少憩

 ドア上部に据え付けられたベルがからん、と軽やかな音を立てた。
 押し開かれた扉の隙間から風が流れ込み、店内の空気が僅かに色を変えた。静まり返った空間に一瞬だけ車のエンジン音が紛れ込み、カウンターの中に居た髭の店長が来客の気配に顔を上げた。
「いらっしゃい」
 グラスを拭っていた手を休め、扉を閉めた青年ににこやかに微笑みかける。黒縁眼鏡の奥で細められた瞳に会釈を返して、彼は首に巻いたマフラーをゆっくり外していった。
 外で散々冷やされた所為か、色白の頬はほんのり紅に色付いていた。暖房が入って温んだ空気に安堵の表情を浮かべ、彼は外したマフラーと同じ色の髪を揺らし、続けてコートを脱ぎにかかった。
 右手で握っていた鞄を左に持ち替えて袖から腕を引き抜き、防寒具をひとまとめに抱えて厳かに右足を前に繰り出す。布巾を置いて待ち構えていた店長は、微妙に緊張している青年に小さく肩を竦め、なにも言わずに奥を顎で示した。
「ありがとうございます」
 訳知り顔の男に礼を告げ、青年は客がひとりもいないカウンターの前を素通りした。
 小さな街の、小さな喫茶店。食事時が過ぎ、午後のおやつには少し早い時間帯というのもあってか、こぢんまりした店の中に人影は殆ど無かった。
 椅子が六つ並ぶカウンターの向かいにはふたり掛けのテーブル席が全部で三つ。そしてカウンターを回り込む形で奥に続く通路の先に、更にもう一席。
 その最奥のテーブルの手前にはパーティションが置かれ、入り口からの視線を完全にシャットアウトしていた。
 誰かいるのか、この位置からでは分からない。だがマスターの仕草からして使用中なのは間違い無くて、青年は寒さの所為で強張っていた頬をぺちりと叩くと、意を決して衝立の向こう側を覗き込んだ。
「ヒバリさん」
 椅子を占領している相手を確認もせず、名前を呼ぶ。これで間違っていたら大恥を掻くところだったが、予想は違えず、青年の思い浮かべていた通りの人物が面倒臭そうに顔を上げた。
 フレームの無いシンプルな眼鏡をかけて、店内の他の席よりちょっと豪華な椅子で偉そうにふんぞり返っていた男は、呼び掛ける声に読んでいた本を膝に下ろした。それから徐に利き手を前に伸ばし、長く放置状態にあったコーヒーカップに手を伸ばした。
 視線は一度上を向いただけで、それ以後は訪ねて来た青年を無視し続ける。だがそんな態度は既に慣れっこで、彼は肩を竦めるに留め、向かい側の空いている椅子に鞄を置いた。
 同じ手に抱えていたコートとマフラーは背凭れにまとめて引っかけて、斜めに倒れた鞄を起こして腰を下ろす。断りもなく真向かいに陣取った彼を一瞥して、雲雀恭弥は空になったカップをテーブルに戻した。
「探しましたよ、ヒバリさん」
「ふぅん?」
 陶器の皿と擦れ合う音が微かに場に響き、直ぐに溶けて消えた。不平と不満が幾ばくか混じっている声色に、雲雀は緩慢な相槌をひとつ打った。
 組んでいた脚の左右を入れ替えて、自由を取り戻した手で再び厚みのある本を捲り、視界から青年を追い出す。いつまでも人を無視し続ける男に、紅色の頬はみるみる膨らんで行った。
 口を尖らせた拗ね顔は、どこの小学生かと言いたくなるほどに幼かった。
「ちょっと、聞いてますか、ヒバリさん」
「聞こえているよ、沢田綱吉」
「だったら返事くらいしてくださいよ、もう」
 火急の用件があってあちこち探し回って来たというのに、こうもぞんざいに扱われると腹が立つ。テーブルの角を乱暴に叩いた綱吉に、雲雀は手元に集中したまま素っ気なく言い返した。
 愚痴を追加した青年が、ぷいっとそっぽを向いた先で困った顔をしている男に気付いて慌てて居住まいを正した。膝を揃えて行儀良く座り直し、注文を取りに来たマスターに愛想良く笑いかける。
「いつものを。あと、彼にお代わり。で、良いんですよね、ヒバリさん」
「うん」
「御願いします」
「はい、ありがとう」
 すっかり顔馴染みになってしまった六十代半ばだという男に告げれば、彼は綱吉に負けない笑顔で頷いた。
 雲雀が飲み終えたカップを手にカウンターへ戻る背中を目で追って、綱吉がパーティションの向こう側を気にしてから浮かせた尻を戻す。その間も雲雀は一切、誰とも目を合わせなかった。
