睡夢

 例えるなら、全身の力を抜いて水底から浮き上がる感覚。
 ふわりと目に見えない何かに背中を支えられながらゆっくりと上を目指し、やがて水面を突き抜けて明るい場所へと飛び出す。目覚めの瞬間を言葉で表すとしたら、大体そんな感じになるのではなかろうか。
 おおよそどうでもいい、他人に共感が得られるかどうかも不明なことをぼんやりと頭の片隅で考えながら、沢田綱吉はまだぼやけている視界をクリアにしようと瞬きを繰り返した。両手で顔を何度も擦り、大きく欠伸をして背筋を伸ばす。
 不自然な体勢で眠っていたのを咎めるように、体の芯を支える骨が鳴った。斜めに傾いでいた身体をまっすぐにしてソファに座り直し、右の頬を軽く叩く。肌に刺さった微かな痛みに顔を顰め、彼はようやくはっきり見え始めた世界に長い息を吐いた。
「寝てた……」
「おはよう」
 いったいいつの間に、と未だ本格稼動を見ない脳に刺激を送りつつ呟けば、左側から低いけれど伸びのある声が響いた。若干前のめり気味に座っていた綱吉はそれでハッと我に返り、丸まりつつあった背中をすくっと立てた。
 だらしなく開いていた膝も閉じて、そこに両手を、緩く握った状態で据える。随分と行儀良く姿勢を正してから振り返った彼に、声の主は楽しそうに笑った。
「まだ寝ててもいいよ」
「あの、えっと。いえ、さすがにちょっと……」
 からからと喉を鳴らしながら言われて、羞恥に顔を赤くしながら綱吉は口をもごもごさせた。尻すぼみに小さくなっていく声量に目尻を下げて、半袖に緋色の腕章をはめた青年は右手に握ったボールペンを揺らした。
 彼の前方には幅広の机が置かれ、背後には窓。カーテンが引かれてはいるものの、外の明るい日差しは完全に遮りきれていなかった。
 まだ日は暮れきっていないらしい。眠っていた間に通り過ぎた時間を気にして視線を泳がせた綱吉は、雲雀が先ほどからペンの尻で顎を頻りに叩いているのに気づいて首を傾げた。
 男子中学生といえば、成長期の真っ最中。さらには第二次性徴も始まる年頃だ。綱吉のクラスにも、早くも髭が生え始めている男子が居る。だがそこにいる黒髪の青年には、そんな兆候は見られなかった。
 何か意味があるのかと眉目を顰めていたら、彼は察しの悪い綱吉に噴き出した。
「よだれ」
「えっ!」
 ペンではなく指で己の下唇を指し示し、手短に必要な情報だけを口にする。たった三文字の単語が何を意味しているかまでは、聞く必要はなかった。
 驚いて伸び上がり、綱吉は両手で口元を覆い隠した。
 指で触れれば確かに少しざらついている。既に乾いている感触に苦虫を噛み潰したような顔をして、彼は赤くなるまで同じ場所を擦り続けた。
 幸いにもズボンは湿っていなかったが、シャツには濡れた跡が見受けられた。そちらはまだ乾ききっておらず、触れるとちょっとひんやりする。中の空気を押し潰して皺を伸ばし、彼は一気に押し寄せてきた疲労感に天を仰いだ。
 後ろに重心を傾ければ、クッションも十分なソファが出迎えてくれた。
「楽しい夢でも見れた?」
「まさか俺、他にもなにかやらかしましたか」
「さあ、どうだろう」
 脱力して、全体重を預ける。革張りの背凭れに身を委ねて両手で顔を覆うが、耳だけは隠しきれなかった。
 執務机に座る青年に問われ、嫌な予感を覚えて背中に冷たい汗を流す。曖昧な言葉ではぐらかされたが、彼がこんな態度を取る時は大抵の場合、綱吉の憶測は正しかった。
