偸盗

「よいしょ、っと」
 重い鉄の扉を、身体全部を使って押し開け、外に出る。最初こそ通られてなるものか、と全力で抵抗していた扉も、壁との間に隙間が出来てしまうと、最早敵わないと諦めたらしく、実にすんなりと綱吉に道を譲ってくれた。
 吹き付ける秋風に前髪を浚われ、全体的に跳ねている毛先が麦の穂のようにそよそよと揺れた。彼は上唇を舐めると、どうやっても直らない癖毛を左手で押さえ込み、人の姿を探して視線を左から右に流した。
 右手と胸で抱え込んだ荷物を落とさぬように注意しながら、硬いコンクリートの床を上履きで踏みしめる。真後ろで支えを失ったドアが大きな音を響かせて閉じ、ひっ、と喉を引きつらせた彼はその場で竦み上がった。
「も、も~……。なんだよ、吃驚させないでよ」
 怯えてしまった自分が恥ずかしくてならず、無機物に不満を言って綱吉は丸めた背中を伸ばした。チェック柄の包みを丁寧に撫で、高い空に泳ぐ鰯雲の群れを仰ぐ。
 乾いた風が絶え間なく頬を撫でて、通り過ぎていく。秋風は涼しく、夏場のような湿気も含んでいないのでとても心地よかった。
「まだ来てない、か」
 ただ、無駄に広い空間で、ひとりぽつんと佇むのは少し寂しい。自分に言い聞かせるように呟き、心の中でも二度繰り返し、彼は首をふらふらと揺らして下ろしたばかりの手で髪の毛を掻き回した。
 溜息をひとつ吐き、ズボンの後ろポケットを探る。ベージュ色のジャケットの裾を払い除け、他の部位に比べれば多少肉付きが良い臀部に指を這わせた彼は、中から二つ折りの携帯電話を取り出すと、慣れた手つきでそれを縦に広げた。
 パッと液晶にライトが灯り、待ち受け画面が表示される。しかし屋外にいる所為で若干見え辛く、点滅を繰り返すデジタル時計もチカチカするばかりですぐに読み取れなかった。
 角度を調整し、右手で影を作ってどうにか現在時刻を把握するのに成功して、彼は肩を落とした。
「十二時、かあ」
 約束では十二時頃、とあったので、なにも丁度でなければいけないわけではない。多少前後に余裕を持たせて、大体この時間に、程度の意味合いだ。
 だからまだ彼が此処に到着していなくても、なんら問題はない。とはいえ、正午ぴったりに約束した場所に来た綱吉としては、釈然としないのも事実だ。
「む、う」
 口を閉じたまま唸り、彼は左手の親指でボタンを操作し、過去に届いたメール一覧を呼び出した。
 柔らかな日射しの下では画面が見辛いので、日陰を探し、今し方通り抜けたばかりの、屋上に通じる階段を囲った四角い建物に近付く。南に位置する太陽を避け、北側に回り込んだ彼は、コンクリート製の壁に右肩を寄り掛からせ、履歴を探り、一通の既読メールを画面に展開させた。
 明日の、つまりは今日の昼、十二時頃なら、いいよ、と。
 短い、愛想も何もない文面を素早く読み取り、彼はもう一度溜息をついて、背中全部を壁に押し当てた。
 三度目の嘆息と同時に全身に張り巡らせた緊張を解き放つと、膝が勝手に前に突き出て、上半身がずるずるとずり下がっていった。
 巻き込まれた制服の襟部分が綱吉の頭よりも高くなり、自重に耐えられなくなって、前に倒れる。頭に被さる布の感触に首を振り、彼は諦めてその場に座り直した。
 しかし影に入った途端に秋の肌寒さに見舞われて、身を竦ませた彼は、渋々、中腰のまま日向に戻った。
「遅いなー。遅いぞー」
 脚を真っ直ぐ前に投げ出し、広げた膝の間に持ってきた荷物を置く。全体的には四角形だが、上部に角のような突起がふたつ並んでおり、風呂敷の結び目の間からは、中身がほんの少しだけ顔を出していた。
 紙パックに入った牛乳だ。それがふたつ、持ち運ぶ最中の振動で左右に広がったらしく、ハの字になっていた。
 暇を持て余した綱吉が、上部真ん中の結び目を小突いてつまみ上げる。かなりの重量があるのでこれしきでは持ち上がらず、布は指の間をするりと逃げていった。
「おそーい」
