濡染

 風が出ているのだろう。トン、タタン、と立て続けに雨粒が窓を叩き、びゅうっと木々が唸って白い煙を巻き上げた。
 隙間無く閉じられた窓枠がカタカタと不安げな音を響かせ、透明なガラスは濁って視界はすこぶる悪い。曇っているのかと思い腰を上げて近づけば、なんてことはない。雨だれが風に煽られ、斜めに走っていただけだった。
 好奇心に負けてそっと手を伸ばせば、指に触れた窓はひんやり冷えていた。人肌の温もりを得て、輪郭が白く浮き上がる。手を離せばすぐ消えてなくなるのを面白がって何度も繰り返し、彼は最後に額を擦り付けた。
 首を前に倒して体重の一部を預け、瞼を伏して視界を闇に染める。五感のうちのひとつを封じた彼の耳がにわかにざわついて、外の景色をよりリアルに脳に伝えた。
 雨は一時間前よりも勢いを増していた。前日の夕方から降り始めて、一晩経ってもまだ止んでくれない。グラウンドはすっかりぬかるんで、アスファルトの道路も水溜りだらけだ。
 こんな日こそ雨靴の出番なのだが、生憎と校則で禁止されている。制服同様、例外は許されない。
 吐息を浴びて白さが増したガラスを撫でて、彼は遠くに目を凝らした。どんより重い雲が空一面を覆っており、晴れている日なら見える建物も今日に限っては雲隠れを決め込んでいた。
 モノクロよりももっと酷い、灰色一色の世界だった。
 このまま明日になっても雨が止まなかったら、町は水の中に沈んでしまうのではなかろうか。テレビでも河川の氾濫に注意するように、と散々言っていた。町内を流れる並盛川は普段はおとなしいけれど、聞いた話、今日の水量は相当なものだったらしい。
 轟音と共に泥水が流れていく様は、想像するだけでも背筋が寒くなった。
 万が一足を滑らせて川に落ちたら、絶対に浮き上がって来られない。妙なところで自信たっぷりに頷いて、彼は窓ガラスの中に居る半透明な自分に苦笑した。
「早く止まないかなあ」
 ぽつりと呟けば、僕は嫌いかと窓を叩いた雨粒に訊かれた。
 他の雨粒と合流して大きくなり、少し行ったところで別れて小さくなって、また集まって大きくなりながら、風に押されて斜め下に消えていく。行方を見守り、綱吉は微笑んだ。
 ガラス面に残ってしまった油脂の跡をなぞって消して、返事の代わりに軽くノックする。嫌いではないけれども、晴れた空に浮かんでいる雲の方が好きだと頷いて、彼は左足を軸に身体を半回転させた。
 両手は背中に回して緩く結び、腰を叩きながら右足を大きく前へ。続けて左足も持ち上げて、そこにあった椅子の脚を蹴り飛ばす。
 移動が楽なようにキャスターがついている椅子はふかふかのクッションと背凭れを持った、非常にシンプルな構造をしていた。
 肘掛はない。高めに調節されており、座ると足の裏全部が床に着かなかった。
 十センチちょっとの身長差を若干恨めしく思いながら、彼は無人の椅子を両手で掴み、机から引っ張り出した。くるりと回して、数回しか座り心地を堪能したことのない座面にどっかり腰を落とす。
「わひゃ」
 尻が沈んだと思った瞬間押し返されて、変なところから声が出た。咄嗟に脇を締めて小さくなって、綱吉は衝撃で左に回転した視界に肩を竦めた。
 教室の椅子は堅い合板で出来ており、長時間座っていると尻だけでなく身体全体が疲労を訴えた。自宅の勉強机はそれよりまだましだが、やはり長期間身を預けるには不適格。
 それに比べて応接室の執務机は、どうだ。機能性を重視したこの一品は、見た目に反してかなり良いお値段がついていた。
 前に面白がって座っていた時に教えられて、冷や汗が出たのを思い出す。
「さっすが、高級素材」
 疲れにくい画期的なシステムが搭載されているのだとあれこれ話を聞かされたが、価格しか印象に残っていない。ともあれ高いものはいいものだと認識を強めたわけだが、残念ながら自分も欲しいとは思わなかった。
 勉強が嫌いで、教科書を広げるのだって本当は嫌。そんな自分に椅子を与えられても、宝の持ち腐れで終わるだけだ。
 買ってあげようか、と言われた時の返答をそっくり振り返って、苦笑を浮かべる。気持ちは今も同じだ。たまにこうやって座れれば事足りる。
