Fennel

 雨は昼過ぎには止み、空を覆っていた分厚い雲も彼方へと過ぎ去った。
 すっきりとした快晴とまではいかないものの、棚引く雲の隙間には澄んだ青色が覗いていた。太陽は顔を出したり、隠れたりと、好きな人の前で恥ずかしがる少女と化して人々をヤキモキさせた。
 吹き荒れていた風は弱まってきてはいるものの、今でも油断した頃に戻って来て皆を驚かせた。透明な妖精の悪戯に、書類を抱えて歩いていた文官は煽られて甲高い悲鳴をあげた。
 しっとり雨に濡れた王城の外観も、柔い陽射しを受けて徐々に乾きつつあった。もっともそれも日の当たる一部分だけであり、建物東側は依然冷たい雫を垂らし、じめっとした空間を作り上げていた。
「やっぱり晴れている方が、気持ちがいいなあ」
 そんな薄暗くて湿っぽい空間を嫌い、早足に廊下を進む男がいた。裾の長い上着を羽織り、長い髪は首の後ろでひとつに結んで背に垂らしている。爪先が尖った黒い靴を高らかと鳴り響かせて、背筋をスッと伸ばして歩く姿は堂に入っていた。
 自信に溢れ、されど驕り高ぶらず。穏やかな笑みを口元に浮かべながら道を行く彼の首もとは金細工に彩られ、指先にも同じく金色の指輪が輝いていた。
 巻き付けたターバンの羽根飾りが、一歩進む度にリズミカルに揺れた。背中では紫紺色の髪がさながら尻尾の如く左右に踊り、彼の上機嫌ぶりを的確に表現していた。
 金魚の糞よろしく常に後ろに付き従っている家臣の姿は、近くにはない。ひとりきりの自由な時間にご満悦の表情を浮かべ、男は雨の匂いが残る空気を胸いっぱいに吸い込んだ。
「んー……っ」
 両腕を頭上高くに掲げて歩きながら伸びをして、気持ちよさそうに目を閉じる。辺りに危険な障害物が無いのを承知した上での行動に苦笑して、彼はついでに凝りっぱなしの肩をぐるぐる回した。
 動かせば、骨がぽきぽき鳴った。
 少し前まで机仕事に従事させられていただけに、音は何時にも増して大きい。自分の腕はペンを握り、書面にサインを認める為にあるのではないのだがと愚痴を零せば、即座に角を生やした政務官の鬼の形相が頭に割り込んで来た。
「ひゃっ」
 今朝方からずっと向けられてきた険しい視線を思い出し、大の男が情けなく悲鳴をあげて首を竦める。後ろから怒鳴りつけられる未来を想像したのだが、恐る恐る振り返った先には嬉しい事に誰もいなかった。
 ターバンごと抱え込んでいた頭から手を下ろし、安堵の息を吐いて胸を撫で下ろす。急上昇した血圧を宥めるべく心臓を撫でれば、指先に触れた金細工がしゃらしゃらと音を立てた。
 西から差し込む光を集めて眩く輝く首飾りは、彼がこの国の王である証だった。
「まったく、ジャーファルには困ったものだな」
 今頃あの有能すぎる政務官殿は、空っぽの執務室を前にして怒り狂っているのだろうか。
 昨日から今日にかけて天気はずっと荒れ気味で、強い風が運んできた雨雲はほぼ一日、シンドリア王国に滞在した。
 前日の日暮れ前に降り始めた雨は夜半にピークを迎え、日の出前には幾らか弱まりはしたものの、完全に止むのには更に数時間待たねばならなかった。ほぼ二日ぶりに現れた太陽の有難味を実感しつつ、町に暮らす人々は溜まっていた洗濯物を干すのに忙しくしている事だろう。
「しかし、……やっぱり外はいいな」
 賑わいを取り戻した市街の光景を想像して顔を綻ばせ、一度は沈みかけた心を奮い立たせるべく声に出して呟く。二度、三度と瞬きをして目に映る世界に頬を緩め、彼は体内に蓄積されていた疲労感を吐息と共に吐き出した。
