口伝

 昼休みの購買部は、今日も買い物客でごった返していた。
 数少ない焼きそばパンを運動部の男子が奪い合い、その隙間を縫って女子が甘いクリームたっぷりの総菜パンに手を伸ばす。おにぎりの具を選ぶ暇もなく、兎に角ある分だけを確保しようと躍起になっている生徒もいれば、押し合いへし合いの争奪戦に辟易して早々に撤退する生徒もいた。
「相変わらず、凄いなあ」
 そんなバーゲンセールさながらの光景を尻目に、沢田綱吉は食堂の片隅に置かれた自動販売機に足を向けた。
 身長も体重も学年平均に届かず、そこいらの女子よりも華奢で軽い少年が参戦すべく息巻いても、目指す品に手が届く前に弾き出されてしまうのが関の山だ。過去に数回経験している苦い記憶を頭の外に追い払って、彼はポケットから出した小銭入れのファスナーを引いた。
 銀色の硬貨を一枚取り出し、販売機に投入する。もれなく点灯したランプのうちのひとつを選んでボタンを押せば、即座に下方からガコン、となにかが落ちる音がした。
「ほんと、母さん様々だよね」
 財布をポケットに戻しながら膝を軽く曲げて、今し方購入したばかりの紙パックを利き手に持つ。馴染みのあるパッケージに顔を綻ばせて、彼は未だ賑わっている一角に肩を竦めた。
 教室に戻れば、母である奈々が持たせてくれた弁当が待っている。今日の献立はサンドイッチとポテトサラダ、そしてフルーツの盛り合わせ。ただ迂闊にも、飲み物を持って来るのを忘れてしまった。
 もっとも、普段通りの麦茶では折角の洋風が台無しになってしまう。だから彼は、昼休みが始まると同時に人混みを掻き分けて購買部までやって来た。
 八人は楽に並んで座れるテーブルはどこも満席で、一部では椅子の取り合いまで発生していた。午前中の授業が終わり、みんな空腹で気が立っている。喧嘩に発展しそうな雰囲気がひしひしと感じられて、綱吉は急ぎ自動販売機から離れた。
 巻き込まれたら戻るのが遅れてしまう。教室に残して来た獄寺の顔を思い浮かべて苦笑して、彼は通路に向かおうと歩き出した。
 手にした牛乳パックを潰さぬよう注意して、混雑甚だしい食堂から出ようとペースを速める。直後はハッとして、彼は出しかけた足を慌てて引っ込めた。
「っ」
「おっと」
 重心を僅かに後ろに傾がせ、右にふらついたところを両足で着地する。もう少しで前から来た大柄の生徒に真正面からぶつかるところだった。相手も綱吉の存在に気付いてたたらを踏んでおり、ふたりの間には微妙な空間が出来上がった。
 反射的に握ってしまった牛乳に冷や汗が出た。もしストローを突き刺してしたら、今頃大変な事になっていたに違いない。
 幸いにも立方体を維持し続けている紙パックに安堵の息を吐いて、綱吉は進路を塞いでいる黒服の男に瞬きを繰り返した。
 裾が床につきそうなくらいに長い学生服に、庇の如く前方に突き出ているリーゼント。顎はふたつに割れており、立派な体格と相俟って、とても綱吉たちと同じ中学生には見え無かった。
 左袖には緋色の腕章が安全ピンで固定されており、そこに施された刺繍が、この男子生徒の立ち位置を否応無しに教えてくれた。
「すまん。急いでいたのでな」
「いえ、俺も。前をちゃんと見てなかったから」
 向き合うふたりの脇を、一般生徒らが物珍しげな顔をして通り過ぎていく。浴びせられる視線にほんのり顔を赤らめて、綱吉は詫びた草壁に急いで首を振った。
 並盛中学校風紀委員会、副委員長。それがこの大男の肩書きだった。
 傍若無人で乱暴者な委員長の傍につかず離れず付き従い、どんな不条理にもじっと耐える鋼の心の持ち主でもある。彼の献身ぶりは傍目から見ていても凄まじく、涙なくして語れないと専らの評判だ。
 とはいっても、風紀委員に関わり合いになりたくない生徒が大多数を占める並盛中学校。いくら副委員長が素晴らしい人格者だとしても、草壁と友人になりたいと思う存在はほぼ皆無に等しかった。
 それに、同年代とは思えないような強面顔だ。彼の性格を知らず、外見だけで忌避している女生徒もそれなりに多い。
