Run Dash Run 1st.

 沢田綱吉は朝、目覚めの瞬間から激しく憂鬱だった。
「遅刻するわよー」
「はーい」
 母親である奈々の、階下からの呼び声に大きく返事をして、寝癖だらけの後頭部を掻き毟る。脇を向けば天井に吊るしたハンモックで憂鬱の発端であり最大の原因である赤ん坊が、呑気に鼻ちょうちんを膨らませながら目を開けたまま寝入っていた。
「はあぁ……」
 最早溜息しか出ないという雰囲気で、彼は頭に置いていた手と一緒に肩を落とした。ベッドの上で膝を抱き、体を小さく丸めて考え込む。けれどその間にも時計の針は一秒ずつ確実に時を刻み、数分もせぬうちに新たに奈々の声が大きく廊下に響き渡った。
 学校に、行かなければ。もうひとつ溜息を零し、首を弱々しく振った彼は、仕方が無い、と諦めの境地に立ち入って両腕を解放しベッドから足を下ろした。
 視線の高さに来た窓の外は、恨みがましいくらいの快晴。自分の気持ちとは真逆となる爽やかな陽気をガラス越しに感じ取り、綱吉は半透明の自分自身を見詰めた。眉間に皺が寄っている、不機嫌と不健康さをそこに感じ取って彼は肩の力を抜いた。
 奈々の声が若干癪に障る。今行く、と怒鳴り声でドアに向かって叫び、綱吉は窓から顔を外してクローゼットの扉を乱暴に開けた。
 パジャマを脱ぎ捨て、素早く制服に身を包む。そして彼は脱いだものを丸めて一塊にし、慌しく部屋を出て行った。
 ハンモックの上では、騒音を間近に聞きながらも未だ赤ん坊の鼻ちょうちんは綺麗な風船を形作っていて、綱吉がドアを閉めた瞬間、弾けた。

 昨日は散々な一日だった。
 リボーンに、秘密基地に丁度いい場所があるだとか言われて訪れた応接室。ドアを開けた瞬間に殴られて一瞬気を失い、いつの間にか一緒だった獄寺と山本は床の上。
 目の前に仁王立ちの人物は、綱吉が通学する並盛中学校の最高権力者にして凶悪無比、極悪非道の名前をほしいままにしている風紀委員長、雲雀恭弥。手には愛用の仕込み武器であるトンファーを油断無く構え、綱吉ににじり寄る様に恐怖が芽生えぬわけがない。
 逃げるにしても気絶しているふたりを置いてはいけず、かといって立ち向かうには自分はあまりにも非力だ。絶体絶命、究極のピンチに直面していた綱吉を救ったのは――いや、正直言えばあまり救われた気分になれないのだけれど、リボーンが放った死ぬ気弾。
 せめて一発くらい、と後悔しながらだったのもあり、復活した綱吉がやったことといえば、ずばりスリッパに変形したレオンで彼の頭を思いっきり殴りつけたこと。直後に雲雀から立ちこめた強烈な怒気に心臓が悲鳴を上げて竦みあがったが、その新たな窮地を救ったのは矢張りリボーンで。
 奴は雲雀恭弥を、ファミリーの一員として迎えるのだと豪語した。
「絶対無理だって」
 あの時と同じ台詞を呟き、綱吉は鞄を小脇に抱えて通学路を急ぐ。結局部屋でのろのろとしていたお陰で、遅刻するかしないかというぎりぎりの時間になってしまった。
 胃袋に掻きこんだ朝食が消化不良のまま、動く度にぐらぐらと塊を内壁にぶつけてきて気分が悪い。だがここで歩調を緩めると遅刻は決定的で、そうなればただでさえ遅刻の常連なのに、風紀委員にまた目を付けられてしまう。
 そうでなくとも、昨日の騒動がある。風紀委員とは余計なトラブルを起こしたくなかった。
 あの場には綱吉と雲雀と、リボーン以外に意識を持った人間はいなかった。だから綱吉が雲雀を殴った、という事実は今のところ周囲には伏せられている。獄寺が、綱吉が雲雀を倒した、とか言ってひとり興奮していたのが若干気に掛かるが、彼も口が軽い方ではないから大丈夫だろう、……きっと。
 そもそも雲雀恭弥なる人物は、綱吉からすればそれこそ雲の上の人物だ。
