Zinnia

 凪いでいた水面に、波が走った。
 同心円状に広がる水紋の中心に佇み、アリババは空を見上げた。薄闇の中に微かな輝きが見えた気がして、瞬きを繰り返す。
 それは徐々に大きくなり、膨らんで、そして。
「――!」
 爆発する光に押し出される形で、目が醒めた。
 ハッと息を吐き、投げ出していた左手をぎゅっと握り締める。瞠目したまま数秒硬直して、息苦しさに負けて口を開いた彼の視界は灰色の影に埋め尽くされていた。
 握った布の感触に意識を傾けて、アリババはゆるゆる首を振った。
「……ゆめ?」
 無意識のうちに呟いて、シーツを手放して額を撫でる。汗で湿った肌はあまり気持ちの良いものではなく、彼は冷たいものを求めて寝台に顔を押しつけた。
 仄かに香るものがあって、深呼吸と共に胸一杯に吸い込んでやれば、起床時の衝撃で細波立っていた心にも穏やかさが戻って来た。
 四肢の強張りを解き、アリババは大の字になった。大人ふたりが並んでも充分余裕のある巨大な寝台は寝心地も抜群で、ぐだぐだするには最高の場所だった。
 このままずっと、こうして横になっていたい。自堕落な自分がむくりと首を擡げて、意識を乗っ取られそうになった彼は慌てて寝返りを打ち、仰向けに体勢を作り変えた。
 その最中、触れる筈の物に行き当たらなかった事実に息を呑む。
 昨晩、自分は此処で、誰と、何をしていたか。
 一連の出来事まではっきりと思い出して、彼は大粒の眼を見開いて勢いよく起き上がった。
 独り寝には大きすぎる寝台の真ん中で上半身を起こせば、胸元に残っていた布が重力に引っ張られて腰元までずり下がった。お陰で下半身の、あまりじっくり見たいとも思わない場所が隠されたのだが、彼はその辺りには頓着せずに首を左右に巡らせた。
 高い天井と、白い壁。所々に配置された家具や調度品はどれも豪奢で、且つ珍しい品々で占められていた。
 窓から差し込む光は薄く、まだ夜明け前というのが窺い知れた。もう暫くしたら、一番鶏が鳴く頃か。夜通し警備に当たっている衛兵等の瞼も、かなり重くなっているに違いない。
 枕元にあったランプの火は消えて久しく、表面はすっかり冷え切っていた。アリババが身を預けていた場所だけが僅かな体温を残すばかりで、まるで世界に自分ひとりだけが取り残されたような錯覚を抱かされた。
「さむ」
 呟き、彼は急いで足許に集められていた掛け布団を引き寄せた。絹のように滑らかな触り心地のそれは、緑射塔の食客向けに供されているものよりもずっと上質なものだった。
 蓑虫のように布を全身に巻き付け、肩まですっぽり覆い隠しても尚寒い。身震いして奥歯を噛んだ彼は、カチリと鳴った音に重なる形で響いた物音に顔を上げた。
 急ぎ左を向いてから、違ったかと右に向き直る。寝台に座り込んだまま注意深く闇を探った彼の瞳に、うっすらと影が浮かび上がった。
 光に乏しい環境に、ようやく目が慣れた。よくよく見ればそれは、先ほどから探し求めていた人の背中に他ならなかった。
 直接床に座り、前屈みになって何かに集中している。最初は眠っているのかと危惧したが、時々肘や肩が動くので、一応意識はあるようだ。
 何をしているのか、背を向けられているのでアリババには分からない。首を傾げ、十秒ばかり逡巡した後、彼は覚悟を決めて脚を伸ばした。
 そろり、冷たい床に爪先を下ろす。
「ひっ」
「……む?」
 瞬間、足の裏が凍り付くかという衝撃を受けて、彼は引き攣った声を上げた。ぶわりと膨らんだシーツが床に落ちて、居竦んだアリババを気取った男が警戒も露わに振り返った。