 そういった経緯もあって、草壁が雲雀以外の誰かと会話する光景自体が非常にレアと言えた。しかも喋っている相手があのダメダメな生徒として有名な沢田綱吉なものだから、余計に注目度が増していた。
 不躾な眼差しにおどおどしつつ、綱吉は軽く頭を下げた草壁に向けて自分も頭を垂れた。緩く握った両手を膝に揃えて腰を曲げ、その体勢で一旦停止してからそろりと前方を窺い見る。
 恐縮している少年に肩を竦め、草壁は一寸困った様子で頭を掻いた。
「じゃあ、俺はこれで」
「ああ、そうだ。すまんが、沢田。委員長を見なかったか」
「はい?」
 表情の意味が掴めぬまま、時間に追われて綱吉は場を辞そうとした。しかし言いかけた彼を遮り、草壁が早口に捲し立てた。
 思い掛けず引き留められてしまい、歩き出そうとしていた綱吉はつんのめった。
 上履きの底を床に擦りつけてブレーキをかけ、前に傾いだ上半身を戻す。改めて風紀委員会副委員長を見上げ、ブレザー姿の少年は眉を顰めた。
 教室を出て階段を下り、この購買に来るまでにすれ違った人の中に、草壁と同様の黒い学生服姿はひとつとして存在しなかった筈だ。皆が綱吉が着ているのと同じブレザーか、紺色のベスト、もしくはカーディガンを身に纏っていた。
 それに風紀委員長こと雲雀恭弥といえば、学内でも一、二を争う有名人だ。
 群れている連中を見ると咬み殺さずにいられない、というなんとも傍迷惑な習性の持ち主でもある彼は、遠目からでも目立つ外見をしていた。学生服を肩に羽織り、獰猛な野獣そのものの目をして、授業中である、なしに拘わらず学内を放浪している。万が一どこかで遭遇していたら、綱吉といえども気付かないわけがない。
 小首を傾げながら記憶を呼び覚ました彼に苦笑して、草壁は困惑の度合いを強めて眉間の皺を増やした。
 そんな顔をしていると、余計に年嵩に見えてしまう。本当は早く教室に戻りたいのだけれども、困っている彼をこのまま放置するのも気が引けて、綱吉は揺れ動く天秤を前に口を尖らせた。
「どうか……したんですか?」
「いや、まあ。そうだな。沢田になら言っても問題ないか」
 捨て置けば良いと思うのに、お節介な性格がむくりと首を擡げて勝手な行動を取った。ぼそぼそと紡がれた言葉に一瞬きょとんとした顔をして、草壁は少し引っかかる台詞を舌に転がした。
 それはどういう意味かと問おうとして、寸前で思い留まる。今は無駄な会話を重ねている場合ではない。貴重な昼休みは、着実に残り時間を減らしているのだ。
 押し黙った彼に曖昧に笑いかけて、草壁は半眼した。周囲の雑踏を遮断して数秒間考え込み、立派な顎を人差し指の背でなぞって深く息を吐く。
「草壁さん?」
「実はな、委員長に火急で伝えなくてはならない事があるんだが、連絡がつかないのだ。携帯電話は電源が切れているらしくてな。学校内のどこかにはいると思うのだが」
 勿体ぶる彼に焦れて催促した矢先、彼は口火を切って喋り出した。あまり人に聞かれたくないらしく、音量は抑え気味で聞き取りづらい。思わず彼との距離を半歩詰めて、綱吉は成る程と頷いた。
 風紀委員会、並びに委員長である雲雀恭弥は、学内に蔓延る不良達からも嫌悪の対象とされていた。過去にこてんぱんに打ちのめされたのを根に持ち、復讐心を燃やす素行の悪い生徒も沢山居る。
 雲雀が不在と知れば、好き勝手する輩も出て来るだろう。彼の存在は、別の見方をするなら、学級崩壊ならぬ学校崩壊を防ぐストッパー的役目も果たしていた。
 彼が上から睨みを利かせているから、馬鹿な真似をしようと画策する生徒が減っているのもまた、隠しようのない事実だった。
「そうなんですか。でも俺、今日はヒバリさんに会ってません」
「だろうな。それで……すまんが、もしどこかで見かける事があったら、金曜日に予定していた会議の折り合いがつかなくなったので、別の曜日で都合の良い時間帯が無いか確認したい、と俺が言っていたと伝えてはくれないか」
