Run Dash Run 4th.

 保健室へ行くつもりはなかったが、“行く”と言って教室を出てきた手前、それらしい行動を取らないわけにはいかない。
 だから綱吉は教室を出て直ぐに階段を下り、教室棟から離れた。とはいえ、特に行きたい場所があるわけでもない。綱吉は一階へ向かう階段の踊り場を曲がり、更に二段降りたところでふと脚を止め、左手を銀色の手摺りに添えた。
 冷たい感触が指を伝って肩まで登ってくる。校舎が完成したての頃はピカピカに輝いていただろうそれも、年月が過ぎるに従って色は濁り、今は綱吉の顔さえも映さない。硬いものがぶつかったのか、抉られて凹んだ傷の表面をなぞる。形に合わせて凹凸を作った皮膚の感覚に苦笑し、彼はこれらと似たように、知らぬ間に色をくすませていたものを思い出した。
 手摺りに置いた手を返し、右の尻に重ね合わせる。底辺を探し出して指で押し上げると、ポケットの縁から顔を出したのは一冊の黒い手帳。抜き取って適当に広げてみれば折り癖が付いてしまっているページが勝手に選出され、書き込まれた多数の赤文字に綱吉は苦い顔を作った。
 遅刻した日付、時間、回数が積み重なった末の罰則である掃除場所等々。最初の方は大きめに書かれていても、次第にスペースが足りなくなって後半に行くに従って文字は細かくなっている。掃除の担当場所も初期は大目に見てもらえていたのが、今は殆どがトイレ掃除だったり裏庭の掃き掃除だったり、と面倒な場所に集中していた。
 あの頃から雲雀は、たまに校門に立っていた。気づいていたが意識するようなものでもなかったし、怖い人として有名だったから綱吉も自分から危険に近づくことはないと気にも留めなかった。
 今は、どうなのだろう。
 気が付けば自分から探しているような気がする。それは勿論、彼が容赦なく綱吉を追いかけて攻撃を仕掛けてくるからであって、先に逃げる体勢を作るための条件反射的な行動に等しかった――初めは。
 だがもう、雲雀は綱吉を追いかけてこない。逃げる必要は無くなり、だから綱吉は彼を、雲雀を、視線を巡らせてまで探さなくてもよくなったはずだった。
 それなのに。
 綱吉は自分の手帳に目を眇め、親指の腹で入学したばかりの頃に自分で書き入れた己の名前をなぞった。覚えている最後の記憶よりも、はるかに色が薄くなってしまっている四文字。もっと丁寧に書きなさい、と奈々に怒られてしまった自分の字は、誰かが今の綱吉と同じように指でなぞりすぎた所為で元の色の半分近くまで掠れていた。綱吉の「綱」の部分などは特に、右半分が掻き消えて目を凝らさないと殆ど見えない。
 誰の仕業なのか、なんて考えるまでもない。
 これを失っていた二週間、あの人は何を思いながらこの手帳を眺めていたのだろう。
「俺は……俺、だ」
 雲雀に告げた台詞を再び、自分にしか聞こえない声で諳んじる。
 死ぬ気弾で蘇った自分も、沢田綱吉。リボーンの力を借りなければひとりで何も出来ない自分も、沢田綱吉。
 仲間を守るために奮起したのも、沢田綱吉。追いかけてくる雲雀から逃げていたのも、沢田綱吉。
 全部ひっくるめて、ひとりの人間だ。笑ったり、怒ったり、泣いたり、拗ねたり、怯えたり、強がったりしていても、どんな顔をしても、自分が自分である事に変わりは無い。
 だからあの瞬間、雲雀に「誰」と問われた時、自分を否定されたようで悲しかった。
 彼が探している「強い」沢田綱吉は何処にも存在しない。けれど「弱い」だけの沢田綱吉も存在しない。
 彼の期待には応えられない、彼の探している自分はこの世に永遠に現れることは無い。
「…………」
 ただひとつ、思うのは。
 綱吉もまた、雲雀恭弥を強い人間だと認識していた。絶対不変の強者である背中を彼に求めていた。だがあの時、綱吉を後ろから抱き締めた時の彼は、どうだっただろう。何かに怯えたような、震えた声をしていなかったか。聞いた事のない、不確かなものを手探りで求める不安を堪えてはいなかったか。