 白い布で全身を覆い隠した少年を暗闇に見出し、長い髪を揺らした男は一瞬の間を置いて相好を崩した。
「起きたのかい」
「えっと、まぁ、……はい」
 腰を左に捻った状態で笑いかけられて、何故か気まずい気分になってアリババは言葉を濁した。曖昧に返事をして小さく首を振り、裾が長いドレス状態になっているシーツを引きずって歩き出す。
 近付いて来る影に目を細め、男は一寸困った顔をして頭を掻いた。
「参ったな」
 そうひとりごちるのが聞こえて、アリババは首を傾げた。
 傍に行く前に許可を求めるべきだったかと考えて、少し切なくなる。今ならまだ間に合うかと、出しかけた右足を引っ込めた少年に気付いて、彼は大慌てで首を横に振った。
「いや、違うんだ。……いいよ、おいで。アリババくん」
「シンドバッドさん」
 もしや国の根幹に関わる重要な案件に頭を悩ませていたのかと、所詮は食客でしかない身分に遠慮したアリババに言い直し、シンドバッドが右手を揺らした。正式に招待を受けて安堵の息を吐き、少年は琥珀色の目を嬉しげに細めて微笑んだ。
 昼の太陽を思わせる華やかな金色に、黎明時の部屋がほんのり明るくなった気がした。寝起きで気が緩んでいるのもあるだろう、アリババは幼い子供みたいにはしゃいで、ぺたぺた足音を響かせながらシンドバッドの後ろに立った。
 交差させた両手でシーツの端を握り、座っている男の膝元を上から覗き込む。
「うわ……」
 そこに積み上げられていたものに、彼は眩しそうに目を細めた。
 宝物庫から引っ張り出して来たのか、見事な金、銀細工の品が多数、無造作に並べられていた。
 首飾りに指輪、腕輪が多く、中には小さめの王冠まであった。それらの下敷きという憂き目にあっているのは、鞘からして立派な造りの剣だ。アリババが愛器としているような短剣から、シャルルカンが愛用しているのに似た曲刀まである。そのほか、女性が身につけるような髪飾りや、どういった目的で使用するのか見当もつかない装飾品もあった。
 これら全てを売りに出したら、いったい幾らになるのだろう。思わず下世話な想像をしてしまい、アリババは緩みかけた頬を慌てて引き締めた。
 表情を作り直して、改めてシンドバッドに目で問い掛ける。
「どうしたんですか、これ」
「俺が昔使っていたものだよ」
「へえ」
 後ろから右隣へ移動して、アリババは膝を折った。裾を踏まないよう注意しつつしゃがみ込み、両手を解放して頬杖をつく。
 物珍しげな顔をしている少年を横に見て、シンドバッドは大きな赤い石が嵌った指輪を抓み取った。
 彼は七海の覇王とも呼ばれる、新興国家シンドリアの国王だ。七つの迷宮を攻略し、七体のジンを従える、まず間違い無くこの世で最も強い男。
 その屈強な体躯を惜しげもなく晒している彼を一瞥し、アリババは布でぐるぐる巻きにした自分の腹を撫でた。
 一時期に比べれば格段に贅肉は減っているが、隣に座る男と並ぶとまだ不十分だと思わせられてしまう。シンドバッドレベルは無理でも、せめてシャルルカン並みにはなりたいと思っていたら、不意に顔の横で影が動いた。
「ん?」
 なにかと思って目を瞬いたアリババの前に、ずい、と赤い大きな石が突きつけられた。
「これとか、どうかな」
「はい?」
 鼻に当たる近さまで持って来られて、ぎょっとなった彼を無視してシンドバッドが呟く。いったい誰に話しかけているのか分からなくて唖然としていたら、覇王は数秒の後に口を尖らせ、不満顔で手を引っ込めた。
