黄枯茶

 四月も後半に入ったとはいえ、東北の春はまだ寒い。少しずつ日が長くなってきており、三月に比べれば遙かに気温も高くなっているけれども、半袖シャツ一枚で動き回るにはかなり早すぎる。
 だというのに、烏野高校に入学したてのぴっかぴかの一年生である日向翔陽は、そんな肌寒さなどお構い無しで、学生服どころかその下に着込んでいたパーカーまでも脱ぎ捨てて、元気に飛び回っていた。
「なに考えてるんだか」
「元気なのは良いことだと思うけどねー」
 早々に昼食を終えた田中と一緒になって、ボールを追いかけ回している背中に向かってぽつりと呟く。咀嚼の末に米飯を飲み込んだ影山の独白を拾い上げ、菅原が温かい茶を飲みながら朗らかに笑った。
 保温機能がついた水筒の蓋を両手で大事に抱え持つ様は、どことなく年寄り臭い。まるで縁側で猫とひなたぼっこしているみたいだ、と思いはしても口には出さず、影山はなかなか中身が減らない弁当箱に視線を落とした。
 成長期で、且つ並々ならぬ運動量を誇るバレーボールに執心している息子の為にと、朝早くから用意してくれた母には感謝の言葉も無い。だがいかんせん、弁当箱が大きすぎる。ぎっしり詰め込まれた白米には、梅干しが全部で三個も隠されていた。
 小食な女子の五倍はありそうな容量を、けれど彼は黙々と平らげていった。残す気は最初から無い。同席者が続々と食事を終えて行く中、ひとり取り残されてもペースは変わらなかった。
「んじゃ俺も、っと」
 そうして箸を動かし続けている間に、菅原も片付けを終えて立ち上がった。重い学生服を脱ぎ捨て、袖のボタンを外して二重に捲り上げた後、無邪気に駆け回っている二名に向かって右手を振る。
 混ぜてもらうつもりなのだろう。先ほどから響く絶叫や怒号から類推するに、どうやらラリーでボールを落とした人間が、その落下数差だけ相手に肉まんを驕るルールらしい。
 今のところ、田中の方に分がある。高校に入ってようやくまともなチームに所属した日向は、こういった相手が居てこその練習が総合的に不足していた。
 遊びでも、真剣にやれば練習になる。最初は日向と菅原だけのやり取りが、いつの間にか人数を増やして現状に落ち着くまで、そう時間はかからなかった。
 三年生で、副部長で、他にも色々やる事があるだろうに、菅原は本当に面倒見が良い。田中もそうだ。なんだかんだと文句を言いつつも、結局は日向が可愛くて仕方が無い様子だ。
 一気に騒々しさを増した面々を遠巻きに眺めて、影山は食べるかどうかで迷っていた肉団子を箸で転がした。
「多すぎだろ」
 ひとり置いてけぼりにされた気分に陥って、誤魔化すかのように呟いて奥歯を噛む。咥内に僅かに残っていた白米を唾と一緒に飲み込んで、空になったところに厚焼き卵を押し込んだ。
 そこは部室棟に近い、グラウンドの一画だった。
 緑色も鮮やかな雑草が生い茂り、合間に白い小さな花が咲いているのが見える。前方遠くには野球部のグラウンドがあって、右手に進めばバレーボール部が練習に使っている第二体育館が聳えていた。
 左方向に顔を向ければ教室棟が軒を連ね、その遙か上空では太陽が燦々と輝いていた。
 陽光を遮るものは何も無く、陽射しは心地よい。だがそれでも、半袖で過ごすには適さない気候といって間違い無かった。
「馬鹿は風邪引かない、か」
 その話は本当だったのだとひとり感心して、ほんのり甘い味付けの卵焼きを噛み締める。細かく砕いて磨り潰してから飲み込んで、影山は茶を探して左手を泳がせた。
 ここに来る途中の自動販売機で買ったパック牛乳を探し当て、細いストローを口元へ運んでやる。楕円形に拉げている筒を下唇に押し当てて、視線は自然、前方で繰り広げられている光景に向かった。
「それ、日向」
「うわあ、っと、と。あっぶなー」
「ふっふー、これならどうだっ」
「ぎゃあ! って、おればっか狙うの禁止!」
 ふたりだった輪が三人になって、均等にボールが行き渡るかと思えば、そうならなかった。
