Run Dash Run 2nd.

 昼休み。
 朝起きたときよりもどんよりとした曇り空を頭の上に展開させ、綱吉は陰鬱な気分で四時間目の教科書を閉じた。
「十代目、昼、いきましょう」
 教師が出ていくその最中からがやがやと騒々しくなった教室で、いち早く綱吉の横に駆け寄って来た獄寺は、まるで犬のように尻尾を振りながら綱吉を昼食へ誘う。
 初めて会った時は喧嘩腰に睨まれてかなり怖かったが、慣れ親しんでしまえばそんな感情もどこかへ消え去った。最近は(綱吉限定で)人懐っこく、どちらかと言えば甘えん坊な態度で彼は接してくる。今も口には火の灯らないタバコを咥えてポケットに片手を突っ込み、銀のチェーンをベルトにジャラジャラとぶら下げながら目を細めて楽しそうに笑っていた。
 彼の後ろからは山本も姿を見せ、自分の弁当箱を顔の高さまで持ち上げて横に揺らしていた。近頃は三人で屋上に上がって昼食を取るのが常となっていて、天気が良いのもあり開放感在る空の下での食事を楽しむ毎日だ。
「ツナ、いこうぜ」
 その分場所取り争いも熾烈で、早く行かなければお気に入りの場所を誰かに奪われてしまう。チャイムの余韻を耳の奥で聞いていた綱吉は、頭上から降ってきた明るい声に視線だけを持ち上げると、閉じた教科書とノートを揃えて引き出しに押し込んだ。
 そのまま椅子を後ろに引いて立ち上がる。
「どうした?」
 綱吉の弁当箱は机の横に引っ掛けている鞄の中だ。そこに手を伸ばそうとしない綱吉に山本は怪訝に眉を寄せ、獄寺も笑っていた口元から表情を消す。一瞬ぼんやりしていた綱吉はふたりの変化で直後我に返り、なんでもない、と首を横に振った。
 鞄を取って机の上に置く、だが閉じているファスナーには手を出さず、彼はまたどこか物憂げな表情で自分の胸元を見詰めた。それから壁の高い位置に据えられている時計に目を向け、人の出入りが慌しい教室後方の扉に向き直った。
「ごめん、ちょっと」
「十代目」
「先、行ってて。トイレ」
 机の横を塞いでいる獄寺を押し退けた綱吉に、追い縋った獄寺の手が絡みつく。だがそれすらも振り解いた綱吉は肩越しに振り返り、事の展開を見守っている山本に向かって短くそう告げた。
「おー。んじゃ、ツナの弁当も先持ってっとくな。手、ちゃんと洗えよ?」
「分かってる、有難う」
 彼は綱吉の態度に何の不信感も抱かず、勝手に人の鞄を開けて奈々お手製の弁当を取り出した。獄寺はまだ何か言いたげだったが、気づかないふりをして綱吉は踵を軸にして身体を反転させた。
「十代目」
「いつものところな」
「うん」
 獄寺の追求を一切拒否し、山本にだけ返事をして綱吉は後方出口から教室を飛び出した。廊下を行き交う人を掻き分けて進み、自分が口にしたトイレの前を素通りする。足は屋上とは逆の、下へ通じる階段を下りていき、途中で爪先の向く方角を変えてもう少し進む。
 目の前の廊下は静まり返り、昼休みだというのに此処だけ無人の学校を思わせた。とはいえ耳を澄ませば遠くから人の雑踏は聞こえてくる。綱吉は斜め頭上に応接室と書かれたプレートを確かめ、息を吸い、長い時間をかけてゆっくりと吐き出した。
 黄土色の一枚扉、呼び鈴なんてものは当然ない。
 昨日もこのドアを開けた、自分が。中に誰が居るのかも知らないで。
 そして出鼻を挫く格好で殴られて気絶したのだ、思い返すと今でも後頭部が鈍い痛みを発する。つい無意識に腕が伸びて頭を撫でさすった綱吉は、コホンと咳払いをひとつして弱気を吐き捨てた。
 今日は、充分に警戒しよう。今は山本も獄寺も一緒ではないのだ、そして中に誰が居るかを自分はもう知っている。