 雑談に興じる生徒らの声に時折打ち消されながら、草壁はひと息に告げて肩を竦めた。
 委員会に全く関係の無い生徒に頼むのは気が引けると、表情がそう物語っていた。だからこそ逆に、綱吉は彼の助けをしたいとごく自然に思えた。
「分かりました」
「無理に探さなくても良いからな」
「それは、もう。えっと、金曜日の会議の時間がダメになっちゃったから、別の曜日で都合の良いのがいつか知りたいって、そういう事ですよね?」
 ここから教室に向かう道中で偶然遭遇出来たらで構わないと念押しし、草壁は確認を求めた後輩に深く頷いた。
 会議室を使用するのに、予め許可が必要なのだろう。その申込期限が迫っているか、もしくは別の団体が先に使おうとするのを回避したいのか。どちらにせよ、伝えるなら早い方が良かろう。
 周囲を気にしつつ戻ることに決めて、綱吉は草壁に一礼した。予定よりも随分遅れて教室への帰路に就き、まずは階段を目指して歩き出す。
 獄寺は待ちくたびれている筈だ。先に食べてくれても構わないと言ってはいるものの、彼の忠犬ぶりは草壁に勝るとも劣らない。
「金曜日がダメになったから、別の日の都合が良い時間、を、聞く」
 今にも潰れてしまいそうで、意外に頑丈なパック牛乳を片手に、綱吉は草壁から言付かった内容を繰り返した。
 上履きの爪先を階段に乗せ、身体を上へと運ぶ。入れ違いに下りていく女生徒を見送って、彼は薄暗い空間に目を凝らした。
 今にもそこに雲雀が現れそうで、内心どきどきが止まらなかった。
 もし遭遇出来た時の為に、言い間違えないよう頭の中でシミュレーションを繰り返す。これまでに幾度となく彼と会話してきたが、未だに面と向かって対峙するのは緊張した。
 学校に在籍する過半数の生徒は彼を悪く言うが、綱吉にとって彼は大事な仲間のひとりであり、心強い味方だった。
 雲雀恭弥が持つ肩書きは、なにも風紀委員長だけとは限らない。あの青年に与えられたもうひとつの称号が、綱吉と彼との距離を近くしていた。
 ボンゴレの、雲の守護者。自由気ままでつかみ所がない、けれど大空には欠かせない存在。
 こんな事を言ったら彼は怒るかも知れないが、綱吉は雲雀が守護者のひとりに選ばれて良かったと思っていた。彼の強さは折り紙付きであり、味方にしてこれほど心強い存在は無かった。
 シモンファミリーとの騒動では、彼に過分に世話になった。少しでもお礼がしたいと思っていただけに、草壁の依頼は天の采配とさえ感じられた。
「金曜日じゃない日の予定、と」
 一段登る度に、独り言の台詞が短くなっていく。しかし本人はまるで意に介することなく踊り場で反転し、上機嫌に二階に続く段差に足を掛けた。
 そこに、長い影がふたつ並んで落ちて来た。
「おっ」
「ツナ」
 どちらも背が高く、おまけに筋肉質で逞しい。逆光の中で顔を上げた綱吉は、一瞬目が眩んで顔を顰めた。
 階段に響いた声には聞き覚えがあった。もっとも、残念ながら探し求める存在とは別人だった。
「山本」
 紺色のカーディガンに袖を通した山本と、風紀委員とは異なる学ランを身に纏った金髪の生徒が駆け足に階段を下りてきた。踊り場で合流して、綱吉は他の通行人に遠慮して壁際に後退した。
 至門中学校から一時的に転入してきた七人の生徒のひとりである水野薫を引き連れて、山本が人好きのする笑顔を浮かべた。
 そういえば彼は、四時間目の授業が終わると同時に教室を出ていた。どうやら同じ野球部に所属する水野を誘い、一緒に弁当を食べていたらしい。そしてこれから、グラウンドでキャッチボールでもするつもりなのだろう。
 外見にそぐわぬ内気な性格の水野は、背の高い山本の影に隠れるようにして立っていた。
 一時は対立したとはいえ、今はもう双方の誤解は解けている。だのに未だ遠慮されるのは少々寂しくて、綱吉は両手で牛乳を弄りながら小首を傾げた。
「もう食べ終わったの?」
「ああ。ツナはこれからか?」
「そうだよ。あんまり早食いするの、身体に良くないよ。あっ、と……そうだ。ヒバリさん知らない?」
