Run Dash Run 3rd.

 次の日から、奇妙な生活が始まった。
 朝、学校に登校する。教室に到着する前に雲雀に見付かると、その時点で綱吉は逃げる。雲雀は追いかける。
 昼、弁当を食べようと教室の外に出る。移動中に雲雀を見かける、綱吉は逃げる。雲雀が追いかける。
 夕方、授業が終わって帰り支度を整える。正門までの僅かな距離で雲雀と遭遇する、綱吉はまた鞄を投げ捨てて走り出す、雲雀が大股で追いかける。
「なんだぁ?」
 こそこそと雲雀の視界から隠れるように移動していた綱吉に、敏感に勘付いた雲雀が振り向いた瞬間にはもう彼の姿は其処に残っていない。壁にされていた山本が間の抜けた声を出した頃には、雲雀が前を通り過ぎて綱吉を追撃している。手にはトンファー、全身にみなぎるは不穏な殺気。
 最初の数日はそれこそ周囲を巻き込んでのどたばた騒ぎだったが、一週間もすれば周りもすっかり慣れてしまって、今や綱吉と雲雀の壮絶な鬼ごっこは一種の名物行事にまで成り下がっていた。
 敬愛してやまないボンゴレ十代目こと沢田綱吉のピンチに、彼の右腕を自負する獄寺隼人が勇まないわけがない。だが彼のダイナマイトは火を噴くどころか、投げ放たれる前にリボーンによって一本残らず導火線を絶ち切られてしまった。
「よっ。ツナは?」
「さぁ……」
 昼休憩の最中、トイレから戻ってきた山本は濡れた手を遠慮なく獄寺の肩に乗せ、シャツに水を染み込ませる。だが物憂げに遠くを見ている獄寺は肩に移ってきた冷たさにも構うどころか気づきもせず、頬杖を崩さずに深いため息を零した。
 あれまぁ、とすっかり意気消沈している獄寺に苦笑し、今度は反対の手を彼の肩に置く。邪魔だ、と持ち上げた手で払われてしまったが、ハンカチ代わりには充分なったので山本自身は至って満足だった。
 獄寺はリボーンに、綱吉と雲雀の追いかけっこの邪魔をするな、と釘を刺されていた。
 雲雀は遠慮なく綱吉に思い一撃を食らわせようとする、痛いのは嫌だから綱吉は必死で逃げる。敵の攻撃を躱す練習にもなるし、走り回るので体も鍛えられるから一石二鳥だというのがリボーンの弁だ。
 理屈は分かるが、綱吉が泣きながら校舎内を縦横無尽に駆け抜ける様子は見ていて非常に心苦しい。雲雀は仏頂面を崩さず、黙々とまるで作業のように綱吉を追い掛け回していて、いったい彼らの間に何があったのか、気になって聞いても綱吉は答えてくれなかった。
 雲雀に聞いても教えてくれるはずがないのは分かりきっているので、無駄なことはしない。今の獄寺に出来るのは、綱吉の背中に声援を送るくらいだ。
「まー、見てて面白いけどな」
「面白いもんか!」
 最後まで残っていた湿り気は自分のズボンに押し当てて拭い取り、呑気に構えている山本の台詞に獄寺はいきなりばんっ、と握り拳で机を叩いた。
 ざわついていた教室が一瞬静まり返り、全員が獄寺を注視する。気まずさを覚えた彼はしどろもどろに視線を彷徨わせ、結局また机に片頬を押し付ける姿勢に戻っていった。
 山本がカラカラと笑う、その声が入れ替わりに教室に響き渡る。
「ツナも大変なのに好かれちまったな」
「はぁ?」
 獄寺の机に腰を預けた山本の、遠くを見詰めての台詞に、獄寺は素っ頓狂な声を出して机に押し付けた顔を上げた。
 視線は当然絡まない。落ち着き払っている風に見える山本の心の中もまた、見えない。
「なんだそりゃ」
「んー?」
 人の机の上で脚を組み、顔に尻を近づけてくる男を押し退けて獄寺は身体を起こす。ちっともへこたれていない山本はいつもの穏やかな表情を浮かべて振り返り、スペースが空いたと更に座りを深くしてどん、と獄寺の机に居座った。
 退かそうとするが、抵抗する山本は難なく獄寺の手を振り払って持ち上げた右足首を左腿の上に置いた。垂れ下がった足首、踵を外れた上履きがだらしなく揺れ動く。
「どういう意味だよ、それ」
 唇を尖らせた獄寺に、山本は腰から上を捻って彼に振り向き、分からないと拗ねている彼に肩を竦めて身体を正面に戻した。遠くを見る目は、ここでは無いどこかを駆けずり回っている綱吉と、それを追いかける雲雀を捕えている。
