射貫

 こんもりと生い茂る緑の中を、薄茶色い毛玉が泳いでいた。
 否、それは人の頭だ。重力を無視して方々を向いて跳ねている、どれだけドライヤーを当てようとも、強力と唄う整髪剤を用いようとも大人しくなってくれない、強靱な足腰をした人間の頭髪だった。
 もっとも、それだけ頑固な髪型をしていながら、気まぐれに梳いてやると意外な程に柔らかく、触り心地は抜群だ。指に突き刺さるかと構えて手を伸ばすと、肩すかしを食らう。
 もう十年近くも前になる、懐かしすぎる記憶に思いを馳せて、雲雀はクク、と喉を鳴らして笑った。
「知ってますかー。思い出し笑いする人って、スケベなんですよー」
 緩く握った右手を口元にやって目を伏せていたら、思い掛けず声が飛んできた。
 なんとも失礼極まりない台詞だが、怒りもせずに受け流して肩を竦めてやる。もっと過剰な反応があるものと期待していたのか、素っ気ない態度を見せた雲雀に、声の主は面白く無さそうに頬を膨らませた。
 そんな表情をされると、二十四歳という年齢が嘘だと言いたくなってしまう。
 ただでさえ童顔で、小柄な体格をしている青年に相好を崩して、雲雀は何気ない仕草で利き手を前に伸ばした。
 白いテーブルに置かれた白い陶器のカップを抓み取り、口をつけようとして寸前で思い留まる。一瞬だけ見開かれた漆黒の瞳に、緑豊かな庭先に佇む青年は不思議そうに首を傾げた。
「ヒバリさん?」
「なんでもないよ、綱吉」
 呼び掛けると、彼はゆっくり持ち上げたばかりのカップを下ろした。
 ゆるゆる首を振る彼がカップを傾けなかったところからして、どうやら中身は既に空だったと思われる。言われてみれば彼にコーヒーを供してから、もう三十分近くが経過していた。
 とっくに飲み終えていても、なんら不自然ではない。だが空のカップに気付かなかったと、本人は言いたくないのだろう。内心恥ずかしがっているのかと想像して、綱吉はクスクス声を漏らして笑った。
「お代わり、頼みますか?」
「いや、いい」
 念の為に問い掛ければ、即座に首を横に振られた。予想していた通りだったと自分に向かって頷いて、綱吉は肩の力を抜いて深く息を吐いた。
 テーブルに頬杖をつく雲雀の横顔を暫くぼうっと眺めて、目が合いそうになったところでスッと逸らす。短く切り揃えた黒髪を揺らした青年は、真っ白い椅子の上で僅かに身じろぎ、苦笑を浮かべた。
 今が月も星も無い夜だったなら、瞬く間に闇に同化してしまえそうなスーツに身を包み、手首には厳めしい棘だらけのブレスレット。ごてごてした装飾の中心に陣取るのは、周囲の仰々しい意匠とは裏腹に、随分と可愛らしいハリネズミの彫刻だった。
 手錠をモチーフにした鎖が、動かす度にシャラシャラと乾いた音を響かせる。下手に触れると刺さりそうだと目を細め、綱吉は背中に回した両手を結び合わせた。
「それにしても、珍しいですね。ヒバリさんがこっちに顔を出すなんて」
「そう?」
「そうですよ」
 ここはイタリア、ボンゴレの本拠地。その片隅に設けられた、十代目とそのファミリー専用の屋敷だった。
 本来は九代目が暮らす城に一緒に住まうべきなのだろうが、まだ年若い彼らの為にと特別に用意された場所だ。但し目下のところ、この屋敷で生活を営んでいるのは十代目である綱吉の他には、その右腕を自称する獄寺と山本、そしてランボの三名だけだった。
 了平は日本に残り、六道骸とクローム髑髏は現在行方知れず。残る雲の守護者こと雲雀恭弥もまた、日本の並盛町を拠点に据えていた。
 呼べば飛行機で飛んでくる了平とは違って、彼はあまり国外に出たがらない。出たとしても、イタリアを忌避する傾向にあった。
 だのに今回は珍しく、誘ってもいないのに自分から足を運んできた。
「昔はもっと、俺ん家に入り浸ってたのに」
「そうだったっけ?」
 目を瞑ればつぶさに蘇る、懐かしい日々の出来事。腰を打つ手でリズムを取りながら歌うように口遊んだ彼に、雲雀は惚けたフリをして声を高くした。