 ふかふかの背凭れに身を預け、琥珀色の瞳は自然窓に流れた。
 並盛中学校、応接室。壁の時計は午後四時を少し回った辺りを指し示していた。
 授業は全て終わり、部活動がない生徒の大半は既に岐路に着いた後だった。この雨なので、運動部もそのほとんどが今日の練習を取りやめるか、体育館で規模を縮小して行っていた。文科系のクラブは関係なしだが、どこも窓が閉められている所為か、物音はほとんど聞こえて来なかった。
 ブラスバンド部の合奏だって、いつもより格段に静かだった。雨音ばかりが耳朶を打ち、自分の心音が一番喧しかった。
 振り返った応接室に、他に人は居ない。
 幅広の執務机の向こう側には背の低いテーブルが据えられ、それを挟む形でソファが置かれていた。その黒い革張りの、三人くらいなら楽に座れそうな応接セットの片隅には綱吉の通学鞄が、若干居心地悪そうに寝転がっていた。
 廊下と室内を隔てているドアの真横には、紺色のこうもり傘。灰色の棚に寄りかかる形で斜めに立てかけられているその柄には、女性らしいたおやかな字で綱吉の名前が記されていた。
 小学生でもあるまいに、持ち物に記名などしなくていいのに。
 買ってきた直後に母にやられて怒ったのだが、男物の傘にはそうバリエーションが無く、似た物を持つ生徒に間違えられる可能性は高い。今となっては、彼女の心配りがありがたかった。
 ずっと濡れた傘に囲まれていたからか、登校時に使用してから九時間近く経過しているのに、表面はまだ少し湿っていた。
 明日は使わずに済む天気であって欲しい。湿気が篭った室内を見回し、彼は肩を落として前髪を掻きあげた。
 湿度が高い影響なのか、髪の毛も普段よりずっと癖が強く出ていた。ただでさえ爆発しているのに、更に膨張して目も当てられない状態になっている。
 伸びをすれば、壁際の戸のガラス窓に顔が映った。椅子の脚につま先を引っ掛けてバランスを取り、遠くに居るもうひとりの自分を見つめながら薄茶色の髪を少し摘んで軽く引っ張る。
「うーん」
 ドライヤーを当てても直らないからと放置してきたが、少しくらい櫛を入れておけばよかった。朝方のどたばたした時間を思い出して唸っていたら、かしゃん、と硬い音が耳に触れた。
「!」
 途端に綱吉の顔が強張り、猫背だった背中がピーンと伸びた。
 椅子の上で大仰に畏まった彼を知らず、応接室のドアノブががちゃがちゃ音を立てた。乱暴に捻られて、押し開かれる。
 その一部始終を緊張気味に見守った綱吉の双眸が、次の瞬間、零れ落ちそうなくらい大きく見開かれた。
「ヒバリさん!」
 咄嗟に前に出ようとして、座ったまま椅子ごと転びそうになった。引っ掛けていたつま先を慌てて外し、両手をじたばたさせながらバランスを取って飛び跳ねる。
 片足立ちの案山子みたいなポーズを取った彼に、ノックなしで入ってきた青年は胡乱げな顔をした。
 ぐっしょり濡れた黒髪を額に張り付かせ、シャツもスラックスもびしょびしょだ。半袖シャツに固定された腕章も水分を吸い、重そうに頭を垂れていた。
 ゆとりが多めの制服が今はぴったり肌にへばりつき、身体のラインを浮き彫りにさせていた。驚くくらいに細い腰や、筋肉質な上腕が服の上からでも露わになって、絶句すると同時に見惚れて停止していた綱吉は、五秒後にハッと我に返って首を振った。
 ぼんやりしている場合ではない。濡れ鼠になっている風紀委員長はまだ言葉をひとつも発していないが、表情は見るからに不機嫌だった。
 ワカメかなにかかと勘違いしたくなる黒髪をそのままに、犬を真似て全身を震わせる。途端に冷たい飛沫が飛び散って、一部は中腰になっている綱吉にまで届いた。
 浴びせられた水滴にきゃっ、と首を竦め、彼は上唇を浅く噛んで鳥肌立った腕を撫でた。
「どうしたんですか、ヒバリさん」
 視線は彼に固定したまま、机を回り込んでソファへと駆け寄る。横倒しになっていた自分の鞄を引き寄せた綱吉に、雲雀は面白くなさそうに口を尖らせた。
 待っているとは思わなかった、とでも言いたげな視線に苦笑を返し、急ぎファスナーを開け放って内部に手を入れる。