「雲雀?」
 彼らが向かう先を想像しつつ問うた綱吉に白い歯を見せた山本は、小言の後に続いた台詞に驚いて目を丸くした。
 この場であの男の名前が出て来る道理が分からぬと、見開かれた眼が雄弁に語っていた。見つめられて、綱吉も流石に突飛過ぎたかと反省し、心の中で小さく舌を出した。
 草壁とのやり取りを一から全部説明するには時間が惜しい。言葉足らずな自分を恨みながら、彼は顔を見合わせている山本と水野に苦笑した。
 笑って誤魔化そうとしている友人に肩を竦め、空気を読んだ山本が両手を腰に当てた。
「残念ながら見てないな。それよりツナ、お前さ、今週の日曜とか空いてたりする?」
 深く追求はせずに済ませ、素早く話題を切り替える。聡い親友の反応にホッと胸を撫で下ろして、綱吉は投げ返された質問に眉目を顰めた。
 牛乳を持った手を胸に当てて首を傾がせた彼に相好を崩し、山本はニッと白い歯を見せた。隣に立つ水野の脇を肘で小突いて意味深に微笑み、喉の奥で笑い声を押し殺してからわざとらしく咳払いをする。
 野球部仲間だけで通じ合っている状況にムッとして、綱吉は可愛らしく口を尖らせた。
 拗ねてしまったボンゴレ十代目を宥め、その雨の守護者たる青年は広げた手を上下に揺らした。
「いやさ、薫と飯食いながら話してたんだけどさ。日曜にシモンの連中と一緒に、河川敷でバーベキューとかどうかなって」
「バーベキュー?」
 どうどう、と馬でも落ち着かせるかのような仕草の最中に言われて、綱吉は耳慣れぬ単語に目を瞬かせた。
 聞き慣れないとはいえ、全く知らないわけではない。即座に芳ばしい匂いを放つ牛肉の映像が脳裏に浮かび上がって、彼は無意識のうちに唾を飲んだ。
 山本が言うには、積年の誤解が解けたとはいっても、シモンとボンゴレの間にはまだ若干の溝が残っている。それを払拭する為にも、交流の機会をもっと持つべきではなかろうか、という話だった。
「それで、バーベキュー?」
「ああ。シモンの連中には薫の方から話してくれるって言うからさ。教室戻るんだったら、獄寺とか、笹川とかにも、予定を聞いておいてくれないか」
 綱吉も炎真とは親交を深めているものの、それ以外のメンバーとはなかなか話をする機会を持てずにいた。折角同じ学校に通っているのだから、もっと仲良くなりたいと願っていても、時間的制約もあって思うように行動出来ずにいた。
 山本の提案は寝耳に水であったけれど、こちらとしても願ったり叶ったりだ。断る理由は無い。迷うことなく首肯して、綱吉は握り拳を作った。
「うん、分かった」
「じゃあ、頼むな。時間とかは、メンバーが決まってからで良いと思うし」
 並盛川の河川敷も、この時期ならば朝から場所取りをせずとも空いている筈だ。食材や道具についても、参加人数が定まってからの方が段取りはし易い。
 沢田家の物置にも、長い間使っていない器具が放り込まれている。奈々に相談すれば、いくらでも協力してくれるに違いない。
 問題はビアンキが出しゃばらないかどうかだが、その辺は後々考えれば済むことだ。今はひとりでも多く参加者を募るのが優先事項と定め、綱吉は校庭に向かう山本たちに手を振って見送った。
 階段を下りて角を曲がった彼らに目尻を下げてから、彼はまたも減ってしまった昼休みの残り時間に騒然となった。
「やっば」
 自動販売機から取り出した直後は冷たかった牛乳も、すっかり温くなってしまっていた。このままではサンドイッチに舌鼓を打つ暇さえなくなると焦り、急いで右足を前に繰り出す。
 教室に戻ったら、長らく待たせてしまったのを獄寺に詫びねばならない。その上で弁当を広げて、先ほど山本から聞かされた話を彼に聞かせてやろう。
 日曜日の予定は空いているかどうか、京子にも確認しなければ。了平や、学校が違うハルには、彼女から連絡を回して貰えば良い。