 応接室で寝こけ、あまつさえ涎を垂らしただけでも十分恥ずかしいのに、それ以上のなにかをしでかしたのだとしたら、もう彼の顔をまともに見られない。
 瞼を閉ざすだけでは飽き足らず、両の指も使って視界を闇に染めて、綱吉は四肢の力を抜いてソファへ倒れこんだ。
 傾いだ身体を戻すことなく横に寝かせ、膝を丸めて小さくなる。靴を履いた足だけは空中に留まらせて、不出来な芋虫と化す。
 首の裏まで赤くしている彼にそっと嘆息し、並盛中学校の応接室の主たる青年は頬杖を崩して肩を竦めた。
 風紀委員長、雲雀恭弥。
 この学校に通う生徒ならば全員が知っている、といっても過言ではない人物だ。その性格は凶暴、凶悪の一言に尽き、人が数人集まっているだけでも群れているといって咬み殺そうとする。愛用の武器はトンファーで、勢い良く振り下ろされる凶器の痛みは半端なものではない。
 一応は学校の一委員会の長でしかないのだけれど、その権力は学生の域を軽く突破していた。大人であろうとも容赦せず、校長もまったく歯が立たない。彼の命令は絶対であり、彼に逆らうことは並盛中学校での平穏な日々を失うことに他ならなかった。
 もっとも、好き好んで雲雀に絡みに行っている人間もゼロではない。綱吉然り、その友人である山本たちだってそうだ。
 独裁政権を敷く風紀委員長だけれど、人望がまったくないわけでもなかった。彼の強さは誰もが知るところであり、万が一並盛町が危険に晒されたとしても、雲雀が居ればなんとかしてくれるという妙な安心感。そういった空気が、目に映らない場所に漂っているのは間違いなかった。
 そんな、横暴を絵に描いたような暴君を前に膝を寄せて丸くなって、寝床とするには少々狭いソファの上で綱吉はごろごろと左右に転がった。
 落ちないよう注意しつつ身悶えて、飽きたところで顔を上げる。変な風に癖が付いた髪の毛を掻き回した彼に、雲雀はもうひとつ嘆息して目を眇めた。
「どんな夢だったの?」
「それは……その。えーっと」
 質問されて、綱吉は言葉を濁らせた。大粒の瞳を上に流して誤魔化そうとするけれども、知恵が回らないお陰でちょうど良い言い訳はひとつも思いつかなかった。
 泳ぐ目にあわせて首もぐらぐら揺らして、気分が悪くなったのか、最後に彼はこてん、とソファに凭れ掛かった。
 頭の傍に右手を置いて爪を立て、背凭れとの間に挟まれている左腕はだらりと垂らす。下敷きになっている左足が痺れる前に姿勢をまっすぐに作り変えて、彼はソファの上で身体を一回転させた。
 不思議な動きを見せた綱吉に、雲雀は興味深そうな顔をして無言で頷いた。両肘を立てて頬杖をつき、重ねた手の上に顎を置いて猫背になる。
「沢田?」
「なんていう、か。……美味しいもの、食べてた気がします」
 夢の内容など、ほとんど覚えていない。だから仔細を聞かれても困るのだが、辛うじてそれくらいならば記憶の端に引っかかって残っていた。
 好物が沢山出てきた。夢だからかどれだけ食べても満腹にならないので、それこそ片っ端に口の中に詰め込んでいたような気がする。あれもこれも、と欲望が赴くままに手を伸ばし、むしゃむしゃ貪り食っていた。
 なんとも食い意地の張った夢だろう。声に出すと余計にみっともなく感じられて、綱吉は言うと同時にそっぽを向き、雲雀に背中を向けた。
 居たたまれない気持ちを噛み殺しつつ身を捩っていたら、頬杖を解いた雲雀が両手を叩き合わせた。
