薄鈍

 白々と夜が明けていく。
「くっそ」
 東の空が薄らぼんやりとした光に包まれ、天を覆う雲が淡く輝き始めた頃。
 影山飛雄は苛立たしげに悪態をつき、アスファルトの地面を蹴りつけた。
 肩から斜めに掛けた鞄が、動きにあわせて腰の上で弾んだ。家でも学校でも殆ど使わない勉強道具に、夕飯の残りを適当に詰めただけの弁当、そして早朝練習後に着替える制服一式を詰め込んでいる所為でかなり重く、その点でも腹立たしさは膨らむ一方だった。
 どうして一日中、バレーボールに明け暮れていられないのだろう。
 卒業後に役に立つとは思えない数式や英単語をひたすら覚えこまされるのは、かなりの苦痛を伴った。こちらは朝早くから夜遅くまで、排球に心を砕いている。コート上での集中を乱す授業やテストが、影山は大嫌いだった。
 もっとも本日の彼の不機嫌の原因は、間近に迫りつつある中間試験ではなかった。勿論そちらも気分を害するに十分な案件なのだが、今のところ気に病んではいない。どうにかなるだろう、と楽観的に受け取って、深く考えずに捨て置いていた。
 ではいったい、彼はなにをそんなに怒っているのか。
 厚みのあるゴム底の靴で地面を擦り、影山はただでさえ悪いと評判の目つきをもっと鋭くさせ、門扉越しに吼えかかってきた犬をギロリと睨み付けた。
 途端に強面顔の犬は耳を伏し、怯えた様子で尻尾を巻いて逃げていった。赤い屋根の小屋に逃げ込んで、喧嘩を売るのではなかったとひたすら後悔する。
 臆病で根性なしの犬に肩をすくめ、彼は遠くから響いた鶏の声に小さく舌打ちした。
「くっそ。ねみー……」
 そう宣言してから大きく口を開き、歩きながらあくびをする。両手はジャージのポケットに突っ込んだままで、間抜け顔を隠しもしなかった。
 油断すると落ちそうになる瞼に刺激を送ろうと瞬きを繰り返し、若干充血気味の眼で進行方向を射抜く。西の空はまだ藍色に染まり、夜の気配を濃く残していた。
 道の両側に並ぶ住宅も、大半が明かりを消して静まり返っていた。一部気の早い主婦が起き出して朝食の支度に取り掛かっているようだが、新聞を取りに玄関に出てくる人の姿は皆目見られなかった。
 ちりぃん、とベルが鳴って振り返れば、籠の中身を減らした配達員が、一仕事終えた達成感と共に駆け抜けていった。
 見慣れた色のジャンパーを着た背中を見送って、影山は一瞬高揚した心の行き場を失くして口を尖らせた。自転車の音だけで勝手に勘違いした自分を恥じ、悔し紛れに黒髪を掻き毟って天を仰ぐ。
 少しずつ明るさを増していく空に、眩い昼の太陽の片鱗が見えた。
「なにやってんだ、俺は」
 位置がずれた鞄を背中に回し、ついでにあくびの際に滲んだ右目の涙を拭い取る。腫れぼったい感じが嫌で何度か擦った目の下には、薄くだが隈が出来ていた。
 端正な顔立ちを台無しにしている隈取にため息を零し、睡眠不足の原因となった人物を頭に思い浮かべる。憎らしいくらいの満面の笑みが真っ先に瞼の裏に映し出されて、彼はぞっと来る悪寒に襲われて身震いした。
 にこやかな笑顔が見る間に血の色に染まり、真っ黒い闇に飲み込まれて消えていく。悪夢の続きを見せられて、歯の根が合わない奥歯ががちがちと嫌な音を響かせた。
 布団を跳ね退けて飛び起きた瞬間を思い出し、胸の鼓動は静まらない。動悸がして眩暈まで覚えて、影山は噴き出した汗を拭いもせずにその場に立ち尽くした。
 右手で顔の右半分を覆い、乱れた呼吸を整えようと何度と無く肩を上下させる。は、は、と口から小分けにした息を吐き、生温い唾を苦心の末に飲み込めば、格段に明るさを増した空が彼を慰めてくれた。
 夜闇は霞み、眩い朝日が足元に影を作り出す。太陽は今日も変わることなく空に昇ったと言い聞かせて、彼は不安で直ぐいっぱいになってしまう心を奮い立たせた。
 利き足を前に繰り出し、力強く地面を踏みしめて一歩を刻む。続けて左の足を前に出せば、最初こそ鈍かった足取りは徐々に速度を増していった。