 次に引き抜かれた時、小さな手には真っ白いタオルが握られていた。
 くしゃくしゃに丸められていたので、取り出す時に端がだらんと垂れ下がった。褌かなにかかと勘違いしたくなる形状に、漆黒の瞳が怪訝に眇められた。
「とにかく、これ、使ってください」
 ずぶ濡れで部屋に戻ってきた理由が気になったが、今は水気を取り除くのが先決だ。いつまでもこのままでは、身体を冷やして風邪を引いてしまう。
 驚きに目を丸くして捲し立てた綱吉にタオルを押し付けられ、雲雀は仏頂面のまま仕方なく受け取った。
「帰ったんじゃなかったの」
「いちゃ悪いですか」
 本日初めて聞く彼の声に、綱吉は反射的にムキになって言い返した。頬を膨らませて拗ねて、なかなか動き出さない雲雀に焦れてタオルを奪い返す。
 両手で持った布を左右に広げ、彼はいくらか躊躇してから四つに折りたたんだそれを上向かせた。
「汚くないですから」
 雲雀がすぐにタオルを使わなかった理由を考え、使用済みで汚れていると思われたのだと判断する。それは間違いではないけれども違うのだと言い訳して、彼はぽんぽん、と折った角を使って顔を拭ってやった。
 登校後に濡れた手や肩、鞄の湿り気を拭うのに使ったが、それだけだ。泥を落としたわけではないので、言うほど汚れてはいない。
 鼻筋から頬、続けて額に触れようと爪先立ちになった彼を見下ろして、ようやく焦点が定まった雲雀がおもむろに右手を持ち上げた。
「わっ」
 下から掬い上げるように手首を取られ、引き剥がされた綱吉が後ろに仰け反った。左足を浮かせて片足に体重を集中させ、驚愕に目を見開いて呆然と雲雀を見つめる。
 長い前髪を額の真ん中に張り付かせたまま、彼は緩んだ指先からタオルだけを引き抜いた。
「着替えるから」
「あ、……はい」
 素っ気無く言われて、虚を衝かれた綱吉は緩慢に頷いた。
 空になった利き手を握り締め、その肘に左手を添えてもぞもぞと身をよじる。床に散らばる水滴や靴跡を何気なしに眺めていたら、湿って重たい衣擦れの音が聞こえ始めた。
 つられて顔を上げ、左を見る。位置を変えた雲雀が、早速白いカッターシャツのボタンを外しにかかっていた。
 綱吉のタオルは広げて首にかけ、後ろ髪から滴る水滴を吸わせていた。透けて見えていた肌色は、布地との間に空気が紛れ込んだ所為で一気に遠くなった。
 次の瞬間、袖から腕が引き抜かれ、絞れば水が溢れ出しそうなシャツが床に放り投げられた。
「っ!」
 引き締まった男らしい上半身をさらけ出した彼に、琥珀色の瞳が大きく見開かれた。
 肩幅は広く、無駄な贅肉は一切見られない。トンファーを振り回す腕は筋肉の塊で、露出する肘から先は日焼けの為か他に比べて色が濃かった。
 並盛中学校で強権をふるう男の凶悪ぶりは、聞きしに勝るものがある。本来は、こうやって気軽に話が出来る相手ではない。
 応接室だって風紀委員長の執務室として占領されてからは、教員ですら簡単に近づけない場所と化していた。
 だというのにダメツナと渾名がつけられている少年は当たり前のようにここに顔を出し、雲雀に手を伸ばしていた。
 羨ましくなる逞しい体躯を見せ付けられた綱吉の頬が朱に染まり、瞬時に顔が背けられた。両手で制服の裾を握り締め、大慌てで身体ごと背中を向けて小さくなる。
 徐々に面積を広げていく朱色を盗み見て、雲雀は楽しそうに笑った。
「見ててもいいよ」
「そんな、俺なんか……もったいないです」
「そう、残念」
 目を逸らす必要などないと嘯いた彼だが、綱吉は頑として首を縦に振らなかった。頭の先から煙を噴いているのに肩を竦め、雲雀は目を細めると着替え作業に戻った。
 湿っている上半身をタオルで軽く撫で、乾かしてから次にズボンに取り掛かる。色が変わってしまっているベルトの留め具を外して引き抜けば、布が擦れる音に綱吉が肩を震わせた。
 そちらがじっくり裸体を観察して来るのなら、お返しに自分も眺めてやろうと思っていたのに。そんなことを冗談交じりに呟けば、華奢な体躯はいっそう竦み上がり、俯いて動かなくなった。
