緑射塔前に広がる庭園は、穏やかな日差しに包まれてぽかぽかと眠くなるくらいの暖かさだった。
後方には大振りのドームを戴く紫獅塔が聳え、四本の尖塔がこれを取り囲んで周辺に目を光らせていた。白い雲が高い位置を泳ぎ、遠くからは訓練に明け暮れる兵士達の掛け声が威勢よく響いている。眼下に目を向ければ、青い海原がどこまでも、果てを知らずに続いていた。
大陸ははるか彼方であり、恐らくはこの国で最も高い建物である紫獅塔のドームの頂に立っても見渡せまい。故に人々は多くのしがらみから解放されたかのように、自由に、のびのびと、己の人生を謳歌していた。
無論その背後には、シンドリア国王シンドバッドをはじめとする多くの人々の、並々ならぬ努力があった。但しそれは殆ど表沙汰にならないのもあって、王城をただ見上げるだけの市井の人々はその事実に気付かない。公式な客人として国に招かれて、城中の一画で時を過ごすことを許された者ですら、王とその配下が背負う辛苦を知るのは稀だった。
「あー、もーう!」
そんな、一見すると平和極まりない庭園の片隅で、不意に甲高い金切り声が響き渡った。
両手を頭上高くに放り投げた紅玉が、こめかみに青筋を立てて手巾を噛み締めた。ぎぎぎ、と引っ張られた布切れが、今にも真っ二つに引き裂かれそうなくらいに軋んで音を立てた。
僅かに遅れて、彼女が放り投げた白い花がばらばらと落ちてくる。その中でもひと際大きな塊が愛用の簪を挿した頭に激突して、衝撃で紅玉の首が右に斜めに傾いた。
「あ……」
癇癪を爆発させた彼女に唖然としていたアリババが、手にしていたものを落として間抜けに口を開いた。
「だいじょ……ぶ?」
「五月蝿いわよ。黙ってなさいよぉ!」
一応心配して声を掛ければ、膝に落ちた分を鷲掴みにして投げつけられた。不条理な暴力と怒号に肩を竦めて、アリババは髪の毛に散った花びらを抓んで苦笑した。
ふたりの周辺には、庭園に沢山咲いている野の花が山積みにされていた。
一部は茎が千切れて花だけになったりもして、水に浮かせてやる以外使い道が無い状態だった。ほかも、葉のない茎部分が折れ曲がったり、萎れていたりと、可哀想なくらいに痛めつけられていた。
これだけ沢山摘んでも、庭は白と緑が交互に広がっていた。それでも少し間引きすぎたかと、アリババは完成間近だった花輪に溜息を零した。
「うぅぅぅ」
「そんなに難しい?」
一方の紅玉の手元には、アリババが持つ分の半分にも満たない長さの、非常に不恰好な花輪が積み上げられていた。
形が整い、綺麗な円形をしているものはひとつもない。頭に乗せるには不十分で、せいぜい腕輪にするのが限界の、不揃いなサイズばかりだ。
どうやってもアリババのように形良く作れない。涙目になった紅玉は、手先が恐ろしく器用な目の前の男を渾身の思いを込めて睨み付けた。
敵意を向けられても、流石に剣を抜くような真似はしない。彼は足を崩して座りなおすと、落ちていた花を一輪抓み、輪のつなぎ目に重ね合わせた。
花を潰さないように固定しながら、茎をくるりと巻きつける。余った分は外から見えないように、茎同士が絡み合っている部分に差し込んでやれば完成だ。
少し歪んでいたところを整えて、アリババが出来上がったばかりの花輪を紅玉に差し出す。
最初に渡された花冠よりももっと大きい、首からぶら下げるのも可能な花輪に、彼女は嬉しさと憎しみが半々に交じり合った表情を作った。
肩を怒らせ、震わせながらも、目は潤んで今にも泣き出しそうだ。
「えー……」
こういう場合、どう対処すればよいのだろうか。
女性と親しく話をした経験もあまりないアリババは、困ってしまって頬を引き攣らせた。
これがモルジアナだったら、礼のひとつと共に受け取ってくれるだろうに。いや、どうだろう。彼女はあまりこういった可愛らしいものに興味が無いから、試した過去は一度もなかった。
