矢理酒場に連れて行こうとするのも、なんとかして欲しかった。
「へーえ。それで、王様が直々に本にしてない冒険について、話して聞かせてくれてるんだ」
「あ、勿論シンドバッドさんばっかりじゃなくて、俺が迷宮を攻略した時の話とかもしてますから」
「ふーん……?」
 今更隠したところで仕方がないと事情を大雑把ながら説明したアリババに、ピスティが緩慢に頷いて相槌を打つ。そこへ言い訳がましく追加の説明が成されたが、彼女は殆ど聞いていなかった。
 頬杖をついて、もう片手でテーブルをトントンと叩く。なにかを考え込む仕草に、ヤムライハも黙って茶を啜った。
 両者の視線が空中で交錯し、音もなく遠ざかっていった。
 バルバッドから戻ってきて以降、そういえば王の痴態についてあまり噂になっていなかった。
 煌帝国で皇女といざこざがあったようだが、その時も仕組まれただけであって本人は何もしていない。南洋生物出現後の祭でらんちき騒ぎを起こしてはいたが、後から聞いた話、以前のように気に入った女性を連れ帰る真似はしなかったようだ。
 女性問題でなにかと騒動が尽きなかった男が、この半年ほど妙に大人しくしている。平和でよいことだとこれまで深く気にしてこなかったが、考えてみればこの状況は異常だった。
「……まさかね」
 胸を過ぎった想像は首を振って打ち消して、ヤムライハは屑だけになった菓子の袋をくしゃくしゃに丸めた。丁度茶も尽きてしまったと、丸みを帯びたポットを確認して肩を竦める。
 それが合図となり、女性二名と男性一名という奇妙な茶会は解散と決まった。
「ご馳走様でした」
「いえいえ、私たちも楽しかったわ。次はアラジンも誘って、みんなでやりましょう」
 今日のことを知れば、あの魔法使いの少年はさぞや羨ましがることだろう。赤髪の少女も仲間外れにされたと感じ、ムッとするかもしれない。
 双方から責められる可能性がある少年に先手を打ってウィンクして、ヤムライハは戸口まで出てふたりを見送った。
 手を振り返し、アリババとピスティが部屋を辞す。そのピスティとも、黒秤塔の出口で別れた。
「じゃあね~、王様によろしく」
 なにやら含みのある笑顔で言われたが、どういう意味があるのかについてまでは分からない。妙ににやにやしていたと不思議に思いつつ、アリババは肩の高さまで掲げていた腕を下ろした。
 ちょっとだけのつもりが、結構な時間居座ってしまった。
 菓子も、誘われるままばくばく食べてしまった。お陰で帯を巻いた腹がぽっこり膨らんでおり、みっともなく太っていた時期を否応なしに思い出させてくれた。
 シャルルカンに知られたら、確実に雷が落ちる。夕飯も、このままでは全部食べ切れそうにない。
「ひとっ走りしてくるかな」
 手っ取り早く胃の中のものを消化し、空腹になるには運動するのが一番だ。城の周りを二、三週してくれば、時間的にも丁度良かろう。
 後はこの、身体に張り付いている蜜の甘い香りをどうするか、だ。
「うーん……」
 着替えようにも服の予備は少なく、緑射塔に戻るのも手間だ。ならば頭から水を浴び、手や顔を洗って口を漱ぐしかない。
 南洋の島国シンドリアは年中暖かく、一寸濡れたくらいなら直ぐに乾く。そちらの方がお手軽だと判断し、アリババはうん、と頷いた。
 そうと決まれば行動に移すだけで、彼は早速意気揚々と歩き出した。
 黒秤塔はヤムライハのような魔法使いが研究に明け暮れる場所であり、勉強に励む者達の為の図書館が設置されている建物だ。そこは汗臭さとは無縁であり、喧騒とも縁遠かった。
 だが一歩外に出て北に向かえば、すぐに男臭い鍛錬場に出くわした。
 アリババがシャルルカンに修行をつけてもらっているのも、主に此処だ。銀蠍塔は食客などにも解放されている、武芸を磨く為の空間だった。
 シンドリア国軍兵士はここより更に北の赤蟹塔で訓練を積んでいる。そちらは、国を守る基盤たる人材を育成しているのもあって、一般には公開されていなかった。
「ラッキー。誰もいない」
 その赤蟹塔と銀蠍塔の境界線に近い中庭に、小さな井戸があった。
 普段は鍛錬で汗を流した腕自慢の武人たちが、冷たい水で火照った身体を冷やすのに使っているものだ。勿論飲めるので、喉の渇きを癒す目的でアリババも何度かお世話になったことがあった。
 だがこの時間は誰もおらず、石組みの井戸に置かれた釣瓶も暇そうだった。
 順番待ちをしなくて良いのにほっとして、アリババは駆け足で近づいた。早速木製の桶を取って底深い井戸に放り投げようとして、手の中の存在を思い出して慌てて引っ込める。
「っと。やばい、やばい」
 折角貰ったのに、ここで落としたら一大事だ。とても潜って取りにいけそうにない深さに冷や汗を流し、彼は握ったままだった貝の入れ物を大事に帯の間に挟みこんだ。
 ぽこっとした膨らみがひとつ出来上がって、苦笑して上から叩く。すり抜けて落ちていってしまわないよう気をつけながら、アリババは今度こそ使い込まれた桶を井戸に放り込んだ。
 目の前を太い縄が勢い良く駆け抜けていき、瞬き数回の後に遠く水の跳ねる音がした。
 シンドリアは、島国だ。外周を巨大な岩壁に囲われて、横から見れば真ん中が凹んだような形をしている。港は王城の反対側にあり、船が出入りできる門は一箇所しか設けられていない。