 この喫茶店ではコーヒーを、豆から挽いてくれる。その分時間がかかるが、薫り高い味わいは綱吉もお気に入りだった。
 今も昔も苦いばかりのコーヒーは苦手だったのだが、雲雀に教えられて飲んだこの店の物だけは、何故だか平気だった。それで調子に乗ってインスタントにも手を出してみたのだが、結果は惨敗。やはり此処のコーヒーが特別なのだと思い知って、今に至っている。
「それで?」
 ぺら、と横文字のページを捲った雲雀が低い声で呟く。鼻先を掠めた馨しい香りに気を取られていた綱吉は、辛うじて耳が拾った音にハッとして生唾を飲み込んだ。
 濡れてもない唇を手の甲で拭って、慌てて背中と背凭れに挟まれていた鞄に手を伸ばす。両肘を外向きに突っ張らせて顎を引いた彼に首を傾げ、雲雀は目印となる紐を探して本の背表紙に指を這わせた。
 幅五ミリ弱の付属の紐をページに挟んで本を閉じ、机に置いたところで、綱吉が小さく舌打ちした。目に見えない場所を探るのを諦めて、横長の鞄を掴んで膝に移動させる。その上で再び中を漁って、引き抜いたのは分厚い紙の束だった。
 黒いクリップで端を固定し、無地のクリアファイルに収められているそれを、彼はテーブルの空いている場所にどん、と置いた。
 収納ケースが透明なので、書類の表紙は丸見えだ。中央にでかでかと記された文字には覚えがあって、雲雀は興味を惹かれて首を前に倒した。
「草壁に?」
「そうです」
「なんだ。僕を捜してたって、そういう事」
 風紀財団に関わる資料に手を伸ばし、前方を窺って問い掛ける。瞬時に首肯した綱吉は、聞こえて来た落胆とも取れる独白に口を尖らせた。
「……他にどんな理由があると」
「さあ?」
 揚げ足を取ったつもりが躱されて、面白く無い。微妙に高いトーンで合いの手を入れられて、それ以上何も言えなくなった彼は悔し紛れに奥歯を噛み締めた。
 憎たらしいくらいに涼しげな顔をしている青年を睨み付けるが、暖簾に腕押し、糠に釘。まるで手応えが無いのはつまらなくて、段々怒っている自分が馬鹿らしくなってきた。
 折角雰囲気も最高な喫茶店に入ったのだから、頭に血を上らせたままでいるのは勿体ない。そう己に言い聞かせて無理矢理溜飲を下げて、彼は雲雀が先ほどまで読んでいた本に目を遣った。
 こちらは、今し方渡した書類とは違って、英文だった。年季の入ったハードカバーの背表紙には、これまたいつ剥がれ落ちても可笑しく無い黄ばんだシールが貼られていた。
 大学の図書館から借りて来たものだと、そこを見ただけで分かった。もう何十年も前に勤めていた人が書いたのだろうボールペンの数字はすっかり色を失い、分類を示す記号も色褪せて読み取りづらかった。
 パーティションを覗き込んだ時にちらっと見えた文面は、思い出すだけでも頭が痛くなる。母国語である日本語ひとつでも苦労させられているというのに、英語やイタリア語までマスターするなど、綱吉には夢のまた夢だった。
 だがやらなければならない。本当は覚えたくなどないのだが、理解出来ない異国語で話しかけられて戸惑っている間に、こちらに不利な契約を勝手に結ばれては困るのだ。
 日常会話では足りない。ビジネス用語も完璧に使いこなせるようになれ、というのが中学時代から散々世話になっている鬼の家庭教師の言い分だった。
 ただ、やれと命じられただけでやる気が起きるわけがない。一応勉強はしているものの、リボーンが望む段階に到達するには相当な時間が必要と思われた。
「確かに渡しましたからね」
「うん。受け取った」
 思い出したくない事を思いだしてしまい、綱吉は苦い顔をして首を振った。そうして早口に捲し立て、席を辞そうとテーブルに手を置いたところで、自分がコーヒーを注文していたのを思い出す。
 視線を一周させた末に中腰から席に戻った彼に、雲雀はククっと声を殺して笑った。
 ファイルから取り出した書類で顔を覆っているものの、肩までは隠しきれない。今の彼がどんな表情をしているのかは想像に難くなくて、綱吉は八つ当たりと知りながらも、憎らしいくらいに長い脚をテーブルの下で蹴ってやった。
