守札

「あれ?」
 掴んだ書類の下を覗き込み、沢田綱吉は素っ頓狂な声を上げた。
 部屋中に響き渡った甲高い声に、ソファに陣取っていた男が怪訝な顔をした。シックな黒いスーツに身を包み、ただ者ならぬ風格を醸しだしていたその男は、慌ただしく机の上を荒らし回っている青年に眉を顰め、口をヘの字に曲げた。
「どうした」
「いや、ちょっと。……あっれー? おっかしいなあ」
 問いかけを投げるが、視線は絡まない。綱吉は椅子から腰を浮かせて立ち上がると、本格的に書類の山を突き崩し始めた。
 一度漁った場所を再び探り、別の場所にあった紙束をそこに置いて、また違う場所をぐちゃぐちゃにしていく。整理整頓と対局の位置にある行為にため息を零し、男はボルサリーノを目深に被り直した。
「ダメツナめ」
 ぼそりと小声で呟けば、聞こえたわけではなかろうが、綱吉の手がぴたりと止まった。
 机に両腕を伸ばした状態で硬直する青年の顔から、音立てて血の気が引いていった。蒼白になって今にも倒れそうな元教え子に首を傾げ、リボーンは眉目を顰めた。
「おい、ツナ」
「まずい。どうしよう、分かった。さっき提出した奴に混ぜちゃったんだ」
 もう一度呼び掛けるが、声は届いていないようだった。彼はその場で呆然と立ち尽くすと、やおら頬やら首を引っ掻き回して足踏みを始めた。
 誰が見ても焦っていると分かるポーズを決めて、最後に薄茶色の髪を掻きむしってがっくり肩を落とす。なんとも忙しい彼に失笑し、リボーンはソファに座り直した。
 要するに綱吉は、大事な書類を全く別の相手に渡してしまったのだ。そしてもしその内容が、余所に漏れてはならない物であったなら。
「さっさと回収して来い」
 何故焦っているのか、その理由がようやく知れて、リボーンは呆れ顔で呟いた。
 他人事だからと暢気に構えている男の欠伸を睨み付けて、綱吉は歯軋りして小鼻を膨らませた。
「言われなくたって、そうするよ!」
 代わりに行ってやろう、という優しい心遣いは期待するだけ無駄だ。中学時代から散々酷い目に遭わされて来たのを思い出して、彼は年齢も忘れてべー、と舌を出した。
 もう二十歳を過ぎているというのに子供っぽい反応をされて、リボーンが虚を衝かれた顔をして直ぐに破顔した。腹を抱えて笑い、長い脚を蹴り上げてテーブルの縁に踵から乗り上げる。
 行儀の悪さに辟易した様子でかぶりを振り、綱吉は嵐が去った後のような机にもため息をついた。
 やるべき事が増えてしまった。まだなにも終わっていないのに凄まじい疲労感に襲われて、彼は蜂蜜色の髪を梳き上げ、すごすごと歩き出した。
 人の執務室で勝手に寛いでいる男に見送られ、自分で開けた扉を潜る。背中でドアを閉めた途端、綱吉はずるずる膝を折ってその場にしゃがみ込んだ。
「あー、もう。もう嫌だ。やっぱり引き受けるんじゃなかった。ボスなんてガラじゃないよ、俺」
 東洋の島国で生まれ育った平凡な中学生が、ある日突然押しかけて来た赤ん坊に「マフィアのボスになれ」と言われて、早十年。嫌だ、嫌だと言いながらも結局、綱吉はその押しつけられた椅子に座る道を選んだ。
 どうしてあの時頷いてしまったのか、今でも夢に魘されるくらいに分からない。
 向いていないと誰もがそう言った。自分でもそう思って疑わなかった。だのに今、こうしてボンゴレ十代目の肩書きを背負って働いている。
 全てはリボーンが思い描いていた通りになった。巧い具合に誘導されてしまったと、部屋に残して来た男に一頻り悪態をついて、またため息を。