 つまり外敵が侵入を試みようとも、簡単には入り込めない構造だった。
 こんな島が自然に出来上がったとは到底思えないが、迷宮攻略者にだけ与えられるジンの金属器の力を借りれば、或いは人工的に造り出すのも可能なのかもしれない。無意識に腰の剣に手を触れて、アリババはハッと我に返って荒縄を握り締めた。
 四方を海に囲まれたこの国にとって、飲み水の確保は死活問題だった。
 相当地中深くまで掘らなければ、真水は出ない。だから市井の人々は、雨水を生活用水として使用していた。魔法で海水をろ過して飲用水に回す方法も取られているが、人口が増えてきている手前、供給が追いついていないのが現状だそうだ。
 城の屋根にも、雨水を集める施設がこっそり設置されていると聞く。バルバッドも海沿いの街だが、大きな川が居住区を縫うように走っていたのもあり、スラムの頃から飲み水に困った記憶はなかった。
 水の重要性を思い知らされたのは、チーシャンに住み着いてからだ。
 オアシスの町は、滅多に雨が降らない。しかも水は直ぐに腐る。だからワインが重宝されたし、貴重で高価だった。井戸を使うには金が必要で、お陰で洗濯もままならない。稼いだ金の半分近くは、生き延びる為の水代に消えた。
 絢爛豪華に見えて、裏では必死にやりくりしているのだと思い知らされる。勿体無い使い方をしてはいけない。眩い世界に目を奪われて忘れがちな自分を戒めて、アリババは引き上げた桶を覗き込んだ。
 薄暗い中に自分の顔が歪んで見えた。
「……ああ、でも」
 コップ一杯の水を求めてあくせく働いた日々をふと振り返って、口の中に広がる甘ったるい蜜の香りに眩暈を覚える。額に手をやれば、水鏡の中のアリババも同じ仕草をした。
 あれから一年と経っていないのだ。バルバッドのスラムで、貧しさと戦いながら必死に生きていた人々と共に在った時から、まだ数えるほどしか時間は過ぎていない。
 カシムが死んで、哀しさに打ちひしがれて。認めたくなくて、けれど受け入れるしかなくて、煩悶としながら流れていく時をじっと見つめ続けていた。
 シンドバッドが煌帝国から帰って来て、生活は一変した。生きがいを取り戻した気がした。恩人である彼になにか返せるなら、と懸命に今日まで走ってきた。
 バルバッドの悲劇を忘れたわけではない。だが気が付けば、考えない日の方が増えていた。思い出さなくなった。毎日が楽しくて、面白くて、ついついそちらにばかり目を向けるようになっていた。
 甘い菓子、美味しい料理。尊敬に値する剣術の師匠、故国に縁を持つ剣、人徳に溢れる素晴らしい王。
「俺は此処で、何をしているんだ……?」
 貴重なはずの水、高価なはずの菓子。
 それらを惜しげもなく振舞う人たちと接するうちに、感覚が麻痺してしまったのではないか。丁寧な手仕事で作られた珍しい品さえもぽい、と捨てるように他人に与えてしまう環境に、慣れすぎていやしないか。
 故国を奪い、幼馴染を奪った、世界の脅威であるアル・サーメンに立ち向かうと決めたのではなかったのか。
 どうして忘れていたのか、それすらも分からない。くらりと来て、アリババはふらつく身体を支えようと反射的に腕を伸ばした。
 だが掴むもうとした水入りの桶は、置いた場所が悪かったのか軽く押された程度なのにあっさりバランスを崩し、石積みの円の内側にするりと滑り込んで行ってしまった。
「あっ」
 そのままアリババの身体も、光の届かない暗闇に吸い込まれ――
「おっと、危ない」
「!」
 瞬き一つ出来ずに凍りついた状況に、野太く低い声が紛れ込む。ハッと我に返った瞬間、どっしりとした物に胸を押し返された。
 ぶらん、と垂れ下がった両腕が、地中に開いた洞を指し示す。今にも真っ黒い腕が伸びてきそうな雰囲気に騒然として、彼はヒッと声にならない悲鳴を上げて後ろに飛びのいた。
「あだっ」
 自分を支えてくれていた腕の持ち主さえも突き飛ばし、地面に尻餅をつく。弾みで帯に挟んでいたものが吹き飛んで、足元にころころ転がっていった。
 たまたま両手をついた場所に小石が落ちていて、尖った面が皮膚に突き刺さって痛い。二重の苦痛に涙を浮かべ、アリババは奥歯を噛んで鼻を愚図らせた。
 折角汲んだ水も台無しになってしまった。もっとも桶と一緒に落ちるという最悪な事態は免れたのだから、この程度で済んでよかったと思うべきなのだろう。
「大丈夫かい、アリババくん」
 そんな彼を心配そうに見下ろして、背の高い男が再び利き腕を差し出した。
 腰を屈めたからだろう、背中に流していた長い髪が肩を越えて前に滑り落ちてきた。さらりと空を掻き回したのは、日が暮れた直後を思わせる紫紺色だった。
 両の手首に腕輪を嵌め、それぞれ形状の異なる首飾りをぶら下げている。右手中指の指輪は非常に大きく、頭部を覆うターバンの羽飾りも立派だった。
 こんなところに居て良い人物ではない。予想外の展開に唖然とし、アリババは地べたに座り込んだままぽかんと目を丸くした。
「あ……え?」
 裾の長いローブを身に纏い、爪先が天を向いて反り返っている靴を履いている。そちらも細かい細工が施されており、贅の限りを尽くした一品にはため息しか出なかった。
