枢機

 退屈だった。
 取り立てて急がねばならない仕事もなく、昼食もつい一時間ほど前に終えたばかり。昼寝をするには気温が低く肌寒くて、かといって猫のように暖炉の前で丸くなるのは避けたかった。
 爆ぜる薪の音に見切りをつけて、アラウディは部屋を出た。ひとりでぼうっとしていても気が滅入るだけで、話し相手になる人間でもいないものかと、ためしに城主の執務室をノックしてみる。
 しかし返事はなく、ドアを開けてみれば中は無人だった。
 大量の資料が机に山盛りになっており、空っぽの椅子は明後日の方角を向いて黄昏れていた。クッションに触れてみるが既に冷たくて、主が此処を立ち去って、かなりの時間が過ぎていると想像できた。
 暖炉の炎もかなり弱っており、今にも消えてしまいそうだ。
 これでは暖を取るのに何の役にも立たないと、立てかけられていた火掻き棒を手に取って、真っ黒に炭化している材木を押し潰す。粉々に砕けて灰が舞い上がったのを避けて、彼は素早く身を引いた。
 火種に灰を被せて消し、役目を追えた鉄製の棒を元の場所に戻しても、誰もやって来なかった。
「僕は、困らないんだけどね」
 仕事を放り出して、いったいどこを放浪しているのか。
 まるで掴みどころのない人物を思い浮かべ、アラウディは呆れ調子に肩を竦めた。
 空にした両手を叩き合わせて汚れを落とし、くすんだ銀髪を掻き上げる。見上げた天井には雲間から射す光に集まる天使の図が、見事な筆捌きで描かれていた。
 穏やかに微笑む天使達も、心の中ではさぞや嘆いている事だろう。もう少し真面目に、真剣に仕事に取り組んで欲しいものだ、と。
 依然無人の椅子を一瞥し、アラウディは踵を返した。此処にいても仕方が無いと、他に暇潰しにつきあってくれる相手がいないか探す旅に戻る。
 もっとも、六人いる守護者のうちの、霧とだけは仲良く談笑する気になれなかった。
 向こうだって同じ気持ちだろう。なるべく顔を合わせないように、避けられているのは感じていた。
「くだらない」
 その理由は性格の不一致によるものもあるが、貴族階級の人間が容易く平民と口を利くものではない、という考え方が、あちら側の頭にあるのは明白だった。
 しかもアラウディは、人の秘密を嗅ぎまわるのを仕事としている。お高く留まっている連中からすれば、それが汚らしい職種に見えるのだろう。
 アラウディに言わせれば、職業に貴賎はない。懸命に働くことで自分や家族の食い扶持を稼いでいるのだから、何もせずに呑気に紅茶を嗜み、当然のように領民から年貢を吸い上げている貴族よりよっぽど尊いと思われた。
 そんなわけだから、ふたりはかなり、仲が悪かった。
「それにしても、何度来てもこの城は」
 壁に飾られた風景画の前を通り過ぎて、足音を響かせながら彼はひとりごちた。後に続く言葉は飲み込んで、眉目を顰めることで代わりにする。
 そう大きくも無い窓から光が差し込んではいるものの、廊下は全体的に薄暗かった。長い廊下がどこまでも続いて、終着点は闇の中に沈んで見えない。
 無駄に広くて、迷子になりそうだった。
 中世の城を基盤に改造を加えに加えて、今の形になったという。だから古い場所と新しい場所が交互に現れて、まるで統一感がなかった。
 ごちゃごちゃしており、落ち着かない。ひとりで部屋に引き篭もるのに嫌気がさすのも、ある意味仕方がないといえた。
 それにアラウディは、普段は本来の諜報員としての仕事に従事しており、城を留守にしている場合が非常に多かった。
 今や政治、経済と、あらゆる方面に影響力を及ぼすマフィアの存在は、政府にとっても無視できない存在と化していた。その情報を得るように命じられて接触したのが始まりの、この二重スパイの生活は、城詰めの退屈な時間を除けばそれなりに楽しかった。
「……どうしたものかな」
 暇を持て余し、暴れた足ないと身体がうずうずしていた。
