Tricyrtis

 柔らかな芝の上で餌を啄ばんでいた小鳥が、駆けて来る足音に驚いて大急ぎで翼を広げた。
 満天の星空を思わせる濃紺の羽根で強く空を叩き、身の丈と同等の長さがある尾羽を優雅になびかせて飛び去っていく。命拾いをした虫はさっさと緑の葉の間に姿を隠し、間もなく真上を過ぎ去るだろう嵐に備えて小さくなった。
「……よほっ、と、とと」
 直前に目の前を横切った鳥に意識を奪われ、転びそうになった少年が慌てて体勢を立て直して威勢良く掛け声を響かせた。胸を弾ませながら小走りに広い前庭を通り抜け、陽光を反射して白く輝く建物を目指す。
 彼が走ると、身に付けている白い上着の裾が動きに合わせてパタパタとリズム良く踊って見えた。
 もっと背が伸びることを期待して購入したのだが、願った通りに事は運ばなかったようで、未だに裾が地面に擦る長さがある。それでは擦り切れてしまうからと、余っている分を集めてくるりと巻き、結んで絞る事で調整が加えられていた。
 その丸くなっている部分が彼の脛やら、膝の裏やらに当たって元気良く跳ね上がり、そして戻ってまた蹴飛ばされるものだから、遠めにはゴム鞠かなにかをぶら下げているようにも見えた。風を受けると背中が大きく膨らむので、もっと大柄な人かと思った、と言われることもしばしばだった。
 そんな、派手さはないもののなにかと人の注目を集めがちな格好をした少年は、ようやくたどり着いた白亜の王宮に安堵の息を吐き、地面より一段高くなっている回廊に登って額の汗を拭った。
 手首を押し当てると、自分の体温でいささか気持ちが悪い。上着でやればよかったと早速後悔して顔を顰め、彼は押し潰されかけている荷物に気付いて慌てて右腕を緩めた。
 走るのに夢中になっていて、うっかり忘れるところだった。
「あぶね」
 折角買ってきたのに、ぐちゃぐちゃになったら勿体無い。店主に貰った麻の袋を広げて中身が無事かを確認して、彼はほっとした様子で肩を落とした。
 幸いにも、どれも崩れていなかった。次からはもっと気をつけるよう自分に言い聞かせて、涼しい日陰に火照っていた身体を冷やす。
 石積みの建物は日中でもひんやり冷たく、心地よかった。試しに回廊を支える柱に触れてみれば、指先から熱が奪われていくのが実感できた。
 もっとも直射日光が当たっている場所は、こうはいかない。日陰様々だと落ち着き始めた心臓を撫で、彼は袋の口を二重に折りたたんだ。
 咥内に残っていた温い唾を飲み込み、顎を伝って落ちようとしていた汗を上着に吸わせる。下に着込んだ紺色の貫頭衣に袖はなく、これを使って拭うには腹を見せびらかす必要があった。
 少し前までは気にならなかったのだが、最近剣術を指南してくれている人がやたらと臍を気にするタイプで、なにかの拍子に腹を出す度に大袈裟に顔を背けてくれるので、さすがに鬱陶しくもあり、自重するようになっていた。
 剣の腕前はこの国でも随一と言われているだけに素晴らしいが、性格面で少々難がある。時間にルーズなくせに終業の鐘にだけは敏感で、なにかと理由をつけて飲みに行きたがるのも困りものだ。
 あまり酒に強くないので行きたくないのだが、師匠の命令は絶対だと言われたら、従わざるを得ない。それで翌日二日酔いになり、寝台から起き上がれない日がこれまでに、少なく見積もっても四日はあった。
「えーっと、……どこにいるかな」
 がんがんする頭を抱えて、青白い顔をして朝食を食べていたら見るに見かねたジャーファルが注意してくれて、一応事態は落ち着いたが、シャルルカンの酒癖の悪さだけは相変わらずだ。
 誘われる回数が減ったのは助かるが、その肝心の師匠が酔いつぶれて役に立たない日が逆に増えた。いや、これまではアリババも一緒に二日酔いになっていただけで、シャルルカンが朝議に参加出来ないくらいにべろんべろんになって帰ってくる日数そのものは、以前とさほど変わりないのだろうが。
 ともあれ、彼が動けないとアリババもやることがない。自主練習は当然としても、対戦相手が見つからない以上、出来ることは限られていた。
 自分と同じ程度の技量を持ち、武器化魔装相手でも折れない武器を所持している人間など、いくらここが南洋の大国シンドリアといっても、そうそう数がいるわけがなかった。
 シャルルカン以外の八人将に頼もうにも、皆それぞれに仕事を持っており、忙しい。武人として名が知れている人は近海の警備に当たっていたり、兵士の指導に時間を費やしていたりと、アリババの勝手な頼みを聞いてくれそうな人はそう簡単には見つからない。
 やはりシャルルカンが回復するのを待つしかないが、それがいつになるかも分からない。結局暇を持て余した彼は書庫に出向いて本を読むか、あちこち散策ついでに買い物をするくらいしか、やる事がなかった。
 国王の客人として招かれている手前、アリババは王城への出入りは基本自由だった。勿論シンドリア王国の中枢に当たる、王の私室がある紫獅塔への立ち入りだけは禁じられているが。
 もっとも、それで不都合を感じたことはない。寝室として与えられている緑射塔を右手に置いて、彼はきょろきょろと辺りを見回した。