 球技に限らず、勝ちに拘る場合は相手の弱点を徹底的に狙う必要がある。同情など無用だ。そこに穴があると分かっているなら、避けて攻撃してやる理由などどこにもない。
 辛抱強く食らいついている日向だけれども、ボールを追い掛けるのに必死で、田中や菅原の嫌がる返し方にまで気が回っていない。視線は常に上を向いて、足は一秒たりとも同じ場所を踏んでいなかった。
 ちょこまかと、本当によく動く。小柄な身体だからこそ成し得る技だと少なからず感心しながら、影山は冷たい牛乳で喉を潤した。
 そこへ、
「だー!」
「よーっし、肉まん四つ目ゲットぉ!」
「ぶっ」
 日向の絶叫と、田中の雄叫びがこだました。
 ちょうど飲み込んだ直後だったので良かったが、タイミングが少しでも狂っていたなら、最悪噴いていたかもしれない。
 飛び出た唾を指で拭い、白く汚れていないのを確かめてホッとして、影山はもう空に近いパックを地面に置いた。もう一度意味も無く口元を擦ってから箸を握り直し、いそいそと食事を終わらせるべく活動を再開させる。
 最初は教室で弁当を食べていたのだが、気まぐれに日向に誘われて以来、外で一緒に食べるようになった。雨の日は部室で、もしくは影山の教室で。
 菅原も田中も、大抵は教室で食べてからここに出て来るが、偶に今日のように外で弁当を広げる事もある。気温があがって過ごしやすくなれば、その回数はもっと増えるだろう。
 それをなんだか面白くないと感じながら、影山は地団駄踏んで悔しがっている日向に焦点を定めた。
 小躍りしながら喜んでいる田中を窘め、菅原が落ち込む日向の背中を叩く。声は聞こえないが、ドンマイ、とでも言って聞かせているのだろう。
 嗚呼、早く自分も弁当を全部平らげて、あの輪の中に加わりたい。
 胸の中に渦巻くもやもやしたものは、きっとボールに触れないストレスから来る不快感に違いなかった。だが悔しいかな、幼い頃に祖父からひとくち五十回の咀嚼と叩き込まれている所為で、早食いは大の苦手だった。
 恐るべし幼少期からの習慣。今ほど尊敬する祖父を恨めしく思った事は無く、腹立たしさも米粒と一緒に噛み砕いて、彼はようやく残り僅かとなった弁当箱に安堵の息を吐いた。
 時計を見れば、昼休みが終わるまで二十分を切っていた。
 ゆっくりし過ぎた。少しだけ残しておいて、部活が始まる前に食べる選択肢を考えるべきか。だがそれならば、購買部で握り飯のひとつでも買った方が良い気がする。
 一度考え始めたら止まらなくて、箸も完全にストップしてしまった。飛び回る羽虫を無意識に左手で追い払って口を尖らせていたら、胡座を掻く膝の先で草が踏み潰される乾いた音が響いた。
 気配を感じて顔を上げれば、ぐったり、という表現がぴったり来る顔をした日向がふらふらと腕を揺らして立っていた。
「日向?」
 今にも倒れそうなその姿にぎょっとして、影山が身を揺らす。咄嗟に腰を引こうとしたら、地面に接していた右の踵が浅く穴を掘った。
 焦げ茶色の土にめり込んだ靴を一瞥して舌打ちして、傾きかけていた弁当箱を両手で支える。だが日向は影山の警戒などまるで意に介さず、幽霊の真似でもあるまいに身体の前で両腕を垂らし、力尽きたのかがっくり膝を折って崩れ落ちた。
「あっちい~~!」
 そして、シャツの襟を引っ張って叫んだ。
「お前なあ……」
 見れば日向は全身汗だくだった。捲れ上がったシャツの裾から覗く臍の周囲もしっとり汗ばんで、サイズが大きいのか腰骨に引っかかっているズボンからは下着の一部が飛び出していた。
 高校一年生になりたて、といっても、バレーボールをやっている男子としては小学生かと見紛う小柄な体躯に、目が釘付けになる。見え隠れする臍から慌てて目を逸らし、影山は斜め前にしゃがみ込んだ日向の臑を軽く蹴り飛ばした。
「見てるこっちは寒いんだよ」
「えー……って、影山、まだ飯食ってんの。おっそ」
「わーるかったな」
 白い歯を見せながら笑う彼に悪態をつき、もう一発蹴り飛ばしてやろうと足を動かす。だが見越していた日向に簡単に避けられて、影山は面白く無さそうに空の箸を口に咥えた。
