緑陰にして

 蝉の声が五月蝿い。
 開けっ放しの窓に向かってそう告げられて、夏目は前方に投げ出していた脚を引き戻しつつ、読み耽っていた本から顔を上げた。
「そりゃあ、先生。夏なんだから」
 栞の代わりを果たす紐を目印にページに挟んで閉じ、背表紙に貼り付けられた古びたシールを弄りながら言葉を返す。その諦めを幾ばくか含んだ呆れ口調にキッと目を吊り上げたのは、窓の真下に出来た日陰に陣取っていた、真ん丸い奇妙な生き物だった。
 夏目は幼い頃から、人には見えない様々なものが見えた。
 それはつまるところ妖怪といった類のものであり、その大半が人よりもずっと長い寿命を持ち、中には非常に危うい性質を持ち合わせていた。
 生まれながらにしてそういったモノに通じてしまう資質を持ち合わせていた夏目は、その能力故に人から気味悪がられ、奇怪な目を向けられて育った。
 両親はとうになく、近しい親類も多くない。近親縁者を頼って方々を転々としながら生きてきた彼は、言ってしまえば世間のお荷物だった。
 転機になったのは、今現在厄介になっている藤原夫婦に引き取られてから。
 その頃にはもう高校生になっていた夏目は、これが最後の場所になるかもしれないとの覚悟の下、豊かな自然が残るこの地にやってきた。
 だが件の夫婦は思いのほかお人よしであり、なによりも心優しい人たちだった。
 人の目には映らぬものが見えるばかりに心無い言葉を投げかけられ、傷つけられてきた彼にとって、夫婦の存在は癒しであり、慰めでもあった。出来るものならこの先もずっと、ふたりと一緒にいたいと願っている。自分が彼らから貰った温かさを、一生かけてふたりに返していけたらと思っていた。
 そんな、少々年季が入っている藤原家の二階の一室に陣取って、おおよそこの世のものとは言い難い体型をした獣が、ごろんと寝返りを打って仰向けに寝転がった。
 右の後ろ足が日向に出てしまい、じゅっ、と肉を焼く嫌な音が聞こえた気がした。
「ふぎゃあっ」
「大袈裟だぞ、先生」
 勿論、実際にそんなことが起きるわけがない。だのに虫眼鏡で燃やされでもしたかのように、獣は派手に暴れてごろんごろん転がり、やがて勢いに乗りすぎたのか止まりきれず、天井を支える柱の一本に体当たりをして沈黙した。
 ぷしゅぅ、と白い煙が立ち昇っているのは、幻ではない。三秒前までの騒々しさが嘘のように静まり返った空間に、夏目のため息だけが響き渡った。
 瞑目して肩を落とし、彼は膝の上で遊ばせていた本を和卓に置いた。図書館の返却期日を気にしてカレンダーを一瞥してから右の太ももに利き手を添え、腹に力を込めてゆっくりと起き上がる。
「よ、っと」
 上からの圧迫感が消失して、尻に敷いていた座布団の表面が浮き上がった。それでも元の形に戻るにはもうしばらく時間がかかりそうで、座った形のまま凹んでいる綿入りに目を細めて彼は左手を腰に当てた。
 押し入れの襖横に移動していたでっぷり丸い物体は、依然目をぐるぐる回した状態で畳の縁に突っ伏していた。
「大丈夫か、先生」
 かなりいい音がしたのを振り返り、念のためと呼びかけてみる。もっともあの程度でこの珍妙な獣が死ぬわけがないのは、これまでの経験からも明らかだった。
 トッチボールとバレーボールを重ね合わせ、テニスボールを尻尾代わりにくっつけたようなずんぐりむっくりとした形状は、新雪で作った雪だるまを髣髴とさせた。
 おちょぼ口に細い目、更に申し訳程度に頭に載っている三角形の耳からして、恐らく生物学分類上は猫に当たるのだろうと思われるのだが、いかんせんサイズが規格外もいいところ。人の頭部くらいはある胴体は丸々としており、いかにも重そうだった。
「ぬおー! おのれ、なんたる!」
「うわ、吃驚した」
 返事が無いのを怪訝に思い、夏目がそうっと忍び寄る。そうして真上から覗き込もうと身を屈めたところで突如巨大猫は飛び上がり、ヤカンのように煙を吐いて怒鳴り散らした。
