天眼

 瞬きも忘れて画面を凝視していた集中力は、コンコン、というノック音にあっさり霧散してしまった。
 長く開きっぱなしだった瞳を瞼の裏に隠して首を振り、呼吸することさえ忘れていたと首を竦めて唇を舐める。凝り固まった筋肉を解そうと腕を高く掲げれば、肩の関節が左右同時に小気味良い音を響かせた。
「んん~~……」
 ひとつのことに没頭している間は感じなかった疲れが一気に押し寄せて来て、身体が重くて仕方がない。血流が悪くなっている箇所を宥めるように揉み解して呻けば、返答がないのに焦れたノックの主がもう一発、苛立ちを隠しもせずにドアを叩いた。
 ゴンッ、という遠慮のない一撃に反射的に目を瞑り、沢田綱吉は忘れていたと自分に苦笑した。
「どうぞー」
 あまり待たせるのも悪いと舌を出し、椅子を軽く引いて上半身を持ち上げる。尻の位置を少し手前にして座り直した彼の眼前で、飾り気に乏しい扉がゆっくり内側に押し開かれた。
 そこにいたのは若い男だった。銀色のノブを握り、悠然と室内に入ってくる。
「邪魔するよ」
 一応断りの文句を口にしたのは、葬式帰りかと言いたくなる真っ黒いスーツの青年だった。
 背は高く、百八十センチ以上あるだろう。短く切り揃えた髪も黒一色で、瞳の色もまた闇よりも深い漆黒。うっすら笑みを浮かべている唇だけが目の覚めるような赤色をしているが、暗闇に紛れ込まれたら一瞬で行方を見失ってしまえるレベルだった。
 ご丁寧にネクタイも、下に着込んだシャツまでもが黒色だ。磨き抜かれた靴は光を受けて輝いているものの、見る角度によっては奈落の底を覗き込んでいる錯覚を抱かされるだろう。
「死神みたいだ」
「なに?」
「いいえ、なんでも。それより、珍しいですね。ヒバリさんがわざわざ」
「そう?」
 その姿に、巨大な片刃の鎌を持つ不気味な骸骨の図が思い浮かんだ。いつだったか、なにかで見た覚えのあるイラストが脳裏に蘇り、あまりの縁起の悪さに首を振って即座に頭から追い払う。
 挙動不審な態度をいぶかしんだ雲雀に早口で否定すれば、彼はちょっとだけ目を丸くして楽しそうに口元を綻ばせた。
 非常に分かり辛い微細な変化だけれど、付き合いの年数がそろそろ二桁に達しようとしているのだ。これくらいならどうにか見分けられるようになっており、自分の成長ぶりを密かに胸の内で褒めていたら、雲雀の左腕がすっと肩の高さまで持ち上がった。
「どこかの十代目が、急かしてくれたからね」
 言いながら持っていたものを左右に揺らした彼に、ボンゴレ十代目こと沢田綱吉は叱られた子供のように背中を丸めて小さくなった。
 示された書類の束は、ここ最近風紀財団が内々に取引を進めている企業との契約書だった。
 本来は外部へ持ち出すこともさることながら、部外者に見せるなどもってのほかの重要機密だ。資金提供を餌に入手した書類の中身は、最近極秘裏に開発が進められている細菌兵器についての資料だった。
 こんなものの開発が成功し、万が一世に放たれようものなら、大変なことになる。正義の味方を気取るつもりはないけれども、知ってしまった以上は黙って見過ごすわけにはいかない。
 遠目ながらも表紙に記された英文を読み取って頷いて、綱吉は椅子の上で身じろいだ。
 東洋の島国出身の彼には些か大きすぎる肘掛を掴み、右足を軽く蹴り上げる。踵を床にこすり付けて椅子ごと身体を前に運んで机に向き合う頃には、雲雀も大ぶりのデスク前まで来ていた。
 そうして差し出されたので受け取るべく利き手を伸ばせば、掴む寸前、サッと引っ込められてしまった。
「ちょっと」
 思わぬ悪戯に空振りさせられて、予想していなかった綱吉は口を尖らせた。空っぽの手を握っては広げ、早く渡すよう促して頬を膨らませる。
