Sulky

 緋色の絨毯が敷かれた階段を、一歩、一歩ゆっくりと下る。
 爪先が埋もれてしまうくらいの毛足を踏み付けて降り立った玄関ホールで、ユーリはふむ、と鷹揚に頷いた。
 壁際に飾られた古時計の振り子が、今日も安定したリズムで左右に揺れていた。まん丸い愛嬌たっぷりの文字盤と、左手首に巻き付けた腕時計とに差が無いのを確かめて苦笑を漏らし、高い天井からぶら下がる豪奢なシャンデリアを何気なしに見やる。
「頃合いだろう」
 程良く空腹を訴える身体を反転させて、右手に迫る壁に近付く。ダンスパーティーでも開けそうな空間から抜け出し、観音開きの扉を潜り抜けたところで、彼は静かに足を止めた。
 灯りが最小限に絞られたホールから、いきなり光溢れる明るい場所に出たのだ。あまりの明度の違いに驚き、右腕が自然と顔を庇って持ち上がった。
 黒一色の袖が視界の大半を埋め尽くした。奥歯を噛んで眼を焼く閃光に耐え、瞳が明るさに慣れるのを待ってひとつ息を吐く。
 安堵に肩を落として腕を垂らした彼の前方には、古めかしく荘厳だったホールからは想像もつかない、近代的な世界が広がっていた。
 最高級品のスピーカーが四方に設置され、前方中央には巨大なスクリーン。投影機は邪魔にならぬよう天井に収納されており、操作パネルは壁の一画に。
 ちょっとした映画館のようなものだ。他にも音楽や映像を楽しむための設備が、それこそ財を惜しまず取り揃えられていた。
 クラシックからパンクロックまで、多種多様な音楽ディスクが壁一面を埋め尽くし、その合間に何故か超合金フィギュアが飾られている。壁一面を埋めるモニターには何も映し出されておらず、白いスクリーンは背景と同化していた。
 その向かい側に置かれたソファに、青色の塊が見えた。
「スマイル?」
 入り口に立つユーリに右半身を向けて、男がひとり座っていた。膝ほどの高さしかないテーブルを前になにやら神妙な顔をして、忙しく手を動かしている。
 ユーリの存在に気付いていないのか、視線は手元に固定されたままだ。
「?」
 この距離では、何をしているのか分からない。反応がないのを訝しみながら、ユーリは後ろ手に戸を閉めた。
 ぱたん、と大きくもないが小さくもない音が響いた。だがそれでも、広大なリビングに陣取る男は顔を上げなかった。
 いつもなら一寸の物音でも瞬時に反応して、嬉しそうに笑う癖に。
 顔の半分を包帯で覆い隠した男にゆっくり歩み寄って、ユーリは彼が何故人を無視しているのか、その理由に気がついた。
「ヘッドホン」
 猫背に座っている男の耳には、外部の雑音を一切排除してしまえるくらいの大きなヘッドホンが装着されていた。
 細いコードは蛇行しながらテーブルに伸びて、小さな機械に繋がっていた。掌サイズのそれが、最近流行の音楽再生装置だというのは、デジタル機器に弱いユーリでも理解出来た。
 ほぼ真後ろまで行っても、音漏れしない設計なのかメロディーは聞こえて来ない。耳を澄ませても同じだ。そしてスマイルは、この近さでもユーリを振り返ろうとしなかった。
 器用に動く指先が、熱心にプラモデルを組み立てている。細かいパーツが幾つもテーブルに散らばって、その中心にロボットの下半身が生えていた。
 真剣な顔をして、非常に熱心に取り組んでいるようだった。創作活動にも、これくらい情熱を傾けてくれても良かろうに。
 最近少しサボり気味の彼に肩を落とし、ユーリは首を振った。
「スマイル」
「……んー?」