 特権階級の人間しか身に付けるのを許されない装飾品の数々に、目が眩みそうだった。あまりにも目映くて直視できずにいたら、もたもたしているアリババに焦れたのか、男は自ら動いて彼の細腕を掴んだ。
「うわっ」
 強引に引っ張り上げられて、立ち上がる心構えも出来ていなかったアリババは慌てた。吃驚して声を高くして、急に入れ替わった重心にあっさりバランスを崩す。
 井戸に落ちていった釣瓶と化して、成長途中の体躯は男の胸の中にぼすんと沈んだ。
 金属の冷たい感触を額に受けて、理解が追いつかないアリババは目を白黒させた。いったいなにがどうなって、こうなったのか。一から整理しようとして頭をぐるぐるさせていたら、上からぷっ、と笑い声が降って来た。
「大丈夫ではなさそうだな」
 押し殺そうとして抑え切れなかった様子が窺えて、恥ずかしさに顔を上げられない。かといって飛び退くのも失礼だし、まさかしがみつくわけにもいかなくて混乱していたら、緊張を宥めようとしてか背中をぽんぽんと叩かれた。
 赤子をあやす時のように撫でられて、大きな手の心地よさに引き攣っていた頬も緩んだ。ほうっと息を吐いて唾を飲めば、破裂寸前まで膨らんでいた心臓もどうにか落ち着きを取り戻してくれた。
「すみません」
 掠れる小声で謝って、アリババは滑らかな肌触りの上着を遠慮がちに摘んだ。浮き上がっていた踵を下ろして傾いていた重心を真っ直ぐに戻せば、預けていた体重も自然と後ろへ流れた。
 香でも焚きつけているのか、菓子とは違う風雅な匂いが鼻腔を擽る。決して甘くは無い深みのある香りに無意識に喉を鳴らして、彼は更に半歩、すり足で後退した。
「落ちなくて良かった」
「お恥ずかしい限りです」
 微妙に開いてしまった距離を気にしてか、これ以上退がられないように牽制して男が言葉を放つ。人をからかっているようにも、本気で心配しているようにも取れる複雑な声色に耳まで赤くして、アリババは恥じ入って俯いた。
 井戸の底は、地上からは見えない。どれくらいの水深なのかも、ここからでは分からなかった。
 もし落下の衝撃に耐えられたとしても、助けを呼ぶ声は高い天井に阻まれて中庭を行く人の耳まで届くまい。そうなれば彼の身に残されるのは、餓死という悲惨な末路だけだ。
 偶然か否か、あそこで腕を差し出されていなければアリババの命は無かった。改めて幸運に守られた自分を意識し、感謝の気持ちを伝えようと彼は思い切って顔を上げた。
「あの、ありがとうございました」
「ははは。いやあ、気にしないでくれ。たまたま通りかかった時に君の姿が見えたから、声をかけようと思っただけだよ。けれど、こんな場所でぼんやりするのは、正直お勧めできないな」
 畏まって頭を下げた彼を呵々と笑い飛ばし、この国で最も偉く、この世界で恐らく最も強いだろう男は肩の高さでひらひら手を振った。
 相手の警戒心を奪う朗らかな笑顔で目を細め、直後声を潜めてアリババの肩を叩く。強く握られて、骨が軋む痛みに少年はがっくり項垂れた。
 反論できない。彼の言う通り、アリババはあと少しで死ぬところだったのだ。
 そこに油断があったのは否めない。陰鬱な感情に支配され、目の前が見えなくなっていた。
「……気をつけます」
「そうしてくれ。君に何かあったら、先生に顔向け出来なくなってしまうからね」
 反省を込めて低い声で告げれば、素直な返答に彼は安堵の息を吐いた。冗談めかせてそんなことを言い、今度は金糸の髪をくしゃりと掻き回した。
 跳ねている毛先も押し潰されて、上からの力に屈したアリババは首を竦めた。嫌そうに身を捩って逃げて、太くて頑丈そうな腕を両手で追い払う。
「やめてください、シンドバッドさん」
 かぶりを振って声を荒らげれば、偉大なる英雄、七海の覇王ことシンドバッドは胸を反らして豪快に笑った。
 その口ぶりも、態度も、一国を支配する王にはとても見えない。七つの金属器を身に付けて、豪奢な衣装をまとっていなければ、酒場で飲み潰れているだらしない男となんら変わりはなかった。
 その親しみやすさ故に、彼は国民から絶大な指示を受けているのだろう。
 元々一介の冒険者だったから、市井の人々の苦労も良く知っている。権力者の身勝手に振り回されて、多くの嘆きや悲しみが日々生まれているのも知っている。
 アリババがバルバッドを出て以降見てきた町や国の人々は、誰しも疲れた顔をして俯いていた。だがシンドリアは違う。この国に暮らす民は皆笑顔で、晴れやかな表情をしていた。
 世界には、彼のような為政者こそ必要なのだ。
 民草の辛苦に見向きもせず強欲のままに突き進む王族など、さっさと滅びてしまえばいい。一握りの権力者の為にその数倍もの無辜の民が傷つき、疲弊し、倒れ行く様などもう見たくなかった。
「でもどうして、シンドバッドさんはここに?」
 尚も追い掛けてくる手から巧みに逃げて、アリババはふと胸に沸いた疑問を口に出した。
 ここは赤蟹塔と銀蠍塔の中間地点に当たり、王の居室がある紫獅塔や執務室のある白羊塔からは離れている。それに日頃から影のように彼に付き従い、事ある毎に働けと口煩くしているジャーファルや、警備の兵士も近くに見当たらなかった。
 そもそも普段は鍛錬に励む人々でごった返しているこの場所に、アリババと彼のふたりしかいない状況からしておかしかった。