 その年齢にそぐわない子供っぽい表情に相好を崩し、雲雀は軽く丸めた書類の束で肩を叩いた。
「世界規模の危機を、タダで手に入れようとは随分と調子が良すぎやしないかい」
「俺と貴方の仲じゃないですか」
「ベッドの上なら聞いてあげなくもないけど、残念ながらここはそうじゃないだろう?」
 安っぽい挑発には乗らず、含み笑いと共に切り返されて綱吉はむっと小鼻を膨らませた。上唇を内側に巻き込んで軽く噛み、顎を引き気味に睨みつけるが効果はない。
 大きすぎる瞳と、高校生かと見紛う幼い風貌はどうやったところで迫力とは結びつかない。それどころか母譲りの童顔は本人の意思に反し、可愛らしさを強調していた。
 そろそろ二十代の真ん中に差し掛かろうとしているというのに、町を歩けば学生と勘違いされるのは、男としての沽券に関わる。嫌な事を思い出したと渋い顔をして、綱吉は降参だと白旗を振った。
「ご要望は?」
「先月、ボンゴレが買収したっていうあの企業の株。全部とは言わない、半分でいいよ」
「……四分の一で」
「ダメ。半分」
 昔馴染みのよしみで、とはいかないところがこの男の扱いづらいところだ。瞬時に商談に入った雲雀の前で頬杖をつき、余裕の態度を取ろうとして失敗した綱吉は、表には流せない冷や汗で背中を濡らして瞼を伏した。
 言い出したら聞かない性格なのは承知しているが、ハイ分かりましたと簡単には頷けなくて頭が痛い。
「三分の一」
「だーめ」
「俺ひとりの権限じゃ決められないんで、一ヶ月待ってください」
「明日までしか待てない」
「無茶言わないでくださいよ」
 なんとか妥協案を示すが、一蹴されて取り付く島もない。仕方なく時間稼ぎに方向転換するが、こちらもあっさり拒絶された。
 思わず机を殴りつけて、骨を突き抜けた痛みに彼は苦虫を噛み潰したような顔をした。
 沢田綱吉が正式にボンゴレ十代目を襲名してから、今年で三年になる。但し歴史あるマフィア、ボンゴレの権力は彼ひとりの掌中に収まったわけではなく、いくつかに分割して管理されていた。
 門外顧問であるチェデフに、実行部隊のヴァリアー。そして九代目との繋がりが特に強い何件かの同盟ファミリーと、元アルコバレーノたち。今後ボンゴレが重要な案件を取り扱う際は、その代表者すべてに了解を取り、承認を得る決まりになっていた。
 権力をひとつに集中させると、暴走を招きやすい。沢田綱吉が争いごとを嫌う人間であるのは誰もが知っていることだが、万が一、億が一の可能性を考慮して、なにより綱吉自身がそれを強く望み、こういう形が取られることになった。
「みんなを招集させるだけで、三日は掛かりますよ」
「そんなの、僕の知ったことじゃない」
 だがその弊害として、緊急案件への対処が非常に遅くなった。
 独断専行して裁定を下せば、自らが定めた規約に触れる。権力分散の弊害をまざまざと見せ付けられて、綱吉は両手で頭を抱え込んだ。
 その親指が、固いプラスチックに触れた。
 ぶつかった弾みで位置がずれ、自身の重みで元の場所に戻ろうと動く。視界の端で上下に踊ったフレームに眉を顰めた彼に、雲雀が気付かないわけがなかった。
「さっきから気になってたんだけど」
「はい?」
 幾ばくか声を潜めた彼に顔をあげ、綱吉が小首を傾げる。その小動物めいた仕草に些か困った顔をして、雲雀は手にしていた紙束を下ろした。
 机に置かれた重要機密に、ボンゴレ十代目が素早く手を伸ばす。しかし予測していた雲雀が瞬時に角を掴んで引っ込めた為、彼の指はなにも掴めず空振りした。
 虚しさを耐えて拳を作った綱吉の目元には、見慣れないものが掛けられていた。