 必死の形相の綱吉に、淡々とした姿勢を崩さない雲雀。何も知らない連中からすれば滑稽な光景だが、山本にはどうしてもそう思えなかった。
 彼は重ねた足の上に肘を置き、頬杖をついて掌で口元を覆い隠した。やや低くなった視線、鋭さが増したその色に、獄寺も、クラスの誰も気づかない。
「本人らが気づいてないのに、観客が先に気づくのもなー」
 なんだかなぁ、と愚痴を零す彼の声を、獄寺は拾いきれない。
「俺も……本腰入れないと駄目かもな」
 そっと閉じた瞼の裏に、息せき切らして走る綱吉の赤い顔を思い浮かべる。
 リボーンに釘を刺されているのは、何も獄寺だけではない。

「っあー!」
 沢田綱吉は苛立ちを隠せないでいた。
 自分で聞いていてもびくりとしてしまいそうな声で叫び、彼は左手に構え持っていたサンドイッチに大口を開けてかぶりつく。柔らかな食パンに塗られたバターと芥子が丁度良い具合にツンと鼻にしみて、新鮮なサラダ菜とチーズ、そして赤いハムが見事な食感を醸し出している。
 俺の母親は料理が上手だな、なんて思いながらもうひとくち。がぶり、と漫画であれば表現されそうな食いつきっぷりを発揮して、彼は唇の端にこびり付いたマヨネーズを指で拭い取った。
 人差し指を口に差し込み、舌で絡めて滑りを舐め取る。もぐもぐと動かした奥歯にサラダ菜のしゃきしゃき感が伝わって、どうせならもっと開放感のある青空の下で食べたかったと彼は肩を落とした。
 此処は並盛中学、広大な運動場の片隅に設置された用具倉庫の一角。
 白線を引く石灰の匂いが鼻腔を擽り、泥で汚れたボールが押し込められたケースが乱雑に並べられている。体育の授業で使う野球のベースや、ハンドボールで使うゴール代わりの台、サッカーボールにチーム分け用のユニフォームまで。ごった煮の雰囲気で様々なものが詰め込まれている空間に辛うじて一人分のスペースを確保した綱吉は、きっと外で食べたならもっと美味しいだろう昼食を事務的に胃の中へ押し込めていた。
 雲雀との壮絶な鬼ごっこを開始して、そろそろ二週間が経過しようとしている。
 その間、特に何かがあったわけではない。良くなったわけでもなければ、悪くなったわけでもない。未だに朝顔をつきあわせれば鬼ごっこ、昼にすれ違えば互いに昼食の時間を削っての格闘戦、放課後は正門を出るまでの真剣な睨み合い――と実に枚挙に暇がない。
 何が哀しくてこんな事を毎日やっているのだろう、涙が溢れそうになって綱吉は誤魔化しにまだ塊も大きいサンドイッチを飲み込み、ぜいはぁと息を吐いた。
 そもそもの発端はなんだ、リボーンが余計な知恵を働かせて雲雀を綱吉の部下に、なんて考えたのが悪い。
 けれどあの赤ん坊は自分が全くの無関係で、こうなったのは綱吉の力量不足だと言って憚らない。お前がもっと真正面から雲雀と向き合っていたなら、こんな面倒な事にはならなかったんだぞ、とさも綱吉が悪いみたいに言い張ってとりつく島も無いものだから、綱吉もひょっとしたら逃げ回っている自分が悪いのではないかと錯覚してしまいそうになった。
 けれど冷静に考えてみれば矢張りそれは間違いで、死ぬ気弾の力が無ければ到底綱吉の腕力では雲雀恭弥に適う筈もない。ボスならばボスらしく力で相手をぶちのめせ、なんて無責任に言われても、出来るわけがないのは目に見えている。
 そもそも綱吉は、喧嘩なんかの荒事は嫌いだ。暴力で解決出来る事なんて知れている、そんな無駄な労力を浪費しなくても、人はもっと簡単に分かり合える。そう信じているからこそ、綱吉は非暴力を前提に此処まで平穏無事にやってきたというのに。
「もう……」
 お気楽な思考を変えない自称家庭教師の赤ん坊を恨みがましく思いながら、綱吉は残っていたサンドイッチを口に押し込んだ。
 指についたマヨネーズとバターを舐める。牛乳でもあればいいのだが、購買部に行く前に雲雀と遭遇しかかって、慌てて逃げてきたので生憎飲み物は無い。唾でどうにか誤魔化して、歯の隙間に埋もれている欠片を胃の奧へと押し流し漸く人心地つく。
 いったいいつになれば、獄寺や山本達と普通に昼食を楽しむ事が出来るのだろう。
「大体、ヒバリさんも、なんなんだよ」