 白地に緑と黒の縁取りがされた官服を着て、数人の文官が通り過ぎていった。見知らぬ顔にもぺこりと会釈をして、アリババはシンドリアに渡る前からの知り合いを真似て鼻をヒクつかせた。
 オアシスを中心に栄えた砂漠の町、チーシャンで奴隷として働いていたモルジアナは、燃え盛る炎に似た真っ赤な髪をした少女だ。彼女はその生まれの特異性により幼少期に奴隷商人に攫われ、あの陰険で陰湿な男に買い取られ、鎖に繋がれながら生活していた。
 その後大きな転機が訪れて、彼女の生き様を縛っていた足枷は外された。以来自由の身になったというのに、恩義があるからというだけで彼女はこんな海に囲まれた国まで一緒に来てくれた。
 モルジアナは戦闘民族ファナリスの出身であり、その強靭な肉体と岩さえ砕く足技は、常人の域を遥かに超越していた。
 彼女ほど頼もしい存在はなく、一緒にいてくれると安心できる。そんなファナリスには、更にもうひとつ特徴があった。
 常識外れの嗅覚を真似て空気を嗅いでみたものの、微かに潮の香りがするだけ。これでは到底人の匂いを辿っていくなど不可能で、自分に出来るわけがないと苦笑して、アリババは気持ちを切り替えて肩の力を抜いた。
 走って坂道を駆け上ってきた反動で、先ほどまで五月蝿かった心臓もようやく落ち着いた。汗も引いたので、そろそろ動いても問題なかろう。
「アラジンは、ヤムライハさん所にいるとして。モルジアナがなー……どこだろ」
 艶やかな金糸の髪を軽く掻き回して呟き、再度周囲に視線を走らせて右足で床を叩く。左手に持ち替えた袋を眺めながら右手で顎を撫でつつ考えるが、ここでじっとしていたところで始まらないと、彼は思索をあっさり放棄した。
 城内は広いが、ファナリスの赤い髪はどこにいても目立つ。姿を見た人がいないか聞いて回れば、耳も良い彼女だから、どこかで小耳に挟んで向こうから会いに来てくれる可能性もある。
 もしそれで見つからなければ、この時間もまだ城の近くの樹林で、同じファナリスであるマスルールと鍛錬に明け暮れていると思ってよさそうだ。
「んじゃま、先にアラジンかな」
 居場所がほぼ確定している方から会いに行くことにして、アリババは脇を締めて気合いを入れた。鼻息荒く意気込んでから、麻の袋を大事に抱えて日差しを避けながら歩き出す。
 回廊は建物を取り囲むように配備されており、庇が強い日光を良い具合に遮ってくれていた。太陽は天頂に近い位置にあり、昼休みの鐘が鳴るまであと少しといった時間だった。
 シャルルカンが起きてきているかどうかも、途中で探らなければならない。モルジアナを探すついでに聞いて回る事に決めて、彼は黒秤塔へと急いだ。
 その一室に、ヤムライハの研究室があるのだ。もっとも彼女の部屋は色々なもので溢れ返っており、かなり狭い。だからアラジンの魔法の特訓は、おおむね屋外で行われていた。
 あの魔法使いふたりがいる場所は、大体いつも同じ。緑に囲まれた、穏やかな風が吹く中庭を目指して突き進めば、案の定黒い三角帽子を被った数人の魔法使い見習いと一緒に、グラマラスな格好をした水色の髪の美女が座っているのが見えた。
「おーい」
 アラジンの姿は見えないが、彼は小さいので簡単に人の影に入ってしまえる。試しに利き手を振り回しながら呼びかければ、案の定人と人の間から、ひょこっと白いターバンの少年が立ち上がった。
「やあ、アリババくん」
「よお、アラジン。……と、こんにちは」
「なになに、な~に~? その不満そうな顔は」
 声に反応し、長い髪を三つ編みにした少年が同じく手を振り回す。その横で矢張り立ち上がった人物に、意外だったアリババは思わず顔を顰めてしまった。
 表情の変化を気取った相手に肘で小突かれ、彼は困った様子で頭を掻いた。
「ふふ。だって、ねえ。ピスティがこっちに来るなんて、珍しいものね」
「えー、そんなこと全然ないしー」
 ひとり座ったままのヤムライハが、頬杖ついて眼を細めた。愛用の杖を膝に抱いて、周囲にはいつものように水の塊がふよふよと揺れながら踊っていた。
 シンドリア王国八人将のひとりに数えられ、水を操らせたら右に出るものはいないとまで言われている稀代の魔女。穏やかそうに笑うのに性格は意外に凶暴で、研究熱心が災いして友達が少ないというのが悩みの彼女にとって、そこにいるもうひとりの八人将は数少ない同性の友人だった。
 その、可愛い顔をして相当肉食系だとして知られているピスティは、ヤムライハの言葉に憤慨して煙を吐き、両手を振り回した末に胸を張って腕を組んだ。
 胸元に、縦に切れ目が入った大胆な服装をしている彼女と相対していると、どうにも目のやり場に困ってしまう。背が低くてアラジンとそう大差ないサイズではあるが、彼女も一応女性であると考えると、視線はどうしても見えそうで見えない場所に集中した。
 彼女もそんな男心を分かっているのだろう。返答に困っているアリババを見上げて不遜に笑い、すい、と白くて細い足を前に繰り出した。
「それで、どうしたんだい。アリババ君」
「……っと、ああ、そうだ。師匠見なかった?」
 素足を見せ付けるような動きで擦り寄ってきた彼女にどぎまぎしつつ、アラジンが話しかけてきたのをこれ幸いと距離を取る。半歩下がって右に逃げた彼に頬を膨らませ、ピスティは聞こえて来た台詞に目をぱちぱちさせた。
