鶸萌黄

 ホームルームの時間が終わる。チャイムが鳴り終わるより早く行動を開始したクラスメイトに一歩遅れ、日向は椅子から立ち上がった。さほど使わなかった勉強道具が詰まった鞄を肩に担ぎ、教卓で呆れ顔をしている担任に苦笑して出口を目指す。
「あ」
「よう」
 そして先行する級友に続いて廊下に出たところで、彼は右から来る黒髪に気付いて足を止めた。
 向こうの視界にも当然日向の姿は入っていて、目が合った瞬間に片手を揚げて挨拶された。出口を塞いでいた彼は後続が迷惑そうにしていると気付いて慌てて左に逃げて、その間に距離を詰めたチームメイトに若干気まずげな顔をした。
 今日も会った。まるで日向が教室を出るタイミングを見計らっていたかのような、登場の仕方だ。
「影山のクラスって、ホームルームないの?」
「は? なに言ってんだ。あるに決まってんだろ」
 ずり落ち掛けた鞄を担ぎ直し、やや上目遣いに問い掛ける。不躾な質問に、背の高い彼は怪訝な顔をしてつっけんどんに言い返した。
 少しサイズが大きめの学生服を身に纏った彼は、一年三組に在籍している。日向がいる一組との間には、当然ながら二組の教室があった。だのにホームルームを終えた直後に教室を出ても、隣の隣のクラスの生徒がいつも一組の前に居る。
 可笑しいではないか。
 これで三日連続だ。今日こそ出し抜いてやるつもりでいたのに、肩すかしを食らわされた気分だ。
「だってよ~」
「なんなんだ、お前は。いいから行くぞ。出るんだろ、部活」
「あったりまえ!」
 即答されても、納得がいかない。頬を膨らませて拗ねていたら、上から大きな手が降って来た。
 この時間でも寝癖が残る髪の毛をくしゃくしゃに掻き回されて、日向は首を竦めて逃げた。校則違反を承知で走り、大声を張り上げる。
 突然叫んだ彼に驚き、廊下にいた生徒の数人が振り返った。注目を浴びても彼はお構い無しに白い歯を見せて笑って、通行人がいるというのに素振りの練習を開始する。
 ちょこまかと動き回って、本当に落ち着きがない。
「ったく。おい、危ないぞ。ちゃんと前見て歩け」
 部室棟への近道に当たる階段を駆け下り始めた日向に、影山が後ろから警告を飛ばす。だが聞こえていないのか、それともわざと無視しているのか、返事は無かった。
 三段分を一気に飛び降りて踊り場までのショートカットを試みる様は、見ていてハラハラした。変に転んで足でも挫かれたら、数日は大事を取って練習を休まなければならない。だがバレーボール馬鹿とも言える日向が大人しく療養出来るとは、とても思えなかった。
 一秒でも早くコートに立ちたいという気持ちは分からないでもないが、怪我をしては意味が無い。もう一度、先ほどよりも強めに注意しておくべきかと影山は眉間に皺を寄せた。
 四階建ての教室棟は、学年が上がるにつれて階が下がって行く。一年生は最上階だ。体育館へも一番遠い。気が逸る日向を追い掛け、影山は段々人が増えて来た階段でも目立つ頭を追い掛けた。
 色の薄い茶髪が、彼の動きにあわせて左右に踊っていた。背負った鞄も一緒に揺れている。学生服からはみ出ているパーカーのフードは、動物の耳か尻尾のようだった。
 そう思った瞬間、猫耳を生やした日向の顔がふっと脳裏を過ぎった。
「――え」
 招き猫のポーズでにゃん、と鳴く同い年の男子に唖然として、頭がくらりと来る。
 次の瞬間、彼の足は振り下ろされるべき段差を見失った。
「……っやべ!」
「きゃっ」
「うわ!」
 突然ガクリと膝を折って前のめりになった一年生に、偶々隣を進んでいた他学年の生徒が同時に悲鳴をあげた。
 身長百八十センチの巨躯が、もう少しで階段を滑り落ちて行くところだったのだ。ぎりぎり手摺りに掴まって事なきを得たが、本人も吃驚して、しばらく言葉も出ない。
 呆然と目を丸くしている彼に、先を行っていた日向が踊り場で振り返った。
「影山?」
 降りるべき段を空振りした足に引きずられてバランスを崩し、下手をすれば残り六段以上もの段差を転げ落ちていた。
