沈香茶

 カクン、と力を失った首が前に傾く。 
 頭部と胴体を繋ぐ関節が三十度の角度で下がり、あと少しで前のめりに倒れこむところで持ち直して、少しずつ後ろへと。だが完全に元通りになるより早く、またも真ん丸い頭はガッコン、と斜め前に垂れ下がった。
「……器用だな」
 右手には購買部で激戦を繰り広げ、どうにか入手に成功した焼きソバパンが握られていた。だがそれも束縛が緩み、いつ足元に落ちてもおかしくない状況だった。
 商品名が印刷された透明な袋から、今にも滑り落ちていきそうだ。そうなった後のことを考えると億劫に感じて、影山は一秒半の逡巡の後、そうっと利き腕を伸ばした。
 同年代のそれに比べると少し太くて短い指を脇に退かし、齧り跡の残るパンを袋ごと引き寄せる。雑な切れ目の開け口を摘んで上に持ち上げれば、重力に引っ張られた中身がストンと底に沈んだ。
 一センチ少々の長さに千切れたソバが一本だけ守りきれずに落ちたが、この程度ならば許容範囲だろう。こげ茶色の細い物体に肩を竦め、彼は袋から軽く空気を抜いて作った空きスペースを二重に折り返した。
 輪ゴムの一本でもあればよかったのだが、生憎と持ち合わせていない。手を離せばすぐに元通りに伸びてしまうのに苦笑を禁じえず、扱いに苦慮して繭を顰めていたら、斜向かいで舟を漕いでいた日向がまたも茶色い頭を上下させた。
 口元は弛緩してだらしなく開き、そのうち涎でも垂れて来そうな雰囲気だった。真ん丸い瞳は瞼の裏に隠れて見えず、広い額も垂れ下がったくしゃくしゃの猫毛に覆われて影山の目に映らない。
 胡坐を崩した状態で座り、こっくりこっくりしている彼の姿はなんとも間抜けで、滑稽だった。
「食ってすぐ寝るなんて、小学生かよ」
 呆れ混じりに呟き、影山は焼きソバパンを彼の左脇に置いた。
 どうせあと二十分もすればチャイムが鳴り、教室に戻らなければならないのだ。その程度の時間で中身がべちょべちょに湿るとは思えない。
 放課後の、部活動が始まる前までくらいなら、なんとかもつだろう。少々埃っぽくて薄暗い空間を眺めながら、彼は空いた手を右側に伸ばした。
 腰よりも少し後ろに置いていた紙パックを取り、ストローを口に運ぶ。まろやかなヨーグルトの香りが鼻腔に広がって、さわやかな喉越しに頬が自然と緩んだ。
 ずずず、と音を響かせて最後の一滴まで飲み干す。凹んだ表面を軽く撫でて形を整えて元の場所に戻し、入れ替わりに朝方入った店で貰ったビニール袋を掴めば、薄い表面に皺が寄り、がさがさと五月蝿く騒ぎ立てた。
「ちっ」
 つい癖で、流れ作業でやってしまった。向かい側で微睡んでいる日向を慌てて振り返って、もぞもぞと身を捩る様に冷や汗を流す。
「……ん、ぅ……?」
「日向」
 小さなうめき声と共にのっそり顔を上げた彼が、眠そうに目を擦って頭を左右に振った。大きなあくびを二度繰り返し、折角開きかけていた瞼をまた下ろしてから亀のように首を引っ込め、不思議そうに影山を見る。
 まだ半分夢の中にいる瞳に苦笑いを送れば、五度もの瞬きを連発させた日向が頻りに首を傾げて眉を顰めた。
「……あ、れ?」
 きょとんとしながら呟かれて、影山は堪えきれずに噴き出した。
「起きたか」
「あれ。おれ……、寝てた?」
「ちょっとだけな」
 うつらうつらしていただけなので眠りは限りなく浅かったろうが、意識がこの場から離れていたのは間違いない。きっぱり断言して首肯した影山に、未だどこか眠そうな日向は緩慢に頷いた。
 両手を猫のように丸めて何度も顔を撫で回し、合間にあくびを挟んで最後にぐーっと背筋を伸ばす。両腕ごと後ろに反り返った彼に引っ張られて、学生服の下に着込んだパーカーの裾が持ち上がった。
 ただ残念ながら、臍は見えなかった。
