まったくもって、あの赤ん坊のやる事は唐突過ぎて、毎回驚かされて寿命が縮む。
アルコバレーノの代理戦争開始から一夜明けて、普段通りに学校に出向いた綱吉たちを待ち構えていたのはなんとディーノだった。
教室に入って来た金髪眼鏡の美青年に、クラス中の女子がざわめき立った。英語担当として赴任してきたと本人は言ったが、それが嘘なのは明白だ。彼はリボーンの企みにより、日中でも綱吉の傍に居られるように学校に潜り込んだに過ぎない。
もっとも、その目論見は早々に、木っ端微塵に砕かれてしまったのだが。
内心ヒヤヒヤしっぱなしの授業は、時間の大半が質問コーナーに割かれてしまった。季節外の新任教師というのもあり、また見た目の麗しさもあってクラスメイトはディーノに興味津々で、英語の教科書を広げるどころの騒ぎではなかった。
そうして案の定、彼の噂は瞬く間に学校内に広まった。
二年生のみならず、三年生や一年生、はたまた購買のおばさんまで巻き込んで、彼の周囲は常にてんやわんやの大騒ぎだった。
明らかに外国人然とした外見なのに、日本語はペラペラ。イタリア出身だというのに英語だけでなくフランス語やドイツ語まで堪能とくれば、女性の注目を攫うのも必然だ。
それまで、学内の人気者といえば獄寺や山本が筆頭であった。だのにたった数時間で、首位の座が見事に入れ替わってしまった。
シャマルが居ない時でよかったと、心底思う。こんな状況を見たら、あの男のことだ、きっとハンカチを噛み締めて悔し涙を流すに違いない。
「こりゃ駄目だなー」
三時間目が終了しての休憩時間、職員室まで出向いた綱吉たちは、群がる女子の群れを前に顔を見合わせて肩を竦めた。
山本が短い髪を撫で回しながら苦笑を浮かべ、獄寺が忌々しげに舌打ちしてそっぽを向く。綱吉はふたりを交互に見上げて頬を掻き、改めて職員室の方角に顔を向けた。
どこから嗅ぎつけてきたのか大勢の女生徒が、スカートが捲れ上がるのも構わずに狭い戸口に殺到していた。
こんな風景、並盛中学校が創設されてから初めてではなかろうか。
飛び交う黄色い歓声に、きちんとした用事で職員室を訪ねて来た生徒が迷惑そうな顔をして通り過ぎて行く。中に入ろうとして尻に弾き出される生徒までいて、傍観者として眺めている分には面白い光景だった。
「無理くさいな」
「だねえ」
悪戦苦闘する知らない生徒に憐憫の目を向けて、山本が呟いた。さすがの彼も、あの集団を掻き分けて、輪の中心にいるだろう人物を引っ張りだすのは難しいだろう。
獄寺はといえば最初から参戦するつもりはないようで、完全に意識は別の場所に向いていた。
元々彼は騒がれるのが嫌いだし、ディーノ自身にも反発している。年上は全部敵だと言い放った時の事を思い出し、綱吉は肩を竦めた。
「どうしようか」
彼が教師として赴任してきた理由と目的は分かる。問題はこの先どう動くか、だ。
行き当たりばったりで勝ち残れるほど甘い戦いでないのは、昨日の時点で痛感した。だから互いの連携を深めるためにも、事前にきちんと打ち合わせをしておきたかった。
代理戦争は既に始まっている。一日一回という制限が設けられているとはいえ、いつ開始が宣告されるのかは不明だ。
早いうちに行動に出るに限る。それなのに、この有様だ。
「そうだなー」
学校中の女生徒からハートを飛ばされている男をこっそり連れ出そうなど、無茶な話だ。向こうから出てきてくれない限り、綱吉たちは手も足も出せない。
状況を打開する策を求めて顔を上げた綱吉に、山本は頭の後ろで腕を組んで目を細めた。
「まあ、なんとかなるんじゃね?」
「けっ」
事態は一刻を争うというのに呑気に笑った彼に、獄寺が聞こえる音量で舌打ちを打った。けれどそんな態度はいつものことと、山本は気にする様子もなく呵々と声を響かせた。
間に立たされた綱吉は肝を冷やし、喧嘩に発展しなかったのにホッと胸を撫で下ろした。
「でもなあ」
この調子では、放課後になってもディーノが解放されることはなさそうだ。第一、教員は生徒と違って授業のあとも仕事がある。見た限り、部下が学内に潜り込んでいる気配もなく、不安は募る一方だ。