 どうせ聞こえていないだろうと思いつつ、一応呼び掛けてみる。すると予想に反し、返事があった。
 相槌のなり損ないでしかなかったが、確かに彼はユーリに反応した。今まで全く相手にせず、居ないものとして扱って来ていたのに。
 吃驚して声も出せずにいるユーリの前で頭を揺らし、スマイルが作り終えたロボットの腕をテーブルに置いた。返す手でヘッドホンを掴み、頭から外して首に引っかけた。
 途端、シャカシャカと音が溢れ出した。軽やかなメロディーラインにハッとして、ユーリは胡乱げな眼差しに睨み返した。
「気付いていたのなら、返事くらいしたらどうだ」
「したヨ?」
「む……」
 無性に苛立ちが募って、踏み止まりきれずに苦情を申し立てる。だが確かにスマイルの言う通り、彼は呼び掛けには返事をした。
 言いがかりをつけたのは自分の方だと指摘されて、ユーリは仄かに顔を赤くした。
「っつ、つべこべ言うな」
「はいハーイ。んで、ユーリ。ボクになにか用?」
 ただ自分の落ち度を正直に認めるのは癪で、つっけんどんに言い返してしまう。声を荒らげた彼に、しかしスマイルは淡々とした態度を崩さなかった。
 ソファの背凭れに肘を置き、首を傾げながら問い返された。下から覗き込んでくる隻眼に言葉を詰まらせ、ユーリは喉を引き攣らせた。
 用、と言われても困る。実際の所、用と呼べるようなことは何も無かった。
 ただ傍にいるのに、存在に気付いて貰えなかったから、話しかけただけ。つまり目的は既に達成されている。無理に話題を探し出し、会話を続ける必要性はどこにもない。
「いや、それは」
「用が無いなら、イイかな。今ちょっと忙しいカラ」
「む……そうか。それはすまなかった」
 口籠もったユーリを一瞥して、スマイルがヘッドホンに手をかけた。伸びのある女性の歌声は、ユーリの返事を待たずして途絶えた。
 背を向けられて、拒絶された気分になった。元々スマイルの邪魔をしたのは自分であり、こうなるのは当然の帰結とはいえ、胸のもやもやは晴れない。
「スマイルのくせに」
 小さく呟き、ユーリは拳を作った。威勢良く振り回して、ソファを回り込んで歩き出す。
 壁の時計は夕飯時を指し示していた。だがダイニングテーブルには食器のひとつも並ばず、一輪挿しの花瓶が寂しそうに佇んでいるだけだった。
 普段なら、もうとっくに専属コックが温かな食事を供してくれている時間帯だ。だが見る限り、まだ何の準備も出来ていない。
 無駄に横長いテーブルに呆然としてから、ユーリは後ろを振り返った。遠く、ソファに座るスマイルが見える。相変わらずプラモデル作りに夢中で、視線を気取りもしない。
 妙だ。
 さっきから腹の辺りで違和感が渦を巻き、悶々として落ち着かなかった。
 いつもなら。
 そう、いつものスマイルなら、夕食がまだ出来上がっていないと先に教えてくれた筈だ。それ以前に、ユーリがリビングの扉を押し開けた段階で嬉々として話しかけて来たに違いない。
 だのに今日に限って、それが無かった。
「…………」
 鬱陶しいくらいに五月蠅い男が、馬鹿みたいに静かにしているのは変な感じだった。だが偶々かもしれなくて、プラモデルに集中しているスマイルから顔を背け、ユーリは目に入りそうだった前髪を払い除けた。
 誰だってひとりになりたい時がある。考えすぎだと自分を慰め、彼は台所まで足を伸ばした。
 ノックして戸を開き、中を覗き込む。コンロの前で忙しそうにしている緑髪の男は、スマイルと違って直ぐにユーリに反応した。
