Run Dash Run 5th.

 ぐっ、と首根っこを後ろから捕まれてそのまま引きずり倒された。
 頭上を風が走り抜け、目標物を見失った髭面の右拳は無様に空を切って大きく左へと逸れていった。
 綱吉は背中から地面に倒れる最中、その一部始終を呆然としたまま見送る。ぽかんと開いた口が自分でも間抜けだと思うのに、笑えない現実が腰から背中にかけて一気に押し寄せてきて、肺呼吸が出来なくなった痛さに綱吉は悶絶した。
「――なっ」
 呆然としていたのは何も綱吉だけではない。パンチが空振りした髭面も、そして彼の後方に控えていた一同も皆似たり寄ったりの表情をして、突風の如く現れた人物に言葉を失っている。
 誰かが「やばいぜ」「まずい」とひそひそ声で相談しあうのが微かに聞き取れて、綱吉は背骨を強打した痛みから復活出来ていないまま、両腕を広げて掌で地面を強く叩いた。
「なに、やってるの」
 低い、地の底からわき上がってきたのかと思える声が綱吉の頭上に響き渡る。静かすぎる空気が逆に彼の声の鋭さを増幅させ、人の心臓を的確に狙い打ち、竦み上がらせている。短い悲鳴に醜態を晒した数名が慌てて走って逃げ出したが、彼は敢えて追おうとはせず、但しその顔をしっかりと脳裏に刻み込んだ。
 銀色のトンファーが、日陰になっているこの場所でも重い光を放っている。仕込まれていた棘が牙を剥いており、仰々しい武器を手に油断無く構えている雲雀恭弥を前にして男達はたたらを踏んだ。
「なにって、……なぁ?」
 内心の焦りを滲ませつつ、他の面々がまだ多く残っている現状に平常心を保とうとしている髭面が、隠しきれない冷や汗を額に浮かべながら後ろを向いた。
「あ……ああ。お前が面白そうな遊びしてるから、俺たちも混ぜて貰おうと思ってさ」
 数日前までの、綱吉と雲雀の鬼ごっこを言っているのだろう。あれはもう終わった事だ、と言いたかったが、肺へ巧く酸素が運べずにいる綱吉は苦しげに咳を繰り返しただけだった。
 代わりに、へえ、と興味深そうに相槌を打った雲雀が一歩、前に出る。
 肩を踏まれそうになって、綱吉は慌てて身体を左へ転がした。階段で落ちたときに擦った手の甲が地面にまた擦られ、骨に響く痛みに彼は顔を大きく顰めさせる。
「……っ」
 声は漏らさなかったが息が詰まり、上半身を跳ね上げながら起こすと同時に腕を抱え込む。視線を感じたのは一瞬で、誰が自分を見たのかまで綱吉は分からなかった。
「そう。それは、残念」
「余裕かましてんじゃねーよっ」
 ガッ、と鈍い音がして綱吉は反射的に身を竦めて頭を抱え込んだ。
 雲雀は避けた気配がない、堅く握られた髭面の拳は綺麗な直線軌道を描き出して雲雀の左頬を直撃していた。
 殴った方も、まさか雲雀が無抵抗に受け止めるとは思っていなかったようで、呆気にとられて間抜けな顔を彼の前にさらけ出す。渾身の力を込めて放たれた一撃だった筈なのに、雲雀は少しも身体をふらつかせる事無く悠然とその場に佇む。若干勢いを殺しきれずに首を斜めに傾けてはいたが、痛くないのだろうか、不適な態度は相変わらずで男を睨み付ける眼力にも衰えはない。
「ひっ」
 髭面が間近に見た彼の瞳の深さに引きつった声をあげる。飛び上がるようにして後ろへ下がり、一緒になって赤くなった拳も地面に向かって落ちた。瞬間走る銀閃、綱吉が瞬きをしている間に男の足は両方揃って宙を舞い、頭を下にして戻り打って崩れていった。
 ざわつきが空間を走り抜ける。この人は本当に強かったのだと今更に思い知らされる実力差に、綱吉は茫然自失としながら彼の背中をただ見ていた。
 下手に動けば自分の身が危ない、それに息ひとつ乱さずに攻防一体の戦いを展開する雲雀の邪魔になってしまう。