途方に暮れてため息をついて、綱吉は天を仰いだ。
本当に大丈夫なのだろうか。
部下がついていないと綱吉を上回るダメっぷりを披露するディーノは、困ったことにその体質を自覚していない。今日だって既に、綱吉達が把握している限りで三度も転んでいる。そのうちとんでもない失敗をしでかすのではないかと考えると、胃がきりきり痛んだ。
兎も角、できるだけ早くディーノと接触しなければいけない。
「うーん……」
しかし目の前で繰り広げられている壮絶な争いを見て、職員室に突撃する勇気など、とても持てなかった。
低い声で唸り、綱吉は首を振った。胃が痛んだついでに、尿意まで催してしまう。
「俺、トイレいってくる」
「十代目、お供します」
「いいよ、そんなの」
ぶるりと来た悪寒に鳥肌を立てて、その場で足踏みをしながら告げる。すかさず獄寺が敬礼のポーズを作り、付き従う旨を表明したが、綱吉はきっぱりと断った。
女子ではあるまいし、連れ立ってトイレに行くなど恥ずかしい。一秒たりとも逡巡を挟まず、即答だった彼に山本が楽しそうに笑った。ショックを受けた獄寺はただでさえ色の薄い髪を真っ白にして、哀しげに鼻を愚図らせた。
なんとも哀愁を漂わせる姿に同情を抱きそうになって、綱吉はぐっと腹に力を込めた。
ここで甘いところを見せたら、彼は調子に乗って個室にまでついてこようとする。忠義心も、度を越せばただのストーカーだ。
「先に教室戻ってて」
「分かった」
この休み時間内にディーノを捕まえるのは無理そうだ。早々に見切りをつけて、山本は手を振った綱吉に頷いた。
まだ落ち込んでいる獄寺の肩を叩き、背の高い青年が人ごみを避けて歩き出した。一方の綱吉はというと、ここから一番近いトイレに向かおうと、職員室の人だかりを掻き分けながら廊下を突っ切った。
ごった返している出入り口前をすり抜ける瞬間、視線を感じたような気がしたが、誰のものかは分からない。振り返っても女子の背中ばかりが見えて、呼びかける声もなかった。
首を傾げて暫く立ち止まるが、近付いて来る人影はない。気の所為だったのだと判断して気を取り直し、彼は歩き出した。
足早に雑踏を抜けて、一気に人気の減った廊下に安堵の息を吐く。
辿り着いたのは一階の端にある、教職員専用のトイレだった。
本来は生徒の使用が禁じられているのだが、緊急事態なので許してもらおう。誰も来ないのを左右見回し確かめて、綱吉は若干ドキドキしながらドアを開けた。
タイル張りの壁はひんやり冷たく、扉一枚を隔てただけで廊下とは別世界だった。
照明は節電の為に消されており、若干薄暗い。窓は小さく、手の届かない高さにあった。
小用用の便器が左手に四つ並び、反対側に個室がふたつ。出入り口に近い場所に白い陶器製の手洗い場がみっつ用意されて、それぞれの前には磨かれた鏡が飾られていた。
幸いにも、先客はいなかった。
「さむっ」
ほっとしたら尿意が戻って来た。内股で震えて己を抱き締め、綱吉はさっさと用件を済ませてしまうべく床を踏みしめた。
利用者があまり居ないからか、二階から上の生徒用のトイレに比べてなにもかも綺麗だ。羨ましいと思いつつ、換気扇が回る五月蝿い音を聞きながらことを済ませて手を洗う。
ハンカチを持って来ていないのに気付いたのは、両手を濡らした後だった。
「あちゃ」
しまった、と顔を顰めるがもう遅い。指先から垂れ落ちる水滴に舌打ちして、彼は勢い良く両手を上下に振り動かした。
震動で水気を払い落とすが、完全ではない。残った湿り気の処遇に困って、仕方なくスラックスに擦り付けて乾かそうとしたときだ。
閉まっていたドアが外側から開かれた。
「っ」
ここを使っているのが先生に見付かったら、怒られる。緊張に顔を強張らせて逃げ場を探すが、個室に潜り込む暇はなかった。キィと軋んだ扉から外の光が紛れ込み、綱吉の視界を明るく照らした。
