霖雨

 日差しは強すぎず、けれど弱くも無く。気温は午前十時を過ぎたあたりから上昇傾向にあり、それに伴って鬱陶しいじめじめ感も着実に増していた。
 六月に入り、夏服に切り替わってからもう少しで一ヶ月。真夏の足音がすぐそこまで響いているのを感じながら、綱吉は雲が多い空を仰いだ。
 汚れの目立つ窓ガラスは、一学期が終わる直前までこのままだろう。大掃除の時くらいしか磨かれる事はなく、また専門の知識も持ち合わせない学生の手仕事なので効果はさほど期待も出来ない。半年前に誰かが拭いてそのままになっている灰色の筋を指でなぞって、彼は喉を擽る生温い空気に舌打ちした。
 暑い。
 本格的な夏の到来は未だながら、気配だけは肌で感じられた。最高気温が三十度を超える日も、あと数日で当たり前になってしまう。それは即ち待ちに待った夏休みの到来でもあるのだが、同時に嫌でならないテスト期間も目前に迫っているといえた。
 楽しみなものとそうでないものを左右の手にぶら下げて、最後に美味しくもなんともない唾を飲み込む。丸めていた背を伸ばし、彼は急ぎ足に階段を駆け下りた。
 昼休憩中の雑踏をすり抜け、人の少ない場所を目指して進んでいく。本当は廊下を走ってはいけないのだが、この程度の早足は許されるべきだろう。
 目的の階に到達して、彼はシンと静まり返った空間に目を凝らした。
 普通教室棟とは違い、特別教室棟の廊下には人影ひとつ見つからなかった。
 窓は換気の為に開放されていたが、天井の照明は消されているので若干薄暗い。昼間だというのに日の光があまり入らないのは、この建物が西向きだからだ。
 あと数時間して太陽が傾き始めたら、一気に明るくなる。オレンジ色に染まった陽光が窓から一斉に差し込む光景は、何度見ても綺麗だった。
 ただ最近は、そのお気に入りの景色にあまり出会えていなかった。
 それもこれも、長引く梅雨の所為だ。
 今日は日差しが拝めているけれども、週の半分ほどはどんより曇り空。ちょっと外に出るだけでも、傘が手放せない毎日が続いていた。
 昨日も夕方から雨が降った。夜明け前に上ってくれて助かったが、日光が地上に残った水分を蒸発させてくれたお陰で湿度ももれなく上り調子。日陰でじっとしているだけでも汗が滲み、シャツが湿った。
 不快指数は限界を超えていた。クラスメイトの数人が下敷きを団扇代わりにしていたのを思い出しながら、彼はきっと涼しいはずの場所へ急いだ。
 昼休みだけでも、快適な空間で過ごしたい。自分だけに与えられた特権に甘えようと、綱吉は見え始めた応接室の札に顔を綻ばせた。
 居るだろうか。
 いや、きっと居るに違いない。
 脳裏を掠めた一抹の不安をなぎ払って、彼は目を輝かせながらドアノブに手を伸ばした。
 ノックも忘れて利き手で掴み、右に捻って押し開ける。
 廊下と室内とを隔てる扉が開かれ、隙間から光が零れた。一緒になって涼しい風が頬を撫でるはず、と期待していたのだけれど。
「……げ」
 実際に彼の前髪を攫って行ったのは、たっぷりの湿気を含んだ温い風だった。
 予想が外れて絶句し、立ち尽くす。半端にドアを開けたところで凍り付いている彼に気づき、執務机に鎮座していた青年が胡乱げに顔を上げた。
「ノックくらいしなよ」
「――え、あっ」
 いつまでも入り口で呆然としていないで、用があるなら入れ。
 手招く仕草で言外に告げられて、綱吉は一秒後ハッとして両手を背中に隠した。
 肩で戸を押して狭まろうとしていた隙間を広げ、素早く室内に滑り込んで背中で閉める。慣れが垣間見える一連の仕草を見守って、並盛中学校の実質的な支配者たる青年は肩を竦めてため息を零した。
 呆れられているのをありありと感じながら、綱吉は首を引っ込め小さくなった。
 自分が何を当てにしてここに来たか、見抜かれている節があった。
 雲雀が座っている執務机の後ろには、窓があった。真っ白いカーテンが引かれているが、その裾は外から吹き込む風を受けてひらひらと宙を泳いでいた。
 上を見れば天井に設置された空調が否応なしに目に入るが、四方を向く細長い羽はどれも閉じられていた。
 スイッチが入っていない。午後に入り、これから気温も、湿度もどんどん上っていくというのに、だ。