 彼は巧みにトンファーを繰り出しながら、流せる攻撃は流し、極力自分の動きを少なくして相手を大きく動かしている。攻めるのは一瞬だけで、後は守りに徹していると思いきやがら空きの胴へのきつい蹴りも織り交ぜて、まるで隙がない。蹴り飛ばされた男の身体が別の不良へとぶつかっていき、勝手にふたりまとめて倒れるところへは余計な手を出さない。視線は常に先の先を見ていて、今目の前にいる相手は既に彼の眼中にない状態だった。
 自分に同じ事が出来るか、と問われれば即座に否定する。彼はあまりにも戦い慣れていて、そして自分の力量を十分に理解している。余分な体力の浪費は極力避けながら、的確に一撃を放って相手を確実に仕留めていく。他人の助けは彼に必要ないのだろうか、圧倒的なまでの強さを振りかざして彼は舞うように銀の閃光を綱吉の瞳に焼き付けた。
「う……」
 地面に膝を広げてへたり込んだままの綱吉だったから、気づけた事だった。
 雲雀に腹を蹴られて後ろへと吹き飛んだ男の下敷きになり、何かをする前に地面に崩れた男が、上に乗っていた仲間を押し退けて起きあがろうとしていた。
 胸ポケットを探り、何かを取り出す。トンファーよりももっと鈍く鋭い光を放つ、それ。折りたたみ式のナイフの切っ先が一直線に雲雀を狙っていて、綱吉は瞬間横っ面を思い切り殴られるような衝撃に襲われた。
 はっ、と吐き出した息が熱い。男は綱吉の前で、綱吉が見ているのにも気付かず、頭に血が上った状態でぎらついた瞳を狂気に染め上げる。骨に食い込みそうなくらい強く刃渡り十五センチ程度のナイフを腹の前で両手に握り、丁度雲雀が彼に背中を向けた瞬間を狙って勢いよく走り出した。
「てめぇぇぇ――――!」
「ヒバリさん!」
 綱吉もまた、ふらつく身体に鞭打って膝から地面を蹴って身体を斜めに起こした。砂埃が舞い上がり、双方から響いた声に一瞬雲雀の動きが止まる。何事か、と彼の目は綱吉を真っ先に捉え、悲痛な表情を浮かべながら奥歯を噛み締めて突進してくる彼に、ただならぬ気配を察して即座に背後に首を捻った。
 だが遅い、既にナイフは雲雀の脇腹を目指して突き出されている。
「――――チィ!」
 今から上体を拈っても、到底避けきれない距離。鋭利な凶器を手に男が満足げに笑っている顔が、綱吉にも見て取れる。
 人はどうして、こんなにも醜く愚かな行動に出られるのだろう。誰だって殴られれば痛いし、刺されれば血もいっぱい流れて、下手をすれば死んでしまうかもしれないのに。
 目の前が真っ赤に染まる景色を想像し、綱吉は叫んだ。
「だめ、だっ!」
 身を低くして思い切り両手を突き出す。体中がぎしぎしと油が切れたブリキ人形のような動きをしていて、酷く滑稽な格好になっている自分を綱吉は意識した。
 指先に布地が引っかかる、頭に硬い腹筋が衝突する。眼球が飛び出しそうなまでに見開かれた男の、血管が浮き上がった瞳がぎょろりと綱吉を睨んだ。悲鳴をあげそうになる、慌てて口を閉じて堪えた綱吉はそのまま、指に絡んだ布を掴んで力一杯引きずり落とした。
 左の耳のすぐ横で、男のくぐもった声が響く。雲雀にナイフの切っ先が届く寸前に綱吉によって体勢を崩された男が、空中で上半身を反転させながらナイフを逆手に持ち直した。男の上着を掴んでいた綱吉もまた、彼の動きに巻き込まれる格好で前方へ身体を流す。
 先に地面に落ちて行く綱吉とすれ違いざまに、男は、小指を下にして右手に握ったナイフを地面へ垂直に振り下ろした。
 殺気に反応した綱吉が咄嗟に躱そうと藻掻く、だが着地しているのが左の爪先だけという状態で叶うはずもない。
 ――やばいっ!