艶やかな金髪に、フレームの太い大きめの眼鏡。他の人が架ければきっとダサいと言われてしまいそうなアイテムを見事に使いこなした歳若い男がひとり、素早く隙間から潜り込むと同時に勢い良くドアを閉めた。
居竦んでいた綱吉は唖然として、扉に寄りかかってずるずる沈んで行くディーノに瞬きを繰り返した。
「ディーノさん?」
「ひー、おっかねー」
吃驚して声を大きくすれば、静かに、と目で合図された。
はっとして両手で口を塞いだら、濡れた感触が冷たい上に気持ちが悪い。即座に外して脇に垂らした綱吉の前で、ディーノは蹲り、疲れた顔をして天を仰いだ。
手を団扇にして首元を仰ぎ、恐らく度は入っていないだろう眼鏡を外す。見慣れた彼が現れて、綱吉は肩を竦めて頬を緩めた。
口ぶりからして、一斉に押しかけて来た女子から逃げてきたと、そんなところだろう。流石に彼女達も、男子トイレまでは入れまい。
耳を澄ませば、出待ちらしきざわめきが聞こえた。
「人気者ですね」
「からかうなよ」
苦笑しながら呟けば、心底うんざりした様子のディーノに怒られた。
人懐っこく、誰に対しても平等に愛を振り撒く彼にしては、珍しい態度だ。それくらいに中学生女子の、パワフルなラブコールに辟易しているということだろう。
獄寺や山本に対しての彼女らのエネルギーも凄まじいものがあったが、ディーノはその倍以上だった。
一度も女子から追い回されたことのない綱吉に言わせれば、羨ましい限りなのだが、モテる男も辛いらしい。
前髪をくしゃりと握り潰して、彼は盛大にため息をついて額を数回叩いた。残る手で掴んだ眼鏡をぶらぶら揺らし、聞き取れないほどの小声でなにかを呟いたかと思うと、急に仰け反って後頭部をドアに打ち付けた。
痛そうな音に、綱吉までもが顔を顰めて首を引っ込めた。
「いって」
「大丈夫ですか、ディーノさん」
「ああ、大丈夫だ。問題ない」
星を散らした彼に手を伸ばしかけて、綱吉ははたと気付いて急ぎ引っ込めた。不審な挙動を見せた彼に小首を傾げ、ディーノはぶつけた箇所を宥めながら身を捩った。
冷たいタイルから尻を浮かせて座り直し、引き攣り笑いを浮かべている弟分を間近から覗き込む。
「ツナ?」
怪訝に名前を呼べば、彼は頬をヒクリとさせて両手を背中に隠した。
乾きつつあるとはいえ、まだ指は湿っている。そんな手で彼に触れるわけにはいかない。
ディーノが美男子なのは知っていたはずなのに、親しくなるにつれてそのことをすっかり忘れていた。今日、彼が教室に入って来た瞬間のような反応こそが正常であり、彼は綱吉のような何の特徴も無い男子が気安く触れて良い存在ではないのだ。
急に遠い存在に感じられた。濡れた手で触って、汚していいわけがない。
「いや、あっ、と」
気軽に話しかけるのさえおこがましい気がしてきて、巧く言葉が紡げない。口篭もり俯いた綱吉に、ディーノは眉間の皺を深めて口をヘの字に曲げた。
もじもじして小さくなっている弟分に眉目を顰め、端整な顔立ちを僅かに歪めて半眼する。
「具合でも悪いか?」
「いえ、違います。なんていうか、その」
「なんだ?」
「ハンカチ、忘れちゃって……」
「ああ、なんだ。そんなことか」
いぶかしみつつ問えば、綱吉は瞬時に顔を上げて、また俯いてしまった。口をもごもごさせながら小声で音を繋ぎ、気の抜けた笑みを浮かべて後ろを振り返る。
鏡に映る姿から一瞬で目を逸らした彼に、ディーノは得心が行った様子で頷いた。
疑問が解けて、すっきりした様子で微笑む。
薄暗い、それでいて一寸ばかり臭う閉鎖空間が、瞬く間に華やかになった。満面の笑みに照れて綱吉が頬を掻く。冷えた指先が火照った肌を掠めて、寒気がするりと忍び寄った。
すくみ上がった彼に目敏く気づき、ディーノが腰を浮かせて後ろポケットを探った。
邪魔な眼鏡は胸ポケットに押し込んで、スラックスからハンカチを取り出す。折り目正しくアイロンを当てられており、恐らくは部下の誰かが持たせたものだろう。
清潔な布を渡されて、綱吉は一瞬の躊躇の末に受け取った。
「有難う御座います」
「こういうのも、男のたしなみだぜ?」