「そうですよー」
「忘れたな」
「酷い」
「冗談だよ」
 間延びした声で相槌を打てば、またも素っ気なく言い放たれる。瞬時にムッとした綱吉が口を尖らせ文句を言えば、反応を面白がった雲雀が呵々と笑った。
 からかわれたのだと遅れて気付き、手玉に取られたのを拗ねて綱吉の顔が赤くなる。ハリセンボンにも負けない姿に更に声を高くして、雲雀は長く息を吐いて背凭れに寄り掛かった。
 天を仰げば、澄みわたる青空が見えた。
 空の色だけは、あの頃となにも変わっていない。そこに浮かぶ白い雲も、いつだって自由気ままで身勝手なままだ。
 特別なにか用事があって訪ねて来たわけではない。ただなんとなく顔を見たくなって、時間の都合が付いたから会いに来た。
「スケベだからね」
「え? なにか言いました?」
 昔日の記憶を、忘れるわけがない。先ほどの台詞を揶揄して呟くが、音量が小さすぎて綱吉の耳には届かなかった。
 大声で訊き返されるが、雲雀は曖昧に笑って誤魔化した。なんでもない、と顔の前で手を振って、格別意味もないまま飲み終えたカップの縁を指でなぞる。
 底にこびり付いている滓を端から目で追って行けば、相手をして貰えないのを拗ねた綱吉がふいっと顔を背けた。
 もう成人して四年が経つというのに、行動のひとつひとつが未だ幼い。ボスとしての自覚が芽生え始めていても可笑しく無い頃合いだというのに、その気配はまるで感じられなかった。
 もっとも、それも雲雀の前だからなのかもしれない。この国で職務に励んでいる最中の彼がどんな風なのか、雲雀は知る由も無かった。
 悪い噂はあまり聞かないので、一応はそれなりにしっかりとボス業に勤めているのだろう。なにをやってもダメダメのダメツナ、と呼ばれていた頃に比べれば、格段に成長したと言える。
 黄色いおしゃぶりのアルコバレーノ、リボーンが手塩にかけて育てただけの事はある。その美しく花開いたところを美味しくいただいたのが雲雀なわけで、彼には散々嫌味を言われたけれど。
 それもまた懐かしい記憶だと含み笑いを零し、雲雀はこの後どうしようかと考えて、遠くに意識を飛ばそうとした。
 帰りの飛行機のチケットは、まだ手配していない。明後日中に日本に帰り着ければそれでいいので、今夜は屋敷に泊めて貰おう。綱吉の都合がつくなら車を借りて街に出るのも悪くない。この辺りの地理には疎いけれど、地面を掘れば遺跡に行き当たるような国だ、近くをぶらぶらするだけでも時間は潰せる。
 行き当たりばったりの適当なスケジュールを思い描き、肝心の綱吉の予定を聞いていなかったと思い出す。薔薇の香りがする風を右の頬で受け止めて、彼は背筋を伸ばし、美しく整えられた庭園に目を向けた。
「綱吉?」
 ついさっきまでそこに居た人間が、どこにも見当たらなかった。
 名前を呼んでみるが返事は無く、座ったまま視線を巡らせてもあの特徴的な頭は見付からない。
「あの子は」
 昔からふらふらと動き回って落ち着きのない子供だったが、それは十年経っても直っていないらしい。
 目に入る範囲に居てもらわないと、気になって仕方が無い。まさか自らの生活圏内で迷子になることは無かろうが、綱吉に限ってそうとは言い切れなかった。
 中学一年生の時だったか、学校内で目的地に到達出来ず、途方に暮れている彼を保護した事がある。どうやったら迷えるのか、逆に聞きたいくらいだ。
「しかたない」
 放っておけばそのうち戻って来るのは分かっているけれど、待つ時間が惜しかった。一瞬の逡巡を挟み、雲雀は椅子を引いて立ち上がった。
 テーブルに突き立てた手を伝い、震動が茶器にまで伝わった。ふたつ並んだカップはどちらも空で、綱吉が使っていた方の底に残る飲み滓は乾いていた。
 久方ぶりの逢瀬だというのに、どこかに雲隠れしてしまった恋人を探して雲雀が静かに歩き出す。オープンテラスの段差を下り、踏み付けた芝はふかふかだった。