紅玉の付き人を兼ねている部下のあの男を探すが、見える範囲にはいなかった。護衛の兵士がふたりばかり、心配そうにこちらを見ているものの、近付いて来る気配はない。
助け舟を求める相手がひとりもいない現状に、彼は天を仰いだ。
「いらない?」
太陽の眩しさに負けてすぐに視線を戻し、もう一度花輪を持った腕を前に伸ばす。彼女は花の山に膝を埋めながら、物言いたげな目をして黙り込んだ。
ひたすら睨まれて、お手上げ状態だった。
「いらないんだったら……」
「誰もそんな事言ってないじゃない」
「え? だって」
「だったら、その器用な手も一緒に寄越しなさいよ」
「えええ!」
あまりの理不尽さに反論しようとしたら、無茶もいいところの要求をされてアリババは竦みあがった。
さすがにこの手を譲り渡すわけにはいかない。大事な身体の一部であるし、分け与えたところで彼女が使いこなせるはずもない。
冷静に考えてしまって鳥肌を立てて、彼はぶんぶん首を振った。無体な注文だと紅玉も分かっているものの、言い出した手前引っ込みがつかず、右手を広げるとアリババに向けて勢い良く突き出した。
さあ寄越せ、と言わんばかりの態度に、笑顔が引き攣った。
「出来るわけないだろ~」
「なによ、男の癖に意気地なし」
「それは関係ないと思う」
泣き言を言えば馬鹿にされて、アリババは金紗の髪を掻き回した。首に巻き付けた赤い紐がリズミカルに揺れて、彼には大きすぎる上着が風を押し退けた。
ひと通り怒鳴って気が済んだらしい、紅玉は足を崩した彼をじろじろと見詰めて、やがて青緑色の汁で汚れた己の手に目を落とした。
少し臭う。顔の近くに持っていって、彼女は途端に渋い顔をした。
「初めてにしては上出来だと思うけど」
「黙りなさいよ。だいたい、男である貴方の方が上手なのがおかしいのよ」
「そんな事言ったって」
紅玉が作った腕飾りをひとつ抓んで、顔よりも高い位置に掲げたアリババが呟く。負けず嫌いの反論にカチンと来た彼は、言い返そうとして次の瞬間言葉を喉に詰まらせた。
今まで疑問に思う事無く花飾りを作っていたが、そもそも自分は、いったい誰に作り方を教わったのだろう。
「あれ?」
紅玉が摘んだ花を気付かずに踏んでしまったのに端を発した花冠作りであるが、アリババの過去の記憶に、こうやって花畑で誰かと時を過ごした例はひとつも残っていなかった。
それなのに、手は自然と動いていた。教わらずに作れるものではないのは、紅玉を見ていれば分かる。
「……あれえ?」
「なによ。どうしたのよ」
バルバッドのスラムにだって、こんな花畑はなかった。子供であろうと自分の食い扶持は稼げと尻を叩かれるような場所だ、もしあったとしても呑気にお花を摘んでいる暇はない。
母が生きていた頃はまた違ったが、それでも男だった手前、女の子のマリアムとはあまり一緒に遊ばなかった。
自分の手と睨めっこしながら首を傾げ始めたアリババに、紅玉が怪訝な顔をした。
話しかけるが、彼の耳には届いていない。無視されるのは面白くなくて、彼女は仕方なく手元に残った花を使い、もう一度冠作りに取り掛かろうとした。
そんなふたりの間に、スッと黒い影が紛れ込んだ。
「え?」
手元を照らす光を遮られて、紅玉は最初むっとして顔を上げた。どうせあの無粋な補佐官に違いないと、見慣れた刺青入りの顔を思い浮かべながら目を瞬かせる。
あの男はこんなに髪が長かっただろうか、という疑問に至って、彼女は自分の思い違いに気付いてサッと顔を赤らめた。
「なんだか面白そうなことをしているね」
朗らかに微笑み、右手を上げた紫紺の髪の男。首の後ろでひとつに結い、残りは肩から前に垂らしたシンドリア国王が、いつもの煌びやかな衣装のままで目を細めた。
頭上から降って来た声にはたと我に返り、アリババも手を膝に落とした。座ったまま小首を傾げてからハッと息を吐いて、慌てて立ち上がろうとして制される。
