宥恕

 誰も居ない廊下に、カッ、カッ、と小気味のよい足音が響いた。斜めに伸びた影は長く、ドアなどで凹凸激しい壁の上で歪んだり、縮んだりしていた。
 一定のリズムを崩さずに突き進む背中はピンと伸びて、まるで軍隊の行進かなにかのようだった。
 そのたったひとりの行軍が、とある扉の前で唐突に終わりを告げた。上を向けば応接室の文字が見える。それ以外はなんら特色の無い片開きのドアのノブを掴んだ青年は、ひとつ息を吐いた後、ノックもせずに把手を回した。
 軽く押せば、難なく道は開かれた。
 最初から鍵など掛かっておらず、平素から出入りは自由だ。ただこの部屋に自ら立ち入ろうという剛毅な生徒は、全学年を通しても片手で足りるくらいではなかろうか。
 そんなことを取り留めなく考えながらキィ、と微かに軋んだ音を立てたドアから視線を逸らし、青年は室内を見回した。
「……?」
 右から左に首を巡らせ、壁に行き当たったところで逆方向を辿る。そうしてまたもや壁にぶち当たったところで、彼は瞬きを三度繰り返した。
 部屋は、無人だった。
「沢田?」
 そんな筈がないと声に出して名前を呼んでみるが、当然ながら返事は無かった。同じ台詞を、ほんの少し声を高くして繰り返しても結果は変わらない。瞠目して、彼は慌ただしく室内に踏み込んだ。
 乱暴にドアを閉め、急ぎ足で応接セットへと歩み寄る。ソファの背もたれを掴んで座面を覗き込むが、予想は外れた。
 横になって眠っているのかと想像したが、三人が並んで座っても余裕なソファにも人影は無かった。少し前――とは言えないかもしれないが、誰かが此処に居た気配だけは僅かに残されていて、それが余計に部屋の空虚さを強調していた。
 人が座っていた跡と思しき窪みを撫で、彼は顔を上げた。
 壁の時計は午後五時手前を指し示していた。下校時刻にはまだ早いが、部活動に参加していない生徒ならばとっくに帰宅している頃合いだ。
 閉め切った窓の外から響く掛け声は、野球部のものだろうか。ボールを打つ音が甲高く響いて、耳障りなノイズについ舌打ちしてしまった。
「何処に」
 偶々席を外しているだけとも考えるが、通学鞄すら残っていない事実が憶測を否定する。一瞬でカラカラに干からびた喉が上手く音を紡ぎ出せず、声は掠れ、舌先に疼くような痺れが生じた。
 唾を飲んでなんとか誤魔化し、体内に蔓延る不穏な熱を息に混ぜて吐き出すが、胸中に渦巻く嫌な予感はどうしても拭いきれなかった。
 紺色のベストごと胸元を掻きむしれば、袖に嵌めた緋色の腕章が乱暴を咎めるかのように揺れた。
 長めの黒髪が額の真ん中で弾んだ。荒い呼吸を繰り返し、並盛中学校風紀委員長たる青年は奥歯を強く噛み締めた。
 待っていろと言った。
 待っている、と言われた。
 それなのに、どうして。
「さわだっ」
 激しい憤りに襲われて、叫ぶ。瞬時に踵を返した彼は、丁度用事で訪ねて来ていた副委員長を突き飛ばすと、出来た隙間から廊下へ飛び出した。
「恭さん、どちらへ!」
 尻餅をついた長ラン姿の男が大慌てで声を張り上げたが、振り返るどころか返事すらしない。廊下を大股で進み、正面玄関で靴に履き替えた彼は、半分閉められた校門から公道に出たところで一気に駆け出した。
 抑え込んでいた感情を爆発させて、エネルギーに転換して速度を上げる。我ながらどうかしていると、冷静さを失っている自分自身をどこか他人事のように眺めはしても、足を止めようとは思わなかった。
 程なくして見え始めたオレンジ色の屋根に、はっ、と短い息を吐く。勢いつけて地を蹴って、直後、艶やかな黒髪が宙を舞った。
 己の背丈ほどの高さがある塀に飛び移り、スピードを緩めることなく細い道ならぬ道を突っ走る。途中で一軒家の屋根に移動して、猫の額ほどのベランダによじ登ればゴールはもう目前だ。
 窓は開いていた。
 風に煽られ、白いカーテンが軽やかなダンスを踊っている。けれど今の彼の眼には、それすらも苛立ちを増幅させる不届き者に映った。