 痺れを切らして叫び、両手を振り上げて足も床を蹴ってじたばた暴れても、待ち人は一向に現れない。逆にそうするだけ体力の無駄と知り、休日にも関わらず制服に袖を通した彼は、珍しく上手に結べたネクタイを撫で、口をヘの字に曲げた。
 晴天の予報が続く、絶好の行楽日和の週末。たまには何処かに行きたい、と我が侭を言ってみたけれどもまるで相手にされなくて、拗ねてむくれて、駄々を捏ねた結果、今日の昼に学校で一緒に過ごすくらいなら良い、とメールで言われた。
 日曜日の昼間に、学校で。人が聞けばなんと無駄な事か、と呆れ返る事請け合いであるが、綱吉にとって、これは少なからず特別な意味合いを含んでいた。
「来ないぞ。ヒバリさん、早くこーい!」
 悔し紛れに声だけ張り上げるが、小鳥の囀りさえも聞こえず、風の音ばかりが耳朶を打った。
 昼の十二時とは、文字通り昼食時だ。彼がそう提案する時は、一緒に食事をしようとの誘いと受け止めてほぼ相違ない。
 確かにふたりで何処かに遊びに行くのも楽しいが、慣れ親しんだ場所でのんびりと、他愛無い雑談に興じながら過ごすのも好きだ。
 人の目を気にせず、彼を独占出来る。それも、嬉しい。
「……来ないぞ」
 だがひとつ困る事があるとすれば、それは彼が時間にルーズ、という点だ。
 いや、そうではない。並盛中学校風紀委員長という肩書きを持つ彼は、二十四時間年中無休で、この職務に励んでいる。詰まるところいつだって仕事優先で、公務の為なら食事だって抜くし、睡眠時間も削るし、綱吉との逢瀬だって平気ですっぽかす。
 屋上に来る前、綱吉は一度応接室に立ち寄った。ノックをして、ドアノブも回してみたけれど、鍵が掛かっていて中には入れなかった。
 学校内にも居る様子が無かったので、町内の巡回に出ているのだろう。そこで予期せぬトラブルに見舞われて、戻りが遅れているのだと予想はついた。
 彼が四六時中忙しいのは知っているし、それを覚悟でつき合っている。だけれど、何度も仕事だからと言って約束を反故にされるのは理不尽で、納得がいかない。
 膝を寄せ、両手で抱き込み、綱吉は三角形の頂点に額を置いた。
「来ない」
 ぽつり呟き、唇を噛み締める。
 視線を浮かせ、沈黙する扉を睨み付けるが、そんな事をしたところで無駄なのは分かり切っている。悔しさだけが募り、綱吉はまたも足を前に投げ出すと、両手も下ろして胸を反らした。
 頭の天辺を壁に押し当て、琥珀の目を細めて晴れ渡る秋空を眺める。地上よりも幾らか清々しい空気を吸い込んでは吐き出し、乾いた唇を舐めて湿らせた彼は、退屈過ぎて死にそうだと嘯き、その場に寝転がった。
 後ろが詰まっているので背中を丸め、母の胎内にいる時のポーズを真似て身体を小さく折り畳む。右腕を伸ばしてそれを枕代わりにし、直接コンクリートに顔が貼り付くのだけは回避させて、彼は目を閉じた。
 砂埃が鼻腔を擽るが、すぐに気にならなくなった。塵が入ってこないように唇も硬く引き結び、左手を右腕に添える形で姿勢を安定させる。
 視界を暗闇で染め上げると、瞬時に光が湧き起こり、中から想い人の姿が現れた。
 ハッとして瞼を開くが、起きあがっても本物は見付からない。
「……ちぇ」
 頬を膨らませて舌打ちし、再度ごろりと寝転がった彼は、今度は仰向けになって頭の後ろに両手を重ねた。
 流れていく鱗雲を目で追いかけ、遠くに響いた焼き芋販売の声に耳を傾ける。昨晩は嬉しくてベッドに入ってもなかなか眠れず、睡眠時間が短かったのが今になって響いた。
 欠伸を堪えきれず、大きく口を開いてむにゃむにゃと唇を捏ねた彼は、視線を右に流し、置きっ放しの弁当の包みに臍を噛んだ。
 奈々に頼んで作ってもらったのに、このままでは無駄になってしまいそうだ。雲雀と食べるつもりでいたので、分量もふたり分。ひとりで食べきるには厳しい。
「まだかな」
 腰を浮かせて左手を後ろに回し、ポケットから携帯電話を取り出す。着信はない。現在時刻を確かめると、此処に着いてから十分と経っていなかった。
 三十分以上が過ぎていた感覚でいたのに、これには素直に驚かされた。
「ぐむむむ」