「あっ、申し訳ないッス、ユーリ。もうちょっと時間かかりそうッス」
「そのようだな」
 ドラマー兼料理人のアッシュの悲鳴に、ユーリは苦笑混じりに頷いた。
 作業台の上は散らかり放題で、皿の一枚も置くスペースがない。片手で木べらを操りながら、エプロンに三角巾姿の狼男は申し訳なさそうに頭を垂れた。
 買い物に手間取った所為で帰宅が遅れ、もれなく夕食の開始時間も後ろ倒し。早口に告げられた言い訳に肩を竦め、ユーリは今夜のメニューを覗こうと首を伸ばした。
 床に置かれた小麦の袋を避けた彼に目を細め、アッシュは鍋を揺らした。
「スマイルから聞かなかったッスかー?」
「なにを」
「カレーだって言ったら、大喜びしてたッスから」
「……そうなのか?」
 飄々としながら会話を広げて、思い出してクッと喉を鳴らす。だがユーリに不思議そうに訊き返されて、彼は手を止めた。
 怪訝な顔で振り返られて、ユーリはむっと口を尖らせた。
「なんだ」
「いや、なんだか珍しいッスね」
 夕飯の開始が遅れるのも、メニューが何であるのかも。アッシュはリビングにいたスマイルに全部伝えてあった。
 だからてっきり、彼がユーリにも、伝言ゲームの要領で知らせているとばかり考えていた。思い込みは誤りだったと知って、アッシュは緩慢に頷いた。
 このお人好しの狼男もまた、スマイルがユーリに話しかけなかった事実に疑問を抱いたようだ。それくらい、あの男はユーリに対してずけずけと遠慮がない。嫌になるくらいに鬱陶しくまとわりついて来るのが、スマイルという男だった筈だ。
 それが、どういう風の吹き回しか、今日に限って不気味なほどに静かで大人しい。
「出来たら連絡するッスよ」
「頼む」
 カレーの完成まで、まだ暫く掛かりそうだ。完成するまで台所で待つわけにもいかず、ユーリはアッシュの申し出を有り難く受け取って部屋を辞した。
 開けた扉を背中で閉めて、大股で足を前に繰り出す。ずんずん進めば、リビングテービルまで数秒だった。
 ソファの横を抜ける瞬間、横を窺う。スマイルは依然下ばかり見て、ユーリに一瞥もくれなかった。
 ちらりと盗み見るくらいすればいいのに、それもない。絨毯に左の踵を突き刺して、彼は奥歯を噛み締めた。
「部屋に戻る」
「はーい」
 短く言えば、返事はあった。だからスマイルは、ユーリに気付いていないわけではない。声も聞いているし、気配もちゃんと察知している。
 だが会話はここで途切れた。昨日までなら、彼は別れ際のアッシュと同じ台詞を言ってくれただろうに。
 あるはずだった、けれど実際には起こりえなかった会話を想像して、ユーリは歯軋りした。
 部屋に戻る。分かった、じゃあ出来たら呼ぶネ。
 たわいない、短いやり取り。けれどスマイルの、ユーリに対する感情が良く分かる受け答えが、昨日ならばきっと得られた。
 一日と経たない間に、彼の心境にどんな変化が産まれたのか。
 やり場の無い怒りがどんどん膨らんで行って、ユーリは握った拳を震わせた。
 人を無視して玩具に夢中になっている男をキッと睨み、小刻みに揺れる右手を頭上高くに掲げ、勢いよく振り下ろす。
「いだっ」
 ボカッ、というあまり小気味がよいとは言えない音と一緒に、プラスチック製の何かが折れる音がリビングに響き渡った。
 丁度組み終えたばかりの腕を胴体にセットするところだったスマイルは、突如後ろから襲いかかってきた一撃を避けられず、まともに喰らって前のめりに倒れ込んだ。