「ああ、それで」
「ヒバリさん?」
「いや。寝てる時に、変な笑い方してたから」
「…………ウソ」
「本当」
 部屋中に響いた乾いた音にびくりとして、綱吉は首を伸ばした。腰を捻って振り返り、冗談だろうと笑い飛ばそうとして失敗する。
 期待していたのと真逆の返答を貰って、彼は琥珀色の瞳を限界まで見開かせた。
「うそ」
 それだけを辛うじて呟き、絶句する。呆然としている彼に苦笑を漏らし、雲雀は十数分前の出来事を思い返して肩を揺らした。
 舟を漕いでいるのには気づいていた。いつ横倒しになるかとひやひやしながら見守っていたら、急に薄気味悪いくらい甲高い声がどこからともなく聞こえ始めて驚愕した。
 最初、その声が綱吉の発しているものだと気づけなかった。季節柄、幽霊の類でも出たかと一瞬疑って、すぐにそんなわけがないと思い直す。
 そうしてよくよく探ってみれば、ソファでだらしなく寝こけている少年が小刻みに震えていた。
「君、あんな声も出せるんだね」
「ど、どんな……ですか」
 それなりに長い付き合いになるが、あんな高音が出せるとは知らなかった。妙なところで感心している雲雀に唖然として、綱吉は生温い唾を飲んだ。
 興味があるけれど、聞くのが怖い。知らない方が良かったと後から悔やみそうだが、目の前の好奇心には抗えなかった。
 喉を鳴らして問うた彼に、雲雀は底意地の悪い笑みを浮かべた。にやり、という擬音がぴったり来る表情をして、右の口角を僅かに持ち上げて目を眇める。
 ぞわっとする悪寒に襲われて、綱吉は早々に聞くのではなかったと後悔した。
「そりゃ、なんていうかね。……例えるなら、そう。うひゃひゃ、ひゃ?」
「ぶっ」
 黒い瞳を宙に浮かせ、語彙を探す雲雀が不意に綱吉を見た。至極真面目な顔をして碌でもないオノマトペを口にされて、あまりのギャップに反射的に噴き出してしまう。
 だが一瞬後には、彼の発した言葉がもともとは自分の口から飛び出したものだと思い出して、大仰に身を震わせて凍りついた。
 声に出しながら首を傾げた雲雀が、硬直している綱吉に肩を竦めた。二度ほど瞬きをしてからちょっと違ったかもしれないと呟き、最も近い発音を探してぶつぶつ言い始める。
 漆黒の瞳は真剣そのもので、彼が口を開くたびに綱吉はビクッとなり、ソファの上で座ったまま身悶えた。
 出来るものなら今すぐ穴を掘り、その中に隠れてしまいたい。もっとも足元は土ではなくコンクリート製の床なので、実際やるとすればドアから外へ飛び出すことなのだけれど。
 だらだら止まらない汗を首筋に垂らして、綱吉は頬を引き攣らせて雲雀を盗み見た。
 彼はずっと綱吉だけを見ていたようで、顔を上げた直後、ばちっと火花が飛び散った気がした。
「う……」
「嘘じゃないからね、念のため」
 大袈裟に身じろいだ彼の反論を先に封じ込め、不遜に笑った男が胸を張る。椅子の上でどっしり構えている青年に唖然として、綱吉は数秒遅れで肩を落とした。
 寝ながらそんな甲高い声で笑っていたのだとしたら、滑稽を通り越して不気味だ。いや、どちらかといえば怖い。昼寝中のランボが突然大声で寝言を言うのに遭遇したことがあるが、雲雀の口ぶりからしてあれより酷かったと思っても良かろう。
 物凄く驚かせてしまったに違いない。そして綱吉は今、猛烈に恥ずかしくて仕方がなかった。