 短い後ろ足でぴょんぴょん飛び跳ねる姿は見ていて滑稽だが、その蹴りの威力はなかなかのものがある。過去に幾度となく食らわされたのを思い出して口を噤み、夏目は落ち着けと静かな声で諭しかけた。
 そこにいるのは彼と、例の巨大猫だけだ。だというのに微妙にしゃがれた、高いようで低く、低いようで高い声は部屋の中から生じている。
 一見すると不可思議な光景だった。しかし夏目はそれを奇妙とも、不気味とも感じていなかった。
 よしよしと猫の頭を撫でてやれば、不機嫌の度合いを強めてしまったのか、肉球つきの前足で叩き落された。あまり痛くない攻撃に頬を緩め、夏目はもう一度、懲りずに猫の頭を撫でた。
 先生、と呼ばれていた猫は二度目の慰撫に憤懣やるかたない表情を浮かべ、ふんっ、とふんぞり返って背を向けた。
 先ほどから部屋に響く男の声は、その猫から発せられているので間違いなかった。
 夏目は小さな頃から妖怪になにかと付きまとわれて育った。その上、彼は祖母であるレイコの遺品として妖怪の名を多数記した友人帳を引き継いでいる。藤原夫妻に引き取られてやってきたこの山間の町は、その祖母が若き日を過ごした地でもあった。
 お陰で彼の周囲は、前にも増して騒々しくなっていた。
 塔子や滋に迷惑をかけたくないのに、騒動は向こうから、呼んでも無いのにやってくる。ふたりから奇異な目で見られるのだけは絶対に嫌で、どうにか巻き込まないよう注意しながら生活しているが、気苦労は甚だしかった。
 せめて家の中だけは安全な場所であって欲しい。そんな事情もあり、夏目は一匹の妖怪を、自分が死んだ後に祖母の遺品を譲り渡すという条件の下、用心棒として雇っていた。
 もっともその妖怪は、妖でありながらどうにも人間臭い部分があり、隙だらけで気まぐれで、大酒飲みの大食らいだったのだが。
 彼は夏目が誤って破ってしまうまで、祓い屋に真ん丸い猫の置物に封じられていた。その期間があまりに長かった為なのか、ともあれ普段から彼は招き猫の格好をして人前でうろちょろし、塔子に食事をねだっては美味いものをたらふく食って体重を増やしていた。
 本来の、狐と狼を足したような外見をした白い獣姿に戻れば、彼は人の目に映らない。力を持つ妖は人前に滅多に姿を現そうとしないところから考えるに、彼は夏目のために随分と妥協してくれているようだ。
 斑という名の異形のものは部屋の隅の、窓辺に比べればまだ少しは気温が低い場所に陣取って再び横になり、拗ねたのか動かなくなった。
「暑いぞ、夏目」
「夏だからな」
 ふて腐れた声で文句を言われても、苦笑するより他に術がない。ここ数日で何度繰り返したか分からないやり取りに肩を竦めて、夏目は庇に吊るした風鈴に目をやった。
 風がないので、短冊は動いていない。青銅色の小さな釣鐘は沈黙し、疲れた顔をして地上を見下ろしていた。
 暦は七月の末に至り、学校は長期休暇に突入した。梅雨明けから一週間以上が経過しており、じめっとした空気はいくらかマシになったものの、吹き出る汗は留まるところを知らなかった。
 ベージュ色のポロシャツに汗染みを作り、夏目は卓上に残してきた本に目尻を下げた。
 早いうちに課題を終わらせてしまえば、八月に入ってから皆と沢山遊びにいける。だから頑張っていたのだが、読書感想文くらいなら明日に持ち越しても大丈夫だろう。
 集中力が途切れてしまったのを言い訳にして相好を崩し、彼はりぃん、と鳴った風鈴に誘われるままに視線を流した。
 吹き込んできた風がサッと熱を浚っていく。外への興味が沸き起こって、彼は温い唾を飲み、微笑んだ。
「ちょっと出てくるよ。先生はどうする?」
「正気か、貴様。この暑い中を?」
「アイスもなか、買って来ようかなって」
「なぬぅ!」
 近所、というほど近くもないのだが、藤原家から少し離れた場所には美味しいと評判の和菓子屋があった。そこで夏季限定で販売している氷菓があるのだが御多分に洩れず、斑もそのアイスが大好物だった。
 言えば絶対乗ってくると思っていたが、案の定だ。少し前までへばっていたのが嘘のように元気いっぱいになった斑を笑って、夏目はずっと前に空になっていたガラスのコップを持ち上げた。