 中指にまとわりついた乳白色の液体を舌で包んで舐め、綱吉はそのまま指を甘く前歯で噛んだ。微かな痛みに顔を顰めつつも、そのまま二度、三度と指に歯を立てて眉間に皺を寄せる。思い返すのは何れも、自分を無為に追い回す男の姿だ。
 一方的に綱吉を敵対視し、姿を見かけた瞬間に他の事を全て放り出してひたすら追いかけてくる。
 流石に授業中の教室に乱入する事は無かったが、それ以外の自由行動が許される時間帯は大抵、綱吉は雲雀と鬼ごっこを展開している。一度だけ平穏無事な昼休みを過ごした事があるが、あれは四時間目が家庭科の調理実習で、その流れで家庭科室で食事、となっただけだ。
 それ以外は毎日のように、落ち着かない状態での昼食が強制されている。
 今日のように用具室に潜り込めたのは良い方で、最悪昼休み中ずっと走り回っている日もあった。特に最初の頃はその傾向が顕著で、午後の授業は空腹と脱力感で内容を聞いていたようで覚えていないのが実情。
 そろそろ授業にも支障が出始めている、試験だって近い。毎日がこの調子だと、登校拒否児になってしまいそうだ。
「あーあぁ」
 爪の隙間に潜り込んだマヨネーズまで舐め取り、綱吉は両腕を頭上高くに持ち上げて背中側へ反らした。背骨がぼきぼきと小気味よい音を響かせ、心地よい疲れが綱吉を包み込む。背中を預けている石灰の袋が丁度良い具合に積み重ねられていて、いっそこのまま寝入ってしまいたい気分だ。
 家に帰ればリボーンの特訓が別で待ちかまえていて、最近は本当に心休まる暇がない。学校に居る時くらいのんびりしたいのに、雲雀の事でそうも行かず、疲れは溜まる一方。やっと人心地つけても、汗と泥臭い体育用具室では空しさが逆に募るばかり。
 何がどうなって、こうなったのだろう。
 思い返す、そもそもの発端はボンゴレの秘密の拠点を応接室に作ろう、というリボーンの提案だった。
 けれどあの部屋は風紀委員の、その頂点に立つ人物が私用に占拠している部屋だった。当然ながら何も知らず訪れた綱吉達は異物として彼の襲撃に遭い、排除される筈だった。
 その方向を変えたのが、リボーンの放った死ぬ気弾。直撃をくらった綱吉は雲雀に一矢報いる一撃を放ち、雲雀の怒りを買った。それまでは分かる、立場が逆であったとしても綱吉は怒りを覚えるだろう。
 問題は、その先だ。
 応接室で無くした生徒手帳、あれは未だ綱吉の手元に戻ってきていない。棄てられていなければ、まだ雲雀が持ったままだ。お陰で遅刻も出来やしない、と違う方向に愚痴が飛び、綱吉は組んだ胡座の上で頬杖をつくと不機嫌に頬を膨らませた。
 空になった弁当箱の縁を指でなぞる。毎日飽きもせずに用意してくれる奈々に悪いから、出来るだけ昼食はまじめに取るようにしている。それに食べなければ体力が持たない、空腹のままでは雲雀から逃げ切るのも不可能だと知っているから、無理をしてでも胃に食べ物は押し込む。消化に悪いとは思うものの、この数日で早食いにもすっかり慣れた。
 指で弁当箱の壁面を押し、裏返っていた蓋を拾って閉じる。広げていたナフキンの両端を掴んで緩く結び、綱吉は最後に溜息をもうひとつ吐き出して立ち上がった。
 ズボンにこびり付いた石灰の汚れを払い落とし、気怠さを誤魔化しながら立ち上がる。ポケットから取り出した銀色の懐中時計は、もうじき午後の授業が開始される頃合いを指し示していた。
 教室に居ないと時間の感覚が分からなくなるからと、父のお古だと言って奈々が持たせてくれたものだ。
 年季が入っている、古時計。けれどしっかりと秒針は時を刻んでおり、一日一回寝る前にネジを巻くのもいつの間にか習慣になっていた。端はベルトの通し穴に繋がれていて、文字盤を再確認すると綱吉はカラン、と音を響かせる弁当箱を手に用具室の汚れた扉に手を伸ばした。
 教室へ戻ろう、周囲への警戒は怠らずに。そう決めて、扉を横に開く為に肩に力を込める――よりも早く。
 がらっ、と。
 扉が開いて光が差し込んだ。
「――なっ」
 呆気にとられた綱吉の視界が一瞬白く染まり、転じて黒に切り替わる。明るいと思ったのに次の瞬間暗く感じたのは、唐突に開かれた扉の前に立ち塞がる格好で、人がひとり、立っていたからだ。