 避けきれない。
 綱吉は肩から地面に落ちる衝撃にまず目を閉じ、次いで訪れるだろう熱と痛みを想像してそれだけで苦悶を顔に浮かべた。脂汗が額に滲み、涙で霞んだ脳裏に太陽の光がぼんやりと暖かい。
「ぎゃっ」
 けれど三度地面に落ちた衝撃ばかりが綱吉に襲いかかるだけで、それ以外のなにものも彼の身体を傷つける事はなかった。その代わり、ヒュルヒュルと甲高いうなり声をあげたナイフが、縦回転をしながら地上に横たわる綱吉の顔のすぐ前――二十センチほど先だろうか――に刃を下にして突き刺さった。
「ひぃぃ!」
 瞬きした瞬間にさっくりと地面に立ったそれの鋭利さに驚き、綱吉は飛び上がって後ろへ下がる。何かにぶつかってそこから先に進めなくなって、なんだろうと振り返って確かめれば、それはつい今し方綱吉にナイフを振りかざした不良に他ならなかった。
 但し、顔には悲惨なくらいに強烈なトンファーの打撃痕が残っている。顔の右半分が潰されて、欠けた前歯が何とも痛々しかった。
「……――」
 これで不良は全員、地面に倒れ伏した。何人かは仲間を抱えて逃げたので、この場に残っているのは最初の半数にも満たない。そのどれもが完全に意識を手放していて、ちょっとやそっと揺すった程度では目を覚ましそうに無かった。
 特に最後のひとりは、救急車を呼んでやった方が良いかも知れない――自業自得だが。
「あ、はぁ……」
 もう大丈夫、と理解した瞬間に全身から力が抜けていき、綱吉はその場でくたっと身体を前に倒した。
 頬に触れる地面の冷たさが心地よい。若干砂埃は鼻腔から潜り込んできて息苦しいが、元々の階段を落ちた時の身体の痛みもあって、彼もまた、すぐにひとりで起きあがるのは難しかった。
「君は」
 不意に声が間近で響き、忘れかけていたもうひとり無事な存在を思い出す。だが目を瞬かせても上半身は起きあがらず、辛うじて両手で胸を支えて顔を浮かせる程度に留まった。そこへ痺れを切らしたのか雲雀が腕を伸ばし、強引に綱吉の手首を掴んで引っ張り上げた。
「うわっ」
 思っていた以上に強い力が綱吉を立ち上がらせる。遠慮も容赦もない、決っして優しいとは言い難い仕草に綱吉は外れかけた肩を堪えて首を振った。捕まれた手は解放されたが、その際あの擦り傷に雲雀の指が触れて鈍い痛みに彼は息を呑んだ。
 既にトンファーを隠してしまっていた雲雀が、顔を歪めた綱吉に唇を尖らせる。
「怪我?」
「あ、いえ……」
「みせて」
 咄嗟に背中に庇おうとしたが、それより早い動きで制されてしまった。
 傷に触れられるよりも手首を何度も握られる方がずっと痛くて、赤くなっている皮膚に片眼を眇めた綱吉は、自分が見ている位置とは違う場所に視線を落としている雲雀にそっと嘆息した。
 その傷は不良に絡まれるより前に、自分の不注意で作ったものだとは、どうにも言い出しにくい雰囲気だった。
「…………」
 雲雀は無言、綱吉も曖昧に笑った表情で場を誤魔化す。
「あの、本当、平気です、から」
「こっち」
 そしていたたまれなさが限界に達しようとした時、またしても綱吉に最後まで言わせないで雲雀は彼を引っ張った。
 いきなり動かれて、何も準備が出来ていなかった綱吉は思いきりつんのめる。二歩分の距離を一歩で大股に飛んで追いつき、まだ放して貰えない己の手が微妙に痺れている現実に肩を揺らした。
 緊張している。
 あの騒動の中でも外れなかった雲雀が肩に羽織る学生服が、今は妙に居心地悪そうに袖をぶらつかせいた。風紀の二文字がちらちらと綱吉の視界に現れては消え、自分が何故此処で彼と一緒に居るのかが分からなくなる。一人になりたくて教室を出てきた筈なのに、どうしてこんな事に。