 ランボやイーピン、それにフゥ太といった子供達の参加も可能かどうか、山本に聞いておけばよかった。らうじが来るのなら、ランボもきっと喜ぶ。出来ればクロームにも伝えておきたいところだが、骸が許すかどうかは霧の中だ。
「……そういえば」
 山本からの依頼に追加してあれこれ想像を膨らませたところで、綱吉ははて、と首を右に捻った。二階に到着した足をそのまま先に向けて、二年生の教室がある三階を目指そうとして思考が止まった。
 左手を手摺りに預けて停止して、琥珀色の双眸を忙しくぱちぱちさせる。
「ヒバリさんには、なんだっけ」
 草壁から伝言を頼まれた直後に山本から話を聞かされたものだから、ふたつが混ざってしまいそうで怖い。メモを取っておけば良かったかと、筆記用具を持ち合わせていない癖に後悔して、彼は乾いた唇を爪で引っ掻いた。
 軟らかな肉を擽り、生じた痒みを舐めて慰めて首を振る。
「えっと、確か、ヒバリさんは金曜日で、獄寺君は日曜日の予定、だろ? あれ、違う。ヒバリさんは金曜日がダメなんだっけ。じゃあ……あれ?」
 なんとも覚束無い記憶を頼りに小声で呟くが、つい五分ほど前の出来事だというのに、肝心な部分が頭からすっぱり抜け落ちてしまっていた。
 重力を無視して爆発している髪の毛を左手で忙しく掻き回し、握ったパック牛乳ごと右手で胸元を弄り回す。左胸に円を描くように揺り動かして、彼は鳥頭に等しい己の記憶力に奥歯を噛み締めた。
「ちょっと待って。嘘、なんだったっけ」
 時間をかければ思い出せそうな気がするのだが、なにせ昼休みは残り時間半分を切っていた。
 一秒でも早く教室に帰らなければという気持ちと、ドジを踏む前にここでしっかり連絡事項を再確認しておくべきだという気持ちが入り混じり、激しい鍔迫り合いを繰り広げる。山本を追い掛けて問い詰めるべきかとも迷って、綱吉はその場で地団駄を踏んだ。
 いっそ今すぐ獄寺に問うのはやめて、後回しにしてしまおうか。だがそれでは、計画を詰める際に手間取りかねない。先に皆の都合を調べておく方がなにかと効率が良いから、山本は綱吉に頼んだのではないのか。
 友人の期待を裏切りたく無くて焦れば焦る程、脳内のメモリーは不要なデータを増やして検索の邪魔をした。募る焦燥感に唇を噛んで、綱吉は白地に赤く印刷された牛乳パックの文字に爪を立てた。
「日曜に、バーベキューだろ。んで、金曜日の会議がダメで、ヒバリさんに予定を聞く。それと獄寺君にも、予定を……うぅん?」
 ふたつのことを別個に考えれば済む話なのに、声に出しているうちに却って混乱に拍車がかかってしまう。指折り数えようとして失敗して、彼は頭上に無数のはてなマークを生やした。
 昼食を終えた生徒らがこぞって廊下に繰り出し、綱吉が立つ階段近くも、食堂ほどではないが充分賑わっていた。午後の授業で使う教科書を借りようと走る男子がいて、それを目にした友人らしき生徒が茶化して声を張り上げた。
「風紀委員に見付かるぞー」
 日頃から馴染みのない三年生のやり取りを何気なく耳が拾い、直後生じたざわめきに綱吉はゾッと背筋を粟立てた。
 食後で気を緩めていた生徒らもが、揃って緊張に頬を強張らせた。
 血の気の引いた顔をして、廊下を走っていた男子が左足を踏み込んだ状態で凍り付いた。再生中のビデオを一旦停止したような光景だが誰ひとりとして笑わず、最終的にバランスを崩して尻餅をついた彼に手を貸す人もいなかった。
 ザッ、と聞こえない筈の音がした。乾いたコンクリートの大地を踏みしめて、黒色の学生服を棚引かせた青年がゆっくり廊下を歩いていた。
 物音を響かせた男子を一瞥するだけに終わらせて、雲雀恭弥は一瞬で静まり返った空間に皮肉とも取れる笑みを浮かべた。
 空の左袖にぶら下がる腕章の色がなんとも毒々しい。有り得ない話だがこの場を取り巻く空気にヒビが入った気がして、綱吉は生温い唾を飲んで息を潜めた。
 さほど幅がない廊下のど真ん中を、誰にも邪魔されることなく雲雀が進んでいく。彼の進路を塞ごうという剛胆な生徒は、残念ながら近くには見当たらなかった。
「ヒ……」