 まずノックをして中に人が居るのを確認、扉を開けても直ぐには中に入らない。リボーンの支援は期待すべきでない、そう都合の良い展開が毎日繰り広げられるとは流石に綱吉も思って居ない。
 それに、今は、雲雀から生徒手帳を返してもらうだけだ。他に用事は無い、受け取ったら直ぐに逃げよう。お昼ごはんだってまだだ、空腹のまま死にたくない。
「よし」
 胸の前で拳を握り、自分自身を奮い立たせる。その手でノックを繰り出せば、数秒の間を置いて低い声が「どうぞ」と内側から響いてきた。だから綱吉はノブに解いた指を置き、右に半回転させて軽く押した。
 体は廊下に置いたまま、腕だけを前に突っ張らせてドアが開くと同時に押した手も引っ込める。自分でも馬鹿らしく思えるくらいの緊張感に心臓が五月蝿く跳ねているが、昨日のような不意打ちを警戒しての行動だから諦めるほかない。肩を竦ませて半身を後ろに僅かに傾けるが、想定していた攻撃は一切なかった。
 拍子抜けるくらいにあっさりと、ドアは障害物に遮られることも無く大振りに開いた。前方が光に包まれ、瞳を細くした綱吉の視界ほぼ中央に背の高い黒い影がそそり立つ。
「……」
「入れば?」
「失礼、します」
 思わず入り口で仁王立ちしてしまった綱吉を冷淡に笑い飛ばし、雲雀は部屋奥の重そうな机に腰を寄りかからせて腕を組んだ。顎をしゃくって自分の方へくるように指示を出し、綱吉を待つ。投げ出した足はやる気がなさそうに床を踏み締め、左足首だけが内側に向けられていた。
 尊大な態度についムッとなるが、生徒手帳がないと困るのは綱吉だ。下手に刺激しないように心がけ、返してもらえるように頼むのが先決、怒りは後でリボーンにでもぶつけて解消しよう。
 腹を括った彼は一歩、二歩と前に出て廊下から居場所を応接室内部へ移す。完全に室内に立ち入ってから、ドアを閉めようか逡巡して、当て所なく揺れているドアノブに視線を移した。
 カチリ、と耳障りな音を聞く。
「じゃあ」
 え、と虚を衝かれた綱吉は左手をドアノブに向けたまま、首から上だけを雲雀に向けた。
 彼は薄暗い笑みを口元に湛え、隠し持っていたトンファーを取り出し構えていた。
「え?」
「始めようか」
「はい?」
「昨日の続き」
 一方的に宣告される、開始の合図。綱吉は何のことだか即座に理解できず、目を丸くして前に出していた左手を引っ込めた。そのまま雲雀に正面を向けて、上半身を仰け反らせる。雲雀は大股にずかずかと迫っていて、状況が飲みこめていない綱吉目掛けていきなり風を唸らせた。
 ヴン、と反射的に膝を折って身を屈めた綱吉の真上を、空気が切り裂かれる微かな音が通り抜けていく。
「ひっ」
「なに、避けないでよ」
 髪の毛が数本、持って行かれた気がする。両手で頭を抱えた綱吉は顔を上げた先に不機嫌を露にする雲雀を見つけて慄き、後ろ向きに倒れると身体を返して四つん這い状態で応接室を飛び出した。
 避けないでよ、なんて言われても普通避けるに決まっている。殴られれば痛いのだ、しかも今の雲雀の攻撃には容赦も遠慮もなかった。気配で分かる、彼は本気だ。
 なんで、どうして。途中から二本足で立ち上がった綱吉は、指先にこびり付いた埃や砂利にも構わず必死に廊下を走った。後ろから迫るものがある、足音がふたり分騒々しく校舎に響き渡っている。
 昨日の、とはつまり綱吉が死ぬ気で起き上がって雲雀を殴り飛ばした時のことだろう。
「何処行くの」
 ヒュン、と耳元でつむじ風が駆け抜ける。
「何処だっていいでしょう!」
「逃げないでよ」
 肩越しに振り返りつつ怒鳴り返した綱吉の視界いっぱいに、雲雀の黒髪が迫った。