 幸せが逃げると言われているが、構いもしない。そんなもの、とうの昔に徒党を組んで大脱走されてしまっている。
 自分の置かれた境遇に苦笑を禁じ得ない。引きつり笑いを浮かべ、綱吉は渋々立ち上がった。
 こうしている間にも、例の書類は動いている。早く回収しなければ、取り返しのつかない事になりかねない。
 いや、実際にはそこまで重要機密が記されているわけではないのだけれど。
「必要無いもの混じってたら、すっごい怒るんだもんなー」
 一時は十代目候補と目され、その立場を綱吉と争った男、ザンザス。彼が、綱吉が間違った書類を提出しまった相手だった。
 九代目の血の繋がらない息子であり、独立暗殺部隊ヴァリアーのボスを、現在も継続して勤めている。綱吉がボンゴレの表の顔ならば、彼はいわゆる裏の顔に等しい存在だった。
 荒くれ者が多く集まるヴァリアーを率いているだけに、彼もまた他に類を見ない粗暴な男だ。いつも食べるか、寝ているかのどちらかで、気に入らない事があればその辺にあるものを、大小構わず掴んでは投げ飛ばす。
 前にも今回と同じような事をやって、痛い思いをさせられている。万年筆は壁に突き刺さるものなのだと、綱吉はその日初めて知った。
 もうあんな災難は御免被りたい。噴き出た冷や汗を拭い、綱吉は大股で城内を急いだ。
 ボンゴレ二代目の時代に拠点として購入されたこの古城は、歴史を紐解けば十四世紀まで遡れるという。
 迷路のように張り巡らされた通路に、見張り台にもなる複数の塔。増改築が繰り返された所為で元の形状を知る術はなく、隠し部屋や抜け道が多いのが、敵の多いマフィアの居住地に最適と選ばれたらしい。
 ここに移り住んで数年が経つが、綱吉は未だに城の全容を知れずにいる。いや、恐らく知っている者はひとりとしていないに違いない。
 気を抜くとすぐ迷ってしまう。だから分かる経路しか使えないし、使わない。探せばもっと近道があるのだろうが、それを見つけ出すまでの労力と時間を思うと、行動に出るのは憚られた。
 今はとにかく、あの書類がザンザスの手に渡っていないのを祈るしかない。急く心を押し留め、綱吉は緩んでいたネクタイに指を引っかけた。
 仕事中は苦しいからと、結び目を下げていたのだ。だがこれから人に会うのだから、せめて格好だけでもちゃんとしておかなければ。
 きちんとした出で立ちを心がけるのも、ボスとしての役目だ。上に立つ人間がだらしない格好をしていては、部下に示しがつかない。
 だが。
「くぅっ、もう!」
 一度解いて結び直そうとして、指が巧く動いてくれなかった。
 元々、綱吉はネクタイを結ぶのが苦手だった。中学生の頃から慣れ親しんでいる筈なのに、未だに形良く出来た例しがない。
 しかも歩きながらなので、尚更だ。
 自分に対してキレそうになって、金切り声を上げて煙を吐く。古城の狭い廊下でひとり憤慨しながらも、足だけは休むことなく動き続けた。
 窓がなくて薄暗く、見通しの悪い角にさしかかる。
 視線は胸元に集中して、注意力は散漫。初代から引き継いだ超直感を遠くのどぶに投げ捨てて、曲がり角を抜けて先に進もうとしたところで。
「くっそー、いい加減にし――っ!」
 勢いよく踏み出した足のその数センチ先に、壁とは違う障害物がぬっと現れた。
 暗い影に驚き、綱吉が目を見張る。
 避けられるタイミングではなかった。出会い頭の衝突に、脳は漫画であるような両者が吹っ飛ぶ展開を想像した。
「おっと」