「はは」
ウィンクしながら言われて、綱吉は肩を竦めて笑った。
いつもの、綱吉がよく知っているディーノだ。彼を遠く感じていたのが嘘のようで、心がスッと軽くなるのが分かった。
「今日は、たまたまです」
負け惜しみを言って手を拭い、湿った面を内側に折り返してからつき返す。ディーノはからから笑って肩を揺らし、正方形の布を更に半分に折り曲げてポケットに押し込んだ。
ゆっくり立ち上がり、まだ蹲っている綱吉の頭をぽんぽん、と撫でる。
大きな手が髪の毛を掻き回した。心地よい感触と温もりに、心までもがほんわかと熱を持った。
目を細め、声を殺して笑っていたら、頭の天辺にあった手がするりと後ろに流れた。後頭部に押し当てられた掌に僅かに力が込められる。
よろめき、綱吉はたたらを踏んだ。
「ディーノさん」
「俺に会いに来てくれたんだろ。悪かったな」
「それは、あの。離れて」
引き寄せられて、簡単に抱き締められてしまった。素早く腰に回った腕が背を抱いて、逃げられないように束縛する。
ディーノは背が高い。綱吉の身体は彼の胸に、すっぽり収まってしまった。
こんなところを誰かに見られでもしたら、問題になる。外の様子が気になって肝が冷えて、嫌な汗が流れた。だのにディーノはまるで構いもせず、抵抗を封じ込めて薄茶色の髪に頬を埋めた。
漏れ出た吐息が耳朶から首筋に流れて行った。産毛がざわっと震える。出そうになった悲鳴をすんでのところで飲み込んで、綱吉は奥歯をカチリと噛み鳴らした。
「ディーノさん、離れて」
「いいじゃねーか。どうせ誰も来ねーよ」
全力で押し返すのに、まったく動かない。逃げるどころか益々逃げ道を封じられて、綱吉はあっけらかんと言い放った男の足を、悔し紛れに蹴り飛ばした。
ただしこれも、まるで効果が無い。ディーノは呵々と肩を揺らして笑い、触り心地も抜群の髪の毛に頬擦りを繰り返した。
犬か猫を可愛がっているみたいに触れられて、綱吉は小鼻を膨らませた。
渾身の力を込めて彼の胸を押し、距離を作って肩で息をする。本気の抵抗にディーノもこのままでは不味いと思ったか、渋々両手を解いて綱吉を放した。
自由を取り戻してほっと息を吐き、綱吉は一段と赤味を増した頬をぺちぺち叩いた。
「ツナ」
「っていうか、ここ、学校なんで」
僅かに上擦った声で捲くし立てて、近付こうとする彼の爪先を思い切り踏みつけてやる。薄いスリッパの先端を凹ませて、ディーノは声にならない悲鳴をあげた。
苦悶に満ちた表情で奥歯を噛み締めている彼に溜飲を下げて、綱吉はしたり顔で目を細めた。
「獄寺君と山本とも、話がしたいんで。放課後、時間作ってくれますか?」
授業が行われている真っ最中に、代理戦争開始の宣告がなされない保証はない。かといって、こっそり授業を抜け出して打ち合わせをするのも難しい。
今は何事もなく学校が終わるのを待つしかない。期待を込めて告げれば、ディーノは痛みに歪んだ目を丸くした後、にっと人好きのする笑顔を作った。
「分かった。どうにかしてみるさ」
親指を立てて承諾を声に出した瞬間、廊下からチャイムが鳴るのが聞こえた。
トイレの中にまでスピーカーは設置されていない。ドア越しに響く音色に顔を上げて、綱吉は目を細めた。
「じゃあ、俺、教室戻ります。授業頑張ってくださいね、ディーノ先生」
四時間目の担当教員より先に教室に戻っておかないと、遅刻扱いされてしまう。それだけは避けたくて、彼は会話を切り上げると立ち上がってディーノの肩を軽く押した。
上半身を揺らした青年が、脇を通り過ぎようとする少年を目で追い、無意識のうちに腕を伸ばした。
「ディーノさん?」
気がつけば細い手首を掴んでいた。引き止められた綱吉が、何事かと首を傾げて彼を見上げた。
高い位置にある整った顔もまた、戸惑いに揺れていた。
「いや、……あれ?」
なにかが気になって、それで思わず手が伸びた。しかし捕まえた熱にハッと息を飲んだ瞬間、頭の中にあったものが綺麗さっぱり消え失せてしまった。