 こうなったら城に付随する教会の、不良牧師と一戦交えてこようか。
 運動不足を解消するにはもってこいのアイデアに柏手を打ち、アラウディは来た道を戻るべく、右足を軸に身体を反転させた。
 そのときだ。
「ン?」
 ズシン、と重い音がした。
 一緒に揺れた気がして、彼は出し掛けた足を引っ込めた。振り返って左右を見回し、音の発生源を探るがはっきりしない。首を傾げていたら、数秒置いてバサバサ、と先ほどよりは軽い音が立て続けに聞こえて来た。
 それで場所の見当が、凡そながらついた。
「書庫?」
 されど、どうにも自信が持てない。あんな場所に用がある人間などそう多くはない筈と、書庫という名目で色々なものが押し込まれているだけの倉庫を思い浮かべ、アラウディは眉を顰めた。
 だがもし、盗人が潜り込んでいたら。
 城の警備が厳重だが、それでも万全ではない。敷地が広いので、そのすべてに目を配るのは無理な話だ。
 不届き者が夜の間に塀を越えて忍び込んでいる可能性は、ゼロではない。険しい顔をして、アラウディは息を潜めた。
 放っておいても構わないのだが、暇潰しくらいにはなるだろう。鉄面皮とも揶揄される無表情さを崩し、口元にうっすら笑みさえ浮かべて、彼は足音を立てぬよう、注意深く廊下を進んだ。
 分厚い扉は観音開きで、片方がほんの少し開いていた。間違いない。誰かが中に居る。
「いい度胸」
 こんなにも白昼堂々、盗みを働こうとは。彼は素早く後ろポケットに手を伸ばすと、中から金属製の輪をふたつ、取り出した。
 短い鎖で繋がれた輪には、一箇所ずつ切れ目が入っていた。カチャリと微かな音を響かせれば、円の一角が崩れて左右に割れた。
 手錠だ。犯罪者を取り締まり、身動きを封じるのに用いられる道具が、アラウディの武器のひとつでもあった。
「さて、と」
 いったい泥棒は、どんな顔をしているのだろう。下手人の居場所を把握しようと、彼は身を屈めてそうっと扉を押した。古びた蝶番が心配だったが、予想したほど軋まなかった。
 廊下から射す薄い光が、暗い室内を仄かに照らし出す。肩から上だけを忍び込ませるが、見える範囲に人影はなかった。
 と、思っていたら。
「ン?」
 奥のほうでガサガサ言うのがまた聞こえて来て、アラウディは薄い唇を舐めた。
 蛇の身のこなしで室内に入り、気取られないよう注意しながら扉を閉める。外からの光を遮断して闇の中で意識を研ぎ澄ませば、確かに動くものの気配が感じられた。
 ケホケホと咳き込んで、続けて小さく呻く声。
「……ム」
 泥棒と思われた人間は一向に動かず、酷く弱々しい調子で助けを求めていた。
 掠れ声を拾い上げ、アラウディは肩を落として脱力した。
「馬鹿じゃない」
 自分に向かってか、それとも部屋の奥でうんうん呻いている人物に向けてか。
 兎も角呟いて、彼は右手に構えていた手錠を元の場所に戻した。両手を自由にして、自分という存在を誇示して床板を踏みしめる。
 ギシ、という軋んだ音に、あちらもアラウディに気付いたようだ。
「なにやってるの?」
「早く助けろ!」
 呆れ半分に問えば、本やらなにやらに首から下を埋めた青年が、艶やかな金髪を振り乱して叫んだ。
 この暗さでもはっきりと分かる琥珀色の瞳が、生意気にアラウディを睨み付けた。小振りの鼻を膨らませて、握り拳を床に叩きつける。
 だが背中に乗った重みで、それ以上は動けない。散乱する書物と木箱、そして斜めに傾いて青年に圧し掛かっている書棚から、どういう経緯でこうなったのか、大雑把ながら見当はついた。
 木箱の上に乗って棚に物を載せようとして、バランスを崩し、一緒に倒れてしまったと。
 そんなところだろう。
「ぐぅぅ」
「楽しい?」
「ああ、楽しいぞ。代わってやろう」
「遠慮するよ」
 あからさまに溜息をついたアラウディに、ジョットが悪態をついた。嫌味に皮肉で返すが通用せず、悔しそうに両手をばたばたさせる。