 前に投げ出していた爪先を押し返されて、雲雀が書類の角で自分の額を小突いた。深呼吸を二度繰り返してこみ上げる笑いを押し留め、極力平静を装って腕を下ろす。久方ぶりに見た綱吉の顔は、熟した林檎のように赤く染まっていた。
「痛いな」
「嘘つき」
 苦情を言えば、即座に叩き落とされた。
 余裕綽々として、少しも痛がる素振りを見せなかったくせに。一分の隙もない正論で武装して突撃して来られて、雲雀は反論を諦めて苦笑を浮かべた。
 ゆるゆる首を振り、鼻腔をすり抜けて行ったなんとも言えない香りに喉を鳴らす。黒く澄んだ苦みのある液体を味わえるまで、あとどれくらい待てば良いのだろう。気になって時計を探した彼は、唐突に差し出された携帯電話に吃驚して目を丸くした。
 大判の液晶画面に、アナログ表示の時計が踊っていた。更にその先を見れば、綱吉が仏頂面で人の事を睨んでいた。
「携帯、電源切らないでくださいよね」
 何を探しているのかを、言われるより先に把握していた彼に凄まれて、雲雀は曖昧に笑って誤魔化した。
「集中したかったんだよ」
 書類を置いた彼の手が宙を泳ぎ、綱吉なら一ページ目で挫折しそうな本を叩いた。
 確かにあの細かい文字を読み解くには、相当な根気が要るだろう。大学の図書館は静かだけれど、利用者も多い。動き回る人間がいれば衣擦れの音は響くし、椅子を出し入れする音だって度重なれば神経に障る。
 かといってこの後も授業が残っているから、家に帰るわけにはいかない。そんな理由で、雲雀はしばしばこの喫茶店を利用していた。
 常時閑古鳥が鳴いているような店だが、意外に経営は苦しくないらしい。
 それはきっと、此処に居る誰かさんの手厚い支援があるからだろう。
 慣れた手つきでコーヒーを淹れてくれるマスターの顔を思い浮かべて、綱吉は手元に戻した携帯電話の表面を撫でた。
 画面が反応して、受信メールのフォルダが開かれた。新着で何件か届いているが、うち三分の二がスパムメール。それらを読みもせずゴミ箱に放り込んで、最後に残った一通にだけ目を通し、彼は面倒臭そうに椅子に寄り掛かった。
 体重を預けられ、年代物の椅子がギシギシと不満げに軋んだ。
「どうしたの」
「この前のレポート、再提出だそうで」
「ああ、僕が手伝ってあげなかった奴」
「そうですよ。ヒバリさんが手伝ってくれてたら、一発で通った筈なのに」
「人を当てにしない」
「あでっ」
 簡素な文面での冷徹な通達に悲痛な声をあげれば、即座にデコピンが飛んで来た。
 数日前にこの店のこのテーブルで交わされた会話を蘇らせた雲雀の一打に撃沈させられて、綱吉は赤く腫れた箇所を撫でて慰め、鼻を愚図らせた。
 もとはといえば、雲雀が綱吉を小間使い代わりに使うのがいけないのだ。
「草壁さん、言ってましたよ。また連絡がつかないって」
 一年遅れで入学した、雲雀と同じ大学。学部こそ違えど同じ敷地に居られるのは嬉しかったが、待ち受けていた予想外のキャンパスライフに、綱吉は早々から振り回されっ放しだった。
 相変わらず雲雀恭弥に付き従っている強面顔の男に泣きつかれる事、これで三十六回目。内容はいずれも、雲雀が見付からない、連絡が付かない、というものだった。
 学生をやる傍らで風紀財団も動かしている雲雀は、なにかと忙しい。その為か、彼は時々誰にも、なにも言わずに雲隠れすることがあった。携帯電話の電源も切って、ふらっと居なくなる。大体いつもその日の夜には戻って来るが、何処で何をしていたのか、誰にも明かそうとしなかった。
 綱吉を除いては。
 もっとも、綱吉だって最初は彼が此処に引きこもっているなど知らなかった。一度だけ連れて来てもらった経験を元に、もしやと思って訪ねてみたらビンゴだっただけだ。
「誰の所為で、資料集める時間が減ったと思ってるんだか」
「君の効率が悪すぎるだけだろう」
「ぐむ」
 負け惜しみとも取れる愚痴を零せば、もっともすぎる論説で逆襲を食らい、綱吉は首を竦めた。 
 なにをどう言ったところで、彼には勝てそうにない。口でも、力でも。
 ベッドの上でも。
「……っ」
「綱吉?」
「なんでもありません!」