 命じられたわけでもないのに、三年生は彼が近付いて来ると見るやサッと左右に分かれて道を譲った。淀みない足取りで開かれた空間を突き進む彼に声をかけようとして、綱吉は開こうとした口を慌てて閉ざした。
 目が合った。正面ばかり見ていた青年が一瞬だけ視線を脇に流し、階段手前に立つ綱吉を射貫いた。
「っ!」
 途端背筋に電流が駆け抜けて、綱吉は発作的に爪先立ちになって身を震わせた。
 冴えた黒い瞳が一瞬だけ見開かれ、次いで嬉しげに細められ、直後逸らされた。そのまま前を通り過ぎようとした彼に慄然として、綱吉は吐き出すつもりでいた息を飲み込んだ。
 一緒に唾も飲み下して、口から飛び出そうになっていた心臓を元の位置に押し戻す。唐突に発生した耳鳴りに鳥肌を立て、彼は一切の興味を失った顔で去りゆこうとしている青年に伸び上がった。
 長く同じ場所に在り続けた足を、当初の予定に反した方向に向けて踏みだし、ついでに右手も遠くを目指して懸命に伸ばす。
「ヒバリさん!」
 草壁に頼まれごとをした、それだけを頭に残して声を張り上げる。
 掴んだ黒い学生服は厚みがあり、それでいて表面はさらりとして微妙に握り辛かった。
 もっともそれは、利き手にもうひとつ、牛乳パックを持っていた所為だ。お陰で引っかかりは甘く、雲雀が場を離れようとしていたのもあって、指は見事にすっぽ抜けてしまった。
 爪の間に僅かな繊維を残して消えてしまった感触に唖然として、綱吉は声にならない悲鳴をあげた。風紀委員長が何事も無く通り過ぎていくのを期待していた三年生は揃って驚愕に目を見開き、突然乱入して来た二年生を信じ難い表情で見つめた。
 肩からずり落ちそうになった学生服を押さえ込み、黒髪の青年が切れ長の眼を丸くした。腰を捻って振り返る、その動作が綱吉にはスローモーションになって見えた。
 左足を僅かに退いて、並盛中学校の実質的な支配者が怪訝な顔をした。
「なに?」
 朗々と響く低音にぞわりとして、自分が話しかけられているのだと遅れて悟った少年は俄に顔を引き攣らせた。
 一瞬で頬を真っ赤に染めて、完全に振り返った青年を前に右往左往する。草壁の顔は出て来るのに、肝心の伝言内容が咄嗟に思い出せなくて狼狽しているうちに、辺りに雑音が戻って来た。
 何も知らない生徒が教室に帰ろうとして、廊下の真ん中に陣取っているふたりに気付いて怪訝に眉を顰めた。ひそひそ話をしながら遠巻きにする彼女らの視線があまりにも痛くて、綱吉はいっそ倒れてしまいたい気持ちで頭をぐるぐる掻き回した。
 伝えるべき内容はなんだっただろうか。懸命に思い返そうと躍起になって、左のこめかみ付近を乱暴に叩く。
「イッ」
「小動物?」
 その乾いた音が異様なくらい大きく響いて、突然目の前で自分自身にビンタした彼に雲雀は首を傾げた。
 人を呼び止めたと思いきや、いきなり自虐的な行動を取った。意図がさっぱり読めなくて戸惑っていたら、痛みと衝撃からぶつ切れだった回路が繋がったらしい少年が鼻息荒く捲し立てた。
 握り拳を作り、必死の形相で、
「に、……日曜の、予定が空いてる時間はいつですか!」
 廊下中に響き渡る大声で叫ぶ。
 刹那、場を取り巻いていた空気がぴしっと音立てて凍り付いた。
 別の意味でざわついていた廊下が一瞬にしてシーンと、痛いくらいに静まり返った。大勢の人間がいるに拘わらず物音ひとつ響かない環境に慄然として、綱吉は振り上げた拳もそのままに目を瞬かせた。
 大粒の瞳を零れ落ちんばかりに見開いて、呆気に取られている黒髪の青年、並びにぽかんと口を開いて間抜け顔を晒している上級生を一緒くたに視界に納める。
「……え?」
 勢い任せに怒鳴った自分の台詞が思い出せない。ただ草壁から頼まれた伝言を正しく伝えられなかった、というのだけは雰囲気から充分に理解出来た。
 忙しく目をぱちぱちさせて、はてなマークを乱立させて首を右に倒す。硬直していた雲雀が三度ばかり立て続けに瞬きして、やおら右腕を持ち上げて学生服を握り締めた。