「シャルなら、まだ部屋じゃない?」
「そうね。少なくとも、私は朝から見てないわ」
 朝議にも欠席した同僚に、八人将筆頭であるジャーファルはかなりおかんむりだった。角を生やしている政務官を思い出して肩を竦め、女性二人は顔を見合わせて笑った。
 予想通りの回答に天を仰ぎ、アリババは右手で顔を覆った。
「あちゃあ……」
「大変だねえ、君も」
「お酒さえ飲まなけりゃ、凄い人なんですけど」
「アイツなんて、あてになったことなんかないわよ」
 喉の奥から声を絞り出したアリババに、ピスティは慰めるように腰を叩いた。
 油断していたところへの一撃に苦笑いを返して、手厳しいヤムライハにはがっくり肩を落とす。シャルルカンと彼女は剣と魔法を互いに極めようとしている為か、顔をあわせるとなにかと衝突する傾向にあった。
 本人がいないからと容赦なく毒を吐くヤムライハに相槌も打てず、どうしたものかとアリババは頬を掻いた。抱えていたものを揺らして音を響かせ、それで思い出して折りたたんでいた口を開く。
 がさごそ始めた彼に、何事にも興味津々なピスティが早速身を乗り出してきた。
「なに、それ」
「甘いものとか、平気ですっけ?」
「うん。大好きー!」
 質問に元気いっぱい返事をして、満面の笑みを浮かべて利き腕を真っ直ぐ高く伸ばす。お手本のような返事をした彼女に目尻を下げて、アリババは後ろの方で不思議そうにしているふたりにも目配せした。
 すぐに気付いたアラジンが、ヤムライハと一緒に深く頷いた。その反応にほっとした顔をして、アリババは少し冷めてしまっている中身を袋から取り出した。
 掌にひとつだけ載せて、差し出す。
「カターイフ!」
 見た瞬間叫び、ピスティがぴょん、とその場で飛び跳ねた。
 あちこちに身に付けた羽根飾りを震わせて、全身で喜びを表現する。大袈裟な反応ぶりに顔を綻ばせて、アリババは残るふたりにもひとつずつ、揚げ菓子を手渡していった。
 円形の生地にクリームを挟んで半分に折りたたみ、油で揚げた上にシロップに漬け込んであるのでかなり甘い。ちょっとの間持っていただけなのに濡れている手を振って、アリババは物珍しそうにしているアラジンに肩を竦めた。
「いいの?」
「どうぞ。沢山買ってきたんで。モルジアナにもあげようかなって」
 指を舐めれば、それだけで甘い。上目遣いに問うたヤムライハに頷き返し、彼は顔馴染みの少女の名前を声に出した。
 早々に半分食べ終えたピスティが、クリームに混ざっていたナッツを噛み砕いて唇を舐めた。
「そっちだったら、さっき見たよー。なんかね、書類運び手伝ってた」
「へえ。じゃあ、白羊塔かな」
 口をもごもごさせながら呟き、西を指差す。白く輝く大きな建物と彼女の顔とを交互に見比べて、アリババは緩慢に頷いた。
 詳しく話を聞けば、ついさっきのことだという。ならばマスルールとの鍛錬は終わったのだろう。しかし身体を動かし足りないという理由から、自分から仕事を買って出たといったところか。
 彼女は幼い頃から奴隷として働いていたので、手が空いた時にぼうっとして過ごすのが苦手なようだった。常になにかしていないと落ち着かないというワーカーホリックぶりは、政務官であるジャーファルに通じるところがある。
 彼も、自他共に認める仕事中毒者だ。無理に休ませると却って体調を悪くして帰って来る、とシンドバッドに言われるくらいだから、その勤勉ぶりは並大抵のものではない。
 もっとも彼がそうなったのは、なにかと職務をサボりたがる王様がいるからに他ならないのだけれど。
 少しでも悪いと思っているのなら、真面目に仕事をしてやればいいのに。そんなことを頭の片隅で思いながら、アリババは口を閉じた袋を右手にぶら下げた。
「行ってみます」
「気をつけてね~。美味しいの、ありがとう」
「アラジンも、修行頑張れよ」
「うん!」
 賑やかで、騒々しくて、世の中に嫌な事や怖いことから切り離されたかのような楽園、シンドリア。その屋台骨を支える人たちの顔を順に思い浮かべながら、アリババは空いていた左手を振った。
 三人に見送られて来た道を戻り、回廊を抜けて白羊塔を目指す。途中すれ違った数人の文官にモルジアナの居場所を問えば、髪色からして目立つ彼女だから、すぐに知っている人に行き当たった。
 ついでだからとシャルルカンについても訊ねてみたが、こちらは梨の礫も良いところ。まだ紫獅塔の私室でうんうん魘されているのかと思うと、最早同情する気にもなれなかった。
「これで懲りてくれたらいいんだけどなー」
 遅々として進まない自分の修行を憂いながら、アリババは朝議などが開かれる広間の前を通り過ぎた。
 モルジアナがこちらに居ると知っていたら、黒秤塔に向かう前に寄ったのに。世の中はなかなか上手く回らないと肩を竦めて、彼は遠目にも目立つ赤い髪を捜して視線を彷徨わせた。
 華奢で小柄ながら、ファナリスというだけで彼女はかなりの怪力だ。その強さにアリババは何度も救われているし、助けられている。
 もっとも出会った当初は敵対しており、驚異的な脚力に翻弄されて死にそうな目にも遭わされた。とはいえ、あの頃のことをとやかく言うつもりはアリババにはなかった。