 だが結果は、違った。硬直した指先からはらりとネクタイが滑り落ちた以外、これといった変化は現れなかった。
 後ろへ倒れ込むこともなかった。いや、実際は倒れそうになったのだが、寸前で肩を掴んで庇われてしまった。胸に抱き込められて、なんとも男臭い匂いが鼻腔を淡く漂った。
 結構な速度でぶつかっていった筈なのに、衝突相手はびくともしていない。まるで動じる様子もなく、淡々と人の肩を太い腕で抱え込んでいる。
 もしこの腕の主に抱き留められていなかったら、弾き飛ばされたのは綱吉だけだったに違いない。
「なぁにやってやがる。アブねえじゃねーか……って、なんだ。テメーか」
「スクアーロ」
 前方を警戒せぬまま角を曲がった相手を怒鳴りつけて、銀髪の男が牙を剥く。だが羨ましいくらいに真っ直ぐ長い髪を肩から前に流し、忍ぶ気など毛頭無い配色のロングコートを着て目を吊り上げた男は、相手が綱吉と気付いてつまらなそうに舌打ちした。
 嫌そうな顔をしてそっぽを向かれて、綱吉もついムッと頬を膨らませた。
 庇うのでなく、突き飛ばしてやればよかったと、そう思っているのだろう。なにせ彼は、綱吉と同じ組織にありながら対立を繰り返している、独立暗殺部隊ヴァリアーの副隊長なのだから。
 これから会いに行くつもりでいた男の腹心にも当たる。あまりデスクワークが好きでないザンザスの代わりに、書類仕事の大半を任せられている人物でもあった。
 そんな男にこんなところで遭遇するだなんて、運命の悪戯としか思えない。
 ぶつかってしまった事の侘びは、衝突後の非礼な態度と相殺させて溜飲を下げ、綱吉はかぶりを振って気持ちを切り替えた。
「丁度良かった。あの、さっき俺がそっちに回した」
「ああ、コレか?」
「そう、それ!」
 不幸が重なってどん底に突き落とされた気分でいたが、幸運値はここに来て一気に急上昇を開始した。声を上擦らせ、頬を上気させた綱吉の眼差しに不遜な笑みを浮かべて、スクアーロはホッチキスで製本された薄い書類を右手に揺らした。
 それこそ、綱吉が彼らの元から回収しようとしていたものに他ならない。どうやら彼は、ザンザスに回す前に一度チェックして、不要なものが混じっていると気付いて弾いてくれていたらしい。
 執務室で寛いでいる男とは違って、わざわざ届けてくれるという心遣いもセットにして。
 思いも寄らぬ展開に興奮冷めやらぬ顔をして、綱吉は嬉しそうに何度も首を縦に振った。
 依然彼の左腕に抱き抱えられたままだというのに、それも忘れて目を細める。東洋人だから、という理由ひとつでは片付かない童顔で微笑まれて、スクアーロは急に苦々しい表情を作って華奢な肩をぐいっと押した。
「いい加減離れろ」
「うわ、っと」
「いテっ」
 自分が解放しようとしなかった癖に、棚に上げて怒鳴りつける。乱暴な物言いにたたらを踏んだ綱吉は、直後廊下に響いた低い悲鳴に目を瞬いた。
 スクアーロから離れた筈なのに、胸倉を掴まれた錯覚に陥ってきょとんとなる。軽い力で引っ張られて、彼は何事かと顎を引いて俯いた。
 少々皺が寄っているネクタイが、首の左右から垂れ下がっていた。試行錯誤していたのが窺えるヨレヨレ具合に真っ先に目が行くが、あらぬ力が加わっているのは其処では無かった。
 三つボタンシングルのスーツの下は、薄い水色のストライプが入ったシャツだ。その第二ボタンの周辺が、不自然に前に向かって飛び出していた。
「んん?」
 腕を下ろしたスクアーロが若干前屈みになって、渋面を作って睨んでいた。