そのままで良いと目で合図されて、彼は申し訳ない気持ちを滲ませながら浮かせた腰を落とした。
弾みで花冠のひとつを踏み潰してしまった。尻に当たった柔らかなものの感触に慌てて身を引くが、時既に遅い。
「うあっちゃ」
やってしまったと、半分だけぺしゃんこになったそれを引っ張りだして舌を出す。その姿に、部下も連れず、ひとりでうろうろしていたらしいシンドバッドが腰を屈めて覗き込んできた。
「どうしたんだい、それは」
「ああ、これは彼女が……あれ?」
率直な疑問を口にした王に、アリババは苦笑して紅玉に目を向けた。だがつい今しがたまでそこに座っていたはずの女性は、忽然と姿を消していた。
目を丸くして左右を見渡せば、遙か遠くで猛然と走り去って行く背中が見えた。槍を持ったおつきの兵士が、大慌てでそれを追いかけている。
瞬く間に視界から消えた土埃に、アリババもシンドバッドも揃って不思議そうに首を傾げた。
「どうしたんだい、彼女」
「さあ……」
本気で分からない顔をして、アリババは頬を掻いた。背筋を伸ばしたシンドバッドの目からも、紅玉の姿はもう捕らえられなかった。
挨拶もなしに立ち去ってしまった存在についてはひとまず隅に追いやって、彼は腕組みをしてふむと頷くと、先ほどまで紅玉がいた位置、即ちアリババの正面に腰を下ろした。
いきなり地面にしゃがんだ七海の覇王に、アリババは飛びあがった。
「し、シンドバッドさん」
「ん? なんだい?」
今や世界中に名前が知れ渡る男が、直接大地に腰を下ろすなど、あって良いわけがない。だのに当人は意に介する様子もなく、羽織った上着が汚れるのにも構おうとしない。
ひとり泡を食っているアリババを楽しそうに見詰めて、彼は紅玉が残していった下手な花輪を抓み上げた。
「なにか、敷くものを」
「いいさ。汚れれば洗えば良い。それだけのことだよ」
事も無げに言って、彼は人差し指で白い花を編んだ輪を回した。勢いに乗ったそれが宙に舞い上がり、やがて落ちた。
どうやら回転に耐えられずに、途中で解けてしまったようだ。ばらばらになった花々を見下ろして、シンドバッドは小さく舌を出した。
茶目っ気たっぷりな彼の姿に、恐縮していたアリババも顔をほころばせた。
「軍議は終わったんですか」
「いや。今は小休止といったところかな」
八人将を集めて、朝からなにやら騒々しい。物々しい雰囲気が城内に漂っているのは、アリババも肌で感じていた。
無論それには原因があり、アリババも一枚噛んでいる。攻略に挑んだ迷宮ザガンでのこと、そしてシンドリア帰還直後に起きたとある騒動でのことも。
だが彼は、この国においてはあくまでもひとりの客人でしかない。国の運営に関わる部分には、いくら望んだところで加われない。
肩を鳴らしたシンドバッドを上目遣いに見詰め、アリババは落ち着きなく手を揺らした。掴むものを探して緋色の帯を握り、残る手は地面を彷徨って先ほど踏んでしまった花輪を見つけ出した。
折角綺麗に咲いていたのに、悪い事をしてしまった。
「身体は、どうだい?」
「俺はもう、すっかり。シンドバッドさんこそ、……あの」
「言っただろう、俺は問題ないよ」
あれくらいの呪いで朽ち果てるほどヤワではない。そんな事を平然と言い放って、彼は呵々と笑った。
確かに七つの迷宮を攻略し、七体のジンを従えるこの男は、アリババなど想像にも及ばない力を持っている。体内の魔力を操作してかけられた術を解除するのも、或いは容易だろう。
真実を知る術も無い彼には、想像するよりほかに術が無い。胸の奥底に一抹の不安を抱きながら、彼は作ったばかりの花輪を解いた。
形を失った花がばらばらと、雨のように彼の膝に降り注いだ。
「君が作ったのかい?」
「え?」
「これ」
崩したものをまた拾い集めて、繋いで行く。幾つか花を足して、作るのは頭にすっぽり被せられるくらいの大きなものだ。
心は遠くを彷徨っているのに、手はすいすいと動く。話しかけられてもすぐに気付けなかった彼は、目の前に紛れ込んだ小さな花輪に目を瞬いた。