 遠ざかる指輪を目で追って、貴金属の山に戻されたところでアリババはシンドバッドに視線を向けた。だが目は合わなかった。彼は左手で頻りに顎をなぞりながら、思案顔で宝石を手で掻き混ぜ続けた。
 先ほどの問い掛けが自分に向けられたものだったのか、違うのか、それすらも判然としないまま放置されて、アリババの眉間に皺が寄った。
 だが話しかけようにも、妙な雰囲気に躊躇せざるを得ない。仕方無く押し黙って待っていたら、落ち着きなく動いていたシンドバッドの指が唐突に止まった。
 いったい彼はいつから、こうして床に座って宝物を掻き混ぜていたのだろう。少しは眠れたのかと、昼間の多忙ぶりを振り返って、アリババは首を傾げた。
 アリババが寝入る瞬間までは、彼もまた寝台で横になっていた。それは間違い無い。しかも比類無き力を発揮する金属器も、逞しい肉体を覆う衣服の一切もかなぐり捨てた状態で、だ。
 横顔を見つめているうちに思い出してしまい、ついカーッと赤くなったアリババを知らず、彼は長い睫毛を揺らしてなにやら小声で呟いた。
 殆ど音になっていなかったので、気配だけは感じられたが内容までは聞き取れない。アリババは瞬きを二度繰り返して首を捻り、金銀財宝の山から引き抜かれた銀色の腕輪に眉を顰めた。
「シンドバッドさん?」
「手を出して」
 さっきからいったい何をしているのか、未だ目的も理由も教えて貰えないでいる。いい加減説明して欲しくて声を高くした彼を遮り、シンドバッドは心持ち嬉しそうに言った。
 己の意向が無視される状況は、面白く無い。だが反抗する気も起こらなくて、アリババは諦めに近い心境で左腕を差し出した。
 シーツからはみ出た白い腕は、十八歳間近という年齢を考えれば、些か細過ぎだった。
 もっとも彼が剣を取って戦う道を選んでから、まだそう歳月は経っていない。迷宮を攻略するまでは荷運びの仕事をしていたと言うが、それも手綱を握って車を操縦するのがメインであり、肉体労働を避けていたのならば致し方ない結果だろう。
 未成熟、という言葉が良く似合う手を見つめて、シンドバッドは唐草模様が彫り込まれた腕輪を握り締めた。
「あの」
 そして戸惑うアリババの腕に、それを装着させた。
 途端左手首がずっしり重くなり、支えを失った肩がガクン、と一気に低くなった。前のめりに倒れそうになったのをすんでの所で回避して、彼は浮かせていた膝を床に衝き立てた。
 その余波で折角嵌めて貰った腕輪が上下に揺れ動いて、最終的に手首を通り越して親指の付け根まで滑って行った。
 今にもすっぽ抜けて床に落ちそうな代物に、ふたり揃って唖然となる。
「うーん、大きいか」
「当たり前でしょう。シンドバッドさんの腕と、俺とじゃ、太さが全然違うじゃないですか」
 笑顔が崩れ、気難しい表情になったシンドバッドの前で悪態をつき、アリババは邪魔でしかない腕輪を外した。
 装飾品としては一級だが、アリババが身につけるものとしては分不相応と言わざるを得ない。こうも動き回られたら、左手の自由が制限されていざという時に対処出来ないではないか。
 剣を持って戦う身分でなければ構わないかもしれないけれど、アリババは迷宮を攻略した身。ジンの金属器を得ておきながら戦場に出ないというのは、本末転倒も良いところだ。
 年季が入った腕輪を突っ返されて、シンドバッドは苦笑した。
「そうか。それもそうだな」
 相槌からは、あまり反省の色が窺えない。照れ臭そうにも見える表情に顔を顰め、アリババはシンドバッドに倣って床にぺたりと座り込んだ。