 喧嘩の強さは並盛中で文句なしに一番だし、相手が大人であっても凄みを利かせ屈服させてしまう存在感は極大クラス。自分の行動には絶対の自信を持っており、強面揃いの風紀委員を一手に纏め上げている手腕はリーダーとしての素質もあってのことだろう。
 綱吉とは、何もかも正反対。
 運動オンチ、勉強も出来ない、物分りも物覚えも悪く、口下手で人付き合いも苦手。自己主張は乏しく、いつだって誰かの言いなり。人の顔色を窺っておべっかを使うことばかりが上手くなった。迫力もない、人としての魅力にも乏しい。今でさえ、何故自分が山本や獄寺のような人間から慕ってもらえているのかが分からないくらいだ。
「はぁ……」
 溜息が漏れ、俯いた先に自分の爪先が見える。知らぬ間に交互に繰り出していた足が止まりかかっていて、綱吉はハッとなって顔を上げた。遠く、道の向こう側にブロック塀の切れ目が見える。左側からは響き渡るチャイムの音色。
 予鈴だ。
「やばっ」
 考え事をしている場合ではなかったのを思い出し、綱吉は片手で口元を覆うと両脇を駆け抜けていく生徒に紛れ、自分も駆け出した。
 長いブロック塀とガードレールに囲まれた狭い歩道を懸命に走る。元々足が遅いので、どれだけ頑張っても女子生徒にまで追い抜かれていくが、ちんたら歩いているよりは絶対に良い。
 風紀委員の黒い制服が前方で待ち構えているのが分かる。膝まである長さの学生服に、靴全体を覆い隠せそうなくらいに裾が広がった学生ズボン。風紀委員なのにその出で立ちはいいのか、と突っ込みを入れたくなるが怖くて一度もやったことのない感想が脳裏を駆け抜け、綱吉は最後の力を振り絞って地面を蹴り飛ばした。
 だが。
「ここまで」
 無情にも本鈴の鐘がスピーカーを通して周囲に響き渡り、目の前で鉄製の門はガラガラと閉じられた。人がひとりだけ通り抜けられる程度の隙間を残し、そこを後ろ手に腕を結んだリーゼントヘアの風紀委員が前を塞ぐ格好で立ちはだかる。
 ざっと見た感じでは、風紀委員の数は五人。いずれも綱吉よりはるかに体格が良く、喧嘩慣れしていそうな雰囲気が漂っている。どれもこれも似たような出で立ちだが、幸いなことに綱吉が最も危惧していた人物はこの場に居合わせていないようだった。
 対して、本鈴に間に合わずに校門前で立ち往生している生徒は、綱吉を含めて合計三人。女子がひとり、男子がひとり。男子とは遅刻仲間としてクラスは違うが顔見知りで、またお前か、という顔を互いに向け合って苦笑が漏れた。
「さいあくー、ちょっとだけじゃない」
 これくらい見逃してよ、とどうやら遅刻初犯らしき女生徒が風紀委員に食って掛かるが、相手にしてもらえるはずもない。拳を作って上下に振り回しながら見逃してと連呼する彼女に、風紀委員はただ生徒手帳を出すように促すばかりだ。
 綱吉もまた、諦めて鞄の中に手を入れる。
 だが。
「あ、れ」
 ガサゴソとファスターの隙間から差し込んだ指先に、目指すものがぶつからない。
 綱吉は明後日の方向に目を向け、手首までを鞄に突っ込んで更に内ポケットだけでなく鞄の中全体をまさぐった。けれどそれでも、指が触れるのは弁当箱だったり筆入れだったり、授業中もろくに広げない教科書やノートばかり。掌サイズの小さな手帳に行きあたらない。
「おっかしいな」
「おい、お前」
「うあっ、はい、はい。すみません今出します」
 上から凄むように呼ばれると、反射的に低姿勢で頭を下げてしまう。哀しいかな自分に身についてしまった習性に涙が出そうになり、綱吉は鞄を地面に下ろすとファスナーを全開にして口を広げた。
 今度は両手を使い、内ポケットから鞄の底まで一斉に漁る。瞳も落ち着き無く動かして生徒手帳を探すが、こんな時に限って何故かあの薄っぺらな手帳はどこにも見付からなかった。