 鋭い眼光に背筋を粟立たせ、綱吉は彼の不機嫌の原因を探って今一度注意深く自分の胸元を窺い見た。だがこれといっておかしなところは見当たらなくて、冷や汗で腋がしっとり冷たくなり始めた頃。
 ボタンを中心に膨らんでいるシャツの前方に、きらりと輝くものがあるのに、彼はようやく気がついた。
「うわっ」
「ゔぉぉい! 動くんじゃねえ!」
 大粒の眼を丸くして、悲鳴をあげて仰け反る。もれなく絡まった髪ごと頭を引っ張られたスクアーロが、凄みのある声で怒鳴った。
 彼の自慢の長髪が、あろう事か綱吉のシャツのボタンに引っかかっていた。
 ぶつかった時に間に挟まれて、その後じたばた暴れている時に絡みついてしまったのだろう。毛の色が薄いものだから、背景と同化して気付くのが遅れた。
 そろりと前方を窺えば、眉間に皺を寄せた男のこめかみがヒクヒク痙攣していた。
 あのザンザスの部下を長年やっているだけに、彼もまた短気な性格をしていた。沸点の低さは、上司と充分競い合える。
「えゃ、あの、ごめん。すぐに外すから」
「当ったりめーだ!」
 そもそも綱吉が、もっと進行方向に注意を払っておけば、こんな事にならなかったのだ。捲し立てられるがどれも正論で、彼は何も言い返せないまま顔を伏して唇を噛み締めた。
 乳白色の貝ボタンに、艶やかな銀の髪が数本まとわりついている。綱吉は試しにその一本を抓み持ち、時計回りに回し始めた。
 こうしてやれば、巻き付いているものが自然と外れる筈。そう信じて止まなかった彼なのだけれど。
「……まだか」
 やっている最中で別の髪に引っかかって、それ以上先に進めなくなってしまった。だから今度はその髪を抓んでぐるぐる回してやるのだが、またしても別の毛に行き当たって、手は完全に止まった。
 痺れを切らしたスクアーロが腹に響く声で凄んできたが、急かされても綱吉はどうする事も出来ない。
 最初に比べてより頑丈にボタンに絡んでいる銀髪を前に、彼は途方に暮れて遠い目をした。
「ええっと。えっと。えー……」
「チッ。相変わらず、使えねぇ奴だな」
 言い訳を必死に考えるが、残念ながらなにも浮かんで来なかった。顔を逸らして目を合わせようとしない彼に唾を吐き、スクアーロは無事だった後頭部をガシガシと掻き回した。
 面と向かって罵倒されて、反論したいところだが言葉は出て来ない。実際、綱吉は役立たずだ。書類は間違えるし、前方不注意だし、挙げ句ボタンに絡んだ髪さえ解けない。
 マフィアのボスらしい仕事は、なにひとつ果たせずにいる。
「……ごめん」
 殊勝に頭を垂れた彼に目を見張り、スクアーロは何度目か知れない舌打ちをした。
 予想以上に落ち込んで、凹んでしまっている。先ほど見た花が咲いたような笑顔は遠くへ追い遣られ、見る影もなかった。
 いつだって強気で独善的な行動ばかり取る仲間に囲まれている所為か、調子が狂う。肩を落として項垂れている、十代半ばと見紛う二十四歳に盛大なため息を零して、スクアーロはピアノ線の如くピンと張り詰めている髪を摘み上げた。
 自分の方に引き寄せる分には、痛くない。代わりに綱吉が引っ張られた。
 咄嗟に後退を計ろうとして、自制を働かせて踏み止まる。戸惑いが現れている琥珀の瞳を見下ろし、自在に動く義手を駆使した男が不遜に笑った。
「ったく。手間かけさせんじゃねー」
「ちょっと待って、スクアーロ」
 口では悪態をつきながら、彼の手はゆっくり己の方へ滑って行った。