 何故寝ている最中に変な笑い声を立ててしまったのか。いや、そもそも応接室で寝こけるのがいけないのだ。このソファはあまりにもクッションが良すぎて、座り心地が抜群だから困る。
 どこに感情の落としどころを持っていけば良いのか分からなくて、綱吉は心の中でべそをかいた。鼻を愚図らせて眉間に皺を寄せ、両手で顔を覆って足をじたばたさせる。
 もだもだしている彼に苦笑して、雲雀は全体重を椅子の背凭れに預けた。
 もれなく体は斜めに傾いて、視線は自然と高くなった。視界の中心から綱吉が外れて、薄汚れている天井の角が目に飛び込んでくる。
「そう。美味しいもの、ね」
「あの、ほんと、なんていうか、……すみません」
「どうして謝るの?」
 仕事の邪魔をしてしまったのではないかと思うと、申し訳ない気分でいっぱいだった。尻すぼみに小さくなる声で頭も下げた綱吉に、しかし雲雀は意外そうに目を丸くした。
 浮かせていた踵を床に下ろし、姿勢を正して椅子に座り直す。背筋を伸ばした彼は凛として、とても同年代には見えなかった。
 年齢詐称を疑うが、それは今はどうでもいいことだ。降って沸いた疑問を遠くへ吹き飛ばして、綱吉はじっと見つめてくる眼差しから顔を背けた。
 両手は膝に揃えて畏まり、言葉を捜して琥珀の瞳を上下させる。
「だって、ヒバリさんのお仕事の、邪魔……だったでしょう?」
 彼は泣く子も黙る風紀委員長で、その手を煩わせることは即ち並盛中学校での平穏な生活を手放すということだ。諸々の事情により彼と心通じ合う関係に落ち着いた綱吉でも、未だに毎日が緊張の連続だった。
 機嫌を損ねたら何をされるか分からない。なるべく怒らせないように気を配って今日まで来たが、さすがに眠っている最中までは意識を尖らせておくのは無理だ。
 失敗した。悔やんでも悔やみきれない失態と羞恥に、いっそ窓から飛び降りてしまおうかと考えてしまう。だが自らを追い詰める綱吉など露知らず、雲雀はあっけらかんと言い放った。
「別に?」
 語尾を持ち上げ気味にあっさり言い切られ、背中を丸めて俯いていた綱吉は瞬時に顔を上げた。ぽかんと間抜けに口を開き、雲雀を呆然と見つめる。
 その表情がよほど面白かったのだろう、彼は堪えずに噴き出した。
「なかなか興味深かったよ。あんな風に笑う君は初めてだったから、新鮮だったね」
 右手で腹を抱えながら比較的大きめの声で告げられて、最初は唖然としていた綱吉も次第に顔を赤く染めていった。脳が言葉を理解するに従って羞恥心が膨らんで、今にも破裂してしまいそうだった。
「や、やあ、ぁ……忘れてください!」
 足を交互にばたつかせ、声の限り叫ぶ。握り拳を作って伸び上がった彼に、雲雀はぱたりと笑い止んだ。
 口元にやっていた手を下ろして深呼吸し、肩で息をしている綱吉にすっと目を眇める。琥珀色の瞳には涙が滲み、潤んで艶を帯びていた。
 本人にその意図はないとしても、なんとも婀娜な輝きだった。男に媚びて誘っていると言われても仕方がない眼差しに喉を上下させ、彼は髭のない顎を撫でて小さく頷いた。
 黙り込んだ雲雀に、一方の綱吉は生唾を飲んで唇を舐めた。腕を膝に下ろしてズボンを握り、不安げな顔をして何度も目の前の青年を盗み見る。
 勢いあまって怒鳴りつけてしまったのを、早々に後悔している様子だ。雲雀が機嫌を損ねたかどうかを探ろうとして、けれど正面切って顔を見るのが憚られて、上目遣いにちらちらと人を窺っている。