 雷こそ鳴らなかったが、昨夜の豪雨は屋外に出るのも憚られる勢いだった。
 だから仕事後の酒盛りをなによりの楽しみにしている部下のひとりも、流石に昨夜は自重したらしい。毎日のように懲りもせず、終業の鐘と同時に誘いに来てくれたのが、昨日はついぞドアは叩かれなかった。
 その部下に預けている若者の話を聞きたかったのに、機会が得られなかった。最近顔を合わせる機会がとんと減っており、人づてに元気でやっているかどうかを伝え聞くしか術が無いのが悔しい。
 もっともそういった愚痴をジャーファルが聞いたなら、「仕事をせずに溜め込む貴方が悪い」とすっぱり断言してくれるのだろうが。
 仕事中毒の部下は時に有り難いが、時にとても鬱陶しい。少しくらい肩の力を抜いても良かろうに、常から完璧を求めたがるジャーファルは、それがどうしても許せないようだった。
 小さい頃は素直で可愛かったのに、大人になって物を知って知恵をつけるに従って、とても反抗的で生意気になってしまった。
「いや、昔からああだったか」
 戦いの場が迷宮から執務室に変わり、手に握るものを殺傷力の高い飛び道具からペンに取り替えてだけで、彼の戦闘狂ぶりに変化は一切見られない。挑む相手も未知の猛獣から、数多の意志を持つ人間に切り替わっただけのこと。
 彼ほど頼もしい存在はなく、だからこそ手強い。十年以上苦楽を共にしているのもあって、こちらの性格を熟知しているのも非常に厄介だった。
 ぼんやりしていたら見付かって、連れ戻されてしまう。
「ちょっとくらい、許してくれても良いだろうに」
 朝から晩まで執務室に缶詰にされるのは、正直勘弁願いたかった。確かに遣るべき仕事が山積みになっているのは認めるが、かといって寝る間を惜しんで処理しようとしたところで、片付けられる量はたかが知れている。
 無駄に疲労を蓄積させて作業効率を落とすよりは、適時休息を挟んで心と身体を癒し、やる気を回復させるべきではなかろうか。だがワーカーホリックのジャーファルには、根を詰めてでも一気にやってしまう方が良いという固定観念があり、この件に関しては聞く耳を持とうとしなかった。
 昔から頑固で融通が利かない部分があったが、嫌なところで発動されたものだ。何十回と繰り返しては結論に至らないやり取りを思い返して溜息を吐き、彼は温い微風に撫でられた頬を掻いた。
 白亜の王宮とはよく言ったもので、シンドリア王城は西日を浴びて淡い光に包まれていた。
 白羊塔の一室からこっそり抜け出して、なるべく人に会わないよう注意しながら進んでいたら、こんな所まで来てしまった。
 シンドリアの国防を担当する兵士達が日々鍛錬をする赤蟹塔は、平素ならば大勢の若者の掛け声で非常に騒々しい。しかし午前中丸々雨に見舞われた為か、屋外での訓練は、どうやら中止になった模様だ。
 槍を手に鍛錬に勤しむ兵達の姿が、瞼の裏側を流れていった。瞬きをすれば半透明の映像は直ぐに掻き消え、雨露を滴らせる冷えた建物が、さながら廃墟の如く続いていた。
 普段から賑わっている場が静かだと、一気に空虚さが増して物悲しさが深まる。石積みの塔の中にありながら、静謐に包まれた森林奥深い場所に紛れ込んだ錯覚を抱き、彼は遙か頭上に広がる狭い空を仰いだ。
 手を伸ばせば掴めそうなのに、いざ握ろうとすれば指先は空を掻くばかり。伸ばした利き腕を戻して掌を見つめても、水滴ひとつ手に入れるのは叶わなかった。
 迷宮を七つも攻略し、南洋の島に国を打ち立てて王になりはしたが、本当に望んでいたものは果たして掴み取れているのだろうか。空っぽの右手をぼんやりと見つめ、彼はしばしの間そこに立ち尽くした。