 表情は見えないけれど、想像はつく。恥ずかしそうにしている彼を思い浮かべて、雲雀はスラックスのホックを外した。
 素早く両足から引き抜き、靴下も脱いでタオルを腰に押し当てる。さすがに下着の替えまでは用意していない。濡れた上下を足で端に寄せ、彼は壁の戸棚を開いた。
 もしもの時の為に用意しておいた着替えを取り出し、折り目正しいスラックスに右から足を突っ込ませる。ずっと棚に押し込んだままだったお陰で若干防虫剤臭かったが、湿った服のままでいるよりはずっとマシだ。そう自分に言い聞かせて、ファスナーをあげて腰周りを引き締める。
 ベルトは諦めるしかあるまい。汚れている着衣とは唯一別にした装備品を机の上に眺め、首にぶら下げたタオルの端で顎を拭う。
「いいよ」
「はー……――いやああぁ!」
 中まで浸水している靴も脇に追い遣って合図を送れば、振り返った綱吉が素っ頓狂な声を上げて飛び退いた。
 両手で顔を覆い、からから笑っている雲雀を隠す。だが実際は、指と指の間には結構な隙間があった。
「ちゃんと服を着てください」
「別にいいじゃない」
「よくないです!」
 くぐもった声で怒鳴る綱吉を笑い飛ばすが、聞き入れられない。廊下にまで響く大声を張り上げられて、彼は渋々棚の中へ手を伸ばした。
 白一色のシャツを広げ、素早く羽織る。但し前ボタンは閉じない。胸元を露出したまま近づいてこられて、綱吉は目のやり場に困って下を向いた。
 耳の先まで鮮やかな紅色に染まっている。なんとも可愛らしい姿に相合を崩し、雲雀はぶら下げていたタオルを引き抜いた。
 ソファの真ん中にどん、と腰を下ろして、未だ恥ずかしそうにしている少年へと差し出す。
「拭いて」
 一言だけ告げられて、彼は苦虫を噛み潰したような顔をした。
「なんだって、あんな、ずぶ濡れだったんですか」
 一瞬の逡巡を挟み、右手を伸ばして自分のタオルを引き取る。パイル地の表面は鞄から出した時よりずっと湿って、重くなっていた。
 黒髪から垂れ落ちる雫は、一時期よりは少なくなっていた。だがまだ過分に湿っており、ドライヤー無しで乾かすとしたら結構な時間がかかりそうだった。
 しっとり濡れて烏の羽色になっている彼に肩を落とし、綱吉は丸められていた布を広げた。
 着替えたばかりだというのにさっそく襟を湿らせている彼の背後に立ち、ちょうど落ちる寸前だった雫を拾って襟足を包み込む。
「傘、邪魔でしょ」
 素肌を擽る感触に喉を鳴らし、シャツのボタンを上からはめていった雲雀が言った。
 彼はこの雨の中、外の見回りに行ったのだ――傘もささずに。
 いざという時片手がふさがっていては、思うように動けない。だから使わないのだと事も無げに言い放たれて、綱吉は力なくため息をついた。
 自分の知っている常識と、この男の常識は随分と違うらしい。分かっていたことだが呆れるより他無くて、綱吉は丁寧に黒髪を梳きながら地肌との間にタオルを差し入れた。
 両手と布でサンドイッチにして、毛先の水分を移し変えていく。本当はぐしゃぐしゃにかき回してやりたいのだが、乱暴にするのはどうにも憚られた。
「だからって、あんなんじゃ風邪引いちゃいます」
「そんなヤワじゃないよ」
 梅雨の季節はもうしばらく続く。この先もあんな風にずぶ濡れになりながら過ごすのだとしたら、いくら頑丈な雲雀でもどこかで体調を崩してしまう。
 彼はあり得ないと言い張るが、先のことなど誰にも分からない。心配なのだと暗に告げて丸い頭を撫でれば、ソファに寄りかかっていた雲雀が不意に振り返った。
「っ」
 ボタンは下まで全部留められていたが、シャツの裾はスラックスからはみ出たままだ。いつもきっちり身なりを整えているので、こんなに着崩した彼は珍しかった。
 切れ長の瞳に見つめられて、自然と顔が赤く、熱くなる。身の置場に困ってしまって、綱吉は湿ったタオルを握り締めて右往左往した。
 可愛らしい反応に喉をクツクツ鳴らして、雲雀は背凭れにゆったり身を預けた。
「いいよ。そうなったら、君に看病してもらうし」
「俺、おかゆなんて作れませんよ」
「膝枕でいいよ」
「それは、……いつでも出来るじゃないですか」