「ヒバリさんが追いかけないって約束してくれたら逃げません!」
「僕を馬鹿にしてる?」
 慌てて前に向き直り、綱吉は猛ダッシュで廊下を突っ走る。
「してません!」
「だったら昨日の続きしよう」
「遠慮しておきます!」
 心の底から辞退を表明するのに、雲雀は聞く耳を持たずにトンファーを後ろから繰り出して来た。
 壮絶な、まさしく命がけの追いかけっこ。
 頭を低くして一撃を寸前で避け、綱吉は必死に走って逃げた。階段を二段飛ばしで登り、三段飛ばしで降り、今まで一度も経験した事がないくらいに校舎内を縦横無尽に駆け回る。
 この学校はこんなにも広かっただろうか、と逃げ場を求めて延々さまようが雲雀もまるで諦めようとせず、綱吉が走っているのなら彼は早歩きで、逃げ惑う獲物を追い詰めるのを楽しんでいるようだ。
「昨日の君はなんだったの」
「あれは俺じゃなくって、ですね!」
「なにいってるの」
「だから、あれはアレの所為で!」
「……そろそろ咬み殺していいかな」
 とはいえ、彼が楽しんでいたのも最初だけだ。ついに校舎内を飛び出して校庭に逃げ、だだっ広いだけの空間にたじろいだ綱吉は隠れる場所を探して右往左往する。ゆらり、と背後に立つ人物から赤黒いオーラが漂うのが見えて短く悲鳴をあげ、騒ぎを聞きつけた一般生徒が遠巻きにふたりの動向を見守る中、綱吉はまた逃げた。
 草食動物の俊敏さで肉食獣の目を掻い潜り、体内の酸素を一気に消費して脚力を爆発させる。自分で出せる精一杯の速度で雲雀の一撃を躱すと彼の後ろに回りこみ、チリチリと首の後ろの産毛が逆立つ殺気に倒れそうになりながらも脱兎の勢いでグラウンドの端を目指した。
 空振りしたトンファーを右手に構え直し、ずれた学生服を調えた雲雀は苛々した様子で舌打ちを繰り出す。綱吉の背中は次第に小さくなっていき、見上げた校舎の大時計は間もなく昼休憩終了の時間だと彼に教えた。
「なんなんだよ、もう……」
 ぜぃはぁと息を乱し、綱吉は雲雀との距離が僅かながら広がったのを確認してから足を緩める。三十分近く走りっぱなしでいい加減心臓も限界で、膝は不安定に震えて肺機能も停止寸前だ。喉が渇き、空腹が全身を締め付ける。脚は棒のようで、気を抜けば今にも前のめりに倒れてしまえそうだった。
 額から、首から、全身のあらゆる部分に存在する汗腺が開ききっている。噴き出た汗は止まらず、悲鳴を上げる身体の各部位の痛みに顔を顰めた彼は、校舎の壁に手を置き一旦足を止めた。
 幾らなんでも午後からの授業が始まれば、雲雀も追撃を諦めてくれるだろう。それまで逃げ切れれば自分の勝ちだ、といつの間にか勝負事になっている鬼ごっこに綱吉は苦笑し、口の中を噛んだ痛みに顔を顰めた。
 短い休憩で出来る限り呼吸を整え、汗を拭う。ぼさっと突っ立っていたら雲雀に追いつかれてしまうから、急がなければならない。振り返れば足音が聞こえてきそうで怖くて出来ず、彼は心臓の上に手を重ねて深呼吸してから覚束ない足取りで前に出た。
 頭の中で素早く校舎の間取りを思い出す。確かこの、今綱吉が手を添えている壁を持つ校舎は、特別教室が連なっている棟だったはずだ。授業が無ければ生徒の出入りは殆どなく、教師も用事がない限り近づかない。寂れた雰囲気のする少し埃臭い廊下が続いているのが思い出された――さっき走りぬけたばかりだが。
 ならば教室が並ぶ棟に戻るには、この校舎裏を一直線に抜けて左に曲がればいい。校舎の角には非常用の扉が設けられているから、鍵が閉まってさえ居なければそこから出入りは可能だからだ。
 校庭でちらりと見た壁時計の文字盤を振り返り、あと少しの辛抱だと自分を慰める。綱吉は校舎とブロック塀に囲まれて、日中であるに関わらず薄暗く足元も不確かな、若干じめじめとした嫌な雰囲気漂う道を進みだした。