 庭師が丁寧に手入れしているのだろう。此処に来る途中でも、麦わら帽子を被った老人がせっせと枝を切っていた。
 後から教えられた話、それは九代目の守護者のひとりだったらしいのだが、生憎と雲雀は最後まで気付かなかった。雲の守護者は大空以外眼中にない、という風な言われ方をしていると知った時には、恥ずかしいやら腹立たしいやらで、押し黙るしかなかったのが悔しい。
 ともあれそんな裏事情など露知らず、雲雀は腰ほどの高さに刈り揃えられた生垣に意識を傾けた。
 長方形の枡形をした生垣内部に、薔薇の木が植えられている。それが不規則な配置で奥に続いており、生垣の間に走る通路はちょっとした迷路と化していた。
 近い場所はよく見えるけれど、離れるに従って緑が邪魔をして視界を遮られてしまう。手を伸ばせば届きそうな場所が、歩いて到達しようと思えばとても遠い。
 薔薇の花は取り囲んでいる生垣によって色や種類が少しずつ異なっていて、眺めながら散策するのは楽しそうだ。だが困った事に、雲雀には景色に心を奪われている余裕は残されていなかった。
「まったく、手間の掛かる」
 綱吉はもう一人前の大人として独り立ちしている。だが雲雀の中の彼は依然幼く、泣き虫の弱虫で臆病者の、守ってやらなければならない存在だった。
 誰かに頼らなければ立っていられないような子供は卒業して、立派にボンゴレ十代目として日々を過ごしているのは知っているけれど、離れて生活している所為でその姿を目の当たりにする機会は少ない。お陰で雲雀が抱く沢田綱吉像は、いつまで経っても成長しなかった。
 もっとも雲雀本人も、この想いが独り善がりの我が儘である事くらい、とっくに承知しているのだけれど。
 巧く発散できない感情を抱えたまま、緑の芝に覆われた大地に足跡を刻んでいく。踏み付けられた草は、けれど意外に頑丈で、彼の体重くらいなら余裕だと風に向かって雄叫びを上げた。
 毒々しいくらいの赤い薔薇に招かれて、思った以上に本格的な迷路に足を踏み込む。鼻をヒクつかせて匂いを嗅ぐが、濃密すぎる花の香りに誤魔化されて、綱吉の行方を辿るのは難しかった。
 雲雀の脳裏に、山本が連れている犬の姿が思い浮かんだ。
「ロールじゃ、無理だね」
 ハリネズミもそれなりに嗅覚が鋭いけれど、あの短い脚では移動に時間が掛かりすぎる。結局自分の力と勘に頼るしかないと肩を竦め、彼は手首に巻き付けているボンゴレギアを軽く撫でた。
 呼び出しても良いのだけれど、その手間分の時間が勿体ない。揺れ動く天秤を遠くへ放り投げて、雲雀は神経を研ぎ澄ませた。
 周囲を注意深く探りながら、大人ふたりすれ違うのもやっとの幅しかない道を行く。途中頭上に影が落ちて、顔を上げたがそれらしきものは見当たらなかった。
 上空を鳥が駆け抜けていったのか。ここは都心部を遠く離れた山の中なので、猛禽類も探せば多数生息していよう。
「流石に、熊はいないだろうけど」
 そういえば綱吉は、動物園が嫌いだった。詳しくは聞いていないが、学生時代にトラウマになる出来事を経験したとかで。
 その割にライオンは平気なのだからおかしなものだと笑って、雲雀は一瞬視界を過ぎった蜂蜜色に目を見張った。
「つなよし!」
「あっ」
 いた。
 視神経が映像を脳に届けるより早く、反射的に叫んでいた。
 認識した瞬間に声を発した彼に驚き、薔薇の木の向こう側にいた青年が短い悲鳴をあげた。胸の辺りにあった右手が弾かれたように後方に退くのが見えて、雲雀の右の眉がピクリと跳ね上がる。
 直線距離ではたった一メートル強しか離れていないのに、この面倒臭い迷路の所為で駆け寄れない。見えているのに届かない状況に歯軋りして、雲雀は苛立たしげに垣根の根元を蹴り飛ばした。
 爪先に押し出された分だけ穴が空いて、あまりの手応えの無さに彼の表情は一層険しくなった。見える範囲の動きで雲雀が何をしたのかを察して、向かい側の綱吉は困った顔で肩を竦めた。
「そっち、回れば近いですよ」