 両手を前に伸ばして肩の骨を鳴らし、リラックスして四肢の力を抜く。深く長い息を吐いて目を閉じた彼をねめつけて、綱吉は丸まった布を広げた。
 して欲しいと言われたら、きっと抗えない。なかなか乾いてくれない黒髪を布越しに撫でながら、彼は目を眇めた。
「いいなあ」
 雲雀の髪は癖のないストレート。指を通せばするりと逃げて、少しも絡まない。一方の綱吉はなかなかの剛毛で、どれだけドライヤーを行使しようともまっすぐになってくれなかった。
 整髪剤を用いても効果なし。だから最近はすっかり諦め気味だ。一生この髪質に付き合わなければならないのだと、同じく剛毛の父を恨めしく思いながらタオルを動かす。
 ぽつりと呟かれた言葉に瞼を開き、雲雀は前を向いたまま首を傾げた。
 つられて上にあったタオルも傾いた。添えていた両手が同じ方向に滑ろうとして、綱吉は咄嗟に力を込めて彼を押さえ込んでしまった。
「ごっ、ごめんなさい」
 痛くも痒くもなかったのだが、彼は自分のしでかした事に戦き、大げさなくらい震え上がった。脇を締めて首を竦め、早口に叫んでソファから離れる。
 支えを失ったタオルが後ろにずり落ちて、雲雀は布を拾いながら肩を引いた。
 腰を捻って背凭れに肘を沈め、怯えた顔を確かめて不機嫌に口を尖らせる。むっとした顔で睨まれて、綱吉は益々萎縮して膝をぶつけ合わせた。
 そういうよそよそしい態度を止めないから雲雀が機嫌を損ねるのだと、本人はまるで気づく気配がない。叱られるのを待っている小動物に嘆息して、彼は濡れたタオルを頭に置いた。
 水分を吸ってぺたんこになっている髪を覆い隠し、その上に両手を乗せる。なにをするのか、と綱吉がきょとんとしながら見守る中、彼はやおら腕を振り回し、頭をぐしゃぐしゃに掻き回し始めた。
 勢いよく前後左右に移動させ、リズムに乗ったタオルの端が滑稽なダンスを披露する。唐突過ぎる彼の行動に、琥珀の瞳はまん丸に見開かれた。
 ぽかんと口も開いて間抜け顔を晒している彼を笑い、たっぷり一分近くかけてから、雲雀はタオルを抜き払った。
「……ぷっ」
 毛先の流れを気にしながら水分をふき取っていた綱吉とは違い、なんとも大雑把で豪快な動きだった。当然の如く髪の毛はくしゃくしゃで、一部が逆立ち、重力を無視して天を向いていた。
 寝癖を爆発させている綱吉にも匹敵する奇怪な髪型を披露されて、見た瞬間、つい噴き出してしまった。
 慌てて両手で口を押さえるが、もう遅い。こみ上げる笑いを懸命に噛み殺していたら、ソファの上の雲雀が笑った。
「おそろい」
「やめてくださいよ、もう。あーあ、折角綺麗なのに」
 自分を指差しながら言われて、綱吉は目尻を下げて前に出た。肩の力を抜いて手を伸ばし、明後日の方向を向いている黒髪をそっと撫でる。
 元々癖がない髪は横からの力に逆らわず、素直に横に転がった。
 重力に引っ張られ、触らずとも元に戻っていくものもあった。手櫛で軽く整えて、綱吉は悪戯好きな青年に苦笑した。
「似合いませんよ、ヒバリさんには」
「そう?」
「そうですよ」
 彼にはいつもの、あの黒髪を風になびかせるスタイルが一番よく似合う。短く切ったところも見てみたい気はするが、綱吉を真似て爆発させた姿だけは今後一切遠慮したかった。
 思い出すだけで笑えてきて、からころ喉を鳴らしながら頷き返す。腹を抱えている彼にふむと頷いて、雲雀はすっかり緊張が解けた恋人に手を伸ばした。
 肩を抱いて引き寄せて、前のめりになったところで毛先を掬い上げる。
 ソファの背凭れに両手を添えた少年が、不思議そうに雲雀を見た。
「ヒバリさん?」
「君も、今の髪型が一番可愛い」
「――っ!」
 きょとんとしていたら、不意打ちの一言に頭がぼはん、と爆発した。
 臆面も無く言い放たれて、どっと汗が噴き出した。心臓がばくばく言って五月蝿く、身体はかっかと熱を持って暑い。耳の先まで真っ赤に染めて、彼は口をパクパクさせた。
 その可愛らしい姿を瞼に焼付け、雲雀は意地悪く目を眇めた。
「つなよし」
 名前を呼んで、背筋を伸ばす。
 心を惹き付ける声に面映げにして、綱吉は恥ずかしそうに目を閉じた。

2012/6/25 脱稿