「はい、残念」
「ちぇ」
 横から掻っ攫ってやろうとして失敗した彼に笑みを噛み殺しながら囁き、雲雀は空いている方の腕を伸ばした。人差し指以外を折り畳み、悔しそうに頬を膨らませているマフィアの若きボスの眉間を小突く。
 だが指は温かな熱を持つ皮膚には達せず、その手前にあった障壁にぶつかった。
 鼻の付け根に固いものが食い込む感覚にムッとし、綱吉は薄い唇を舐めた雲雀を睨みつけた。
「老眼鏡?」
「なんでですか。俺、ヒバリさんより若いんですけど」
 たかだか一歳差だが、年下なのには違いない。失礼過ぎる発言に口を尖らせ、見目幼い青年は再度迫ってきた指を追い払うべく手を横に振った。
 跳ね返された左手を引っ込め、雲雀は肩を竦めて苦笑した。
「そんなのでボスが務まるの?」
 眼鏡なしで物が見えないようでは、いざという時に困るのではないか。特に戦いの際は、万が一紛失すれば視界を奪われたも同然であるし、レンズが割れれば目に入って更に危険だ。
 短いひと言で随分と沢山の疑問を投げかけてきた彼に相好を崩し、綱吉は頬を緩めて眼鏡を外した。
 二度、三度と瞬きを繰り返して瞳を慣らし、スクリーンセーバーが起動していたパソコンのキーを軽く叩く。
 ぱっと黒かった画面が明るさを取り戻したが、そのあまりの眩しさに彼は小さく唸って目を細めた。
「沢田綱吉」
「これ、度は入ってないんで。ご心配なく」
「……入ってない?」
「はい」
 見えるものすべてが白っぽくなっている感覚に首を振り、綱吉が眼鏡のテンプルを持って笑った。
 そのひと言に怪訝な顔をして、雲雀が声を低くして問い返す。即座に首肯し、蜂蜜色の髪の青年は作成中だった書類を保存すべくマウスを取った。
 手馴れた動きでフロッピーディスクを模したアイコンをクリックし、続けて右上のバツボタンを押してソフトを終了させる。入れ替わりに簡素極まりないデスクトップが現れたところで、綱吉はノートパソコンをゆっくり閉じた。
 電源は自動的にスリープモードに入り、駆動音も消えて一気に静かになった。指先を伝った排熱に苦笑を浮かべ、綱吉はボンゴレの紋章が刻まれた表面に眼鏡を置いた。
 度が入っていないというそれは、言葉の通り向かい側の景色を歪めることなく光だけを通した。
「伊達眼鏡?」
「うーん。たぶん、ちょーっと違うかなあ」
 度なしの眼鏡にも何種類かある。その代表格であるファッショングラスかと真っ先に疑った雲雀に目尻を下げて、綱吉はプラスチック製のフレームを弾いた。
 衝撃に、耳に掛ける部分が僅かに浮き上がったが、反対側に倒れていくことはない。すぐにバランスを取り戻して停止したそれにはにかんで、彼は昔に比べて随分と楽になった肩を回した。
「知りませんか? パソコン用の、ええっと、なんだったかな」
「ああ。聞いたことならある」
 最近流行だと声を高くした若きマフィアの手拍子に、雲雀は嗚呼と一瞬考えてから頷いた。
 椅子の上で身体を弾ませた青年が、多方面に渡る博識ぶりを賞賛する。その、微妙に人を馬鹿にしているようにも見える態度に些か憤然としてから、彼は黒髪を掻き回してため息をついた。
 吐息ひとつで感情の乱れを整え、玩具のような眼鏡を弄っている青年を黙って見つめる。視線を受け、綱吉は瞳だけを上向けて首を竦めた。
「液晶の光を遮断する、だったっけ」
「そうそう、それです。青色の光が目に悪いとかで、それを遮ってくれるんですってね」
 情報を仕入れてきたのは、恐らくは獄寺辺りだろう。ボス業に勤しむようになってから、身体を動かすよりもパソコン相手に格闘する時間が増えた綱吉の視力は、雲雀にああ言いはしたものの学生時代に比べるとかなり悪くなっていた。