 日暮れにはまだ早く、今日の業務終了を告げる鐘もまだ鳴り響かない。だというのに喧騒から切り離された王城の一画に、ふたりは居た。
 素朴な問いかけに、シンドバッドはしかし直ぐに返事をしなかった。
「シンドバッドさん?」
「言わなかったかな。君の姿が丁度上から見えてね」
 口を噤んでしまった彼に小首を傾げ、アリババは僅かに声を高くした。胸に生じた一抹の不安を拭おうと右足で強く地面を踏みつければ、七つの金属器を有する男は悠然と腕を組み、顎をしゃくって後方の建物を示した。
 アリババもつられて後ろを振り向けば、確かに銀蠍塔の大きな建物が見えた。三階建てで、屋上もある。ドーム型の屋根を複数戴いて、廊下からの見晴らしは抜群だった。
「ああ……」
 そういえば少し前、確かにそんなことを言われた気がする。すっかり頭から抜け落ちていたと物忘れが激しい自分に呆れ、彼は緩慢に頷いた。
 となれば、ジャーファルやマスルールたちともそこで別れたのか。いくら王城内部とはいえ、王がひとり出歩くなど、おいそれとあって良いことではないはずだ。
「いいんですか、お仕事は」
「ちょっとした息抜きだって、たまには必要だろう?」
「シンドバッドさんの場合、息抜きばっかりじゃないですか」
「いやあ、それほどでも」
「……言っておきますけど、褒めてませんからね、今の」
 だが話を振っても、彼はそれとなく話題を逸らしてしまう。上手く丸め込まれているとも知らず、アリババは照れ臭そうに頭を掻いた彼にため息をついた。
 真面目な話をしているつもりで、気付けば躱されている。井戸に落ちかける前になにか大事な事を考えていたはずなのに、その内容さえも今となっては全く思い出せなかった。
 とても大切な、非常に重要な悩みを抱えていたはずなのに、暗い影はシンドバッドという眩しい光によって跡形もなく掻き消されてしまった。しかもアリババ自身、その追い求めるべき影が失われた事実に気付かない。すぐに思い返せないのなら、どうせたいしたことではなかろう。そう決め付けて、追求するのを簡単に諦めてしまった。
 考えているよりも、シンドバッドと話している方が楽しい。面白い。だから流される。誘導に従い、引き寄せられる。
「手厳しいな、アリババくんは。ジャーファルに似てきたんじゃないか?」
「だとしたら嬉しいです」
「……俺は嬉しくないな」
「ははっ」
 ジャーファルとは、シンドリア王国の屋台骨である八人将の筆頭であり、国務を任せられている政務官だ。普段は温厚だが、怒ると誰よりも怖い。シンドバッドの冒険譚では、角を生やして火を吐く怪物に変身すると記されていた。
 国政を一手に引き受けている為か、彼はシンドバッドに対して誰よりも厳しかった。
 王が仕事をサボれば、その分彼に回る仕事が遅れる。そうなれば色々滞り、各所で弊害が生じた。だが肝心の王にその自覚はなく、あまつさえ出奔癖があり、酒癖も悪く、女にだらしなかった。
 政務官の心労や、いかばかりか。最大の味方にして最大の敵である男を思い浮かべて眉間に皺を寄せたシンドバッドに、アリババはカラカラと喉を鳴らして笑った。
 この国に渡ってきてから、ジャーファルには世話になりっ放しだった。願わくは彼のような勤勉さと、シンドバッドのような広い心を併せ持つ人間になりたかった。
「頼むから、ジャーファルのようにだけはなってくれるなよ」
「どうでしょう。それは、シンドバッドさん次第じゃないですか?」
 口煩い人間がこれ以上増えられたら、心労で倒れてしまう。こっそり城を抜け出して街で遊ぶなんて真似も、簡単には出来なくなるだろう。
 想像したのかげっそりしながら言われて、アリババは小さく舌を出した。
 彼が怒るのは、シンドバッドが真面目に働かないからだ。もっと真剣に国務と向き合ってくれるなら、ジャーファルだってあそこまで角を生やしたりしないに違いない。
 ふたりのやり取りは、これまでにも何度か目にしてきている。そこに自分が加わっている光景を想像すると、可笑しくて仕方が無かった。
 今のアリババは食客という立場であり、シンドリアの国政とは関わりの無いところにいる。だからこんな考えを抱くのは分不相応の極みなのに、彼はそこに疑問を抱かなかった。
 いつか出て行かねばならない立場であるのに、ずっとこの国に留まり、やがては師であるシャルルカン同様シンドバッドの臣下としてアル・サーメンとの闘いにはせ参じるのだと、信じて疑わなかった。
 口元を押さえ込んでも、クスクスと忍び笑いが漏れてしまう。背中を丸めて小さくなっている少年に目を細め、シンドバッドは細かい傷が多々残る指を伸ばした。
 数多の冒険を潜り抜けて来た手を広げ、無邪気な子供の頬に触れる。耳たぶを覆うようにして髪を梳いてきた彼に驚き、アリババはビクッと大袈裟に肩を跳ね上げた。
「あ……の」
「ん?」
 冷えていた肌に触れた熱にどきりとして、思わず声が上擦った。首の付け根を擽られるとくすぐったくてならず、微かな電流が流れて周辺の筋肉がこぞって萎縮した。
 反射的に首を竦めてしまい、望んでも無いのに自ら大きな手に張り付く形になってしまった。慌てて反対側に頭を振れば、挙動不審なアリババを笑うシンドバッドが見えた。