顔を上げて笑顔のシンドバッドにぽかんとしてから、ぼっと顔を赤くして急ぎ作成途中の花輪を背中に隠す。
先ほど紅玉に、男の癖にと詰られたのを思い出したのだ。アモンの金属器を手に戦う戦士であるべき自分が、いくら病み上がりの身とはいえ女みたいに花を編むなど。
馬鹿にされると思った。
だがシンドバッドは笑わなかった。
「なかなか上手に出来ているな」
「あの。それは、俺じゃなくて」
不細工な方を褒める彼に、何故か居た堪れない気持ちになった。しどろもどろの返答に一瞬虚を衝かれた顔をして、シンドバッドは花輪と、アリババの顔とを交互に見詰めた。
沈黙が非常に気まずい。膝をもぞもぞさせて俯いたアリババは、今し方作り直したばかりの花冠を恐る恐る彼に差し出した。
太めに作られた冠は、不器用な紅玉作のものとは比べ物にならないくらいに綺麗な形をしていた。流麗な曲線に目を見張り、シンドバッドは恥ずかしそうにしている少年に相好を崩した。
「アリババくんは器用なんだな」
「そんなことはないですよ」
男だ、女だなんだとは一切口にせず、ただ花冠の出来だけを褒める。賞賛の篭もった呟きに、彼は照れ臭そうに頭を掻いた。
草の汁が爪の間にも染みこんで、指先は緑色に変色していた。遅れてそれに気付いて苦笑いを浮かべた彼に、シンドバッドが手渡されたばかりの花輪を被せる。
「よく似合うよ」
「なんか、……嬉しくないかも」
あっけらかんと言われて、複雑な気分だ。アリババは苦虫を噛み潰したような顔をして、指の汚れを上着に擦り付けた。
聞こえて来た独白には敢えて突っ込まず、シンドバッドは作成途中で放棄された花たちを適当に抓み、集めていった。
考えてみればこの庭は、城の一部だ。即ちここに生える植物もまた、彼の所有物に数えられる。
「すみません。なんかいっぱい、毟っちゃって」
「なに、気にしなくていい。根さえ残っていればまた伸びてくるよ。植物とは、俺達が思う以上に逞しく、強いものだからね」
紅玉と共に集めたので、あれだけ咲いていた花は近くにはもう一輪も残っていなかった。風にそよぐ白い花弁は、遠くまで行かなければ手に入らない。
申し訳無さそうに告げたアリババに気楽なひと言を返し、シンドバッドは愛おしむように大地を撫でた。
放っておいても花は咲く。種を残し、次に命を繋ぐ。
どれだけ踏みにじられようとも、毟り取られようとも、滅びることはない。
「見習いたいものだね」
感慨深く呟いた彼に、アリババは小さく頷いた。
諦めなければ、案外世の中はどうにかなるものだ。
希望は捨てない。バルバッドも、いつか必ず煌帝国から取り返す。
アリババが撒いた種が、あの地に深く根付いて立派な大樹に成長する事を祈らずにいられない。思い返しているのだろう少年に目を眇め、シンドバッドは集めた花を編み始めた。
転がる花輪を参考にしつつ、見よう見まねで繋げていこうとするが、茎の絡ませ方が弱いのか、手を緩めると途端に繋いだものがばらけてしまった。
「なかなか難しいな、これは」
「ああ、それは」
紅玉も同じ失敗をしていた。
コツがあるのだと唸ったアリババににじり寄り、アリババは彼が零した花に手を伸ばした。三本ばかりを一度に抓んで横に寝かせ、重なった花の根元に別の一本を重ねて茎を捩じる。
よく見えないと、シンドバッドが言った。
「こう、やって」
「すまないが、こっちに来てやってみせてくれるかな」
逆向きだと分かり辛いとも言われて、アリババは疑わずに腰を浮かせた。肩を並べる形で座りなおそうとしたところ、違う、と首を振られた。
意味が分からずに眉目を顰めていたら。
「おいで」
いきなり手を取られ、引っ張られた。
「え――わあ!」
ぐいっと下から引きずられて、バランスを崩したアリババはたまらずよろめいた。踏ん張ろうとするが難しく、あえなく膝を折った彼はそのまま胡坐を掻いたシンドバッドの、あろう事か膝の上に着地した。