 正門に続く緩い坂道を一気に駆け抜け終えた頃には、太陽は東の稜線から丸い頭を覗かせていた。
 憎らしいほどに元気の良いその姿が、ぴょんぴょんウサギのように飛び跳ねる誰かを思い出させる。だが昨日、練習を終えて帰路に着いた彼の顔は疲労感たっぷりで、かなりの消耗具合が見て取れた。
「日向の奴」
 苦虫を噛み潰したような顔で呟き、影山は部活の早朝練習に参加する生徒の為にと、少しだけ開けられていた鉄製の門を潜り抜けた。
 目の前にそびえる校舎は沈黙し、静けさは不気味だった。
 夜の間に冷えた空気がそこかしこに沈殿しており、通り抜けるたびに肌を刺す。半袖のシャツから伸びる腕を前後に揺らし、彼は静寂を突き破るかのように身体を前に運んだ。
 早朝練習は、時間との勝負だ。折角早起きをして来たのだから、一秒でも長くボールに触れて感覚を研ぎ澄ましておきたい。だから影山は荷物を置きに部室へ寄り道するのではなく、大きく膨らんだ鞄を抱えたまま第二体育館を目指した。
 鍵の管理は、最近はすっかり彼の役目だった。誰よりも早く登校し、誰よりも貪欲に練習したがる。それに引きずられる格好で朝早くから学校に顔を出しているのが、同じ一年生の日向翔陽だった。
 但し彼は、影山と違って家が遠かった。
 日向が暮らす町と烏野高校との間には汽車は通っておらず、直通のバスも本数が少ない。練習に間に合う時間帯に運行してくれる親切な路線でもない為、彼の通学手段は自転車頼みだった。
 山をひとつ越えてくるので、かなり体力が必要だ。影山だったら通学を諦めて、近場に安いアパートでも借りて一人暮らしを選ぶ。だが彼は毎日、まだ日も昇らぬうちからせっせとペダルを漕いで姿を現した。
 下手をすれば影山よりも先に登校しているから厄介だ。だから彼が来るより先に体育館の鍵を開け、ネットを張り、ボールを倉庫から引っ張り出してくるのが、このところの日課と化していた。
「……まだか」
 通学路には街灯が設置され、オレンジ色の灯りがそこかしこで確認できたけれど、校内はそうはいかない。真っ暗の校舎に背中を向けて、影山は静謐の中に佇む体育館にそっと嘆息した。
 ほっとしたような、不安感を増したような、なんとも言えない感覚に襲われて上手く言葉で表現できない。きちんと両足で立っているはずなのに不安定な空中に身を置いたような、どうにも落ち着かない環境に彼はふるりと身震いした。
 覚えた寒気をやり過ごし、もう白く濁ることはない息を吐く。ぼんやりしている暇はないと思い出して鞄のポケットに手を入れれば、人差し指が目当てのものを簡単に見つけ出した。
 第二体育館、と書かれた緑色のタグがついた鍵を引き抜き、右手に構える。靴を履き替える前にコンクリート製の短い階段を上った彼は、未だ揺らいでいる心を落ち着かせる意味も込めて、そこで深呼吸を二度繰り返した。
 ひとりで居ると、どうしても余計な事を考えてしまう。目を閉じればまたあの悪夢が蘇ってきて、嫌な予感に胸がざわついた。
 万が一彼の身になにか起きていたなら、昨晩のうちに連絡が回ってきたはずだ。便りがないのは元気な証拠とは、昔からよく言われている言葉だ。だから大丈夫と繰り返し自分自身に言い聞かせて、影山はタール状の暗い海に沈んでいく日向の姿を頭から追い払った。
 疲れた顔をして、自転車に跨っていた。実際、くたくただったはずだ。いつもは颯爽と漕いでいくくせに、昨日に限ってのろのろ運転はいつ転倒してもおかしくない不安定さだった。
 試験前は部活動禁止だから、その分もまとめて、と張り切ったのが災いしていた。どう考えてもオーバーワークで、部長の澤村も大丈夫だろうかと心配していた。
 影山はぎりぎり徒歩圏内で、部員の多くも歩いて通える範囲に住んでいる。日向ひとりだけが山越え必須の、反対方向の町在住だ。