 朝方に見たテレビの天気予報では、今日の最高気温は二十九度に達すると言っていた。今がどれくらいなのかは分からないが、場所によっては既にそれくらい行っているかもしれない。
 人いきれの分も加算される教室の蒸し具合を思い出してうんざりしながら、綱吉は首を伝った汗を手で払いのけた。
「なにか用?」
「いや、まあ。えーっと……」
 そこへ涼しげな声が飛んできて、彼は言葉を濁して目を泳がせた。
 両手は後ろに回したままだ。最初は指を互い違いに絡ませて握っていたのだが、自分の体温さえ不快でならなくて、今は左右共に広げて尻を鷲づかみにしていた。
 吸水性がいいとはお世辞にも言えないズボンであるが、掌が出す汗くらいはどうにかしてくれるはず。接触面積が広がった上、自分の尻を揉むような真似は出来るならしたくなかったが、背に腹は替えられなかった。
 表面をごしごし擦り付けながら、どう返事をすべきかでも迷って視線を一周させる。その間、雲雀は微動だにしなかった。
 机に肘を立て、両手を重ね合わせてそのうえに顎を置いている。若干前傾気味の姿勢で睨むように見つめられると、悪いことをしているわけでもないのに謝りたくなった。
 ごめんなさい、と口走りたくなるのを堪え、彼は観念して白旗を振った。
「今日、暑いじゃないですか」
「そうだね」
「教室って、冷房ないじゃないですか」
「そうだね」
「応接室って、空調ついてるじゃないですか」
「そうだね」
「…………」
 斜め前方の壁に向かって口を開いた彼に、雲雀は同じ返答ばかり繰り返した。真面目に聞いているのかと怒鳴りたくなる態度であるが、後ろめたいことがあるだけに、綱吉は何も言い返せなかった。
 応接室は元々、学校への来客があった時にだけ使用される部屋だ。だが現在進行形で、この冷暖房が完備された空間は並盛中学校風紀委員会委員長たる青年が不法占拠し、個人の執務室として利用していた。
 当初は教員らからも抗議の声があったようだが、今はまったく聞かれない。校長も教頭も、教育委員会からもなんら苦情が出ないところからして、雲雀が何かしら手を回しているのは間違いなかった。
 中学校に在籍しながら授業にも出ず、応接室で日がな一日過ごしている風紀委員長に視線を据えて、綱吉は居心地悪そうに身を捩った。
 踵で床を何度も叩き、上目遣いに座っている相手を窺っては目が合いそうになった瞬間サッと逃げる。口を尖らせはしても何も言おうとしない彼に辟易したのか、やがて雲雀はやれやれと首を振った。
 組んでいた手を解いて椅子を引き、立ち上がるが机の前からは動かない。近づいてくるかと警戒してビクッとなった綱吉を一瞥して、彼は入り口とは反対側の壁を顎でしゃくった。
「?」
 なんだろうと思って首を傾げた綱吉が、窓から最も遠いところにあった首の長い物体に顔を向けた。
 そうしてその正体を悟って、不思議そうに顔を顰めた。
「扇風機……」
「使っていいよ」
「え。でもここ、冷房が」
 ぼそぼそと小声で呟いた彼に頷いて、雲雀が素っ気無く言った。感情の読み取れない淡々とした口調に肩を跳ね上げ、綱吉は驚愕を隠さず振り返った。
 途中まで言いかけて、睨まれて口を噤む。だが思っていた内容は、大体外に飛び出してしまった。
 首を竦めて舌を出した彼に、雲雀は疲れた様子で嘆息した。
「今日から当分、空調は使わないから」
「えー!」
 肩を落としながら告げられた信じ難い一言に、綱吉は素っ頓狂な声を上げた。
 寝癖がついて爆発している髪の毛をぼふっ、と膨らませて、大げさなくらいに仰け反って倒れそうになる。慌てて左足を引いてバランスを取った彼を睥睨し、雲雀は右手を腰に当てて小鼻を膨らませた。
「なにか不満?」
 そこまで大仰に驚かれると、腹が立つ。眉間に皺を寄せて気難しい表情を作った彼を唖然と見上げ、綱吉は三秒経ってから首を横に振った。
 雲雀の決定は絶対だ。彼がこうだと言えば、どんなに理屈が通っていなくてもその通りになってしまう。
 中学校で独裁政権を敷く彼に反論できる人間など、ひとりもいない。綱吉だって例外ではなかった。