暖かな陽射しが燦々と降り注ぐ、城中でも比較的出入りが自由な広場の一画で、だ。
「……え」
背中にどっしりとした厚みを感じて、アリババは青くなった。両側から抱え込むように腕を回されて、気がついた時には後ろから抱き締められていた。逃げられない。じたばた足掻いてみたが、すべて無駄だった。
人通りは、ある。一塊になったふたりに、怪訝な視線が幾つも向けられた。
「シンドバッドさん!」
「騒ぐと余計に目立つよ?」
「ひぐ」
仮にももうじき十八になろうという男子が、一国の王の膝に抱かれているところなど、頼まれたって誰も見たくないだろう。今すぐ放してくれるよう頼み込むが、声を荒らげた途端に朗らかに言われてしまった。
最早黙るよりほかに道はない。息を詰まらせ、アリババは意外に居心地が良くて困る大きな椅子に寄りかかった。
背中を丸め、もじもじしながら花を弄る。
自分は確か、アラジンを探していたはずだ。助けてくれた礼を言いたいのに姿が見えなくて、心当たりをうろうろしている最中に、不注意で紅玉の摘んだ花を踏んでしまった。
当初の目的もすっかり忘れて、何故こんな羽目に陥ったのか。
訳が分からないと肩を落とし、彼はシンドバッドに見えるよう、両手を前に伸ばした。
その手を、ひと回り以上大きな掌が包み込んだ。
「っ!」
背中や肩、肘だけでなく手までもシンドバッドに重ねられて、思いがけない熱に心臓が高鳴った。
緊張に顔が強張り、瞬く間にかっかと全身が熱くなる。こうやって誰かの膝に座ること自体経験に乏しいというのに、その上こうも覆い被さられては、身動きなど取れるわけがなかった。
指は悴んで、曲げることさえ困難を極めた。
「しん、しんどばっ……」
「さあ、やってみせてくれ」
少しだけでもいい、もうちょっと離れて欲しい。だが言い切る前に彼に強請られて、アリババはくらくらする頭を揺らして唇を噛み締めた。
こんなところを知り合いに見られたら、なんと言われるか分かったものではない。ヤムライハやヒナホホたちならまだしも、シャルルカンやピスティ辺りに見付かったら、きっと明日には国中に知れ渡っているに違いない。
嫌な汗が出た。一方のシンドバッドからは、この状況を楽しんでいる雰囲気が感じられた。
完全に遊ばれている。いいように玩具にされている自分に小鼻を膨らませて、アリババは意地だけで指を操った。
花の茎を捻って巻き付けて、緩まないようにきつく縛る。だがシンドバッドの手が邪魔だ。ろくに力が入らなくて、なかなか先に進まない。
一刻も早くこの奇妙な状況から抜け出したい。鼓動は時間が経つにつれて強まり、彼に聞こえてしまいそうで怖かった。
ぎこちなく指を操り、花を編む。興味津々の視線が後ろから注がれて、非常に落ち着かない。
「アリババくんは、誰に教わったんだい?」
黙っているのも退屈なのか、シンドバッドが口を開いた。彼がなにか喋るたびに、耳朶に、項に吐息が触れる。産毛がぞわりと逆立って、アリババは奥歯を噛み締めた。
「それが、その。俺もよく覚えてなくて」
手元を見たまま、たどたどしく返す。嘘ではない。けれど一瞬、なにかが脳裏を過ぎった。
色褪せた映像に目を見張る。いつかもこうやって、誰かの膝に抱かれはしなかったか。まるで覚えていないのにそう思われてならず、彼は唇を戦慄かせた。
白い衣に、金糸の刺繍。袖から覗く己の手は小さくて、靴を履いた足は地に着かずにゆらゆら揺れていた。
器用に動く手は、大人の、恐らくは男のものだ。節くれ立った指先に、沢山の傷跡が刻まれていた。大きくて暖かくて、父親だと言った人にすら抱き上げられたことのない身にとって、気恥ずかしいと同時に、くすぐったいくらいに嬉しかった。
瞬く間に形を変える花に歓声をあげた。手を叩いて喜んだ。見上げる、黒い影。顔は覚えていない。服装からバルバッドの王城にいた頃だと想像がついた。だが、ほかはまるで思い出せない。