 唇と前歯で落とさないように挟み持ち、左手で弁当箱を支えた上で、自由になった右手を空中へと伸ばす。一瞬殴られるのかと身構えた日向だったが、百八十センチの身の丈に見合う大きさの手は全くの逆方向へ向かっていった。
 首を竦めたまま怪訝な顔で見つめる先で、影山は持ってきた自分の鞄に手を突っ込んだ。ファスナーが全開の中に手首までねじ込んで、ぐりぐりと時計回りに回転させたかと思えばなにかを掴んで戻って来る。
「使え」
「わっ」
 アンダースローで振り抜かれた手から放たれたそれは、真っ白いタオルだった。
 雑に丸められていたものが中空でパッと花開き、不安定に揺れながら日向の頭の上に落ちていく。視界の真ん中を縦長に遮られ、突然の事に驚いた彼はそれを手ではなく顔面で受け止めた。
「汗拭いとけ。放ってたら、身体、冷えるぞ」
 ずるりと前に沈んでいく布を引き寄せた日向の真向かいで、影山は箸を右手に戻してぞんざいに言い放った。何かを誤魔化すかのように忙しく米粒を口に運び、いつもより少ない咀嚼回数で飲み込んでいく。
 ほんのり赤い彼の耳と、柔軟剤の香りが優しい真っ白いタオルとを交互に見比べて、日向は数秒置いて頷いた。
「サンキュー、影山」
「いいから、さっさと拭いてろ」
「イッてー! だから、ンな蹴るなって」
 小さな心遣いが嬉しくて、自然と笑顔になる。だのに影山は何故か怒って、上機嫌だった日向の右臑に靴の裏を押しつけて来た。
 礼を言っただけなのに、暴力をふるわれるなど不本意極まりない。一瞬で影山への好感度を下げて、彼は投げて寄越されたタオルを四つに折り畳んだ。
 まずは顔に、続いて首の後ろに押し当てて汗を吸わせ、次に右の上腕に擦りつける。反対の腕も軽く撫でて、もう一度首に戻ったところで彼は横から浴びせられる視線にムッと口を尖らせた。
 影山はまだそこに座り、残り少ない弁当の上で箸を泳がせていた。
 田中と菅原のラリーもまだ続いていた。日向が約束させられた肉まん四個分を挽回してやろうとする菅原に、田中が懸命に食らいついている。けれど年長者の成せる技か、田中の持ち点は着実に減っていっていた。
「日向、二個まで来たぞー」
「マジですか、やったー!」
 遠くから副部長の声が響き、現金な少年が瞬時に意識の矛先を切り替えた。
 あっという間に日向の心を掠め取っていった上級生の爽やかな笑顔に、影山は奥歯を噛んだ。ぐっと腹の奥に力を入れて、タオル片手に歓声を上げている同級生の背中を思い切り蹴り飛ばしてやる。
「ってー!」
 これで何発目か。理由もなく乱暴を働いてくるチームメイトに目を吊り上げて、日向は借り物のタオルを力任せに握り締めた。
「なんなんだよ、お前は。さっきから」
「うっせえ。こっちは飯食ってんだ。静かにしてろ」
 いっそ捻って、真ん中から引き千切ってやろうか。苛立ちを微塵も隠さず顔に出して煙を吐いている日向に冷たく吐き捨てて、影山は最後の米飯ひと掴みを口の中に押し込んだ。
 これで弁当箱の中身は、肉団子と厚焼き卵焼き半分だけになった。
 四面が凹んでいるパックを揺らしてひとくち分もなかった牛乳を飲み干し、ひと息ついてから口元を拭う。残しておいた総菜のどちらから手をつけるかで迷っていたら、突き刺さるような視線を感じた。
 熱い眼差しの出所は、考えるまでもない。
「やらねーぞ」
「ケチ」
 吐き捨て、弁当箱を両手で抱えて持ち上げる。なにも言っていないのに遠ざけられて、膝を抱えて座り込んだ日向がぼそっと呟いた。
 小声だったがしっかり聞こえた。生意気な表情と台詞に苦笑とため息で応じて、影山は浮かせたばかりの弁当箱を膝に戻した。
 影山が此処に来た時にはもう、彼の昼食は殆ど終了していた。
 菅原が教えてくれたのだが、日向は持ってきた弁当の大半を、我慢出来ずに二時間目終了後の休憩時間に食べてしまったらしい。今日も早朝から練習に励み、身体を動かしていた所為で、空腹が限界に達していたのだろう。