 彼の手は引っ込まず、続けて顎のラインをなぞって襟足へと回された。ぐっと引き寄せられてつんのめり、彼は爪先立ちになって耐えようとした。
 だがバランスは容易く崩れ、倒れそうになる身体を支えるべく足は勝手に前に出る。その最中になにかを蹴り飛ばしてしまい、親指に当たった衝撃にアリババはハッとなった。
「あっ」
 咄嗟に叫んで、無意識のうちにシンドバッドを押し返す。弾みで転がった品を目で追う彼につられ、思わぬ抵抗にあった男も顎を引いて俯いた。
 ふたりの影に紛れる形で、小さな貝殻が転がっていた。
 固く口を閉ざした二枚貝は、海に囲まれた島とはいえ王城の中庭にあるべきものではない。予想の範囲を超えた落し物に吃驚して、シンドバッドは目を丸くした。
「っと、やべ」
 ヤムライハやピスティに貰った大事なものを、危うく踏み潰してしまうところだった。落としたことすらすっかり忘れていたアリババは冷や汗を流し、金箔に覆われた貝の入れ物に急ぎ手を伸ばした。
 だが掴み取る寸前、横から沸いて出た別の手に、花を散らした貝は攫われて行ってしまった。
「ほう、これはまた」
 その手の主が誰であるかは、考えるまでも無い。物珍しげにしながら呟いたシンドバッドを見上げ、アリババは慌てた。
「シンドバッドさん」
「面白いものを持っているね。そうか、アリババくんもついに恋の花咲く季節になったのか」
「……はい?」
 綺麗に彩られた貝殻を撫でながら、一国の王が妙にしんみりした口調で告げた。だが言われた内容が理解できなかったアリババはきょとんと首を傾げ、返してもらうべく広げた手をぶらぶらさせた。
 不思議そうに見上げられて、シンドバッドも当てが外れたか頭の上にクエスチョンマークを生やした。毅然とした王の顔からお調子者の冒険者に逆戻りして、戸惑いがちに手の中のものを指し示す。
「え、違うの?」
「なにがどう違うのかは分かりませんけど、それはさっき、ヤムライハさんたちに貰ったんです」
 自分たちは使わないからと、半ば押し付けられる形で受け取った。中身については知らない。だから分かる人がいたら教えてもらおうと思っていた。
 この様子ならシンドバッドは知っていそうだ。久しく放置していた期待がにわかに膨らんで、アリババは嬉しそうに頬を紅潮させた。
 その穢れの無い笑顔に一瞬息を呑んで、シンドバッドはややして肩を竦めた。
「そうか。彼女のところに行っていたんだね」
 銀蠍塔にいたにしては、汗をかいていない。此処に来るまで何をしていたのか気になっていたが、そういう事情だったのなら納得もいく。
 それに、と彼は再び無防備な少年に手を伸ばした。
「わあっ」
「どうりで――」
 驚き目を見張るアリババを他所に、男は細い首筋に鼻先を埋め、甘い香りを放つ身体を腕の中に閉じ込めた。くん、と音を立てて匂いを嗅ぎ、低い声で囁きもする。
 その背筋にぞわっと来る声色に鳥肌を立て、アリババは勝手に赤くなる顔と跳ね上がった心臓に目を白黒させた。
「あ、え、っの、シ……っ」
 名前を呼ぼうとするが、舌が回らない。慌てふためき暴れ出した身体を軽々と押さえ込んで、シンドバッドは甘やかな蜜の香りを胸いっぱいに吸い込んだ。
 ほんの少し花の匂いが混じっているのも、八人将を彩る女性二名と一緒にいたからだろう。覚えのある香水を敏感に嗅ぎ取って、男はクツリと喉を鳴らした。
「良い匂いがする」
「え……え――えぇぇ?」
 うっとりと目を閉じて囁けば、音を拾い上げた少年が素っ頓狂な声を上げた。
 彼は以前、モルジアナにアリババ臭がする、と言われたことがあった。
 そのアリババ臭というものがいったいいかなる匂いなのかは不明のままだが、口ぶりからしてあまり芳しいものでなかったのは確かだ。以来彼は自分の体臭に少なからずコンプレックスを抱くようになり、ちょっと汗を掻いただけでも身体を拭いたり、水を被ったりするのを習慣付けるようになっていた。
 そんなだから匂いについて褒められてもにわかには信じ難く、驚き以外出てこない。完全に裏返った甲高い声にシンドバッドも吃驚し、腕の中でピーンと伸び上がった少年を見つめた。
「アリババくん?」
「いや、あ、だって、おれ、前に」
 モルジアナに嫌な顔をされたとは、許されるなら言いたくなかった。
 ファナリスの嗅覚は常識の範疇を越えており、通常は嗅ぎ分けられない臭いさえ探り出してしまう。それにモルジアナは嘘をつけない性格をしているから、変に誤魔化すような真似はせず、本当に感じたままを口にしたのだろう。
 どう説明すればいいか迷っているうちにドツボに嵌り、どんどん気持ちが暗くなっていく。俯いてしゅんとしな垂れてしまった彼に眉目を顰め、シンドバッドはやがて嗚呼、と緩慢に頷いた。
 各自の臭い云々については、彼も小耳に齧っていた。なんでも自分は、色々と混じり合ってワケがわからない匂いがする、と評されていたらしい。無臭だと言われたジャーファルが、当時のやり取りを嬉々として報告してくれたのが思い出された。
 アリババが何を気にしているのかを察して、シンドバッドの頬が緩んだ。愛おしげに柔らかな頬を擽ってやり、彼はもう一度鼻を鳴らして菓子の甘い香りを楽しんだ。