「なるほど、こうか」
耳元で声がした。低い、蕩けるような声色に背筋がぞわりと粟立った。
爪先が痺れる。ひっ、と息を飲んだ途端に力が緩んだ。左右に広がろうとしたアリババの手を庇い、シンドバッドが解けそうになった花を支えた。
そのままひょいひょいと茎を曲げて、次々に繋げて行く。その手つきには慣れがあった。熟練の腕前を目の前で披露されて、アリババはきょとんと目を丸くした。
さほど時間もかからないうちに、花冠がひとつ完成してしまった。
アリババが作ったものよりも若干不恰好だが、それでも紅玉作のものよりは丁寧だ。花の並びはやや雑で、隙間があったり重なっている箇所があったりと、その辺りに彼の性格が滲み出ていた。
「はい、出来た」
「どうして俺に被せるんですか」
「似合うよ」
「……それは、どうもありがとうございます」
軽やかに告げて、ひょいっと持ち上げた花冠をアリババの頭に載せる。二段重ねの冠を戴いて、アリババはなんとも言えない表情で礼を言った。
嬉しくない。だが、首の後ろ辺りが微妙にくすぐったい。嫌なのに自分から外す気になれなくて、彼は下唇を噛んだ。
このむず痒い感情をなんと呼べばいいのだろう。胸の奥はもやもやして、つい帯の上から臍の辺りを掻き毟ってしまう。
身じろぐアリババに目を細め、シンドバッドは両手を後ろに伸ばした。
仰け反った彼との間が広がって、背中から体温が遠ざかった。陽射しは暖かいのに急に寒気を覚えて、アリババは背を戦慄かせた。
震え上がった彼に眉目を顰めたシンドバッドが、直ぐに元の体勢に戻った。両側から支えるように抱えてやれば、彼は借りてきた猫のように大人しく、小さくなった。
離れろとは言われなかった。耳まで赤くなっている少年に相好を崩して、シンドバッドは顔をくしゃくしゃにして笑った。
気配が伝わったのだろう、肩越しに振り返ったアリババが彼を睨んだ。
「シンドバッドさん」
「ん?」
「うそつき」
「それは随分な物言いだな。どうしてだい?」
「知ってたんじゃないですか」
アリババが教えずとも、彼は自力で花冠を編めたのだ。
陽光を浴びて金色を強める髪に掲げられた、白と緑の冠。数日としないうちに茶色に変色し、干乾びてしまう、それは仮初の王冠だ。
アリババが帰る国はもうない。マギに選ばれたこと、それ即ち王となる運命と言われてはいるが、支配する領地を持たず、導くべき民すらない今の彼には、その呼称も冠も、虚しいだけだ。
アル・サーメンは彼を指して「アリババ王」と呼んだ。不愉快だ。王とはもっと堂々たる生き物であり、己のような卑小な存在がそんな風に呼ばれるのは、立派に勤めを果たしている存在に対して失礼というもの。
脳裏を巡るここ最近の出来事を隅に追いやって、彼はふたつの王冠を頭から外した。
膝に抱くと、そこにシンドバッドの手が重なった。
甲に触れた他者の熱にどきりとしてしまう。跳ね除けそうになったのを理性で押し留め、彼は肩で息をした。
真後ろで笑う気配がした。肩を揺らしたシンドバッドに引きずられて、アリババも上半身を揺らした。
「バレてしまったか」
「バレバレです」
この体勢は照れ臭いし、恥ずかしい。出来れば今すぐ離れて欲しい気持ちは変わらないけれど、いざその瞬間が訪れたらきっと寂しいと思ってしまうだろうことを、アリババは直感的に悟っていた。
ここは居心地がいい。油断すると何もかも投げ出して、すべてを委ねて眠ってしまいたくなるくらいに。
だがそれではいけないと、頭は理解している。分かっている。だのに自分から離れるきっかけがつかめない。
それを言い訳にして、ずるずるとこうして此処に居続けている。
「アリババくんは手厳しいな」
「シンドバッドさんがずるいだけでしょう」
「はは。本当に、手厳しい」
花冠がなくなった頭に、今度は別の重みが加わった。のしっ、と押し潰されそうになって慌てて首に力を入れる。