 なんで、と乾いた唇が無音を刻む。焦りが焦りを生み、額を流れ出た脂汗が頬を伝っていった。心臓がバクバクと激しく拍動し、生唾を飲み込むが口腔内の乾燥はちっとも癒されてくれない。
「おい」
「うひゃぁぁ」
 真後ろから声をかけられ、不覚にも裏返った悲鳴をあげてしまった。すっかり萎縮し、怯えきった表情で振り向くと、そこに立っていたのは五人のうち一番表情が優しそうな(それでも充分強面だが)風紀委員だ。確か学年は同じだったと思う、ラグビー部から熱烈な勧誘を受けていたのにそれを蹴って風紀委員に入った、とどこかで聞きかじった。
 彼は鞄を前にして路上にしゃがみ込んでいる綱吉の肩を叩き、通行の邪魔になるから端に寄れと促す。向けられた指先には自転車に跨って不機嫌に顔を歪めている中年女性がいて、飛び上がった綱吉は大慌てで鞄を抱きかかえて道端に居場所を移した。
 顰めっ面で鼻息を荒っぽく吐いて、女性は自転車を漕ぎ出し去っていく。あれもあれで怖いな、と伸びきったピンクのセーターを見送った綱吉は、改めて鞄の中を覗き見たが探しものはどうやっても見付からなかった。
 念の為学生服のポケットにも手を入れるが、出てきたのはいつから入っていたのかも不明な、中身のない飴の包装紙だった。
「忘れたのか?」
「……」
 顔を覗き込んで聞かれるが、綱吉は答えられない。鞄にも制服にもないなら持っていないのに間違いないが、ではどこに忘れてきたのかと問われても、矢張り答えられそうにない。
 生徒手帳は大体いつも、鞄のポケットに入れている。遅刻をしたその日は風紀委員に提出し、教室へ急ぐので仕舞う手間を省くために制服のポケットに押し込む日もあるが、それ以外で手帳に用途はない。つまり、本来それは頻繁に出し入れするものではないのだ。
 昨日は、どうだっただろう。
「そいつ、昨日も遅刻してなかったか?」
「あー、そういや見た顔だ」
 斜め前方から綱吉を指差して言葉を交し合う別の風紀委員の声が聞こえてきて、綱吉は顔を上げて鞄から引き抜こうとしていた腕を止めた。指先がファスナーのギザギザを擦り、無意識にそれを抓んで皮膚に押し当てる。
 記憶の欠片が頭の中でかちりと音を立てた。
「あ」
 そう、言われるとおり綱吉は昨日も、遅刻だった。
「常連だぜー、そいつ」
 カラカラと笑う別の風紀委員に肩を竦め、目の前の風紀委員がひとまず正門内に入れ、と綱吉に顎をしゃくってみせた。彼が外にいられては、いつまで経っても風紀委員の仕事が終わらない。肩を押されて前によろめいた綱吉は、鞄を大事に抱え込むと促されるままに正門の隙間を潜り抜けた。
 視線が、前方に固定される。
 ――そうだ……
 足音もなく近づいてくる、黒と白のシルエット。
 綱吉は口が開いたままの鞄を更にぎゅっと、形が失われる寸前まで強く抱き、出し掛けた足を片方後ろへ逃した。
 昨日。
 応接室での騒動ですっかり頭から記憶が消し飛んでいたが、綱吉はその朝も、彼ら風紀委員にまたかと笑われながら生徒手帳を差し出し、日付の横に遅刻と赤文字で大きく書き足されていた。
 いい加減早起きしろよ、と面倒見が良さそうな風紀委員(そういう人はとても稀だ)に閉じた手帳で頭を叩かれてから、受け取る。問題はその後、どうしたか。
 綱吉は先を急ぐあまり、手帳を鞄ではなく、制服のポケットに無造作に突っ込んだ。
 そして授業を受け、昼食を取り、その間一度も手帳に触れなかった。
 つまり、ポケットに入れっぱなしだった。
 だけれど今そこに目当てのものは存在していない、取り出した覚えも無い。ならば、落としたのだ、どこかで。
 どこか、なんて。
 一箇所しか、思いつかない。
 コンクリートで固められた足元に、カツン、と小石が跳ねる。鞄の角が手首に食い込んで痛みを訴えているのにまるで気にも留めない綱吉は、茫然自失とした表情で前方を食い入るように見詰めていた。
