紅争

 それは穏やかな午後の、丁度シエスタが終わるか否かという時間だった。
 暢気に欠伸を零し、日が射して明るい廊下を歩いていたGの耳に、突然、雷が落ちたかと思える程の轟音が突き抜けていった。
「な、なんだぁ?」
 咄嗟に頭を抱えてしゃがみ込んだ青年は、屋敷そのものが揺れたのではなかろうかと足許、続けて頭上を見上げて瞬きを繰り返した。石膏のくずがぱらぱらと降り注ぎ、自慢の赤い髪にうっすらとだが白い埃が積み重なった。
 火の消えたシガレットを咥えたまま、器用に口を開閉させて息を吐き、恐る恐る立ち上がる。被った埃を撫でるように払い落としてからガシガシ頭を掻きむしった彼は、屋敷中のざわめく空気を感じ取りつつ、先ほどの騒音の発生源を推測して深く、実に長いため息を零した。
 最早なんの意味も成さない煙草を抓んで苦い唾を飲み、大仰に肩を竦める。
「またあいつ等か」
 いい加減うんざりだとひとりごち、だが放っておくわけにもいかなくて渋々休めていた足を繰り出す。当初の目的を変更して行き先を変えて、向かうはこの広大な屋敷の主たる若者の私室だ。
 といってもマフィアボンゴレの若きボスことジョットの部屋は、なにもひとつきりとは限らない。寝室に、ビリヤード台が置かれた娯楽室、書類で埋もれた書斎に、昼寝専用の小部屋と、枚挙に暇がない程だ。
 それらのうちの、いったい何処を最初に訪ねるべきか。短い時間で逡巡を重ね、Gは現在地から最も近い部屋に白羽の矢を立てた。
 屋敷に詰めている人間も、先ほどのような爆音は既に慣れっこになっているのか、騒ぐ声はあまり聞こえない。カツカツと小気味よい足音を響かせながら人気の乏しい廊下を進み、程なくして辿り着いたドアの前で両足を揃えて立ち止まる。
「一発で正解かよ」
 蝶番が外れて傾いている観音開きの扉を前に苦笑して、Gは面白く無いと小声で呟いた。
 これでは暇潰しにもならない。もう少し捻りを入れて欲しいものだと、おおよそ騒音を引き起こした当人には関係の無いところで愚痴を零して、彼はずっと指先でぶらぶらさせていた煙草を握りつぶした。
 屑は持っていた掌サイズの箱の中にねじ込んで、両手を空にしてからドアに腕を伸ばす。本来の形状を著しく損なっている扉は、軽く押した程度では開いてくれなかった。
「ぐ、……っの」
 腹に力を込めて呻き、歯を食い縛って押してようやく少しだけ道が開けた。肩に覚えた疲労感に舌打ちして、Gはそうっと、部屋の中の様子を窺った。
 首から上だけを室内に潜り込ませ、遠くに見える人影に目を凝らす。
 中は爆発の衝撃がまだ過分に残っており、砂煙が舞って視界は著しく悪かった。
「貴様という奴は。今日という今日は、許さんぞ!」
 白く濁った空間に、ぼんやりと浮かび上がる影がふたつ。そのどちらがどちらなのか判断しあぐねていた矢先、手前に佇んでいた方が勢い良く片腕を前に突き出し、激しく捲し立てた。
 聞き覚えのありすぎる声にため息を零し、Gは中にいる存在に気付かれないよう、注意深く敷居を跨いだ。
 扉は、どうやったところできちんと閉まってくれそうにない。やるだけ無駄と諦めて首を前に向ければ、徐々に煙が晴れて内部の様子が明らかになっていった。
「あっちゃー」
 これまでにも似たような事が何度かあったが、今回は輪に掛けて酷い。簡単な修繕作業では到底追いつきそうにない有様に舌を巻き、Gは前髪を掻き上げてがっくり肩を落とした。
 一方彼の落胆など知るよしもない部屋の住人は、無言で佇み続ける相手に向かって、尚も姦しく苦情を並べ立てていた。
「いったいどういうつもりだ。今日こそは貴様の胸の裡、とくと聞かせて貰うからな!」
 びしっと人差し指を伸ばし、目を吊り上げて怒鳴り声を上げ続ける。しかしよくよく聞いてみれば、その台詞の大半は相手を責めるというよりは、早く本音を言えと急かす内容だった。
 同じような意味を持つ単語を、かなり大袈裟に並べ立てている男の後ろ姿に、Gはなんとも言えない顔をして頬をヒクつかせた。
 彼らの前方には、壁があった――はずだった。
 しかしいったい数分前に何が起きたのか、部屋を囲む壁の一角がものの見事に木っ端微塵に粉砕されて、晴れ渡る空が一望出来るようになっていた。