 胡座を掻こうかとして、自分の格好を思い出して急いで膝を閉じる。肩からずり落ちた布を、腰に二重に巻き付けた少年を笑って、シンドバッドは胸を張って背筋を伸ばした。
 誰が見ても立派だと褒め称えてくれそうなイチモツを出来るだけ見ないようにして、アリババは苦々しい顔で奥歯を噛んだ。
「さっきから、何してるんですか」
 遠慮して聞かなかった自分も悪いかと思い直して、咳払いを挟んで問い掛ける。
 シンドバッドは再び財宝の山に手を突っ込んで、指に触れたものを掴んではじっと見つめ、落胆の息を吐いては投げ捨てていた。
 小さな指輪ひとつでも、家が一軒買えるくらいの額はするだろうに。あまり見習いたくない金銭感覚に肩を竦めていたら、またもや手を出すよう指図された。
 答えが得られぬまま、今度は金の指輪を中指に嵌め込まれた。だがこちらも、アリババには大きかった。
 元々シンドバッドのサイズで作られたものなのだから、当たり前の話だ。立て続けの失敗にいい加減王も悟ったようで、次に差し出して来たのは目にも眩しい金の首飾りだった。
 細い鎖を繋いで作った輪が合計三本、緩く絡み合っている。派手さはあまり無いが、鎖を形成する輪ひとつひとつがとても小さくて、精緻な造りになっていた。
 僅かな光をその身に集め、きらきらと眩しい。アリババの髪の色に似た輝きに、シンドバッドも心なしか嬉しそうだった。
「どうかな?」
 それを手にしたまま訊ねかけられて、アリババは返答に詰まって息を呑んだ。
 どうか、と聞かれたら綺麗です、としか答えられない。だがシンドバッドが欲しがっている返事は、そんな類のものではなかろう。
 これまでの流れから類推するに、彼はこの首飾りをアリババに身につけて欲しがっている。しかしいったい、何の為に。
 それが分からない事には次の行動に出られなくて、硬直してしまった彼に眉を寄せ、シンドバッドは自嘲気味な笑みを浮かべた。
 説明が足りていなかったと今頃気付いて、浮き足立っていた自分を反省して微笑む。
「君はもうじき、行ってしまうからね」
「……」
 声は掠れて、今にも消えてしまいそうな儚さだった。
 寂しげな呟きに、またもや返事が出来ない。首を縦に振るのさえ躊躇させられて、アリババは答える代わりにじっとシンドバッドの目を見つめ続けた。
 真っ直ぐな眼差しに肩を竦め、王たる男は若かりし頃に集めた品を愛おしげに撫でた。
 数日後、アリババはシンドリアを発つ。紅玉や白龍のように、故郷に帰る為ではない。レームに行き、剣闘士になる為だ。
 原因は不明だが、アリババが生来持っていた魔力の質が、以前とは全く異なるものに変容してしまったという。彼が武器化魔装より先に進めないのも、己の魔力を思うように扱えないでいるのが理由と考えられた。
 だがこの先、ジンの金属器所有者として戦いに挑み、生き延びる為には、全身魔装は必要不可欠。
 どうすればこの難問をクリア出来るか。アリババが出した結論は、ヤンバラに師事を乞うことだった。
 世界各地を転々としている謎の一族の所在を掴むのは、シンドバッドであっても難しい。だからこそ、アリババはレーム行きを決めた。
 剣闘士になれば武者修行にもなるし、同じ目的でヤンバラも必ず現れる。己を鍛え、目的も果たせる。まさに一石二鳥だ。
 決断を語って聞かせた時、シンドバッドは笑顔で応援すると言ってくれた。背中を押してくれたのは彼だ。だというのに哀しそうな顔をされると、決意が鈍る。
 眼差しに過分な想いを詰め込んだ彼を見つめ返し、シンドバッドは照れ臭そうに笑った。
