融和

 そわそわと落ち着きなく、少年は周囲を見回した。
 出来るだけ遠くまで見渡せるように背伸びを繰り返し、右に、左に、時に後ろを振り向いたり、背を預けている太い柱の裏側に回り込んだりもする。背負ったリュックサックを頻りに揺すり、彼は被った帽子の鍔を軽く持ち上げた。
「……遅い」
 約束した刻限から、既に三十分近くが過ぎ去ろうとしていた。
 真後ろの柱の頂上を仰ぎ見て、けれど近すぎて見えなくて、仕方なく五歩ばかり前に出て再度頭上に目を向ける。それは時計塔で、背筋をピンと伸ばして誇らしげにそびえ立っていた。
 最上段に据え付けられた大型の時計と、自分の左手首に巻いた腕時計、果てはポケットに入れた携帯電話まで取り出して、三つの数字がどれも一分と差がないのを確かめる。これだけの時計が一度に狂う可能性は、限りなくゼロに近い。
 彼は溜息を零し、携帯電話を開いた。
 メールが基地局で滞っているのかと調べるが、未読メールは何度見てもゼロ。彼  沢田綱吉は痺れを切らし、返信が来ないメールではなく、直接、今日の約束を取り付けた相手に電話をかける事に決めた。
「まさか、忘れてるとか?」
 そんなわけが無いと思いつつも、こちらの可能性はゼロではない。苛立ちと腹立ち、そして少しの寂しさを混ぜこぜにして、綱吉は短縮に登録済みの名前を選択してボタンを押した。
 ぷ、ぷ、ぷ、とプッシュ音が耳に響く。続けて、ぷるるる、というコールが。
 けれど、どれだけ待っても応対はなく、やがて自動的に留守番電話サービスに繋がった。
「もう!」
 機械的な女性の声で、伝言の録音を促す案内が流れる。その途中で彼は叫び、通話を叩き切った。
 メールでは返事がない、電話も繋がらない。連絡が取れない。何処で何をしているのかも、さっぱり分からない。これでは綱吉は、動きようがないではないか。
「何の為の携帯だよ……」
 大きく舌打ちし、彼は帽子の上から頭を掻き毟った。
 天候は曇、足元に伸びる影はかなり薄い。気温は高すぎず、かといって寒すぎることもなく。陽射しが少ないのはちょっと残念で物足りないが、絶好の行楽日和といえた。
 彼は大時計から視線を右にずらし、横長の看板を掲げたゲートを視野いっぱいに納めた。
 その向こうではウネウネと上下左右に曲がってレールが走り、時折大勢の人を乗せたカートが物凄い勢いで駆け抜けていく。甲高い歓声と悲鳴が入り混じり、楽しげな雰囲気が伝わってきた。
 此処に到着したばかりの頃は、綱吉も心弾み、自然とスキップが出るくらい浮かれていた。気合を入れて早起きして、約束より二十分も早く着いてしまったくらいだ。
 それから、かれこれ一時間。綱吉は立ち続けるのに疲れてリュックを下ろし、大時計の足元にしゃがみ込んだ。
 親子連れ、若いカップル、学生の団体と、沢山の人が彼の前を足早に通り過ぎていった。誰もが楽しそうで、嬉しそうで、はしゃいだ顔をしている。
「来ない」
 そんな中、ひとりだけ陰鬱な空気を撒き散らし、綱吉は膝を抱えて肩を丸めた。
 ボソリと呟いて、未だ鳴らない携帯電話を敵の如く睨みつける。何度も開いて、閉じて、電話を鳴らして、メールも打つものだから、満タンだったはずの電池はいつの間にか半分にまで減っていた。
 きっとあの人の携帯電話は、自分からの着信履歴で埋まっているに違いない。想像して苦笑して、途端に哀しくなって、綱吉は唇を噛んだ。
「なんで来ないんだよ」
 楽しみにしていたのに。