 涼しい風が吹き込んで、床に積もった埃を巻き上げて視界を濁らせる。目に入りそうになったのを避けて手を振り、Gは座る場所を探して左右を見回した。
 その最中で、先ほどから一方的に言われっ放しの男の姿が見えた。
 地表を照らす陽光を反射してきらきら輝く銀髪に、埃を被った所為で汚れが目立つ膝丈のコート。右手はポケットの中にねじ込まれて、残る左手は眩しい日射しを避けようとしてか、額よりも上の位置に固定されていた。
 眇められた目が見つめる先に居るのは、勿論Gではない。
「五月蠅いよ、ジョット」
「なにを言うか、貴様ぁ!」
 至極面倒臭そうに言い放った男に、日の出時の太陽を思わせる金髪の青年がひと際高い声をあげて怒鳴った。拳を振り回して地団駄を踏み、床に転がっていたなにかに足を取られてバランスを崩した。
 あ、と思うが駆けつけたところでどうせ間に合わない。出かかった足を引っ込めたGの遙か前方で、ボンゴレの当主たる男はみっともなく尻餅をついた。
「いっ、つぁ……」
「はぁ」
 どすん、と重そうな音をひとつ響かせた彼に、銀髪の青年が呆れた様子でため息をついた。
 癖のある前髪を一房抓んで指に絡め、足許で唸っているジョットを冷たく見下ろす。と思えばふっ、と息を吐いて恐ろしくも優しげな微笑みを浮かべた。
 若い娘であれば心時めかせそうな表情だが、この男の外面と内面が一致しないのは、ジョットも、Gでさえも重々承知していた。
「こンの……そこになおれ、アラウディ!」
 少々古めかしい物言いで座るよう命じ、腕を上下に振り回すジョットだが、言われたアラウディは従う理由が無いとばかりに無視を決め込んだ。そっぽを向いてわざとらしい欠伸をして、退屈そうに肩を鳴らしもする。
 見るからに馬鹿にしていると分かる態度に立腹して、ジョットは座り込んだまま煙を吐いた。
「貴様、俺をいったい誰だと思っている」
「ジョットだろう?」
「違う、そうじゃない」
「じゃあ君はジョットじゃないの?」
「そういう意味で言っているんじゃあない!」
 子供のようにぷんすかしながら捲し立てるが、揚げ足を取られてなかなか本題に戻れない。喜劇かなにかを見ている気分になって、Gは乾いた笑いを浮かべた。
 転がっていた椅子を見つけて起こし、表面をサッと撫でてから腰を下ろす。右足を左の膝に載せて頬杖をつき、右に上半身を傾がせて滑稽としか言いようのないやり取りに耳を傾ける。
 背中を向けているジョットは、依然として幼馴染みが其処にいる事に気付いていなかった。
「兎に角、だ。貴様、あまり調子に乗るな。次あんな真似をしてみろ、一生許さんぞ」
 尻の汚れもお構いなしに立ち上がって盛大に喚き散らし、偉そうに胸を張って少しでも背を高く見せようと足掻いている。虚勢とも取れる態度を示されて、最後まで聞き届けたアラウディがなんとも面倒臭そうに首を振った。
 弄っていた前髪を掻き上げて後ろに流し、一瞬だけ白い額を晒して口角を歪めて笑う。不遜な目つきに僅かに臆し、ジョットが半歩後ろに下がった。
「な、なんだ」
「構わないよ、別に」
「……なんだと?」
「いいよ、許さなくて」
 たじろいだ彼に言葉を重ね、鼻で笑い飛ばす。淡々と、抑揚無く紡がれた言葉に、傍観者を決め込んでいたGまで顎が外れそうになった。
 ぽかんとしているふたりを同時に視界に収め、アラウディがクツクツ喉を鳴らして笑った。
 面白がっている彼を唖然と見上げ、数秒後にはたと我に返ったジョットは強く両手を握り締めた。
 拳を硬くして空を殴り、力一杯床を蹴り飛ばす。ダンッ、と大きく響いた音が壁に開いた穴を抜け、外へ飛び出していった。
 すっかり見晴らしが良くなってしまった。当分、この部屋は使えそうにない。折角のビリヤード台も、全部お釈迦だ。
 高かったのに、と部屋の片隅でひっくり返っている立方体に目を向けて、Gは深々とため息をついた。今朝髭を剃ったばかりの顎をなぞり、一向に終わる気配が無い口論に意識を戻す。
「ちょっと待て、アラウディ」
 上擦った、普段よりも一オクターブは高い声を張り上げて、ジョットがアラウディに詰め寄ろうとしていた。
 両手を広げて落ち着き無く揺らし、足許には一切注意を払わない。目の前ばかりを気にしていた彼は、案の定落ちていた瓦礫に乗り上げてバランスを崩し、またもや尻餅をついた。