「小動物!」
「うひゃあっ」
 だからと、いつになく荒っぽく布を横に押し退け、身を乗り出して怒鳴り声をあげる。即座に可愛らしい悲鳴が聞こえ、一緒にどすん、と重い物が床に落ちる音が響いた。
 右足を窓枠に置いて上半身を室内にねじ込んでいた青年は、騒音の発生源を探って首を左に向けた。
 勉強机のその先に、安物のパイプベッドが置かれていた。下は空洞で、時期外れの服などを入れたケースが隙間を埋めるように並べられていた。布団は今朝方使用者が飛び起きた時のまま、変に片側に寄った状態で放置されていた。
 そこには居ない。ならばどこ、と視線を手前に戻そうとしたところで、ベッドと背の低いテーブルとの間に挟まっているまん丸い物体に気がついた。
「いって、てぇ~……」
 薄茶色の頭を右手で抱え、左手で尻を撫でている。中学生としては些か華奢すぎる体躯がのっそり姿を現して、青年は切れ長の眼に怒りを滲ませた。
 応接室で待つよう言っておいたのに、どうして此処にいるのか。
 膨らんだ苛立ちがいよいよ限度を超して、空気を入れすぎた風船のように音立てて破裂した。
「どういうつもりなの」
 窓枠を踏んでいた足を前に送り、靴のまま部屋に上がり込む。フローリングを踏みしめた彼に目を瞬いて、制服から私服に着替え済みだった少年ははっ、と息を呑んだ。
 引き攣った頬と噛み締められた唇が、如実に胸の裡を伝えてくれた。
「ひ、ヒバリさん」
 ツカツカと早足で迫り来る青年から逃げようと、少年はしゃがみ込んだまま後退を計った。しかし真後ろにはベッドが陣取り、横に進んだところで壁まで一メートルとない。
 どうすればいいか分からずもたもたしているうちに距離は限りなくゼロに近付いて、投げ出していた足の真横に黒光りする靴がダンッ、と衝き立てられた。
 踏まれるかと恐怖して竦み上がった少年を見下ろし、雲雀は奥歯を軋ませた。
「どういうこと。誰が勝手に帰って良いって言ったの」
「それは、えと。あの」
「僕に黙って出て行くなんて、なんのつもり!」
 吐き捨てられる言葉の端々から怒りが滲み、いつ大噴火を起こすかも分からない。今はまだ、彼の手は空っぽだけれど、銀の光を纏う凶器を握り締めるのも時間の問題と思われた。
 渾身の力で殴り飛ばされる未来を想像して青くなって、オレンジのパーカーを着込んだ少年は両手で頭を庇った。
 首を竦めて小さくなり、ベッドから落ちた衝撃で痛む尻にも鼻を愚図らせる。反論したいのに雲雀の気勢が激しすぎて、下手に刺激するのも怖かった。
 指の隙間からちらりと上を窺えば、目を吊り上げて睨む黒水晶の眼が見えた。
 本気で怒っている。たまに学校で見かける、群れる不良らを打ち倒す時とは毛色の異なる表情に背筋を震わせ、彼は下唇を噛み締めた。
「なんとか言ったらどうなの、沢田綱吉」
 低い声で唸っていたら、息を吐いて肩の力を抜いた雲雀が素っ気なく言った。
 言い訳の機会すら与えようとしなかったのは、どこの誰か。自分を棚に上げて偉そうに言い放った彼に反感を抱き、綱吉は唇に牙を立てた。
 突き刺さる痛みで己を鼓舞し、ぐっと腹に力を込めて震えを押し殺す。浅い呼吸を繰り返す彼を見て怪訝に眉を顰め、雲雀は黒髪を掻き上げると同時に右足で床を蹴った。
 足許で鋭い音がして、口を開こうとしていた綱吉は驚きに肩を跳ね上げた。
 出鼻を挫かれて、折角高めた気持ちが萎えた。弱まった気配を鼻で笑い、雲雀はやれやれと首を振った。
 授業が終わって、放課後。家に帰ったら集中出来ないからと、応接室で宿題をさせて欲しいと訪ねて来たのは綱吉だった。もっともそれがただの口実だというのくらい、雲雀だって重々承知していた。
 一緒にいられる時間は短い。その短い時間を大事に使いたくてやって来た彼を追い返す理由など、どこにもありはしなかった。
 だが雲雀とて、風紀委員の仕事がある。校内で群れている連中がいると聞けば、放っておくわけにはいかない。