 見えない生え際を探る男に呆気に取られ、一秒後我に返った綱吉が叫んだ。大急ぎで太い手首を掴み、頭部から引き剥がす。根本から引き抜こうとしていたのを邪魔されて、スクアーロの目がつり上がった。
「何しやがる」
 ふたりとも、忙しい身分だ。ここでちんたらしている暇は無い。
 絡まったのが解けないのなら、元を断つしかあるまい。だのに綱吉は、彼の気遣いをくしゃくしゃに丸めて遠くに放り投げた。
 大人しく好意を受け入れておけば良いものを、何故邪魔立てするのか。訳が分からないと困惑するスクアーロを睨み返して、綱吉はシャツの襟を撫でた。
 平らな胸で膨らんでいる箇所をなぞり、小さな貝ボタンを指で挟む。ぐりぐりと捻るように動かした彼に、スクアーロは右の眉をピクリと持ち上げた。
 探る目で琥珀を覗き込めば、身長百六十五センチもない青年が小さく舌を出した。首を竦めて俯き、両手を使ってボタンとその周辺を弄り始める。
 彼が何を企んでいるのかなど、聞くまでもない。
「ちょっと待て」
「いやでも、俺が悪いんだし。また縫い付ければいいだけの話だし」
「だったら俺が髪引き千切る方が早いだろうが」
「でも、スクアーロの髪は何年もかかってその長さになったんじゃない。自分で抜いちゃうなんて、勿体ないよ!」
 すかさず止めに入った手を押し退け、綱吉が強固に主張する。だが意固地になられる程に、スクアーロの機嫌も下降の一途を辿った。
 互いに主張を曲げず、信念を貫き通そうと火花を散らす彼らに、偶然通り掛かったヴァリアーの下位構成員は不思議そうな顔をした。
 他人が聞けばどうでもいい、と匙を投げそうなところに拘って、一向に会話が先に進まない。両者共に奥歯を噛み締め、相手の頑固さを詰り、自分こそが正しいと意地を張って。
 ふたり、ほぼ同じタイミングで。
 指先に力を込めた。
「――っ」
 ぶちっ、となにかが千切れる音は、綱吉の胸元の方が遙かに大きく響いた。
 彼らの間にあった圧迫感が一瞬で消え失せ、ふたり揃って後ろ向きに仰け反った。倒れないよう片足を引いて立ち、自らの手に残された物を呆然と見つめる。
 スクアーロの手には長い髪が数本。
 綱吉の手には、縮れた糸が巻き付くボタンがひとつ。
「ちょっ」
「てめえ!」
 どちらか片方だけが手を下せば良かったものを。
 どちらも譲らなかった所為で。
 声を上擦らせた綱吉に、スクアーロの怒号が覆い被さる。だが振り上げられた拳は数回痙攣しただけで、すぐさま下ろされた。
「何やってやがる」
「スクアーロこそ。あーあ、勿体ない」
 文句を言えば、間髪入れずに合いの手が入った。踵で床を蹴った綱吉は、掌に転がるボタンを小突き、力業で引き千切った糸に息を吹きかけた。
 飛んで行った糸くずを途中まで目で追って、スクアーロもまた無用の長物となった自身の髪を床に捨てようとした。
 だが手首を返しても、指は開かなかった。
 脳裏に、綱吉の台詞が蘇る。勿体ないと繰り返されて、そういうものなのか、とこれまで一切頓着して来なかった彼は緩慢に頷いた。
 とはいえ、抜けた髪の再利用方法など、そうあるものではない。カツラを作るにしたって、たった数本では意味を成さない。
「スクアーロ……?」
「やる」
「はあ?」
 むすっとしたまま黙り込んだ彼に眉を顰め、綱吉が恐る恐る呼び掛ける。そこへ唐突に腕ごと突き出して来られて、彼は甲高い悲鳴をあげた。
 咄嗟に出した手に銀髪を押しつけられても、困る。意味不明だと瞬きを繰り返した彼に口角歪め、スクアーロはすぐに行方不明になってしまいそうな細い糸を指差した。