「……さて、ここもそろそろ危なかろう」
 だが考えたところで答えは出ず、そもそも自分が最初の迷宮攻略時に何を望んだのかさえ、巧く思い出せない。それはつまり、忘れてしまえるくらい軽いものでしかなかった証明だ。
 或いは既に、叶った願いか。
 ちくりと腹の奥に突き刺さった痛みは無視し、努めて明るい声で呟く。敏腕政務官は、ファナリスでもないのに鼻が利く。一箇所に留まっていたら、瞬く間に発見されて捕獲されてしまいかねない。
 ここで捕縛されたら、明日の日の出を見るまで解放して貰えない。そんな結末は願い下げて、彼は次なる隠れ場所を求めて歩き出した。
 無人の赤蟹塔を後にし、向かったのは銀蠍塔だった。
 こちらも武術の鍛錬場だが、国軍兵士向けの赤蟹塔とは違い、こちらは誰でも自由に利用できた。
 緑射塔に滞在中の食客達も、各々ここで武芸を磨いている。黒秤塔が近いため、そこに詰めている魔法使いもひなたぼっこにこちらを利用していた。
 三階建ての建物に囲まれて、芝が生い茂る中庭があちこちに点在していた。庭の造詣は場所ごとに少しずつ違っており、中央に噴水があったり、大きな木が葉を茂らせていたりと、歩き回るだけでも楽しい場所に仕上がっていた。
 だがやはりこちらも、雨の影響で地面が濡れている為に人の姿は少なかった。
 陽射しが戻って来ているとはいえ、あと少しすれば日没だ。雲間からちょっとだけ顔を出した太陽は、西の空で申し訳なさそうに首を竦めていた。
 終業を告げる鐘の音まで、あと幾ばくもない。昨晩はお預けを喰らった酒宴を楽しみに、人々は部屋で事務仕事に勤しんでいた。
 そんな最中で国王ひとりがぶらぶらしている。ジャーファルでなくとも、頭の硬い八人将に見付かったら説教されるのは間違い無かった。
「そろそろ、戻るかな」
 皆が熱心に机に向かっている時に自分が遊び呆けている事実に、少々肩身が狭くなってきた。どうせ城下に出るのも叶わないのだから、いい加減執務室に戻るべきなのかもしれない。
 自発的に帰れば、政務官の怒りも少しは減るだろう。打算的な思考も同時に巡らせて肩を落とし、彼はターバンから飛び出ている前髪を掻き上げた。
 紫紺色の髪を一本抓んで指に巻き付け、掌越しに中庭の光景を見つめる。太い柱で支えられた回廊に囲われた区画も、一昨日までなら血気盛んな若者らが汗を流していた筈だ。
 そこに居ない存在の影を探し求めて、自然と瞳が泳いだ。
 西日が当たりにくい場所にある所為か、緑色の芝は未だぐっしょりと濡れていた。歩けば水が跳ねる有様で、対岸の廊に行くのにも人々は庭を通ってショートカットせず、遠回りを選択していた。
 そんな人気に乏しい空間を眺めていたら、向かい側の回廊を行く一団が現れた。どこかで聞き覚えがある声に、彼はハッとして反射的に柱の陰に身を隠した。
「それでよー、俺様はこう言ってやったんだよ」
「はいはい、それもどうせホラ話でしょ」
「んだとコラぁ!」
 大股でも二十歩分近い距離があるというのに、辺りが静かだからか声はよく響いた。耳朶を打つ年若い八人将ふたりのやり取りに息を殺し、彼は滲み出た温い汗の不快感をじっと耐えた。
 自分の足で白羊塔に戻る決断を下したばかりだというのに、長年に渡って染みついた癖はなかなか抜けてくれなかった。
「なにをやっているんだ、俺は」
 話し声が遠くなるのを待って自嘲を浮かべ、呆れ顔で呟いて微熱を訴える額を撫でる。汗で張り付いた髪を掬い上げて払い除け、彼はそろり、柱から顔を出した。