 今、彼女は自分に力を貸してくれている。その事実さえあればそれで良かった。
「んー……と、どこだろ。モルジアナ」
「呼びましたか」
「――ぎゃひぃあ!」
 官服の人は大勢いるが、目当ての人は見当たらない。もっと奥だろうかと首を捻って呟けば、あろう事か真後ろからそのモルジアナの声がした。
 心臓に悪い登場の仕方に、吃驚仰天してアリババは飛び上がった。両手を振り上げて万歳のポーズを作り、大慌てで振り返って冷や汗を流す。
 大袈裟な反応を見せられて、両手で重い書簡を何十本と抱えていた彼女は機嫌を損ねたか、頬を丸く膨らませた。
 心なしか目つきも剣呑として、雰囲気が怖い。彼女が本気を出した時の破壊力は並大抵のものではなくて、木っ端微塵に粉砕される自分を想像してアリババは青くなった。
 じりじり後退して距離を稼ぎ、つい反射的に身構える。背中を丸めて首を亀のように引っ込めた彼を前において、モルジアナはおもむろに右足を持ち上げた。
「ひぃ!」
 そうしてダンっ、と床が抉れるくらいに足音を響かせた。
 頑丈な石材を使用している王城なので、そう簡単には砕けない。だが迫力は十分で、近隣一帯がちょっと揺れたかもしれなかった。
 ぱらぱらと落ちてくる細かい埃に乾いた笑みを零し、何事かとがやがやする周囲にも顔を引き攣らせる。更にもう一発追加しようとしている彼女に気付いて慌てて両手を振り回し、アリババは無言で睨んでくる少女にへこへこ頭を下げた。
「なにか用ですか」
「あ、いや。ちょっとな」
 モルジアナは鼻だけでなく耳も良いから、アリババがボソッと呟いた声を聞いて駆けつけてくれたらしい。それなのに挙動不審な態度を見せられたら、気分が悪くなって当然だ。
 義理堅い彼女に心の中で感謝を述べて、彼は右手の麻袋を抱え直した。
「あ……」
 ふんわり甘い香りは、嗅覚が優れている彼女ならもっと強く感じ取れたに違いない。にわかに表情が和らぐのを見て、アリババはほっと胸を撫で下ろした。
 左手で折り曲げていた口を広げ、中身を出そうとする。だが掴み取る寸前ではたと思い出して、彼は改めて前を見つめ直した。
「アリババさん?」
「モルジアナ、今それ、片手で全部持てる?」
「はい?」
 質問の意味が分からなかったのだろう、彼女はきょとんとした顔で目を丸くした。
 チーシャンに居た頃の彼女は常にむすっとして、楽しいことなどなにもない、という雰囲気が漂っていた。しかし足枷を外されて自由を手に入れたこともあり、最近では歳相応に表情が豊かになっていた。
「ああ、……いや、やっぱりいいや。てか、どうすっかなあ」
 現在、モルジアナは荷物運びの真っ最中で、両手は見事に塞がっていた。
 見た目に寄らぬ怪力の持ち主であるから、片腕だけでバランスを取って担ぎ上げることも、或いは可能だろう。しかしたかだか菓子ひとつを渡す為だけに、彼女に手間を強いるのは申し訳なかった。
 それに、この菓子にはたっぷりのシロップが振り掛けられているのだ。甘い蜜でべとべとになった手で書簡を持ったらどうなるか、想像に難くない。
 かといって直接口に押し込むのも、些か問題がある気がした。
 そもそもここは、食事をする為の場所ではない。文官が忙しく行き交う、シンドリアという国を支えている重要な施設の通路だ。
「アリババさん?」
 どうするのが一番良いのかを考えて、うんうん頭を捻って考える。話しかけてきたかと思えば急に黙りこまれて、早く頼まれごとを片付けてしまいたい少女は焦れたように声を荒らげた。
 鼻の良い彼女のことだから、彼が手にしている袋の中身が何であるかもとっくに把握済みだろう。早くしろと言いたげな視線を投げられて、彼は困った顔で辺りを見回した。
 人通りが途絶えてくれたら、と願うものの、そう簡単に事は運ばない。遠くの方には、槍を手にした衛兵が巡回しているのも見えた。
「えーっと、……それ終わってからで」
 結局、彼女に渡すのは後回しにするしか思いつかなかった。
 今現在抱えている荷物を片付けてからにした方が、色々と後腐れもなさそうだ。どこか、アラジンも一緒に待ち合わせられる場所を指定しておけばいい。菓子はまだ残っているので、三人で肩を並べて食べるのも悪くなかった。
「はい?」
 しかし諸々の説明を省き過ぎた所為で、モルジアナには理解できなかったようだ。言葉が足りなかったと素直に反省して、アリババは一度広げた袋の口を閉じた。
 その仕草に、少女が不満そうにきゅっと唇を引き結んだ。
「後でさ――」
「ああ、いた。モルジアナ!」
 露骨に拗ねていると分かる顔をされて、急ぎ取り繕うと口を開く。だが全部を言い切る前に、かなり遠くの方から大声が響いた。
 けたたましい足音も付随しており、何事かと居合わせた文官も揃って目をまん丸にした。馴染みの官服を身にまとい、クーフィーヤーを振り乱しながら走って来たのは、怠け者の王に代わって実質的に国を統治している政務官、その人だった。
 頬にそばかすの残る幼顔に、汗が大量に浮いている。全速力で駆けてきたからか、息が切れて非常に苦しそうだった。
「ジャーファルさん、大丈夫ですか?」
 ぜいぜい言いながら膝に手を置いて足を止めた彼に、アリババがぎょっとして声を高くした。モルジアナも荷物ごと彼に向き直り、何かを思い出した顔でハッと息を飲んだ。