 綱吉はあまりにも雲雀を知らない、雲雀が綱吉を知らないのと同じくらいに。
 お互いがお互いを知らなさ過ぎて、ちぐはぐな空気がかみ合わない歯車を強引に回している感じがする。
「だからって、教えてくださいって気楽にいえる人でもないしなぁ」
 獄寺や山本ならまだしも、相手は泣く子も黙る天下の雲雀恭弥様だ。気軽に声をかけるのですら憚られる、挨拶をするのにだって勇気が必要なのに。
 それに、もし仮に話しかけられたとしても、会話が続くかどうかという問題が待っている。聞いて、彼が素直に答えてくれるだろうか。
 至極真っ当な疑問に低く唸り、斜めになっている天井を見上げながら綱吉は右足を前に伸ばした。
 想像を働かせているだけでは、答えは見付からない。そして綱吉の貧相な想像力の遥か頭上を、雲雀は難なく飛び越えていってしまう。どうせろくでもない理由から自分を追い回していたんだろうな、と数日前までの騒動を思い返しながら綱吉は、前に出した足を下ろしにかかった。
 体が前にゆっくりと傾いでいく。このまま靴底が階段の横に細長いスペースに降りていけば、何も問題は無いはずだった。けれどぼんやりし過ぎていたからか、それとも誰かの背中を脳裏に思い描いていたからか。右足が着地するはずの時間になっても爪先は空を切ったままで、踵もそれらしき出っ張りを見つけ出せずに何も無い空間を蹴り飛ばした。
「お?」
 綱吉は目を見開き、灰色の階段裏を見つめた。さっきよりも角度が違っている、それになぜだか踊り場の窓まで逆さまになって視界に飛び込んできた。
 綱吉は非常にゆっくりとした調子で瞬きを二度繰り返し、階段に残っていた左の膝が力を失い折れ曲がる感触に顔を顰めた。右足はまだ空を泳いでいる、背中に――衝撃。
「うわっ、わっ、わっ、わっ――――」
 溢れ出た声が断続的なのは、衝撃が小刻みに複数回背中や腰や尻に襲い掛かって、仰向けに倒れた身体がでこぼこの上を跳ねながら滑り落ちていったからだ。かなりの段数が足元に残っていて、綱吉は固く瞼を閉ざすと両腕を突っ張らせてどうにか速度を緩めて体を止めようと試みる。けれど指先は虚しく空を掻き、曲げた肘をも階段の角にぶつけ悲鳴と一緒に涙が出た。
 一際大きく跳ねた上半身が右に傾ぐ。頭が下向きに入れ替わろうとしていて、このままでは怪我をするだけでは済まないという恐怖が背筋を走った。綱吉は咄嗟に両腕を持ち上げて頭を抱え込み、膝も曲げて床との衝突に備える。手の甲が手摺りを支える壁に擦られ、摩擦で皮膚が裂けたのか別の痛みに彼は唇を噛み締めた。
 痛い。けれど具体的にどこがどう痛いのか表現できない。兎も角、ありとあらゆる場所が痛いとしか言いようがなく、体が弾む度に息が詰まって骨が軋んだ。
 どすん、というよりはズザザ、という方が正解か。幸いにも背中から平地へと滑り落ちた綱吉は、吸い込んだ息に大量の砂埃が混じっているのに咳き込んで、肩に走った摩擦熱に苦悶の表情を浮かべて悲鳴を呑み込んだ。吐き出した息が熱く、どこか骨が一本くらいはやられたのではないかとさえ思う。だが人間の身体は案外頑丈に出来ているもので、目の前がチカチカと明滅するものの数秒経てば肩の痛みも少しずつ引いていった。
 ただ呼吸は苦しく、特に強打し続けた背中はじくじくとした痛みを訴えている。骨折まではいかずとも打ち身は覚悟せねばなるまい、頭の上に掲げていた腕を下ろし、その手が空っぽになっているのも忘れて綱吉は涙を堪えるともうひとつ、肺の奥底にたまっていた空気を盛大に吐き出した。
 埃が舞い散る。左瞼だけを持ち上げて半分が床で占められている視界を広げた彼は、そこで思いもがけず、自分の傍に誰かがいるのに気づいた。
 上履き、踝までを包み込む黒のスラックス。並盛の制服ではない、一瞬先生かと思ったが、ならば何故倒れたままの自分を助けてはくれないのか。涙目で顔の見えない人物のつま先を睨みつけ、綱吉は痛む右腕を立てて上半身を起こしにかかった。