 気づいた風紀委員が振り返り、横に合図をして会話を中断させる。ハッと息を呑んだ全員がまるで軍隊のように揃って敬礼をする様が、傍目からすれば非常に滑稽だった。
 じり、と綱吉の右足の裏がコンクリートを擦る。引き攣った表情に相手はもう気づいているだろうか、飄々とした風貌からは何の感情も読み取れなかった。
「どうしたの」
 穏やかな陽気を一瞬で吹き飛ばす冷風が、綱吉の耳を凍てつかせる。
「あ、いえ。大した事ではないのですが」
「遅刻者が生徒手帳を忘れて来たようでして」
 ひとりが首を横に振り、ひとりが縦に振った。先輩格の風紀委員がほぼ同時に発言し、残る三人は唐突に現れた人物に困惑と尊敬が入り混じった瞳を向けた。置き去りにされた格好の綱吉は、居心地悪く肩を揺らした。視線が左右に揺らめく、呼吸はリズムを乱し吐く方が若干回数も多い。
「ふぅん」
 あっさりとした相槌。そこで会話は途切れ、発言した風紀委員を左から順に見た彼は己の前髪を嬲る風に目を眇めた。ゆるりと動いた彼に、綱吉がびくりと大仰なまでに肩を震わせて半歩後退する。
「その子?」
「はい」
 リーゼントヘアの風紀委員が学生服の裾を翻しつつ、綱吉を振り返る。彼以外も一斉に綱吉に視線を向け、十二の瞳の中心に立たされた綱吉は戦々恐々と身体を縮めこませて胃を細くした。脂汗が首筋を伝うのが気持ち悪く、吐き気さえ覚えた彼は更に半歩、後ろへと下がった。
「それで、委員長。どうしましょう」
 生徒手帳を忘れた場合、委員が持つ別の紙に控えとして氏名と学年クラスを記入し、翌日手帳と揃えて提出する仕組みになっている。今回もそれを適用すればいいだけの問題なのだが、ただならない雰囲気を感じ取ったのか、リーゼントの彼は遠慮がちに雲雀に指示を仰いだ。
 雲雀が一歩、大股気味に前に出る。綱吉は下がろうとして、踵が閉じている正門の鉄棒に触れたところで動きを止めた。背後を窺い見て、絶望に顔色を染める。
「さわだ」
「委員長?」
「つなよし」
 黒髪を揺らし、雲雀が綱吉へ更に一歩詰め寄った。逃げ場を持たない彼はせめて盾くらいにはなるだろうと鞄を構え直し、けれど完全に怯えきった表情で近づいてくる相手を見上げる。見開かれた瞳は今にも泣き出しそうなまで緩み、かみ合わない奥歯がカチカチと不協和音を奏でていた。
 雲雀が足を止める。風紀委員五人が見守る中、彼はそっと背中を丸めて綱吉の眼前に首を突き出した。吐息が鼻先を掠める近さに、綱吉はヒッと喉を擦りながら呼吸を止めた。
「1-A」
 眇められた切れ長の瞳が、面白いものを眺める目つきで綱吉を捕らえている。真横に引き結ばれた口角は僅かに歪みを持ち、丹精な彼の顔をより妖しく、蠱惑的な色に飾っていた。
「……あたり?」
 綱吉は完全にその場で居竦み、動けない。無論返事も出来ず、零れ落ちそうなまでに開いた目を僅かに潤ませて雲雀を見詰めるばかりだ。どうにか縦に首を振ろうとするも、緊張で強張った筋肉は思い通りに動いてくれず、ただ喉がヒクリと震えるだけ。
 彼のあまりの怯え様に、見ていた風紀委員も首を傾げる。何がふたりの間にあったのだろう、と邪推しようにも、表向き彼らには全く接点がない。誰も昨日の応接室での出来事を知らないから、互いに顔を見合わせることしか出来ず、頭の上にはクエスチョンマークが乱舞していた。
 状況が違うのは本人ばかりで、不遜な笑みを崩さない雲雀に、綱吉は膝をがくがくと震わせて鞄を抱く腕に力を込めた。踵が鉄門にぶつかる、背中もまた。そのまま後ろへ倒れ行きそうになっていたら、追いかけるように雲雀がまた顔を近づけてきた。
 彼の吐く息が唇を掠める。不意に感じた他者の熱に綱吉は瞬間目を閉じ、雲雀が動く気配に肩を竦めた。