 綱吉は息を呑み、掴んでいた弁当箱を落とす。中の仕切りが外れたのか、金属製のそれは嫌な音を短い時間響かせた。
「……」
 綱吉の進路を塞ぎ、無言の威圧感を放つその人物。黒髪に、白いシャツ。肩に黒の学生服を羽織り、揺らめく袖には風紀委員の腕章が。
 見付かった、と思うより早く。
 綱吉の肩は乱暴に突き飛ばされて後ろに大きく傾いていた。
「うあっ」
 避ける暇も無い、そもそも雲雀が其処にいる、と認識する余裕さえ綱吉にはなかった。油断していたと言えばそれまでか、けれど予想していなかった展開に思考回路が止まったのは事実。
 弛緩しきっていた身体は抵抗らしい抵抗も出来ず、与えられる力をそのまま受け止めて後方へ流れた。踵が積み上げられた石灰の袋に乗り上げ、そこでバランスが完全に崩れる。両手が宙を掻き、じたばたと藻掻くが掴むもののない空間に指先が踊るばかりで、綱吉は暗いトタン屋根の天井を視界に広げながら堅い袋に背中を強かに打ち付けた。
 茶色の袋いっぱいに詰め込まれた石灰は、思う以上に堅く重い。背骨が圧迫されて息が詰まり、綱吉は痛みを堪えながら小さく呻く。下へずり落ちていく身体を逆向けた両手で袋を掴んで支えるものの、崩れた膝が前方に投げ出されて不格好に腰が開いた。つま先立ちの靴の裏はまだ袋の縁を踏んでいる、胸が反り返り突っ張った肘が痛い。
 これではまるで、自分から腰を突き出しているようではないか。咄嗟に顔を赤く染めた綱吉は、まず先に開いている膝を閉じようと地面に擦っているズボンを浮かせた。が、先手を打つように雲雀の脚が前に繰り出される。
 衝撃は軽く、綱吉も膝と膝に挟んだそれが何なのかすぐには分からなかった。けれど顔に落ちる影が濃くなり、外から差し込む光が一段と弱まったのを感じて視線を持ち上げる。
 そこに無機質な鈍い輝きを放つ金属の棒の存在を感じ取り、綱吉はぞわりとした悪寒に背筋を震わせた。胃の中身が食道を逆流する。
 酸っぱいものが舌の根本に伝わる。そのまま吐き出そうとする身体を無理矢理押し込め、綱吉は踵で石灰の袋を蹴って身体を後方へ跳ね上げた。一緒になって腰を捻り、右側へ半身を傾かせる。
 ごすっ、と鈍い音と一緒に白煙が綱吉の周囲を舞った。視界が濁り、埃が舞い散る。吸い込んだ空気が粉っぽくて綱吉は咳き込み、そのまま前のめりに石灰の袋から床へと転落。肘を突っぱねて顔面衝突だけは回避させたが、気管に入った細かな粉に吐き気が増幅して、綱吉はざらざらする唾をその場に吐き捨てた。
 斜め後方では雲雀が、石灰の袋を突き破ったトンファーを引き抜くのに苦労していた。切っ先から持ち手付近までが袋の内部に食い込み、目地が荒いくせに頑丈な袋の表面にも引っかかっているらしい。綱吉は手の甲で濡れた口元を雑に拭うと、きらきらと光を浴びて輝く埃の中で雲雀の白く濁った姿を睨み、咳を繰り返した。
 逃げなければ。見付かった以上、出口がひとつしかない此処に留まり続けるのは危険だ。
 実際雲雀は、綱吉を見つけた瞬間に一撃を放ってきた。運が良くて逃げられたが、次も巧くいくかどうか分からない。
「けほっ」
 雲雀がトンファーを引き抜くのに石灰を掻き回すから、埃は一向に収まらない。彼の手首は白く染まり、苛立ちが募るのか黒髪も白くして彼は唇を噛み締めていた。
 綱吉は手首を口元に押し当てたまま、鼻で呼吸をして心臓の拍動を落ち着かせる。彼がトンファーに意識を向けている間に、背後に回り込んで扉を抜けて外に出よう。もうじき授業が始まるから、教室まで逃げられれば今日のゲームは終了だ。
 空の弁当箱は雲雀の足下に斜めになって転がっているが、あれは諦めるしかない。奈々には後で謝ろう。
 そろり、と脚を踏み出す。抜き足差し足で雲雀の注意を引かないように気を配り、息も殺して用具室の壁に寄る。息苦しさは相変わらずで、綱吉はポケットにねじ込んだ懐中時計の重さを片側に感じながら、摺り足で白に染まった床を蹴った。