 塔の如く積み上げている書簡を見上げて少々気まずそうな顔をしてもじもじ始めたところからして、ジャーファルの全力疾走と彼女はなにか関係があるようだ。
「す、すみません」
「ああ、いや。いいよ。けど、次からはいきなり居なくならないでくれるかな?」
 暑いのかクーフィーヤーをイカールから外し、乱れた息を整えたジャーファルが汗を拭いつつ苦笑する。しかし優しい言葉が却っていたたまれない気持ちを増幅させるのか、元奴隷の少女は恥ずかしそうに俯いて書物の影に隠れてしまった。
 どうやら彼女は、ジャーファルに頼まれてこれらを運んでいる最中、アリババの声が聞こえて断りなくこちらに来てしまったらしい。
 後ろに居ると思っていたモルジアナが一瞬で姿を消したら、誰だって驚くに決まっている。しかも運んでくれるよう頼んだ荷物が国の機密に関する内容だったなら、尚更だ。
 半分に畳んだ緑の布で首筋を拭い、ジャーファルは肩を竦めて嘆息した。
 腕を上にやると袖が捲れ、傷だらけの二の腕が露わになる。とても机仕事が主の人とは思えない大量の古傷に一瞬痛ましい顔をして、アリババは目が合う寸前に感情を薙ぎ払った。
「アリババ君、こんにちは」
「お疲れ様です、ジャーファルさん。すいません、俺の所為で」
「君の?」
 瞬時ににこやかな笑顔を浮かべ、そのまま軽く頭を下げる。意外な一言に、多忙を極める政務官は不思議そうな顔をした。
 七海の覇王とも称されるシンドバッドの副官であるジャーファルには、アリババも多々世話になっていた。
 バルバッドでの一件の後、海を渡ってこの国に入った彼だが、当時は己の無力感に苛まれて何もする気が起こらなかった。
 迷宮を攻略して力を得たつもりでいたが、結局自分ひとりでは何も出来ないと同じだ。シンドバッドの力添えなしでは、あの国を強大な帝国から守るなど到底不可能だった。
 大切な友を奪われ、帰る国を失った。悲しみは一朝一夕で拭い去れるものではなく、何故自分だけが生き残ってしまったのかと、そればかりを考えて過ごしていた。
 食欲も沸かず、水さえ碌に口にしない日が続いた。このまま飢えて死ぬのも悪くないとさえ思い始めていた矢先に、ジャーファルに救われた。
 王不在の中でただでさえ忙しいというのに、あの手この手で食事を摂らせようと計らってくれた。彼が辛抱強く説得を続けてくれなかったら、きっとアリババは今こうして此処に立ってはいなかった。
 子供みたいに我が儘を振りかざしていた当時を思い返すと、恥ずかしくて仕方がない。穴があったら入りたい気分を堪え、アリババは照れくさそうに頷いた。
「俺が、モルジアナを呼んだばっかりに」
「ああ、なるほど」
 それならば納得だと、僅かな言葉だけで状況を察したジャーファルがぽんと手を打った。彼が怒っていないのを確認して、モルジアナも恐る恐る書簡の隙間から顔を出した。
 但し表情はまだ不満げで、頬はぷっくり膨らんでいた。甘い菓子は彼女も好物で、目の前にあるのに食べられない状況が気に入らないのだろう。
 かといってジャーファルもいるのに手渡しで食べさせて良いものか悩んでいたら、聡い彼が先にアリババの持ち物を気取った。
「美味しそうな匂いがしますね」
 麻袋の口を閉めていても、胸焼けしそうなくらいに甘いシロップの匂いは辺りに充満した。アリババはもう嗅覚が馴染んでしまって分からないが、今し方たどり着いたばかりのジャーファルはそうではない。
 汗拭き代わりに使ったクーフィーヤーを折りたたんだ青年に、彼は小さく舌を出した。
「ジャーファルさんも、どうですか。お昼にでも」
 そう言って、畳んだばかりの口を広げる。ひょいっと身を乗り出したジャーファルは中を覗き込んで鷹揚に頷き、年頃の少女らしい反応を見せているモルジアナにも視線を走らせた。
 目が合う直前、彼女はぱっと横を向いて顔を背けた。その頬が仄かな紅色に染まっているのを見て、ジャーファルはモルジアナの拗ねている理由もすっかり把握して目を細めた。
「では、ひとついただきましょうか。モルジアナ、君の分も私が運びましょう」
「えっ」
「それでいいですか?」
 両手が塞がっている上に、食べる際に手が汚れてしまう品だから、アリババは躊躇していたのだ。何でもかんでもお見通しの彼に指摘されて少年は首を竦め、そこまで思い至っていなかった少女は吃驚して目を丸くした。
 同意を求められて、ぽかんとしていた彼女は大慌てで頷いた。アリババもハッと我に返ると、懐からメモなどに使うのだろう、ふたつに折りたたんだ紙を数枚取り出した彼に袋を傾けた。
 まだかなり数が残っている。しかしふたつ以上貰うのは悪いからと、ジャーファルは小さめのものと大きめのもの、ひとつずつを選んで懐紙に置いた。
 シロップがじんわりと紙にしみこんでいく。申し訳ないことをしたと思うと同時に、彼の気遣いが有り難くて頬を緩め、アリババは深く頭を下げた。
「ありがとうございます」
「いえいえ、お礼を言うべきはこちらですから」
 疲れた身には、甘いものがなによりのご馳走だ。元からあまり菓子が得意でないくせにそんなことを口にした彼に相好を崩し、アリババは心持ち嬉しそうにしているモルジアナにも微笑んだ。