 視線が泳ぎ、綱吉は日陰から表に出た瞬間に頭上に差し込んだ光の目映さに顔を顰めた。重なり合うように響くチャイムが頭の中で反響し、嫌な余韻を残して消えていく。
 唐突に止まった引っ張られる衝動に、綱吉は勢いを殺しきれず目の前で立ち止まった雲雀の右肩へ盛大に額をぶつけた。止まるなら先にそう言って欲しいと、自分がぼんやりしていたのを棚に上げて綱吉はぶつけた鼻の頭をもう片手で撫でる。
 水の音が鼓膜を打った。
「ひゃぁ」
 情けない悲鳴が口から漏れて、咄嗟に身を引こうとしたのをまた雲雀に制止される。冷たさよりも傷口を抉る細かな粒子がむしろ痛くて、綱吉は自分の右手の傷を洗おうとしているらしい彼を思わず涙目で睨んだ。
 痛い、と目で訴えるが通用しない。油断すると悲鳴がまた溢れ出しそうで、唇を噛んで息を殺すのに必死の綱吉は、噛み合わせの悪い奥歯を擦り合わせて水の勢いにジッと耐えた。
 雲雀はまだ手首を掴んだまま、ちっとも力を緩めようとしない。そろそろ血流も悪くなろうとしていていたが、感覚が次第に麻痺し始めたのか、それとも諦めの気持ちが強く作用したのか痛みは次第に薄れつつある。どうとでもなれ、と半ば投げやり気味に綱吉は肩を落として、一直線に蛇口から流れ落ちていく水の勢いに目を細めた。
 やり方は乱暴だが、少なくとも自分の怪我を、雲雀が、あの雲雀が心配してくれたのだと考えれば、少なからず嬉しくある。
「も……平気、です」
 無人のテニスコートの手前、コンクリートで覆われた水場。足も洗えるようにと広く場所を取った水道の前にふたり横並びになって、綱吉は顔を顰めながらどうにか雲雀にそう言った。
 伺い見るような視線を向けられ、綱吉はどうにか頷いて返す。蛇口は程なくして栓がなされ、大きな粒の水滴がひとつ、自らの重みに耐えかねて落ちていった。
 跳ねた水が靴の爪先を濡らしている。ズボンの裾にもいくらか飛び散っていて、温んだ空気がまとわりつき不思議な気分だった。
 手首から先がすっかり水浸し状態の右手を軽く左右に揺らすと、まだ捕まえている雲雀の腕も一緒になって揺れる。大丈夫、ともう一度言い直して下から彼を覗き見れば、まだ不満顔ながら雲雀は綱吉を解放した。
 赤く腫れ上がった手首が痛々しい、裏返せば乱暴に流水で洗われただけの擦り傷は、以前よりもっと傷口を深くして綱吉の目の前に展開していた。肉が抉れて骨が覗くところまで行かなかっただけ、まだ救いがあると思おう。
「あの、なんで」
「君は」
 ふたりほぼ同時に互いを見合って声を発し、二人して同じタイミングで言葉を詰まらせて肩を後ろへと反らした。
 雫が落ちて排水溝に吸い込まれていく。指先を伝った水滴が光を反射して、表面に薄い虹を描いていた。
「……どうぞ」
 そしてお互いに相手が言い出すのを待っている雰囲気があって、沈黙に耐えるだけの根性が無い綱吉はその傷がある右手を返して雲雀を促した。
 濡れた掌が上を向く。そこに目を向けた彼は眉間に不機嫌な皺を寄せた。
「君は、ここが不良グループのたまり場になっていると知って、此処へ?」
「それは初耳」
 特別教室棟の裏手がそうだというのは知っていたが(そして先日壊滅したが)、テニスコート裏もそうだとは知らなかった。知っていれば当然近づく筈がない、そう言いたげに眇めた目を向けると、彼はそれもそうか、と納得した様子で己の顎を撫でた。
 綱吉だって、疑問に思う。
「ヒバリさんこそ、なんで」
「ゴミ掃除」
「……知ってたんですね」
 心底げんなりした表情で綱吉は項垂れた。一瞬でも自分を追いかけて来てくれたのではないか、と淡い期待を胸に抱いた自分を後悔する。
 そしてこんな期待をした自分に、疑問符を浮かべる。
 ――あれ?