 ずぼっと勢い任せに引き抜かれた雲雀の腕が、トンファーをまとわりついた石灰ごと背後へ吹き飛ばす。ちょうどその先に綱吉が居たものだから、目の前を白に染め上げられて綱吉は小さく悲鳴をあげた。すっぽ抜けた左手のトンファーが回転しながら綱吉の顔の真横を突き抜けていって、壁に刺さり己の重みに耐えかねて床に落ちた。跳ね返り、横っ面を上にして動かなくなる。
 雲雀がゆらりと肩を揺らして振り返り、その様に更に悲鳴をあげた綱吉は震える膝を叱咤して明るい光が差し込む扉を目指した。雲雀に隙だらけの背中を向けて、一目散に駆け出す。
 そうして後少しで出口に到達、というところで不意に。
 綱吉は背後から何かに抱きすくめられて脚が空回った。
 空っぽの両腕が綱吉の背後から脇腹へ回され、胸の前で下から上へと交差する。左肩などは広い掌で完全に包み込まれてしまって、いったい自分がどれだけ隙だらけだったのかと考えると目眩がした。脚はそれでも前に進もうと数歩分の運動を繰り返したが、どれもが見事に靴の裏で床を擦るだけに終わり、石灰の上に筋が幾つも残される。振り戻した踵が突っ立っている棒状のものにぶつかり、その度に綱吉までもが大きく身体を揺さぶられて脳みそも揺らぐ。冷静な思考が働く前に、背中越しに感じ取った他人の熱に心臓が縮んだ後、急激に膨らんだ。
 そのまま爆発するかと思って、綱吉は目を回す。
 耳朶に空気の流れを感じる、それも機械仕掛けの空調にも似た一定のリズムを刻んでいて、吹きかかる熱は胸を強く打った。はっ、と自分でも吐き出した息がその調子に見事に重なって、何故か急激に体温が上がり綱吉の顔が勝手に赤くなる。
 踵が床の上を行き来する。じたばたと藻掻くのにちっとも前へ進まない身体が焦れったく、綱吉は腰を捻って首を振り回した。
 首筋に絡みつく髪の毛がくすぐったい。
「はなっ……!」
「君は」
 放せ、と最後まで言わせずに低い声が耳殻を貫いた。強引に回した首が痛み、奥歯を噛んで堪えた綱吉は黒髪の隙間から覗く漆黒の闇に呼吸を止めた。
 揺れている、その瞳が。湖面に吹く風に煽られて、静かに細波を広げている。
「強いと思えば弱いし、弱いくせに……急に強気になる」
 魔に魅入られたように、綱吉は動けない。声が静かに、低く、頭の中に流れ込んでくる。波紋を広げ、ゆっくりと、けれど確実に綱吉の中にある何かを柔らかく抉っていく。
 息が苦しい。呼吸をするのを忘れていた綱吉は、一秒後に思い出して肺の中に溜まっていた二酸化炭素を吐き出した。雲雀の前髪が揺れる、覗き見た光の中には綱吉が逆さまになって映っていた。
 左肩を掴む力が強くなる。骨の隙間に指が食い込み、引き千切られそうな感覚に恐怖を覚えた綱吉は身を捩った。けれど逃げようとしていると思ったのか、雲雀は尚も綱吉の拘束を強め、その背中を己の胸に押し当てた。
 心臓の音が綱吉の身体に響き渡る。早鐘を打つような拍動が皮膚を通して綱吉にまで流れ込んで来て、彼は苦しさに目を閉ざす。項垂れた綱吉の首が前向きに戻り、晒された項に雲雀は鼻筋を寄せた。
 遠くから響くチャイムの音が、どこか別世界の出来事のように聞こえる。教室に戻らなければ、という気持ちは何故だか思い浮かばなかった。
 扉の隙間から差し込む光を受けた埃が、きらきらとプリズムを反射して踊っている。自分たちの呼吸と心臓の音だけが今の綱吉達の世界にある全てだった。
 肩が痛い。けれどそれよりも、もっと違う場所が。
「君は」
 風が吹いているのか、薄い倉庫の壁を叩く音がする。顔を上げた綱吉は、後ろにいる雲雀を途端に意識して首を振った。
「誰」
 淡々と、静寂に包まれた空間に雲雀の声が響き渡る。息を呑んだ綱吉の緊張を知っているのか、彼は胸の前に置いた腕の力を強め、綱吉の身体を二つに引き裂く勢いで掻き抱いた。
「本当の君は、何処」
 苦しい。
 何が、なんて分からない。具体的に言い表せるだけの言葉を、綱吉も雲雀も持ち合わせていない。けれど胸が、身体が、心が苦しさを訴えている。綱吉は巧くいかない呼吸を浅く繰り返し、苛立ちにも似た涙を目尻に浮かべて唇を噛んだ。
 首筋に顔を埋めている雲雀の熱が痛い。彼の呼気が針のように皮膚を刺し、肉を抉っている。見えない血が流れていく、足下には言葉に出来ない感情が蜷局を巻いて、爛々とした目でふたりを見ていた。