 底の方に水滴が一粒だけ残っているそれを揺らし、畳の縁を踏まぬよう注意しながら廊下へと出る。横に襖を滑らせれば、熱を持った板敷きの床が出迎えてくれた。
 直射日光を浴びているわけでもないのに、温い。蒸された空気に舌を巻き階段を下れば、体感でだが、一度ほど気温が下がった気がした。
 台所に立ち寄れば、塔子が夕飯の支度を早々に開始していた。
「あら、貴志君。どうしたの?」
「ちょっと外に出てきます。なにか買ってくるものとか、ありますか」
 使用済みのコップを返却して、ついでの買い物を訊ねるが、気遣いだけを感謝されて首を横に振られてしまった。
 割烹着が似合う和風美人に見送られて台所を辞し、玄関に向かう。上がり框で待つ斑は既に準備万端で、アイスに心奪われたのか、目を最中の形にしていた。
 気が早すぎる彼に肩を竦め、この夏新調したばかりのサンダルにつま先をねじ込む。川に遊びに行って水に濡れても大丈夫なものを、少し前に塔子が選んで買ってきてくれたのだ。
 すっかり足に馴染んだ下足に顔を綻ばせ、彼は玄関の戸を右に滑らせた。行って来ます、の言葉を残し、斑が外に出るのを待って閉める。
 敷居を跨いだその先は、むっとする湿度に包まれた灼熱地獄だった。
「ああ、これは……ひどい」
 思わずそう呟いてしまうほどの炎天下に、今すぐ屋内に引き返してしまいたい衝動に駆られる。地表に近い場所にいる、それも靴という防具を持たない斑などもっと酷い有様で、一歩進んだ瞬間ばったり倒れこんだ獣に、夏目は騒然となった。
「うわ、先生。大丈夫か」
「なんなのだ、この暑さは……」
 このまま行き倒れていたら、干乾びてしまう。皿が乾いて動けなくなっていた河童を思い出して頬を引きつらせ、夏目は瞬く間に汗だくになったシャツを引っ張った。
 空気の通り道を作って表面温度を下げようという試みだったのだが、結果は失敗に終わった。
 余計に暑さが増した気がして、喋る気も起こらない。諦めるかとの問いかけに、斑はしばらく唸った上、のろのろと起き上がった。
 歩く手助けをしてやりたいところだが、この暑さだ。自分の手に手が当たるだけでも嫌なのに、規格外サイズの獣を抱きかかえるなど、どうして出来ようか。
「待っててもいいんだぞ」
「いいや。絶対に行くぞ。帰ってくるまでに溶けられては困るからな」
「その執念をもうちょっと、別のところに向ければいいのに」
 一歩進むだけでも熱した地面に焼かれそうになっているのに、根性だけは一人前だ。羨ましいくらいに食い意地が張っている彼にそっと嘆息して、夏目は額の汗を袖で拭った。
 雲は少なく、空はどこまでも青い。通り雨でも降ればちょっとは気温が下がろうものを、入道雲ひとつ見つけ出せなかった。
 このまま高温状態が続けば、夜も寝苦しくなる。夏目の部屋には空調がなく、扇風機が唯一の頼りだ。窓を開けておけば風が通って多少は涼しくなるが、友人帳を狙う妖怪に忍び込まれる危険性が増すというリスクがあった。
 快適さを追求するか、安全をとるか。なかなか結論の出ない天秤を揺らしながら、夏目は乾いて砂埃が酷い砂利道を急いだ。
 右を見れば足元に斑の影があった。短い足をちょこまか動かして、置いていかれないよう懸命に歩いていた。
 こうやっていると愛嬌があって面白いのだが、その凶悪な本性を知っているだけに、可愛いとはどうしても思えない。性格の悪さがにじみ出ているのか、彼は小さい子をはじめとして大抵の人間には気味悪がられていた。
 だのに、そう。
 ひとりだけ。
「あついな」
 ポツリ呟き仰いだ空に、ふっと涼しい風が吹いた。
 道端に植えられた木がざわわ、と波立ち、枝いっぱいに茂った緑の葉を揺らした。羽を休めていた小鳥が驚いて翼を広げて飛び立ち、根元に散る木漏れ日が不可思議な文様を描き出す。
 今すぐにでもそこの木陰から姿を現すのではなかろうかと、なぜかそんなことを思い、夏目は脳裏に浮かび上がった笑顔に相好を崩した。