「引き留める気はないよ。君は、一度決めた事は必ずやり遂げる子だからね」
 バルバッドでの出来事を脳裏に蘇らせて、囁く。自分自身に言い聞かせている節もあるひと言に、アリババは頬を緩めた。
 肩の力を抜いて、改めてシンドバッドの手元を覗き込む。気付いた彼が、鎖の両端を持ってアリババの胸元に押し当てた。
 正直、似合わない。格好の所為もあろうが、アリババ自身、こういったじゃらじゃらする類の装飾具はあまり好きでなかった。
 せいぜい、耳に嵌めたピアスくらい。懐かしい面影を瞼の裏に隠して首を振った彼に、シンドバッドは渋々手を戻した。
「気持ちは、嬉しいです。でも受け取れません」
「だけど、ひとつくらいは持って行ってくれないかな」
「俺はもう、シンドバッドさんに沢山、貰っています。これ以上は」
「予備に、と言ってもかな?」
「?」
 小さな声で、しかしきっぱりと言い切ったアリババに、けれどシンドバッドも諦めない。食い下がる彼に尚も言い募ろうとしたアリババは、どこか意地悪に響くひと言に首を傾げた。
 言っている意味が巧く理解出来なくて、怪訝な顔をして黙り込む。考えていると分かる表情に目を眇め、シンドバッドは自分の手首を撫でた。
 今は何も無いが、普段の彼はそこに大きな腕輪を嵌めている。金属器、フォカロルだ。
 言葉と、行動の意味。なにか繋がりがあるのかと考えて、アリババはハッとした。
 座ったまま大きく身震いした彼に、シンドバッドが優しく微笑む。
「アモンを新しい剣に移し変えるのに、時間が必要だっただろう?」
「それは、……はい」
 小さい子を諭すかのように喋る彼に反論出来なくて、アリババは開いたばかりの口を黙って閉ざした。下唇を浅く噛み、俯いて自分の膝ばかりを見つめる。
 握り締めた両手をその上に置いて、彼は根本で折れてしまった短剣を頭に思い浮かべた。
 シンドリアは、平和な国だ。ここの所少々物騒な話が続いているが、基本的に国内に争いの種はなく、民は国王に厚い信頼を寄せている。
 だがレームは、どうだろう。そこに至るまでの道程も、だ。
 この国から一歩外に踏み出した途端、アリババはシンドバッドの加護を失う。万が一争いに巻き込まれたとしても、自力でどうにかしなければならない。
 その最中で、あの時のように金属器が壊れてしまったら。
 アモンの力を扱えないアリババは、剣術を少々嗜んだ程度の子供でしかない。シンドリアに居る間は日々の鍛錬に精を出し、それだけを考えていられたから良かったが、次は果たしてどうなるか。
「リスクは最小限にすべきだと、俺は思う。なにかあってからでは遅い。常に最悪の事態を想定して、それを回避する方法を念頭に置いて行動すべきではないかな」
 淡々と、抑揚なく告げられる言葉は、王としてのシンドバッドの想いを率直に表現していた。
 国を背負い、民を背負う彼は、日頃から数多の選択肢を準備して動いているのだろう。アリババにだって、それくらい理解出来た。
 けれど、どうしてだか素直に頷けなかった。
 彼の言うことはもっともな話であり、是非とも見習うべきだ。だのに心が拒絶する。胸がざわざわする。凪いでいた水面に波紋が生じ、やがて無数の波となり、大きなうねりと化して中心にいたアリババを飲み込んだ。
 落ちて行く、暗闇の中に。
 無意識に伸ばした手の先で、六芒星が刻まれた短剣が砕ける――
「っ!」
「アリババくん?」
 ひと際大きく身を震わせた彼に、シンドバッドが眉を寄せた。心配そうに名前を呼ばれて、伸びて来た太い指をアリババは咄嗟に掴んだ。