「そんな、のっ……」
 俺は知らない。綱吉は我慢が出来なくて掠れる声で叫んだ。一緒に身体を揺さぶり、雲雀の手を強引に振り解く。
「俺、はっ」
 他の誰かではない。死ぬ気で生き返っても、それだって綱吉本人だ。彼の中にある強さも、弱さも、全部が全部ひっくるめて、沢田綱吉というひとりの人間だ。
 だから。
 雲雀が求めているのは死ぬ気の時の自分だけと言われたようで、哀しい。
 今の自分を否定されたようで、悔しい。
 自分でなくても、強い人であればきっと、彼は誰でも良いのだ。
 光の中に雲雀がいる。見上げたその顔が、どんな表情をしているのか綱吉には見えなかった。涙で滲んだ世界が、雲雀を拒んでいる。綱吉が否定されたように、綱吉もまた自分の中から雲雀を追い出した。
「俺が沢田綱吉です!」
 握りしめた拳が、叫びを放つ肺が、声を振り絞る喉が、空気を押し出す舌が、音を刻む唇が。
 悲痛な想いが倉庫内にこだまして、足音がそれを掻き消した。
 石灰が舞い上がり、背中が遠ざかる。光の彼方へと消え去った姿を呆然と見送り、雲雀は最後まで掴み切れなかった己の手を広げた。
「…………」
 指の端に湿り気を感じ取り、眉根を寄せる。石灰に汚れた皮膚を擦ると、胡麻粒のような塊を残してそれは簡単に霧散した。
「さわだ」
 力を失った腕が垂れ下がり、そのまま後ろへと流れていく。視線も同じ道筋を辿り、彼は己の足下に転がり落ちている異物に気付いて顔を顰めた。
 体育用具室には不釣り合いの、明らかに授業で使用する筈のないもの。白く汚れてしまっているが、それは綱吉が落とした弁当箱に他ならない。ナプキンで包まれて、交差した結び目が左を向いている。
 雲雀は開けっ放しのままの扉を仰ぎ、何処を見ているのか分からない目を閉じて息を吐いた。肩を揺らすと、大袈裟なくらいに羽織っている学生服が揺れる。袖が空中に流れ、腕章が鈍い光を反射させた。
 彼は徐に右足を持ち上げた。腿の裏側でスラックスの生地が限界を訴えて彼の肌に食い込む、無数の襞が膝に向かって斜めに伸び、踝を覗かせた裾が頼りなく揺れた。
 爪先が僅かに上へ反り返って、少しだけすり減った踵が白い床に鋭い影を落とした。
「――――っ!」
 勢いのままに、蹴りつける。
 ガッ、と強い衝撃が臑を伝い腿から全身へと行き渡り、背筋が震え雲雀は時間を掛けて深く息を吐き出した。下から上へと流れていった痛烈な衝撃をやり過ごし、彼は閉じた目を開いて己の足下を睨み付ける。
 床へと下ろした爪先が、無傷の弁当箱の角に当たって音を立てた。

 次の日から、並盛中学校の新たな名物になりかけていた沢田綱吉と雲雀恭弥の鬼ごっこは、無くなった。
 朝の登校時間帯、門柱に雲雀が寄りかかっている前を綱吉が通り過ぎても彼は無反応。彼の姿を見つけた綱吉がびくりと身体を震わせても、視線はかみ合わず一方的に逸らされてそれで終わりだった。
 周囲も、何か起こるのではという期待の眼差しを両者に送るのだけれど、想いに反して時間は平穏無事に過ぎていった。
 綱吉は休み時間を教室でぼんやり、ひとりで過ごす時間が増えた。
 授業中の早弁や、こそこそ隠れてとっていた昼食も、堂々と机や膝に広げて平らげられるようになった。それなのに、あの頃に比べて味があまり感じられなくなったのは、どうしてだろう。
 奈々の料理の腕が鈍ったとか、そういう事ではない。たまに作って貰えなかった日のコンビニ弁当も、皆同じだった。
 食べている、という気がしない。食後の充足感というのだろうか、弁当箱を空っぽにしても「食べた!」という気持ちになれない。確かに美味しいものなのに、何を食べても同じ味がする。
「十代目、今日の昼は屋上にしませんか」
 綱吉が雲雀から解放されたのを、一番喜んだのは獄寺だった。
「あ、うん」
 いつの間にか授業終了のチャイムが鳴っていたらしい。頬杖をついたまま窓の外ばかりを見ていた綱吉は、我に返ると慌てて広げたままだったノートを閉じた。