 それで余計に本棚が傾いてきて、圧迫された内臓が悲鳴を上げた。
「ぎゅえ」
「自業自得だよ」
「喧しい。さっさと助けろ」
 こんな状況に陥っても、彼は偉そうだ。アラウディはやれやれと肩を竦めると、着ていたコートの袖を捲くり上げた。
 無視して立ち去っても良いのだけれど、後々恨まれそうだ。彼に嫌われるのは嬉しくなくて、仕方なく膝を折って屈むと、一番の邪魔者である本棚を退かしに掛かる。
 ひとりで持ち上げられるか心配だったが、中身が全部床にばら撒かれており、思ったよりも軽かった。
 背丈よりも高い棚を自立させて、ぐらぐら揺れているのが収まるまで押さえ続ける。安定を見たと判断して手を離せば、ガタゴトと何かが落ちる音が立て続けに響いた。
 下を見て確かめるまでもない。
「酷い目に遭った」
 棚が排除された今、自力で立ち上がったジョットが、服や髪に付着した埃を払い落としながら愚痴を零した。
 床は以前にも増して物が散乱し、目も当てられない状態になっていた。彼は斜めを向いている木箱を蹴って天地を正しくすると、砂埃が紛れ込んだ頭をガシガシ掻き回し、長い溜息をついた。
「こんなところで」
「俺の城だ、何処で何をしようと俺の勝手だろう」
「ならせめて、もうちょっと人目につく場所で埋もれてくれる?」
「……ほっとけ」
 今回は偶々、アラウディが物音に気付いて救出できたが、次も同じとは限らない。居場所が知れないとあちこち探し回った末に、物置で圧死、もしくは餓死しているのが発見されたなど、笑い話にもならない。
 口を尖らせてそっぽを向いて、ジョットは苛立たしげに床を踏み鳴らした。また埃が舞って、袖を直していたアラウディは柳眉を寄せた。
「ジョット」
「片付けたら戻る。もう棚に踏まれることもない。安心しろ」
 偶然近くに寄っただけなのだが、彼は勝手に、アラウディが自分を探していたと判断したようだ。否定したいが聞いてもらえそうにない雰囲気に、肩を竦めるしかない。
「そう」
「ああ」
 早口に捲くし立てた彼に相槌を打ち、アラウディは身なりを整えた。襟を撫でて形を作り、薄明かりの下、右の爪先が何かを踏みつけているのに気付く。
 薄い紙だ。四角形で、横に僅かに長い。
「封筒?」
 独白して、彼は本を片付けるべく膝を折ったジョットに続き、身を屈めた。腕を伸ばし、くすんだ風合いの封筒を拾い上げる。
 裏書はなかったが、蝋の封印はされていた。固い表面に、ボンゴレの紋章であるアサリ貝が浮かび上がっていた。
 この世の中で、この印璽を使うのを許されているのは、ただひとり。
 目の前の男を不可思議な目で見詰めた矢先、視線を気取ったジョットがハッとして振り返った。
「こら!」
 素早く伸びて来た手が、瞬時に引っ込められた。あっという間に古ぼけた封筒を奪い取られて、アラウディは空になった右手を握り締めた。
「出さないの?」
 差出人の名前が記されていなくとも、印璽を見れば誰からのものか、直ぐに分かる。手紙の執筆者たる人物は、しかし問いかけに答えようとしなかった。
 それところか非常に嫌そうな顔をして、口をもごもごさせて、目を泳がせた。
「ジョット?」
「五月蝿い。お前は、いいから、早く帰れ」
 名前を呼べば、癇癪をぶつけられた。怒鳴られ、肩を突き飛ばされた。
 たたらを踏んだアラウディは、もう少しで尻餅をつくところだったのを堪え、膝を床にこすりつけた。崩れた本の影にもう一通、別の封筒が紛れているのを発見して引き抜けば、これもまた一瞬で奪い取られた。
 怪訝に前を向けば、ジョットの顔が異様に赤い。
「どうしたの」
「だー!」
 低い声で問いかけるが、真っ赤になったジョットは相変わらず答えを誤魔化し、意味不明な言葉を吐いて地団太を踏んだ。