 そして少し行って、自分の迂闊さを呪った。
「う……」
 思わず顔を顰め、声を漏らしてしまう有様が眼前に展開している。綱吉の響かせた微かな足音に、その場に居た十人少々の団体様は一斉に顔を上げて目つきを鋭くさせた。
 朝、正門前で風紀委員に捕まったときとはまた違う緊張感に背筋が凍りつく。冷たい汗が首の後ろを伝って落ちて行き、吸い込んだ空気の煙たさに綱吉は一秒後激しく咳込んだ。
「げほっ、かはっ」
「あぁ? なんだテメーは」
「や、その」
 手を口に押し当て咳を堪える。代わりに出た涙に世界を滲ませ、綱吉は真っ先に立ち上がった人物に慌てて首を振った。
 いくら世事に疎い綱吉でも、彼らの事くらいは知っている。この学校の問題児集団だ。
 タバコ、喧嘩、授業放棄に校内暴力何でもありで、常に雲雀率いる風紀委員とは対立している。大体いつも負けるのだが、雲雀が居ない時に学年の低い風紀委員だけを狙うなど卑怯な手段も厭わないから、一般生徒からも揃って嫌われていた。
 忘れていた、特別校舎裏が奴らの縄張りだったという事を。
「俺らのシマに足踏み込むたぁ、いい度胸じゃねぇか」
 続けて立った生徒が、着崩した学生服に片手を忍ばせていやらしく笑った。別の男子も吸っていたタバコを地面に落とし、つま先で踏み潰しながら腰を捻って立ちあがった。
 それ以外にも続々と、綱吉の怯えた顔を嘲笑いながら不良たちは綱吉に向かって来る。進行は遅いが圧倒的な数の不利も手伝い、雲雀を相手に感覚が麻痺しかかっていた彼も自分の身の危険を肌で感じ取って全身に鳥肌を立てた。
 逃げなければ。
 そう思うのに脚が上手く動かないのは、既に雲雀との鬼ごっこで体力も限界に近いのと、後ろに戻ればその雲雀が待ち構えていると知っているからだ。
 前にも後ろにも進めない、まさしく前門の虎後門の狼。
 ここを通り抜けたいだけだ、と言っても通用しないだろう。綱吉はじりじりと後退を繰り返しながら、視線は前を見据えて外さない。ちょっとでも隙を見せたら一斉に襲い掛かられるのは分かり切っていて、指先足先にまで意識を研ぎ澄ませ彼は注意深く来たばかりの道を後ろ向きに戻ろうとした。
「うあっ」
 しかし物事はそう何でもかんでも上手く運ばない。
 摺り足で動かしていた靴の裏が思いがけず落ちていた小石に乗り上げ、尖った先端を靴底に突き立てられたのだ。痛くは無かったが体のバランスが一瞬だけ崩れ、情けない悲鳴を上げて飛び上がらんばかりに驚いた綱吉に、不良の代表格たる生徒がにやりとほくそ笑む。
 彼は胸元に忍ばせた手で金属製のナックルを握ると、勢いよく駆け出して綱吉目掛けて突き出した。
「――――っ」
 真正面からの右ストレート。避けられないことは無い速度だったが、疲れきった身体と、いつ後ろから雲雀が襲ってくるか分からない恐怖心がまぜこぜとなり、感覚を急速に遠くした綱吉は咄嗟に動くことが出来なかった。
 殴られる、当たったら痛そう。最近こういうのばかりだな、何が悪いのだろう。
 鈍く光るナックルを眺め、妙に冷静な頭がそんな思考を巡らせる。男の動きはスローモーションのようで、綱吉は両手を持ち上げると頭を抱え込んで首を背けた。せめて顔面直撃くらいは回避したい、そう思って膝を曲げて来るべき衝撃に備える。
 だが、待てど暮らせど予想した痛みはやってこなかった。
 その代わりといってはなんだが、鈍い金属音が一瞬だけ空間を切り裂いた。キン、と脳天を貫く甲高い音に綱吉は肩を震わせ、よろめきながら半歩下がる。何かに肩を押された気がしてバランスを崩し、危うく転倒する寸前で彼はやっと閉じていた目を開いた。