 だから彼と一緒に帰ってやれるメンバーが、排球部には居なかった。どんなに不安でも、毎回彼をひとりで帰さなければならないのが、影山は密かに不満だった。
 今はまだいいが、冬になれば雪が降る日も確実に出てくる。海沿いはまだ降雪もマシだが、激しい冷え込みの後は道路が凍結して、歩くだけでも一苦労させられる。
 自転車での雪道は危険極まりない。かといって歩いて山を越えるのは、時間的制約があって難しい。いっそ冬季だけでも彼を自宅に引き取ろうか、とさえ真面目に考えながら、影山は古びて周辺が白く濁っている鍵穴に鍵を差し込んだ。
 開錠すべく回転させるには、少しコツが必要だった。最奥まで押し込んで、ほんの一ミリ弱だけ戻してから回す。長い歳月を乱暴に扱われて来た為か、このところの体育館の扉は偏屈で、頑固だった。
 菅原に教えてもらい、身体で覚えた感覚を頼りに鍵を回す。指先から手首にかけてぐっと来る手応えに奥歯を噛み、鼻から息を吐いて一息にねじ伏せる。
 がちっ、と重い音がして、彼はほっと肩の力を抜いた。
 役目を終えた鍵はポケットには戻さず、右手に握ったまま扉を開ける。こちらも少し立て付けが悪くなっており、一旦上に持ち上げてからでないと横に滑ってくれなかった。
「おー、影山。早いな」
「……おはようございます」
 こちらは両手を使って、それでもなかなか上手くいかなくて悪戦苦闘していたら、真後ろから声がかかった。振り向いた影山は段差の下でにこやかに手を振っている菅原を見つけ、素早く周囲を窺ってから小さく頭を下げた。
 挨拶が口ずさまれるまでの微妙な間に、烏野高校排球部の副部長を任せられている菅原は数回目を瞬かせた。
 少々落ち着きを欠いている天才セッターの姿に柳眉を寄せ、小首を傾げる。だが問いかける前に影山は扉に向き直り、さっさと靴を脱いで入っていってしまった。
 本人は誤魔化せたつもりかもしれないが、不機嫌なのが丸分かりだ。背中から滲み出ている負のオーラに苦笑して、菅原は担いでいた鞄から体育館シューズを取り出した。
 隅に寄せられた影山の靴を避けて履き替え、がらんどうの空間に目を丸くする。倉庫からボール入りの籠を引っ張ってきたのは、影山ひとりだった。
「日向は? まだ?」
 影山同様練習大好きの部員が見当たらない。珍しい事もあるものだと思いつつ声を大にして訊ねれば、早速カラフルなボールを手にしていた一年生が盛大に空振りした。
 床で跳ね返った球体を叩き落そうとした手がすっぽ抜けて、バランスを崩して片足立ちで飛び跳ねている。あまりにも分かり易すぎる動揺ぶりに、菅原は笑みを引きつらせた。
「そっか。遅刻かあ」
 一年生コンビの間になにかあった様子だが、内容までは分からない。追求はせずそう言うだけに済ませ、察しの良い副部長は邪魔にならない場所に自分の荷物を置いた。
 壁の時計を見れば、早朝練習の開始時間までまだ少し間がある。羽織っていた長袖ジャージのファスナーをおろして、彼はいつにも増して静かな空間を眺めた。
「眠そうだったしなあ」
「ちーっす!」
「おはよう、田中。今日は早いんだな」
 ぽつりと呟き、昨日の放課後のことを思い出す。だが思考を深めようとしたタイミングを狙い、開けっ放しの扉から威勢の良い声が轟いた。
 影山は振り返らない。黙々とボールを打ち込む横顔は、真剣というよりはムキになっている趣が感じられた。
 何をそんなに拗ねているのかと肩を竦め、次々姿を現す部員らを出迎えてやる。部長の澤村が入ってきた時、菅原は少なからずほっとした。
 だが肝心の日向は、一向に体育館に駆け込んでこなかった。
「大地。日向からなんか連絡あった?」
「いや? 来てないのか、珍しいな」
 てんでばらばらに動き回る部員の間をすり抜け、個性派揃いのチームをまとめる主将へと近づく。声を潜めて問いかけると、不思議そうに首を傾げられた。