 遊園地の入り口を恨めしげに見詰め、綱吉は胸を反らした。頭を後ろに倒して灰色の雲がひしめく空を見詰める。呼吸が苦しくなって姿勢を戻した彼は、中身が詰まって重い鞄をぎゅっと抱き締めた。
 奈々に頼まれた買い物で貰った商店街の抽選券、どうせ参加賞しか貰えないと思って無欲で引いたクジ。思いがけず二等が当たって、その場で景品を貰って、天にも上る気持ちになった。
 並盛からはちょっと離れた場所にある、遊園地のチケット。しかも入場料だけではなく、ジェットコースターやお化け屋敷等といったアトラクションも乗り放題のフリーパス付き。
 遊園地自体はファミリー向けの為、子供騙しじみた内容のものばかりなのだけれど、一日遊び倒すのに充分過ぎる広さを持っていた。綱吉も幼い頃、両親と一緒に何度か行った事がある。
 料金は超有名遊園地に比べれば安いが、それでも中学生の財布には少々重たい。それがタダで遊び倒せるのだから、これを使わない手は無かった。
 ペアチケットなので、一緒に行く相手はひとりしか選べない。幸いにも買い物に同行者は無かったので、綱吉が遊園地無料招待券を手にしたという事実は、彼が自ら暴露しない限り誰にも知られることはなかった。
 となれば、相手は自ずと絞られる。
 チケットの有効期限は一ヶ月弱。急がば回れとは言うけれど、綱吉は翌日早々に相手の予定を伺いに行った。これこれ、こういう次第で、タダ券を貰ったので一緒にどうか、と。
 イエス、ノーの確率は五分五分。けれど恐々問いかけた綱吉に、彼は首を縦に振った。いいよ、と言った。
 後はとんとん拍子に計画が進み、現地でこの時間に待ち合わせ、と約束は契られた。それから十日ばかりが過ぎ、いよいよ当日となって、忘れ物が無いか五度も確認して、綱吉はここにやって来た。
 だのに、彼は来ない。
 雲雀恭弥が、来ない。
「なにかあったのかな」
 不安げに呟き、綱吉は沈黙を保つ携帯電話を撫でた。
 どれだけ電話を鳴らしても、留守番電話に繋がるばかりで音沙汰が無い。念のため綱吉は自宅にも電話を掛けたが、自分宛のメッセージは何も届いていないと奈々に言われた。
 綱吉は雲雀の家の番号を知らない。応接室の番号も、分からない。草壁の連絡先は、当然ながら。
 電車が車両故障でも起こして遅れているのかとも疑ったが、携帯電話のインターネット検索では、それらしき情報は引っかからなかった。一度立ち上がって駅まで戻り、改札付近を見回してもみたけれど、雲雀の姿は影も形も見つけられなかった。
 時間が経つに連れて怒りよりも不安が、苛立ちよりも心細さが募り、綱吉は胸元を掻き毟った。もしかしたらチケットが当たったのは夢で、雲雀との約束も全部自分の妄想だったのかとさえ思ってしまう。
 鞄を探って封筒を取り出し、中に入っている券二枚の有無を確かめる。携帯電話に残るメールの文面を読んで、絶対に雲雀と、今日此処で会う約束をしたと自分を奮い立たせる。それなのに、どれだけ待っても彼は現れなかった。
 空を覆っていた雲は、少しずつ厚みを増して陽光を遮った。地面に浮かぶ影は一層薄くなり、そこに人工的な明かりに照らされた濃い影が混ざりこんだ。
 昼を回り、流石に空腹感が募った。けれど綱吉はその場から動かず、憂鬱な気持ちで人の流れを見送り続けた。
 午前中とは打って変わって、遊園地に向かう人の数は減っていた。これで夕方近くなり、割引チケットが販売される頃には、また少し増えるのだろう。
「お腹すいた」