 傲慢極まりない彼だけれど、憎めない部分もある。彼がいるお陰で、この学校は秩序が守られている。隣町の中学校のように、一部の生徒が暴れた為に学校全体の授業が出来ないような状況に陥ったりしていない。
 並盛中学校にだって不良はいるが、その影響力は限定的だ。定期的に風紀委員によって排除されているので、人数自体も徐々に減ってきている。
 風紀委員の横暴に屈するのは嫌だが、ガラの悪い連中に絡まれるのはもっと嫌。今やそういう意見が、全校生徒の大半を占めていた。
 誰も彼に逆らえない。文字通り学園の支配者たる男だから、彼は皆が暑さに耐えながら机に向かっている時だって、涼しい環境に身を置いても許されると、綱吉はそう思っていた。
 だのに当の本人は冷房を使わないという。しかも当面の間は、ずっと。
 去年の夏はがんがんに稼動させていたのに、どういった心境の変化か。訝しげな視線を前方に投げれば、雲雀は不満を隠そうとしない綱吉に苦笑した。
「僕だけじゃないよ。校長室と、職員室にも禁止令は出してある。……保健室もね」
 指を折りながら数え上げた彼に、綱吉は益々怪訝な顔をした。
 彼が例に挙げたのは、どれも学校の中枢部とも言うべき場所だった。
 そのいずれにも、ここと同じように空調は整備されている。しかし雲雀は今夏、どこも使わせないと言い切った。
 自分が代表して我慢しているのだから、お前たちも当然見習うだろうと、そんな一方的な思惑が見え隠れしていた。思わず生唾を飲み込んで、綱吉はぽかんと間抜けに口を開いた。
 保健室は本来具合の悪い生徒が集まる場所で、熱中症で倒れた生徒もまずはそこに担ぎこまれる。但しあそこを任されている男はとても保険医と呼べる存在ではなく、男女差別甚だしくて目に余る言動が多かった。
 シャマルにセクハラされるのが嫌で、女生徒はあの施設を利用したがらない。男子は行けば追い出される。そんなわけで、体調不良の在校生が寄り付かない場所にまで余分な電力を裂いてやる義理はないというのが、雲雀の主張だった。
 確かに彼の言う通りだと頭を抱え、綱吉は二秒置いて瞬きを繰り返した。蜂蜜色の髪を掻き混ぜながら、壁際に置かれた家電製品を改めて見つめる。
「節電だから、ですか?」
「学内の電気も、使わない場所は切るように、近いうちに通達を出すから」
「……はぁい」
 昨今の電力事情は、厳しい。難しい話は綱吉にはよく分からないが、見ないテレビは消すなどして極力電気を浪費しないように、母である奈々にもしつこく言われていた。
 子供たちも微力ながら協力しており、綱吉だけが無視するわけにはいかない。近頃はテレビゲームをするだけでもイーピンに、何を言っているかは分からないが、お叱りを受けるのもしばしばだった。
 我慢を強いられるのは、当たり前だが好きではない。これはひとりだけの問題ではないのだから、と母に説教をされて膨れ面をしたのは、つい先日のことだ。
 家では冷房さえ自由に使わせてもらえない。学校は言わずもがな。せめて応接室だけでも、と思っていたのだが、最後の砦までついに失われてしまった。
 落胆は否めず、目に見えてがっかりして拗ねている彼に、雲雀は相好を崩した。
「いいじゃない。夏は元々暑い季節なんだから、その暑いのを楽しみなよ」
「俺、暑いの大っ嫌いなんですけど」
「寒いのは?」
「同じくらい嫌いです」
 肩を震わせながら言われて、綱吉はつっけんどんに吐き捨てた。
 短い言葉の応酬に、雲雀の背中が丸くなっていく。腹を抱えて笑う彼にむっとして、綱吉はかっかと熱を持ち始めた顔を叩いた。
 ぺちりと小さな音を響かせて、深く長いため息をついて足元を見る。
 数歩の距離を大股に詰めれば、扇風機まであっという間だった。
 沢田家にも何台か、羽を回転させて風を生み出すこの装置がある。先々週くらいに奈々が押入れから出してきて、カバーに張り付いていた埃を掃除しているのを見た。
 ここにあるものも、デザインは似たり寄ったりだった。歪んだ三角形の羽が円を描くように配置されて、回転時に怪我をしないようにカバーが被せられている。首の長さは三段階まで調整が利いて、風力などの設定は足元のスイッチで。
 タイマーの設定も出来るようだが、自宅にあるものとは違うのでやり方は分からない。膝を折って屈んだ彼は、早速起動スイッチを探して手を泳がせた。