 近付いて来る気配が無いのを確かめ、斜めに伸びた影から出る。暗い場所から明るい場所へ、たった一歩の移動でも得られる安心感は段違いだった。
「シャルルカンと、ヤムライハ……か」
 去って行ったのはあのふたりと思ってよかろう。はっきり見えなかったが、他にも数人、一緒にいたようだ。
 彼らと行動を共にするメンバーは限られており、その顔は難なく思い出せた。
 あの子も、ならばあそこにいたのか。
 隠れなければ良かった。久しく顔を見ていない少年を瞼に描き出し、軽い後悔を覚えている自分に苦笑する。
「シンドバッドさん」
 その瞳に浮かぶ幻が、朗らかに高く声を響かせた。
「え?」
 にっこり笑い、角のように跳ねている金の髪を左右に揺らめかせる。照れ臭そうにはにかむ姿は到底、幻想の世界の住民には成し得ないものだった。
 真っ先に耳を疑い、目を疑い、絶句して息を呑む。呼び掛けられた男は唖然とした顔で立ち尽くし、少年を不思議がらせた。
「シンドバッドさん?」
 遠く、中庭を隔てた先。
 回廊の柱と柱の間に佇むのは、藍色のチュニックに赤い帯を二本、腰に巻き付けた金髪の少年だった。
 ゆとりのあるダボッとしたズボンを穿いて、左足には布と紐をぐるぐる巻きにしている。首にも赤色の飾り紐を結び、余った分は胸元に垂らしていた。
 彼には大きすぎる上着は羽織らず、相応に鍛えられた腕が陽の光を受けて眩く輝いていた。
 南国の島国にあって、目を見張る程の白い肌は高級な陶磁器を思わせた。そこに加えて艶やかな金の髪は、シンドバッドが身に纏う金属器以上の鮮やかさだった。
 バルバッドを長く統治していたサルージャ王家の末裔にして、先王の血を色濃く継いだ少年の名は、アリババ。妾腹として産まれ落ち、スラムで育った異色の経歴の持ち主は、マギに認められた王のひとりでもあった。
「や、……やあ」
「お久しぶりです。どうしたんですか、こんな所で」
 二度目の呼び掛けにはたと我に返り、動揺を悟られないよう注意しながら利き腕を肩の位置まで持ち上げる。軽く揺らせば、反応があったとホッとした顔をし、アリババが嬉しそうに目を細めた。
 無邪気な笑顔が遠いのが、口惜しい。返事も忘れて久方ぶりに目にする姿を脳裏に焼き付けていたら、質問が聞こえていないと解釈したのか、アリババが回廊の段差を降り始めた。
 シャルルカンやヤムライハの姿は、もう見えない。ふたりと並んで歩いていたのは、予想通り食客としてシンドリアに滞在中の子供達だった。
 恐らくは師匠であるふたりと食事でもしようという話になり、町へ出るべく移動していたのだろう。その真っ只中でシンドバッドを見かけた気がして、アリババだけがここに残ったのだ。
 見付かる前に隠れたつもりだったが、一歩遅かったか。それとも、言葉にし得ない直感が彼に働いたのか。
 ともあれ、角の生えた政務官ではなく、ジンの金属器を所有する恩人の子に発見されたのは意外だった。
「アリババくん」
 地上より二段ほど高くなっている廊から降り、少年の爪先が雨で緩んでいる大地に触れた。押し潰された草が跳ね返り、葉先に残していた水滴を一斉に解き放つ。
 わっと散った飛沫を足首に受け、アリババは驚いたのか目を見張った。
 一瞬たじろいだ彼に意識を奪われ、シンドバッドも柱の間から身を乗り出した。だが彼がそこから動くより早く、バランスを取り戻した少年は嬉々として地表に残る雨粒を弾きながら駆け出した。
「お仕事、終わったんですか?」
 やや上擦り気味の明るい声で訊ねられて、シンドバッドは口籠もった。
