支子

 朝、目が覚めて何とはなしに顔に手をやった時から、違和感には気づいていた。
 寝ぼけ眼のまま鏡と向き合って、やっぱり、と落胆にも似た感情と共に頷く。綺麗に磨かれた鏡面の中にいる日向の顎には、眠っている最中に流した涎の跡を避けるように、小さく赤い突起が出来上がっていた。
 皮膚が内側から押し上げられて、その頂部分だけが少し白くなっている。思わず潰してしまいたくなる衝動を堪え、彼は嫌そうに顔を歪めた。
「にきびー」
 ここの所出来ていなかったので、油断していた。人目につきやすい場所に陣取る吹き出物に眉を顰めて、その左右に人差し指と中指を置く。そうっと触ってみれば、指紋の浅い溝に引っかかる感触がなんとも不快だった。
 青春の象徴と言われていた時期もあるニキビだけれど、結局のところはただの皮膚の炎症だ。毎日きちんと洗顔して、清潔にしていないと自分自身で言いふらしているようなものでもある。
 中学生の頃は手入れを疎かにしがちで、おでこや頬に沢山作っては都度指で潰していた。それが宜しくないと母に教えられて以降は極力触らないよう心がけ、殺菌力が高いと謳っている洗顔料を使うようにしていたのだが。
 最近は部活動に忙しく、帰りは遅い。食生活も一時期に比べればずっと不規則だ。睡眠不足も、少なからず影響していると思って良いだろう。
「やだなぁ」
 自己管理がなっていないと言われそうで、鏡を見ているだけで気が滅入ってしまう。不満げに呟いて、日向は爪の先で山なりになっている出来物を押し上げた。
 無意識に圧迫し、中身を搾り出そうとしている自分に気づいて慌てて手を引っ込める。背筋を伸ばして立っていたはずが、いつの間にか腰を屈めて前のめりになっていた。
 あと数センチで、左右反転している自分自身に額をぶつけるところだった。
「……ちぇ」
 早く治ってくれないだろうか。
 出来てしまったものは仕方が無い。せめてこれ以上酷くなることだけは無いように祈りながら、日向はため息と共に蛇口を捻り、冷たい水に両手を浸した。
 顔を洗い、髪を濡らして簡単に寝癖を直して朝食を摂る。息子より一時間早く寝床を抜け出していた母から大きな弁当を受け取り、自転車の前籠に荷物を詰め込んで、右足をペダルに置いて強く漕ぎ出す。
 太陽は東の空からゆっくりと顔を覗かせようとしていた。オレンジ色の光が稜線に添う形で広がり、墨を薄めたような闇は西へと追いやられて肩身狭そうにしていた。
 天頂の星がきらりと輝いて姿を消した。新聞配達のバイクが、エンジンを唸らせながら日向を追い越す。右にカーブする坂道に差し掛かって、彼はサドルから腰を浮かせた。
 この先は山越えだ。日向が通う烏野高校は隣町にあるのだが、隣といっても結構な遠さだった。
 直通の交通機関はバスだけだが、利用者の減少に伴い便数は減る一方だった。車やバイクが運転出来るのが一番良いのだけれど、まだ高校に入ったばかりの日向にそれを求めるのは酷だ。入学から三ヶ月を経て、先日目出度く十六歳になったので原動機付き自転車ならば免許を取得可能だけれども、そもそも教習所に通う時間がない。
 片道三十分の道のりを、まだ日が昇りきる前に踏破する理由。男子バレーボール部の早朝練習は、他のどの部活よりも開始時間が早かった。
「いっそげー」
 今からトラブルなく山を越えられたら、体育館に一番乗りできる。もっとも鍵の管理は日向の仕事ではないので、最初に到着したからといって真っ先にボールに触れるわけではないのだけれど。
 黒のハーフパンツに、半袖シャツ姿で、元気いっぱいだと見ただけでも分かる楽しげな表情をして、風を切って自転車を走らせる。前傾姿勢で歯を食いしばり、全体重を使ってペダルを漕ぐ。