 今日もそうやってひと暴れ済ませ、一旦席を辞した応接室に戻った。
 そして、今に至る。
 無人の応接室に意気揚々と帰った自分が滑稽で、みっともなくて、情けない。これまでの人生で類を見ない屈辱に拳が震えて、押し留めきれない怒りはこの世で最も愛しい相手に向かった。
 突き刺さる憎悪に身震いして、綱吉は負けてなるものかと胸を叩いた。
「ヒバリさん、俺は」
「許さないよ」
「――ヒバリさん」
「次こんな真似したら、絶対に許さない」
 部屋の主に断りなく、置き手紙のひとつさえ残さずに黙って帰るなど、失礼極まりない。
 約束違反も良いところで、だのに綱吉はちっとも反省の色を見せない。自分の取った行動が裏切りにも等しい行為だと、どうして分かろうとしないのか。
 ぞんざいに吐き捨てられたひと言に、綱吉は琥珀色の瞳を大きく見開いた。
 表面が乾くのも構わずに佇む雲雀を凝視して、それからゆっくり顔を背ける。俯いて、投げ出していた両手を握り締めて、彼は自嘲気味に嗤った。
「いいよ、許さなくて」
「沢田?」
「許してくれなくて良いって。そう言ってるんです!」
 ぼそりと呟かれた独白が聞こえなくて、雲雀の眉間に皺が寄った。その、真面目に人と向き合おうとしない態度が腹立たしくてならなくて、綱吉はつい、声を荒らげて叫んだ。
 目の前のテーブルを殴って上にあった雑誌を床に払い落とし、鈍い痛みを訴える手を振り回して膝立ちになる。急に語気を強めて眦を裂いた彼に圧倒されて、雲雀は声もなく半歩後退した。
 音が聞こえそうなくらいに奥歯を噛み締めた少年が、鼻息荒くしてかぶりを振った。
「勝手なのはどっちですか。俺が黙って帰ったのはそんなに悪い事ですか。いっつも、いっつも……俺のこと放って行っちゃうのは、ヒバリさんの方じゃないですか!」
「っ!」
 目を吊り上げて罵声を浴びせかけ、腕を横薙ぎに払う。切り裂かれた空気が風を起こし、息を呑んだ雲雀の太腿を叩いた。
 後ろによろけた彼は踵で床を擦って体勢を保ち、腕を振り抜いた状態で停止している綱吉を騒然と見つめた。
 肩で息をした少年が、口惜しげに唇を噛み締めた。
 琥珀色の瞳が怒りと哀しみ両方に彩られて、酷く不安定な輝きを放った。
「いつもそうだ。いっつも、そうだ」
 吐き捨てて、顔を背ける。握り締めた拳をベッドに押し当てて、綱吉は呻くように叫んだ。
 雲雀が好きだった。好きだから、一緒にいたかった。
 中学生は忙しい。朝起きて学校に行って、授業が終われば家に帰って宿題をして、家族と共に過ごして夕飯を食べ、風呂に入って眠りに就く。ちょっと油断していたら、瞬きをしている間に一日が終わってしまうくらいだ。
 その僅かな時間の中で、どうやれば少しでも長く愛しい人と肩を並べていられるだろう。
 知恵を絞り、懸命に考えて、結果足繁く応接室に通うことにした。
 雲雀も綱吉を好きだと言ってくれた。同じ空間に一秒でも在り続けようとする綱吉の涙ぐましい努力を、彼だって喜んで受け入れてくれていた。
 そう思っていたのに。
「どうせ。どーっせ。どうっせ! 俺は、なにをやってもダメダメの、ダメツナですよ」
「なに言ってるの、沢田」
「だって、そうじゃないですか。俺より群れてる不良たちのが良いんでしょ、ヒバリさんは。俺なんか放っておいても、平気なんでしょ。いっつもそう。俺が応接室に居ても、お構いなしで出て行っちゃう。全然帰って来ない。これじゃあ、俺、なんの為に彼処にいるんだか……ちょっとは考えたことありますか」
 勢いつけて己の胸を叩き、音を響かせた綱吉の声が裏返った。常より数倍高いトーンで怒鳴り、鼻を愚図つかせて奥歯を噛み締める。
 大粒の瞳に睨まれて、雲雀は返す言葉を見つけられずに押し黙った。
 戸惑いに揺れる双眸を見上げて、綱吉は切なさに睫毛を震わせた。
 俯いて、握った拳を解く。ズボンの皺を掌で押し潰して、彼は今更に黒塗りのローファーを気にして雲雀の足首を叩いた。