 綱吉の所為でずれてしまった上着を整え、深く、長く、息を吐く。
「日曜は終日学校にいるけど?」
「へ? ――え、あ……ああっ!」
 淡々と告げられたひと言に背筋を粟立て、綱吉は今頃になって自分の失態に気付いて悲鳴をあげた。
 突き刺さる無数の視線が痛くてならない。唐突過ぎる二年生の告白に騒然として、上級生らが声を潜めてひそひそ話を開始する。辛うじて聞き取れる会話の内容は、綱吉と雲雀の関係性にまつわる疑問ばかりだった。
 あの雲雀恭弥に日曜の予定を聞いた生徒がいる。見るからに風紀委員とは無関係そうだ。風紀委員の取り締まりに反発している不良でも無い。ではいったい何の目的で彼に誘いを掛けたのか。
 無粋な憶測が飛び交い、瞬く間に尾ひれがついて拡散していく。教室内に居た生徒までもが、興味深い事件が起きていると聞きつけて廊下に顔を覗かせた。
 一気に野次馬が増えた。雲雀が大嫌いな群れが形成されていくが、当人は視界に入っていないのかまるで無関心だった。
 ただ一点、顔を赤くしたり、青くしたり忙しい年下の少年を見据えて動かない。
 無言の威圧で回答を急かされて、綱吉は歯の根が合わない奥歯をカチカチ言わせて全身を戦慄かせた。
「日曜、どうかしたの?」
 追求されて、答えられずにぐっと息を呑む。手も脚も、まるで動かない。まるで目に見えないオーラが四肢を絡めとり、この場から逃がすまいと雁字搦めにしているようだった。
 重ねられた問い掛けに青ざめた唇を震わせ、綱吉は弱々しくかぶりを振った。違う、と言いたいのだけれど声が出て来ない。喉は痙攣して、一切の機能は麻痺していた。餌を求める金魚が如く口をぱくぱくさせて、泣きたい気持ちを堪えて彼は上唇に牙を立てた。
 つい一分前まですっかり忘れていたふたつの事柄が、今は完璧過ぎるくらいにはっきり思い出せるようになっていた。
 草壁に頼まれたのは、金曜日以外の雲雀の空いている予定を聞く事。
 山本に頼まれたのは、日曜日の獄寺達の予定を聞くこと。
 どうしてあの時、声を発する前に踏み止まれなかったのか。激しい後悔に襲われるが、過ぎてしまった時はどう足掻いたところで巻き戻ってくれない。
 琥珀色の瞳にうっすら涙を浮かべ、彼は鼻を愚図らせて苦い唾を飲み込んだ。
「いや、えっと。あの」
 雲雀に日曜の予定を聞いてどうするのか。たとえバーベキューに誘ったところで、彼が参加してくれるわけがないのに。
 むしろ群れているという理由だけで河川敷に押しかけて、ボンゴレとシモンの団欒の邪魔をするに決まっている。
 嬉々としてトンファーを手に暴れ回る彼の姿を想像して首を竦め、綱吉はどう言い訳しようか必死に思考回路を刺激した。
 だが残念ながら、彼の頭の中にある辞書には、臨機応変という単語は登録されていなかった。
「えっと。その、あの」
「小動物? ……そういえば君、この前の試験の結果、散々だったよね」
「ひゃっ、は、はいっ。そう、そうなんです」
 上手い台詞がなにひとつ思い浮かばずに言い淀んでいたら、一気に気勢を消失させた彼を怪訝がった雲雀が眉を顰めて囁いた。
 まるで想定していなかったところに話が飛んで、俯いていた綱吉は竦み上がって声を上擦らせた。
 黙りこくられるよりはまだ良いと、彼の話に合わせてコクコク頷く。集まる視線は相変わらず数が多く、出来るならば一秒でも早くこの場から去りたかったのだが、雲雀の眼差しはそれを許してくれる状況には無かった。
 黒く冴えた瞳に見つめられて、訳もなく身体の芯が熱くなって堪らない。両膝をぶつけ合わせて身じろぐ彼を見て、数人の女子が何故か嬉しげに嬌声を上げた。
 耳障りな音を遮断し、雲雀は芸能界に転がっている下手なアイドルよりよっぽど愛らしい容姿の少年に肩を竦めた。
「そう、分かった。じゃあ日曜、朝から学校に出ておいで。自主勉強、付き合ってあげるから」
「あ、ありがとうございま――すぅえぇぇ?」
「なに?」
「ひぃっ、いえ!」