 その幼稚園児のような落ち着きを欠いた態度に、雲雀は深く長いため息を零した。
「忘れる、ねえ」
「あ、えっと。あの」
 生意気にも命令してしまったと気づき、なんとか言い訳して取り繕うとするが言葉が出てこない。しどろもどろになって視線を泳がせた綱吉を眺め、雲雀は右肘を立てた。
 上半身を少し傾がせて頬杖をつき、思案顔をして薄い唇をひと舐めする。そのなんとも艶っぽい仕草に背筋が粟立ち、綱吉は一瞬で鳥肌立った腕ごと身体を抱きしめた。
 息苦しさを覚えて口から息を吐き、舌も使って酸素をかき集めようとするけれども上手くいかない。圧迫感に苛まれて喘いでいたら、並盛中の暴君がにっこり無邪気に微笑んだ。
「どうせなら、その夢、正夢にしてみる?」
 滅多に見る機会も無い笑顔と共に問いかけられて、意味が理解できなかった綱吉はきょとんとなった。
 大きな目を丸くして、首を左側にコテンと倒す。頭の上には大小さまざまなクエスチョンマークが乱立して、楽しそうに踊っていた。
「はい?」
 さっきから察しの悪い少年に、苦笑を禁じえない。素っ頓狂な声を上げられて、雲雀は姿勢を正して椅子に寄りかかった。
 右を上にして脚を組み、その膝に両手を重ねて相好を崩す。
「だから、君が言ってた美味しいものを沢山食べるっていう夢。なんだったら、叶えてあげてもいいよ」
「……え」
「どう?」
「え、え…………えー!?」
「うるさい」
「すっ、すみませんっ」
 なにかを企んでいると分かる笑みと共に告げられて、ぽかんとしていた綱吉は途端に我に返って大声を張り上げた。信じ難いという顔をしてソファから跳び上がり、そのまま二本の足で立って雲雀を見つめる。
 叱られて小さくなりはしても、胸の前で組まれた手はなにかを期待してもぞもぞとひっきりなしに動いていた。
 本当に、小学生のようだ。もう十四歳というのが嘘のような少年に目尻を下げて、雲雀は興奮に頬を赤くしている綱吉を手招いた。
 彼の気が変わる前に、と綱吉は小走りに部屋を駆けた。そうして大きな執務机を回り込んで窓際に立ってから、雲雀はおもむろに口を開いた。
「ただし」
「うっ」
 簡単に逃げられない場所に引き寄せてから、願いを叶える為の条件を告げる。前にもやられた手口だというのに、綱吉は猛反省もすっかり忘れていた。
 非常にゆっくり音を並べていった雲雀に、彼は息を詰まらせた。上半身を仰け反らせて後退を図るが、すかさず伸びてきた長い指に手首を絡め取られて果たせない。
 たいして力を込めているようには見えないのにびくともしなくて、綱吉は苦虫を噛み潰したような顔をして雲雀を睨んだ。
「ヒバリ、さん」
「そんな不安そうな顔をしなくてもいいよ。前みたいなことは言わないからさ」
 綱吉のお願いを聞いてやる代わりに本気で戦えと、トンファーを手に詰め寄ったのはいつのことだったか。
 そう古い話ではないが最近でもない話を持ち出した彼に、綱吉はサーっと顔色を青くした。
 あれは確かに最低最悪と言ってもいいくらいだった。嫌だダメだと連呼していたら、最後にキレた雲雀に力いっぱい殴られて、ダメージは翌日になっても回復せず、結局綱吉は学校を休んだのだった。
 一応あの時は雲雀も反省し、殊勝な態度を見せてくれたけれど、このところは綱吉に対して横暴さが増している。何を言われるか分かったものではなくて、警戒するのは必然だった。
 猫なで声とも取れる低音に温い唾を飲み込んで、綱吉は椅子から身を乗り出した青年に唇を噛んだ。