「っつ……」
 ぼき、と変な風に曲がっていた肘の関節が音を響かせて綱吉に苦痛を齎す。それでもどうにか気合を入れて身を起こし、砂を被った頭を振った彼の耳に、けたたましい足音が飛び込んできた。
 咄嗟に背後を振り返ってみたが、階段から降りてくる人の姿も無い。ならば、と捻った半身を本来の向きに戻そうとした綱吉は、瞬間目を見張って声をなくした。
「雲雀委員長!」
 綱吉が蹲っているその右側の通路を、風紀委員が走ってくる。校則は廊下を走ってはいけないと定めているのではなかったのか、と言いたくなるがツッコミを入れる元気もなく、綱吉はただ呆然と、声に呼ばれて振り向いた人物の横顔を見上げた。
 何故、どうして、よりにもよって、こんな時に。
「なに」
「あの、ご報告が」
 全力疾走してきた風紀委員が雲雀の前で歩みを止め、膝に手を置いて息を整える。綱吉は座ったまま脚を交互に動かして後退し、背中が階段の手摺りにぶつかったところで動きを止めた。
 彼らは綱吉にまるで意識を向けず、汗を拭った風紀委員のことばを雲雀は熱心に聞いている。黒い学生服の袖が当て所なく揺れており、一瞬だけ見た彼の冷たいような暖かいような、よく分からない表情はもう微塵も残っていなかった。
 彼があんな風に困惑に瞳を揺らし、どうすればいいのかが分からないという顔をしていたなんて、綱吉だって信じたくない。
 ちらりと風紀委員が綱吉を見る。けれど節々の痛みに耐えながら手摺りに縋りつつ起き上がる最中だった綱吉は気付かず、だから雲雀もまた彼の背中を振り返り見たのさえ知らない。
 話の途中だというのに動く気配に半身を翻した雲雀に、風紀委員はあからさまに顔を顰めるが、雲雀は一向に構う様子が無く話半分に報告を聞いては頷いて返す。視線はまだ脇へと流れたままで、本当に聞いてくれているのだろうかという不信感が風紀委員の胸中に去来した時、雲雀はいきなり切れ長の瞳を更に細め、大股に三歩ほど進んで床に屈みこんだ。
「委員長?」
「で、そいつらは今何処に」
 彼は床に落ちていた何かを拾い上げ、声を上擦らせた風紀委員に低い声で問いかける。姿勢を戻した彼は手の中のものの表面を軽く叩いて埃を払い、背中で報告の続きを聞いた。視線は手元の掠れた文字をなぞっていて、一通り聞き終えた彼は綱吉が歩き去っていった方角に顔を向けた。
「分かった。それは今後、こちらで処理する」
「おひとりで……?」
「なに、君も群れたがる奴らの仲間?」
 さっさと歩き出そうとした雲雀は、追い縋ろうとした風紀委員の声に不機嫌そうに眉を片方持ち上げ、不遜な態度で口角を歪めた。
 瞬時に立ちこめる剣呑とした空気に臆し、風紀委員はそれ以上何も言えず、顔を逸らして雲雀の失笑を買った。
 面白くない、と雲雀は興ざめした表情を作り項垂れている彼を置いて歩き出す。手にした手帳は自分のポケットへと捻じ込み、肘を戻しながら人差し指と親指とを擦り合わせた彼は、即座に表情から感情を消した。
 物音に驚いて足が止まり、何事かと目を剥いている間に爪先がぶつかりそうな距離に落ちてきた塊。それが人だと気づくのには少しばかり時間がかかったが、落ちてきた人間が彼だと気づくのは一瞬だった。
 よく遅刻する生徒だという認識はあったし、運動オンチなのか体育の授業中も度々怪我をして保健室へ駆けていく姿を、応接室の窓から何度か見ている。当時は間の抜けた奴もいるものだ、という程度でしか思っていなかった。弱い奴は基本的に嫌いだからさして気にも留めていなかったのに。
 あの一瞬で世界が変わった。弱いと思っていた人間の底知れぬ強さを見せ付けられて、それまで培ってきた自分の中にある確固たるものが、ガラガラと崩れていく音を聞いた。
 あの赤ん坊もそうだ、あの強さが何処から来るのか。