「あれ、夏目君?」
「え――」
 白昼夢でも見ているのか。一瞬本気でそう思って瞬きを繰り返してみるものの、樹齢百年は超えるだろう楠の陰からひょっこり現れた少女の姿は一向に消えてくれなかった。
 目を丸くしてぽかんと口を開いている彼に、少女が被っていた帽子の鍔を持ち上げた。不思議そうに見つめられて、夏目は真っ先に、自分を謀ろうとしている妖怪ではないかと疑った。
「え、あ……ええ?」
 ちょうど彼女のことを考えていた矢先の登場に、頭が追いつかない。唖然としたまま口をパクパクさせていたら、怪訝に首を傾げた少女は麦藁帽子のリボンを揺らし、左右に視線を走らせた。
 そしてこの場から遠ざかろうとしている後姿を発見し、両手を叩き合わせて飛び跳ねた。
「猫ちゃん、みっけー!」
「ふぎゃあ!」
 甲高い声が高い空に溶けていく。既に慣れた光景に肩の力を抜いて、夏目は吹き出た汗をそっと拭った。
 間違いない、あれは本物だ。たまたまタイミングがよかっただけだと自分に言い聞かせて胸を撫で下ろして、彼は木陰からぱっと飛び出していった少女の背中に目を細めた。
 逃げ切れなかった斑を捕まえて、上機嫌に振り返る。弾けんばかりの笑顔に苦笑で返して、夏目は駆け寄ってくる彼女の為に場所を譲った。
 枝を広げる楠の影にふたりして潜り込み、じたばた暴れて五月蝿い斑に肩を竦める。鍔広の帽子を後ろに少しだけずらして、多軌透は改めて夏目を見上げて微笑んだ。
「暑いね、毎日」
「ああ。タキは、散歩?」
「そう。新しいワンピース買ったから、うろうろしてみたかったの」
 夏目が通っている高校に同じく通っている彼女とは、夏休みに入ってから久しく会っていなかった。少し前に暑中見舞いが届いて元気にしているのは知っていたが、よもやこんなところで遭遇出来ようとは、夢にも思っていなかった。
 素直に驚いている夏目に悪戯っぽく笑って、彼女は斑を片手で抱きしめた。
 自由にした左手でレースがたっぷりのワンピースの裾を摘んで、ほんのちょっとだけ持ち上げる。途端に綿雲に似た真っ白い布が夏目の視界いっぱいに広がった。
 花を模したレースが重なり合った短い袖から、少しだけ日焼けした腕が覗いていた。健康的な色艶をしているが、夏目に比べればずっと細い。
 その肩に重いものを背負っていた過去がふと脳裏をよぎって、おしゃべり好きで明るく笑う今の彼女にほっと心が和らいだ。
 細波だっていた感情が穏やかさを取り戻す。ひっそり安堵した彼を知らず、多軌は斑を両腕で抱きしめ直した。
「夏目君は?」
「俺は、まあ、ちょっと」
「いい加減離せ。はなさんか、この小娘め!」
「いやーん、かーわいいー!」
 支えを失ったレースのスカートが風に踊る。楠のお陰で直射日光が遮られ、気のせいではなく本当に気温が下がった。すっと汗が引いていくのを感じながら問いかけに言葉を濁せば、ぎゅうぎゅうに締め付けられるのに我慢ならなかった斑が大声で騒ぎ立てた。
 ピンクの肉球を振り回してじたばた暴れる斑を、けれど多軌は歓声あげて更に抱きしめた。ハートマークを無数に散らし、身じろぐ獣を抱え込む。
 地球広しといえども、この奇怪な獣を可愛いと表現するのは彼女だけではなかろうか。
 目をきらきらさせている少女に乾いた笑いを零し、夏目は頬を掻いた。首を締め上げられた斑が苦しそうに身悶えて、必死になって多軌の腕を叩いている。だがそうやって抵抗すればするほど彼女はヒートアップして、黄色い声をあげて身をよじった。
 そろそろ斑が本当に死んでしまう。人の数倍の寿命を持つ妖怪が、いたいけな少女に首を絞められて事切れたとあっては、斑もきっと浮かばれない。
「あの、タキ。そろそろ放してやってくれないかな」
 白目を剥いて泡を吹いている寸胴な猫を気にして、夏目が恐る恐る話しかける。一週間以上斑と会えなかったからだろうか、普段から激しいスキンシップが、今日は一段と酷かった。