 間に挟まれたシャープペンシルが転がり出る。指で摘んで出ている芯を引っ込めようとノックしかけ、その目的を果たす必要がない事に気付いて彼は手を止めた。そういえば授業中、自分は一度もノートにペンを走らせていない。
「十代目?」
 中途半端なところで動きを止めた綱吉を、机の横に手を置いていた獄寺が覗き込んでくる。長い前髪がサラサラとこぼれ落ち、彼の鼻筋を擽って綱吉の前に落ちた。
「ツナ、獄寺。飯どうする?」
 もうひとり、獄寺と同じく昼休みの自由な時間を綱吉が取り戻した事実を喜んだ人物が歩み寄ってくる。手に持った大きな弁当箱を顔の横で揺らした彼に、獄寺は曲げていた背筋を伸ばし、綱吉もまた彼の動きにつられて視線を持ち上げた。
 教科書も閉じ、乾いた空気が指に触れるのを感じ取って彼は僅かに眉を寄せた。握ったままでいたシャープペンシルを揺らして、今一度窓の外を見る。
 快晴、澄み渡る空の色が恨めしくなるくらいの心地よさ。ガラスで阻まれているものの、その向こう側では穏やかに温んだ空気が満ちあふれているに違いない。今日は屋上で食べるのが気持ちいいだろう、山本の声が反対側から聞こえてきて同調を示す獄寺の声がそれに続いた。
 無論、綱吉も同じ事を考える。けれど、食欲が沸かなかった。
「ごめん」
「十代目」
 音を立てて床に椅子の脚を擦りつける。狭い隙間を膝の裏で作り出し、綱吉は前屈み気味に立ち上がった。テキストを片づけるのも諦め、首を振る。視線は俯いたまま、机に添えた己の指ばかりを見ていた。
 何を謝るのか分からず、獄寺がきょとんと目を丸くする。傍らの山本もまた然りだったが、綱吉が鈍い動きで顔をあげるのを見守って何か納得するものがあったのだろう、自分に辟易した様子で肩を竦めた。
「気分悪いから、保健室行ってくる」
 昼に走らなくなってどれくらいの日数が過ぎたのか、綱吉自身、もう覚えていない。
 それなのに鬼ごっこが無くなった日の、朝すれ違った雲雀の顔だけはよく覚えている。記憶から抜け落ちてくれない、と言うべきか、瞼の裏にこびり付いた映像は折を見て綱吉の脳裏にフラッシュバックして彼の心を乱した。
 校門で、登校時の服装チェック。其処に雲雀がいるかいないかでその日の運命が決定づけられるだけに、綱吉はかなりびくびくしていた。
 前日の事もある、放課後は至極穏やかに過ぎ去った分余計に恐怖が増していた。やられたら二倍どころか百倍にもして返すような雲雀が相手だ、今度こそ逃げ切れないかもしれないとあまり眠れなかった頭が霞んだ視界に刺激を送る。
 かっ、と爪先に小石が跳ねた。アスファルトで覆われた地面を転々としていくそれが、大勢の生徒の足下へ埋もれて消えたのと同じタイミングで、綱吉は心臓を震え上がらせて路上に立ち尽くした。
 雑談に興じながら通り過ぎようとした生徒が、急に足を止めた綱吉を避けきれずに肩からぶつかっていく。迷惑そうな舌打ちが耳元に走り、けれど対処仕切れないくらいに心が弛緩していた彼は鞄を大事に胸に抱いたまま数歩、前によろめいた。
 鼻先が覚えのある体臭を嗅ぎ分け、視界は学校が指定しているのとは違う制服に支配される。風になびく学生服の袖には風紀委員の腕章が揺れ、長めの前髪に見え隠れする瞳はどこまでも深い闇を内包して静かに綱吉を見下ろしていた。
 ひっ、と喉が上擦り悲鳴が掠れる。綱吉は反射的に上半身を反らして彼との距離を作り、いつでも逃げ出せる体勢を整えた。
 そう、前日までの雲雀はこの段階でトンファーを構え、無言のままに綱吉へ容赦ない一撃を放っていた。
 けれどその日は違った。何もかもが、違っていた。
 彼はじっと澄んだ瞳で綱吉を見下ろすと、何かを考え込むように唇を歪めさせる。細められた瞳には険があって綱吉を怯えさせる、身体を小さくさせた綱吉は油断しないようにだけ注意しながら雲雀の動向を大人しく見守った。
 緊張が走り、朝の空気がピンと張りつめる。誰もが校門前で一触即発の状況を醸し出しているふたりを遠巻きにし、関わり合いになりたくないと端へ寄って迂回していく。綱吉だって今すぐ逃げ出したい気持ちに駆られているのに、頭の片隅で待て、という指令が出ていて脚が動かなかった。