 日曜日は言うまでもなく、休日だ。学校での授業はない。
 そんな日の予定を知りたがる彼の意図を推し量って、芳しくなかったテスト結果を反省したのだと勝手に結論づけた雲雀の提案に、綱吉は素っ頓狂な声を上げて直後、睨まれて押し黙った。
 今更言い間違えたのだと正直に告白する勇気も、生憎と持ち合わせていない。死ぬ気状態での強気な態度は何処へやら、臆病者で弱虫な性格を悔やみながら、彼は一方的に勘違いしたままの雲雀を上目遣いに見やった。
「確か、英語が一桁台じゃなかったっけ」
「……何故それを」
「知ってるよ、君の点数くらい。正門は開けて置くから、応接室までおいで。他の委員には言っておく」
 物言いたげな視線を気取ることなく、風紀委員長はどことなく楽しげに言葉を連ねて右手を伸ばした。人肌に温もった牛乳を抱く彼の頭をぽん、と軽く叩いて目を細め、逆立っている毛先をくしゃくしゃに掻き回してから腕を引っ込める。
 離れて行く指先を追い掛け、蜂蜜色の髪が数本爪先絡みついた。頭皮を引っ張られて首を前に傾がせ、綱吉は痛いのに決して不快だと感じていない自分に瞠目した。
 それどころか胸の奥がざわざわして、ぽかぽかして、妙に落ち着かなかった。
「あの、にっ、日曜は」
「遅刻したら咬み殺すからね」
「ひゃ、はい!」
 理解し難い感情に戸惑いながら、辛うじて残っていた理性で訂正を加えようと藻掻く。けれど皆まで言わせて貰えず、おまけで額をピンッ、と人差し指で弾かれた。
 脳天を貫いた衝撃に居竦み、背筋を真っ直ぐ伸ばして返事する。他に言える台詞があっただろうか。パブロフの犬宜しく叫んだ彼に満足げな顔をして、雲雀はひらり、右手を揺らした。
 会話は終わったと暗に示し、踵を返して歩き出す。三年生の教室に近い廊下で棒立ちになっていた少年は、雲雀が遠ざかるに連れて戻って来たざわめきが自分に集中していると知ってハッと息を呑み、顔のみならず耳の先まで真っ赤になった。
「……っ!」
 居たたまれない気持ちを爆発させて、校則も忘れて脱兎の如く逃げ出す。階段を駆け上って息を切らせて、遅い戻りを心配した獄寺を見つけた瞬間、綱吉は場所も忘れてぽろぽろと涙をこぼした。
 自称右腕の青年が狼狽激しくあたふたするのも知らず、ひとつ下の階を進んでいた雲の守護者は、階下から駆け上って来た部下たる男に気付いて上機嫌に口角を歪めた。
「委員長、こちらでしたか」
「なにかあった?」
「……? いえ。沢田にはお会いしましたか?」
 息せき切らせた草壁に、雲雀が小首を傾げた。声の調子から御機嫌な様子を感じ取った男は一瞬間を取って生じた疑問を脇に置き、意識の片隅に引っかかった出来事を先に舌に転がした。
 先に綱吉に遭遇していたら、連絡が二重になって鬱陶しがられると想定してのことだ。しかし雲雀は有能な部下の問い掛けを別の意味として受け止めて、切れ長の眼を丸くしてから淑やかに微笑んだ。
「そう。君が手を回してたの」
「……はい?」
「なら分かってると思うけど、僕は日曜まで忙しいよ。委員会の仕事は、君に任せる」
「は、はぁ」
 ひとりで納得している様子の委員長にきょとんとして、草壁が曖昧に返事をして頭を垂れた。右手を首の後ろに回して意味が分からぬまま恐縮し、どこかで連絡が行き違ったのだろうと自分なりに解釈を試みる。
 いったい綱吉は、雲雀になんと伝えたのだろう。
 口伝えの連絡網に重大な欠陥が生じた事実は、残念ながら副委員長の耳にまで届いていなかった。
「模擬テストの問題を作らないとね。範囲はどこからどこまでだったかな。根を詰めすぎるのも良くないし、ご褒美も用意してあげた方が良いよね。ケーキは好きだったかな」
 半眼しながら独り言を呟く雲雀は、いつになく愉しげだった。
 なにが起きたのかは分からないけれど、彼が機嫌良くしているのは助かる。自分の失態を悔いて泣いている少年が居るとは夢にも思わず、草壁はいつものように委員長の後ろに付き従い、頼まれた買い物内容に相好を崩した。

2012/03/15 脱稿