「……ち」
 若干面白くなくて人知れず舌打ちし、影山は腰を捻ったり首を回したりと、座ったまま柔軟運動を開始した日向に肩を竦めた。飲み干した後だというのも忘れて紙パックを捕まえて、ストローを咥えようとしたところで思い出して気まずげに口を尖らせる。
 急に不機嫌になった彼にきょとんとしながら、日向は空っぽの両手を何度も握っては広げた。
「うん?」
 睡魔に襲われる前まで持っていたはずのものが消え失せているのに今頃気づき、真ん丸い目を大きく見開いてからむすっと頬を膨らませる。睨まれて、影山が眉間に皺を寄せた。
「ンだよ」
「俺のパン、食ったろ」
「なわけあるか。よく見ろ」
 彼が購買部で上級生と死闘を繰り広げて、ぎりぎりのところで勝ち取ったのがあの焼きソバパンだ。その貴重な一品が消失したとあれば、心穏やかではいられない。
 本人なりに凄みを利かせた声色で問い詰めた日向に、影山はやっぱりな、と内心呟いて人差し指を伸ばした。
 パックを握ったまま指し示してやり、つられた日向がそちらに視線を向ける。だが陽が当たらず、照明が灯っていない場所というのもあって、彼はなかなか目的の物を探し出せなかった。
 左手を宙に走らせて、指先を掠めた乾いた感触にアーモンド形の瞳が丸くなる。ぽかんと開いた口が急ぎ閉ざされて、影山はそれ見たことかと肩を竦めた。
 無実の青年を糾弾してしまったのを恥じ、日向はそそくさと折り目が目立つパンの袋を引き寄せて膝に抱きしめた。
 食べようかどうか一瞬悩んでから、広げかけた袋の口を閉じる。ぎゅっと握って軽く捻り、中の空気を絞り出しながら縛り上げた彼を見て、影山はそうすればよかったのかと嘆息した。
「食わねーのか」
「いいや。なんか、おなかいっぱい」
 問いかけに苦笑混じりに返して、日向は右手を傍らに伸ばした。影山の物とは違う店名が記された袋を広げて散らばるゴミを次々放り込み、最後に持ち手部分を交差させて縛り上げる。
 丸く膨らんだ白い風船の上に焼きソバパンを置いて、彼は白色のパーカー越しに腹を撫でた。
「そりゃ、あんなけ食ってりゃな」
 日向は例の焼きソバパンの前に、クリームパンとハムカツサンド、そして玉子サンドを胃袋に放り込んでいた。それ以外にも、早朝練習後には小腹が空いたとおにぎりをふたつ食しており、放課後練習の前にも、携帯用の栄養補助食をいつも頬張っている。
 この小さな体のどこに、あれだけ沢山の食べ物が収まるのか。朝食と夕食も家でしっかり食べているのに、それでも常々空腹を訴えてくるところが、影山には信じ難かった。
 しかも更に不思議なのは、あれだけの量を摂取しておきながら一向に背丈に変換されない、というところだ。
「運動量もパねえからなあ」
「なに?」
「なんでもない」
 一般人が日向と同じ量を毎日食べていたら、当然だが太るに決まっている。だが彼は身長も体重も、あまり変化がないという。
 食べ物から作り出されたエネルギーを体内に蓄積せず、即座に運動で発散してしまうのが悪いのか。常に動き回り、飛び回り、少しもじっとしていない姿を思い出して、影山は笑みを噛み殺して俯いた。
 額に手をやって表情を隠し、笑っているのが悟られないよう気を配る。だがそんなことをしなくても、日向の意識は既に彼から離れていた。
 一通り片づけを終えて、日向は大きく深い息を吐いて天井に向かって胸を反らせた。
「んー……練習してー」
 両手の指を絡ませて腕を伸ばし、もう一度骨を鳴らして切なげに呟く。手首に巻いた時計を見れば、昼休みが終わるまでまだ結構な時間があった。