 日向でなく、自分が怪我をするところだった。その事実に絶句して、冷や汗が溢れて止まらない。
 一気に爆発寸前まで行った心拍数に喘ぎ、肩で息をしながら生唾を飲む。大丈夫かと案じる声もあったが、耳は音を拾わなかった。ただ自分の心臓の音ばかりが喧しくて、頭は真っ白でなにも考えられなかった。
 もう一度咥内に溜まった唾を飲み下し、唇を舐めて口から息を吐く。斜め下を見れば、踊り場に立ち尽くす日向と目が合った。
 火花が飛び散るような事は無かったが、なにか言い表し難いものに貫かれた。背筋がぞくりと来て、まん丸い団栗眼から目が逸らせなくて黙り込んでいたら、ぽかんとしていた日向の口がきゅっと引き結ばれた。
 影山が足を踏み外しかけてから、ここまでたった三秒。
 四秒目。上下に波打った日向の唇が、限界まで開かれた。
「ぶは、うはは、うひゃっ。ぶは。影山、なにやってんだお前。信じらんねー。ダッセー!」
「笑うな!」
 人通りが多い中、人を指差して腹を抱えて笑い始める。目尻に涙まで浮かべて爆笑する彼にカッと赤くなり、影山も我を忘れて怒鳴った。
 握り拳を振り回し、力が入らなかった膝を起こして残りの段差を一気に駆け下りる。だがその頃にはもう日向はそこに居なくて、さっさと部室目指して走り出していた。
 寸前で躱された影山が地団駄を踏み、笑いながらダッシュするチームメイトを追い掛ける。
「ありえねー。ウケる。影山が、階段から、落っこちたー」
「落ちてねえ!」
 人の恥を言いふらしながら駆ける彼に煙を吐き、影山は歯を食い縛った。この調子では、日向は確実に部員に今の出来事を暴露する。あること無い事織り交ぜて、事実よりずっと大きな風呂敷を広げて笑い話にする筈だ。
 それだけは絶対に阻止しなければならない。だから是が非でも、部室に到着する前に彼の身柄を確保する必要があった。
 だが運動神経だけなら部内でもトップクラスの日向が相手だ。長身を生かしてもなかなか追いつけず、影山の焦りなど一切関知しない部室棟が目前に迫った。
 更に悪い事に、三年生の部長と副部長、そして途中で合流したのだろ二年生の田中が連れだって歩いている姿が見えた。
「あっ!」
 影山から見えるのだから、前を走る日向の目にも当然の如く入っている。面倒見が良い澤村と菅原に気づき、彼は嬉しそうに顔を綻ばせた。
 教室棟を出てからずっと全力疾走しているのに、まるで息が切れていない。あの小さな身体のどこに底無しの体力が隠れているのかと、つくづく疑問に思いながら、影山は最後の力を振り絞って地面を蹴った。
「待て、この。日向!」
「せーんぱーっい!」
 必死の形相で怒鳴るが、日向は足を止めなかった。それどころか逆に速度を増して、影山を引き離しに掛かる。
 右手を高く掲げて振り回した彼の声に、談笑していた三人が揃ってビクッと肩を震わせた。
 まずい。
 遅れを取った影山の顔から余裕が完全に消えた。走るのに邪魔な通学鞄を形振り構わず投げ捨てて、身体を軽くして大きく息を吸う。
 黒髪を汗に湿らせ振り乱した彼と、意気揚々と近付いて来る日向とを同時に見て、烏野高校男子バレーボール部員の三名は不思議そうに首を傾げた。
「なんスかね、あれ」
「鬼ごっこか?」
「さあ……」
 対照的すぎるふたりの表情に唖然としていたら、息を弾ませた日向が笑みを絶やさぬまま口を開いた。
「聞いてくださいよー。影山の奴が、ぶっ、ぶふふ、ぶごはっ!」
「待て、つってんだろうが!」
 後ろにまったく注意を払わぬまま喋り出そうとして、速度を緩めたのが運の尽き。見る間に距離を縮めた影山が、油断していた彼の後ろから飛びついてその口を塞いだ。
 いきなり呼吸を阻害されて、閉じようとしていた前歯に太い指が掠めた。ザリッと来た衝撃に目を見開き、たった一秒にも満たない時間で自分の身に起きた事を正確に理解する。
 吐き出すつもりでいた息が影山の手に当たって砕けた。親指が頬骨を押さえ込み、爪先が目に入りそうで怖い。残る左腕は脇腹から懐に周りこんで、前に出ようとしていた身体を羽交い締めにしていた。