 彼が朝からずっと同じ場所にひとりでいるのには、チケット販売員も流石に気付いていた。時々、チラチラとこちらを窺う視線を感じる。哀れみと嘲りが混ざった顔を向けられて、綱吉は泣きたい気持ちを懸命に咬み殺した。
 約束をすっぽかされた可哀想な男の子、と彼らの目には映るのだろう。実際その通りだから、反論も出来ない。
 一緒に食べようと思って、頑張って奈々と用意した弁当も、意味が無かった。どんなに堪えても零れてしまう涙を袖で拭い、彼はどんより曇り空を見上げて立ち上がった。
「帰ろう」
 十時にと交わした約束、時計の針は間もなく十五時を指し示そうとしていた。
 雲雀の携帯電話を鳴らした回数は、もう覚えていない。メールは、途中で打ち込む文面が思い浮かばなくなって止めてしまった。
 喉が非常に渇いていた、家を出てから何も口にしていないからそれも当然だろう。綱吉は重いだけのリュックを背負い直すと、目深に帽子を被って周囲から表情を隠し、駅までの道を黙々と歩いた。
 なにをしに来たのだろうか、自分は。朝はあんなにも、リボーンに呆れられるくらいにウキウキしていたのに。その時の自分を思い出すとあまりに滑稽で、恥かしくて、記憶の中から蹴り飛ばしたくなった。
 唇を噛み締めて、電車に揺られて自宅まで帰る。玄関を開けると、奈々が吃驚した顔で出迎えてくれた。
「どうしたの、ツナ。早いじゃない」
「別に」
「お夕飯、要らないんじゃなかったの?」
「うん、要らない」
 晩御飯も外で、雲雀と食べる計画だった。奈々には昨日の段階で不要の旨を伝えていたから、それを信じて、彼女は綱吉の分の食事を用意していない。
「食べに出るの?」
「ううん」
 時刻は十六時にも届いていない。食べて来たというには早すぎると勘繰り、奈々は言葉を重ねたが、綱吉は覇気の無い様子で首を振ると、靴を脱ぎ、階段を登っていった。
 朝とあまりにも違いすぎる息子の姿に、不安に駆られた奈々が尚も声を大にして問いかける。それが鬱陶しくてならず、綱吉は部屋の前で「五月蝿い!」とひと言怒鳴り、乱暴にドアを閉めた。
「なんだ、早かったな」
「うん」
 中にはリボーンが居て、レオンを肩に乗せてのんびりと寛いでいた。お陰で下ろした鞄を投げ捨て損なって、綱吉は行き場の無い苛立ちを持て余し、その場でどっかり腰を下ろした。
 鞄の口を広げて、中身を取り出す。
 帰りの荷物を減らせるようにと、弁当箱は紙製の使い捨て品だった。汁漏れしないよう透明の袋に入れたそれを右手に持って、立ち上がる。
 リボーンの視線を感じながら、彼はそれを縦にして、中身が詰まったゴミ箱に押し込んだ。
「……のっ!」
 小さく息を吐き、渾身の力を込める。
 強度の無い紙のケースは、圧力に負けてぐしゃりと歪んだ。手付かずの食べ物が溢れ出して、袋の中で混ざり合い、嫌な臭いが漏れて綱吉の鼻腔を刺激した。
 見ていたリボーンの眉間にも、浅く皺が寄った。
「ツナ」
「いいんだよ、もう」
 予定よりも大幅に早い帰宅、食べた形跡の無い弁当、そしてなによりも泣いた跡が残る綱吉の赤い顔。それらを総合して出て来た答えは胸中に留め、リボーンはそっと、溜息を零した。
 やけっぱちに叫んだ綱吉の瞳も、赤く充血していた。彼はぐしゃぐしゃに弁当を潰すとそれで少しはすっきりしたようで、次いで鞄から出て来た温いペットボトルの茶をお手玉すると、リボーンに向かって投げた。
 難なくキャッチした赤ん坊が、怪訝な顔を彼に向ける。