 同じ場所を続けてぶつけて、骨を直撃した痛みにしばらく声すら出ない。ズボンの上から患部を撫でさすり、涙を堪えたジョットの顔が悔しげに歪んだ。
 歯を食い縛って激痛に耐え、琥珀色の眼で必死になにかを訴えるものの、アラウディはまるで意に介そうとしない。
 気付いていながら手を貸そうとしない男に苛立ち、ジョットは手近なところに落ちていた、元は壁の一部だっただろう欠片を掴んで振りかぶった。
 座りこんだままなので、さほど速度は出ない。弓形に舞い上がった小石を軽々と避けて、アラウディは失笑した。
 くっ、と咬み殺した笑い声を聞いて、ジョットの顔がかぁっ、と赤く染まった。
「なっ、なにが可笑しい。笑うな。ええい、笑うんじゃない。第一、だな。貴様、分かっているのか。俺が許さないとどうなるか、お前は、本当に」
「分かってるよ。絶交、だろう?」
「ああ、そうだ。そうだとも!」
 頬を紅潮させ、鼻息荒く吼える。言葉尻を取って補ったアラウディに大袈裟なくらい頷き返していたジョットは、ふとした瞬間に何かを思い出したのかぴたりと動きを止め、大粒の目を忙しく瞬きさせた。
 きょとんとしている後ろ姿に首を傾げていたGは、視線を感じて顔を上げた。遠く、意地悪く笑うアラウディと目が合った気がした。
「あの野郎……」
 ジョットがまるで気取れていないアラウディの魂胆にいち早く気付き、苦々しい顔をして唇を噛む。が、ここで自分がしゃしゃり出たところで事態は混乱するだけで、苛められる幼馴染みを放置するしかない状況に、Gは悔しげに舌打ちした。
 口車に乗せられて叫び、首肯した後凍り付いたジョットは、自分を見つめる冴えた眼差しにぶるりと震え上がった。
「な、……あ、いや。違うぞ、今のはちょっとした言葉の綾というか、つまりはそういう」
「マフィアのボスたる男が、自分の発言を撤回するの?」
「し、しないさ。するわけがないだろう」
 言い訳をしようとして、先回りして道を塞がれた。男のプライドを擽られてついムキになって、言ってから後悔してしょぼくれる後ろ姿に、Gは本日何度目かしれないため息を零した。
 足を入れ替えて頬杖を作り直し、狼狽えて段々小声になっていくジョットの背中を黙って見守る。俯いている彼は気付いていないだろうが、アラウディの表情はすこぶる愉しげだった。
「だが、……本気なのか。貴様だって、そ、その。そうだ、仕事にだって、影響が、……ちょっとは、うん。出るんじゃ、ないのか」
 尻窄みに小さくなっていく声に、当初の覇気は感じられない。胸の前で指を小突き合わせて口籠もる彼は、実年齢よりも確実に十歳は幼かった。
 膝を折って胸に寄せ、背中を丸めて小さくなっている青年を口角歪めて笑い飛ばし、アラウディは今になって右肩を叩いて、付着していた埃を散らした。
「まあね。けど、別に良いよ。多少のコネクションが途切れるくらいで、僕が音を上げるとでも思ってるの?」
 太々しく言い放ち、足許で打ち拉がれているジョットを睥睨する。
 勝ち誇った双眸にぐっと息を呑み、ジョットは言い返そうと口を開いた。しかし言葉はひとつとして思い浮かばず、出て来るのは声にもならない呻きばかりだった。
 鼻をぐじ、と啜り上げ、彼はこみ上げて来た熱いものを堪えて奥歯を噛み締めた。
 琥珀色の目が見る間に涙に潤み、熱を帯びていく。艶を増した眼差しに目を眇め、アラウディはちろりと唇を舐めた。
 ぞわりと来て、ジョットはしゃがみ込んだまま背筋を粟立てた。
「ア……」
「それに、却って清々するかもね。こっちから頼んだわけでもないのに、無理矢理君のファミリーに加えられてさ。僕は誰かとなれ合うつもりなんか毛頭無いし、仲良しごっこをしたいわけじゃないしね。けれど、これで晴れて自由の身だ。嬉しいよ、ジョット」
 言いながら膝を折り、腕を伸ばした彼が呆然とするジョットの顎を撫でた。輪郭をなぞり、頬の膨らみを小突いて感触を楽しんで、最後に薄く開かれている唇を軽く押して離れて行く。
 起き上がった彼の膝元で、灰色のコートが揺れた。波打つ厚みのある布を見上げ、ジョットが酷く弱々しい仕草で右手を掲げた。
 皺の寄った生地を爪で掻き、手繰り寄せて握り締める。くいっ、と斜め下から引っ張られて、歩き出そうとしていたアラウディはいかにも迷惑そうに眉間の皺を増やした。