 つんのめって足をばたつかせた日向と、ゼーゼー言っている影山という組み合わせに、上級生が一様に変な顔をした。
「だ、大丈夫か?」
「かげ、ばっ……なにす、むぐっ」
 なにがあったかは分からないものの、ふたりの間に尋常ではない空気が流れているのだけは読み取れた。心配そうに右手を前に出した澤村に首を振り、日向は拘束を振り解こうと暴れ回った。
 だが一度組み合ってしまえば、身体の大きい影山が圧倒的に有利だった。
 踵で蹴られ、踏まれても動じず、喋ろうとする彼の口をより強固に押さえ込む。それでもじたばた諦め悪く抵抗を続けた日向だったが、鼻腔まで指で塞がれては、白旗を揚げるより他に無かった。
 見る間に顔を赤くし、続けて青くさせた後輩に、菅原が乾いた笑みを浮かべた。
「影山、それくらいさしてやれよ」
 明らかに苦しがっている日向に同情的な眼差しを向け、未だがっしり同級生を抱え込んでいる後輩をやんわり窘める。上下に手を振られ、それでハッとした影山が慌てて両手の力を緩めた。
 束縛から解放されて、同時に支えも失った日向は自分で立っていられなくなり、その場にがっくり膝を折った。乾いた土の上に両手をついて、ぜいはぁ言いながらかぶりを振る。
 一瞬だが供給が絶たれた酸素を求めて深呼吸を繰り返し、何度か噎せて唾を吐く。
 汗を滴らせて蹲る彼を前にして、影山も未だバクバク言っている心臓を制服の上から押さえつけた。
「お前ら、喧嘩も大概にしろよ?」
 事情は不明ながら、二人がちょっとした小競り合いをしていたのは伝わった。仲違いをしたままではチームプレー重視の部活に支障を来すと釘を刺し、苦労性の澤村が言い残して歩き出す。菅原が後に続き、田中はしゃがんで咳き込んでいる日向の前で手を振った。
 生きているかとの問い掛けにも答えられずにいる後輩に苦笑して、乱れに乱れている髪の毛をもっと酷い有様にして去って行く。
 誰一人、彼らの本気の追いかけっこの原因を聞かなかった。それはそれで幸いだと汗を拭い、影山は広げた右手を二秒弱じっと見つめ、握り締めた。
 日向の口を塞いでいる最中、中指に噛み付かれた。手を振り解こうとして、どさくさに紛れてのことだったので、さほど力も入っていなかったからあまり痛くはない。
 それよりも一瞬当たった生温い感触の方が強く印象に残っていて、影山はどうかしていると前髪をくしゃりと握りつぶした。
 汗ばんだ額を晒して風を通し、背中が軽いのを思いだして後ろを見る。目当ての物は結構遠い場所に転がっており、バスケットボール所属の女子が、これはなんだと怪訝な顔をして遠巻きに通り過ぎていくところだった。
 取りに戻るのは億劫だが、致し方ない。一分前の自分に肩を落とし、踵を返そうとした矢先。
「だーっ、もう! なにすんだよ、影山の馬鹿たれ!」
「うっせえ。そっちこそ、小学生みたいな真似してんじゃねーよ」
 跪いたままの日向が振り向き様に罵声を上げて、売り言葉に買い言葉でつい怒鳴り返してしまう。叫んでからハッとした影山は、涙目になっている彼からそそくさと顔を背けた。
 顔が赤いのは全力で走った所為だと自分に言い訳をして、わざとらしい咳払いで誤魔化す。ゲホゴホ言っている彼に眉を顰めて、日向は落とした鞄を抱いて立ち上がった。
 表情はとても不満そうだった。
「んだよ。そんなに階段でずっこけたの、恥ずかしいのかよ」
「あー、そうだよ。恥ずかしいね」
「ぶっ。じゃ、やっぱみんなに……ぐほっ」
「だから、待てっつってんだろ」
 鞄を取りに行きたいし、日向も放っておけない。思い出し笑いを咬み殺して部室に行こうとする彼を引き留め、影山はパーカーのフードを掴んで引っ張った。
 もとはといえば、彼がこんな服を着ていたのが悪いのだ。動きに合わせてひょこひょこ飛び跳ねて、兎の耳かなにかかと勘違いしたくなる。
「……いや、それはない」
 そして同時に碌でもない格好をしている日向を想像しそうになって、影山は寸前で自分にブレーキを掛けた。痛むこめかみに指をやってため息を吐き、勝手をしないよう問題児を捕まえたまま来た道を戻り始める。