その正体については、問うまでも無い。これまでは背後からだったシンドバッドの声が、雨が降り注ぐように、上から降りかかってきた。
「重いんですけど」
「昔にね」
苦情は受け流された。遠くを見詰めたまま不意に語りだした彼に、合いの手を返すことも出来ない。惚けたまま聞くしかなくなったアリババは、もう少しで握り潰してしまうところだった冠に目を落とした。
昔。そう、昔だ。
似たようなことが前にもあった、ような気がする。
「こうやって、膝に載せて作り方を教えてあげたことがあってねえ」
「え?」
「懐かしくなってね」
誰のことを喋っているのか、これだけでは分からない。だがチカリと頭の奥の方で光るものがあって、アリババは軽い眩暈に首を振った。
シンドバッドは相変わらずどこかを見詰めたままからからと笑った。大きな彼の手が、花を囲むアリババの手を覆い隠した。
「ひとりで退屈そうにしていて、俺もその時、丁度暇を持て余していたからね。話しかけて、試しに作ってやったら目を輝かせて喜ぶものだから」
魔法の手だと言われた。どうやって作るのかと熱心に尋ねてくるものだから、暫く一緒にいて教えてやった。
訥々と語るシンドバッドの声が不意に遠くなった。視界に入る己の足が段々小さくなって行く。シンドバッドの手の中の指も今より太く、短くなっていった。
膝の位置が合わなくて、足はまっすぐ伸ばすしかなかった。ぶらぶら揺らしていたら、靴が片方脱げてしまったのではなかったか。
なかなか巧く作れなくて、意地になって王城の庭一面の花を引っこ抜いた気がする。その件について怒られはしなかったが、経済学の授業をひとつサボることになってしまって、その点についてはこっぴどく説教されたはずだ。
「……あれ?」
突然色褪せた映像が瞼の裏に流れ始めて、アリババは目を瞬いた。
他人の目を通じて眺めている気分になった。これまで思い出しもしなかった記憶が、成長を遂げたアリババを置き去りにして勝手に通り過ぎて行く。
覚えていない。
知らない。
だのに、魂にはしっかりと刻み付けられていて。
「可愛い子だったよ」
太陽を仰いだシンドバッドが、目尻を下げて言った。アリババは顔から火を吹く思いで俯いて、遠い世界の幻から目を逸らした。
「女の子、……ですよね?」
「どうして?」
「いや、だから」
瞬きを繰り返し、現実へ意識を引き戻す。緑に染まった爪を擦って、彼はしどろもどろに言葉を綴ろうとして、歩みを止めた。
なにが言いたかったのか、分からなくなってしまった。
否定したいのか、肯定したいのか。この非常にあやふやな記憶だって、勝手な妄想の産物かもしれない。本物かどうかも甚だ怪しいのに、声に出して良いものかの判断すらつかなかった。
目を見開いて停止した彼の頭から顎を引いて、シンドバッドは傷跡の残る小さな手を掴んだ。
花冠から引き剥がし、別の生き方ならば負わずに済んだかもしれない痕のひとつをゆっくりとなぞる。
「あの」
「訊き方が悪かったかな。訂正しよう」
同じ場所を何往復もされて、くすぐったい。居心地の悪さに足をバタつかせれば、シンドバッドは急に神妙な顔をして声を低くした。
首の後ろがぞわりと粟立つ。
彼の女好きは有名な話だ。国外に出れば現地妻が大量発生するという話も、面白おかしく脚色されつつ広まっていた。
本人もそれは重々承知していた。
だから先ほどのアリババの質問は、おかしい。
「どうして君は、――その子が女の子ではないと思ったんだい?」
花を贈られて喜ぶのは、大抵が女性だ。それがひと手間加えられた花輪ならば、尚のこと。
疑いを挟む余地はなかった。シンドバッドの女癖の悪さについては、アリババも承知している。誰しもが、シンドバッドの昔語りに登場するのは幼い少女だと想像するだろう。
だのにアリババは、違った。