「……」
 想いをあまり多く口にしない彼の為に最短経路を示し、はにかむ。
 右手は未だ背中に隠されたままだ。あくまで見せようとしない綱吉に臍を噛み、雲雀は教えられたコースを頭の中に諳んじて歩き出した。
 道に迷ったのは、どうやら自分の方だったらしい。まさか綱吉に誘導される日が来るなど、夢にも思わなかった。
「なんでこんな形にしたの」
「俺が作ったんじゃないんで」
 数分とかからず目的地に到達した青年に文句を言われて、庭の手入れが趣味な老人を思い返しながら綱吉が苦笑する。自分も最初はかなり迷ったのだと告げれば、雲雀は当然だと言わんばかりに頷いて、やおら無防備な右手を攫った。
 肘の近くを掴んで引っ張られて、つんのめった綱吉が慌てて左足でブレーキを掛けた。前に傾いだ身体を後ろに戻し、陽の光に晒された自分の右人差し指に目尻を下げる。
 食い入るように見つめられて、さすがに照れ臭い。抗議の意味を込めて肩を揺らせば、ハッとした雲雀が気まずげな顔をした。
「血が出てる」
「たいした事ないですよ」
 後ろを向けば、綱吉が触れようとしていた薔薇の木があった。
 そこに咲くのは人の血で染め上げたかのような鮮やかな紅色をした、厚みのある花弁が幾重にも折り重なり合った花だった。
 広げた掌よりも大きいかもしれない。美しい。だがどこか儚げで、寂しげだった。
 彼が何故この花を選んだのかは、分からない。色に惹かれたのだとしても、鋏もなしに手折ろうとするのは無茶な話だ。現にこうして、傷を負わされてしまった。
 白い指先に滲む赤に目を眇め、雲雀は不機嫌を隠しもせず口を尖らせた。
 睨まれて、琥珀の瞳が宙を泳ぐ。音を紡ぐべく開かれた唇は、結局なにも告げずに閉ざされた。
「馬鹿じゃない」
「知ってるでしょ」
 黙り込んだ彼に嘆息し、雲雀が吐き捨てる。上目遣いに様子を窺いながら、綱吉は小さく舌を出した。
 手首に移動した雲雀の手が、なにを思ってか掌を擽った。指の付け根に親指を擦りつけられて、曲げていたものを伸ばさざるを得なくなる。ほんの僅かに痛む人差し指に眉を寄せ、綱吉は傷口から新たに滲んだ赤色に上唇を噛んだ。
「ヒバリさんに似合うと思ったんですよ」
 威風堂々として胸を張って花を咲かせている姿に、迷いもせず真っ直ぐ歩いて行く背中が重なった。花弁の先が下方に反り返り、中央部分が尖って切っ先の如き鋭さを披露しているところもまた、迂闊に触れれば怪我をする雲雀の存在とダブった。
 そして案の定、手折ろうとして逆襲を食らった。
 この花が彼の胸元を飾ったら、どんな風になるか。想像して、実際に見てみたくて、ダメだと思いつつも手を伸ばさずにいられなかった。
 悪戯を見抜かれた子供の顔で首を竦めた青年にかぶりを振って、雲雀は掴んだままの彼の手を引き寄せた。
「ヒバリさんっ」
「ン」
 裂けた皮膚にそうっと熱い息を吹きかけ、隙間から覗かせた舌を伸ばしてちろり、舐める。
 滲み出ていた赤い液体を、乾き始めていた分まで丸ごと攫っていかれて、傷口を剔った痛みに綱吉は奥歯を噛み締めた。
 ズキン、と来た。ゼロコンマ五秒遅れで、膝が震えた。
 甲高い悲鳴は噎せ返る程の薔薇の匂いに溶けて、欠片すら残らない。綱吉が流した血液をたっぷりの唾液と入れ替えて、雲雀は濡れた指先に満足げに頷いた。
 棘が刺さった時よりもずっとズキズキする痛みに襲われて、綱吉の顔は自然険しくなった。よく舐めたら治ると言うが、今の彼からは治してやろうという気持ちが感じられなかった。
 却って痛めつけられて、面白く無い。指先を起点に全身を駆け抜ける微熱に喘ぎながら、綱吉はすぐに乾きそうにない指先を上下に振り回した。
 スーツに擦りつけるのは憚られた。ハンカチの一枚でも持っていればよかったのだが、こんな時に限ってポケットは空っぽだ。
 嫌がらせとしか思えない行為に憤りを露わにするが、雲雀は何処吹く風と受け流して涼しい顔だ。腹が立つ程に綺麗で不遜な微笑みで返されて、綱吉は下膨れた表情で地面を蹴った。