 それに加えて長時間椅子に座ったまま同じ姿勢をとり続けなければならないこともあり、昔はなかった肩こりが激化。一時期、腕が真っ直ぐ真上に伸ばせなくなる有様だった。
 そんな状況を危惧した自称綱吉の右腕があちこちにリサーチをかけた結果、この眼鏡を使うのが効果的と判断を下した。
 勿論それ以外にもマッサージやらブルーベリーやらと、視力回復に役立ちそうなものは色々と試している。その努力の甲斐あってか、最近では肩こりも目の疲れも、かなり改善傾向にあった。
 仕事でパソコンを扱う以上、その両方と完全に縁を切るのは難しい。だが何もしていなかった頃に比べると、雲泥の差だった。
「最初は慣れなかったんですけど、今はなんとか」
「ふぅん」
 コンタクトレンズを入れるときほど緊張しなくて済むから楽だと笑い、綱吉が両手で眼鏡を持ち上げた。使い込まれた感じのあるブリッジ部分を軽く撫でてから耳に引っ掛ける姿からは、獄寺が準備した品を愛用している様子が如実に感じられた。
 今日はまだ顔も見ていない相手を思い浮かべて無自覚にむすっとして、雲雀は度のないレンズ一枚で隔てられた琥珀色の瞳に見入った。
 特殊な目的で作られたガラスの為、通常の眼鏡と違って色が薄くだが入っている。サングラスほど濃くはなく、肌色に馴染むのでぱっと見た感じ分かり辛いけれど、見慣れない雲雀には違いが一目瞭然だった。
 艶やかで甘そうな色がぼやけて、くすんでしまっていた。お陰で折角の笑顔も濁って見えて、眺めていても不快で面白くなかった。
 その眼鏡の効果で綱吉の負担が減るのならば万々歳だが、今はパソコンを使用しておらず、かける必要だってない。だのにわざわざ装着してみせる辺り、眼鏡をかけている自分自身を気に入っている節があった。
 それは同時に、このフレームを選んできた獄寺に感謝の念を抱き、彼へ親愛の情を向けている証でもあった。
「……似合わないよ」
 だからついそんなことを言ってしまって、口に出してから雲雀はハッと息を呑んだ。
 表に飛び出してしまった本音に瞠目し、反射的に顔を覆おうとした手を意識して引き止める。大事な書類を力任せに握り締めた彼の変化に瞬きを繰り返し、綱吉は上に下に、視線を動かした。
「そう、ですか」
 些かショックを受けた様子の彼にしまったと後悔するが、既に遅い。雲雀は浅く唇を噛んで苦い唾を飲み込むと、予想外に子供じみたところが残っていたと自分に呆れて額を叩いた。
 眼鏡を使えば少しは大人っぽくなれるし、頭が良く見える。彼はそういう思い込みとでも言おうか、効果も少なからず期待していたらしい。獄寺や山本たちが、似合うと大袈裟に褒めている光景も楽に想像できた。
 言うほど変ではなかった。たかだか目元を覆うアイテムひとつでこうも印象が変わるのかと驚き、新鮮だったのは否定できない。
 だが今更評価を百八十度転換することも出来なくて、雲雀は渋い顔をして爪先で床を蹴った。
 皺が出来てしまった書類の束で今一度肩を叩き、彼は一秒の間に実に様々なパターンをシミュレートしてため息を零した。
「そっかあ。ヒバリさんが言うんだから、間違いないんだろうなあ」
 獄寺はまず綱吉を悪く言わないし、山本もあれでお世辞が上手い。ランボだって、最近では人に気を遣う術を覚えておべっかを使うようになった。
 ボンゴレ十代目を相手にずけずけと物を言う人間は、年経る毎に減っていた。今ではここにいる雲の守護者か、霧の守護者くらいしか残っていないのではなかろうか。
 寂しそうな顔をしながら肩を落とした彼に言われて、雲雀の右の眉がピクリと跳ねた。