 周囲に散らばっている封筒を次々に集め、胸に抱え込む。アラウディが拾えば、問答無用で掠め取っていった。
 どうやら彼は、これを隠しに此処に来たらしい。
 誰にも見付からないように、物置の奥の、棚の上という背伸びをしても届かない位置に。そこへ偶然アラウディがやって来たものだから、追い出そうと躍起になっている。
 邪険に扱い、部屋から出て行くよう仕向けたのだ。
 浅知恵を働かせた男に苦笑を零し、アラウディは落下の衝撃で封蝋が砕けているものを目敏く見つけ、掬い取った。
「あっ」
「こんなに沢山、どうしたの」
「返せ」
「手紙なんだろう? 出さないでどうするのさ」
「なんだっていいだろう!」
 お前には関係ないとまで叫ばれて、流石にカチンと来た。
 ひっくり返せば、切手は貼られていなかった。宛先も一切、書き記されてはいなかった。
 ただジョットからの文だと分かる璽だけが、裏面に、密やかに。無記入の宛先人に届けられることなく時を過ごし、色が抜けてくすんでしまった封筒から感じられるのは、ジョットの深い想いだ。
 恐らく、出さなかったのだ。
 それとも、出せなかったのか。
 人知れず、こんな物置に押し込められて、二度と日の目を見ないように片付けられようとしていた。
 破り去ることも出来ず、暖炉の炎にくべることすら出来ず。ただ誰の目にも触れぬように、大事にしまわれようとしていた想いたち。
 背筋が震えた。鳥肌が立った。
 不快感に、吐き気がした。
「関係あるよ」
「アラウディ」
「僕は君の、守護者だ」
 ジョットの手が迫る。直前で逃げて、腕を高く掲げれば、背の低い彼はジャンプをしても簡単に届かない。
 身長差を見越した上でずるい行動に出て、アラウディは親指で残っていた蝋を剥ぎ取った。
 手探りで中身を引き寄せて、折り畳まれた便箋を掌中に招き入れる。ジョットの目の色が変わった。驚愕と怒りに満ちた眼差しが、アラウディを鋭く射た。
「貴様!」
 激しい憤りを露わに、ジョットがタックルを仕掛けてきた。二つ折りの便箋に気を取られていたアラウディは、反応がほんの僅かに遅れた。躱せない。咄嗟に丹田に力を込めるが、踏ん張りきれなかった。
 ガッタンゴトンと、後ろにあった棚から小箱が落ちた。壁面に頭を激突させたアラウディは、胸にジョットを抱えたままずるりと腰を折って床に倒れこんだ。
 ジョットが放り出した封筒の束が、雑な花吹雪となってふたりに降り注いだ。うち一通の角が額に当たって、アラウディは小さな痛みに苦笑した。
「場所を考えてくれない?」
「うる、……さい!」
 避けなくて正解だったと、上下する胸の上でうつ伏せになっている存在を撫でながら呟く。攻撃を仕掛けた筈が、逆に守られたジョットは顔を上げようとせず、ひたすら悪態をついてアラウディをポカリと殴った。
 さほど力は込められていない。叩かれたのとは違う場所がちくりと痛んで、彼は右手に残った便箋をどうしようか迷い、腕を揺らした。
 興味が失せたわけではなかった。むしろ、強まったといえる。ジョットがこうまでして隠し通したい手紙の中身だ、さぞや熱烈な愛を語るラブレターに違いない。
 いったい何処の令嬢に懸想したのか。今や名実共にマフィアの頂点に君臨する男が、望んで手に入らない女などそう多くない。
 どこかの王族か、それとも修道女か。
 見目麗しい女の影を想像しながら、アラウディは便箋を開いた。
「……」
 暗がりで目を凝らし、黄ばみかけた紙面を走る文字を追いかける。
 紙が擦れ合う音にはっとして、ジョットが息を飲んだ。
「やめろ。見るな!」
 慌てて手を伸ばすが、もう遅い。アラウディは切れ長の目を限界まで見開いて、揺すられた手から二枚の便箋を滑らせた。
 袖を引っ張ったジョットが、床に落ちる寸前で掴み取ったそれを、ぐしゃりと握り潰した。顔は鮮やかな紅色に染まり、琥珀の瞳は涙で僅かに潤んでいた。桜色の唇が悔しそうに噛み締められて、口角に寄った皺が痛々しい。