「なに?」
「待て、アラウディ」
「僕たち、絶交したんでしょ?」
 今にも吹き飛んでしまいそうな細い声で訴えるが、聞き入れられない。すげなくあしらわれ、乱暴に手を叩き落とされて、ジョットは零れ落ちんばかりに目を見開いた。
 鼻を愚図らせてぐじぐじ言わせ、大人気なく瞳を潤ませて、顔は耳まで真っ赤だった。
 話しをするのさえ嫌だと言わんばかりのアラウディに、腹が立つよりもなによりも、哀しみが先に立った。
「あ、あう、っでぃの……」
 息継ぎが上手くいかなくて、舌が回らない。声が喉に詰まってしまい、まともな言葉にならなかった。
 一部始終を見守っていたGが、やれやれと頭を抱え込んだ。下手をすると数日に渡り、ジョットは使い物にならないかもしれない。
 明日以降の予定がどうなっていたかを気にして視線を浮かせた彼の前方で、ついにジョットが癇癪を爆発させた。
「アラウディの、ばっかやろ~~~~~~~うっ!」
 屋敷中に轟きそうな大声で怒鳴り、もう一発、落ちていた欠片を掴んで放り投げて立ち上がる。そのままアラウディとGを置き去りに壁の大穴から飛び出していった彼の姿は、瞬く間に小さくなり、やがて見えなくなった。
 人の悪口をこれでもかというくらいに並べ立てる、その声だけが尾を引いて暫く聞こえ続けた。ただそれも三十秒としないうちに静かになって、Gは隙間風に身を震わせた。
 足を下ろして腰を浮かせ、椅子から立ち上がる。とっくの昔に彼に気付いていたアラウディは、燃え盛る炎のような髪の青年に驚く様子もなく、逆に苦笑を浮かべて肩を竦めてみせた。
「あンま苛めてやるなよ。アイツ、泣くと後が大変なんだぞ」
「その辺は君に任せるよ」
「ふざけんな」
 幼馴染みというだけで、ジョットの子守を押しつけられるのは割に合わない。拗ねた彼の機嫌を直すのは一苦労で、その辺りはアラウディも承知している。
 露骨に嫌そうにされて、彼は呵々と笑った。
 胸を衝かれて上半身を揺らしたアラウディに唾を吐き、Gは長いため息ひとつで一旦溜飲を下げた。ガシガシと乱暴に頭を掻き回して舌打ちし、荒れ放題の部屋を眺めて首を振る。
「で?」
「なに」
「こうなった原因は、なんなんだ」
「ああ、それね」
 肘を小突いて話題を変えれば、アラウディもまた風通しが良くなりすぎた空間を見渡し、当時のやり取りを思い出してか目を細めた。
 声を殺して笑う彼の横顔からは、良い予感がひとつもしない。冷や汗を背中に流し、Gは一寸だけ右にずれた。
 裏返ったビリヤード台に目をやって、アラウディが右手を宙に泳がせた。指を軽く曲げて、なにかを撫でる仕草を取る。
 ピンと来て、Gはゆるゆる首を振った。耳を塞ごうと、両手を頭の左右に配置する。目を眇め、アラウディが楽しげに口を開いた。
「彼があそこで、僕に向かって尻を突き出してたからね」
「……いや、言わなくて良い」
「誘ってるのかと思って触ったら、こうなった」
「聞きたくねーつってんだろうが!」
 全力で拒否しているのに、無視された。
 実に愉快だと、滔々と言葉を紡ぎ出す彼に罵声を張り上げ、Gは一連のやり取りを振り返って頭を抱え込んだ。膝を広げてしゃがみ込み、こめかみに覚えた痛みにうんうん呻く。
 心底うんざりしている様子の彼を眺め、アラウディは目を細めた。
 悪びれる様子が全く無い男に歯軋りして、Gは額に手をやって首を振った。よろよろと右手を持ち上げ、人差し指で外を示す。
「いいからテメー、さっさとアイツ追い掛けて宥めてこい」
「どうして僕が」
「アイツの機嫌取るのと、今ここで俺の機嫌を取ってこの部屋片付けんのと、どっちが良い」
「行って来るよ」
「そうしろ。ああ、そうしてくれ」
 夫婦喧嘩は犬も食わないと言うが、まさしくその通りだ。余計なお節介を働かせて、様子を見に来るのではなかった。
 気苦労が増えただけだったと過去の自分に激しく後悔して、Gは軽やかな足取りで大穴を潜り抜ける背中を見送った。
 ひゅるり、風が吹く。
「ったく。どうしてくれるよ、これ」
 後始末にどれくらいの時間と金がかかるか考えたくもなくて、彼はその場で大の字に寝転がった。

2012/01/07 脱稿