 なにか、が胸の中に引っかかった。ピンポン球が弾んで、それまで隠れていたスイッチを軽く叩いたのだけれど、勢いと重みが足りなくてランプが灯らなかった。そんな感じ。
「特別教室側に居た連中が、こっちに鞍替えしたっていう話を聞いてね。様子を見に来たついでだったんだけど」
 雲雀は表情を変えた綱吉には気付かず、離れた場所で折り重なっているゴミと称された不良達へ目線を投げ、言葉を重ねた。
 弱い日射しがふたりを照らしている。いつしか雲が増え、隙間から伸びる陽光は白いカーテンのようだった。
「いたい?」
 急に声が近くなり、綱吉は反応が一瞬遅れた。顔をあげるとそこには雲雀の黒髪がいっぱいに広がっていて、簾よりも細かな隙間から黒曜石の瞳が彼を覗き込んでいる。
 反射的に身を仰け反らせて距離を取った綱吉は、あまり気にする様子もなく身体を起こした彼の突飛ない動きに自分ばかりが翻弄され、心臓を驚かせている現実に荒い息を吐いた。
 雲雀と一緒にいると、心臓が幾つあっても足りない気がする。ほっと胸なで下ろしたところで雲雀が先程呟いた言葉が気に掛かり、瞳だけを上向けると彼は綱吉の右手を頻りに気にしていた。ひょっとしたら彼は、綱吉がぼんやりしていたのを、右手が痛むからだと勘違いしたのだろうか。
 ならばそれは杞憂に近い。
「大丈夫ですよ。これくらい、舐めとけば治りますって」
 肘を曲げて胸の高さに手首を持って行き、下に指を垂れ下げながら左右に揺らす。柳、とまではいかないがゆらゆらとしなだれた手を改めて見つめた雲雀は、その細い瞳を益々細くして綱吉を見返す。
 なんですか、と問いかけに近い視線に首を傾げた矢先。
 掬い取られた右手の指が軽く引かれ、生暖かな感触が皮膚をざらりと撫でた。
「――っ」
 呑んだ息が喉を擦って裏返る。頭の中で綱吉の身体は飛び上がって後方に逃げたのに、現実の彼はその場から一歩も動けずに氷の彫像よろしく彼に手を取られたまま固まっていた。がちがちに凍り付いた指先を生ぬるい風が擽り、たいした力も込められていないのに雲雀の手を振り解けない。
 目の前で、その少し下で、黒髪が風になびいている。吹きかけられる吐息が肌を擽り、浮き上がった血管に流れる血液が沸騰を開始していた。
 身体全体が心臓になったのではないかと思えるくらいに激しく拍動を開始した心臓が全身に血液を送り込み、彼の舌に乗った赤い血がその唇を汚すのを綱吉は丸い目を更に丸くして見送った。
 唾に混ぜて飲み込まれていった血液が、彼の薄い喉を上下させて体内へ滑り落ちていく。自分の身体の中にあったものが、雲雀の中に潜り込んだ――そう認識した瞬間、綱吉の頭が爆発した。
「ひばっ、ひばりっ、ひばりさっ」
 舌が回りきらず、呂律も大分危なっかしい発音で綱吉はぐるぐると高速回転したメリーゴーランドに乗っている気分を味わいながら、彼を呼んだ。右手を振り回す、拘束は実に呆気なく解かれ勢いをつけすぎた手首がコンクリートの角にぶつかった。
 痛い、当然だ。
「っつぁ~~~~」
「馬鹿?」
「ほっといてください!」
 泣きっ面に蜂とはこのことか。右手を抱きかかえて悶絶している綱吉を至極冷静な目で観察した上で率直に感想を述べた雲雀だが、彼は果たして、綱吉がそうなったのが誰の所為なのかどこまで正確に理解しているのだろう。
 恨みがましい目を向けると、彼はしれっとした顔をしていた。
「舐めたら、治るんだろう?」
「そりゃ、確かに、言いましたけど」