 世界が薄暗いながらも光に晒される。微かな輝きを見た気がして綱吉は瞬きを繰り返し、蠢く影の行方を追って息を呑んだ。
「でやぁぁぁぁ!」
 腹の底から響かせた不良の怒号をいとも容易く受け流し、上段から振り下ろされた特殊警棒の一撃を躱した雲雀が、黒の学生服をはためかせながら不敵に笑って右腕を突き出した。
 トンファーの切っ先ががら空きになった男の顎を真下から貫き、六十キロはあるだろう体躯を宙に浮かせる。ドサドサと土埃が舞い上がり、頭から地面に落ちた不良はそのまま意味不明な言葉を吐いてカクリと首を落とした。
 地面に転がるのはその生徒だけではない。綱吉に先制攻撃を仕掛けたナックルを嵌めた男も、ヒクヒクと太股を痙攣させながら地面に横たわっている。白目を剥いて口からは泡を吹き、だらしなく広げられた股間は失禁したのか濡れていた。
「え……」
 状況が分からない。綱吉は頭の上から両手を下ろし、一対多の攻防を繰り広げている雲雀の背中を呆然と見詰めた。
 午後の授業が始まるチャイムが場違いなくらいに間抜けに響き渡る、その間も雲雀は一切攻撃の手を休めず、逃げ出そうとしていた生徒の襟首を掴むと容赦ない鉄槌をその後頭部に食らわせた。
「ぎゃっ」
 短くみっともない悲鳴をあげ、雲雀の手から男が崩れ落ちる。十人以上居たのが五分足らずで三分の一以下になり、残された面々も恐怖から声すら上がらず、完全に戦意を喪失していた。
「なに、終わり?」
 つまらない、とでも言いたいのか。左に持ったトンファーを風に唸らせた雲雀は吐き捨てるようにそう呟き、周囲をぐるりと見回した。
「ひっ、あ……あ!」
 目が合ったのだろう、黒水晶よりも深い色合いの瞳を向けられた男が声を裏返らせて叫び、両手足をもたつかせながら彼に背中を向けた。一直線に逃げようとして前方に障害物を見つけ出す。彼は何も武器らしいものを持っていなかったが、握り締められた拳には力が篭り、それだけでも十分な凶器だった。
 綱吉は惚けていた顔を引き攣らせ、眼前に迫った裸の拳に心臓を締め付けた。今度こそ動けなくて、呆然と見開いた双眸は狂気に走った男の容貌に完全に竦んでしまっていた。
「ガッ!」
 けれどまたしても、衝撃は綱吉に訪れなかった。
「なにやってるの」
 男の両手が力なく垂れ下がり、支えるものを求めて宙を掻く。指先が綱吉の震える肩に触れそうになったが、そこに到達するより早く第二撃を食らった男は膝を折って地に崩れ落ちた。
 彼の真後ろに居た青年が、不遜な態度を崩しもせず傲慢に言ってのける。
 綱吉は顔を上げた。恐怖に彩られた表情が僅かに緩み、安堵から勝手に目尻に涙が浮いて視界が緩んだ。
 黒髪が生温い風に揺れている、羽織っているだけの学生服が大きくはためいて綱吉の前で半回転した。
 その、広い背中が。
 まるで綱吉を、庇っているようで。
 信じられない光景が広がっている。何が起きているのか、目まぐるしい展開の変化に思考が追いつかず、混乱したまま綱吉は痛むこめかみを押さえて唇を噛んだ。それは酷く乾いていて、息苦しさに唾を飲みこんで綱吉は足首に感じる重みから腿を引いた。
 ずる、と倒れた男の顔が地面に伏される。雲雀は変わらず背中を向けたままトンファーを油断無く構え、残っている面々を右から順に見詰めてその恐怖に引き攣る顔を鼻で笑い飛ばした。
「言っておくけれど」
 淡々とした口調からでは、背を向けている雲雀が今どんな顔をしているのかも分からない。そろり、と持ち上げた足を下ろした綱吉は顔をあげ、揺れる雲雀の腕章に目を向けた。