 アラウディは彼の肩を、そっと押した。促され、ジョットはゆっくり身を起こした。
「見たのか」
 同じく起き上がろうとしているアラウディに、静かに問いかける。ぐず、と鼻を啜る音が直後に響いて、彼は気まずげに頷いた。
「読んだのか」
「ああ」
 立て続けに聞かれて、アラウディは居た堪れない気分で顔を背けた。
 左手の甲で口元を覆い隠し、何もない壁に視線を固定する。笑いを堪えている彼の横顔を張り倒してやりたくて、ジョットは拳を固くした。
「見るなと言ったのに!」
「隠されると暴きたくなる性分なんだよ」
「最低!」
「その最低な男を側近に選んだのは君だろう」
「屁理屈を言うな」
「諜報員は調べるのが仕事なんだよ!」
 まるで子供の喧嘩だ。
 聞く者があれば呆れ果てるだろう口論を繰り広げて、息が切れても睨み合いは終わらない。ふたりして肩を上下させながら、負けるものかと相手の顔を凝視し続けた。
 本棚に押し潰された時のまま、髪を乱した男が悔しそうに唇を噛み締めた。サスペンダーの右側が肩からずり落ちて、肘の辺りでくたりと折れ曲がって下を向いていた。
 アラウディのコートも裾が乱れ、腰で結んでいた幅広の紐も解けてだらしなく垂れ下がっていた。
「この、……馬鹿者!」
 唾を飛ばしたジョットに、アラウディはふっと表情を緩めた。
「悪かったよ」
「先に謝るな。俺が、……格好悪いだろう」
「どういう理屈なよ、それ」
 素直に自分の非を詫びたのに、怒られるのは納得が行かない。再び声を低くして目つきを険しくした彼に、ジョットは口を尖らせ、膝に落ちていた封筒を握り締めた。
 宛先も、差出人の記載もなく、永遠に配達員に託されることなく闇に埋もれるはずだった手紙だ。
 出す宛てなどなかった。
 人に見られたくなかった。
 だが、書かずにはいられなくて。
「誰にも言うな」
「言わないよ」
「貴様は信用ならん」
「戦場でだけ信頼してくれればいい」
 小声で命じた彼に、アラウディは嘆息した。こんな時でも皮肉を返さずにいられない自分を少し卑しく思いながらも、なかなか変えられない己の性格に肩を竦める。
 トン、と軽い衝撃が胸に来て、瞬きして俯けば金色の太陽が見えた。
「僕は枕じゃないんだけど」
「当たり前だ。枕ならもっと柔らかい」
「はいはい」
 寄りかかって来たジョットの背中を気まぐれに叩き、アラウディは気の抜けた笑みを浮かべて頬を緩めた。
 ふたりの周囲には出す予定もなく、読んでくれる宛てもない手紙が散乱していた。
 ジョットは今や名実ともに最強のマフィア、ボンゴレの頂点に君臨する男だ。その後れ毛を意味もなく弄りながら、彼は低い天井を仰ぎ見て、首を右に傾がせた。
「別に隠さなくても良いと思うんだけど」
「そういうわけに、いくか」
 空を統べる太陽の如き男だ。戦場では誰よりも果敢に敵陣に切り込み、味方の犠牲を最小限に食い止めるのを信条にしている。お陰で置いて行かれる部下の面目が立たず、しまいには誰も付き従いたがらなくなった。
 その結果、少数の先鋭が残った。
 ジョットについていける人間は少ない。その上でジョットが信を置き、彼に引けを取らない強さを持つ者は更に限られる。
 昔からの幼馴染や、知り合いを除けば、その数は片手にも満たない。
 だから、なのだろうか。
 アラウディも今日まで気付かなかった。
「誰も馬鹿にしたりしないのにね」
 言って、彼は床に落ちた便箋を拾い上げた。表を上にして広げ、俯くジョットの頭に乗せる。首を振られたので直ぐに落ちてしまったが、短い文面を読み取るのには充分だった。
 恋文などではない。
 近況を報告しあうものでもない。
 差出人はジョット。そして恐らく、書かれてはいないけれど、宛先も彼自身だ。
 本当にこれでいいのか。お前は後悔しないのか。覚悟は出来ているのか。決意は揺るがないか。