「いい匂いだよ、本当に。食べてしまいたくなる」
 たっぷりの蜜で味付けられた菓子が並び、その中に埋もれているアリババの姿を思い浮かべて呟く。尊敬する王のことばをどう受け止めたのか、金髪の少年は途端にかあっ、と顔を赤くした。
「お、美味しくないですってば」
 声を荒らげた彼の、胸を押し返す手の力が強まった。首飾りの圧迫感に肋骨が先に悲鳴をあげて、シンドバッドは仕方なく彼を解放した。
 名残惜しげに鼻をヒクつかせるのを忘れず、さりげなく頬と頬を張り付かせてから離れる。柔肌を擽った感触と熱にも顔を赤くして、アリババは気恥ずかしげに身を捩った。
 火照った肌を冷まそうとしてか、緩く握った拳を頬に押し当てる。苦虫を噛み潰したような表情を見せられて、シンドバッドは相好を崩した。
 そうして手に握ったものを改めて見つめて、誰にも知られぬところでふっ、と皮肉な笑みを浮かべた。
「あ、それ」
「アリババくんは、これがなにか知っているのかい?」
 危うく忘れるところだったアリババも見て思い出して、人差し指を伸ばした。
 興味深そうに貝を小突く彼を眺め、シンドバッドが確認の意味で問う。向けられた眼差しは、想像した通りの彩をしていた。
 琥珀色の双眸は、言葉以上に雄弁にものを語っていた。知らない、知っているなら教えて欲しいと、きらきらと輝く夜空の星が告げていた。
 その目映い煌きに破顔一笑して、シンドバッドは美しく飾り立てられた二枚貝を握り締めた。
「ふたりは、なにか言っていなかったのかい?」
 こんなものを彼に贈るなど、随分と意味深だ。ヤムライハやピスティにそんな意図はなかろうが気になって尋ねれば、アリババはまだほんのり朱が残る頬を緩め、下唇に指を押し当てた。
「ええっと、俺は使わないだろうから、誰かにあげたら、って」
「それだけ?」
「いえ。なんだったかな……ああ、そう。それがなにか知りたかったら、使ってもらえば、て」
「ほう」
「シンドバッドさんは、使う人ですか?」
 菓子をつまみながらの雑談を思い返し、気になっていた事を思い切って声に出す。背伸びしつつ小首を傾げた彼に一瞬虚を衝かれた顔をして、シンドバッドは思いがけず跳ねた心臓に苦笑した。
 こんな仕草、いったい誰に教わったのか。彼の母はスラムで娼婦として働いていたというので、その息子にも或いは、他人をかどわかす才能が知れず引き継がれているのかもしれなかった。
 本気で貝殻の中身と、その使い道について知らないアリババの無邪気さに当てられたか、頭がくらくらした。水面下の駆け引きなど彼には存在しないのだと教えられて、シンドバッドは引き攣りそうな笑みを右手で覆い隠した。
 純粋で、穢れを知らない。一点の曇りもなく、静寂に包まれた森林の奥に眠る湖面のように澄んでいる。
 今のご時世稀に見る逸材だと感嘆の息を漏らし、同時に馬鹿な子だとも思う。心の中で嘲り笑いつつも羨ましくてならず、その淀みない心を守りたいと願いながらも、別の色に染め替えてしまいたいと欲して止まない。
「そうだね。使う……いや、使いたい、かな?」
「へえ、やっぱり」
 どう返答するかでしばし迷い、慎重に言葉を選びながら囁く。いったいどんな風に解釈したのか、アリババはシンドバッドの返事に嬉しそうに手を叩いた。
 中身を知っていたら絶対に言えない台詞に肩を竦め、シンドバッドは無邪気に喜んでいる子供の頭をくしゃりと撫でた。意地の悪い大人の顔を仮面で隠し、朗らかに微笑みかける。
 ピスティたちの言葉を若干間違えて覚えていた少年は、照れ臭いけれども心地よい手の感触に相好を崩し、恥ずかしそうに頬を赤らめた。
 孤独に耐える日々が長かったからか、彼はスキンシップに過敏だった。
 最初は触れようとする度に酷くびくびくして、そのくせ雨に濡れた子犬のような顔をしてこちらを見る。距離を狭めるのはかなりの根気と時間が必要だった。大好きだと目を輝かせた冒険譚を餌にして、最近になってやっとこういった接触をしても逃げようとせず、逆にもっと欲しがって近づいてくるようになった。
 そろそろ次の段階に進んでも良いだろうか。
 寄せられる好意に色をつけるのは、簡単ではない。機会や方法を誤れば、折角積み上げた信頼は呆気なく瓦解して海の藻屑と消えてしまう。
 今は頃合いか、どうか。
 数秒の逡巡を経て、シンドバッドは考えを放棄した。
「知りたいかい?」
 あれこれ頭を悩ませたところで、失敗する時はどうやっても失敗するのだ。次の一歩を躊躇していたら状況はなにも変わらない。冒険者だった頃からの鉄則を思い出して己を鼓舞し、彼は二枚貝の合わせ目に指をかけた。
 静かに問えば、アリババは元気よく頷いた。
「はい!」
 百点満点の返事に苦笑して、シンドバッドは上唇を舐めた。親指にそっと力を込め、固く閉ざされていた貝をゆっくり開く。
 わくわく、と胸躍る様が顔に出ている少年から視線を下に向ければ、目の覚めるような赤が一面に広がった。
 鮮血よりも濃く、丹よりも鮮やか。熟した木の実よりも艶があり、燃え盛る炎よりももっと情熱的。
 そんな表現がぴったり来る赤色が、貝の中にごく少量、収められていた。
「ほう……」