 言われて気づいた様子の澤村が広い空間を見渡して頷き、最後に影山を見て肩を竦めた。遠目からでも虫の居所が悪いと分かるオーラを醸し出しており、彼の居る一帯だけが妙に空気が重く、どんより濁っていた。
「何かあったのか?」
「さあ……」
 入部当初はなにかといがみ合い、喧嘩が多かったふたりだけれど、最近はすっかり打ち解けたようで、部活動の時間以外でも一緒にいる姿を頻繁に見かけた。昼食も教室ではなく、ふたりであちこち移動しながら食べているらしい。その後は勿論、ボールを持ち出して軽い運動を。
 子犬のようにはしゃぎまわる日向を、影山がよくセーブしている。かと思えば暴走する影山を日向が必死に止めるシーンも、ここ最近増えつつあった。
 ポジション的にもなにかと接点が多いから、仲良くしてくれるのはチームとしても有り難い。仏頂面がデフォルトの影山も、日向が近くに居る時だけは年相応に表情豊かだった。
 その彼が、入学前の状態に戻ってしまっていた。
 澤村の問いかけに、菅原は腕組みをして苦笑いを浮かべた。
 さすがに本人に聞くのは、地雷を踏みに行くようなものだ。それにしても日向が遅れている、ただそれだけであそこまで機嫌を損ねられるものなのか、三年生ふたりには分からなかった。
「まあ、……しばらくは放っておくか」
 今現在はぶすっとして、ボールの扱いが少々荒くなっているだけ。誰彼構わず当り散らすなら話は別だが、目下のところ他に被害は確認できない。
 放置しておいても問題ないと判断して、澤村は雑談に興じている部員らに集まるよう指示を出した。
 二度ばかり手を叩いて音を響かせ、何も言わないうちから一列に並んだチームメイトに顔を綻ばせる。上級生の、それも部長の命令は絶対だからと、影山も末席に加わっていた。
「あー……若干名、遅れている奴がいるようだけど」
 元気印がトレードマークの日向が不在なのは、皆、声に出さないまでも気づいていた。その奇妙なざわつきを咳払いで封じ込めて、澤村が苦笑混じりに告げた矢先だ。
「すみませんっ!」
 誰かが閉めた扉をガラッと開き、男子高校生にしては少々甲高い声が場内に響き渡った。
 戸の、随分低い位置に右手があった。左手は床のレールを握り締め、薄茶色の毛玉、もとい頭部だけが部員の視界に飛び込んでくる。首から下は見えない。ぜいぜい言いながら肩で息をして、今にも腹ばいで倒れこんでしまいそうな雰囲気だった。
 体育館に入るには五段ほどある階段を上らなければならない。どうやら彼は、そこで力尽きたらしかった。
「おいおい、大丈夫か?」
「生きてるかー」
 最後の力を振り絞って叫んでから、ぴくりとも動かなくなってしまった。
 立ち上がることすら出来なくなっている日向をからかい、田中と西谷が率先して列を乱して近づく。呼吸困難に陥っている可愛い後輩の腕を左右から抱えて引っ張りあげるが、鞄の分も重さがあるのでなかなか簡単にはいかなかった。
「こら、お前ら」
「ず、ずみばせ……ねぼ、っ、し……」
「あー、日向はいい。しばらくそこで休んでろ」
 自力で立てない一年生を引きずる二年生コンビを軽く叱って、澤村は噎せている日向に頭を掻いた。無理はするなと言い足して、元気が有り余っているほかの部員へと向き直る。
 その瞬間影山と目が合ったが、彼は即座に顔を背け、壁を向いてしまった。
 睨むような目つきで、直前まで誰を見ていたのか。まず自分ではないなと苦笑して、澤村は目尻を下げた。
 部員同士が喧嘩をすると、部内全体の空気まで悪くなる。必要であれば後でなにかしらフォローを入れようと決めて、彼はふたり一組でストレッチに取り掛かるよう号令を出した。
 常ならば日向と組む影山だけれど、その日向はまだ立てそうにない。体育館の隅で蹲って必死に呼吸を整えており、顔色は決して良くなかった。
「影山」
「……ッス」
 同じ一年の月島は山口と組んでおり、必然的にひとり余ってしまう。今日の彼は機嫌が悪いと皆分かっているだけに、上級生も率先して声をかけようとしなかった。