 あと一寸で完成だったロボットを、加減を忘れて握り締める。バランスを取る為に両手は左右に広げられて、くっつく筈だったものは二度と結ばれない哀れな末路を辿った。
 根本でぽっきり折れてしまったロボットの左腕に遅れて気付き、スマイルは声にならない悲鳴をあげて飛び跳ねた。
「ちょ、ユーリ。何するのサ……って。イタっ」
 立ち上がって文句を言おうとした矢先、もう一発振り下ろされた。
 浮かせた腰をソファに戻し、三発目を避けてスマイルが距離を取る。隻眼にうっすら涙を浮かべた男を睥睨し、ユーリは荒々しく鼻息を吐いた。
「五月蠅い、黙れ。スマイルのくせに、気持ちが悪い」
「なにそれ、酷い。大人がロボットで遊んで何が悪いのさ」
「そんなのは知らん!」
 面と向かって罵倒されて、殴られた分の怒りも加算してスマイルが牙を剥いた。だがその怒号を一蹴して、ユーリは肩を怒らせ、険しい表情を作った。
 微妙に噛み合わない会話に眉を顰め、スマイルが修復可能か微妙なロボットを小突く。
 こんな時でも玩具を優先させる彼に、ユーリの堪忍袋の緒が音を立てて千切れた。
「もっと私を気にしろ!」
 憤りに任せ、叫ぶ。
 その城中に轟く程の絶叫に、
「……ハイ?」
 唾を飛ばされたスマイルが変な顔をして首を捻った。
 台所の方からも大きな音がしたが、ふたりは気付かなかった。荒い息遣いで肩を上下させるユーリに見入り、スマイルが隻眼を細めて難しい顔をする。
 珍妙な沈黙が流れて、数秒後。
 先に我に返ったユーリの頭がボンッ、と破裂した。
「ユーリ?」
「ち、ちちちち、ちが、ちがう。そうではない、そうではなくてだな」
 吃驚して目を丸くしたスマイルの前で、激しく狼狽して声を上擦らせる。あわせて両手を振り回す吸血鬼を不思議そうに見つめて、包帯まみれの透明人間はずり落ちたヘッドホンを外した。
 コードを引っ張って小型プレイヤーを引き寄せ、停止ボタンを押す。喧しかった音は一気に遠ざかり、ユーリの乱れた呼吸ばかりが耳朶を打った。
 合いの手は一切入らず、黙って次の言葉を待たれるのは辛い。二の句が継げなくて口籠もっていたら、眉間の皺を解いたスマイルが嗚呼、と手を叩いた。
「拗ねてたノ?」
「ちがう!」
 プラモデルに夢中になりすぎて、愛想悪く接してしまったのを今更ながら思い出して頷く。図星を言い当てられて、ユーリは反射的に怒鳴った。
 そんなわけがない。
 そんな筈がない。
 単に違和感を覚えただけだ。不自然さが気に入らなかっただけだ。
 万が一にも玩具如きに負けたとは、思いたくもなかった。
 高すぎるプライドが邪魔をして素直に認められずにいる彼に相好を崩し、スマイルが久しぶりに笑った。くく、と喉を鳴らして声を押し殺し、白い歯を見せて頬を引き攣らせる。
 含みのある表情に頬を膨らませ、ユーリはもう一発殴ってやろうと利き腕を振り翳した。
 それを軽々と避けて、スマイルは両手を広げた。
「こ、こらっ」
「はいはい、仕方がないナー、ユーリは。良い子、イイコ」
「馬鹿、止めろ。放さんか」
 腕を振り抜いた状態でバランスを崩した彼を抱き締め、幼子をあやす仕草で頭を撫でてやる。よしよし、と銀髪を掻き回されて、ユーリは地団駄を踏んで暴れた。
 華奢な体躯をしているくせに、意外に力は強い。振り解けなくて、ユーリは奥歯を噛み締めた。
 悔し紛れに肩を殴りつけるくらいしか出来ない。当然痛いだろうに、スマイルは奇妙にも楽しそうに呵々と笑った。

2012/04/20 脱稿