「あ、……」
 当人もそれでようやく思い出して、気まずげに視線を泳がせた末に右足を持ち上げた。生温かな靴を右手でまとめて持って、背中に隠す。いつもなら綱吉が下敷きにする古新聞を差し出してくれるのだが、流石に今日は望むべくも無かった。
 肩を落としてひっそりため息をつき、今し方突きつけられた言葉の数々を脳内で再生させる。
 ぐじ、と鼻水を啜った綱吉が口から息を吐き出した。
「ヒバリさんにとって、俺ってその程度だったんだ」
「そんなこと」
「嘘言わないでください。今日だけじゃない。一昨日も、その前だって。俺、ずっと待ってた。待ってたのに、ヒバリさん、帰って来たと思ったら下校時間だから早く出て行けって。俺、留守番する為にいるんじゃないのに。それに、……そうだよ。俺だって、ホントは忙しいんだ」
 否定しようとする雲雀を遮り、矢継ぎ早に言葉を紡いでいく。右を見て、突然左を向いたかと思えば背筋を真っ直ぐ伸ばして柏手を打ち、綱吉は自分に言い聞かせるように捲し立てた。
 胸の前で両手を結び合わせて額に押し当て、深呼吸した後にキッ、と眼光鋭く雲雀を射貫く。
 突き刺さる眼差しに臆し、彼は跳ねた心臓を制服の上から押さえ付けた。
「さ……」
「俺だって、遊びたい。獄寺君や、山本から誘われても、ヒバリさんが来いって言うから我慢して断ってた。でも、ホントはみんなと一緒に出かけたいし、ゲームしたり、宿題の見せっこだってしたい」
 名前を呼ぼうとして、呂律が回らない。半端なところで途切れた声を上書きして、綱吉が自分の太腿を引っ掻いた。
 琥珀の双眸が地を這い、此処ではない場所を映し出す。とっくに通り過ぎた後の時間に思いを馳せて、本来得られる筈だった思い出を想像して悔しさに涙をにじませる。
 好きな人との時間を優先させたばかりに、友人等との時間を犠牲にした。多くの笑顔で埋め尽くされるはずだった記憶のノートは、けれど実際には真っ白で、空虚な空白が大半を占めていた。
 再び作った握り拳がわなわなと震えた。肩を怒らせ、綱吉は愚かな過去の自分に鉄槌を下した。
 床を殴り、反動で顔を上げる。涙目を向けられて雲雀が瞠目した。
「いいです、もう。許してくれなくったっていい。俺も。俺だって……ヒバリさんのこと、許さないって決めたんだから!」
 たまりに溜まった癇癪を爆発させて、吐き捨てる。
 目に見えぬバッドで後頭部を強打された衝撃に打ち震え、雲雀はその場に立ち尽くした。
 緩んだ指先から靴が滑り落ちた。底を上にして床に転がったローファーが、無残な死に体を晒した。
 沢田綱吉という人間は、本人が思っている以上に男女から人気が高い。最初こそその愚鈍さや無知蒙昧ぶりに辟易されるけれど、深く関わり合うにつれて懐の深さ、純粋さに加え、柔らかな笑顔と彼を取り巻く穏やかな空気に魅了されて、気がつけば手放し難い存在へと変貌していた。
 彼を手元に置きたがる人間は、存外に多い。だから雲雀は不安になる。遠くへ行ってしまわぬよう、他に心を絡めとられてしまわぬよう、常時傍に置いておかねば落ち着かなかった。
 初めの頃はその独占欲を心地よく受け止めていた綱吉だけれど、限度を超える彼の我が儘な振る舞いに、次第に息苦しさを覚えるようになった。
 一緒に居たい気持ちは昔も今も変わらない。
 ただ、愛しまれているという実感が少しずつ薄らいで来ていた。
「ひとりで待ってるの、もう嫌なんです」
 鼻声で呟き、視線を伏す。俯いて両手で顔を覆えば、ずっと堪えていた涙が一粒、はらりとこぼれ落ちた。
 濡れる指先を呆然と見つめて、歪み、霞んで行く視界を闇に閉ざす。床に腰を落として背を丸めた少年を茫然自失と見下ろして、雲雀は色を失った唇を戦慄かせた。
 確かに彼の言う通りだった。
 傍に居たいからと束縛しておきながら、自分の都合ばかりを優先させて彼を二の次にしていた。応接室で帰りを待たせるのが当たり前になっていて、ひとり残して行く間、彼がどんな気持ちでいるのかまで想いが及ばなかった。