 見かねた菅原が右手を振り、名前を呼んだ。気を利かせてくれた先輩に、意外に礼儀正しい一年生は仏頂面のまま頭を下げた。
「日向、間に合ってよかったな」
「間に合ってませんけど」
「滑り込みセーフってことだろ。大地も怒ってなかったし」
 練習が始まろうとしているのに、未だ輪に加われずにいるようでは間に合った意味がない。つっけんどんな物言いの影山に苦笑して、菅原は東峰相手になにやら話をしている澤村を盗み見た。
 同じ方角に顔を向け、影山は喉まででかかった嫌味を引っ込めた。
 言ったところで詮無い話だし、菅原相手では聞き流されるのがオチだ。ぐっと堪えて胃の中で消化しようと頑張っている後輩を窺って、温厚で人望が厚い副部長は破顔一笑した。
「昨日は眠そうだったもんなあ。ちゃんと帰れたみたいで、良かったよ」
 まだ記憶に新しい出来事を振り返り、楽しそうに喉を鳴らして肩を揺らす。
 練習後の日向は心底疲れ果てて、自転車を漕ぎながら眠ってしまうのではないかと危惧したくなるくらいの有様だった。
 だからなかなか登校しなくて心配だったのだが、無事が確認できて安心した。何の気なしにそう口にした菅原は、前屈を開始した影山の表情がこれまでにないくらい歪んでいるのに気が付かなかった。
 補助として背中を押してやりながらあれこれ話しかけるが、ノリの悪い後輩は生返事するばかりでまったく調子を合わせてこない。本格的に日向と何かあったと確信を深めるものの、当の日向は影山の不機嫌の原因を察していない雰囲気だった。
 全力で自転車を漕いできた弊害で、早々に足が棒状態だった少年も、ちょっと休んだだけで元気を取り戻した。ひとり遅れて柔軟運動を行って、一足先にボールを使った練習を始めていた仲間に合流する。その際当然のように影山に近寄り、し損なっていた朝の挨拶を声に出したのだけれど。
 部員の半数近くが見守る中、影山は素っ気無い返事ひとつで済ませ、ぷいっと彼にそっぽを向いた。
 小学生か、とツッコミたくなる拗ね具合に、田中たちが一斉に腹を抱えて笑い出した。訳が分からないでいる一部の部員と日向だけがおろおろして、助けを求めて視線を彷徨わせる。
 その後も影山は出来うる限り日向を無視し、声を掛けられても顔を見ようとすらしなかった。
 何故彼が怒っているのか、思い当たる節が見つからなくて困惑が止まらない。トスを求めても聞いてもらえなくて、居ないような扱いを受けるのは酷く不満で癪に障った。
 冷戦状態に陥っている彼らを最初は面白がっていた部員も、終了時間が迫る頃にはさすがに不安を覚えるようになっていた。
「日向、お前影山に何したよ」
「そんなの、おれの方が聞きたいです」
 放課後になってもこの調子では、部全体の士気に関わる。肘で西谷に小突かれた日向は膨れ面でそう返し、一足先に体育館から出ようとしているチームメイトに口を尖らせた。
 昨日練習を終え、学校を出て別れたところまでは普通だった。たった一晩の間に彼の心境にどういう変化が起きたのか、寝食共にしているわけではないのだ、日向に分かる筈がなかった。
 そもそも昨日はくたくたに疲れていて、どんな話をしたかもろくすっぽ覚えていない。なにか気分を害することを言ったのであれば謝りたいのに、話すらまともにさせてもらえなかった。
 呼びかけてもつれない返事ばかりで、顔を付き合わせるのさえ嫌だと態度が告げている。そんな風にされたら、日向だって頭を下げようという気持ちが萎えてしまう。
 この後は普通に授業があり、昼休みを経て午後の授業、そしてまたここに集合して練習を数時間。コーチが来るのは放課後だけだ。その時になっても影山があの調子では、気分屋の烏養が臍を曲げかねない。
 折角得た指導者をこんなことで失いたくない。だから部長や副部長からも次々と影山と仲直りするよう肩を叩かれたのだが、日向自身は彼と仲たがいをしている自覚すらなかった。