 休憩時間はあっという間に終わってしまうのに、退屈な授業がなかなか終わらないのと似たようなものだ。膨れ面で携帯電話を閉じた彼は、ポケットに戻すのも面倒臭くなり、着信があった時にすぐに反応できるようにとの意味合いも込め、胸の上にそっと置いた。
 上からネクタイを被せて埃避けにし、憎らしいくらいの好天に琥珀の目を眇める。
 まだ十分、もう十分。
 そろそろ、十二時頃、という曖昧な約束で表現できる時間も終わりだ。
「来ないかなー」
 待ちくたびれて、本当に眠ってしまいそうだ。
 早く来て、一緒に食べたい。朝早くに起きて、奈々の手伝いもしながら頑張って作ったのだ。美味しいと褒めてくれたなら、今回の遅刻も水に流してやっても構わない。
 穏やかな風が綱吉の頬を、額を撫でて通り過ぎていく。楽しみだと微笑みを浮かべた彼の寝息が聞こえ始めるまで、ものの五分と掛からなかった。

 それを見つけたのは、天高く馬肥ゆる秋の空の下、時刻は丁度午後十二時半に至ろうとしている頃だった。
 並盛中学校の屋上で、無防備に腹を出して眠っている子がいた。綺麗に結んだネクタイは、風に浚われたのか首に絡みつき、薄い胸板の上に置かれた携帯電話が、呼吸に合わせて上下運動を繰り返している。
 枕代わりに頭に敷かれていた筈の両手はいつの間にか解け、右手は遠くへ、左手は脇腹の辺りをうろうろしていた。時々痒いのか、携帯電話の近くまで這っていき、ストンと落ちてはまた登る、という作業を無為に繰り返していた。
 だらしなく開いた唇からは涎が垂れ、四方八方に向いて跳ねている髪の毛はまるでタンポポの綿毛のようだ。
「いつから居たのかな、君は」
 手を伸ばせば届く距離まで接近しても、全く反応がない。完全に熟睡している姿に肩を竦め、雲雀はずり落ちそうになった学生服を掴んだ。
 横にあった風呂敷包みを蹴らないように注意し、膝を折ってしゃがみ込む。間近から覗き込んでも、閉ざされた瞼はピクリともせず、すぅすぅと気持ちよさそうな寝息ばかりが聞こえた。
 試しに頬を手の甲で軽く叩き、起きるよう促してみるが、無駄に終わった。
「む、う……んん」
 左手で追い払うような仕草をするものの、首を反対側に倒して、それだけ。色鮮やかな琥珀をこの目にする事は叶わず、雲雀は柔らかな肌の感触を残す手を握り、どうしたのもかと嘆息した。
 黒髪を掻き上げ、胡座を作る。鼻を鳴らして寝こける綱吉から視線を外し、彼はそこに置かれていた四角い包みを引き寄せた。
 結び目を解くと、二十センチ四方はあろう二段重ねの弁当箱に、紙パックの牛乳がふたつ現れた。となれば中身は和食ではなく、洋食がメインだと想像がついた。
「サンドイッチかな」
 蓋を外して確かめたい衝動に駆られるが、折角なので彼に開けて欲しい気持ちもある。どちらにせよ、ひと働きして来た後なので、空腹感はかなりのものだった。
 自分のために用意された食べ物を目の当たりにして、ひもじさは余計に強まり、咥内には唾が溜まって仕方がない。
「ねえ、起きなよ」
 これだけの量だ、ひとり分であるわけがない。とすればこんな場所で暢気に昼寝を楽しんでいる存在の分も含まれているので、黙って勝手に食べるわけにもいかない。
 遅くなってしまったのは悪いと思うし、申し訳ない気持ちはある。けれど、だからといってお預けを食らうのは腹立たしく、悔しい。
 再度手を伸ばし、肩を掴んで揺さぶりを仕掛けてみるが、これもまた反応はすこぶる鈍かった。
「むぬ、う~~」
 振動が脳にも伝わるのか、彼は眉間に皺を寄せて口を尖らせ、不満げな顔をするものの、相変わらず瞼は閉ざされたままで、今度こそぺちん、と音を立てて手を叩き払われた。
 なんとしぶとい事か。呆れ半分に肩を竦め、雲雀は気持ちよさそうに眠る恋人に苦笑し、膝に右肘を立てて頬杖をついた。
「早く起きなよ」
 この後も、実は仕事は立て込んでいる。昼食の休憩だと草壁に言い訳をして抜け出して来たので、あと一時間もすれば戻らなければいけない。