 アリババには見えないよう手の位置を高くし、シンドバッドがため息を零した。感動すら覚える艶やかな色は、数多の国との交易で栄えているシンドリアにおいても珍しいものだった。
 その分当然値は張る。使わない色だから、のひと言で他人に気安く押し付けられるのは、ヤムライハたちが八人将だからこそだ。
「なに、なんですか?」
 感嘆詞ひとつで片付けてしまったシンドバッドに焦れて、アリババが覗き込もうと横に回りこんだ。しかし意地悪い大人はこれを許さず、腰を捻って視線を躱すと、二枚貝の入れ物も閉じてしまった。
 片手で易々と扱うところから、慣れている雰囲気が感じられた。だからこそ余計に悔しくて頬を膨らませた彼に、金細工で着飾った男は呵々と笑った。
「拗ねないでくれ」
 軽い調子で謝罪し、これから実際に使ってみせると言葉を注ぎ足す。裏で何か企まれているとも知らず、アリババは無条件で敬愛する王を信じた。
 疑念を忘れ、違和感も見失ったまま首をコクコク振った彼に相好を崩し、シンドバッドは改めて二枚貝を広げた。
「ではアリババくん、そこに胸を張って立ってくれるかな。あと、少し上を向く感じで」
「……え?」
「使って欲しいんだろう?」
 その上で指示を出されて、横で見ているだけのつもりだったアリババはきょとんとなった。不思議そうに見返せばウィンクと共に告げられて、首を傾げつつも言われた通り足を揃えた。
 背筋を伸ばし、両手は身体の横にぴったり添わせる。緊張気味に口を引き結んでいたら、もっとリラックスするようにと笑われた。
「いいかい?」
「えっと……はい」
 これから何が始まるか見当も付かない様子で頷いた彼に、シンドバッドが声を殺して笑った。左の掌に置いた貝が転がらないよう注意しつつ、右の薬指を伸ばして中身に浸す。
 表面をなぞるように円を描けば、ほんの少し油を含んだ紅が指紋を覆うように張り付いた。
 それは紅花を用いて作られた口紅だった。
 たったこれだけの量を生み出すのに、必要とされる花びらの数は半端なものではなかった。
 地平線の続く限り広がる紅花の畑。冷害や虫の被害に戦々恐々とした末に収穫した後も、色素を絞りだす為に膨大な手間と時間がかかる。そんな、工程作業を聞くだけで気が遠くなるような代物だった。
 けれど化粧とは無縁の生活を送っていたアリババは、この事実を知らない。高価な中身に見合うよう作られた入れ物にばかり気を取られ、自力で本質を見極めようともしない。
 今も期待と不安半分の顔をして、じっとシンドバッドを見つめている。
「目を閉じて」
「……はい」
 素直で、従順で、盲目的。故に御しやすい。全幅の信頼を寄せられているのを自覚しながら、彼は頷きつつ瞼を下ろした少年に気取られぬよう笑った。
 その裏で押し潰されそうになっている心から顔を背け、紅を掬い取った薬指をアリババに差し向ける。
 ほんの少し突き出ている下唇に触れた瞬間、彼はぴくりと反応した。
 睫が跳ね上がり、瞼が痙攣した。しかし開けて良いと言われていない所為か、彼はぎゅっと力を込めて強く目を瞑り直した。
 健気な反応に気をよくして、シンドバッドは薬指をすっと左に流した。
 擦るのでなく、表面を軽く払うように。さすがは最高級品か、少量であっても伸び具合は素晴らしかった。
「あ……」
 唇の上を行く指先に、薄く口を開けていたアリババから吐息が漏れた。微風がシンドバッドを掠める。仄かに湿った熱風に、調子よく動いていた手が不意に止まった。
 それが、終わったとの合図に感じられたのだろう。
 閉ざされていた瞼がゆっくりと開かれた。
「……っ」
 下唇だけに塗り込められた、焦げ付くほどに鮮烈な赤。それが絹のように白い肌と金紗を思わせる髪や瞳と相俟って、この世のものとは思えぬ彩を生み出していた。
 精密に作られた陶器の人形を思わせる風貌が、血の通った人間として目の前に存在している。ただ紅を付け加えただけだというのに驚くべき変わり様に呆気に取られ、シンドバッドは息をするのも忘れて瞠目した。
 ぽかんと口を開き、瞬きすらせずに眼前に見入る。脳天に電撃を受けたような衝撃を覚え、両腕には鳥肌が走った。背中が粟立ち、変な声が出そうになった。
 慌てて右手の甲で口元を隠し、鳴動を強めた心臓に冷や汗を流す。長く忘れていた感覚に全身が戦き、魂が震えた。
 不味い。そう思った時にはもう、目が離せなくなっていた。
「あの……?」
 硬直しているシンドバッドに瞬きを繰り返し、アリババは口元の違和感を気にしながら声を潜めた。
 言葉を発する度に、上唇が紅を塗られた下唇に張り付く。そうやって少しずつ色が上にも移動していく光景を食い入るように見つめて、シンドバッドは無意識に喉を鳴らした。
 最初は、彼をこちらに取り込むつもりだった。
 甘い餌をちらつかせ、心を侵食する。思考を絡め取り、こちらの狙う通りに動く駒のひとつとする。その手筈だった。
 だのに、予定が狂った。
 狂わされてしまった。
「えっと、これ、もしかしてアレじゃないですか。女の人がよく、口に塗ってる」
 此処まで来てようやく貝殻の中身に思い至ったアリババが、沈黙を嫌い、声を高くした。同意を求め、胸の前で手を揺らした後に紅を拭い取ろうとして拳を顔に寄せる。