 興味は尽きず、正体を知りたくて仕方がなかった。強い奴ならば戦ってみたいし、弱い奴ならば蹴散らしてそれで終わり。だけれど少なくとも自分に一発見舞わせたのだから、それなりに強くあってもらわなければ困る。
 だというのに、あの子は逃げてばかりで。
 面白くなかった、正直あてが外れてがっかりした。馬鹿にしているのかと問えばそうじゃないと言い返し、真面目にやれといえば真面目にやっていると反論する。逃げるばかりで、追わせるばかりで、気づけばいつの間にかそれが日常になっていた。見ていると苛々する、弱いくせに時に強かったり、強気に出たりして正体がつかめない。
 本当の彼が何処にいるのかが知りたくなった、どの顔が本当の彼なのかちゃんと見てみたかったのに。
 目に見えるのはいつも、背中ばかりだ。
 顔を付き合わせれば怯えた様子で直ぐにそっぽを向かれてしまう。捕まえようとすれば、するりと両手の中から逃げていく。やっと捕まえたと思ったら、やっぱりまた逃げられた。
 強いのか、弱いのか、はっきりして欲しい。
 自分は自分だと主張するのなら、だったらどうして、見せてくれないのか。
 苛々する。
 雲雀は大股に前へと進み、校舎の切れ目から覗く光に一瞬視界を奪われて目を細めた。掲げた掌で遮り、周囲を見回す。
 知った背中を木立の隙間に見つけ、雲雀は唇を噛んだ。
「あそこは……」
 頭の中で先ほど聞いたばかりの報告が繰り返される。
『不良グループのひとつが――』
 ちっ、と彼は舌打ちした。立ち去ろうとしていた足が勝手に方向を変えて進み出す。
 理由も意味も分からぬまま、隠せない苛立ちを募らせて雲雀は引き抜いたトンファーを握り締めた。
 

 綱吉は校舎の裏手に近い、運動場とは別に設けられている小規模のグラウンドに続く細い通路を進んでいた。
 両側には花壇が設けられ、季節になれば色とりどりの花が景色を彩る。この先にあるグラウンドは専らテニスコートとして使用されているほか、プールも隣接している為、放課後の部活動が盛んな時間帯ならば人も多く賑やかな場所だ。
 けれど今は昼休み時で、自主練習する生徒でも居ない限り人通りは殆どない。帰宅部の綱吉はこちらまで滅多に足を向けることがなく、物珍しげに視線を浮かせた彼は右手にコンクリートの水場があるのを見つけた。
 途端に忘れかけていた右手の痛みが蘇って来て、赤く皮の捲れた手首を返し溜息を零す。
 保健室へ行く口実は出来たが、理由は格好悪いのであまり人に話したくない。しかし消毒しなければどんな雑菌が傷口から入り込むかも分からないし、と彼は肩を落として、せめて水で表面だけでも洗い流しておこうと居並ぶ蛇口へと歩み寄った。
「――だからよぉ」
「帰り際の暗いところを待ち伏せするとか」
「奴の帰宅ルート分かるのか?」
「だったら他にあるのかよ」
 聞こえて来た声に綱吉は怪訝に顔を顰め、動きを止める。水場の影に隠れていてそれまで見えなかったものが、立ち位置を替えることで綱吉の目にもしっかりと映し出された。灰色のコンクリートの向こう側、テニスコートを囲むフェンスの手前に植えられた並木に寄りかかるようにして、数人の男子生徒が車座を作っていた。
 着崩した指定の学生服、人工的に色を変えた髪。足元には食い散らかした昼食のゴミ、立ち上る白煙は綱吉も良く知るものだ。それが複数本、風にも靡かずに真っ直ぐ空に昇っている。再び下に視線を転じれば、ゴミの間には無数の吸殻が散乱していた。
 喋っている彼らの顔を盗み見た綱吉は、どこかで見覚えがあると首を傾がせた。そう遠い記憶ではないが、曖昧に輪郭がぼやけてしまっていて、いつ何処で見かけたのかが直ぐに思い出せない。
 兎も角、彼らはこの学校でも指折りの不良たちだ。係わり合いにならないのが賢明で、綱吉は気配を殺して後ろ向きに来た道を戻ろうとした。そろり、と足を浮かせて体を反転させる。
「でもよ、本当にやるのか? あの雲雀だぜ?」