「やる」
 もう一本ある、と同じように投げて、綱吉は空になった鞄をベッドサイドに放った。
 左右にそれぞれ握って見比べ、リボーンは肩を竦めた。家に居る時はこんなものに頼らずとも、台所に行けば冷えた分が冷蔵庫に用意されている。けれど要らないと言えば綱吉は逆ギレを起こしかねず、今はそっとしておいてやろうと、彼はレオンに頷いて踵を返した。
 蓋を外して部屋中に茶をぶちまけなかっただけ、綱吉にはまだ幾らか理性が残っている。そのうち時間が解決してくれるだろうと楽観的に解釈して、赤ん坊はリビングに降りていった。
 パタン、と微かな音を立てて扉は閉ざされた。ひとり残された綱吉は怒らせていた肩を落とし、深く長い息を吐いて被ったまま忘れていた帽子を後ろへ弾いた。
 そのまま両腕を広げ、床に倒れこむ。フローリングの冷えた感触が心地よくて、彼は窓から差し込む西日を嫌い、目を閉じた。
 雲雀からの連絡は、未だ無い。
「どうせ、さ」
 忙しいのなら、そう言ってくれればよかったのだ。
 綱吉も、無理強いてまで彼と遊びたいとは言わない。雲雀が多忙を極める立場にある事くらい、ずっと前から分かっている。
 だからこそ今日の約束はとても嬉しくて、楽しみでならなかった。
「俺ばっかり、馬鹿みたい」
 浮かれて、調子付いて、慣れない料理にまで挑戦して、意気込んで現地に乗り込んでいって、待ち惚けを食らって。
 待てども、待てども、雲雀は来なかった。
 電車が遅れた、寝過ごした、服に迷った、道に迷った云々、候補は幾つかあったけれど、五時間も連絡ひとつ寄越さずに遅れる理由としては、どれも弱い。だから一番考えたくなかった理由が、一番可能性が高かった。
 忘れていた、或いは。
 最初から綱吉と遊園地なんて、嫌だった。
 最もあって欲しくないのに、考え至った途端そればかりが頭の中でぐるぐると輪を描き、底深い渦となって綱吉を飲み込もうと蠢いた。ジェットコースターの残響が、入り口前で捨て置かれた綱吉を嘲って笑っているように聞こえた。
 耳を塞ぎ、嗚咽を噛み殺す。背中と膝を丸めて床で小さく転がった彼は、故にドアをノックする音になかなか気付かなかった。
 奈々の声がして、返事を待たずにドアを開けて彼女が入ってくる。
「ツナ、電話よ」
「……誰」
「お名前、言ってくれないのよ」
 電話相手に対して幾らかの不信感を抱いた声で告げた彼女は、嫌なら出なくても良いと言ってくれた。リボーンから何か聞いているのだろう、寝転がったまま動こうとしない息子を案じる目は優しい。
 ただその瞳にも、どことなく憐憫が含まれているのを感じ取り、綱吉はのそりと起き上がって手を伸ばした。
 コードレス電話の子機を受け取り、保留中のそれのボタンを押す。奈々は黙って部屋を出て行った。
「もしもし」
 綱吉は子機を左耳に押し当て、パイプベッドに凭れかかった。屋外からなのか、様々な雑音が真っ先に聞こえて来た。
 覚えのある轟音が鼓膜を震わせる。
『沢田』
「っ!」
 まさか、と思った瞬間に想像した人の声が聞こえ、綱吉は反射的に上半身を前に倒した。丸めていた背中を真っ直ぐ伸ばし、唇を戦慄かせる。瞬きを忘れた目は大きく見開かれ、今彼がいる汚い部屋ではなく、もっと華やかで明るい場所を映し出した。
 咄嗟に返事が出来ず、瞠目したまま息を呑む。反応が鈍いのに不安を感じたのか、電話の主は僅かに声のボリュームをあげた。
『沢田、聞こえてる?』
「ひばり、さん」