 この奇跡のような造詣が崩れ落ちる未来にハッとして、シンドバッドは反射的に彼の手首を握り締めた。
 両手で束縛し、身動きを封じる。紅を入れた二枚貝は邪魔者扱いされて地に落ちた。
 美しい花が影に散って、アリババの注意がそちらに逸れた。隙を見逃さず、シンドバッドは本能が求めるままに首を伸ばした。
「シ――……んぅっ」
 下向いていた瞳が、顔に落ちた影に反応して上向きに転じた。琥珀色の瞳いっぱいに夕闇を思わせる紫紺色が広がり、直後唇を覆った指よりもずっと柔らかな感触に、彼は咄嗟に目を見張った。
 ぬるっとしたものが閉じるのを忘れた唇を辿り、隙間から忍び込んだ熱風が前歯を擽る。大人の男を匂わせる香りが鼻腔いっぱいに広がって、折れそうなくらいきつく抱きしめてくる腕に背筋が震えた。
 ぞわっとくる悪寒が脊髄を慌しく駆け上がり、頭の中で破裂した。自分の身になにが起きているのか咄嗟に理解できなくて騒然として、アリババは無意識のうちにそこにあるものを鷲掴みにした。
 上腕を締め付ける力にも構わず、シンドバッドは鮮やかな紅色の唇にがむしゃらに齧り付いた。
 ただ重ね合わせるだけでは物足りず、上唇を挟んで揉み解すように動かしては粘り気を放つ紅を利用して音を響かせる。隙間をそっと舐めて色を広げ、たっぷりの唾液を塗したところで更に食らいついて放さない。
「んんー、ンはっ、う……、んっ」
 呼吸もままならないアリババが苦しそうに喘ぎ、鼻から必死に酸素をかき集める。最中に漏れ出た吐息は本人の意図に反して変に艶を帯びており、それが益々男の獣としての本性を刺激した。
「アリババくん」
 ちゅ、ちゅ、と小鳥が餌を啄ばむようなキスをして、合間にそっと名前を囁く。低い声色にどきりとして、立っているだけでやっとの少年はぶるりと竦みあがった。
 しどけなく濡れた唇は以前にも増して赤く色を強め、宝石よりも目映い双眸は涙に潤んだ。荒い呼吸に合わせて細い肩が上下し、開きっ放しの口からは肉厚の舌が時折顔を覗かせた。
「んっ」
 あふれ出る唾液を飲み干すべく、喉仏が上下する。そんな何の変哲の無い仕草ひとつにすら欲情を抱かされ、シンドバッドは燃え滾る肉欲に目を爛々と輝かせた。
「な、……で」
「知りたいと言ったのは君だよ」
 頭は混乱し、呂律も回らない。状況に理解が追いつかないで居るアリババを笑って、シンドバッドは捕まえた子羊を存分に舐った。
 太い腕の中で、華奢な体躯が跳ねた。
 大きめの上着の上からでは分からない腰のラインを撫で回し、必死に逃げ回る舌を探して咥内を蹂躙する。見つけ出して捕まえて、湿った粘膜を擦り合わせれば、くちゅくちゅと淫らな音が頭の中に鳴り響いた。
「や、っあ……ん、ふぁ、ンっ」
 体の芯が疼き、異様な熱が奥底から湧き上がってきてアリババを飲み込もうと蠢く。内股になってもぞもぞと膝をぶつけ合わせて、彼は嫌々と首を振った。
 ずり落ちた両手でシンドバッドの袖を握り、堪え切れなかった涙を頬に流して鼻を愚図らせる。くちゅ、と口の中で水が弾けて、歯茎をなぞる熱に肩がビクッと跳ね上がった。
 知らない。
 こんなのは知らない。
 ひとりでは立てない。目を開けることも出来ない。身体の中にシンドバッドが流れ込んでくる。彼の熱に飲み込まれ、どろどろに溶けてしまいそうだった。
 心臓が耳元で騒いでいる。どくんどくん言って五月蝿い。振り払いたいのに取り除けなくて、この後どうしたらいいのかも分からない。
 なにも考えられない。シンドバッドが与えてくる熱だけが全てになる。頭の中が真っ白になる。彼の香りに満たされて、塗り替えられてしまう。
「っは……」
 心行くまでアリババを貪り、シンドバッドが吐息を零す。舌を伸ばしたまま身を引けば、離れ難かったのか透明な糸がふたりの間に橋を架けた。
 途中で千切れた唾液の冷たさに首を竦め、男が乱れた息を整えるべく肩を揺らす。瞬き一つで視線を上に転じた彼は、今にも崩れ落ちそうなアリババの、とろんと蕩けた表情に頬を引き攣らせた。
「ぁ……――」
 息も絶え絶えの少年の頬は朱に染まり、瞳は涙に濡れて甘い蜜をたたえていた。だらしなく開かれた唇は他者の唾液で潤い、見え隠れする舌はなにかを探して鳴動していた。
 は、は、と短い間隔で息を吐き、恍惚に濡れた眼がシンドバッドを映し出す。どくりと鳴った獣の鼓動に四肢を戦慄かせ、彼はこみ上げてくる笑いを必死に押し殺した。
 抱きしめていた腕を解けば、アリババは敢え無く膝を折ってその場に崩れ落ちた。
 ふらつき、そのまま倒れる。しなを利かせて地面に横たわった彼に続いて身を屈め、男は依然美しく艶を帯びた紅色の唇をなぞった。
 親指で余分な湿り気を拭ってやり、どこか惚けている双眸を覗き込む。数回の瞬きの末に焦点が定まった彼を確かめふっと笑い、色付いている耳元に唇を寄せる。
「今夜も、部屋に来なさい」
 いつものように、寝物語を聞かせてあげよう。
 それはこれまでにも幾度となく繰り返してきた、ふたりだけの約束。だがその言葉が意味する内容が幾ばくか変化しているのを感じ取り、アリババは直ぐに頷けなかった。
 立ち去る背中を見送り、足元に転がる二枚貝に手を伸ばす。
 掴み取った瞬間蘇ったピスティの言葉に、彼はうっ、と息を呑んだ。

2012/12/14 脱稿