 早くしないと、練習が始まってしまう。首が絞まるとの抗議は聞こえなかった事にして、彼は日向を引きずって自分の鞄を目指した。
 道中、同じ部活に所属している他のメンバーともすれ違う。飼い主とペット状態になっているふたりを見て、縁下はのほほんと笑い、月島と山口は笑いを堪えて肩を震わせた。
「なにやってんの、君たち」
「ぶふふ、だっさー」
「むぎー!」
 呆れ調子に言われ、馬鹿にされ、日向が地団駄を踏んで影山を蹴った。そろそろ耳元で騒がれるのも鬱陶しくなっていた彼は遠慮なく手を離し、自由を取り戻した右手で草まみれになっていた鞄を拾い上げた。
 急に横からの力が無くなり、バランスを崩した日向がたたらを踏む。両手を振り回す彼を余所に、土汚れを払い落とした影山は深々と安堵の息を吐いた。
「鍵は、……ある、と」
 念の為貴重品が消えていないかを確かめた彼の大きな背中を睨み付け、日向は腹立たしげに口を尖らせた。
 頬を膨らませて盛大に拗ねて、無防備な脇腹を突き飛ばす。上半身を揺らしはしても、よろけるところまではいかなかった影山が、迷惑そうな顔をして鞄を肩に担ぎ上げた。
「行くぞ」
「誰の所為で遅れたと思ってんだよ。月島には笑われるし……サイアク」
「お前が、人の失敗を笑い飛ばすのが悪いのだろ」
「だってさー……。てか、なんで落ちたのさ」
 なんでもそつなくこなし、日向や他のアタッカーに最高のトスを上げる技量を持つ男が、誰の目にも明らかな失敗をするなど、滅多な事ではない。いつも澄まし顔をしているか、怒っているかのどちらかの彼が狼狽して青くなっているのは面白くて、おかしかった。
 日頃から馬鹿にされてばかりだから、たまには仕返しがしたかっただけだ。あそこまで嫌がられるとは思っていなかった。
 ちょっとやり過ぎだったかもしれないと自身の行動を顧みて反省して、恐る恐る問い掛ける。バレーボールに人生を賭けているような男が余所見をして歩くような、自ら怪我を呼び込む真似をするとは思えなかった。
 直前に注意されたばかりだっただけに、不自然極まりない。今更ながら理由を求めた日向に、影山は下向かせていた瞳をパッと逸らした。
「影山?」
「誰にも言わないってなら、教えてやる」
「言わないって」
 微妙に赤い顔をして、声もいつもに比べてずっと小さい。ぼそぼそ呟いた彼に聞き耳を立て、日向は顔を綻ばせて頷いた。
 誰にも言えない秘密を共有するのは、相手に一歩近づけた気がして嬉しくなる。弱みを握っておけば後々役立つ事もあるだろうという、そんな打算も少なからず働いた。
 満面の笑みを浮かべた彼を横目で盗み見て、影山は部室に向かいながら口を開いた。
 近くに人が居ないのを確認して。
「お前、見てた」
「……へ?」
「お前ばっか見てたから、足許見て無かった」
 視線は向けず、前だけを見つめて淡々と真実を告げる。聞き間違いを疑った日向の為に追加で言い足して、彼は力強く地面を踏み付けた。
 すたすた進んで行く彼を呆然と見送り、日向が足を止めた。抱き締めていた鞄がずるりと滑り落ちそうになって、慌てて腕の力を強めて握りつぶす。
「…………ばっ、バカ、言って」
「早くしねーと、遅刻でペナルティくらうぞ」
「聞けよ、こらー!」
 怒鳴ろうとしたが、声に力が入らない。喉に息が引っかかって上手く喋れずにいたら、影山との距離はどんどん開いていった。
 振り返らない背中が、これほど憎く思えた事は無い。階段を登って行く後ろ姿を見送って、ドアの向こうに消えると同時に、日向は真っ赤に染まった顔を右手で覆い隠した。
 頭の中で、彼の言葉が何重にも響き渡る。耳を塞いでも、声は消えてくれない。
「言えるか、バカっ」
 人に教えられるわけがない。むしろ、自分にも言わないで欲しかった。
 だが聞いたのは他ならぬ自分だから、誰にも文句を言えない。こみ上げて来るやり場の無い感情に顔を赤くして、日向は悔しげに唇を噛みしめた。

2012/06/03 脱稿