 正直に答えるわけにもいかず、かといって嘘をつくのも憚られて返答に迷う。瞳は自然と左に寄り、黄金色を戴く少年の姿を視界の端に追い遣った。
 大人として恥ずかしく無い返答を探して悩み、上唇を浅く噛んで逡巡する。
 直後。
「――うわっ」
 響き渡った甲高い悲鳴に、彼は全身を竦ませた。
 胸郭を貫いて外に飛び出そうとした心臓を右手で押さえこみ、一気に爆音を奏で始めた鼓動に脂汗を流す。慌てて逸らしていた視線を正面に戻せば、さっきまで居た筈の少年がどこにも見当たらなかった。
 いや、いた。
 幻と会話していたかと勘ぐった自分を恥じ、シンドバッドは中庭の中間地点過ぎで倒れている少年に頬を引き攣らせた。
 うつ伏せになり、両手両足を広げて大の字になっている。突っ伏したまま動かず、元気よく跳ねている毛先もこの時ばかりは萎れていた。
 投げ出した手が時折痙攣を起こしているので、最悪の事態は免れていると思いたかった。
「あ、アリババ、くん?」
 助け起こしてやるべきなのだろうが、そこまで頭が回らなかった。絶句してその場で硬直したまま瞬きを繰り返し、弱々しい声でどうにかそれだけを声に出したシンドバッドに、聞こえたか少年は倒れ伏したまま頭を振った。
 薙ぎ倒された短い草が一緒に波を打ち、先端に溜めていた雫を吹き飛ばした。霧雨のような水滴を頭上に浴びて呻き、アリババはまず右足を引いて膝を立てた。
 続けて左足も曲げて腰を浮かせ、肘で上半身を支えて最後に頭を持ち上げる。最中、どろっとしたものが彼の胸元から滑り落ちていった。
「ああ……」
 それが何であるかを悟り、シンドバッドは苦笑いを浮かべて額を叩いた。
 苦労の末に起き上がったアリババの全身は、見事に泥まみれだった。濡れてぬかるんだ地面に勢いよく倒れこんだのだから、当然と言えば当然の結果だ。千切れた草もそこかしこに付着しており、水分を吸った服は色を濃くして彼の肌に張り付いていた。
 抜けるような白い肌もすっかり汚れ、鼻の頭は黒ずんでいた。口の中に入ったらしき土を唾と一緒に吐き出して、彼は苦虫を噛み潰したような顔で首を竦めた。
「へへ。えへ、へ」
「大丈夫かい?」
「なんとか」
 なんと言えば良いのか分からなくて、笑って誤魔化そうとしている少年にシンドバッドは声をかけた。ようやく硬直が解けた足を前に繰り出し、注意深く雨上がりの大地を踏みしめて進む。
 そうして五歩といかないうちにアリババの傍に辿り着いた彼は、膝立ち状態の少年に立つよう促し、右手を差し出した。
 掴まれ、との合図に彼は目を見開き、利き腕を伸ばそうとしたところで停止した。
「へ、平気です。自分で立てます」
 空中でピクリと震えた指先を引っ込めて、緩く握った少年は顔を背けて早口に告げた。
 顔も、胸も、脚も泥まみれのずぶ濡れ状態だった。勿論今し方シンドバッドに伸ばした手も、青草が張り付いて汚れていた。
 こんな手で、尊敬するシンドリア国王に触れるわけにはいかない。ましてや助け起こされるなど、烏滸がましいとしか言いようがなかった。
 目の前ですっ転んだ事実もあって羞恥に顔を赤くし、アリババは浮かせていた尻を僅かに沈めて姿勢を低くした。その上で腰を左に捻り、自分が蹴躓いた場所を気にして後方を窺う。
 雫を湛えている芝生のただ中を注視している彼に眉を顰め、シンドバッドは行き場を無くした手を緩く握りしめた。
「しかし、急に転んだからびっくりしたよ」
「あはは。いや、まあ……はは」
 汚れる云々など気にしなくてもよいのに、こういうところで彼は妙に謙虚だ。無理強いするのも悪いかと思い腕を引いて、シンドバッドは肩を竦めて呟いた。