 綱吉は身長が百六十センチに届かず、雲雀はもうそろそろ百七十センチに到達する。身長差は十センチ以上あり、普段は綱吉が見下ろされる側だった。
 けれど雲雀が椅子に座っている今は立場が逆で、慣れない環境に対応しあぐねていたら、捕らわれ中の右手をぐいっと引っ張られた。
「あっ」
 油断していたのもあって、膝がカクンと折れた。頭が重力に引っ張られて前に傾ぐ。倒れそうになったのを堪えて踏ん張っている隙を使い、雲雀が椅子ごと綱吉ににじり寄った。
 俯いた綱吉の眼前に迫り、不遜な笑みを浮かべて口角を歪める。
 蛇のように長く赤い舌で己の唇を舐めて、彼は綱吉にだけ聞こえる音量で囁いた。
「してよ、君から」
 掠れた小声はしかし思いのほかはっきり響き、綱吉の脳に突き刺さった。同時に心臓がきゅう、と窄まって、これまでにない息苦しさに四肢が引き攣る。
 瞬きもせずに見つめてくる黒い瞳が何を求めているか、それが分からないほど綱吉は鈍くない。けれどそれを口にするのには、少々勇気が必要だった。
 だから返事の代わりに幼い喉仏を上下させた彼に、雲雀は意地悪く目を細めた。
 顎を少しだけ突き出して催促し、上履きで脛の辺りも蹴り飛ばしてやる。
「う……」
 露骨過ぎる雲雀に尻込みして、綱吉は視線を右往左往させた。
「ほら」
「で、でも。ここで……?」
「誰も居ないよ?」
 応接室はいつも通り、ふたりが居る限り誰も近づいてこない。辺りをぐるりと見回した雲雀に、逃げ道をひとつ塞がれた綱吉は口ごもった。
 他に上手い言い訳がないかと探すけれど、緊張の所為で頭が働くわけがなかった。ただでさえ成績は学年最下位を突っ走り、赤点がお友達とまで揶揄されるくらいなのに。
 美味しいものを諦めます、と言えれば良かったのだが、雲雀が今更それを許すとも到底思えなかった。
「うあ、の、……ヒバリさん」
「ん?」
 遠くからでも十分綺麗な顔立ちだと分かるけれど、近くで見れば尚更麗しい。同じ男でも惚れ惚れするくらいの整い具合に若干の悔しさを滲ませつつ、綱吉はたどたどしい口調で雲雀を呼んだ。
 椅子の上で居丈高に構えていた青年が、この期に及んで何の用かと目を眇める。そういう意地が悪い表情も彼がやると様になるのがなんとも腹立たしくて、凡人の域を出ない綱吉は深く長いため息をついた。
 覚悟を決めて右足を半歩前に、床を擦りながら突き出す。椅子を支えるコマの間につま先を滑り込ませ、ばくばくうるさい心臓に脂汗を滲ませる。
 近づいてきた彼を見上げ、雲雀は小首を傾げた。
 不遜極まりない態度に、綱吉は一瞬泣きそうな顔を作った。鼻を愚図らせてずびずび言わせ、臆病な心を否定してぶんぶん首を振る。
 一秒として同じ表情をしていない彼を興味深く観察していたら、雲雀の手ごと前に出した綱吉が椅子の肘掛を掴んだ。
 軽く膝を折って腰を低くし、中腰の姿勢を選んだ彼に、雲雀は長く握ったままでいた彼の右手を解放した。指先の残る体温を大事に胸に抱え込み、言葉の続きを待って瞳を上向かせる。
 至近距離で覗き込んできた綱吉が、拗ねたのか、ふいっと顔を背けた。
「目、閉じて……ください」
「どうしても?」
「閉じてくれなきゃ、してあげません」
「はいはい」
 今にも消え入りそうな小声で強請られて、雲雀は一瞬目を見開いてから肩を竦めた。