 久しぶりに会えたというのに、そういう顔を見せられるのは本意ではない。何のために遠路遥々、飛行機を乗り継いでやってきたと思っているのか。
 肝心なことを忘れている彼に苛立ち、この歳になっても上手く表現しきれない自分の感情にも腹を立てながら、雲雀は極秘も良いところの貴重な資料を力任せに握り潰した。
 真ん中で拉げた紙束に意識を向けて、綱吉はレンズの奥に宿る瞳を細めた。
「ヒバリさん?」
「まったくだよ。大体、そんな色つきが君に似合うだなんて言う奴の気が知れない」
「え、あの」
 不機嫌を隠そうともしない彼に臆して声を上擦らせ、泣く子も黙るマフィアのドンがヒクリと頬を強張らせた。温い唾を飲んで椅子の背凭れを軋ませ、机上に書類を投げ捨てた男に目を丸くする。
 つい先ほどまでそれを渡す、渡さないと押し問答を繰り広げていたというのに、こうもぞんざいに扱われると些かショックだ。今後のボンゴレの行く末を占う大事な一手になるかもしれない内容だというのに、雲雀は構いもせずに無造作に重要機密を手放すと、硬い足音をひとつ響かせた。
 がんっ、と鼓膜を突き抜けた高音にぞくりと来て、今の今まで忘れていた、猛獣としての雲雀恭弥の姿を思い出す。
 今でこそ角が取れて丸くなって来ているものの、出会った当時の彼は、それはもう手のつけようがないほどの荒くれものだった。
 強い人間を求め、闘いがあると聞けば喜んで駆けつける。それ以外はとんと興味がなく、綱吉の守護者になったのだって面白いトラブルに遭遇できるからという理由だった。
 そこから派生して、彼の興味は綱吉個人へと移り、いつしかふたりはあまり大っぴらに出来ない関係を築き上げていた。
 愛しているだの、好きだだの、言われたこともなければ言ったこともないけれど、命のやり取りに通じる危険を無事に乗り越えた際、昂ぶった身体を鎮めるべく通じ合ったことならある。そうしているうちにいつしか戦場に出ずとも、顔をあわせて時間が許すようであれば、甘くはない睦言を紡ぎつつ寝床を共にするようになっていた。
 それを許すくらいには綱吉は彼に親しみを抱いていたし、雲雀だってそうだろう。嫌いだったら、最初から言葉を交わそうとすらしないはずだ。
 常日頃から一緒にいたいとはあまり思わないけれど、なにかの節目に真っ先に思い出すのは彼の顔だ。今頃どうしているだろう、何をしているのだろうと、調べはしないけれど好奇心を膨らませ、あれこれ想像してはひとり笑ったりもした。
 彼を束縛できるとは最初から思っていないし、そもそも生き方が根本的に違っているから共同生活などどだい無理な話だ。しかし一番助けが欲しい時に来てくれるのが彼だったように、この先共に道を歩いていくのはやはり彼であって欲しいと思う。
 いつだったか、気まぐれに聞いた事があった。もし自分の身体が消えない傷を負うとして、貴方が一番悔しく思う場所はどこなのかと。
 どういう経緯でそういった話の流れになったかは覚えていない。だが質問への回答は鮮烈過ぎて、今でもはっきり思い出せた。
 彼は言った。その琥珀色の瞳が翳るようなことがあれば、抉り出して握り潰してしまおう、と。
 そして今彼が装備している眼鏡には、うっすらとではあるが色が入っていた。
 長く忘れていた記憶が不意に蘇る。赤い糸で結ばれたふたつの事項に背筋を寒くして、綱吉はヒッと頬を痙攣させた。
「ちょ、待ってください、ヒバリさん」
 嫌な予感に脂汗を流し、両手を振り回して彼をけん制する。踵で床を蹴って椅子ごと距離を取ろうと足掻くが、大股で机を回り込んできた彼から逃げ切るなどどだい不可能だった。