 寂しがらせていたなど、気づきもしなかった。
 は、と短く息を吐く。熱いものが胸の中に渦巻いて、雲雀は叫び出したい衝動をすんでの所で堪えた。
「さわだ」
「知らない。ヒバリさんなんか、もう知らない」
 まだ彼の事がこんなにも好きなのに、一緒にいると辛いだけで苦しい。それなら気持ちごと遠くに投げ捨ててしまった方が、きっとずっと楽だ。
 目を合わせようとしない彼の前で膝を折って屈み、雲雀はゆっくり手を伸ばした。癖のある薄茶の髪を指の背でなぞり、小刻みに震えている肩を撫でて頬を覆う手に重ねあわせる。
 触れあう熱にビクリとして、綱吉は呼吸さえ止めた。
「沢田、ごめん。許して」
 好きなのに、傷つけていた。哀しませてしまった。
 後悔がどっと押し寄せて、雲雀のちゃちなプライドを軒並み打ち砕いた。あれこれ考えたものの、この場に相応しい言葉は他に思いつかなかった。
 低い声で謝罪し、恩赦を乞う声に唇を戦慄かせ、綱吉は喘ぐように息を吐いた。
「ゆずじ……まじぇん」
 鼻が詰まって、上手く発音出来ない。恥も外聞もなく涙を流す少年に相好を崩し、雲雀は残る手で華奢な体躯を引き寄せた。
 腰を抱き、背筋を伸ばして胸で受け止めてやる。肩に額をぶつけた綱吉は飛び散った星に目を瞬かせ、優しく背を撫でる手に嗚咽を漏らした。
「許してよ、沢田」
「ヤだ。いやれす。ゆるじましぇん。ゆるしてあげまじぇん!」
 耳元で響く柔らかな音色に、甘く心が擽られた。
 うっかり絆されて、許してしまいたくなる自分をぐっと抑え込んで突っぱねる。唇を噛む痛みで己を律する彼に肩を竦め、雲雀は天を仰いで目を細めた。
 瞼を伏して、コツン、と綱吉の頭に頭をぶつけて笑みを零す。
「なら、どうしたら許してくれるの」
 逆に問い返せば、彼は途端に言葉を喉に詰まらせた。
 意地を張ったまでは良かったが、その先について全く考えていなかったのだろう。懸命に対案を探して目を泳がせる彼に密やかな笑みを浮かべ、雲雀は石鹸の良い匂いがする温もりを腕の中に閉じ込めた。
 締め付けを強められて、綱吉が身を捩った。
「ヒバリさん」
「許してくれる?」
「ヤです」
 窮屈さに困って顔を上げれば、調子に乗って問われた。即座に叩き落として頬を膨らませれば、黒目を眇めた青年が猫のように擦り寄って来た。
 頬を頬で擦られて、綱吉は肌に馴染む低めの体温に口を尖らせた。
 結局、なんだかなんだと言いながらも、自分はまだ彼の事が大好きなのだと思い知らされた。
「あした」
「……うん?」
「明日、土曜日。ずっと、俺と一緒にいてください」
 この際どこかに出かけるだとか、そんな贅沢は言わない。いつものように応接室で、格別なにかをするわけでもなく、ただ並んでソファに座ってだらだらする。それで構わない。
 他になにもいらない。
 隣にいてくれるだけでいい。
「そしたら、……許してあげます」
「それは、なかなかに難しい条件だ」
「出来ないんだったら、良いです。許しません」
 風紀委員の仕事は、机に向かって書類と格闘する事ばかりではない。トラブルが発生すれば一秒でも早く現場に駆けつけ、群れている連中を駆逐するのも重要な任務のひとつだ。
 それを他に任せ、終日屋内で過ごせと。
 大きな騒動が起きないよう、ただ神に祈るしかない。
 渋った雲雀に畳みかけて、綱吉はそっぽを向いた。紅色の頬をぷっくり膨らませ、承諾しなければ永遠にこのままだと言わんばかりの態度を取る。
 強情な恋人に肩を竦め、雲雀は彼を解放して床に腰を下ろした。
 足を崩し、目を細める。
「分かったよ。だから」
 はやく、こっちを向いて。
 目一杯、努力しよう。心に決めて、依然余所向いたままの少年にそうっと囁く。
 静かに伸びて来た手に優しく頬を撫でられる。その快い温もりに、彼はようやく溜飲を下げた。

2012/01/12 脱稿