 冷房が使用不可なのは面白くないが、かといって折角来たのにすごすご帰るのも癪だ。それに教室には、扇風機すら用意されていない。
 下敷きの団扇を自分で扇ぐよりは、機械に頼る方がまだ楽だし、涼しい。気持ちを切り替え、彼は人差し指を伸ばして中央のボタンを押そうとした。
 瞬間だった。
「――ぶっ!」
 まだ触れてもいないのに、突然扇風機が動き出した。
 俯いていたところに強風を浴びせられて、瞳から一瞬で水分が飛んだ。乾いて痛い眼を瞼で保護して顔を背け、唸り声を上げて右に回転していく送風機から仰け反って逃げる。
 尻餅をついて座り込んだ彼に、雲雀が楽しそうに笑った。
「ちょっ、な、なに?」
 急に動き出されて、壊れたかと思った。声を裏返して叫んだ綱吉をまた笑って、椅子に戻った雲雀が右手を高く掲げた。
 トンファーの代わりに握られていたのは、四角い平らな箱だった。
 いいや、違う。
 あれはリモコンだ。
「ひどい!」
「悪かったよ」
 故障でもなんでもなかった。あまりに酷い悪戯に腹が立ち、大声で怒鳴って床を殴りつけてやれば、雲雀は一応謝ってくれた。
 但し彼の黒い瞳は依然細められ、声も若干震えていた。
「もう……」
 あまり根に持つのも男らしくないからと無理に溜飲を下げて、綱吉は服の上から胸を撫でた。口から飛び出そうな勢いだった唾を飲み込んで胸を撫で下ろせば、涼しい風が首筋を撫でた。
 冷房に比べれば雲泥の差ではあるが、無風状態の中にいるよりはずっと心地よい。汗ばんだ肌からすうっと熱が引いていくのが感じられて、彼は嬉しそうに顔を綻ばせた。
「いい風~」
 満面の笑みで呟いて、うっとりと眼を細める。
 扇風機は同じ方向ばかりを向くのではなく、左右に揺れながら部屋全体に満遍なく風を送る設定が成されていた。綱吉はその正面に座り、一心に風を受け止めていた。
 扇風機がそっぽを向いた途端、空気を含んで膨らんでいた髪は勢いを失ってぺしゃんと凹み、戻ってくるとまた元気よく飛び跳ねた。そのうちに身体までもが一緒に揺れ始めて、一定のリズムで首を振る送風機の前を占領した。
 そう大きくも無い機械が生み出す風が、綱吉の身体に阻まれて雲雀まで届かない。部屋全体に循環すべき空気が一箇所に固定されて、室温自体は却って上昇した。
「ちょっと」
「しゃ~わせえ~、生き返るぅ~」
 カーテンを閉めている上に、本格的に日が入る時間帯はまだとはいえ、応接室は一般教室とそう大差ない気温だった。折角涼風を得られるアイテムを導入したというのに綱吉に独占されてしまっては、部屋の主たる青年はその恩恵が受けられない。
 腹立たしさを噛み殺して声をあげるが、聞こえていないのか返事は無かった。
 今にも蕩けそうな顔をして、扇風機にばかり固執している。無視されるのは面白くなくて、雲雀は益々むっとして口を尖らせた。
 本当に、応接室には涼みに来ただけらしい。本人がそう言っていたのだから間違いなかろうが、他にも理由があると思っていただけに、相応にショックだった。
 眉間に皺を寄せたまま、雲雀は椅子にもたれかかった。
 腕組みをして数秒間仰け反り、半眼して黙すこと数秒。やおら彼は手を伸ばし、机上で退屈そうにしていたリモコンを握り締めた。
 設定項目を記した文字と一緒に並ぶ箱型のボタンのうち、最も目立つものを力任せに押す。先ほど触れたばかりのそれを深く沈めれば、指令を受けた扇風機が音立てて大人しくなっていった。
 しゅるしゅると羽の回転が遅くなり、余韻を残しながらやがて止まった。冷風は途絶え、首を左に伸ばしていた綱吉もその体勢で凍りついた。
 半端に開いた口から息を吐き、彼はブリキの玩具のような動きで雲雀を振り返った。
 呆然と見開かれた琥珀色の瞳に、並盛中学校の支配者たる青年は勝ち誇った笑みを浮かべた。
「むー!」
 その上から目線が気に入らなくて、綱吉は頬を膨らませて唸った。そんなことをするのなら、と意地悪をした雲雀にそっぽ向くと同時に右手を足元に伸ばす。
 人差し指で起動スイッチを押してやれば、停止していた機械は瞬時に稼動を再開させた。
 ブゥゥゥン、と回りだしたプラスチック製の羽に眉を顰め、雲雀は再び電源ボタンを押した。