自分の行動の原因が全く思い出せず、目を丸くした青年に、綱吉は呆れ混じりのため息を零した。
「授業、遅れますよ?」
仲良く遅刻、となるわけにもいくまい。教員として雇われた以上、ディーノは真面目に授業を執り行う責務がある。
繋がったままの腕を振って囁いた綱吉に、彼は丸くした瑪瑙色の瞳を忙しく瞬きさせた。
間延びした鐘の音が余韻を残して消えて行く。もう猶予はない。幾らか表情に焦りを滲ませた綱吉をじっと見詰め、ディーノは短く息を吐いて小さく首肯した。
「思い出した」
「はい?」
早く放して欲しいのに、思いは伝わらない。
ぽつりと呟いた彼に眉を顰めた矢先、綱吉は再び乱暴に引き寄せられ、力任せに抱き締められた。
爪先立ちを強いられて、激突を回避すべく前に回った両手が胸に挟まれた。窮屈な体勢で息苦しさにかぶりを振るが、両腕を使ってがっちり固定されて抜け出せない。
いつ、誰が来るかも分からないような場所で妙な気を起こすなと、先ほど言ったばかりだというのに。
猫は三日で恩を忘れるというが、馬は果たしてどうなのだろう。首のタトゥーを隠している四角い絆創膏に目を向けて、綱吉は諦めの境地で肩を落とした。
四肢の力を抜いた彼を支えて、ディーノがふっ、と笑った。
「ディーノさん」
「心配しなくても、可愛い教え子には手ぇ出したりしねえから」
「……は?」
なにか面白いところがあっただろうか。笑われる理由が思いつかなくて口を尖らせていたらいきなり耳元で言われて、背中を越えて尻を撫でた手も相俟って、綱吉は素っ頓狂な声を上げた。
目を点にしている弟分に百点満点の笑顔を浮かべて、ディーノが茶目っ気たっぷりにウィンクする。こみ上げてくる感情を隠しもしない彼に、綱吉の顔色は次第に悪くなっていった。
「ディーノさん、言ってる意味が」
「あー、けど俺は、ツナにだったら学校で教えないようなことも教えてやっても良いぜ?」
「ぶっ」
なんとか逃げ出そうと足掻き、もう一発爪先を踏み潰してやろうと試みる。が、運が良いのか悪いのか、彼は前に出ようとして足を滑らせ、スリッパだけをその場に残して踵で宙を蹴り飛ばした。
倒れ掛かってきた彼に潰されそうになって、綱吉は必死に腹に力を込めて耐えた。
そこへトドメの一撃を食らって、彼は盛大に噴出した。
唾を飛ばされ、ディーノが不満げな顔をした。束縛を緩めてスリッパを履きなおし、眉目を顰めて弟分を窺い見る。口元を袖で拭った綱吉は、けほけほ言って喉を撫で、かーっと下から登ってくる熱に慌てて首を振った。
両手で頬を力任せに叩き、湯気を履きながら俯く。
「変なこと、言わないでください、よっ」
「いってえ!」
綱吉に先生、と呼ばれたのを嫌味だと受け取り、拗ねているのだと勝手に拡大解釈をしたディーノに再度蹴りを食らわせる。今度はちゃんと当たって、弁慶の泣き所を攻撃された青年は声を裏返らせ、甲高い悲鳴を上げた。
足元に蹲った金髪を見下ろし肩で息をして、綱吉はもう一発、自分の頬を叩いた。
「あと、学校で生徒に手を出したら、風紀委員に粛清されますからね!」
目下、ここ並盛中学校にはふたつの強権を振るう勢力が存在した。元からある風紀委員会に、新しく加わった粛清委員会だ。
しかもその委員長は両方とも、綱吉たちの敵に当たる。雲雀もアーデルハイドも、リボーンとは色の異なるおしゃぶりを持つアルコバレーノの代理として、この奇妙なバトルに参加していた。
ただその点を差し引いても、あのふたりは普段からして恐ろしい存在だった。
大声で吐き捨て、未だ痛みに呻いている青年を置いて廊下に出る。チャイムが鳴り終わってからもう三分は軽く過ぎており、冷えた通路はひっそり静まり返っていた。
「急がないと」
このままでは本当に遅刻になってしまう。右を見て職員室の様子を窺い、背後も気にして、彼は歩き出そうとして出した足を床に戻した。
未だ熱い頬を手の甲で擦り、唇を浅く噛み締める。
「……ばか」
ボソッと吐き捨てられた言葉は、誰にも届けられることなく砕けて消えた。
2012/03/31 脱稿