 なにをあんなに、彼は怒っているのだろう。人の顔すら見ようとしない相手に最初は反発しか抱けなかったけれど、時間がたつに連れて心を占めたのは、空虚さと寂しさだった。
 もしこのまま、彼とずっと口を利かない日々が続くとしたら。
 トスもあげてもらえない。失敗を叱ったり、励ましたりもして貰えない。昼休みの自主練習も、練習後の帰り道だって。
 昨日まで当たり前に思っていたものが全部、真っ白になってしまう。
 中学時代、ひとりぽつんと体育館で過ごした記憶が不意に蘇って、日向は寒気を覚えて震え上がった。
「影山!」
 それなりに楽しかったけれど、辛くなかったと言えば嘘になる。大勢で、チームでバレーボールをする楽しさを知ってしまった今、あの頃に戻って耐えられるわけがなかった。
 堪えきれず、日向は駆け出した。自分の鞄も忘れて、靴を履き替えもせずに扉をくぐり、外に飛び出す。吃驚して目を回している縁下たちを振り切り、猫背気味に部室へ向かう背中を見つけ出して声を張り上げる。
 八時半ともなれば、部活動に参加していない一般の生徒も登校している時間帯だ。雑多な賑わいがそこかしこから響く中、矢のような鋭い声にビクッと背筋をわななかせ、子供が見たら泣き出すに違いない顰め面をしていた男が伸び上がった。
 大きな鞄を襷掛けにした影山がゆっくり振り返る。手ぶらで仁王立ちになっているチームメイトをそこに見つけて怪訝に眉を顰め、不思議そうに首を右に倒す。
「日向?」
「お前、いい加減にしろよ。なんなんだよ、さっきから」
 低い声で名前を呼ばれて、今日初めてまともに聞いた彼の声に思わず泣きそうになった。鼻の奥がツンと来て、誤魔化す為に声を荒らげ怒鳴りつける。
 唾を飛ばした日向に、彼は何かを言いかけて押し黙り、ふいっ、と背を向けた。
 ここに至ってまだ人を無視しようとする彼に腹が立ち、簡単には収まらない。殴り合いの喧嘩に発展しそうな雰囲気に、通りすがりの生徒が不安げな顔をした。
 それらも含め、我関せずの態度を貫こうとするのが気に食わない。堪えが利かず、日向は目を釣り上げると歩き出した背中に手を伸ばした。
 鞄の肩紐を掴んで捻り、自分の方へと引っ張る。突然後ろから力を加えられて、首が絞まった影山が目を白黒させた。
 片足立ちで飛び跳ねてたたらを踏み、牙を剥く日向を眼光鋭く睨みつける。だがどれだけ怖い顔をしても、日向はもう慣れっこになっていた。
 物怖じしない彼と至近距離で睨みあって、埒が明かないと先に音をあげたのは影山だった。多すぎる人の視線を気にして日向の脛を軽く蹴り、顎で部室棟の裏手をさりげなく示す。
 そちら側はさすがにあまり人が来ないからと、ようやく話をする気になった彼に日向は頷いた。
 まずは第一関門突破だと胸を撫で下ろして、それから自分が着の身着のままだったのを思い出す。
「やべ、取ってくる」
「じゃあ俺も行く」
 時間も時間なので、部室棟周辺よりも体育館の方が人通りは少ない。そのコースなら歩きながら話が出来ると踏んだ影山に、日向はちょっと驚いた顔をした。
 さっきまであんなに機嫌が悪かったのが嘘のように、すっかりいつも通りだ。練習中のとげとげしさは一気に薄らいで、なんだか拍子抜けだった。
「あ、れ? 影山?」
「ンだよ」
「……怒ってたんじゃねーの?」
「怒ってるに決まってんだろ」
「てっ」
 一瞬の変化についていけず、おろおろしながら声を上ずらせる。戸惑っていたら、痛い一撃が脳天に降ってきた。
 遠慮のないチョップをまともに食らい、日向の身長が五センチほど縮んだ。頭蓋が真っ二つになりそうな攻撃に涙を浮かべて鼻をぐずらせれば、溜飲を下げて妙に清々しい顔をした影山と目が合った。
 ふっ、と気の抜けた笑みを浮かべ、日向に乱された肩紐を直して鞄を担ぎ直す。
「かげ……」
「けど、もういい。なんか馬鹿らしいし。お前は元気みたいだし」
「は?」