 笑っているのか、怒っているのか、不機嫌なのか上機嫌なのか、それすらも判断が付かない抑揚のない声が響く。
「この子を殴っていいのは、僕だけだよ」
「――――なっ!」
 なんだそれは。
 そんな話は聞いていない、むしろいつ決まったのかも知らない。勝手に決めないでくれと不満が一気に噴出して綱吉は愕然となった。それは雲雀と相対していた連中も同じで、皆一様に呆気に取られた表情を浮かべて、雲雀と、それからあんぐり口をあけている綱吉とを見比べている。
 ただひとり、雲雀だけが悠然と構えを取っていて。
「ヒバリさん、そんな話聞いてません!」
「当たり前だろう」
 反射的に怒鳴ったら、さらりと言い返された。
「今決めたんだから」
「……」
 この人には何を言っても無駄だ、綱吉はそう思った。
「何、ふざけた事抜かしてやがる」
「やっちまえ!」
 気勢を削がれ不良たちも、何人かは意識を取り戻して起き上がる。雲雀の爆弾発言から我に返った彼らは、雲雀のみならず綱吉までも敵とみなして襲いかかってきた。けれど常に臨戦態勢の雲雀に敵うわけがなく、彼らは綱吉に手が届く前に一様に地面と熱い抱擁を交わした。
 まさに一瞬の出来事。あっさりと十人近い相手をぶちのめしてしまった雲雀は、肩慣らしにもならないと不満顔でトンファーに散った返り血を振り払った。
 ひゅっ、と耳元で風が鳴る。綱吉はどきりとしながらゆっくり振り返る雲雀を見送った。
 目が合う。毒のある、けれど澄んだ綺麗な黒い瞳がしっかりと綱吉を見下ろしていて、下唇を震わせた綱吉は何かを言おうとして息を吸い、けれど何も出てこなくて吐き出せずにまた飲み込んだ。
 雲雀は何も告げず、感情が読み取りづらい表情をしている。鉄面皮だとか、無表情だとかとは違う、言い表し難い感情がそこには宿っている気がした。
 ただ、綱吉にはそれが何なのか分からない。恐らく雲雀自身でさえ、分かっていないのでは無いか。
「あ、の……」
「なに」
 さっきの言葉の真意を知りたかった。
 けれど問いかけてはならないような気がして、綱吉は冷淡に声を返す雲雀に次の句が告げない。胸の前に重ねた手が居心地悪そうに肌を擦っている、吹き抜ける風には微かに血の臭いが混じっていて綱吉の気分を悪くさせた。
 逃げ出したいと震えている足がいう事を聞かない。
「あのっ、あ……」
 雲雀はトンファーを握っているものの構えを解き、腕は垂れ下がるままにさせている。綱吉から視線を外した横顔には戦意を感じず、少し様子がおかしいと思いながらも綱吉は言うべき言葉を見出せずに踵で地面に穴を掘った。
 そうしたら急に、泣きたくなった。
 ぶわっ、と竦んだままだった心臓が急に広がり始め、一緒になって縮こまっていた心までもが反動で急に膨らんだ。安心したからか、それとももっと別の感情か、意味も無くわけも分からず涙が溢れてきて、しゃくりをあげた綱吉は片腕で顔を覆い隠すと一目散にその場から駆け出した。
 動く気配に雲雀が振り返るが、綱吉はもう完全に彼に背を向けていて、まだ残っていた力を振り絞り全力で逃げていく。足音は響かず、湿った空気が重苦しく雲雀を取り囲む。
 呻き声をあげている男の一人を乱暴に蹴りつけ、彼はずり落ちかけていた学生服を掴むとトンファーを手早く片付けた。
 苛々が、収まらない。一瞬消えうせたと思ったのに、また復活してしまって彼は臍を噛む。
「腹の立つ……」
 弱気だったり、強気だったり。
 弱かったり、強かったり。
 雲雀は舌打ちして自分の前髪を乱暴に梳き上げ、首を振り、空を仰いだ。
 忌々しいくらいの晴天が、校舎と壁に阻まれた空間で肩身狭そうに広がっていた。