 冷えている指先で強く握られて、反射的に引っ込めようとしたシンドバッドは自制を利かせて踏み止まった。
 俯き、肩を上下させ、苦しげに息継ぎをしたアリババは唾を飲んでかぶりを振った。
 シンドバッドの言い分は正しい。なにも間違っていない。だが納得出来なかった。
 壊れる前から、壊れた後の話はしたくなかった。それではダメだと分かっていても、頭が、心が、結末を思い描くのを拒絶した。
 荒い息を吐き、きゅっと唇を引き結ぶ。
 金属は劣化する。
 使い続ければ摩耗する。
 いつかは、壊れる。
 それでも。
「やっぱり俺は、受け取れません」
 決意を込めて、言い放つ。毅然と顔を上げた彼に驚き、シンドバッドが目を丸くした。
 ここまで反抗されると予想していなかったようで、左の頬がヒクリと痙攣するのが分かった。絶句して言葉が出ないでいる彼を真正面から見据えて、アリババは宝物庫で故国縁の剣を授かった瞬間を思い出し、奥歯を噛み締めた。
「シンドバッドさんの言いたい事は、分かります。でも、折れないって思いたい。俺は、あの剣は、絶対に折れないって」
 もしアモンの星を宿す短剣が、その辺のバザールで買ったような代物だったとしたら、迷わず彼の申し入れを受けていたに違いない。いつ壊れても良いように、代替となるものを準備して旅立ちに臨んだだろう。
 しかしあの短剣は、そうではない。
「アリババくん……」
 困惑を前面に押し出したシンドバッドを見上げ、彼は意識して力みを解いた。前のめりだった体勢を戻し、背筋を伸ばして胸を張る。
 黄金色をまとった少年の微笑みに、国を背負って立つ男は眩しそうに目を細めた。
「俺の、前のあの短剣は、俺と、親父の繋がりだけでした」
 数秒の沈黙を挟み、視線を伏したアリババが訥々と語り出す。言葉を探しながら、膝の上に転がした手を落ち着きなく動かしながら。
 最初は話の展開についていけなかったシンドバッドも、聞いているうちに彼の言わんとしている中身が朧気に見えて来て、茶々を入れることなく黙って耳を傾け続けた。
 いつの間にか日の出の時間が訪れていたらしい。窓からは虚ろな月明かりではなく、鮮やかな陽の光が注がれ始めていた。
「でも、シンドバッドさんに貰ったあの剣は、違う。俺と、親父との繋がりだけじゃない。親父と、シンドバッドさんと。それに、シンドバッドさんと俺との。三つの繋がりが、あるから」
 バルバッドの宝剣、それをシンドバッドに託したアリババの父。そしてバルバッド先王より賜った剣を、その息子アリババに委ねたシンドバッド。
 その因果とも言うべき絆で、アモンの金属器は形作られている。
 壊れるなど、たとえ絵空事だとしても想像したくなかった。
「だから、俺は、……大丈夫です。代わりなんて要らない。欲しくありません」
 絶対に折れないという根拠は無い。未来の事なんて誰にも分からない。だがシンドバッドの意向に逆らうことになっても、こればかりは譲れなかった。
 固い意志を覗かせる琥珀の双眸に息を呑み、シンドバッドは唇を痙攣させた。なにかを言わんとして口を開くものの、逡巡の末に閉ざして肩を竦める。
 ため息をついた彼に目を瞬き、生意気を言ったとアリババは慌てた。
「す、すみません。俺、調子に乗って」
 折角シンドバッド自ら助言をくれたというのに、足蹴にしてしまった。彼が気分を害するのも当然と、首を亀のように引っ込めた少年に苦笑して、世界中を旅して来た男は顔の横でひらひら手を振った。
 気にするな、と目尻を下げて、アリババが安堵の表情を浮かべたところで顔を覆い隠す。