 さほど険しいとは言えない山道を越えて最も標高が高い場所に出た瞬間、さぁっと眩い光が左方向から降り注がれた。
 瞳を焼く熱にうっ、と呻いて唇を噛み、ふらつきそうになった車体を維持して閉ざした瞼を開く。雲の隙間から顔を出した太陽が、眼下に広がる町並みを明るく照らしていた。
 今日は風もさほど強くなく、気温も程ほどで心地よい。ずっと上り坂だったので早々と全身汗だくだったが、吹き抜けた涼しい風が火照った体を適度に冷やしてくれた。
 ばくばく言っている心臓を服の上からそっと撫で、乱れ気味の呼吸を整えて息を吐く。膨らんでは凹んで、を繰り返す胸を離れた手は、意識しないままに顎に伸びていた。
 触ってから気が付いてばつが悪い顔をして、日向は気になって仕方がないニキビに苦笑した。
「まだ、余裕あるな」
 ほかの事に意識を向けておかないと、また引っかいてしまう。細い手首に巻いた時計に視線を移して声に出して呟き、彼は下り坂の先に続く道の果てに思いを馳せた。
 このペースでいけば、早朝練習開始前に学校に辿り着けそうだ。ただ一等賞は、諦めた方が良いかもしれない。
「影山の奴、もう来てるかな」
 部長である三年の澤村や副部長の菅原たちを差し置いて、目下部内で最も登校が早いのは日向と同じ一年生の、天才と称される青年だった。
 入学早々にトラブルを起こした彼は、澤村の反感を買って入部を一度断られていた。
 練習に参加出来るようになるには、日向とは別の一年生チームと試合をして勝たなければならない。もし負けたとしても、一応入部は認められる。但し影山はセッターというポジションを、一年間諦めなければならないというのが条件だった。
 最初は気に食わない奴だと思っていた。プレーは凄いが偉そうで、傲慢で、人にすぐ命令したがる。怒鳴り声は五月蝿くて、いつも不機嫌そうに眉間に皺を寄せていた。
 けれど一緒に居るうちに、彼も日向と同じ、バレーボールが好きなだけなのだと気が付いた。
 背が低く、パワーもなく、エースを目指すなど分不相応だと自信をなくしかけていた時には、叱りつつ励ましてくれた。この跳躍力と俊敏さを最大限に生かせる場所を作ってやると、約束してくれた。
 思い出すだけで気恥ずかしくなる記憶に、鼻の奥がツンと痛くなる。照れくささに負けて首を竦めて笑って、日向は自転車のハンドルを握りしめた。
「よーし、いっくぞー」
 ここから先は、下り坂が中心だ。勢い付けすぎてカーブを飛び出してしまわないようにだけ注意して、彼は山道に颯爽と繰り出した。
 峠越えといっても、昔のように砂利の多いでこぼこ道ではない。アスファルトで舗装され、白いガードレールが転落防止の柵として各所に設置されている。落石注意の標識を数えながら進むうちに、長らくお目にかかれずにいた信号がひょっこり姿を現した。
 最近取り替えられたばかりで、何もかも真新しい。小さい頃に見上げていたものよりずっと薄くなっているその下を潜り抜ければ、目指す学校まではあと少しだった。
 二輪車を運転しながら盗み見た時計は、山頂で予想した時刻よりも若干進んでいた。
 カーブが多発する下り坂は速度を出し過ぎると命取りだし、今日は普段よりも交通量が多かった。まさかこんな時間から自転車で走っている学生がいると思っていなかったのだろう、ドライバーは軒並み急ブレーキをかけてクラクションをけたたましく押し鳴らした。
 大型トラックに追い越される時が一番怖かった。轟音と共に迫り来る巨大な車体にぶつかられたら、小柄な日向の身体などあっという間に粉々に粉砕されてしまう。
 安全運転を心掛けようとしたら、ペースを落とさざるを得ない。お陰でちょっとばかり時間がかかってしまった。
 影山はとっくに登校しているはずだ。他の部員も、体育館に集まりつつあることだろう。