 彼は綱吉の反応を暫く楽しんだ後、肩に羽織った学生服の下から左腕を後ろへと回し、ズボンの後ろポケットから何かを取り出した。
 黒色の、薄い、掌サイズの、見慣れた校章が上部に記された、一冊の手帳。
「っ……」
 覚えのある傷跡、校章の下に記入されている汚い文字。学生、組、名前。そのどれもが綱吉の目に馴染んだものであり、彼はどくん、と大きく跳ねた心臓の音に驚きながら不敵に笑む雲雀を凝視した。
 それをどこで、なんて確かめるまでもない。可能性は他に考えられず、綱吉が一番回避したかった予想が正しかったと教えられ、彼は絶望が軍靴を響かせて近づいて来るのを感じた。
「忘れ物」
 雲雀が姿勢を真っ直ぐに戻し、綱吉から離れていく。取り戻そうと持ち上げた綱吉の腕は見事に空回りして、もがいた指先が虚しく宙を掻いた。
 彼は右手に綱吉の生徒手帳を持ち替え、肩の高さまで掲げ持つと、前後左右に複数回に分けて揺らした。瞳に宿る意地悪な表情は変えず、企み事がある視線を綱吉に投げつける。ぐっ、と腹の底に力を込めた綱吉は浮かせていた踵を地面に突き立て、鞄が押し当てられている胸を少し低く丸めて、上目遣いながら彼を思い切り睨み返した。
「なら、返してください」
 何処で綱吉がそれを落とし、何故雲雀が持っているのか。仔細が他に知られると色々と困るのは綱吉も雲雀も同じだ。綱吉は騒がれるのが嫌だし、雲雀だって綱吉のような小さな存在に一発食らわされたと周囲に知れ渡るのは嫌だろう。
 彼には綱吉にない、立場と言うものがある。絶対的な権力者として保持し続けなければならないのは、誰よりも彼が“強い”というその事実ひとつだ。そこに無遠慮に土足で割り込んだ綱吉の存在は、彼にしてみれば青天の霹靂以外のなにものでもない。
 更に綱吉の“弱さ”を知っている連中は、そんな奴にやられたといって雲雀を嘲笑するだろう。彼の強さは飾りだったのだと蔑み、雲雀の立場を危うくする。
 それは、綱吉の望むべきものでもない。雲雀がどうなろうと知ったことではない、そう言い張ればよいのかもしれないが、浅からず彼の持つ絶対的な強さに憧憬めいたものを抱いていただけに、綱吉は彼の立場を傷つけたくもなかった。
 詳細は告げず、事実だけを是認して綱吉は雲雀に訴えかけた。行き場を失った腕を再度伸ばすが、手帳は綱吉の指が触れる寸前で離れていく。
「あとで」
 たんっ、と雲雀の足が後ろへと跳んで軽い動作で着地を果たした。学生服は殆ど揺れておらず、抜群の運動神経とバランス感覚に唸らされる。
「そうだね……昼休みに」
 取りにおいで。
 それまで怯える一方だった綱吉が急に強気の態度を取ったのを面白そうに、彼は目を細めて笑った。
「勝手に……!」
「ひとりでおいで」
 一方的に決めてくれるな、そう怒鳴ろうとした声を遮って雲雀が楽しげな口調で会話を切る。呆気に取られる風紀委員五人を残し早々に踵を返した雲雀は、綱吉の手帳を今一度示すように振り、元あった場所に捻じ込んでしまった。
 綱吉は動けない。中空で握った拳を悔しげに振り下ろし、その勢いで地団太を踏む。力の抜けた腕から鞄が抜け落ち、ファスナーの隙間から中身をばら撒いて地面に沈んだ。
 雲雀は振り返らず、来た時同様に足音も立てず校舎の中へ消えていった。黒い学生服の腕章が視界から外れ、綱吉は重い溜息を零して拳を解きそれを口元に押し当てる。
 皮膚に感じる息が熱いのは、並盛中学最強の人物を前に興奮したからだと信じたい。僅かに火照った身体を持て余し気味に、綱吉は今頃になって赤くなった顔を俯かせ、膝を折って落とした鞄と中身を拾い上げた。
「なにやったんだ、お前」
 同じく雲雀の背中を見送った一年生の風紀委員が、綱吉の傍まで戻って来て遠くを見ながら尋ねる。
「俺が聞きたい」
 半ば投げやりに言い返し、綱吉は鞄のファスナーを閉めて立ち上がった。