「御守りにでもするんだな。テメーが不甲斐ない戦いをしてる時に、ケツ蹴りに行ってやるからよ」
「そこは、窮地に駆けつける、じゃないの?」
 尊大な態度で捲し立てられて、なにか違うと綱吉は顔を引き攣らせた。だが彼は鷹揚に首を振り、偉そうに胸を張った。
「テメーは、うちのボスに勝った男だ。そんな奴が、おいそれと窮地に陥るだと? 笑わせんな」
「ああ、……ありがと」
 言い足されて、ようやく意味を理解した綱吉が気の抜けた笑みを浮かべた。
 彼は少なからず、綱吉の事を買ってくれているのだ。ザンザスにも負けない強い人間だと、ストレートには言わないけれど、一応認めてくれているのだ。
 自分がこれまでやって来たことが無駄でなかったと分かっただけでも、嬉しい。胸が温かくなる。幸せな気持ちがまたひとつ、綱吉の中で花を咲かせた。
 頬を緩める青年に、ガラでもない事をしたと感じたのか、スクアーロが忌々しげに顔を歪めた。下唇を浅く噛んでそっぽを向いて、来た方角へ歩き出そうとする。
 その背中を引き留め、綱吉は彼がくれた髪を大切に指に巻き付けた。
「ぁンだ?」
「書類、返して。あと、これ」
「ん?」
 彼が廊下を歩いていた本来の目的を思い出させてから、右手を前に向かって振り動かす。
 アンダースローで投げ放たれた小さな物体に、スクアーロは反射的に生身の方の手を伸ばした。
 空中で掴んだのは、糸くずが取り払われて綺麗になったボタンだった。
「何のつもりだぁ?」
「御守りにでもしてよ」
 これがなければ、綱吉の着ているシャツはずっと第二ボタンが失われたままだ。手放して良いものではない筈なのに、と怪訝にしていたら、両手を背中に回した青年が爪先立ちで微笑んだ。
 先ほどスクアーロが言ったのと同じ台詞を諳んじて、悪戯な子供の顔を作る。意図がくみ取れずにいる男を前に、彼は胸の空白部分を叩いた。
 ボタンがあった場所の、すぐ左隣。肋骨の内側に潜む臓器を叩いて、綱吉は故国の懐かしい風習に思いを馳せた。
 季節はとうに過ぎてしまったが、効力自体は卒業シーズンでなくても継続されよう。
「第二ボタンは、心臓に一番近いからさ」
 胸の鼓動を指で数え、含み笑いを噛み殺しつつ告げる。
 意味を理解しかねているスクアーロが、ぽかんと口を開く様が殊更可笑しかった。
「俺みたいに、窮地に陥ってもなんとかなっちゃうように、御守り代わりに持ってればいいよ。ああ、でも」
 言いながら傍に寄り、義手の指から書類を奪い取る。瞬時にバックステップで逃げた青年に瞠目し、スクアーロは後から押し寄せて来た感情を懸命に振り払った。
 頬を朱に染めて、綱吉が笑う。振られた手には、細長い糸が絡みついていた。
「要らなかったら捨てていいから」
「テメーこそ、呪いの道具に使うんじゃねーぞ」
「しないって。じゃあ、これ、有り難う」
「次からは気をつけろよ」
「分かってるー」
 念押しに言葉を重ね、同時に後ろを向く。綱吉は角を曲がり、スクアーロは真っ直ぐヴァリアーの詰め所へと歩き出す。
 ボンゴレの居城は無駄に広くて、通路を行き交う人は少なかった。
 それを幸いに思いながら、彼らは揃って顔を赤く染め、むず痒いなにかを堪えながら歩を速めた。
「捨てられるわけ、ないだろ」
「捨てるわきゃねーだろうが」
 互いにそこに居ない相手に向かって悪態をつき、ふっと息を吐く。
 そして。
 幸せそうに、笑った。

2012/04/30 脱稿