 食い下がるが、綱吉も譲らない。つーんと素っ気無い態度を見せられて、ここで口論を長引かせても良いことはないと、雲雀はあっさり白旗を振った。
 深く椅子に座り直し、背筋も伸ばして姿勢を正す。その上でゆっくり瞼を下ろした彼に、綱吉は浅く唇を噛み締めた。
 下唇に牙を突き立て、随分物分りが良い雲雀を疑わしげに見る。試しに五秒黙って何もせずにいたら、痺れが切れたのか膝の上の手がスラックスの皺を引っかいた。
 だが目に見えての変化はそれだけで、瞼は依然閉ざされたまま。黒水晶のような深い色の瞳は隠されて、綱吉の目には映らなかった。
「綱吉?」
「……分かってます」
 彼が待たされるのに慣れていないのは、綱吉も重々承知していた。あまり我慢強くない人だから、これ以上焦らすのは宜しくない。
 キス一回で美味しいものを食べられるのであれば、安いもの。そう自分に繰り返し言い聞かせて、彼はじわじわと胸の奥底から沸き起こる言い表し難い感情を押し返した。
 首筋に汗が伝い、空調が効いているのに暑くて仕方がない。心臓は相変わらず騒々しく暴れまわっていて、膝は気を抜くとがくがく震えて折れてしまいそうだった。
 いぶかしげに名を呼んだ雲雀に応え、綱吉はすぅ、と息を吸い込んだ。肺に留め置き、きゅっと唇を引き結んで首を前に出す。
 一ミリずつ狭まっていく距離と、呼応して激しくなる鼻息に笑みを噛み殺し、雲雀は瞼を持ち上げたい衝動を必死になって抑え込んだ。
 綱吉が今どんな顔をしているのか、見てみたい。けれど目を開けたら確実に視線が交錯する。約束を破ったと知れたら、綱吉は臍を曲げてしまいかねない。
 激しい葛藤に見舞われて、心はさっきから落ち着かなかった。
「つなよし」
 甘く、囁く。
 瞬間、ため息は淡い感触に吸い取られた。
 集中していなければ気づけなかったかもしれないくらいの、一瞬過ぎる接触。柔らかくて温かいソレの正体を悟った途端、雲雀は耐え切れずに身を乗り出した。
「わわっ」
 腰を浮かせ、飛び出そうとする。途端に意綱吉の悲鳴が部屋中に響き渡った。
 目を開いても闇に慣れていた瞳はすぐに光を感知せず、距離感を掴み損ねた。全力で綱吉に頭突きを食らわせるところだった雲雀は一秒置いてハッとして、たたらを踏んでふらついている恋人に気まずげな表情を作った。
「ごめん」
「いった!」
 結局彼は踏みとどまれず、派手に尻餅をついて床に蹲った。両足を左右に投げ出して広げ、打った場所を気にして顰めっ面を作る。
 謝罪の声も聞こえていない綱吉に苦笑いを浮かべ、雲雀は手助けしてやろうと利き手を差し出した。
 だが握り返されるどころか叩き落されて、指先に走った微かな痛みに口を尖らせる。
「つなよし」
「デザート、もうひとつ追加ですからね!」
「分かったよ」
 不満げに名前を呼べば、低い位置から随分可愛らしい怒号が聞こえた。虚勢を張って威嚇してくる姿は子猫のようで愛らしく、断るだけの理由が思いつかなかった雲雀は迷うことなく首肯して、右膝を折り曲げた。
 しゃがみこんだ彼に、綱吉が目を見開く。ゆっくりとだが確実に狭まる距離に、痛みで歪んでいた眼は見る間に艶を取り戻した。
 長い指が顎に添えられた。逃がさないよう弱い力を加えられるが、綱吉は端から抗うつもりなどない。誘われるままに自らも前に出て、言われる前に目を閉じた。
「一緒に、食べに行こう」
 寸前で口ずさまれた囁きに、幸せそうに微笑みながら――

2012/08/22 脱稿