「消毒、にしちゃ随分」
「まさか、そんな訳ないよ」
「……?」
 嫌味のひとつでも言ってやらねば気が済まなくて、口を開けば途中で遮られた。
 中断を余儀なくされて、綱吉が怪訝に眉を顰める。小首を傾げた彼を笑って、雲雀は緋濡れた唇を右から左に舐めた。
「君は僕のモノだから。君が流す血も全部、ね」
 ゾッとする微笑みと共に告げられて、一瞬理解出来なかった綱吉は二秒後にぼふん、と頭を爆発させた。
「ばっ、……な、何言ってんですか!」
 咄嗟に腕を引き、長く囚われ続けていた利き手を取り返して叫ぶ。けれど雲雀は余裕綽々とした態度を崩さず、赤くなる綱吉を鼻で笑い飛ばした。
 額の真ん中を小突かれ、脳味噌まで揺れた。頭を前後にぐらぐらさせて、綱吉は勝手に高まる鼓動と体温に悔しそうな顔をした。
 初心な中学生みたいな反応に気をよくして、雲雀が右足を軸に身体を半回転させた。背中を向けられて、距離は変わらないのに急に遠くなった気分にさせられて、綱吉はなんとも言えない寂しさを覚えて右手を握り締めた。
「ここは嫌いだな」
「ヒバリさん?」
「すぐに君を、見失う」
「ヒバリさんは頭良いから、すぐに覚えますよ」
「そうじゃない」
「……?」
 迷路のように出来ているけれど、所詮は庭園の域を出ない。一度覚えてしまえば、二度と迷う事もなかろう。
 努めて明るく言ってのけた綱吉に、けれど彼は首を振った。短いひと言で否定して、いぶかしむ恋人を真っ直ぐ見つめたかと思えば、不意に逸らして小さく舌打ちする。
 苛立ちを堪えている横顔に小首を傾げ、綱吉は雲雀の黒髪に手を伸ばした。
 癖のない髪質は、昔のままだ。指に引っかかりもせず、するりと逃げていってしまう。
 追い掛けても、追いつけない。捕まえられない。いつだって寸前で逃げられて、こちらは途方に暮れるばかり。
「平気だと思ってたんだけどね」
「ヒバリさん」
 掴むものを失って沈むばかりの手を握られた。掌を重ね、指を互い違いに絡めて力を込められる。
 骨が軋む。だがそれよりも、彼に抉られた指先の傷の方がずっと痛かった。
 もう大人だから、我慢出来る。離れていても耐えられる。そう自分に言い聞かせてきたけれど、どう足掻いたところで胸にぽっかり空いた穴を埋めることは出来なかった。
 長く抱えたままでいた空虚さは、肌を触れあわせた瞬間から音もなく溶けて行く。
 引き寄せられ、抱き締められて、抗うのも忘れて綱吉は苦笑を漏らした。
「ヒバリさん、子供みたい」
 笑って言えば、背中を抓られた。肉の薄い部分を狙った攻撃に身を強張らせ、彼は数秒置いて力を抜き、雲雀にしなだれ掛かった。
 ボンゴレの後継者としてイタリアで暮らすという、一応の義理立ては果たした。ボスとしての権限も、大部分は九代目から継承済みだ。
 頃合いかもしれない。時期としては悪くない。
 頭の片隅でぼんやり考えていた計画が、雲雀の訪問を受けて一気に現実味を増した。鉄は熱いうちに打てとも言う。なにより最強の守護者が一緒なのだ、これほど心強いものはない。
「連れて帰るよ」
「良いんですか?」
「嫌なの?」
「……まさか」
 きっぱり断言されて、念の為に確認すれば、揚げ足を取られた。
 こういうところは、相変わらず意地悪だ。拗ねた顔をして言い返せば、額に額をぶつけられた。
 ゴツンと来るその衝撃さえ、今は心地良かった。
 思わず噴き出した綱吉の視界に、紅を帯びた赤色の薔薇が紛れ込む。手折ろうとして失敗した花は、何故か偉そうにふんぞり返り、得意げな顔をして咲いていた。
「必要無かったな」
「なに?」
「いいえ、なーんでも」
 ああだこうだと色々理由をつけてはみたけれど、何故この色の薔薇に手を伸ばしたか。
 雲雀に贈ろうと思ったか。
 花に想いを託すまでもなかったと苦笑して、綱吉は待ち侘びていたことばに頬を緩めた。

2012/05/16 脱稿