 まさか雲雀に実践されるとは思わなかった。いつだって彼は行動が突飛で、一方的すぎる。こちらの心臓の強度も、もう少し考えて欲しい。
 舐められた箇所がじんじんとした痛みを響かせている。ただの傷の痛みだけではない感覚に、綱吉は背筋を震わせて唇を浅く噛んだ。
「弱いくせに」
 何故、あそこで向かっていったの、と。
 まだ涙目で痛みを堪えている綱吉へ呆れ気味の声で彼が問う。綱吉は薄く瞼を持ち上げて自分の手に息を吹きかけると、背筋を伸ばし気味にして雲雀に向き直った。
 そうすれば彼の左頬が、最初に殴られた時のものだろう、赤く腫れて唇の端から血が出ているのが目に付いた。
「仕方ないじゃないですか」
 弱い、と言われても否定できない綱吉は、それでも不満げに唇を尖らせて上目遣いに彼を見やる。
「気が付いたら、怒鳴ってたんです」
「……馬鹿?」
「ほっといてください!」
 実際、思い返してみてもあの時の自分はどうかしていたと思う。
 大勢を前に、リボーン抜きで勝てるわけがないと承知の上で、不良たちの前に立った。今頃になってその危うさがリアルに感じられて、綱吉の膝が微かに笑う。引き攣った頬の筋肉が痛みを訴え、綱吉は小刻みに息を吐いて砕けそうになる脚を支えた。
 雲雀が来なかったら、本当にあいつらが言っていた通りのボロ雑巾になっていた可能性が高い。馬鹿と言われても仕方が無い。
 けれど、矢張り、あいつらの言葉は今でも許せない。
「ヒバリさんをぶっ飛ばすとか、闇討ちするとか、そういう話が聞こえてきて。頭に血が上ったって言うか」
 手首をさすり、綱吉は徐々に視線を落としていく。雲雀の胸元に散った赤い点は、他の誰かのものだろうか。開いた襟元に風が迷い込み、白いシャツを膨らませている。靡く学生服の袖が視界の片隅をうろうろとして、綱吉は落ち着かない。
 だのに唇は、意識とは関係なく勝手に言葉を紡いでいく。
「体が勝手に、動いちゃったんだから」
 じんじんと響く痛みは手の甲から指先、反対側の手首を伝って体中に広がっていく。舌の先が麻痺したみたいに感覚が遠く、立ち木を撫でる風の音が大海の細波の如く綱吉を包んだ。
 最終的に自分の爪先に落ちた視線を、ゆっくりと閉ざす。
「そりゃ、……俺だって、馬鹿なことしたと、思ってますよ」
 たどたどしく吐き出した言葉、僅かに震えているのに雲雀は気付いているだろうか。盗み見た彼の表情は逆光の中にあって読み取れず、ちぇ、と心の中で舌打ちした綱吉は左手で濡れている右手をそっとなぞった。
「君は、本当に」
「馬鹿で悪かったですね」
「……いや」
 先回りをして雲雀の台詞を奪ったつもりだったのに、否定されてしまった。
 彼は伸ばした指で顎を数回掻き、綱吉から視線を遠くへ流す。後を追った綱吉だったが、その先には何も見出せなかった。
「よく分からない子だ」
「……」
 続けられたのは、前にも聞いた事のある台詞。
「弱いくせに、急に強くなって。そのくせ強いかと思えば、急に弱気になるし」
 不良に向かって怒鳴ったときもそう。
 雲雀に向けられたナイフへ果敢に突進していったときも、そう。
 後先考えずに飛び出して、何か考えがあるのかと思えばそうではなく、ただ突発的に思いつきだけで行動している。だのに結果はちゃんと付いて回って、現に彼は無事だ。
 幸運の女神に守られているのか、それとも単に悪運が強いだけか。
 確かめるように細めた目を向け直されても、綱吉は答えようがない。むぅ、と頬を膨らませ気味に腕を後ろに庇っていると、急に頭に重力を感じた。