 両手を使って人目から逃れようとした彼の耳は、心持ち赤かった。
「参ったなあ」
「……シンドバッドさん?」
「君にそんなことを言われたら、代わりを持て、だなんて。俺も言いたくなくなるじゃないか」
 心底困り果てた顔で呟かれて、きょとんとしたアリババの顔が三秒後には真っ赤になった。頭の天辺から煙を吐いて、ぶすぶす言わせながら羞恥に喘いで下を向く。
 シーツにくるまった状態で畏まった彼に破顔一笑し、シンドバッドは大きな手で跳ねている金のひと房を押し潰した。
 髪をくしゃくしゃに掻き回されて、圧迫感に負けたアリババが嫌そうに首を振った。膨れ面をして拗ねて睨み返し、つーんとそっぽを向いて口を尖らせる。
 子供じみた可愛らしい態度に笑みを零したシンドバッドは、不意に真顔になって顎を撫でた。
「しかし、そうなると……君の旅立ちを祝すものを、別に考えないといけないな」
「だっ、あ、もう。別に良いですよ、そんなの」
 真剣な様子で悩み始められて、アリババは声を上擦らせた。
 吹き飛んでいきそうな勢いで首を横に振って、赤い顔もそのままに捲し立てるが、聞き入れられない。シンドバッドは腕組みを解かずに半眼して、動いた所為で随分と肌蹴てきたアリババの上半身に見入った。
 所々で赤くなっている絹の肌に唾を飲み、喉仏を上下させていたら、気付いたアリババが大慌てで布の内側に己を隠した。
 首から上だけを露出させた少年を呵々と笑って、シンドバッドは楽しそうに膝を叩いた。
「シンドバッドさんの、スケベ!」
「男が助平でなにが悪いのかな?」
「う、ぐ」
 耳の先まで赤く染めている少年の罵声をさらりと受け流し、逆に問い返して勝ち誇った顔をする。意地の悪い男を前に歯軋りして、アリババは頬を擽ってくる指先から逃げた。
 だが手はしつこく追い掛けて来て、最終的に両側から挟み撃ちにされてしまった。
 行き場を失ったアリババが顔を上げる。悔しげな視線に満足げにして、シンドバッドは尖っている唇に唇を押し当てた。
 軽く吸い付いて音を残し、くちづけ前から一変しているアリババの表情にしたり顔をする。
 頬を朱に染めて恥ずかしそうにしている少年の額に額をぶつけ、彼は瞑目し、口元を綻ばせた。
「君は金属器に成り代わる物も、豪華な宝石も、なにも要らないんだね」
「はい」
 旅銭は必要不可欠だが、度を超した額を持たされても困るだけだ。レームまでの道程は長い。荷物も、極力少ない方が良いに決まっている。
 間近からの問い掛けに、アリババは間髪入れずに頷いた。迷いのない眼差しを垣間見て、シンドバッドは深く頷いた。
「そうか。なら、代わりに君に、予言を贈ろう」
「よげん……?」
「そう」
 厳かに紡がれた言葉に、アリババが訝しげに眉を顰めた。鸚鵡返しの呟きに首肯して、彼は深呼吸を二度繰り返し、上唇を舐めた。
 吐息が掠め合う近さで覗き込んでくる瑪瑙色の瞳に、アリババは緊張も露わに息を潜めた。
 伝わって来る力みに相好を崩し、シンドバッドは目を閉じた。
「予言しよう。君は『ヤンバラ』に魔力操作を学び、今よりずっと強くなって、俺のもとに帰ってくる。――そう遠くない未来に、この予言は必ず果たされる」
 間に一度息継ぎを挟んで、朗々と響く声で告げる。なにを分かりきった事を、と咄嗟に出かかった言葉を押し留めて、アリババは見開いた目を気恥ずかしげに細めた。
 頬に添えられている男らしい手に手を重ねて、
「俺を、嘘つきにさせないでくれ」
「分かってます」
 祈りともとれる懇願に、彼は迷わず頷いた。

2012/04/14 脱稿