 それを言ったら、この子は拗ねるだろう。昨日も大量のメールで、こちらの融通の利かなさぶりを盛大に詰られたばかりだ。
 短くとも充実した時間が過ごせれば、綱吉も満足だろうが、まさか自分が眠りこけていた所為で一緒に居られる時間が削られたとあっては、彼も落ち込むに決まっている。
 しょんぼりした哀しげな顔は、出来るだけ見たくなくて、雲雀は左手で空を掻き、半開きの唇をちょん、と小突いた。
「君は、僕に会いに来たんだろう」
 それともこのまま、夢の中の邂逅だけで済ませてしまうつもりなのだろうか。
 囁くが、返事はない。小春日和の陽気に雲雀までもが眠気を催して、欠伸を噛み殺した彼は目尻の涙を拭い、羽織った学生服の裾を揺らした。
 膝立ちになり、横になっている綱吉との距離をもう一段階詰める。腕を伸ばして華奢な身体の両側に肘を突き立て、自分自身の影で彼を覆い隠した。
 今、目を覚ましたなら、綱吉は大層驚く筈だ。しかし雲雀が思い描いていた通りにはならず、彼は依然心地よい眠りを貪り、食事時の夢でも見ているのか、口をもごもごさせた。
 寝ている時でさえ、一秒とじっとしていない。落ち着きがないとも言えるが、眺めている分には楽しくてならず、雲雀は微笑み、ちらりと置き去りにされた大きな弁当箱に視線を向けた。
 彼はどんな顔をしてあれを抱え、此処に来たのだろう。扉を開ける時、なにを思っていたのだろう。
「遅くなってごめん」
 聞こえないと分かっていながらも呟き、雲雀は微かな動きで開閉を繰り返している綱吉の唇に目線を戻した。
 ふっくらとして柔らかそうな艶に見取れ、思わず唾を飲む。どうせ弁当を食べるのは彼が起きてからなのだから、先にこちらを頂いても構わないだろうか。
 そんな事を考えて、雲雀は嫣然と微笑んだ。
 目の前であれこれと思索を巡らせている男が居るとも知らず、綱吉は無防備に身体を横たえ、寝息を立て続けた。
 肌に触れる他者の呼気に時折顔を顰めるが、琥珀を覆う瞼が動く事はない。
「本当に、君は」
 いつ、誰が来るかも分からない場所でこうも熟睡出来る技術は、褒めてやるべきだろう。だが自分以外の人間にこの寝顔を見られるのは、正直言うとかなり悔しい。
 綱吉が安心しきっているのは、此処が雲雀の支配する学校の屋上だからだとも気付かず、彼は窄められた唇に見入り、舌なめずりした。
 自然に目覚めるまで待とうと思っていたが、もう我慢出来ない。
「起きない君が悪いんだからね」
「んぅ……?」
 意地悪な笑みを浮かべて囁き、雲雀は綱吉に落ちる影の色をより濃くし、前髪を地面に向かって垂直に垂らした。
 身に迫る不穏な空気を感じ取った綱吉が、小さく呻き、首を振った。
 待ちきれず、雲雀が身を沈める。
 がぶり、と。
「っイ……ったぁーーー!」
 直後、天を切り裂く甲高い悲鳴が、屋上に高らかに響き渡った。
 素早く身を引いた雲雀の前で飛び跳ね、綱吉は噛まれた鼻を押さえ込んで琥珀の瞳にいっぱいの涙を浮かべた。指の隙間から覗く小ぶりな鼻にはくっきりと歯形が刻まれており、そこだけが異様に赤く染まって、かなり痛々しい有様だった。
 堪えきれなかった涙を一粒頬に零し、口元に手をやってこみ上げる笑いを堪えている青年を睨み付ける。
「な、なにふるんれすか!」
 寝起きというのもあって、呂律が回っていない。罵声をあげたが、途中で噛んでしまって迫力が半減した彼の前で肩を揺らし、雲雀は歯応え充分だったと白い歯を見せた。
 胡座を作り直し、膝立ちの彼に落ち着くよう促して、己の左腕を指し示す。否、手首に巻いた腕時計を指さして、刻々と進む現在時刻を教える。
 十二時四十分。綱吉は丸々三十分近くを寝て過ごした計算だ。
「ふえ、えっ。う、うっそぉ!」
「本当」
「やだ、嘘。なんで起こしてくれないんですか」
「起こしたじゃない」
「それは、う……そうかもしれない、けど。でも」
 右手で赤く腫れた鼻を庇い、左手で自分の膝を叩いた綱吉が前に身を乗り出して叫ぶ。しれっとした顔で言い返した雲雀に食い下がり、怒声を上げた彼は、突如勢いを萎ませて振り上げようとしていた拳を下ろした。