 撫でられたのだと気づくのに、丸々三秒かかった。
「ともかく」
 深く溜息をつくついで、と言わんばかりに。
「君は僕のなんだから、もうちょっと考えて行動してくれないと」
 危なっかしくて見ていられない。そう告げた彼に、綱吉は目を瞬かせた。
「――はい?」
「なに」
 素っ頓狂に裏返った声を出せば、不機嫌に沈んだ雲雀の声がそこに覆いかぶさる。
 似たような台詞は以前にも聞いたが、なんだか色々と省略されてしまっている。反射的に頷きかけた綱吉は慌てて首を振り、頭の上にあった雲雀の手を払いのけた。
「誰が、誰のものですか!」
「君が」
 拳を硬くして前傾姿勢気味に怒鳴る。息を吐くのが少し苦しいのは、顔が知らず熱いのは、きっと気のせいだと自分を誤魔化して。
 それなのに雲雀は平然と、むしろ意地悪く笑いながら、綱吉に向けた指先を折り返して自分に向けた。
「僕の」
「聞いてません!」
「当たり前だろう」
 更に怒鳴って綱吉の息が切れる。ぜいはあと苦しげに肩を上下させた彼を前に、またしてもどこかで聞いた台詞が雲雀の口から零れ落ちた。
 笑っているこの男が、どうしようもなく憎らしい。
 彼が次に言う台詞が、用意に想像できて綱吉は頭を押さえた。
「今、決めたんだから」
「また勝手に……」
 人をものみたいに言わないで欲しい。
「念の為確認しますけど、俺に拒否権は」
「ないよ」
 あるわけないだろう、と言いたげな瞳が間近から綱吉を覗き込む。咄嗟に肩を強張らせて目を見開いてしまった綱吉は、そこに映し出される自分の姿を見詰め返して顔を赤くした。
 本当にこの人は、どこまでも傲慢で、身勝手で、我が儘で、尊大で、けれど誰よりも強く、誰よりも高い場所に立っていて。
 綱吉の前に立っていて。
「君は」
 その強さに憧れた、決して誰にも屈しない信念に焦がれた。
「僕のもだよ」
 くすっ、と笑う声が聞こえ、鼻の頭に吐息がかかった。
 遠ざかっていく彼の顔をぼうっと見詰め、綱吉は今度はくすぐったくてたまらない右手を左手で握った。
「ヒバリさん、そこ」
 会話が続かない、いきなり占有宣言をされても困る。
 泳いだ視線が雲雀の口元を走って、赤くなっている傷口で立ち止まった。痛くはないのだろうか、と見ている綱吉の方が痛みを感じてしまいそうなくらいに腫れ上がっている。
 至近距離で拳を難なく受け止めた雲雀を褒めるべきか、この程度の怪我で済ませてしまった彼に呆れるべきか。
 綱吉は背中に回していた手を解くと、右手を持ち上げようとして赤くなっている甲に僅かに躊躇した。けれど左手では触れ難いのもあって、恐々と指を向けると、雲雀は逃げもせず綱吉の好きなようにさせてくれた。
 短く切ってある爪が、それでも痛かったのか。ささくれだった皮膚に触れた瞬間、雲雀は小さく息を呑んだ。
「手当て、しないと」
「必要ない」
 綱吉の右手もそうだが、変な黴菌が入る前にちゃんと洗って消毒しなければ。けれど綱吉の声を素っ気無く拒絶した雲雀は、頬の手前で漂っていた綱吉の手をも払い落としてしまった。
 叩かれた掌が軽い音を響かせる。
「舐めていれば治るんだろう」
「どうやって」
 揚げ足を取る格好で雲雀がつっけんどんに言い放つが、右手を戻した綱吉は口の直ぐ横にある雲雀の怪我を片目で睨んで唇をへの字に曲げた。
 雲雀が黙り込む。舌を伸ばせば届かないことはない位置だが、舌なめずりならまだしも、頬に付いた米粒を取るような真似をする彼は、正直怖すぎる。出来れば綱吉が居ない場所でやってもらいたい。