「だからやるんだよ。あの野郎には、一回くらい痛い目に遭わせてやらねーと気がすまねぇ」
 どきり、と心臓が跳ねて綱吉の足が止まった。爪先が地面を擦り、つんのめりかけた上半身を慌てて支える。物音は響かず、お陰で誰からも存在を気取られなかったものの、急速に鼓動を速めた心臓は落ち着きを完全に失っていた。
 嫌な汗が首筋を伝い、上手くいかない呼吸に苦しみながら綱吉は瞬きを忘れて振り返った。はぁはぁと吐く息が次第に荒くなっていく、けれど止められなくて、綱吉は咥内の唾を飲みこむと今度こそ完全にテニスコート側へ体を向き変えた。
 不良たちは綱吉に気づかないまま、自分達の作戦を頻りに相談し合っている。
 内容は、全部を聞かなくても察しがついた。風紀委員と対立を繰り広げている不良グループの多くは、雲雀にかなり痛い目に遭わされている。その恨みが積もり積もって、学校外で、恐らくは帰宅途中の彼を闇討ちしようという計画だ。正々堂々と正面からではなく、油断しているところを後ろから狙おうという姑息な作戦。
 虫唾が走る。
「そんな……」
 自分がことばを発しているのさえ、綱吉は気付かなかった。
 彼らのあまりにも身勝手すぎる発言が、許せなかった。自分たちが何故風紀委員に目を付けられているのか、その理由を考えもせずにただ自分たちが気に入らないから、という理由だけで人を簡単に傷つけようとする。
 ゴミを散らかし、タバコの吸殻も放置し(そもそも喫煙は中学生がして良いことではない)、通路を一方的に占領したり、肩がぶつかった云々程度の理由で一般生徒にも喧嘩を売って怪我をさせたりして、しかもそれは相手が弱いから悪いのだと罵り、自己の正当性ばかりを声高に叫ぶ。
 皆が怖がって近づいてこないのを、自分たちが強いからだと誤解して傲慢に振舞う。己の姿を一度鏡に映し出してみるといい、いかに自分たちが醜く愚かであるかも知らず、諌める声にも一切耳を傾けず。
 そんなものが、強さであるわけがない。
 許されて良いはずがない。
「そんな事」
 雲雀は確かに傲慢で身勝手で、自分の気に入らない相手ならば男女関係無く暴力を振るう。けれど一応の正当性はある――と思う。
 自分が彼に追いまわされていたことの何処に正当性があるのか、それを考えてしまうと若干自信が無くなるものの、彼は基本的に自分の利よりも学校全体の利を重んじる傾向があるから。
 不良グループを徹底的に叩きのめすのも、彼はこの学校が好きだから。
 自分が頂点に立つ権力構造を保持し続ければ、馬鹿な行動に走りたがる連中を牽制できる。彼を気に入らない人間が彼に攻勢を仕掛けようとしても、彼がその孤高ぶりを常から周囲に強調しておけば、外堀を埋める事も叶わずに直接彼を狙うしか道は残らない。
 ……単純にひとりでいるのが好きで、自分の胸の内に在る暴力性を隠さないでいるだけ、かもしれないが。
 それでも、綱吉は許せない。雲雀が云々はひとまず脇に置くとしても、卑怯な手段を平然と使おうとする輩が。
 自分たちがやられたから、そして正面からだと勝てないから、やり返すのに人の背中をこそこそと狙うその腐りきった根性も。
「そんなことさせない」
 自分は決して強くないけれど、だからと言って正当性のない暴力に屈服するのは嫌だ。胸糞が悪くなる企みごとを聞いて、聞かなかったものとして黙って通り過ぎることも出来ない。そんな事をしたら、自分で自分が許せなくなる。
 自分が弱いのは認める、非力なのは痛いくらいに分かっている。
 けれど間違っていることを間違ったまま見逃してしまいたくはない、自分が正しいと信じる道を、胸を張って進みたい。
 せめて自分の正義ぐらいは、自分の力だけで貫き通したい。
「なんだぁ?」
 とても同じ中学生には思えない髭面の生徒が、声に顔を上げて剣呑な様子で鋭い目つきを綱吉に投げつけた。