 ちょっとだけ軽くなった袋を抱き直して、後は誰に配ろうかと考える。
「そういえばアリババ君、シャルルカンには会いましたか?」
「いえ、それが」
 しかし思索は途中で遮られ、彼は話題を百八十度転換させたジャーファルにゆるゆる首を振った。
 シンドバッドからアリババを任されているくせに、昨日も遅くまで酒宴に明け暮れていた男を揃って思い浮かべ、共に深いため息をつく。先に顔を上げたジャーファルは、銀がかった灰色の前髪を掻きあげて苦々しい表情で舌打ちした。
「まったく、あの男ときたら」
「あはは」
 ヤムライハと似たような反応に苦笑して、続けて嘆息して肩を落とし、アリババは草臥れてきている袋を撫でた。
 シャルルカンもアリババ同様、数々の武勲で知られるシンドバッドに強い憧れを抱いていた。そして彼を理想の男と位置づけ、少しでもその高みに近づこうと努力を続けてきた。
 そうしてシャルルカンは、シンドバッドの悪い部分も見事に引き継いでしまった。
 酒癖の悪さとサボり癖は、間違いなく七海の覇王の影響だ。頭が痛い問題を追加で思い出してしまい、ジャーファルは眉間に皺を寄せて頭を抱え込んだ。
「アリババ君を放り出して、もう昼ですよ。いい加減自覚を持ってもらわないと……また説教ですね」
「でも、師匠だって悪気があるわけじゃないですし。俺の相手ばっかりじゃなくて、他の兵士への指導だってあるわけですし」
 疲れているのだから、少しくらいゆっくり休ませてあげたい。怒り心頭なジャーファルを宥めながら言葉を重ねたアリババに、彼は一瞬ぽかんとしてから、大仰に肩をすくめて首を振った。
 その上でアリババの細い肩を叩き、
「君も怒ったっていいんですよ」
 呆れ混じりの、しかしとても力強い声で言った。
 義務を果たさず、責任を放棄しているのはシャルルカンの方だ。アリババは強くなりたいと訴えているのに、その思いを蔑ろにしているのはあの男だ。
 剣術の師相手に強く出られない気持ちは分からないでもないが、時には心を鬼にする必要がある。なにかを思い出しながら人差し指を突き立てたジャーファルに訥々と説かれて、そこまで深く考えていなかったアリババも頷かざるを得なかった。
 彼が言うと妙に説得力があるから困る。目に見えないところで色々と苦労しているのだと知れて、アリババは頬を引き攣らせた。
「おっと、いけない。モルジアナ、ついてきてください」
 そうしてひと通り上の者を上手く操る術を語った後、ジャーファルは唐突に現状を思い出して声を高くした。
 ここでのんびり話に花を咲かせている暇などなかった。まだやらねばならない仕事が山のように残っていると我に返り、大慌てでモルジアナに指示を飛ばして自分も歩き出した。
「では、アリババ君。シャルルカンに会ったら、きちんと叱ってやるのですよ?」
 あまりの早業にぽかんとなっていたアリババは、去り際の挨拶でも釘を刺されてヒクリと頬を痙攣させた。
 慌しく去っていく背中は、まるで小規模な嵐のようだ。いっそジャーファルもモルジアナに抱えてもらえば早いのに、とそんなことを思いつつ、彼はやれやれと肩を竦めて首を振った。
 ジャーファルはああ言っていたが、シャルルカンを怒鳴りつけるなど、とても出来そうになかった。
「そろそろ起きてるかなー」
 ひとり廊下に残されて、一抹の寂しさを拭おうと呟く。予想外に大きくなってしまった声に自分で驚いて、彼は挙動不審に左右を見回してから深く肩を落とした。
 まだ沢山残っている袋の中身に思いを馳せて、この後どうするかで数秒悩んで毅然と顔を上げる。
「……よし」
 迷っていたところで先に進めないのは明白だから、今は信じて進むだけ。入り口で止められるのは承知の上で、彼は紫獅塔に進路をとった。
 白亜の宮殿内を堂々と、胸を張って突き進む。しかし扉が迫るに連れて足取りは鈍り、槍を手にした衛兵が構えているのを見た瞬間、完全に止まってしまった。
 視界を遮るものはなく、向こうからアリババの姿は丸見えだ。じろりと睨まれた気がして肝を冷やし、彼はやはり引き返そうかと二の足を踏んだ。
 これまでにも何度か、シャルルカンに連れられて中に入った事ならばある。但しひとりでの訪問はこれが初めてであり、衛兵がどのような対応をするのかもまるで未知数だった。
 もし不審者と疑われてしょっ引かれたらどうしようか。
 王城のこんな奥深い場所までノーチェックで来ておきながら急に不安を覚え、アリババは麻の袋を両手で抱えて口をもごもごさせた。
 不審極まりない動きを繰り返す彼に気付かないほど、シンドリアの衛兵は能無しではない。右に立っていた兵士がさっきからひとりぶつぶつ言っている少年に怪訝な顔をして、呼びかけようと一歩前に出た。
 その動きはアリババの目にも映って、彼の顔は一気に引き攣った。
「いてっ」
 しかし大きく開かれた口から発せられたのは、場の状況にそぐわない悲鳴だった。
 突然真後ろから殴られた。角のように尖っている髪の毛を揺らし、彼はたたらを踏んで首を竦めた。
 亀のように小さくなり、右手を頭上にやって患部を庇う。遠慮のない拳骨に小鼻を膨らませて振り返れば、浅黒い肌に銀の髪の青年が不遜に笑っているのが見えた。