 切なる願いが通じたわけではなかろうが、雲雀は黙ったまま口を閉ざした。顎を撫でる手と空を仰ぐ視線が思案気味に揺れている。
 どうせ思いつきだけで言ったに違いない、綱吉は肩を落としながら無意識に右手の甲を舐めた。
「ヒバリさん」
 顔を上げる。
 唇の隙間から赤い舌を覗かせた綱吉にまた雲雀は息を飲み、下から伸び上がってくる柔らかな甘茶色の毛並みに視界を奪われた。まるで子犬が親犬にじゃれつくように舌を滑らせた綱吉は、間近に喉を擦った吐息を感じて浮かせた踵を地面に下ろした。
 捕まえた学生服の袖が指の中で無数の皺を刻み、絡みつく。目の前に見開かれた黒真珠は、ふたつとも驚きに染まっていた。
 綱吉もまた、自分がとった行動の意味を計りかねて目を丸くする。
「あれ……?」
 今自分が、何をどうしたのか。
 ゆっくりと頭の中で反芻される展開に、綱吉はおや? と首を傾げた後、濡れた舌で自分の乾いた唇を舐めた。
 そう、舐めた。
「…………」
 雲雀もまた、該当箇所を掌で覆って僅かに朱が走った顔を綱吉に向けている。本人が舐めるには遠すぎて、他人が舐めるにしても位置が微妙すぎる場所、を。
「あ、れ……――?」
 互いに目を合わせつつ逸らしつつ、チラチラと相手を窺っては赤い顔を更に赤くさせている。今ひょっとして、自分は、とてつもなく恥かしい事をしてしまったのではないか、と頭の中がこんがらがった綱吉はどうにかその結論だけを導き出し、洒落にならない相手に何をやっているのかと自分自身の後先考えない行動力を呪った。
「え、あ、……いや、違うんですちがうんです。ヒバリさんが舐めたら治るとかそんな事言うから」
「先に言ったのは君だろう」
「そうですけど!」
 兎に角深い意味はないんです、と逆上せ上がりそうなくらいに頭に熱を溜めた綱吉が、耳までも真っ赤に染めてその場で飛び跳ねた。
 そう、深い意味は無いのだ。条件反射的に、自分の怪我を舐めるのと同じくらいの心構えで。だから変な意味とか目的があったわけではない。僅かに……掠った気はするが、それだって事故だ、偶然だ。
 意図は無い。だのに主張すればする程、必然だったと自分で言っているような気がして綱吉は声を詰まらせた。
「へえ……?」
「うぅ」
 眇められた雲雀の目に見下ろされ、ぐうの音も出なくなる。いっそ開き直ってしまおうか、とさえ思えた瞬間、風が吹いた。
 雲雀が顎にやっていた手を外し、空を向く。つられて綱吉も雲が晴れ始めた空に視線を流した。
「なら、もし」
 低い呟き声は風に押し流され、微かに綱吉の耳へと届けられる。
「口の中も切れてる、って言ったら」
 どうする?
 穏やかな春の陽光を思わせる眼差しに、振り向いた綱吉はトクン、と心臓を一度鳴らした。
 それまで胸の中に閊えていた何かが、ゆっくりと溶け始める。
 ――あ……
 分かった、と。
 綱吉は二度続けて瞬きをして、目の前に佇む彼を見た。

 追いかけられて逃げ出したのは、怖かったからだけじゃない。
 不意に泣きそうになったのも、ただ哀しかったからじゃない。
 抱き締められて苦しかったのは、抱き締める腕の力が強すぎたからなんかじゃない。

「どうする?」
 悪戯をけしかける子どもの顔で彼が笑う。綱吉はそんな彼を一度強く睨みつけて、それから踵を浮かせて背伸びをした。
「そんなの……」
 地上に伸びたふたつの影が、ゆっくりとひとつに重なり合う。
 青空を横切って飛行機雲が東の空へ伸びていった。

 ――俺、この人が好きだ……