「……っの」
 またしても動きを止められて、綱吉は負けじとボタンに右手を叩き付けた。絶対にリモコンになど負けるものかと鼻息を荒くして、指は引っ込めずにスイッチの上に固定する。
 だが思惑は外れ、扇風機はリモコンの指示に従って回転を緩めた。
「むああ」
「ここは君の家じゃないんだけど」
 本来、生徒は応接室への立ち入りを許されていない。ここで涼めると広まれば、不埒な輩が雲雀の不在を見計らって徒党を組んで押し寄せてこよう。
 綱吉だけが特別だった。誰にも言いふらさない代わりに、風紀委員長が居る時でも部屋に自由に出入りできる。
 甘やかしすぎたかと内心反省しながら、雲雀はしつこい綱吉を懲らしめようと、風速も最も弱い設定に変えた。
 冷たく言い放たれた台詞に首を竦め、蜂蜜色の髪をくしゃくしゃにした少年は不満そうな顔で雲雀を睨んだ。
 そんな顔をされても、少しも怖くない。ふっ、と鼻から息を吐くだけに済ませ、彼はリモコンを机に置いた。
「だって、俺は休みの時間だけだけど、ヒバリさんはずっとじゃないですか」
「その代わり、君が家でクーラーを利かせている時も、僕はそれ一台だけだよ」
「俺、そんなに使ってませんもん」
 奈々からは冷房の使用を制限されている。小さな子供がいるので絶対に使わないわけではないが、設定温度だって高めだ。
 雲雀が言うほど、快適な環境で日々を過ごしているわけではない。そのところは分かって欲しくて頬を膨らませると、意外だったのか彼は目を丸くした。
 視線を右にずらして壁を見つめ、顎を撫でながら緩慢に頷いてはひとりで何かを納得している。そういう態度をされると妙に苛々して、腹立たしかった。
「ヒバリさん」
「でも、だからって独り占めはよくないんじゃない?」
「え、あー……」
 黙っていないで何か言って欲しい。棘のある口調で名を呼んだ瞬間、席を立った雲雀に冷たく言い放たれた綱吉はハッとした。
 そういえば、そうだった。
 目の前の涼しさに負けて、部屋に居るもう一人については深く考えていなかった。
 単なる意地悪だけで一方的にスイッチを切っていたわけではないのだと気づいて、彼はカーッと赤くなった。なんという子供じみた真似をしてしまったのかと恥じ入り、緩く握った拳を膝に添えて背中を丸める。
 小さくなっている彼に総合を崩し、雲雀はソファも回り込んで綱吉の傍で足を止めた。
 膝を折って屈み、恐る恐る人の顔を盗み見ている少年に目を眇める。
「分かった?」
「はい」
 なにも使うな、とは言っていない。単に目の前を塞ぐのだけはダメだという彼に首肯して、綱吉は反省の色を見せて項垂れた。
 落ち込んで元気がなくなった蜂蜜色の髪を掻き回して、雲雀はふっくら丸い頬にも指を伸ばした。
 愛くるしい紅色を軽く撫で、摩擦熱を嫌がる綱吉に向かって首を伸ばす。
「聞き分けのよい子は、嫌いじゃないよ」
 きょとんと目を丸くしている少年に囁き、彼は無防備極まりない唇を下から浚った。
 逃げられないよう首の後ろを押さえ込み、ちゅ、と可愛らしい音をひとつ響かせる。
「…………っ!」
 ワンテンポ遅れて綱吉は瞠目し、慌てて後ろに下がろうとして見越していた雲雀の手に阻まれた。身動きが取れぬまま下唇を甘咬みされて、足元から頭の天辺めがけて電流が駆け抜ける。
 ビリッと来て、華奢な体躯が大きく震え上がった。
 腕の中で身じろぐ綱吉に目尻を下げて、雲雀が僅かに身を引いた。琥珀の瞳は一分前と違って艶を持ち、頬は林檎に負けないくらいに鮮やかだった。
「いきなり、なにするんですかっ」
 不意打ちだと怒鳴った綱吉が拳を振り下ろしたが、殴られてもあまり痛くない。まるで力が入っていない彼をカラカラ笑って、雲雀は意地悪く微笑んだ。
 一瞬で上昇した体温を指先で確かめながら、鼻をぐずらせている恋人に問いかける。
「扇風機、どうする?」
 頚動脈に添えられた手を気にしながら、綱吉は口をもごもごさせた。
 今どういう状態になっているか、分かっているのに訊いてくるその底意地の悪さに呆れつつ、だからといって嫌いになれない自分にも辟易しながら、彼はため息ついて肩を落とした。

2012/6/24 脱稿