 疑わしげに名前を呼べば、そうだ、と電話の向こうで雲雀は首肯した。しかし何故家の電話に、と綱吉はポケットから急ぎ携帯電話を取り出した。着信の形跡は無かった。
 雲雀は言葉に迷っているようで、会話が途切れて続かない。焦っているような、困っているような雰囲気が見えずとも伝わってきて、綱吉は唇を舐めて深呼吸を繰り返した。
 受話器を両手で握り締め、震える心を懸命に奮い立たせる。
「なん、で」
『沢田、……すまない』
「俺、ずっと待ってたのに!」
 けれど謝罪の言葉が聞こえた瞬間、頭の中でぷちん、と何かが切れた。
 我慢していたものが一斉に堰を破って溢れ出し、出口を求めて咽喉に突撃を開始する。
「ずっと、ずっと、ずーっと、待ってたんですよ。俺、楽しみにしてたのに、ヒバリさん、なんで来ないんですか。嫌だったなら、先にそう言ってくれればよかったんですよ。最初に、行きたく無いって、そう言ってくれてたら、そしたら俺だって、諦めついたのに。酷いですよ、ずるいですよ。ヒバリさんの馬鹿。馬鹿、馬鹿!」
 感極まって堪えていた涙が頬を伝い、彼は嗚咽を漏らしてしゃくりをあげた。大きく鼻を啜り、息を吸って、ありったけの悪口を並べ立てて電話口から雲雀を罵る。どれだけ今日を心待ちにしていたかを語り、どんな思いで遊園地の歓声を聞き、どれほどに落胆して家路に着いたのかを捲くし立てる。
 雲雀は黙って聞いていた。相槌も、反論も、下手な言い訳さえも口にしなかった。
 そうして綱吉が息を切らし、肩を上下させて涙を拭ったところで、ぽつりと言った。
『すまなかった』
 珍しく落ち込んでいると分かる声に、綱吉は奥歯を噛み締めた。
「謝るだけなら、電話なんかしてこないで!」
『沢田』
「嫌だ。聞きたくないよ、そんなの」
 膝を寄せてそこに額を擦りつけ、咽び泣いて綱吉は髪を掻き回した。
 弁解をうだうだ重ねられるよりも、すっぱり謝罪される方が幾許か心は晴れる。けれどそれでも、他に言いようがあるだろうと思ってしまうのは、我が儘なのだろうか。
 鼻をぐずらせて泣き声を噛み殺している綱吉を電話越しに想像して、雲雀は臍を噛んだ。
 約束は、守るつもりでいた。けれど大掛かりなガサ入れを行わざるを得ない状況になって、昨夜は一睡も出来なかった。このタイミングを逃せば、組織自体丸々逃してしまうことにもなりかねず、風紀委員を大勢引き連れての強行軍は夜明け直前まで続いた。
 疲れ果てて応接室に戻り、時間に間に合うようタイマーをセットして仮眠を取った。ところが目覚ましのベルが鳴る前に草壁に叩き起こされ、寝起きだった所為もあって、綱吉との約束をすっかり失念してしまった。
 昨晩取り逃がした連中を見つけたとの報を受けて、方々を飛び回り、昼を過ぎる頃になって何かを忘れている気がすると、それだけを思い出した。
 携帯電話を応接室に残したまま出て来てしまったので、それだろうと軽く考えていた。ひと段落してホッとしたところで、綱吉の顔がふっと浮かんで、それでやっと、今日が何の日か全てを思い出した。
 慌てて現地に向かっても、六時間以上経過しているのだ、待っているわけがない。
 綱吉の携帯電話番号は、メモリーとリダイヤルに頼って記憶していなかった。駆け込んだ電話ボックス、草壁に連絡をして綱吉の自宅電話番号を調べさせて、それでやっと、繋がった。
 約束を破ったのは事実なので、どんな理由であれ言い訳をするのは見苦しいし、格好悪いと思っている。簡単に許して貰えるとも考えていない。