 遠慮がちに呼びかけた彼にハッとして、薄茶色の髪を帽子に隠した少女が目を瞬いた。慌てて俯いて胸元を覗き込み、ぴくぴく痙攣を起こしている斑に気づいてきゃっ、と悲鳴を上げる。
 だが腕を緩めはしても、完全に離そうとはしなかった。
「ご、ごめんなさい。大丈夫?」
 気絶する一歩手前のところだった斑がぜいぜい言いながら舌を出し、真上から覗き込んだ多軌が心配そうに何度も問いかける。
 呼吸をするのがやっとなのでとても喋れるような状態ではなく、だというのに繰り返し訊ねられて、さすがの彼も我慢の限界だったようだ。
「うるさいわ!」
 息継ぎの合間を縫って怒鳴るが、声に迫力が感じられない。たった五分の間に随分と老け込んでしまっている斑に苦笑して、夏目はそれでも彼を手放さない多軌に目を細めた。
 少々行き過ぎた感があるものの、こうも一心に好いてくれる相手がいるのは、正直な気持ち、ちょっと羨ましかった。
「先生、平気か?」
「平気なわけがあるか」
 暗い場所からのっそり顔を覗かせた感情を踏みつけて闇に返し、夏目は軽く膝を折った。身を屈めて斑を覗き込みながら問えば、悪態をついてそっぽを向かれてしまった。
 彼は夏目でも抱えるのがやっとの大きさなので相応に重いのだが、多軌はまったく苦に感じていない様子だった。むしろ嬉しそうに頬を緩め、時折三角形の小さな耳に顔を寄せては頬摺りを繰り返した。
 ぬいぐるみに近い生き物を抱きしめている少女の姿は、気温の高さも相俟ってかなり暑苦しかった。
「先生抱えて、暑くないか、タキ」
「ううん、ちっとも」
「…………」
 ふと胸に沸いた疑問を口に出すが、即答で首を振られてしまった。
 一秒たりとも迷わなかった彼女に驚き、夏目が目を丸くする。そんなわけがなかろうと、一応は猫の形をしている生き物に視線を向けて胡乱げな顔をしていたら、目が合った斑にぷいっとそっぽを向かれてしまった。
 あまり可愛いとは思えない仕草に苦笑いを浮かべていたら、膨れ面の斑を撫でた多軌がくすくす声を忍ばせて笑った。
「だって、夏目君だって知ってるでしょ。猫ちゃん、結構ひんやりしてて気持ちが良いのよ」
「そう……だっけ?」
 生き物というものは、大抵体温を持っている。自分の手に触れるのさえ避けたいと思っている時期に信じられないことを告げられて、彼は目を丸くして首を右に倒した。
 見つめた先に居た斑にむすっとした顔で睨み返されて、頬を引きつらせて身を引く。だが多軌の言葉に嘘があるようにも思えなくて、興味本位に伸びた右手が当て所なく宙を彷徨った。
 梅雨明けの少し前から、出来る限り斑に触らないように生活していた。たまに抱きかかえてやらなくもないが、それは大体夜、日が暮れてからのことだった。
 向こうも夏目に触られると体温が乗り移って暑く感じるようで、このところスキンシップは稀だ。一定の距離を保ち、のらりくらりと毎日を過ごしている。
「そうよ。ほら、触ってみて、みて」
「こぅら、小娘。なにを勝手なことを」
 疑わしげにしている夏目に催促して、飼い主でもないのに多軌が顔を綻ばせた。逃げられないよう束縛した斑ごと近づいてこられて、彼は反射的に後ろに下がりそうになったのを堪えて乾いた地面を踏みしめた。
 数秒黙り、迷う。左右を三度往復した瞳を真ん中に戻して、彼は恐る恐る利き手を出した。
「えっと、じゃあ、ちょっとだけ」
 嫌がる斑を無視して試しに触れてみれば、確かに、思っていた程熱くは無かった。
「あ、ホント……かも?」
「でしょう?」
「おにょれ夏目、貴様もか!」
 意外な発見に、驚きが隠せない。だがよくよく考えてみれば、斑が人間社会で生活するために媒体としているこの依り代は、招き猫の置物だった。
 毛むくじゃらの生き物がモデルだが、原型にはなっていない。成る程、と感嘆の息と共に囁いた彼に、多軌は嬉しそうに頷き、斑は怒り狂って足をじたばたさせた。
 だがネコ型の悲しき運命かな、脚が短すぎる所為で叩かれても痛くなかった。
 なにより攻撃自体があまりヒットしない。空振りしてばかりの前足に破顔一笑して、多軌は感極まった様子で悲鳴を上げた。