 放課後にも練習がある。エネルギーは温存しておくに限る。
 にも拘わらず昼休みもこうして動き回っていては、身体が幾つあっても足りない。目の前にボールがあったら追い掛けずにいられない小学生並みの知能指数にほとほと呆れながら、影山は物欲しげな団栗眼に肩を落とした。
 手元の箱の中には、肉団子が二個。
 ひとつくらい分けて与えたところで、影山の胃袋は痛まない。むしろこれ一個で日向に恩を売れるのなら、安いものだ。
「ったく。しょうがねーな」
「えっ」
「一個だけだぞ」
「マジで?」
「んだよ。要らねーなら、やらねーぞ」
「嘘。やだ。要る、いる。欲しい。食べる」
 日向だって、この小さな団子ひとつで腹が満たされるなど考えてはいないだろう。単に肉まんの件もあって、口の中になにか固形物を入れたい気持ちが膨らんでいるだけだ。
 思った以上に食いついてこられて、影山の口元が勝手に緩んでいく。未だボールを追い掛け回している上級生ふたりに対して奇妙な優越感を覚えながら、彼は左手に握った弁当箱を日向へ差し出した。
 だが突き出された方は一瞬目を丸くして、困った顔をして首を右に倒した。
「……?」
 利き手の人差し指で頬を掻き、なにか言いたげにしながら苦笑いを浮かべている。欲しがっているものを分け与えてやると言っているのに、一向に動こうとしない。
 理由を考えて、影山は彼の視線が自分の右手に集中しているのに気がついた。
「あー……」
 肉団子にはとろみのあるソースが絡みついていた。しかも二個並んでべったり張り付いている。今の今までボールを追い掛け、跳んだり、跳ねたり、転んだりしていた人間が素手で掴むのを躊躇するのは、よくよく考えれば当然のことだった。
 そこまで頭が回っていなかった影山はひとり黙り込み、気難しい顔をして糊状の米の欠片が張り付いている箸に見入った。
 白い箸の、そこだけが出っ張っているように見える。それが気に食わなくて、彼は団子の串を咥えるかのように箸に前歯を押し当て、横に滑らせて刮ぎ落とした。
 粗雑な彼の行動に、一部始終を見守っていた日向がきょとんとなった。彼でもこんな事をするのだと新鮮な気持ちで眺めていたら、細く尖った先端をちろりと舐めた影山が、まだ濡れているその箸で肉団子の片割れを転がした。
 壁に行き当たって止まった方を抓み取り、余分なソースを振り落としてから改めて日向の方へと。
 鼻先に茶色い塊を突きつけられて、彼は無意識に小鼻をヒクつかせた。
 あと一センチ程前に出たら、顔面に突き刺さるところだった。無論影山にその気は無いだろうが、ちょっと怖かった。
 気が回るようで回らない奴だと、内心苦笑を禁じ得ない。だけれど堪え続けるのはなかなかに難しくて、日向は我慢出来ずにくくっ、と喉を鳴らして目を細めた。
 小刻みに肩を震わせる彼に怪訝な顔をして、影山が無言で箸を前に出した。距離が狭まる。肉団子が震えているのは、小さなものを摘み続けるのが意外に難しいからだ。
 いつ落ちても可笑しく無い状況に肩を竦め、日向は仏頂面を崩さない王様にはにかんだ。
「いっただっきまーっす」
 茶化すように笑って言って、口を大きく開ける。自分から首を前に倒して近付けば、臆したのか影山の肘がピクリと動いた。
 引っ込められてしまいそうな雰囲気を感じ取り、日向は無意識に閉じていた右の瞼を持ち上げた。狭い視界で様子を窺いながら、及び腰の肉団子を逃さずぱくりと咥え込む。
 前歯で噛まないように気をつけて、柔らかい肉塊だけを舌で絡めとって残りはゆっくり押し返す。先ほどまで影山の舌先で踊っていた箸が、日向の唇の間から静かに顔を出した。
 箸と箸の間に残っていたソースに気付いて、一旦は引っ込んだ赤い舌が蛇の如く揺らめいた。五ミリとない細い隙間から頭を覗かせ、焦げ茶色の液体目指して恐るべき速さで飛びかかる。
「ンっ」
 鼻から息を吐いた日向の、どことなく嬉しげな表情に、影山の全身に悪寒が走った。