 余計なことまで思いだしてしまって、艶めかしい囁きを脳内で再生させた綱吉が見る間に真っ赤になった。ぼふん、と煙を吐いて爆発した彼に怪訝な顔を向けた雲雀は、店内を揺るがすばかりの罵声に目を丸くして、やおら破顔した。
 訳が分からない。だが、面白い。
 椅子の上で身を捩り、腹を抱えて笑う彼に益々赤色を強め、体温を平均よりも一度近くも上昇させた綱吉が悔しげに唇を噛み締める。だがその表情さえも彼のツボを刺激したらしく、まれに見る爆笑ぶりに、綱吉はついに涙さえ浮かべ始めた。
 一発殴る程度では、この気持ちは収まらない。煩悶とする感情を抱えたまま地団駄を踏んで、彼はそこにあった希少価値の高い本を掴み取った。
「笑うなぁ!」
 心の中を読み取られた気分になって、恥ずかしくて仕方が無い。湧き起こる羞恥心を振り払わんとして、綱吉は大学からの借り物たる本の角で雲雀の肩を打った。
 肉の薄い部分を抉られて、さしもの彼も痛かったようだ。足を蹴られた時とは全く異なる反応を見せて呻き、左半身を若干沈めて前屈みになる。
「あ……」
「やってくれたね」
「だって、今のはヒバリさんが」
「理由はどうであれ、暴力に訴えた君が一番悪い」
 衝撃は本を通して綱吉にも伝わって、彼は今し方自分が取った行動に呆然となった。
 片手で患部を庇った雲雀が漆黒の目を眇め、鋭い眼差しで睨んでくる。反射的に言い返すが、もっとも過ぎる主張で切り返されてぐうの音も出なかった。
 しかしよりにもよって彼に諭される日が来るとは、夢にも思わなかった。中学時代から暴君で知られて来た男の言葉には妙な説得力があって、綱吉は反論する気力も失せて手を下ろした。
 本来の目的から大きく逸脱した使い方をされた本をテーブルに戻して、上半身を前後に揺さぶる。コーヒーの香りが強くなった。流れて来る心地よい匂いに気を取られているうちに、雲雀も痛みから回復したようで、ずっと肩を宥めていた手を卓上に向けた。
 二十枚はありそうな紙の束を掴み、片手で器用に表紙を捲る。それを託された時の出来事を振り返って、綱吉はテーブルの下の足をぶらぶらさせた。
「いい加減、この店の事、草壁さんに教えていいですか」
「ダメ」
「だったら、せめて携帯の電源は切らないでください。毎回、急ぎの書類を宅配させられる俺の身にもなってくださいよ」
 この喫茶店の存在は、綱吉と雲雀のふたりだけの秘密だった。
 絶対誰にも教えてはならないと、連れて来られた初日に釘を刺されている。だから彼の腹心たる草壁も、雲雀がこの店を頻繁に利用していると知らないままだ。
 風紀財団の仕事の多くは草壁が担っているけれども、重要な案件などはトップである雲雀を通さないといけない。その肝心の雲雀が行方知れずとなれば、あの男も泣いて綱吉に縋る他無かった。
 日頃から雲雀の我が儘に振り回されているのは、綱吉も同じだ。だからつい彼に同情的になって、頼まれたら断れない。そういう負の連鎖が積もり積もって、ふたりの関係はつかず離れず、切れないまま今に至っている。
 一応綱吉は、こう見えても世界に名を轟かせるマフィア、ボンゴレの次期ボス候補だった。
 候補という形ではあるけれども、実質決まりと言ってもいい。その未来のボスを捕まえて、小間使い扱いしている男がいると知れたら、本部の年寄り達はいったいどんな顔をするだろう。
 想像を巡らせて、綱吉は返事もしない男を真正面から睨み付けた。
 怒って、拗ねている筈なのに、琥珀色の団栗眼はむしろ愛らしさを強調して、ちっとも怖く無かった。ただでさえ童顔で、あまつさえ母親に似てしまったばかりに、同年代の中に紛れていても一回り幼く見えてしまう。
 男の成長期は遅いというが、いい加減伸び止まりと思われる背丈もまた、彼の可愛らしさを増幅させていた。
「聞いてます?」
「聞こえてる。教えるのは許さないよ」
「どうしてですか」
 出会った頃は話しかけるだけでも警戒されて、怯えた猫のように震えていたというのに、最近はすっかり太々しい。
 面と向かって文句を言うし、逆らって暴れたりもする。先ほどのように力で訴えかけて来たのも、一度や二度ではない。