 これといって約束をしていたわけではないのに、いつの間にかふたりで一緒に食事をするのが当たり前になっていた。クラスが違うので教室ではなく屋外のグラウンドの隅、あるいは少し前までは部の練習に使っている第二体育館にこっそり潜り込んでは、互いに持ち寄った食糧を分け合ったりしていた。
 だが今現在、彼らが身を寄せているのはそのどちらもでなかった。
「誰の所為で出禁になったと思ってんだ」
「おれの所為じゃない!」
「どう考えたってお前の所為だろ」
「影山だって一緒にいた!」
 休憩時間中なら人は滅多に寄り付かない特別教室棟の階段、その最上階。日向が背を向けている壁から右に一メートルほど離れた場所には、屋上に通じる扉が設置されていた。
 だがそちらには鍵が掛けられ、生徒は自由に出入り出来ない。もっとも立ち入りが許可されていたとしても、今日ばかりは屋外に出るわけにはいかなかった。
 耳を澄ませばざーざーと、雨がコンクリートを叩く音が聞こえてくる。勢いは朝方からずっと変わらず、窓の外は煙って視界はすこぶる悪かった。
 午後に入っても止みそうにない。大量の水気を吸った地面はぬかるみ、グラウンドは水溜りだらけでぐちゃぐちゃだった。
 こんな悪天候の中、外で弁当を広げようなどと考える馬鹿はいない。故に彼らはその一歩手前の、狭苦しいが人に気兼ねしなくて済む場所に陣取っていた。
 耳元で大声を出され、影山は迷惑そうに顔を顰めた。その嫌そうな表情に益々機嫌を損ね、日向は悔し紛れにそこにあった丸いものを殴りつけ、上に重ねていた焼きソバパンを吹っ飛ばした。
「ぎゃあ!」
「……バカか」
 ぽーん、と山なりに弾んで転がった大切な食料に悲鳴を上げた彼に、影山が呆れ顔でため息をつく。その腹が立つくらいに整った横顔をねめつけて、日向は埃を被った透明な袋を優しく撫でた。
 汚れを軽く払いのけ、中身が無事なのを確認してから背を丸くする。上目遣いに見つめられて、その角度が苦手な影山は途端に息を詰まらせた。
 日向自身、彼がこの表情に弱いのを自覚していた。口論でどんなに不利な状況に追い込まれても、こうやって睨みつけてやれば影山は途端に折れて、日向を甘やかした。
「お前がどうしてもって言ったからだぞ」
 思い出すのは、第二体育館で昼休みを過ごしていた日々。
 大人たちの目を盗んでこっそり入り込み、さっさと昼食を終わらせて自主練習に明け暮れていたのだが、その日に限ってどうにも調子が悪かった。影山のトスがなかなか日向のタイミングと合わず、空振りばかりを繰り返すうちに時間が過ぎ、チャイムが鳴ってしまった。
 第二体育館は教室棟から遠い。早く戻らないと昼からの授業に間に合わなくなってしまう。
 それなのに日向はあと一本を強請り、言って聞かなかった。
 刻々と迫るタイムリミットと、上目遣いの日向と。決断を迫られた彼はぐらぐら揺れる天秤を遠くへ投げ捨てて、目の前の欲望に従う道を選んだ。
 そしてふたり揃って本鈴も無視し、退屈な授業を忘れてボールを追いかけて過ごした。
 但しそんな蜜月も、そう長くは続かない。
 たまたま校内の見回りに出ていた教頭に敢え無く発見され、堂々と授業をサボっていた罰として、彼らは昼休み中の第二体育館の出入りを一切禁止されてしまった。
 それに今加えて後、ふたりがもしこの禁を破った場合、連帯責任ということで烏野高校男子バレーボール部自体が第二体育館で練習させてもらえなくなる。
 学生の本分は勉強であり、学業を優先させるのは高校生としては当然のこと。それを疎かにしたのだから、横暴な決定とはいえ従わざるを得なかった。
 部長の澤村には散々説教をされた。コーチの烏養にはバカにされた。顧問の武田先生だけは厳しすぎると言ってくれたが、赴任したての若い教諭がなにを言ったところで、偏屈な教頭が願いを聞き入れてくれるわけがなかった。