 ぞわりと来て、背筋が震えた。遅れてもっと違う衝動が腹の奥底から湧き上がって、座っている彼を真下から突き上げた。
「ふふっ」
 下から上へ、ちろりと人の箸を舐めた舌が瞬時に引っ込められる。閉ざされた唇が複数回上下に動いて、高校一年生にしてはあまり目立たない喉仏が一度だけ大きく波打った。
 引き結ばれた唇に、少しだけソースがこびり付いている。本人もそれに気付いたようで、
「あ」
 噛み砕いた肉団子を飲み込むに合わせて息を呑んだ影山の前で、日向は上唇にまとわりついていた粘性の液体を、艶めかしく動く舌で掠め取った。
 右から左に、瞬き一回分の時間で走らせて、咥内へと。忙しく動き回る舌と唇に目を奪われ、影山は暫く反応出来なかった。
「……影山?」
「っ!」
 なにも掴んでいない箸を宙に漂わせたままでいたら、流石に変に思った日向が訝しげに名前を呼ぶ。それでハッと我に返り、影山は一瞬で爆発寸前まで行った心臓を抱えて背中を丸めた。
 急激に上昇を開始した体温に、皮膚が総じて赤く染まっていく。一瞬だけ頭の中を過ぎった奇妙としか言いようのない空想を大急ぎで脳内から追い出して、彼はタオルを手に近付いて来る日向にかぶりを振った。
 上半身を前に倒し、四つん這い状態から顔を覗き込もうとする彼から逃げて、利き手をクロールの要領で振り回した末に。
 弁当箱に戻った箸が、もう一個の肉団子を攫って行った。
「テメーはこれでも咥えてろ!」
「はムっ!?」
 怒鳴り散らした影山が、吃驚してぽかんと開かれていた日向の口に箸先を突っ込む。反射的に唇を閉ざし、彼は目を白黒させた。
 いったい何に対してキレているのか、皆目見当が付かない。だが漁夫の利でふたつ目の肉団子を得られたのは、素直に喜ばしい。
 ぶつけられた怒りは軽く受け流して、日向は上機嫌にもぐもぐと顎を動かした――文字通り、影山の箸を咥えたままで。
「ん、んぐ、……んっ。ふは、ごっそーさまー」
「日向、ゼロまで来たぞー」
「ウソっ。菅原さん、すっげー!」
「ちっきしょー! スガさん、日向に甘すぎですって」
 目を瞑って嬉しそうに咀嚼して、飲み込む直前に箸だけを吐き出す。透明な唾液が雫となって、細い棒の先に垂れ下がった。
 胸の前で両手を勢いよく叩いた彼の後方で、ゲームに一区切りつけたらしい菅原が威勢良く吼えた。額に汗を輝かせて笑う青年に即座に反応して、日向は目を丸くして立ち上がった。
 田中が悔しそうに地団駄を踏んでいる。胃に栄養分を補給したからか、すっかり元気を取り戻した日向は目を爛々と輝かせ、ガッツポーズを決めてタオルを宙に放り投げた。
「よーっし、一発逆転狙うぞっ」
 借り物だというのを思いだして空中でキャッチして、決意を込めて叫んで振り返る。
「影山も、早く来いよ」
「あ、ああ。…………いや、やっぱ俺は、いい」
「? なんで?」
 ずっと地面に座りっぱなしのチームメイトを誘って手招くが、彼は顔を上げもせず、返事もかなり小さかった。
 いつもなら日向に負けないくらいにボールに執着するくせに、妙に歯切れが悪い。頷きかけて途中で思い留まり、首を横に振った彼に小首を傾げ、日向は俯いている黒髪に問い掛けた。
 なかなか戻って来ない後輩に焦れて、田中が大声を張り上げる。急かす声に慌てて返事をして、日向は釈然としないまま身体を反転させた。
 影山のタオルを首に掛けて、方向転換を済ませると同時に走り出す。
 半分になった卵焼きに湿り気を残す箸を突き刺して、影山は左手で額を覆い隠した。
 口を開けば重いため息が勝手に溢れ出す。瞼を閉ざせば、先ほど目の当たりにした光景がつぶさに蘇った。
 人が物を口に含み、噛み砕き、飲み込む。そんなごく自然な行為がこうも妙に艶っぽく、生々しいものだとは知らなかった。
「……立てるかよっ」
 有り得ないと思いたかったが、現実に起きてしまった事象に信じ難い目を向けて、彼は一瞬の躊躇を挟み、卵焼きを口の中へとねじ込んだ。

2012/05/17 脱稿