 やがて雲雀は小さく息を吐き、後ろに回していた手を綱吉へ突き出す。急に顔の前が塞がれて面食らい、反射的に前に突き出した綱吉の両手には、雲雀が手放した四角形のものが納められた。
 なじみのある形、重み。
 それは前日、綱吉が体育用具室で無くした弁当箱に他ならない。放課後、念の為と思って探しに行ったのだが見つけ出せず、また雲雀が巻き散らかした石灰も誰かが掃除したのか床は綺麗なものだった。
 どうしてこれを、と肘と胸で挟んだ鞄を落とさぬように支えた綱吉が、顔だけを上げて雲雀の背中に問う。返事はなく、彼は今までと違って綱吉に何もせずに去っていった。一瞬だけちらりと振り返られた気がしたが、視線は合わない。
 疑問ばかりが頭に浮かんで、訳が分からないと綱吉は首を頻りに捻りながら弁当箱を改めて見つめた。そしてナプキンの結び目の下に、もっと以前に手元から失ったものが挟まれているのに気付く。
 引っ張り出して眺める。案の定それは、応接室で無くして以来雲雀の手の中にあった綱吉の生徒手帳だった。
 久方ぶりに手元に戻ってきたそれは、無くした時よりも表面の色がくすんだように思う。何故だろう、と朝日に翳して親指の位置をずらすと、現れた自分の名前が、ボールペンで書き込んだものなのに、インクが削られたのか薄くなっていた。
 首を捻るが、綱吉は予鈴間近だという現実も思い出して慌ててそれをズボンの後ろポケットに押し込んだ。右手で鞄と空っぽの弁当箱とをひとまとめに持ち、仕事に忙しい風紀委員の前を抜けて教室へと急ぐ。
 雲雀の行動の珍妙さはそれ一回きりだった。事情も分からず、理由も分からず、綱吉はその後何度となく雲雀と学校内で遭遇したが、綱吉が逃げる前に彼は興味が失せたという顔をして、簡単に顔を逸らして行ってしまった。
 それまでの日々ならば、例え綱吉が移動教室の途中であろうと、雲雀が他の風紀委員と打ち合わせ中であろうと、お構いなしの鬼ごっこが開催されたというのに。
 始まったのが唐突だったなら、拍子抜けするくらい、終わるのも唐突だった。
 結局、彼は何がしたかったのだろう。
「どこか……お体の調子が?」
 保健室ならば俺も一緒に、と言いかける獄寺に首を振り、綱吉はひとりで大丈夫、と優しい笑顔を浮かべて彼の申し出を断った。
 本当は身体などどこもおかしくない、健康すぎて欠伸が出そうなくらいだ。
 ただ、ひとりになりたい。
「ちょっと休めばすぐ治るから。山本と、ふたりで食べてきて」
 ごめんね、ともう一度謝って綱吉は机の前から離れた。弁当箱は持たず、振り返りもせずに彼は俯き加減に教室を出て行く。置き去りにされた獄寺が視線で背中を追いかけるが、後を追おうとした身体は山本に肩を掴まれて阻まれた。
 なんでだよ、と不満顔を隠さない獄寺に、山本は感情が読みづらい笑顔を表面に貼り付かせる。
「過保護過ぎるのも、よくねーんじゃね?」
「なんだよ、それ」
 ぶすっと頬を膨らませた獄寺に呵々と笑い、山本は手を下ろして主不在となった机に自分の弁当箱を置いた。それで、と片方の目だけを持ち上げて獄寺の表情を盗み見る。
「昼だけど、どうする?」
 綱吉が居ないのに、ふたりっきりで屋上まで出向いて食べるなんて、御免被りたいんだけど。
 そう告げる瞳に獄寺はまたしても唇を尖らせ、俺も同じだと言わんばかりに踵を返してその場を離れていった。荒々しい足取りはそのまま彼の感情を如実に物語っていて、あまりの分かり易さに山本は先程とは違う、純粋に腹の底からわき上がってくる笑みを零した。
 級友がその様子を眺め、久しぶりに一緒にどうだと彼を誘う。
「そーだな、たまにはそうするか」
 獄寺は教室を出て行き、綱吉が向かったとは別の方へと歩き去っていった。ひとりで食べるつもりか、それとも午後からの授業も全てさぼる気なのか。どちらにせよ、もう山本には関係ない。
 彼は目を閉じ、そしてゆっくりと教室の一辺を埋める窓ガラスから空を仰いだ。
 窮屈そうに窓枠に収まっている空、そこから飛び出していってしまった綱吉を思い、唇を浅く噛む。
「……さーて、どうすっかな」
 山本が視線を逸らした先では、大きな雲がゆっくりとした動きで、澄み渡る青空を覆い隠そうとしていた。