「いっそげ、いっそげー!」
 わざわざ声に出さなくてもいいものを、己を鼓舞する目的で叫び、最後の難関である正門までの坂道を駆け上る。自転車を降りて、押して行くという選択肢は最初から存在しない。この登下校に費やされる三十分間も、日向にとっては立派なトレーニングのひとつだった。
 体格的な不利さはどうしようもないから、せめて体力だけでもつけたい。それにジャンプ力を向上させる為にも、脚力アップは必須事項だ。
 腹と顎に力を込め、最後の難関を一気に突破する。朝早くから登校する生徒の為にと、校門は既に全開状態だった。
 本来は自転車に乗ったまま校内に入ってはいけないのだけれど、この時間ならまだ先生たちも目を光らせていない。今のうちに、と巧みなハンドル捌きで左に進路をとって、日向は指定の自転車置場に向かった。
「ひなたー」
 通行人にぶつからないよう注意しつつ、硬く踏み均された土の上を走る。沢山の自転車が通ってきたからか、轍になって窪んでいる場所を選んで進んでいたら、遠くの方から間延びした声が響いた。
 視線を上げて振り返れば、右手を頭上で振り回す男子生徒の姿があった。
「スガさん」
 肩から大きな荷物をぶら下げて、小走りに駆け寄ってくる。そういえば先ほど追い抜かしたかもしれないと思い出して、日向はブレーキを調整しながら地面に飛び降りた。
 がらんどうに近い駐輪場につま先を向けたまま足を止めて待っていたら、ようやく追いついた三年生の菅原が額の汗を拭って笑った。
「おはよう。珍しいな、日向がこんな時間に」
「えへへ」
 一年生のセッター&スパイカーコンビはとにかくバレーボールが大好きで、隙あらばボールを追い掛け回しているとして知られていた。朝早くから放課後遅くまで、授業がなければそれこそ一日中体育館を駆け回るくらいの練習馬鹿でもある。
 熱心なのは良いことだけれど、根を詰めすぎるのは宜しくない。暴走しがちな一年生の手綱を上手くコントロールしている上級生は、照れくさそうに笑った日向ににっこり目を細めた。
 優しい顔で見下ろされて、日向もつられて白い歯を見せた。空いているスペースに自転車を押し込み、鍵をかけて籠の荷物を引っ張り出す。自転車に乗せている間は気にならなかったが、弁当入りの鞄は肩にずっしりくるくらい重かった。
「寝坊?」
「あ、いえ。ちょっと車、混んでたから」
「ああ。危ないもんな」
 日向が身支度を整え終えるのを待ち、先に歩き出した菅原が問いかける。目指す方向が同じだからと横に並び、日向は襷がけにした鞄の位置を調整しながら答えた。
 山道は交差点や信号が少ないから、乗用車もついつい速度を出しがちだ。カーブの多い難所を高速で駆け抜け、そのテクニックを誇示したがる危険なドライバーも存在する。
 事故に巻き込まれたら大変だからな、と遅くなった日向に理解を示し、菅原は鷹揚に頷いた。
 もっとも遅いといっても、まだ練習開始と定められた時間まで少しの猶予がある。ゆっくり歩いて行ってちょうど良い具合だと、彼は二年間と数ヶ月、毎日のように通い詰めている道を踏みしめた。
 第二体育館から少し外れた場所には、二階建てのプレハブ小屋が部室棟として存在していた。だがふたりはそちらへは向かわず、直接コートを目指す。動きやすいジャージ姿で登校しているのも、着替えの手間を省く為だ。
 授業を受ける際に身に着ける学生服は、鞄の中に。衣替えの前は厚手の学生服だったから結構な嵩張りようだったが、今は夏服に切り替わっているので、鞄の膨らみ方も少しは落ち着いていた。
 多少皺が寄ったところで気にしない。大事なのは昼食である弁当が傾いていないかどうかだけだ。