危うい足場の上に立つ自分を想像して、彼は冷や汗を流した。質問に答えられない。おぼろげな記憶に確証は未だ持てず、もし違っていたらと思うと声にならなかった。
黙して首を振ったアリババの赤い首筋を見下ろして、シンドバッドは根元から引き千切られた一輪の花を拾い上げた。
「可愛くて、利発な子だった。己の運命を甘受しつつも、抗っているように見えた。ひとりで戦っていた、とても大きなものに対して。孤独に耐えて、気丈に振舞いながら、ね」
愛おしい過去を辿りながら、シンドバッドが朴訥と言葉を繋いで行く。
寝る間を惜しんで読み漁った冒険書には記されていない、初めて耳にするはずの物語。だけれどアリババは、彼が語り聞かせてくれる話の筋を最初から知っていた。
若き王が幼い子を膝に載せ、花冠を編んでいる。もっと、と強請る幼子の頼みを聞いているうちに時間は過ぎて、若き王は呼びに来た同胞からこっぴどく叱られる羽目に陥った。
去り行こうとする背中を名残惜しげに見上げる幼子がいる。琥珀の眼差しに王は朗らかに微笑み、膝を折った。目の高さを揃え、小さくも温かな手を取って誓いを立てた。
いずれ君が王となった時には、全力を尽して君を支えてみせようと。
この国で受けた恩はいつか必ず、いかなる形であっても返してみせると。
「出来るものなら攫っていってしまいたかった。しかしお互い、それが許される身でないのは分かっていたからね」
呵々と笑い、シンドバッドはアリババの左手を取った。惚けていた彼は薬指に絡みついた人肌とは異なる感触に、咄嗟に肘を引こうとした。
シンドバッドがそれを許さない。彼は素早く指を操り、細い茎を一周させて花の根元に巻き付けた。細い隙間に先を捻じ込み、簡単には外れないようきつく縛り上げる。
白い花が、子供と大人の合間を彷徨う成長途中の手を飾った。
似合わない。真っ先に脳裏に生まれた感想に、アリババははっとして首を振った。
そうではない。そういう問題ではない。
「シ……」
「結局、まあ。そうだな。攫ってきてしまったことに、なるのかもしれないが」
あの時も、そうだ。こうやって再会を契り、同じ場所に即席の指輪を貰った。つけたまま王城を歩いていたら剣術師範に見つかって、取り上げられてしまったのだけれど。
泣いて抵抗したがどうにもならず、哀しくて悔しくて、布団に包まって朝まで唇を噛み締めていたのではなかったか。
約束の証を失った自分には、あの人と再び見える資格が無いとまで考えて、そうして記憶は奥底へ封じられ、長く砂に埋もれていた。
シンドバッドの手が指輪を避けるように動く。左の指を揃って握られて、アリババはハッと息を吐いた。
飛び退こうとして果たせず、やむを得ず腰を捻って後ろを振り返る。目が合った。意味深に微笑むシンドリア王の姿に、彼は告げようとしていた言葉をまたもや紛失し、唖然と目を見開いた。
信じてはいけない、この男はともすればとんでもない大嘘つきだ。
己の足跡をそれらしく飾り立て、虚構も交えて物語として紡いできた男だ。
どこまでが真実で、どこからが妄言か。その境目は非常にあやふやで、最早境界線などあってないに等しかった。
鵜呑みには出来ない。それでも心が揺らぐのは、嘘の中に一握りの真実が紛れているのを本能的に感じ取っているからだった。
アリババは口を開いた。息を吸い、吐いて、胸の中のもやもやしたものを拭い去ろうと足掻くが巧くいかない。唇をただ戦慄かせただけの彼の耳に触れて、シンドバッドはシンドリアに来て増えたピアスを抓んだ。
その手を払い除けて、アリババはぽつりと呟いた。
「人誑し」
この人は何十回、何百回、同じような台詞を誰かに向けて吐いてきている。ぐらつく己を踏み止まらせて、背を向ける。
その返答は想定の範囲内だったのか。シンドバッドは苦笑混じりに笑って、アリババの項に額を押し当てた。
「一途だと言ってくれ」
そう呟いた彼がどんな顔をしていたか。
誰も、知らない。
2012/09/30 脱稿