 雲雀が黒い瞳を細め、ふて腐れた顔で睨んでくる彼に手を伸ばす。
「おはよう」
「……おそようございます」
 頬を撫でながら告げると、拗ねた綱吉がかわいげのない台詞を返し、口を尖らせた。
 起こすにしても、もっとやり方があるだろうに。ジンジンする顔の中心部を撫でながら不満を爆発させた綱吉だったが、そもそも叩いても、揺すっても起きなかったのは、いったい何処の誰か。
 雲雀に淡々と指摘されて反論を封じられ、次第に彼は小さくなっていき、やがて膝を抱えて丸くなってしまった。
 恥ずかしいのか、襟足から覗く項がほのかに赤い。
 照れるのは構わないが、その間も時間は着実に過ぎていく。勿体ない事この上なくて、雲雀は緩く握った拳で彼の頭を小突き、即座に広げて蜂蜜色の髪の毛を掻き混ぜた。
 後ろに押し出すように力を加えられ、渋々顔を上げた綱吉がまだ歯形が薄く残る鼻を膨らませ、笑っている男を睨み付けた。
「食べないの?」
「食べますよ。食べますってば……って、ああ!」
 小首を傾げて雲雀が問えば、面白くない、と言わんばかりの態度で綱吉は顔を背けた。
 長く存在自体を忘れていた、雲雀の左側にある風呂敷包みにようやく目を向けて、結び目が解けて弁当箱が露わになっている様に気付き、本日二度目の悲鳴をあげる。
 彼は急ぎ四つん這いで近付いて、両手で蓋を真上に持ち上げた。中身が減っていないのを確かめて安堵の息を吐き、苦虫を噛み潰したような顔で掲げた蓋を裏返しに風呂敷の上に置く。
 胡座をかいたまま上半身を揺らした雲雀が、不敵な笑みを浮かべて早とちりした彼に目を眇めた。
「先に食べてしまおうかとも思ったんだけどね」
「盗み食いダメ、禁止」
 サッと雲雀との間に手を差し入れ、壁の代わりにした綱吉が低い声で言う。本人は凄んでいるつもりなのかもしれないが、雲雀の目にはどうしても可愛らしく見えてならず、笑みを噛み殺し、小さく頷いた。
「分かってるよ」
「むぅ」
「だから、起こしたんじゃない」
 言って、寝かせていた膝を立てる。臙脂色の腕章を揺らしてゆらりと身を起こした彼を追って、綱吉は視線のみならず顔も上向けた。
 南から照る温かな日射しを全身に浴びて、日だまりの匂いのする人は、色とりどりのサンドイッチが詰め込まれた弁当箱を守る堅牢な壁を一瞬で突き崩した。傷ひとつない手を握り締め、引き寄せて抱き締める。
「うあっ」
 危うく膝で弁当を蹴り飛ばすところだった綱吉は、寸前で踏ん張りを聞かせて上半身を雲雀に寄せるだけに済ませた。
 もし少しでもタイミングがずれていたらなら、折角の弁当が台無しになるところで、これは文句を言って然るべきだと口を開く。
 ところが。
 伸びてきた人差し指が綱吉の半開きの唇を容易く塞ぎ、言葉を制してしまった。
「メインより、デザートを先に食べたくて仕方がなかったからね」
 それでは順番があべこべだから、と歌うように告げた彼の胸を押し返し、綱吉は眉目を顰めた。
 離れていった人差し指を追尾して、雲雀が自分の唇を軽く押す様に、瞬時に頭を爆発させる。
「で、デザ、デ、デ、てっ……いでっ」
 弁当箱にはサンドイッチの他に、サラダや唐揚げといった副菜も沢山用意して、隙間が無いくらいに詰め込んできた。お陰でフルーツを入れるスペースが無くなってしまって、今日は持ってきていない。だから雲雀が何を指して言っているのか最初分からなかった綱吉は、意味深な笑みを浮かべた恋人の視線に狼狽え、舌を噛んだ。
 痛がって両手で口を覆った彼に、雲雀が楽しげに微笑む。
「それとも、先に食べて良い?」
 もう一度、綱吉を捕まえるべく手を伸ばす。
 最早どうして良いのかも分からず、彼はまごつき、拒むのも忘れて迫り来る愛しき人に涙目を向けた。
 雲雀に咬まれた鼻よりもずっと鮮やかに、頬を真っ赤に染め上げる。
「つ、……つまみ食い、禁止!」
 そうは叫びながらも、秋の日射しが目に入ったからだと自分に言い訳し、彼はぎゅっと、目を閉じた。

2009/10/22 脱稿