 今日のおかずはなんだろう。数少ない楽しみに想いを巡らせ、日向は見え始めた体育館の外壁に心を弾ませた。
 歩みが自然と速まり、置いていかれまいと菅原も追随する。見慣れた背中を発見し、ふたりは揃って利き腕を高く持ち上げた。
「おーっす」
「おはようございます、縁下先輩」
 三年生と一年生というでこぼこコンビの声に、若干猫背気味だった二年生がすっと顔を上げた。
 朝だからか、いつも以上に眠そうな顔をしている。やや腫れぼったい瞼をして小首を傾げたのは、二年生のウィングスパイカー、縁下だった。
 彼もまた日向たち同様にジャージ姿で、シンプルな角型の鞄を肩からぶら下げていた。形は菅原が持っているものとほとんど同じだが、使用している期間が違う為か、彼の方が四方の角もしっかりしていた。
「おはようございます」
 足を止めた彼はまず上級生である菅原に軽く頭を下げ、続けて日向に目配せで挨拶した。最後に気負いのない笑みを浮かべ、大きな荷物を揺らして表面を軽く叩く。
 いつもは同級生の田中と一緒に登校している彼だが、今日はひとりだ。坊主頭の騒々しい先輩を思い浮かべ、日向はきょろきょろと周囲を見回した。
 彼が何を探しているのか、仕草から察したのだろう、縁下が肩を竦めて苦笑した。
「田中だったら、時間ぎりぎりだと思うよ」
 待ち合わせの時間になっても来なかったから、と小声で付け足した彼に、菅原がまたかとため息をついた。
 誰よりも早く来たがる一年生がいる一方で、なるべく遅くに来ようとする上級生がいる。このところは下級生に刺激を受けて早起きの習慣がついてきていたのだが、悪い癖が再発したらしい。
「日向の爪の垢でも飲ませてやりたいよ」
「あはは」
 ちょっとは見習えばいいのにと、一時期は朝五時に登校していた後輩を憂いながら男子排球部副部長が天を仰いで嘆く。あまりの言われように相槌を打つことも出来ず、縁下は乾いた笑い声を響かせるにとどめた。
 例に出された一年生は、上級生の会話の意味が良く分からなかったのか、不思議そうに首を傾げて自分の手に見入っていた。
 田中に爪を飲ませたら、どうなるのだろう。考えるが分からなくて、聞ける雰囲気でもなくてむぅ、と頬を膨らませる。渋い顔をして眉間に皺を寄せていたら、ふと視線を感じた。
「?」
 至近距離からの眼差しに反応し、顔を上向かせる。広げていた手を握って脇に垂らした彼の目に、縁下の姿が飛び込んできた。
「日向、それ、ニキビ?」
「ぎく」
「なにか付いてると思ったけど、やっぱりそっか」
 自分の顎を小突きながら言った彼に、日向は大袈裟なくらい肩を跳ね上げた。
 最初はゴミかなにかかと思っていたが、この反応からして間違いなさそうだ。興味深そうに頷いてから、彼は思い切り嫌そうに顔を歪めている後輩をカラカラと笑い飛ばした。
「気をつけてても、結構すぐに出来ちゃうよな。潰さないように気を付けろよ」
 だが日向が恐れていた、馬鹿にするような台詞は最後まで発せられなかった。それどころか逆に慰められ、忠告しながら肩を叩かれた。
 叱られなかったのに少なからず安堵して、拭いきれない不安からついつい菅原の顔を盗み見る。けれど彼も縁下同様さほど気にする様子もなく、人好きのする笑みを浮かべただけだった。
「日向、ちゃんと寝てる?」
「一応は」
「まぁ、出来ちゃったものは仕方がないしな。練習終わった後、顔洗っておいた方がいいかもな」
「はーい」
 ニキビは皮脂が毛穴に詰まって出来るから、汚れは洗い流してしまうに限る。人生の先輩のアドバイスに素直に頷き、日向は目の前に迫ったコンクリートの階段につま先を乗せた。
 体育館は地上より一メートルほど高い位置に床がある。開け放たれた扉の手前には、既に到着済みの部員の靴が、所狭しと並べられていた。