 出掛かった声を引っ込めた衛兵が、彼の姿を見て途端に畏まった。槍を構え直し、手で追い払う仕草をされて慌てて持ち場へと戻っていく。
「いってぇ……」
「ったく、ちょろちょろしてんじゃねーよ」
「なにするんですか、師匠」
 骨の部分で思い切り殴られたので、まだじんじん痛い。なかなか引いてくれない激痛に耐えながら鼻を愚図らせたアリババに、誰も姿を見ていないと言われていた男は偉そうに胸を張った。
「テメーがあちこちうろうろしてるから、悪いんだろうが」
「一寸待ってくださいよ」
 酒癖が悪く、昨晩も遅くまで街で飲み明かしていた男が言って良い台詞ではない。午前の大半を二日酔いで潰した男に説教されるいわれはなくて、アリババは即座に抗議の声をあげた。
 彼を遮り、声を荒らげる。八人将相手に噛み付く少年に、見張りの兵士が物珍しそうな顔をした。
 他人の視線があるのを思い出し、はっとしたアリババが気まずげに身を引いた。袋を抱く腕の力を緩めて下唇を噛み、不条理を口にした男を恨めしげに睨みつける。
 だがシャルルカンは平然と受け流し、右手を頭の上でひらひらさせて、残る左腕はアリババの首に絡ませた。
 どさっと圧し掛かられて、押し潰される衝撃に彼は軽く噎せた。
「ちょっと、師匠」
 アルコールは完全に抜け切っていないようで、鼻先を掠めた呼気が少し臭い。いったいどれだけの量を飲んだのかと信じ難い顔を向ければ、地色が濃い所為で顔色が分かりづらい青年は拗ねた様子でふいっと目をそらした。
 モルジアナがやれば可愛い仕草も、二十歳を過ぎた男にやられると気持ちが悪い。強引に引きずって歩こうとする彼を嫌がってじたばた暴れるが、二日酔い明けのくせに束縛する力は思いのほか強かった。
 抗いきれず、アリババは回廊を抜けて日の当たる広場の中に連れて行かれた。
 急に明るくなって、眩しさに目がついていかない。咄嗟に瞼を下ろして瞳を庇っていたら、首を掴んでいた男の手がふっと緩んだ。
「どわっ」
 前に向かって放り出されて、アリババは甲高い悲鳴と共に芝の上に倒れこんだ。柔らかな草がクッションの代わりを果たしてくれたものの擦った鼻はひりひり痛く、握っていたものも反射的に投げ飛ばしてしまっていた。
 大の字にうつ伏せになった彼をカラカラと笑って、シャルルカンは満足したのか嬉しそうに顔を綻ばせた。
「いってえ……なにするんですか、師匠!」
「言ったろ。人が折角探してやってんのに、ちょろちょろ動きまわってんじゃねーよ」
「はあ?」
 ぶつけた箇所を撫で、残る手で付着した草切れや土を払い落とす。苦虫を噛み潰したような顔で身を起こした可愛い弟子に、師匠たる青年は偉そうにふんぞり返って言い放った。
 その意味がすぐに理解できなくて、アリババは素っ頓狂な声を上げた。怪訝そうに眉を寄せ、地面に座り込んだまま細身で背の高い男を仰ぎ見る。
 睨むような上目遣いに、彼は一瞬だけ無表情になった。
「師匠?」
「午前の修行潰しちまった侘びに、昼飯でも奢ってやろうと思ってたのによ。全然見つからねーし。しょーがねーからマスルールの奴捕まえて、匂いで辿ってみたら、なんなんだ。お前という奴は――」
「いたっ、いひゃい。やめてくりゃふぁい」
 突き刺さる鋭い眼差しに小首を傾げた矢先、不意に長い腕が伸びてきた。喋りながら頬をつねって引っ張りあげられて、あまりの痛さにアリババはすぐさま降参の白旗を振った。
 乱暴してくる手を何度も叩き、嫌がって身を捩って必死に逃げる。紫獅塔は白羊塔に比べて人の出入りが少ないので、衛兵の死角に入ってしまえばふたりを見咎める存在はどこにもなかった。
 うっすら目尻に涙をためた弟子に不遜な笑みを送り、シャルルカンはいかにも仕方なくといった風情を装ってアリババを開放した。
 赤くなって少し腫れている場所を両手で庇って牙を剥くが、まだ酔いの高揚感が残っているのか、シャルルカンはまったく意に介さない。このお調子者ぶりがたまにとても腹立たしくて、アリババはジャーファルに言われたことも思い出して小鼻を膨らませた。
「ホントに悪いと思ってるんですか」
 彼の二日酔いの所為で、アリババは午前の予定が丸ごとなくなってしまった。
 軽く城の外周を走り、基礎の型をなぞってはみたけれど、ひとりで出来る事はそう多く無い。練習相手を探そうにも、剣術の鍛錬に付き合ってくれる知り合いはいない。思い切って赤蟹塔にいた訓練中の兵士に声をかけてみたけれど、金属器持ちのアリババ相手に勤まるわけがない、と全員に首を振られてしまった。
 今朝の悔しさを思い出して口を尖らせ、そこに生えていた緑の草を引きちぎる。細かな欠片を風に流した彼の言い分はもっとも過ぎて、この点に関してはシャルルカンも無言を貫いた。
 そ知らぬ顔をしてそっぽを向く態度からして、苛々する。真面目に相手をする気がないのかと憤然としつつ、空っぽの両手を思い出して彼は慌てて辺りを見回した。
 その仕草に、シャルルカンは頭を軽く掻いて左に数歩、歩を重ねた。
 彼の動きにあわせ、背に流した分が尻尾のように左右に踊った。背中を向けた彼が何を拾い上げたかについて、考える必要はなかった。
「あー、ぐっちゃぐちゃじゃねーか」
「誰の所為ですか、誰の」