 けれど、どう言えば彼が泣き止んでくれるのかも分からなくて、雲雀は鼠色の受話器を握りながら途方に暮れた。
 罵られ、詰られて、責められても反論できない。忘れていたのは自分の落ち度であり、綱吉を深く傷つけたのも本当だ。どんなにか厳しい言葉でも受け止める覚悟は出来ていた、反省もしている。
 だのにそれを上手に伝える言葉が思いつかない。
「沢田……」
 申し訳無さそうに応接室を訪ねて来て、恐る恐るチケットを差し出して来た時の事を思い出す。どうしたのかと聞いても返事せずに俯いているものだから、行きたいのかと聞けば真っ赤になって顔をあげた。小ぶりの鼻が興奮に膨らんで、けれど相変わらず黙っているものだから、つい笑ってしまった。
 いいよ、と言ったら彼は笑った。一瞬ぽかんとしてから、見る見る頬を紅色に染めて、嬉しそうにはにかんだ。
 雲雀はそんな彼の期待を裏切った。
『いいです、もう』
「沢田?」
 言葉に迷い、長く伸びた前髪を掻き毟って苛立たしげに足元を蹴りつける。灰色の雲が覆う空は暗く、遊園地から駅に続く道の両脇を飾る照明はオレンジ色の光を鮮やかに灯した。
 帰ろうとする人と、これから夜の遊園地を閉園ぎりぎりまで楽しもうという人で、周囲は比較的に賑わっていた。
 ジェットコースターの歓声が、この距離でも微かに耳に届く。本当ならこの中に、綱吉の笑い声も混じるはずだった。それが、実際はどうだろう。啜り泣く声を受話器越しに聞きながら、雲雀は辛酸を舐める思いで唇を噛み締めた。
『いいですよ、もう。どうせ、俺なんかより風紀委員の方が大事ですもんね。その程度なんですよね、ヒバリさんにとっての俺って。……俺だけ調子乗って、浮かれて、馬鹿みたい。なんでだろ。悔しい』
 ぐじ、と鼻を擦る音がする。口呼吸する音も聞こえる。
 綱吉が今どんな顔をしているのかが、ありありと想像出来る。
『悔しいよ。俺ばっかりヒバリさんの事好きなの、凄く悔しい』
「沢田?」
『ヒバリさんの馬鹿!』
 目一杯大声で怒鳴られて、キーン、という文字が脳天を貫いた。思わず受話器を遠ざけて、雲雀は直前に聞いた彼の独白に無意識に顔を掻き毟った。
 こんな時に非常識だと思うのだが、勝手に顔が緩む。だらしなく笑ってしまう自分がいる。冷えていた胸が温かくなって、照れ臭くて足がもぞもぞした。
「沢田」
 責められているに関わらず、嬉しくて仕方が無い。
 声が自然と弾む。気配の変化を察して、電話の向こうの綱吉が息を潜めた。
『ヒバリさん……?』
「好きだよ、沢田」
『んなっ!』
 怪訝に名前を呼んだ彼の耳元にそっと囁きかける。瞬間、裏返った悲鳴が響いて、雲雀は喉を鳴らして笑った。
 絶句している綱吉の姿を瞼の裏に思い浮かべ、彼は公衆電話に寄りかかった。百円玉硬貨を一枚追加して、薄暗い空の下に目を向ける。遊園地では色とりどりのライトが明滅して、彼を手招いていた。
 楽しげな声が響いている。雲雀は綱吉が落ち着くのをじっくり待ち、受話器を耳に押し当てた。
 さて、彼はどんな返事を聞かせてくれるだろう。少しばかりドキドキしながら、注意深く耳を欹てる。
 綱吉はそれ以上に心臓を震わせ、今し方脳に響いた雲雀の声にどうして良いか分からず困惑していた。落としそうになった子機を握り締め、次の言葉を待っている雲雀の姿を思い浮かべる。涼しい顔をして、人をからかって、掌で躍らせている男に地団太を踏む。
 悔しい。