 その中にはひときわサイズの大きい、踵がよれ気味の靴も混じっていた。
「影山、来てる」
「あっ」
 そうだろうとは思っていたけれど、確信を抱くところまでは至れていなかった日向は顔を綻ばせた。体育館に最も近い場所に陣取っている二十八センチの靴に頬を緩め、自分もシューズを履き替えようと鞄へ手を伸ばした矢先。
 横にいた菅原が不意に声を高くした。
 一足先に磨かれた床に上りこんだ縁下も、何事かと振り返る。視線を浴びた上級生は一瞬目を丸くしてから照れくさそうにはにかみ、顔の前で手を振った。
 そして右手で靴を取り出しながら、左手の人差し指を自分の顎へと持っていった。
「いや、さ。日向のこれ、思われニキビだなって思っただけ」
「……おもわれ?」
 たいした話ではないと前置きをして、菅原は目尻を下げた。引き抜いた体育館シューズを床に放り投げ、部員の靴の間を爪先立ちで移動する。彼の台詞にぴんと来なかったのは、日向だけではなかった。
 興味を引かれたらしい縁下が、抱えていた鞄を肩から下ろしつつ詳細を教えてくれるよう頼み込む。勿論日向も気になって、大慌てで靴を脱ぎ捨てた。
「なんですか、それ」
 初めて耳にする言葉に、好奇心が擽られた。先ほどの爪の垢とは違い、聞きやすい雰囲気も彼の背中を後押しした。
 真ん丸い目をきらきら輝かせている後輩に詰め寄られ、鞄をおろしていた菅原は肩を竦めた。練習がまだ本格的に始まっていないのを確認して、急かして拳を振り回している日向に目尻を下げる。
「えっとな、思われニキビってのは……」
 中学時代、成長期に入った途端に顔に出来るようになった吹き出物。ぶつぶつが気持ち悪く、対処に困って母に泣きついたところ、こんな話を教えられた。
 本当かどうかは非常に疑わしいけれど、という前置きを添えて、少しだけ声を潜めて背中を丸める。つられて日向と縁下も、ネットに背中を向ける形で身を屈めた。
 そこへ。
「――だぁ!」
 ひゅっ、と風を切ってボールがひとつ、飛んできた。
 バスケットボールよりは小さく、野球のボールよりは大きい。中身は空気だけれど、パンパンに詰め込まれているので勢いに乗せてぶつけられたら当然、痛い。
「わっ」
「日向!」
 その剛速球を後頭部に食らい、踏ん張りきれなかった日向の体がぐらりと傾いだ。右膝がカクンと折れ曲がってバランスを崩し、そのまま床に倒れそうになったのを辛うじて耐えてぐっと腹に力を込める。
 奥歯を強く噛み締めて、ぽんぽんぽん、と弾んで転がっていくボールに拳を振るわせる。
「ひなた……?」
 大丈夫かとの質問を飲み込んで、菅原は差し出そうとして中途半端なところで留めていた両手を引っ込めた。サッと背中に隠して、引きつった笑みを浮かべて肩を揺らす。
 飛び上がって仰け反った縁下の斜め後方に、今まさにボールを投げました、と分かる体勢で停止している男がいた。
 黒い髪、黒い瞳。背が高く、細身だが肩幅は広い。目つきは非常に悪く、不機嫌です、と言わんばかりの表情をしてこちらを睨んでいる。
 否、正確にはただひとりを睨んでいた。
「かげやま……」
「なにチンタラやってんだ。へたくその癖に、練習サボってんじゃねーよ」
 状況を理解した菅原が冷や汗を流す中、籠からボールをもうひとつ取り出した影山が体育館中に響く大声で怒鳴りつける。蟹股で両足を地面に置いた日向は、未だひりひりと痛みを訴える後頭部もそのままに、口を真一文字に引き結ぶと、横暴極まりない台詞を吐き捨てた青年に向かって勢い良く振り返った。
 入学前から犬猿の仲だったふたりだ、この関係性はそう簡単には変わらない。セッターとスパイカーとしてコンビを組むようになった今でも、彼らはこうやって顔をことある毎にぶつかり合い、喧嘩した。