 周囲を取り巻いているほかの不良たちも一斉に顔を上げて綱吉を見、それぞれ怪訝だったり不機嫌だったり、色々な表情を浮かべる。誰かが濁った痰を地面に吐き捨て、吸い掛けのタバコを地面に落とした。
 ゆるりとした動きで立ち上がる不良たち、その動き方に一種の既視感を見出した綱吉は、記憶の中にある光景と重ね合わせて眉間に皺を寄せた。
 前にもこんなことがあった、それもつい最近。あの時は綱吉から喧嘩を吹っかけたわけではないが、状況はかなり似通っている。
「あれ? こいつ、確か雲雀の」
 あちらも綱吉には覚えがあったようで、うちひとりが綱吉に躙り寄りながら顔を顰めて覗き込んできた。
 思わず後ろ向きに下がってしまった綱吉に、いきなり手を打った彼はそうだ、と叫んで後ろを振り返る。
「こいつ、あいつだ。雲雀の野郎が尻追い掛け回してた、あのチビだ」
「へぇ?」
 ぎくり、と綱吉が心臓を縮めこませるのと、先頭に居た茶髪の髭面が面白そうに顔を歪めるのはほぼ同時だった。
 綱吉も思い出す、彼らの大半が以前校舎裏で遭遇し、雲雀に撃退された面々だという事実を。髭面も含め、中にはあの場に居合わせなかった不良も混じっているが、凡そ半分程度は、あの時綱吉に絡んで来た奴らだった。
 だから当然、雲雀が言い放ったあの台詞も彼らは覚えていた。
「そういや雲雀の奴、こいつ殴って良いのは自分だけだとかほざいてやがったな」
「へー? じゃあ俺らはこいつ殴っちゃ駄目だってのか?」
「んなわけねーだろ。なぁ?」
 ぽきり、と拳を握って骨を鳴らした男が綱吉を見て嘲笑う。 
 同意を求められても綱吉が頷き返すわけがない。緊張に首の後ろがチリチリするが、生唾を飲んで彼は必死のところで逃げ出したい気持ちを押しとどめた。
 精一杯の勇気で不良を睨み返す。だがそれが気に食わなかった髭面は、益々不機嫌さを表に現して握った拳を顔の前で揺らした。
「随分、雲雀の奴に大事にされてんだな?」
「誰が……っ」
「良い事思いついたぜ。雲雀の代わりにコイツをボッコボコにしちまえ」
 どこが『良い事』なものか。後ろに控える不良たちを焚き付けた髭面のことばに、綱吉は奥歯をギリ、と噛み、汗が浮かぶ掌を左右ともにきつく握り締めた。
 腕っ節は自慢ではないが、からっきしだ。リボーンがどこかで見ているかもしれないが、彼が毎回助けてくれるとも限らない。自分で撒いた種なのだから自分で責任を持って対応しろ、と突き放されるのが関の山だろう。
 逃げ切れるだろうか、今回は幸いなことに後ろから迫る人は居ない。まさか追いかけて来てはいまい、しつこく執心されたと思えば今度は徹底的な無関心を貫かれている。所詮はその程度だったのだ、だから彼にも頼らない。
 そんな都合の良い人じゃない、分かっている。期待するだけ無駄だ、望むな。
 傷つくと分かっている感情なら、気づかないままでいさせて欲しい。
「だなー、雲雀の奴やる前の肩慣らしに丁度いいか」
「ボロ雑巾になったこいつ見て、どんな顔するか楽しみだぜ」
 へへっ、と汚らしい笑みを浮かべ、座ったままだった男達も一斉に立ち上がり綱吉との間合いを狭めてくる。各々が武器を取り、無い者は拳を作って構え、綱吉の一挙手一投足を面白そうに眺めて隙を窺っている。
 下種な笑いに背筋が粟立つ。気持ちが悪い。獄寺とは違うタバコ臭い息に吐き気を覚えた。
 綱吉はなけなしの勇気を振り絞って男たちを睨む。怯むな、相手は自分と年令もそう違わない中学生だ。最初から気持ちで負けていたら、勝てるものにだって勝てない。
 例え勝てなくても。
 気持ちだけは決して屈したりはしない。
 綱吉は腹の底にいっぱいの力を込め、爪が皮膚に食い込むくらいに拳を握り、殴りかかろうとしている髭面を渾身の想いで睨み付けた。
 絶対に目を閉じたりしない、顔を背けたりしない。
 あの人だってそうやって前だけを見て歩いている、絶対に振り返らない。
 だから、だから。
「ヒバリさんはお前達なんかに絶対に負けな―――!」
 

 最後まで言えなかった。