 濡れたままの手を頭に持って行き、アリババが恥ずかしそうに笑った。頬は若干引き攣って笑顔としては不格好ではあったが、本人もまさかこんな何も無い場所で躓くなど、思ってもいなかったのだろう。
 そう思ってつられて笑っていたら、どこからともなく鳥の囀りが聞こえて来た。
 チチチ、と可愛らしい鳴き声に顔を上げ、視線を彷徨わせる。オレンジ色に染まり行こうとする空を横断して、褐色の翼を持つ小鳥が滑るように彼らの傍に降り立った。
 その眼には巨人に等しい人間に向かってピー、チチチ、と頻りに囀っては、威嚇するかのように翼を広げたりもする。鋭い嘴の先を向けられて、シンドバッドは眉を顰めた。
 一方でアリババは小鳥の姿に目を細め、申し訳なさそうに頭を下げると膝立ちのまま左に居場所をずらしていった。
「うん?」
 鳥は翼を折り畳みはしたものの、警戒するようにその場から動こうとしない。珍しい光景に小首を傾げていたシンドバッドは、妙に辺りを気にしているアリババに気付いて目を眇めた。
 ふとした違和感を胸に抱き、改めて彼が倒れた場所近辺を凝視する。他に比べて少しだけ背丈のある草に埋もれる形で、なにかが隠されているのが見えた。
 巣だ。
「ああ……」
 その瞬間、目の前がさあっと晴れた気がした。
 理解して感嘆の息を漏らした彼に、アリババが亀のように首を引っ込めた。背中を丸めて小さくなり、顔も背けてシンドバッドの視線から逃げる。
 だが金糸の髪の間から覗く耳は、鮮やかな紅色に染まっていた。
 西の海に沈み行く太陽に照らされ、棚引く雲も彼の首筋と同じ色を成していた。間もなく日が暮れる。と思っていた矢先、終業を知らせる鐘が厳かに鳴り響いた。
 城中どころか島中に響き渡る音色にふたりして顔を上げ、余韻を胸に抱きながら目尻を下げる。視線が交錯し、彼らは殆ど同時に噴き出した。
「さすがは、マギが認めた王なだけの事はある」
 進行方向に巣があると気付いて、咄嗟に避けようとして転んでしまった。
 そこで難なく飛び越えられていたら良かったのだが、地面がぬかるんでいた所為でそうはならなかった。だからシンドバッドの賞賛の言葉は分不相応であり、勿体なすぎて、アリババは照れ臭そうに俯いた。
「かっこ悪いだけですよ」
「だが、君は小さな命を救ったんだ。それはとても素晴らしい事ではないかな?」
 もっとも、アリババがシンドバッドに気付きさえしなければ――もっと言えば、シンドバッドがこんな場所で仕事をサボっていなければ、小鳥の巣は危険に晒される事もなかったのだ。
 長雨の中で必死に卵を守り抜いた親鳥が、大慌てで戻って来ることだって、なかった。
 綺麗事だけで上辺を取り繕っている自覚を持ちつつもおくびにも出さず、シンドバッドは改めて少年に手を伸ばした。
 今度は握り返してくれると期待して、掌を差し出す。形良く指先を揃えた彼を見上げ、アリババは小さく舌を出した。
「すみません」
 何度も断るのは、相手に対して失礼だ。
 行き場の無い身の上の自分を保護してくれている偉大な王に対し、これ以上礼を欠くわけにはいかない。二度目は流石に拒めなくて、アリババは遠慮がちに右手を浮かせた。
「それにしても、盛大に汚したものだね。冷たいだろう?」
 そうして顔の前に漂う大きな、男らしい手を掴み取ろうとして直前で言われ、彼は治りかけの傷が沢山ある指をヒクリと震わせた。