 あんなにも哀しく、腹立たしかったのが、たったひと言で全部吹き飛んでしまった。
 好きと、言われただけで嬉しくて、むずむずして、そわそわして、胸がきゅうっとなった。
 心底悔しい。その単語には、五時間も待ち惚けしたに関わらず、予定を忘れていた彼を呆気なく許してしまいたくなるくらいの破壊力があった。
「……い」
 鼻を啜り、綱吉は奥歯を噛んだ。カチリと鳴らして、頭を抱え込む。
『沢田?』
「聞こえない!」
 雲雀は滅多に言ってくれない、なにを考えているのかさっぱり読めない。綱吉の事を本当に好きなのかどうか、分からなくなってしまう事も多かった。
 だから、一回では足りない。
 聞こえたけれど、聞こえない。
「聞こえない、もう一回言って」
 これくらいの我が儘、今日くらいは許されて良い筈だ。珍しく強気になった綱吉に、雲雀はちょっとだけきょとんとして、直後盛大に噴き出した。
『好きだよ』
「聞こえない」
『大好きだよ』
「もう一回」
『愛してる』
「っ……!」
 耳が音を拾った刹那、綱吉の全身から湯気が噴出した。しなしなと力なく崩れ落ち、フローリングに頭をぶつけてそれで我に返る。雲雀は依然喉を鳴らして笑って、綱吉を逆上せさせることばをもう一度繰り返した。
 ゆっくり、丁寧に。
 噛み砕くように、心から。
『ねえ、沢田。まだ家だよね』
「……はい」
『ここの遊園地って、何時までか分かる?』
「え、と。多分……夜の九時」
 自信なさげに呟いて、綱吉は壁時計を見上げた。雲雀も腕時計を見て、人通りが疎らになった入り口を見詰めた。
『なら、三時間はいけるね』
 並盛町から此処まで、電車も込みで移動時間はトータル四十分少々。十八時に着けば、アトラクションを全部回るのは無理でも、有名どころはひと通り攫えるだろう。
 大雑把に計算した雲雀の言葉に、自室で正座した綱吉は目を丸くした。
 改めて時計を見て、山盛りのゴミ箱にも視線を向ける。
「あの、……お弁当、無いですよ」
 ぐちゃぐちゃにしてしまった、もうあれは食べられない。
『いいよ』
「お茶も、リボーンにあげちゃった」
『こっちで買えば良いだろう?』
「チケット、破いて捨てちゃった」
『僕が払う』
 腿の上で右手をひっきりなしに動かして、綱吉はそわそわと膝で床を叩いた。身動ぎは段々大きくなって、ついには居ても経ってもいられずに立ち上がった。
 通話状態を維持したまま部屋を飛び出す。そのまま玄関の靴に爪先を突っ込みそうになって、彼は左手に握ったものを思い出して慌てた。
「母さん!」
「どうしたの、ツー君」
「やっぱり出かけてくる。晩御飯要らないし、今日は遅くなるから」
 雲雀に断り、電話を切って台所にいる母を呼ぶ。廊下に顔を出した彼女 に向かって大声で叫び、彼は長く握っていた所為で汗がこびり付いた子機を玄関の靴箱に置いた。
 ポケットに財布と携帯電話だけを入れて、靴紐を結んで外に飛び出す。
「ツナ、ちょっと」
「行って来ます!」
 開けっ放しのドアから、嵐のように駆け抜けて行った綱吉を見送り、奈々は頬に手を添えて小首を傾げた。
 同じく廊下に顔を出したリボーンは、綱吉の表情と台詞でおおよその展開を予想し、ふっと鼻白んだ。
「夫婦喧嘩は犬も食わねえしな」
 落ち着くところに収まったのだろうと笑って、風が吹き込んで寒い戸を閉めに行く。直前に見えた空は、雲の切れ間から漏れる夕焼けによって、鮮やかな朱色に染まっていた。

2009/8/1 脱稿