 いつ書かれたものなのかが分からないので、文がしたためられた背景はさっぱり不明だけれども、何度も何度も、同じ言葉を繰り返して、ジョットは自分の心に問いかけていた。
 結論など出ない。
 文章から感じられるのは、ジョットの迷いだ。
 マフィアのボスとしてではない、ボンゴレの大空としてでもない。
 ひとりの人間としての、ジョットの心の揺らぎだった。
「お前に、なにが分かる」
「分からないよ」
「なら、アラウディ」
 余計な真似をしてでしゃばるなと、ジョットが怒鳴った。
 腕を強く掴まれて、アラウディは顔を歪めた。揺さぶってくる彼の腕を逆につかみ返して引き剥がし、ずいと前に出て距離を詰める。額をぶつける勢いの彼に瞠目し、ジョットは息を飲んだ。
 目尻に溢れた涙が、薄光を浴びて鈍く輝いた。
「君が言ってくれなければ、なにも、分かってなどやれない」
 一言一句を噛み締めるように、ゆっくりと、静かに。
 感情を押し殺した眼差しと共に告げられて、琥珀色の瞳が大きく見開かれた。潤んだ表面が激しく波立ち、無数の水紋を刻んだ。
 やがて、それはひとつに集約されて。
「……はっ」
 肩で息をしたジョットが、気でも触れたのか、急にげらげら笑い始めた。
 腹を抱え、身体を前後に揺らしながら、他人の膝の上というのも忘れて身を捩る。あまりの豹変振りにぎょっとして、アラウディは切れ長の目を限界まで見開いた。
 狂ってしまったのかと本気で心配になって、細い肩に手を伸ばす。
 だが掴み取る前に、手首を拘束された。
「貴様も共に背負うというのか」
 この重荷を、この責任を。
 この罪を。罰を。咎を。運命を。
 これは呪いだ。永遠に解放をみない、時の呪縛だ。
 脅しをかけるジョットに、アラウディは目を逸らさなかった。迷いもなく首を縦に振り、肩の力を抜いて目尻を下げる。
「君は僕の仕事が何であるか、忘れてないかい」
「それは、諜報……あ」
「とっくに知ってる」
 溜息混じりに呟いて、アラウディはジョットの無防備な額を小突いた。首を前後させて、彼は気まずげに上唇を噛んだ。
 ジョットが未だ苦悩し、ひとり煩悶としていたのまでは気がつかなかったけれども、彼が最も気に病んでいる内容については、ひと通り調べがついていた。無論、世の道理を無視した、常軌を逸した事件でもあるので、まだ情報は不完全であり、確証が抱けるレベルには達していないけれど。
「やはり貴様は、信用ならん」
「褒め言葉として受け取るよ」
 突かれた場所に手をやって、ジョットがひとりごちる。アラウディは余裕の笑みを浮かべ、彼の下から足を引き抜いた。
 痺れている部分を揉んで感覚を取り戻し、立ち上がる。ついでに解けた腰紐を結びなおしていたら、下から強い視線を感じた。瞳を向ければ、太陽に負けない輝きを持つ瞳が、不満そうに人を睨んでいた。
「なに」
「助け起こしてやろう、という優しさはないのか」
「生憎と」
 両手を伸ばしている彼を一蹴して、身なりを整えた彼はあちこちに付着している埃を払い落とし、未だ蹲っている青年の脛を蹴り飛ばした。弁慶の泣き所を攻撃されて、ジョットは渋々立ち上がり、ずり下がっていた吊りベルトを直して口を真一文字に引き結んだ。
 悔しそうに睨みつけてくるが、ちっとも怖くない。むしろ愛らしさが強調される傾向にある怒り顔に目を細め、アラウディは金髪に絡み付いていた埃の塊を摘み取ってやった。
「アラウディ」
「今、退屈なんだ」
 急ぎの仕事はない。食事まではまだ早く、昼寝をするには時間が遅い。
 暇潰しになることはないかと、言外に問いかける。
 つまらない話でも、愚痴でも、今ならば聞いてやらない事は無い。そんないきなりの提案にジョットはぽかんと口を開いて、五秒してから我に返り。
 すかした男の長い足を、渾身の力を込めて踏みつけた。

2011/09/19 脱稿