 但し四月の頭頃に比べれば、喧嘩の内容も、質も、随分と違ってきていた。
「いってーな! だからって、いきなりぶつけてんじゃねーよ、馬鹿!」
「お前な……人が折角、テメーに合わせて来てやってんのに、勝手に遅れてきといて言うことはソレだけか」
 ちょっとばかり角度が変わっている癖毛を揺らし、日向が吼える。頭の上から煙を噴いている彼に負けじと影山も怒号を上げて、最早恒例と化しつつある一年生のやり取りが始まった。
 話の腰を折られた菅原は背筋を伸ばして腰に手をやり、毎日懲りない後輩たちに苦笑を浮かべた。
「はい、ふたりとも。練習始まるから、そこまでな」
 間に割って入らないと、いつまで経ってもこの口論は終わらない。今は放置の澤村も、あと三分もすればこめかみに青筋を立てるに違いなかった。
 頼りになる部長に目配せして両手を伸ばし、高いのと低いのの両方の肩をポンと叩く。朗らかに、けれど有無を言わせぬ迫力が内包された仲裁の声に、ヒートアップしていた問題児たちは揃ってサーッと顔色を悪くした。
 凍り付いている日向たちににっこり無邪気に微笑みかけて、もう一発、軽く抱けれど肩を叩いて手を離す。
「す、すみませ……」
「あれ?」
「はい?」
 半歩後退して距離を作った菅原に、頬を引きつらせた影山が、一応悪いと思っているのかしどろもどろに謝罪を口にした。だがその言葉を遮り、黒髪の影になにかを見つけた副部長が高い声を響かせた。
 一瞬きょとんとなった菅原に、見上げられた影山は小首を傾げた。何か付いているだろうかと顎の辺りを撫でるが、これといって指に触れるものはない。鏡がないので確かめようがないと怪訝にしていたら、日向も不思議そうにする中、三年生は唐突に噴き出した。
「スガさん?」
「良かったな、日向。思われニキビってのは、お前のことが大好きな奴がいるってことだぞ」
「は? …………ええぇ!」
 腹を抱えて背中を丸め、いきなり笑い始めたかと思えば日向を振り返ってそんなことを口にする。急すぎる話題の転換についていけなかった彼は、大きな目をぱちくりさせて三秒後、素っ頓狂な声をあげて飛び上がった。
 そういえばボールをぶつけられる直前まで、そんな話をしていた気がする。思いも寄らぬ情報に呆気に取られ、日向は反射的に顎のニキビを引っかいた。
 赤くなっている隆起を爪で擦り、やってからハッとして利き手を下ろす。頬を朱に染めて急にそわそわし始めた彼に瞬きを繰り返して、影山は前触れもなく変なことを言った上級生に視線を移し変えた。
「菅原さん、なっ、言って……!」
 どういう理屈だか、彼の顔もまた日向同様鮮やかな紅色に染まっていた。声も上擦り、呂律は回りきっていない。
 途中で言葉を喉に詰まらせた彼の黒髪が勢い良く揺れて、普段は隠れている額の赤みが露になった。
 一瞬だけ垣間見えた突起物に破顔一笑して、菅原が両手をたたき合わせる。
「影山。お前さ、デコに作るのはいいけど、右頬に作らないよう気を付けとけよ?」
「はい?」
 カラカラ笑いながらの忠告に、肩を叩かれた青年はぎょっと目を丸くした。後ろで聞いていた日向も興味深そうに彼の言葉に耳を傾け、時折思い出しては照れくさそうに身を捩ってしまりなく笑った。
 菅原は誰に想われているのかまるで見当がついていない後輩から、焦って汗だくになっている天才セッターに視線を戻した。そして意味深に目を細め、自分の顔を指差して十字を切るように動かした。
 額、顎、左頬、そして右頬へ。
「思い、思われ、振り、振られ――ってね」
 仕草に合わせて囁かれたことばに僅かに遅れて息を呑み、影山は赤くなっている額を黒髪ごと思い切り叩いた。

2012/08/17 脱稿