 もし今日の天気が晴れだったなら、広い空の下で思う存分ボールを追いかけられたのに。
 鬱陶しいばかりの雨模様に、湿気を吸った癖毛を掻き回して日向は唸った。
「影山がちゃんとトスくれてたら、言わなかったし」
「お前が下手なのが悪いんだろ。人の所為にばっかすんな」
 調子が悪い日など、誰にだってある。日向だってこれまでにも何度と無く、思うように跳べなくて悔しい思いをしてきた。
 だから影山ひとりに責任を押し付けるつもりはないけれど、口を開けばどうしても悪態をついて止まらなかった。
「でもお前、どこに跳んでもおれのトコにボール持ってく、って言った」
「だったらお前だって、俺のトコに飛び込んでくるくらいしてみせろ!」
「……え?」
 入学したばかりの頃に交わしたやり取りで揚げ足を取れば、脊髄反射した影山が声を荒らげた。
 だがその台詞が大幅に省略されていた為に、額面通りに受け取った日向が呆気に取られて目を点にした。きょとんとして三秒後、ぼっ、と頭の天辺から煙を吐いて動かなくなる。
 身を乗り出した状態で硬直した彼を怪訝に見つめて、影山が変な顔をした。
 目の前のチームメイトが何故そんな顔をするのか分からない様子で首を傾げ、瞳を真ん中に寄せて顰め面を作る。その変化をじっと見守りながら、日向は恥ずかしそうに身を捩り、赤い顔を隠して俯いた。
 背中を丸めて小さくなり、貝のように口を閉ざして黙り込む。
「え?」
 羞恥を必死に堪えている彼を見て、自分が今し方何を言ったかが思い出せない影山は焦りを覚えて声を上擦らせた。
「な、なんだよ。お前がちゃんと、俺がトス上げたところに来ないのが悪いんだろ」
「影山のスケベ」
「なんでそうなンだよ!」
 慌てて言い直せば、もともとの話からはまったく関係ない悪口を言われた。どこをどう繋げればそんな話題に行き当たるのかさっぱり見当がつかなくて、影山は声を大にして怒鳴り、広げた両手を忙しく振り回した。
 年相応に興味があるのは否定しないが、話が飛躍し過ぎだ。訳が分からなくて混乱していたら、深呼吸した日向がぷっ、と噴き出した。
 少し前まで舟を漕いでいたとは思えないすっきりした瞳をして、照れくさそうにはにかむ。
「日向?」
「でもまー、いっか。暇だし。おれもちょっと、思ってたし」
「は?」
 予鈴が鳴るまで、あと十分少々。身体を動かせなくてストレスを溜め込むくらいなら、甘えられるだけ甘えてリラックスして過ごしたいではないか。
 頭に浮かんだ妙案にほくそえんで、日向は悪戯っぽく目を細めた。理解が追いつかなくて戸惑っている影山に口角を歪め、腰を浮かせて膝立ちになる。
 急に詰め寄ってこられて、彼は咄嗟に下がろうとした。
「えーい」
「うわっ」
 それを許さず、日向が先手を打って彼に寄りかかる。胸に正面から飛び込んでこられて、迫り来る影に慌てた影山が急ぎ手を伸ばした。
 斜め後ろに傾いでいた上半身を戻し、それなりに重い身体を受け止めて歯を食いしばる。衝撃を後方へ流して、影山は一瞬で最大値まで駆け上った心拍数に冷や汗を流した。
「てめ、日向! いきなりなにしやがる。危ないだろ」
 彼の後ろは、階段だ。全部で十三段あり、もしバランスを崩して落下しようものなら、怪我をするだけでは済まない。
 肝を冷やした彼の怒号にもへこたれず、日向は布越しに確かめた鼓動に頬を緩めた。
 温かくて、快くて。
 去ったはずの睡魔が、瞬く間に呼び戻される。
「おやすみ~……」
「って、おい。んだよ。寝んのかよ!」
 夢見心地で呟けば、頭の上から呆れ声が降ってきた。
 他にもひたすらぶつぶつ文句を言われ、呆れられた。だのにそれすら子守唄に聞こえて、日向は嬉しそうに頬を寄せ、幸せそうに微笑んだ。

2012/07/25 脱稿