「やーん、かわいいー!」
「へえ、意外だ。先生って体温低いんだな」
 ぎゅむっと強く抱きしめられて、前からは夏目の手が不躾に伸びてくる。人間ふたりに挟まれる形になった、自称高貴な妖怪は最後の抵抗宜しくじたばた暴れまわったが、束縛を振りほどくところまではいかなかった。
 最初は右手だけだった夏目が、左手も伸ばして斑の頬に触れた。少し湿っている鼻の頭を擽って、触り心地も抜群の腹をなぞって顎をぐりぐりする。
 ちょっとは気持ちよかったのか、不機嫌に歪んでいた斑の顔が一瞬だけ緩んだ。
「ふにゃ……ぁ…………――むがー!」
「きゃっ」
「え?」
 猫なで声が出そうになった斑が途端我に返り、今までになく激昂してどかんと煙を吐いた。好き勝手弄り回されるのが我慢ならなかったようで、憤慨して顔を真っ赤にしたかと思えば。
 ぽしゅん、と小さな音を一つだけ残し、どろんと姿を消してしまった。
 一瞬だった。妖怪が、人と区別できないくらいに見えてしまう夏目でさえ、追いきれなかった。呆気に取られ、煙の直撃を食らった多軌の短い悲鳴に目を瞬き、ふっと軽くなった指先にハッと息を呑む。
 次の瞬間、広げていた右手が斑よりももっと柔らかいものを鷲掴みにした。
 唐突に抱えていたものが消失した少女は、腕の力を緩めきれずにつんのめり、その場でたたらを踏んだ。彼女の前に陣取っていた夏目は、斑を撫で回していた手を引っ込め損ねた。
 片足立ちで飛び跳ねた多軌が、何かに胸を押し潰される感触に顔を上げた。斑よりもずっと硬い、ごつごつした大きなものに左右の膨らみを包まれてきょとんとなる。
「え?」
「あ――」
 気づいた瞬間、夏目は反射的に指先に力を入れていた。その意図はまったくなかったにも関わらず、男の本性がちらりと顔を覗かせたのか。
 結果的には、その柔らかな膨らみを揉んでしまっていた。
 真っ白いレースのワンピースに、日焼けして浅黒い夏目の手が覆いかぶさっている。ちょうど膨らみにあわせて指先が緩くカーブしている状態を目にした瞬間、彼の顔は茹蛸よりも赤くなった。
「ごっ、ご、ごご、ごっ、ごめっ!」
 大慌てで手を引っ込めて、後ろに距離をとろうとしたら石に躓いた。踵を浚われて踏ん張りきれず、みっともなく膝を折って尻餅をつく。
 派手に転んだ彼を見てハッと我に返った多軌もまた、林檎よりも鮮やかな赤に頬を染め上げた。
「え、え? な……夏目君?」
「ちがっ、ち……違う。違うんだ、タキ。今のは、そんな、わざとじゃ。そんなつもりじゃなくって」
「ふんふふ~ん」
「先生!」
 ぱっと己を庇って自身を抱きしめた彼女に必死に言い訳をする夏目の真後ろで、ことの発端となった獣がお気楽に鼻歌を奏でた。おちょぼ口を窄めて上機嫌にしている彼に瞠目し、逃げるように身体を裏返して膝立ちから起き上がる。
 多軌の顔を正面から見るなど、とてもではないが出来なかった。
「先生、待て。この……もなか買ってやらないぞ!」
「なつめくんの、スケベー」
「ちっがーう!」
 声を荒らげて怒鳴るが、斑はどこ吹く風と意に介さない。それどころか多軌の声を真似てか高い声でけらけら笑うものだから、夏目は益々いたたまれない気持ちになって叫んだ。
 全身真っ赤になって、地を蹴って走る。先を行く斑を懸命に追いかけて、楠から離れる。
 多軌がどんな顔をしているか、振り返って確かめる勇気は無かった。
 怒っているだろうか。許してもらえるだろうか。そればかりが気がかりだけれど、本人を前にした途端に別のことを考えてしまいそうで怖くて、あの場所に戻るなどどだい不可能だった。
「夏休み中で、よかった」
 ぽつりと呟けば直射日光以外の理由で頭が熱を持ち、手を握れば指先を伝う感触が異なるものを思い出させた。
 生まれて初めて生母以外で触れた柔さと温かさは、当分忘れられそうにない。それが余計に恥ずかしくて、彼は地の果てまで駆けていく勢いで地面を蹴った。

2012/7/19 脱稿