 まさかこれしきのことで目玉を抉り取られるとは思わないが、相手はあの狂犬、雲雀恭弥だ。ちょっとした事で機嫌を悪くし、とんでもないことを平然とやってのける規格外の男だ。
 世の常識と、彼の持つ常識とは大きく乖離している。勿論綱吉が抱いているものともだ。だから自分が当たり前と思っていることが、彼にとっても当然だと思ってはいけない。
 なにをするにしても警戒するに越したことはなく、じりじりと狭まる距離に冷や汗を流していたら、後ろを見ずに進めていた椅子のコマが机の角に引っかかった。
「うっ」
 ガゴっ、と大きな音を立ててブレーキが掛かった椅子に慌て、後ろを振り返って方向転換しようとするが間に合わない。瞬く間に目の前までやってきた雲雀の手が肘掛を捕まえて、両側から綱吉を挟みこんだ。
 こうなっては立ち上がって逃げることも出来ない。どうしようと焦ってだらだら温い汗を流し、彼は金魚のように口をぱくぱくさせた。
 息を乱した見目幼い青年を下に見て、雲雀は異常な怯え方に眉を顰めた。
「小動物?」
「これ、ただの眼鏡ですから。ね。ね?」
「ああ、そうだね」
「はっ、外したら、別に色とか、そういうのは」
「……うん。凄く邪魔」
 最近は使わなくなっていた呼び方で小首を傾げれば、声を上擦らせた青年が急いで眼鏡を外そうとした。しかし動揺激しい所為かなかなか上手くいかず、指から滑り落ちたフレームがカタカタと顔の前で揺れ動いた。
 そのたどたどしい手つきに焦れて、雲雀が言うか早いか手を伸ばし、眼鏡をつまみ上げた。
 するりと引き抜かれ、綱吉は明るさを増した視界に目を見開いた。
「あっ」
「要らないよ、こんなの」
 追い掛けるように首を前に出した彼に言い放ち、雲雀が眼鏡を後ろに放り投げた。これしきで壊れたりしないだろうが、レンズの方から床に落ちて跳ね返り、転地を逆にして停止する。
 つい目で追い掛けた綱吉を遮って、雲雀の左膝が椅子の座面に乗りあがった。肩幅に広げていた足の間に割り込んでこられて、ズボン越しに肌が擦れ合う感触に首筋が粟立った。
 ぞわりと来て、冷たい汗が滲む。口の中がからからに干からびて喘ぐように息を吐いていたら、仰け反って後ろに倒していた額にこつんと何かが触れた。
 軽い衝撃に閉ざしていた瞼をそろりと持ち上げれば、暗がりの中で冴えた彩の瞳が爛々と輝いていた。
「うん。やっぱりこの方が良いね」
「あ、あの……」
「それに、邪魔だろう。眼鏡」
「はい?」
「キス――するのに」
 目の前で微笑まれてきょとんとして、心臓を鷲掴みにしていた恐怖心もあっという間にどこかへ退散した。ぽかんとしていたら耳元で囁かれて、聞こえたことばにも唖然としているうちに視界が余計に暗くなった。
 触れる吐息に気を取られ、避ける暇もなく。
「ンっ」
 覆いかぶさってきた微熱に瞠目し、至近距離から覗き込んでくる眼に苦々しい顔をする。ちゅ、と音を残して離れた彼を上目遣いに睨んで、綱吉は不敵に笑っている男に肩を竦めた。
「ダメですか、眼鏡」
 どうやら目玉は刳り抜かれずに済んだようだ。ひとまずほっとして胸を撫で下ろし、諦めの心境で問いかける。
 雲雀は間髪入れずに首肯して、眉間の下にうっすら残る鼻あての跡にもくちづけた。
「うん。僕の前でかけたら、許さない」
 綺麗な宝石にも負けない鮮やかな琥珀色の瞳が霞むところなど、絶対に見たくない。あの夜を連想させる囁きにため息を零し、綱吉は獄寺が用意してくれた眼鏡をちらりと見た。
「気をつけます」
 次から彼の前でパソコン作業が出来なくなる。そうしたらやることはひとつしか残らないと天を仰ぎ、ドン・ボンゴレは仕方なく目の前の男へ手を伸ばした。
 

2012/11/13 脱稿