 それまで何とも思っていなかったのに、指摘を受けた途端寒気が襲いかかってきた。衣服に染みこんだ水分に体温を奪い取られ、冷えたところに夕暮れの風が吹いて駄目出しする。
「……っ」
 くしゃみが出そうになって、アリババは咄嗟に唇を噛んで目を瞑った。
 大仰に肩を震わせ身を竦ませて、外に飛び出す筈だった大声を噛み砕く。
「ぅあー……」
 だがくしゃみ一回を堪えたところで、内側から冷えた身体は簡単に熱を取り戻しはしなかった。
 一旦緑射塔に戻り、身体を拭いて服も着替えた方が良かろう。先に行って貰ったシャルルカン達との合流は、思っていたより遅くなってしまいそうだ。
 あまり時間を掛けすぎると、夕飯を食いっぱぐれてしまう。空きっ腹を抱えて眠る夜ほど切ないものはなく、チーシャンで荷運びをしていた頃の貧乏生活を思い出してアリババは苦笑した。
 だがお陰で、シンドバッドに会えたのだ。あそこで素通りして仕舞わなくて良かったと顔を綻ばせ、助け起こして貰った礼を言おうと背筋を伸ばす。
 無事引っ張り上げられて二本足で立ったアリババは、しかしもう役目を終えた筈の手を解放して貰えない状況に小首を傾げた。
「シンドバッドさん?」
「寒くはないのかな?」
 いい加減放して欲しいのだが、揺らしても反応がない。重ねて問い掛けられて瞬きを連発させ、アリババは一箇所だけ熱くて仕方が無い場所から目を逸らした。
 さっきまであんなに冷えていた指先が、今は焼け焦げてしまいそうなくらいになっていた。
「え、と。まあ、ちょっとは、はい」
 但しそこ以外は、凍えそうなくらいに冷えている。だから早く貸し与えられている部屋に行きたいのに、シンドバッドはそこまで汲み取ろうとしなかった。
 人生経験豊富で聡い彼が、これしきの事を察せられない筈がない。だから戸惑いを隠せなくて、アリババは利き手の自由を取り戻すべく肘を引いた。
 やや強引に奪い返そうとして、その最中でしどろもどろに呟く。
 直後。
 言質を取ったシンドバッドが不敵に笑った。
「そうか。なら――」
「え、は? わわ、うわあっ」
 満足そうに頷き、おもむろに空いていた方の手も前に出す。そして不意を衝かれて反応出来ずにいる少年を楽々両腕に抱え上げると、木靴の底で力強く大地を踏みしめた。
 ひょいっとあっさり攫われて、急な視界の変化にアリババは悲鳴をあげた。驚きすぎて状況に頭が追いつかず、逃げようと暴れて両手を振り回す。
 その肘が思い掛けず硬いものにぶつかって、衝撃に息を呑んだ彼の瞳に、にこやかな笑顔の男が浮かび上がった。
 ターバンの羽根飾りを少しだけ左に傾けたシンドリア王が、屈託無い表情で目尻を下げる。
「就業時間も過ぎた事だし、折角だから一緒に風呂でも入って温まろうか」
「――え、えええっ」
「大事な客人で、先生のご子息でもある君に風邪を引かれては困るからね。さあ、行こうか」
 確かに寒いとは言ったが、身体を拭いて水気を取り除けば問題ない程度だ。確かに泥で汚れてもいるけれど、風呂に入って洗い流さなければならないくらいに酷くはない。
 だのにシンドバッドはお構い無しに捲し立て、荒々しく鼻から息を吐いた。
「ちょ、待って下さい。シンドバッドさん、俺は」
「善は急げだ。しっかり掴まっていなさい」
「人の話を聞いてくださーい!」
 シャルルカン達との約束もあるし、王直々の申し出だが受けるわけにはいかない。だというのにシンドバッドは一切聞く耳を持たず、一方的に言い切って実に良い笑顔を浮かべた。
 すっかり人気の引いた銀蠍塔にアリババの声が響き渡るが、聞いていたのは巣穴に戻った小鳥だけだった。

2012/11/03 脱稿