 地面に激突した衝撃で、揚げ菓子の中身が皮からはみ出てしまっている。麻袋の中を覗き込んだシャルルカンの言葉に、アリババはむすっと頬を膨らませた。
 彼が余計な真似をしなければ、こんなことにはならなかったのだ。まだ赤みを残す鼻を撫でて上唇を噛んでいたら、袋を左腕に抱えたシャルルカンがくるりと身体を反転させた。
 振り返った彼の唇には、白いクリームが付着していた。
「相変わらず甘ぇな、これ」
「て、あー!」
 口をもごもごさせながら呟いた彼に、虚を衝かれたアリババは目を点にした。三秒ばかり呆然として、四秒目に我に返って大声を張り上げる。
 間近で轟いた怒号に首をすくませ、シャルルカンは手に残っていたカターイフにかぶりついた。
「んだよ、吃驚させんな」
 指に付着したシロップを舐めながら文句を言われるが、アリババの耳には届いていなかった。彼は思わず伸ばした人差し指を空中に彷徨わせ、唖然としたまま口をパクパクさせた。
 それは自分が町に出て、買ってきたものだ。当然、金を出したのもアリババだ。即ちこれらの所有権は、全て彼に属している。
 だというのにシャルルカンは、カターイフを食べている――正当な所有者であるアリババに許可を求めず、了承も得ないまま。
 これでは彼は、店先に並んでいるものを掠め取っていく泥棒と同じだ。
「師匠、それ」
「んだよ、弟子のモンは師匠のモンって相場が決まってるだろ」
「聞いたことありません」
「ケチくせーこと言うなよ。ヤムライハやジャーファルさんにも配って回ってたんだろ」
 横暴な主張を即座に跳ね除けるが、シャルルカンは聞く耳を貸さない。それどころか、どこから仕入れてきたか最新の情報を口にしてアリババを驚かせた。
 だがよくよく考えてみれば、彼はアリババを探していたと言っていた。マスルールに頼み、行き先を匂いで辿ってもらったとも。
 ならば彼が歩いた道のりを、シャルルカンも歩いたと言うことだ。
「それは、……まあ、そうですけど」
 沢山買ってきたから、皆で分けて食べたらもっと美味しくなると思ったのだ。だからおすそ分けをして回っていたのだけれども、それとこれでは話がまるで違う。
 自分から進んで分け与えたのではなく、許しも貰わずに勝手に食べられては良い気分がしない。
 それなのにシャルルカンは意に介さず、ふたつ目を袋から取り出した。
「てか、冷てえ弟子だよなあ。こーんな格好良い師匠が頭抱えてベッドで苦しんでるってのに、ンな甘いだけの食い物買って、配り歩いてるだなんてよ」
「師匠の様子も見に行こうと思ってました」
 目をあわさぬまま愚痴を零され、聞き捨てならなかったアリババは声を荒らげた。眼前にそびえる巨大な建物を指差して、何故こんな王宮の奥深い場所まで来たのか、その理由を考えろと諭す。
 しかしシャルルカンは横目で人を窺うだけで、相槌を打とうとはしなかった。
 二つ目のカターイフを平らげて、べとべとになっている指に舌を這わせる。蛇のように絡みつく赤色にぐっと息を呑み、アリババは勝手に色付こうとする頬を隠して俯いた。
 闇雲に足元の草を掻き毟り、引きちぎっては風に任せる。指先が緑色の汁で染められて、青臭さが辺りに広がった。
「普通、師匠が一番先じゃね?」
「……だって、もし起きてて、入れ違いになっても困るし」
 アラジンやヤムライハ達を真っ先に訪ねた事を抗議されても、紫獅塔は城の最奥にあるから行くのに時間がかかる。そこから一旦戻ってあちこち駆けずり回るよりは、居場所をはっきりさせてから向かった方が効率的だと思ったのだ。
 彼を優先させなかったわけではない。それだけ分かって欲しくて顔を上げれば、半月型の菓子を構えたシャルルカンが、すっかり軽くなった麻袋を握り潰した。
 もしかして、あれがラストか。拉げた袋の感じから判断して、アリババは総毛立った。
 それを見下ろし、銀髪の男がにやりと笑った。
「こんな食いきれねーくらいに買ってくるとか、どうかしてんだろ」
「それはだって、俺が好きで、師匠も好きなものって言ったら他に……――――」
 自分で買ってきたのに、ひとつも口に入れぬまま全部なくなってしまう。慌てて立ち上がろうとして、そちらに気をとられていた彼は思わず、言うつもりがなかった台詞を舌に転がしてしまった。
 途中まで言ってからはたと我に返り、中腰の体勢で凍りつく。
 どくん、と大きく跳ねた心臓に冷や汗を流して顔を上げれば、最後の一個を掲げたシャルルカンが意味深に笑った。
「い、……今の、いまのなし。ナシで! おねがいします!」
 上手く誘導されたのだと気付いた時には既に遅く、アリババは体温が一気に上昇していくのを感じて青くなった。一斉に開いた汗腺からどっと汗が噴き出して、心臓はバクバク五月蝿く、落ち着きを欠いた体がそわそわと左右にひっきりなしに揺れ動く。
 動揺していると誰が見ても分かる態度に肩を震わせ、シャルルカンは勝ち誇った顔をしてカターイフの端を齧った。そして楕円形それをくるりと半回転させて、アリババへと一歩踏み出す。
 そうして蹲ったまま動けずにいる弟子の口に問答無用で突き刺して。
「そいつは、聞けない相談だな」
 低い声で囁いて、甘い菓子に噛み付いた。

2012/10/09 脱稿