 積み重ねて来た年数分、慣れが生じているという事だろう。それは一部喜ばしく、一部はあまり面白く無かった。
 口を尖らせている綱吉を見つめ返して、雲雀は五ページ目に突入していた書類を下ろした。ぱさりと紙が空気を押し出し、乾いた微かな音が耳朶を打つ。
 そちらに気を取られて、綱吉は彼が立ち上がったのに気付くのが遅れた。
「ここは、僕と君だけの場所なんだから」
「――え」
 囁きは頭の上から。
 衝撃は、閉じ損ねた瞼の上に。
 脳天を穿つような、けれど実際には痛くも痒くもない一撃を浴びせられて、声さえ出ない。テーブルに右手を突き立てて前のめりになっていた雲雀は、吃驚仰天して大きく目を見開いている青年に悪戯っぽい笑みを浮かべた。
 声もなく笑って、ゆっくり身を引く。入れ替わりに利き手を持ち上げた綱吉は、たった今雲雀が唇で触れた場所に指を這わせ、後からやって来た衝動に全身を真っ赤に染め上げた。
 もし椅子にロケットが付随していたなら、彼の身体はとっくに大気圏を突破して、月に至っていたに違いない。誰かの目に触れるかもしれない場所で瞼にキスをされて、平然としていられる程、綱吉は肝が据わってはいなかった。
「ひ、ひばっ」
「宅配のお駄賃」
「馬鹿!」
 慌てふためいて左右を確認し、近くに誰も居ないのを確かめてから利き足を持ち上げる。しれっと言い放った彼の爪先を踵で思い切り踏み付けてやって、綱吉はまだ感触が残っている場所を何度もゴシゴシ擦った。
 荒っぽい仕草に少し傷ついた顔をして、雲雀は蹴られた右足を引っ込めた。
「足りないの?」
「当たり前……って、そういう話じゃなくて」
 両足ともに椅子の下に収納して、頬杖をついて問い掛ける。つられて合いの手を入れようとした綱吉は、言い終える寸前で気付いてぶんぶん首を振った。
 話がずれている。うっかり変な発言をしてしまうところで、巧い具合に誘導されるところだった彼は懸命に自分を律して深呼吸を心がけた。
 引っかからなかった彼に残念そうな顔をして、雲雀は仕方無く鞄に入れたままだった携帯電話を取りだした。
 綱吉と似たり寄ったりのデザインだが、使い込まれているようで、側面には細かい傷が幾つも刻まれていた。画面は真っ暗で、指で触れても反応しない。電源が切れているのだから、それも当然な話なのだが。
 携帯する電話だから「携帯電話」なのに、電力の供給をストップさせているようでは持っている意味が無い。きっと大量の留守番メッセージが届いているだろうと思いを巡らせ、綱吉は彼の次の一手に意識を集中させた。
 が、彼は一向に動かなかった。綱吉の期待を裏切り、十秒近い逡巡を経てなにもしないまま鞄へと戻してしまう。
 前傾姿勢から背筋を伸ばし、綱吉は露骨に不満を顔に出した。
 なんとも分かり易い彼に苦笑して、雲雀はテーブルの縁を小突いた。そのトントン、という音が引き金になったわけではなかろうが、パーティションの向こうから盆を持った男が悠然とした動きで現れた。
 芳ばしい豆の香りが一気に強まった。たまらず喉を鳴らした綱吉の前に、この店特製のブレンドコーヒーが置かれる。雲雀の前にも、同じデザインのカップが。
 思わず拍手した綱吉が、二秒後にハッと気付いて恥ずかしそうに身を捩った。その可愛らしい態度に優しく微笑んで、マスターは空になった盆だけを手にお辞儀をして去って行った。
 妙齢の色気が感じられる背中を追い掛けていたら、雲雀が先にカップを手に取った。カチャリと陶器の音を響かせて、白い湯気が漂うカップを口元へ運んでいく。
 注視していたら、飲む直前の彼と目が合った。
 意味深な笑みにどきりとして、綱吉も慌ててカップを持ち上げた。砂糖もミルクも入れないまま、両手で大事に抱えて水面にそっと息を吹きかける。
 揺れる湯気に見入っていたら、ひとくち飲んだ雲雀が楽しそうに目尻を下げた。
 濡れてしまった縁を指で拭って、
「君といる時くらいは、静かに過ごしたいからね」
 聞き取りづらい小声の台詞に最初はムッとして、次に頬を赤らめて。
 綱吉はたっぷり三十秒悩んだ後、卓上に置いていた携帯電話の電源を切った。

2012/05/13 脱稿