 なにやらひとりで感情を消化して、勝手に納得してしまっている。まったく話についていけていない日向は大きな目を丸くして、打たれた場所を両手で庇った。
 じんじんする痛みに耐えて、第二体育館を目指す影山の背中を追いかける。衝撃でずっと眠ったままだった脳細胞が叩き起こされたお陰か、思い出せずにいた昨日のやり取りが不意に蘇った。
 今にも倒れそうな日向を心配して、ひとりで帰れるのかと何度も確認してきた彼。それを少々わずらわしいと思いながら、都度頷いていた日向。
 それでも不安を払拭できなかったのだろう、分かれ道に至り、影山は日向にひとつ約束させた。
「あ……」
 右足を地面に置く。だが入れ替わりに浮かせるはずだった左足が持ち上がらない。
 歩いている最中に凍りついた日向に、影山が怪訝に振り返った。
 その顔色は普段より少し色が悪く、目の下には寝不足です、といわんばかりの隈があった。
 すっかり忘れていた。疲れ果てて帰り着いた家では、飯を食べて風呂に入るのがやっとだった。目覚まし時計のセットも忘れるくらいだったからよっぽどで、影山と交わした約束も当然、完璧に頭からすっぽ抜けていた。
 悪いのは彼ではない。
 自分だ。
 ようやく辿り着いた答えに瞠目して、日向はふるりと震え上がった。申し訳ないと思う気持ちのほかに、そこまで自分を想ってくれていたのだと気づかされて嬉しさに魂が戦く。
 頬を高潮させて興奮している彼に柳眉を寄せ、影山が体ごと向き直った。
 その彼に、日向は満面の笑みを浮かべた。
「ごめん!」
「ああ?」
 笑いながら謝罪された。唐突だったので意味がわからず、唖然となっている影山に首を竦めて舌を出し、日向は勢いよく駆け出した。
 人目が途絶えているのを良いことに高く跳び上がり、ハッと息を呑んだ彼の胸へと突っ込んでいく。咄嗟に逃げようとした影山は、直前で思いとどまって奥歯をかみ締めた。
「だっ」
 衝撃を受け流しきれず、後ろに数歩下がってバランスを取る。瞬時に背中に腕を回した日向にごろごろ喉を鳴らされて、意味がわからないと彼は天を仰いだ。
「なんなんだ、お前」
「ごめん。ほんっと、ごめん」
「だから」
 先ほどと立場が逆だ。何故こんなにも謝罪を重ねられるのかが分からない。それに一方的に捲し立てられるのはいい気分ではなくて、混乱する頭を抱えながら首を振った彼に、日向は元気よく顔を上げ、口を開きかけたところで視線を伏した。
 今更正面向き合って言うのが恥ずかしくなって、耳の先まで赤く染めてしがみつく。
「心配かけた。ごめん」
「……ああ」
 泊まっていくかとの誘いも断り、日向は昨日、自宅に帰る道を選んだ。道中暗い上に山道なので危険だからと、渋々彼の帰宅を許した影山はひとつだけ約束するように言った。
 無事に帰りつけたら、連絡すること。
 ちゃんと着いたと、この際メールでも、携帯電話のワンギリでも構わないから、伝えること。
 だのに日向は、それを今の今まで忘れていた。
「それは、もういいって、言っただろ」
 もしかしなくても彼は、ずっと起きて日向からの知らせを待っていたのだろうか。鳴らない電話を前にして、眠れぬ夜を過ごしたのだろうか。
 だとしたら申し訳なさすぎて、いくら謝っても謝り足りない。
 しつこく同じ単語を繰り返す日向に痺れを切らし、影山が強制排除に乗り出した。力技で引き剥がそうとする彼に抵抗して腕の力を強め、日向は歯を食いしばって分厚い胸板に顔を埋めた。
 息を吸えば、汗臭さの中に彼特有の匂いが感じられた。この世で一番安心できる香りで胸をいっぱいに満たし、白いシャツをぎゅっと握り締める。
 少しだけ雰囲気が変わった彼に目を瞬かせ、影山は薄茶色の丸い頭を軽く掻き回した。
 そういえばまだ言っていなかったと思い出して、笑う。
「おはよう、日向」
 そっと抱きしめ返して囁けば、茹蛸より赤くなった日向が小さく頷いた。

2012/08/05 脱稿